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「信仰の成熟」 ヨハネによる福音書3章1~15節

2022-02-13

 イエスが宣教の旅に慌ただしく出かけようとしている矢先、ひとりの金持ちの男が走り寄って、ひざまずいてイエスに尋ねるのです。 「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」 神から与えられた戒めを忠実に守るなら、神から永遠の命が授けられると信じられていた当時の社会ですが、この男はそれでも本当に授けられるのだろうかと確信が持てなかったのでしょう。 イエスはその姿を見つめ慈しんで、「あなたに欠けているものが一つある。 行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。 そうすれば、天に富を積むことになる。 それから、わたしに従いなさい。」と言われたのです。 今からでも遅くはない、自分がしがみついているものから一旦離れ、新しくこの私に従うようにと言われたのでした。 この男にとって驚くべき言葉でした。 揺れ動く自分自身の心に囚われ、「イエスの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った」と言います。 
 今朝の聖書箇所にも、ニコデモという人物が登場します。 ファリサイ派に属するユダヤの議員であったと言いますから、政治的、宗教的リーダーであったのでしょう。 イエスと対立する立場にあるそのような人物が、人の目を気にしながら、恥も外聞もなく、ある夜イエスのもとにやってくるのです。 過越祭の間にイエスがなさったしるしを見て、イエスに心酔していたのでしょう。 ここでもイエスは、しるしを見て揺れ動くニコデモの心の内を見透かすかのように、「人は、新たに生まれなければ、神の国に入ることができない。」と言われたのです。 「永遠の命を持つ」ことと、「神の国に入る」ことが同義語のように使われています。 この「新しく生まれる」という言葉を、イエスは「上から与えられる命に生きる」という意味合いで語っています。 ニコデモは、「年をとった者が、もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と、生まれ変わるという意味合いに受け取るのです。 狼狽したニコデモにイエスは、「肉から生まれたものは肉である。 霊から生まれたものは霊である。 肉とは異なる新しい命に生まれなければならない。 だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と言われたのです。 これは、始めに戻って過去を清算して、新しくやり直すことではない。 しがみついている自分の立場、縛り付けられているこの世の習わしや人の目から離れて、古い自分を捨てて新たに生かされるようにとイエスは求められたのです。 「水」とは、今まで頼みにしてきた「自分」を葬り去るイエス・キリストの十字架の贖いの業でしょう。 「霊」とは、風のようにいつからでも、どこからでも自由に大胆に働いておられる神の息の働きのことでしょう。 理解することも、説明することもできないこの霊の働きに、「あなたの身を任せるように。 今、存在していることが赦されているそのところで、イエスと出会ったその場所から、その時から、今までとは異なる天から与えられる神の赦しと霊の働きにより、神のもとから授けられる新しい命に生かされるように。」と語られたのです。 金持ちの男が手放すことのできなかった「自分の持ち物」、ニコデモが離れることのできなかった「今の自分の立場」から解放されて、神の赦しと神の霊を受け入れ、生き方が変えられるのです。 ニコデモはこの後、聖書に二回登場します。 一回目は、議会で裁かれようとしているイエスを弁護する場面です。 仲間の議員たちに、「あなたもガリラヤ出身なのか。 イエスの仲間なのか。」と問われ、黙ってしまうのです。 二回目は、処刑されたイエスの遺体を受け取り、香料を添えて、身に迫る危険を顧みず公然と手厚く葬るのです。 時間をかけて、変えられていったこのニコデモの姿は、私たちの弱々しい「信仰の成熟」の姿を表しているのではないでしょうか。



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