秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「時代を背負われる神」 イザヤ書46章3~13節

2023-06-18

 第二イザヤと呼ばれる人物が記したイザヤ書40章から55章までの聖書箇所こそ、「唯一の神」であると指し示すことにおいて、旧約聖書の中で最高峰の箇所であると言われています。 バビロニアによって滅ぼされたイスラエルの民が、遠いバビロニアの都バビロンにまで移送され、苦しめられていたそのような時に、「ペルシャ王キュロスにより、今度はバビロニアが滅亡することになる。 その結果、イスラエルの民は解放され、救い出されることになる。」 今まで苦しんできたイスラエルの民にとって、大きな慰めに満ちた神の救いの約束の言葉、解放の希望の言葉が力強く呼びかけられたのです。 イザヤは「残りの者よ」、「背く者よ」、「心のかたくなな者よ」、「恵みの業から遠く離れている者よ」と呼びかけます。 栄光に栄光を重ね、人の目には成功を収めているかのような人たちではなく、自分たちの国土も神殿も失って打ちのめされて、異国の地に敗残兵、囚人として移送された人たちに呼びかけられているのです。 これから良い方向へと変化していくような事実もなければ、期待をもたらす見通しすらない、暗闇の中をさまよい続けている人たちに神は呼びかけているのです。 
 「わたしをおいて神はいない。 救いを与える神は、わたしのほかにはない。 わたしは自分にかけて誓う。 わたしの口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は取り消されない。 恵みの御業と力はわたしにある。」と言われ、今バビロンにある偶像の神々と比較させるのです。 ペルシャにバビロンが征服されたなら、動くことのできない置物である偶像は担いで運ばなければならない重荷となる「人に担がれる神」である。 しかし、私たち人間を造った神は、人間を造りかえることもできる神である。 イスラエルの民を「担い、背負い、持ち運び、救い出す神である。」 生まれた時から老いる日まで、全責任を負って「人を担ぐ神」である。 イザヤは、「天を創造し、地を形づくり、造り上げて、固く据えられた方。」(45:18)であるとはっきり語るのです。 創世記1章2章の「天地創造」の信仰告白は、このバビロン捕囚の民によって、バビロン捕囚の時代に起こされたと言われるゆえんです。 自分たちを創造した神を忘れ、見失ってしまった私たち人間に、「唯一の神、天地創造の神、人を担ぐ神」として呼びかけるのです。 「背く者よ」、神の支配のもとに初めからあったこと、私たち人間の歴史が神の支配のもとに置かれていたことを思い起こせ。 「わたしが神であり、わたしのような者はいない。」 「心のかたくなな者よ」、「恵みの業から遠く離れている者よ」と、心を頑なに閉ざし、無理解のまま、独りよがりのままの私たち人間を、それでも立ち帰る者につくり変えようと招いておられるのです。 「わたしの計画に従う者」を遠い国から呼ぶ。 「わたしの望むことをすべて実行する者」を起こす。 そして、必ず実現させ、完成させる。 それも、「近く成し遂げる。 もはや遠くない。 遅れることなく、救いをもたらす。」と言っておられるのです。 この呼び起こされる者を、「残りの者、呼びかけに応えて来る者」とイザヤは言います。 これまでの自分の愚かさ、弱さに気づかされた者、自分のいた世界こそが暗闇であったと初めて気づかされた者ということでしょう。 私たちがしがみつき握り締めようとするのではなく、逆に、「背く者、心のかたくなな者、恵みの業から遠く離れている者」である私たち人間を、じっと背負われて捉えておられるお方がいるという喜びを心より賛美したい。 その喜びの根拠は、神の方が私たちを捉えて離さないというその「確かさ」にあるのです。 偶像礼拝から、バビロン捕囚から、古い自分から解放されて新しく造り変えられていくのです。 この救いの恵みに身を委ねてみることです。 



バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元