秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「何も入っていない油の壺」 列王記下4章1~7節

2016-10-30

 預言者の仲間のひとつの家庭に起きた悲しい出来事です。 ひとつの家族に訪れた、愛する者との別れでした。 失われた夫の妻が、預言者のリーダーであったエリシャに訴えています。 「あなたの僕であるわたしの夫が死んでしまいました。 ご存じのようにあなたの僕は主を畏れ敬う人でした。 ところが債権者が来てわたしの子ども二人を連れ去り、奴隷にしようとしています。」 夫の死により、家族がバラバラになってしまうという悲痛な「妻として、母親としての叫び」でした。 債権者には、債権者としての言い分があり、その返済のために子どもを奴隷にするということは、当時としては認められていたのでしょう。 自分が孤独になる、二人の子を奪われるという、そのつらさを彼女は嘆いているのでしょうか。 貧しい預言者の家庭であった、その不遇の人生を嘆いているのでしょうか。 債権者への懲らしめを、主に願い出ているのでしょうか。 そうではないように思います。 彼女の叫びには、「私の夫は主を畏れ敬う人でした」 それなのに、神はどうしてこのような扱いをするのですかという響きがあります。 その理由がわからないから苦しい、主のみ心を知りたい。 その一心で叫んだのではないでしょうか。 この女性の叫びに、預言者エリシャはこう答えます。 「何をしてあげられるだろうか」 バルティマイという道端に座っていた物乞いの盲人が「わたしを憐れんでください」と、イエスに叫び続けた時のことです。 イエスはすべてをご存じのうえで「何をしてほしいのか」と、盲人の心の中にある本当の彼の祈りを引き出そうとしました。 エリシャもまた、この悲しみと理由の分からない苦しみの中にある彼女に、主のみ業の備えをなさせようとします。 「何をしてあげられるだろうか」 そして「あなたの家に何があるのか言いなさい」と言います。 彼女は「私の家には、油の壺ひとつのほか何もありません」と言います。 彼女はもうどうすることもできないと、望みを失っているのです。 何もないと思っているからこそ、主に祈っているのです。 その彼女は、「油の壺ひとつしかない」と言うほどまでに、何もないと訴えているのです。 エリシャは、その一つしかない油の壺の油を用いようとします。 そして、「近所からできるだけたくさんの空の器を借りて来なさい。 集まったら、家の戸を閉めて、子どもたちと一緒に家に閉じこもり、その器のすべてに油を注ぎなさい。 いっぱいになったものは脇に置くのです。」と彼女に促したのです。 彼女は、その理由がわかりません。 イエスは祈りの姿について、「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って、戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。 そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」と言われました。 エリシャは、隣人との交わりの中で助けてもらいなさい。 空の器を貸してもらいなさい。 空の器が集まったら、その家の家族だけで、戸を閉めて、子どもたちと一緒に祈りなさいと言われたのです。 そのエリシャの言葉に、彼女は理由が分からないままに、神の言葉として聞き従うのです。 その通りにするなら、注ぎ溜まった油を売ることによって、いっさいの負債を払い終えることができる。 そして、払い終えた以上に残された油によって、家族がともに暮らしていくことができるという神の約束として受け取り、聴き従ったのです。 預言者仲間の交わりがそこにあったから、彼女のもとに空の器が集まりました。 家族を挙げての祈りがあって忠実に聴き従ったから、子どもたちが集めて来た器が油で満たされました。 私たちは、主の恵みを受け取るためには、借りて来てまでも用意するのです。 そこにいっぱいに満たされるまでに、家族と一緒に祈り、聴き従うのです。 主の恵みが注がれるためには、その器は空でなければならないのです。



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