「マリアとヨセフに訪れた神の恵み」 ルカによる福音書1章26~38節 マタイによる福音書1章18~25節
世界で最初のクリスマスは、ナザレという片田舎のごくありふれたマリアとヨセフに突然訪れています。 マリアは、ヨセフのいいなずけであったと言います。 そのマリアに主の天使が、「おめでとう、恵まれた方。 主があなたと共におられる。 マリア、恐れることはない。 あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」と告げられた。 ヨセフにも、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。 マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。 その子をイエスと名付けなさい。」と告げられたのです。 「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」と言います。 当時のユダヤ社会では、離縁を申し渡されても仕方のない出来事であったのです。 ヨセフは、マリアの尊厳を守り自ら身を引く道を選び取ろうとします。 ヨセフは自分自身の心の中に一切を留め、沈黙を守ろうとします。 私たちも、「いったい何が神の恵みだと言うのですか。」と神に問いただしたくなる出来事を目の前にする時があります。 その時にこそ、自分自身の神に対する「信仰」が吟味させられるのです。 今まで確かなものと思い込んでいた神ご自身に対する信仰がもろくも崩れ去る時に直面するのです。 主なる神の呼びかけは突然で、私たちの準備などお構いなしです。 私たちに神は直接呼びかけ、その呼びかけに自ら立ち上がって応えてほしいからです。 「神ご自身がご用意してくださった出来事を受け入れ、従いなさい。」と決断を迫るのです。 神の恵みこそ、受け取って、従ってみて、このからだをもって味わい触れてみなければ分からないものです。 神のみ心と共に歩んでみて、神に与えられた命に刻み込まれて味わってみて初めて、「神のみ言葉の通りであった。 神の一方的な最善の時に適った恵みであった。」と気づかされるのです。 「神にできないことは何一つない。」と告げられ、「わたしは主のはしためです。 お言葉どおり、この身に成りますように。」と応えた乙女マリアの応答は、果たして何もしない消極的な受け身のものであったのでしょうか。 もはや諦めであったのでしょうか。 これから始まるまったく理解できない長い人生の道のりに不安と思い煩いを憶えながら、それでも神がご用意してくださったものを選び取って、神の計り知れないみ心をこの身に刻んでいこうとする凄まじい決断の姿ではないでしょうか。 幼子イエス・キリストとの出会いは、この世のものではない神の恵みを受け取っていこうとする決断の時です。 マリアと同様に、これから迎えるであろうあらゆる苦難と忍耐を覚悟し、その生涯を沈黙と思い煩いを覚悟して歩んでいこうとしたヨセフも同じです。 ヨセフは間違いなく、神のみ言葉に傾聴し受け取ったのです。 神の前で静かなる決断をしたのです。 私たちは神の前に立とうとせず、人の前に立とうとします。 何も語ってくださらない神の前に耐えかねて、人からの救いを求めようとするのです。 私たちは、この神の前での沈黙、苦闘と思い煩いがなければ神の恵みに満たされないのです。 孤独な沈黙の中に置かれたヨセフとマリアに、神の恵みが訪れたのでした。 その恵みの意味について、後から神ご自身が示して、説明し、悟らせてくださったのです。 私たちもまた、「今日、この時」に、遣わされてきたイエス・キリストに出会い、心の内に受け入れ、これから共におられるという約束に生かされて、神の前に立ってご一緒に参りたいと願います。