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「とうてい信じられない事」 使徒言行録13章26~41節

2024-02-11

 使徒パウロが異邦人宣教の出発点でもあった、記録されている最初の説教として、「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。」と語り始めます。 「神を畏れる方々」とは、ユダヤ教に改宗した異邦人たちのことです。 最初の段16節から25節で、イスラエルの民のうえに起こされた歴史的な出来事はすべて神のご計画に基づくもの、イエス・キリストの出現のための準備であったと先ず語ります。 神がイスラエルの民を選び出し、エジプトから解放し、約束の地と統一国家を与えたように、今や、このイエス・キリストによってローマ帝国から解放されることに止まらず、イエス・キリストによってすべての人たちが今まで縛られていた地上の力から解放されるために、「この救いの言葉はわたしたちに送られました。」と26節から37節にかけてパウロは宣教の核心へと展開するのです。 「エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、命の導き手であるはずのイエスを拒み死刑に定めたのです。 死に当たる理由は何も見いだせないイエスを十字架に架け、殺したのです。」 「しかし、神はそのイエスを死者の中から復活させてくださったのです。 幾日にもわたって復活させられたイエスの姿を、一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に現わされました。 彼らこそが今や、その復活されたイエスの証人となっています。」 そのために、「わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせているのです。 神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。」と力強く語ります。 「だから、兄弟たち、知っていただきたい」と、パウロの宣教の核心、信仰の神髄に38節から41節において迫ります。 「あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、イエスの名と教えと業を信じる者は皆、義とされる、罪の赦しが宣言される。」と言うのです。 「義とされる」とは、解放される、赦される、神の前に正しい者とされるという意味です。 パウロがこれから生涯掲げ続ける「信仰による義」、行いや儀式や理解による義ではなく、ただ受け入れ、信頼して共にイエス・キリストに結ばれて歩んで行こうとする者に与えられる「救いの言葉」、これが福音の本質であると語ります。 パウロ自身がいかに熱心であっても、律法を全うすることはできませんでした。 自ら感じる罪の重さは増し加わるばかりでした。 しかし、イエスと出会い、その呼びかけに応え、受け入れざるを得なくされたとき初めて、罪の赦しというものを味わったのです。 今まで守ることばかりに熱心であった律法から、パウロは解放されたのです。 神の前に義と認められるのは、律法を守ることではなく、解放者、救い主としてのイエスを信じることであったと悟ったのでした。 イスラエルの民のような歴史的出来事を持たない私たちですが、自分自身の短い生涯で味わった神の恵み、救いの恵みを味わっているので絶望する必要はありません。 私たちは信じながら疑っており、疑いながら信じています。 疑いに取り囲まれても、私たちは自分の閉じられた狭い世界の枠の中に閉じこもる必要もないのです。 イエス・キリストの十字架と復活が私たちの信仰の対象となるには、どうしてもこの「救われた、赦された」という自分自身の人生における実体験を必要とします。 そういう意味では、聖書の言う「復活」とは、この地上の世界で神によって生かされるという生き方を自ら引き受けるという決断を指し示しているのかもしれません。 預言者ハバククの言う「とうてい信じられない事」とは、地上の死で終わらない、「イエスによって義とされること」を神の救いの約束として語っているのかもしれません。



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