『神の深みさえ究める霊』 コリントの信徒への手紙一2章6~13節
「信仰に成熟した人たちの間では、神の知恵を語ります。」 「信仰に成熟した人たち」ではない人たちにとっては、「神の知恵」は「隠されていた、神秘としか言いようのないもの」として受け取られる。 「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかった」知恵であると言うのです。 「この世の滅びゆく支配者たちは、だれ一人、この知恵を理解しませんでした。」と言いますから、祈るような思いで、いずれ消え去っていく知恵ではなく「神の知恵」を知る者となってほしいとパウロは語るのです。 「この世の知恵」については、ユダヤ人として最高の地位につくことが自他ともに認めるほどの存在であったパウロには、その鋭さ、強さ、逞しさ、深さを知り尽くしてもいたのです。 ましてや「律法」の素養については横にならぶ者はいなかったのです。 コリントの町においても、哲学、法学、文学なども盛んであったと言う。 パウロは、「この世の知恵」を十二分に踏まえたうえで、「人の知恵」を比べ合い、争い、自分の立場や正しさを誇示し、相手を支配し従わせようとする「信仰の幼子たち」がいずれ神の知恵を知る者となるようにと、コリントの教会の人たちに宛てて語るのです。 「神の知恵」と「この世の知恵」とは、いったい何が異なるのでしょうか。 「神の知恵」は神が明らかに示してくださる知恵である。 神が明らかに示してくださらない限り、私たちは受け取ることのできない知恵である。 自ら隠すことも、明らかにされることも神の御心に委ねられる。 「この世の滅びゆく支配者たち」は、その傲慢さと不遜のゆえにこの「神の知恵」を必要とせず、神ご自身が唯一見える姿をもって示された「イエス・キリストという人間の十字架の死とその後の復活」の事実を受け取ることができなかったのです。 「もし、神の知恵であることを理解していたら、イエス・キリストを十字架につけることはしなかった。」とパウロは言うのです。 「神の知恵」は隠されつつ、顕わにされる。 受け取る側の状態による。 「信仰に成熟した者」には、神の深みとして届く。 そうではない者には、謎と愚かさに留まる。 神は私たちの備えが整わない限り、沈黙の中に留まり、私たちの信仰が起こされるまで準備して待つのです。 絶え間ない神の呼びかけに、ある時には喜びとして、ある時には悲しみや苦しみとして受け止めながら、ついに「神の知恵」の一端を味わい知る時が訪れるのではないでしょうか。 「神の知恵」は、「神がわたしたちに栄光を与えるため、神のご計画のために神が定めておられたもの、受け取ることを神が命じておられるもの」とパウロは言います。 「神の知恵」に与るのは、神のご計画のため、神の約束が果たされるため、神のご計画に組み込まれて神の救いに与る希望に生き得る者として私たちが選ばれ整えられたからである。 愚かに見える十字架に架けられたこの世での恥を、神自らが注がれる栄光として私たちが受け取っていくことになると言います。 「神の知恵」をどのようにして受け取っていくのでしょうか。 パウロは、「神が霊によって明らかに示してくださいました。 この霊は一切のことを、神の深みさえも究めます。」と言います。 ペンテコステの出来事を考えてみてください。 何の準備もなく、神のもとから降ってきた聖霊を弟子たちは受け取ったのです。 すると、人の言葉を越えて、神の言葉を語り出した。 十字架に架けられたキリストの姿を、神によって備えられた「神の知恵」として従順に受け取った「栄光の姿」に見て取ることができるようになった。 神の働きである恵みを、神によって起こされた信仰と神の選びによって弟子たちは受け取ったのです。 「あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」(2:5)と言うのです。