「そばに招いてくださるお方」 コリントの信徒への手紙二 1章3~7節
パウロは、「慰めを豊かにくださる神」と言います。 このパウロの神への正直な呼びかけは、「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるから」と言います。 パウロの現実の苦難とは、自分がつくり上げてきたコリントの教会のなかで起きている自分自身に対するまさかの反感、誹謗、中傷でしょう。 動くにも動けない、投獄され、自由を奪われてしまっている現実でしょう。 み心の適う働きが遮られてしまっている、その絶望的な憂いでしょう。 パウロが今、この手紙で語っていることは、この苦難や苦しみを取り除いてくださいと懇願しているのではありません。 このような苦難や苦しみはなくなるものではない。 その真っ只中にあっても、主イエス・キリストの父である神は、私たちのあらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださる。 むしろ、苦難や苦しみの中にあるからこそ、この神に慰められる。 苦しみは、この慰めによって満たされる。 その「慰め」が、理由を問わず「あらゆる苦難に際して」満たされるとパウロは確信しているのです。
この「慰め」という言葉は、「そばに招く、傍らに呼ぶ、ともにいる」という意味の言葉です。 ヨハネによる福音書は、この言葉から出ている「そばに居てくださるお方」、「そばに招いて、傍らに呼んでくださるお方」を「聖霊」と呼んでいます。 「あらゆる苦難に際して」、「そばに招いて、傍らに呼んで、ともにいて」、あふれる「慰め」を与えてあらゆる苦難に耐えることができるようにしてくださる。 その苦しみの中で、私たちを立ち上がらせてくださる。 何も変わらない苦しみが、まったく別の意味に変わってしまう。 それが、苦しみの中にある「神から与えられる慰め」であると言います。 そして、この神からいただく「慰め」によって、今度は、あらゆる苦難のなかにある人々を慰めることができると言うのです。 神から「慰め」を受けた者が、その「慰め」をもって人を慰めることができるようになる。 神からの「慰め」は自分のところだけに留まらない。 その人を通して自ら、他の人に満ち溢れるようになる。 なぜなら、この「慰め」は、キリストの苦しみから出てくるからですとパウロは語ります。 「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいる。」 それと同じように、「わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」と言っています。 私たちと同じ人となり、私たちの想像を超える十字架の苦しみを受け、神によってよみがえらされた主イエス・キリストが、私たちをそばに招いてくださっている。 この十字架のうえの主イエス・キリストの苦しみに、私たちが与かることができる。 ですから、「わたしたちが悩み苦しむとき、それは私たちの慰めと救いとなる。」 「わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになる。」 「わたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるようになる。」 私たちは共に、苦しみと慰めに与かる群れ、キリストのからだの一部になると言うのです。
神は、決して模範的な教会を用いられたのではありません。 自分が愛し育てたコリントの教会の人たちの背きによって、パウロは「慰めを豊かにくださる神」を見出したのです。 この苦しみの中に満たされる神の「慰め」が、人をも慰める者へと変えてくださることを知ったのです。 苦しみから与えられる「慰め」を、ともに苦しむ人たちと分かち合う者へと変えられたのでした。 主イエス・キリストの十字架には、この苦しみと慰めが同居しています。 キリストとともにいるということは、キリストの苦しみを担うということです。 キリストの苦しみを避けて通るところでは味わうことのできない、「慰め」がここにあるとパウロは言います。