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「復活のいのちに生きる」  コリントの信徒への手紙二 4章16節~5章5節

2016-04-03

 順風満帆であったユダヤ教の指導者であったパウロが、よみがえられたイエスに出会い一変したその生涯には、次から次へと苦難と絶望が訪れました。 牢獄に囚われ、最後には殉教の死を迎えたと言われているパウロでした。 傍から見れば、愚かな、損な人生を自ら選んだ人と見えるでしょう。 そのパウロが、「だから、わたしたちは落胆しません。」 それは、「たとえわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの内なる人は日々新たにされていく」からであると言います。 これはどういうことでしょうか。 「外なる人」とは、死に向って行く私たちの肉体のことを語っているのでしょう。 年齢を重ねるにつれて、この「外なる人」のもろさ、はかなさを私たちは痛感します。 しかし、パウロは、その「外なる人」の中に、「内なる人」がある。 それは、日々新たにされると言うのです。 パウロはこのことを、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」 「この土の器の中に、神のもとからくる並外れて偉大な力を納めている」とも表現しています。 イエスによってもたらされた復活の力が、パウロの「からだ」の中に生きているからです。 そのことを、「キリストがわたしの内に生きておられるのです。 わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20)と言っています。 パウロは実に、「イエスの復活」がもたらした、「自分自身の復活」を実体験していたのです。 ですから、「わたしたちの一時の軽い艱難とは、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらされた」と証言できたのです。 私たちは、自分自身の「からだ」を見つめれば見つめるほど落胆します。 絶望もします。 目に見えるものが、落胆、絶望させるのです。 しかし、「比べものにならないほど重みのある永遠の栄光」、それがイエス・キリストの復活であった。 これに与かることが「比べものにならないほど重みのある」恵みであった。 「私たちの復活」の初穂が、「イエスの復活」であった。 ですから、「わたしたちは落胆しません。」とパウロは宣言したのです。
 「内なる人」が日々新たにされていくとは、私たちが素晴らしい姿に変身することではありません。 どこまで行っても、「土の器」に変わりはありません。 しかし、この「土の器」こそ、神が息を吹きかけてくださった「からだ」です。それは、「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるため」(4:11)です。 そのために、私たちの「からだ」が用いられるのです。 「比べものにならないほど重みのある」神の創造の業が、この取るに足りない私たちの小さな存在を日々新たにしてくださるのです。 このはかない、もろい「外なる人」を通して、神の業が現れると言うのです。 パウロは苦しみもだえている「外なる人」のうえに、やがて着ることになる「内なる人」を、今、苦しみの中に着ていると言っています。 イエスこそ「外なる人」をかぶせられて、ただ黙って苦しみを引き受けて神のみ心に従ったお方でした。 そのイエスが復活させられて、私たちの復活の初穂として、命を与える復活の霊となってくださった。 人間の「からだ」をもったイエスの中に、この「並外れたよみがえりの力」が隠されていた。 そのことにパウロは気づかされたのでした。 私たちの「からだ」の中にも、この「宝」が納められています。 私たちは、このことを伝えるために、この世に遣わされています。 この「比べようのないほどに重みのある力」、「天にある永遠の住みか」を宿しながら、苦しみもだえながらも希望をもって、「わたしたちは落胆しません」と宣言することのできる恵みが与えられているのです。 



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