「キリストの苦しみに与かる」 創世記22章1~6節
アブラハムは、神の言葉に信頼して従い続け、「わたしは、あなたとその子孫の神となる」と、神との契約の直接の相手にまでなった人です。 子孫を益々繁栄させるという神の約束にも拘わらず、アブラハムとその妻サラには子どもが与えられませんでした。 晩年に至って与えられた二人の信仰の結晶のような待望の子がイサクでした。 そのような親子に、神の呼びかけが突然訪れます。 「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。 わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」 「アブラハムよ」という神の呼びかけに「ここにおります」と応える、神との交わりの中にあったアブラハムでした。 そのアブラハムを、神は「試された」と言います。 人の道徳や教えでは理解することも、説明することもできないご命令です。 しかし、アブラハムは不思議と冷静です。 「連れて行きなさい。 山に登りなさい。 ささげなさい。」という神の命令に黙って従います。 願ってやっと与えられた愛する子を失うという神の命令です。 神の祝福だと疑いもしなかった、その神の約束さえも失ってしまうかもしれない神の命令です。 しかし、アブラハムは何らの躊躇もなく、「次の朝早く」行動を起こします。 「焼き尽くすいけにえ」を殺すための準備をします。 何も知らされていない息子イサクは、まるで殺される前の羊同然です。 その命を取ろうとしているのは、その息子の父アブラハムです。 準備が整った親子は、み言葉通りに黙って三日間一緒に、神の命じられた所に向って行ったのです。 そして、命じられた場所が見えてきた時に、「わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」と言います。 アブラハムは、「なぜですか」と神に尋ねません。 神もまた、アブラハムに理由を告げません。 アブラハムはイサクを失うとは考えていない。 これを神の試練とも思っていない。 この沈黙の三日間のうちに、最高の賜物として与えられたイサクをすでに神にささげ切ったのではないでしょうか。 ですから、「わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる」と言うことができた。 聖書は「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。 それで彼は、イサクを返してもらいました」(ヘブライ11:19)と言います。 「アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持って、二人は一緒に歩いて行った」とあります。 神に選ばれた親子だけでしか行くことのできないその場所に、み言葉通りに静かに一緒に歩いて行ったのです。 最高の賜物である息子をささげる父親の姿を憶えます。 父親に委ね切って連れて行かれた息子の姿を憶えます。 十字架のもとへ愛するみ子を遣わした父なる神の愛と真実が重なります。 父なる神のみ心だけを果たすために、屠り場に引かれる小羊のように黙って従った主イエスの祈りが重なります。 私たちの罪を贖うために、ローマの処刑に愛する独り子を渡された主なる神の痛みを憶えます。 自ら進んで十字架に架け上がってくださった主イエスの痛みも憶えます。 父なる神とそのみ子イエス・キリストは、私たちが味わうことのできない杯を、最後の一滴までご一緒に飲み干してくださいました。 アブラハムは、この自分にできる精一杯の痛みを背負ってみ言葉通りに、イサクを連れて出かけて行きました。 神は備えて、選んで、主イエス・キリストの痛みに与かるようにと試しておられます。 私たちが委ねて、受け入れて従って行き着く所に、神の驚くべき備えがあります。 そこでしか、神が備えてくださっているものを見つけることができません。 イエス・キリストの生涯の一端を、この地上の世界で味わうことができることは選ばれた者の賜物です。