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「完成される愛」  コリントの信徒への手紙一13章12~13節 

2022-11-20

 イエスの誕生物語を眺めますと、世界の片隅の小さな町でひっそりと隠されて、ごく限られた人たちのもとに突然訪れています。 「恐れるな。 わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。 この方こそ、主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。 これがあなたがたへのしるしである。」 最初のクリスマスは、民全体に与えられる大きな喜び、小さな存在である私たちのもとにやってくるもの、私たちの救いの業として訪れるもの、み言葉通り「今日、ここに」現実に見える形となって訪れるものであったと言うのです。 この神の不意の呼びかけが、社会的にも疎外されていた羊飼いたちを突き動かしたのです。 同じように、遠い国の占星術の学者たちをも立ち上げさせています。 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。 わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と、星という希望のしるしが力となってエルサレムにまではるばる旅立たせたのです。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)と言いますから、最初のクリスマスは、幼子イエス・キリストを礼拝するため、神の独り子を与えこの世を愛し滅びることのない新しい命を与えるためでした。 パウロがここで語る神によって賜った「信仰と希望と愛」こそ、イエス・キリストのうえに溢れ出て示されたクリスマスの出来事そのもの、人間としての体を背負わされ神の御子である特権を投げ捨てて、神のもとから切り離され、私たちに「信仰と希望と愛」を注ぎ愛し抜き、一人残らず救い出すために自らこの暗闇の世界に降ってきてくださったイエス・キリストに表された神の救いの働きそのものです。 「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。 だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。 わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようになる。」と「鏡のたとえ」が示されています。 今は部分的に一時的に見ているが、神の国が完成されるその時には神がこの私を知っておられるように、私も神をはっきり知ることになる。 完全なものとして、消えてなくならないものとして見ることになる。 この地上の歩みの中では、キリストの体なる群れをつくり上げるために、部分的に一時的に与えられる賜物がある。 しかし朽ちず、汚れず、しぼまないいつまでも残る賜物がある。 それが、信仰と希望と愛である。 「信仰」とは、土地から養分を吸い上げる「根」、イエス・キリストに結びつき命を得るためのものかもしれない。 「希望」とは、イエス・キリストによって注がれた命によって伸びていく「枝」、来るべき時に神の輝きに与る望みであるかもしれない。 「愛」とは、それぞれの枝に結ばれたそれぞれの実、信仰や希望を通して与えられる賜物、最後まで残るものであるのかもしれない。 当時のコリントの教会は傍からみれば、活気ある教会、多彩で多様な賜物があるように見えたのです。 「信仰なしに、希望なしに、神の愛とキリストの愛をもつことができない。 イエス・キリストなしに、十字架なしに神の愛とキリストの愛を語ることができない。 信仰が、神の前で私たちを正しい者にする。 希望が、私たちを神の愛とキリストの愛の実を結ばせるのです。 信仰と希望は、神の愛とキリストの愛に変えられていつまでも残る。」と言われています。 終わりには、一切のものが神の愛とキリストの愛になる、完成して残るとパウロは言うのです。 この世における神の愛とキリストの愛の完成のしるしは十字架の出来事です。 この道を通ってしか神のもとにたどり着くことはできないのです。



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