「永遠の命という賜物」 詩編90編3~12節
詩編90編の詩は、「祈り」、「神の人モーセの詩」です。 イスラエルの民の偉大な指導者であったモーセの生涯そのものが祈り、賛美し、歌うのです。 モーセの波乱万丈の生涯を思い起こしてみてください。 イスラエルの民として生まれたモーセは生まれてすぐ、ナイル川に流される。 これ以上イスラエル人が増えないように、生まれたイスラエル人の男の子をナイル川に流すようエジプトの王が命じたのです。 この悲しい出来事に出会うひとりの赤ちゃんを、神はよりによってエジプトの王女に拾わせる。 イスラエル人でありながらエジプトの王宮で大事に育てられ成長していく。 成長したモーセは、同胞であるイスラエルの人々の苦しい奴隷の姿を見て憤り、エジプト人を殺してしまう。 ついには、イスラエル人の解放に立ち上がるが失敗し、落胆のうちに荒れ野に逃れ羊を飼う生活へとその身を寄せるのです。 ところが、神は一度選び出したモーセに、再び荒れ野からエジプトへ戻るようにと迫るのです。 イスラエルの民の救いのご計画の担い手としてモーセを立たせる。 悪戦苦闘の末、神の壮大なご計画を果たす者として先頭に立たせ、イスラエルの大群衆をエジプトの国から導き出すのです。 その後、エジプトの反撃、自然の脅威に悩まされながら、また、エジプトから連れ出してきた多くのイスラエルの民の反抗や不信に悩まされながら、40年もの間荒れ野をさまようのです。 苦労のうえに苦労を重ね、ついに約束の地カナンを目の前にするところにまでやってきた。 すると、ネボ山という山に登れとモーセは神に告げられる。 「あなたは登って行くその山で死に、先祖の列に加えられる。 イスラエルの人々の間で私の聖なることを示さなかったからである。 それゆえ、わたしがイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこには入ることはできない。」(申命記32:49-52)と告げられるのです。 体力、気力とも満ちあふれていたにもかかわらず、40年もの間目指してきたその地に一歩も足を踏み入れることが許されず、労苦を共にした人々に別れ一人モーセはその生涯を終えるのです。 人の目には波乱万丈の悲劇的ななんと痛ましい生涯となったそのモーセが、自身の生涯を振り返り、祈り、賛美する歌が詩編90編の詩です。 私たち造られた者の存在の限界を「あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります。」と塵に返ることへの憂いとともに、自らの弱さや貧しさにより犯してしまった過ちのゆえに、消え失せる者であると告白するのです。 しかしモーセは、「わたしのもとへ帰れ」と言われる主なる神の声を慰めとして聞きます。 自らの生涯が肉体の死のもとにあるのではなく、神の永遠のみ腕の中にあると告白するのです。 同じように、「千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時に過ぎません。」 同時に、「人は草のように移ろいます。」と、神の永遠と人間のはかなさを歌うのです。 私たちでは究め難い「時の流れ」に「神の時」が入り込む。 モーセは、その波乱万丈の生涯の中で何度も体験した「永遠の今」が、目の前を過ぎ去っていく「時の流れ」の中に隠されている。 労苦と災いに過ぎないと思える「人の今」の中に、「神の時」が結びつくならば、力と知恵と励ましと慰めが与えられる。 悲劇的な生涯の中に見る無限の意義をもつ「永遠の時」としてくださる。 「生涯の日を正しく数えるように、知恵ある心を得ることができるように、あなたの憤りをも知ることができますように。」と祈るのです。 イエスは、「永遠の命とは、唯一のまことの神と、神がお遣わしになったイエスご自身を知ること」と語り、モーセは、「肉体の死は、神のもとへ帰る喜びの日であると、はかない「人の今」は「永遠の今」と結びつき新しく造り変えられると喜ぶのです。 「永遠の今」は「人の今」に起こり、「永遠の命」は「今の賜物」なのです。