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「人間をとる漁師」 ルカによる福音書5章1~11節

2019-08-25

 聖書では、「舟」は教会の群れを象徴的に表します。 ルカによる福音書は間違いなく、マルコやマタイの福音書とは異なり、イエスが招き呼びかける前に、ガリラヤ湖に一晩中漂った漁師たちの姿を語りたかったのでしょう。 夜通し、自分たちの経験と知恵によって漁を試みたが、何も得るものがなかった。 その疲れ果てた、それでも次の漁のために舟から上がって網を仕方なく洗っている漁師たちの現実の姿をどうしても描きたかったのでしょう。 そのような漁師たちの状態の時にこそ、イエスのみ言葉の挑戦があるのです。 「もう一度、ガリラヤ湖の沖に漕ぎ出して、網を降ろし漁を試みなさい。」 このイエスの挑戦に漁師たちの腹の中は、「何を言っているのですか。 そんなことしても無駄でしょう。」のささやきで満たされます。 何がそうさせたのかはっきりとはしないが、シモン・ペトロはイエスに、「あなたのお言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」と答えただけでなく、イエスの言われたとおりに沖に漕ぎ出して、網を降ろしてみた。 すると、網が破れそうになるほど、また二そうの舟が沈みかけるほどに、大量の魚が取れた。 自分たちの暮らしの経験や知恵の虚しさを知らされた。 人間の業ではない、思いもつかない驚くべき神の業を目の当たりにされた漁師たちは、イエスの前にひれ伏した。 ここで引き起こされた大事なことは、一匹の魚も取れなかったガリラヤ湖で大量の魚が取れたことでしょうか。 その神の業に、漁師たちの身に大きな変化が引き起こされたことでしょう。 シモン・ペトロは漁師たちを代表して、「主よ、わたしから離れてください。 わたしは罪深い者なのです。」と告白し、自分の腹の中にあったものをイエスの前にさらけ出します。 神の業の前に、人間の業の虚しさやひそやかな驕りや誇りが砕かれます。 自分の本当の姿があぶり出されます。 そして、「先生」と呼びかけていたシモン・ペトロが「主よ」と呼びかけるまでになるのです。 ルカによる福音書は、「網を降ろし、漁をしなさい」というイエスの命令は、用意された恵みを与えようとしたイエスの約束の言葉であったと、シモン・ペトロの告白を通して語ったのではないでしょうか。 マルコやマタイで語られた「人間をとる漁師しよう」ではなく、「人間をとる漁師になる」と、神の祝福の約束であったと語っているのです。 この漁師たちの姿が、イエスの招きに強い決断をもって、信念をもって従った姿に果たして映るでしょうか。 どう考えても、強い決断をもって何もかも捨てて、故郷も、家族も、仕事も、舟も捨てて喜び勇んでイエスに従った姿に、ルカは描いていないのです。 心から信じていなかったかもしれないが、またやっても結果は同じであろうと思っていたかもしれないが、それでも従った漁師たちの姿を彼らの信仰と受け取って、神の業を引き起こしてくださったのです。 これは、この漁師たちがもっとも知り尽くしていると自負している湖の漁の場で、彼ら自身が自分たちの経験や知恵の及ばない神の業を味わい知るためであったのでしょう。 ヨハネによる福音書は、この箇所を復活してよみがえられた後に弟子たちのところに現れた出来事として語っているのです。 そこでも、一匹の魚も取れなかった弟子たちをご覧になって岸に立って待っておられたイエスは、「舟の右側に網を打ちなさい。 そうすれば魚は取れるはずだ。」と弟子たちに呼びかけるのです。 大漁の業を起こしただけでなく、大量の魚の網を引いて陸に戻った弟子たちのために炭火を起こし、そのうえに魚をのせ、パンまで用意し、「今、手にすることのできた魚をもってきなさい。 さあ、来て、朝の食事をしなさい。」と招くのです。 「人間をとる漁師になる」とは、暗闇の中にあったところから解放されて、イエスとともに新しい朝の食事に与るという、祝福の約束なのではないでしょうか。



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