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「キリストに結ばれた神の子」 コロサイの信徒への手紙2章6~15節

2023-08-27

 コロサイの教会の問題は、教会の人たちの信仰の中味の問題であったようです。 信仰の核心部分と枝葉の部分、神さまの働きの部分と人間の働きの部分が混ざり合って、信仰の核心部分がぼやけてしまっている。 そのことに気づいていない、気づいていたとしても成り行きに任せてしまっているところにパウロの危機感があったようです。 パウロは、「人間の言い伝えにすぎない哲学、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい」と言います。 「哲学」と言いますから、洗練され、分かりやすく説明されていたのでしょう。 むしろ、人間の欲求に見事に応え、受け入れやすいものであったのでしょう。 「実態、本質」を、人間の造り出したもので飾って、装って、隠して、見えなくしてしまう。 見たくもない、聴きたくもない「実態、本質」に目や耳や心を閉ざし、受け入れやすいものだけを簡単に受け入れてしまうのです。 パウロは、「上にあるものを求め、心に留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。 むなしいだまし事は、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。」と言います。 キリストとそれ以外のものを一緒にしてはならないその理由を、「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから」と言います。 この言葉には、様々な信仰告白が含まれています。 ナザレの人イエスを自分たちの「主」とした。 人間イエスを「キリスト、救い主」とした。 「キリスト」を通して、自分たちの救いを得た。 人間であり神に遣わされた独り子である「キリスト・イエス」を受け入れた。 このキリストの十字架の死と復活にあずかることによって、自分たちも神の子とされ、新しく生まれ変わり、地上の体が贖われる。 その神の約束を受け入れたと告白しているのです。 キリストの名の他には、自分たちの救いはない。 救いの核心は、このキリストご自身である。 自分たちのために果たされた救いの業を感謝し、喜んで、子どものように受け入れるだけであると語るのです。 この「受け入れた」という言葉には、私たち人間の側の「応答、決断」の意味合いが込められています。 すべては神が用意してくださった働きの結果です。 しかし、神が用意してくださったものを、私たちは決断し後押しされて受け取ったのです。 神の国に入り、神の子となるようにと願い、その道を選び取ったのだから「キリストに結ばれて歩むように、キリストという核心から逸れることのなく歩むように。 キリストに根を下ろし、造り上げられ、教えたとおりの信仰をしっかり守り、あふれるばかりに感謝しなさい。」とパウロは勧めるのです。 「キリストに根を下ろし、造り上げられ」とは、神の働きの結果です。 一方、「教えたとおりの信仰をしっかり守り、あふれるばかりに感謝する」とは、私たち人間の応答、決断の結果です。 私たちはこの地上で、神の働きと私たち人間の側の働きの真っ只中に生かされています。 パウロはこのことを、「バプテスマ」を受けるという出来事に結びつけます。 「過去」において、「わたしたちはキリストと共に葬られた。 死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられた。」と言います。 「キリストの内には、満ちあふれる神性が、見える形をとって宿っている。」から、「現在」では、「あなたがたはこのキリストにおいて満たされている。 あなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されている。」と言うのです。 だから「将来」、隠されたものが現れ出る時がくる。 「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。 それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどです。」と言われています。 このキリストに結ばれて生きることこそ、バプテスマという聖霊による神の子の誕生です。 神の働きと、私たちの応答、信仰がなせる業なのです。



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