「もう用意ができましたから」 ルカによる福音書14章15~24節
主イエスは、「神の国」は盛大な宴会を催しているようなものである。 特別に大勢の人が招かれる、喜ばしい交わりの場であると言います。 招く家の主人は、父なる神である。 遣わされる僕は、主イエスである。 家の主人が用意して、その準備が整ったら、僕を遣わして人々を招く。 僕である主イエスによって招かれる、父なる神と共にある喜びの場所であると言います。 当時のイスラエル社会では、招かれた客は招き返すのが習わしでした。 その招きも、一度あらかじめ招いておいて、時期が来てその準備が整ったいよいよという時に、僕を遣わし再び招くのでした。 もし、その招きをその時に及んで断るというのは、その家の主人に対する「侮辱」になったというのです。
「ファリサイ派のある議員の家に招かれた食事」でした。 招き、招かれる、いつものメンバーで溢れていた食事であったのでしょう。 律法の教えを第一とする道徳的にも、宗教的にも、イスラエルの人びとの模範となるファリサイ派の人たちを相手にして、イエスは「神の国」を「たとえ」で語ったのでした。 「神の国」は大勢の人を招くものである。 時刻になったら招くものである。 用意ができたから招くものである。 父なる神が自ら計画を立て、準備をして、み子イエスを遣わしてまで「もう用意ができましたから、おいでください」と言っているようなものだとイエスは言います。 今まで一貫して語ってこられた「時は満ちた。 神の国は近づいた。 悔い改めて、福音を信じなさい。」と、「宴会」のたとえを用いてこの「神の国」を語っておられるのです。 もし、この招きを断れば、その家の主人に対する大きな侮辱となるのです。 三人の客がその招きを断っています。 畑を買った人。 牛を買った人。 結婚したばかりの人です。 理由は様々なことを言っています。 「~しなければなりません。 今~しているからできません。」 私たちがよく使う言葉です。 父なる神が周到に備えたものを、選ばれたイスラエルの民が主イエスによって再び招かれている。 その招きを今、イスラエルの民が拒んでいる。 そのことを、僕から報告された家の主人は怒ります。 しかし、その招きを家の主人は決して止めないのです。 「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、からだの不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。 通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来なさい。 この家をいっぱいにしてくれ。」と「神の国」の祝宴に強く招こうとされるのです。 ファリサイ派の議員の家で催された宴会に招かれているのは、神が第一であることを教える人たちの筈です。 しかし、彼らは自分の持ちものが大切なのです。 自分の事情、自分のことが大切なのです。 自分を招く人たちだけを招く交わりだけに、意を注いでいる人たちです。 「神の国」の宴会は、父なる神が用意して、僕イエスを一人一人の家に出向かせ、扉をたたいて招く宴会です。 人を招くようなものを何ひとつもっていない人たちこそ招かれる宴会です。 招かれた者がたたかれた扉を開けて、その招きに応えるだけで入れてもらえる宴会です。 ですから、主はそのことを「恵み」、「祝福」と言われるのです。 信仰は私たちが用意したり、つくり上げるものではありません。 父なる神がイエス・キリストを通して用意してくださるものです。 私たちはそのイエスの呼びかけに、扉を開いて応えるだけです。 主イエスは、いつまで経っても「神が用意してくださった恵み」を受け取ろうとしない私たちのために、「聖なるささげもの」となるために十字架に上がってくださいました。 その十字架のうえで「すべては為し遂げられた」と頭を垂れて息を引き取り、私たちにその霊を分け与えてくださったのです。 このイエスのご真実によって私たちは「神の国」に招かれたのです。