「ろばの子に乗って」 ヨハネによる福音書12章12~19節
「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。 イエスは先頭に立って進んで行かれた。 それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」と記されています。 イエスが、エルサレムに向かう姿にはただならない覚悟がありました。 その途上で、イエスは十二人の弟子たちを呼び寄せて、「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。 わたしは祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。 彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。 異邦人はわたしを侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。 そして、わたしは三日の後に復活する。」と告げました。 エルサレムに向かうことが、この十字架の苦難に向って自ら進んで行くという決断であったのです。 イエスを亡き者にしようとする祭司長たちや律法学者たちに、身の危険を顧みず、新しい王が出現したことをどうしても伝えなければならなかった。 商売の家となってしまったエルサレムの神殿を、父なる神を心から賛美する礼拝の場に取り戻さなければならなかったのです。 何度も血のにじむ祈りを繰り返し、ついに確信してエルサレムに向われたそのイエスの姿に、弟子たちは驚き、恐れをなしたのです。
それほどまでに覚悟してエルサレムに入って行かれたイエスの姿が、「ろばの子」に乗った姿でした。 ここでは、「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった」としか書かれていませんが、この「ろばの子」こそイエスが用意されたものです。 「向こうの村につながれていた」、「主がお入り用なのです」と言われた「ろばの子」です。 戦いに凱旋勝利した王にふさわしい「軍馬に乗った姿」とは程遠い「ろばの子に乗った姿」です。 軍隊に囲まれた行列ではなく、旅に疲れた弟子たちの行列です。 しかし、神の国の新しい王の姿は力に頼る姿ではなく、「ろばの子」に乗った姿でなければならなかったのです。 「ろば」は、風采の上がらない、戦いには役に立たない動きの鈍い存在です。 しかし、日常生活には欠かすことのできない、黙々と荷物を背負い、忍耐強く生きる象徴です。 向こうの村に繋がれて、縛られていた「ろば」がイエスによってほどかれた。 平凡な暮らしに用いられたありふれた「ろば」が、このイエスの支配される新しい国の出現のために用いられた。 黙々と、愚直に歩み続ける「ろば」が、イエスの凱旋の行進のために選ばれて、ほどかれて、用いられたのです。 新しいエルサレムの回復のために、新しい神の民の出現のために、この世の霊に縛られているご自身の民を解放するためです。 神の子として神の裁きを受けて、取り戻される人々に神の愛と神の意志を現わすためです。 かつてのエジプトからの解放を祝う過越の祭りの時、神の民にあふれかえる時に、真の解放がどのような王によってもたらされるのかを、イエスは「ろばの子」を用いて語られたのではないでしょうか。 そのイエスの向かう場所が、私たち人間を救い出すために、贖いの小羊として歩まれたイエスの十字架です。 私たちは、いったいどのようなイエスを迎えているでしょうか。 軍馬に乗った勇ましい王を期待し、その週の金曜日にはそのイエスを十字架につけた大群衆と同じでしょうか。 自分の権威や常識を守るために、イエスを抹殺したファリサイ派の人たちと同じでしょうか。 私たちは、「ろばの子」に乗ったお方を見ようとしないで、別の見栄えのよいものに乗った他のものを迎えてはいないでしょうか。 縛られているところからほどかれて、用いられて、召し出された「ろばの子」こそ、私たちの姿です。 イエスは、この弱い、風采の上がらないものを用いて、新しい神の国を起こされたのです。 「この世を恐れてはならい。 人に惑わされてはならない。 慌ててはならない。 人に仕えるために、自分の命をささげるために来た」と言われるイエスを私たちは迎えたのです。