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「ネヘミヤの祈り」 ネヘミヤ記1章1~11節

2019-08-11

 ネヘミヤは、ユダの国がバビロニア帝国に屈したため異教の地に追いやられたその民の子孫でした。 故郷のこと、その都エルサレムのこと、取り残されたユダの人々のことは片時も、その頭から離れなかったのでしょう。 ペルシャの宮殿の中にあって、「献酌官」であったと言います。 「献酌」とは、酌をささげる務めをもつ者ということです。 平たく言えば、王の毒見役です。 王が毒殺されるということが頻繁に起こっている時代には、王の信頼の厚い人物であったということでしょう。 そのような時に、ネヘミヤのもとにユダから幾人かの客人が訪れました。 故郷のことについて片時も忘れることのなかったネヘミヤは、その客人に「捕囚を免れてユダに残っている人々の状況について、また、エルサレムの状況について」尋ねるのです。 彼らの返事は、「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。 エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」というものでした。 これを聞いてネヘミヤは、「座り込んで泣き、幾日も嘆いた」とあります。 そこから、ネヘミヤは立ち上がってすさまじい祈りを始めるのです。 食を断ち、神に向けて祈るのです。 この故郷の乱れ、エルサレムの荒れ放題の状態こそ、イスラエルの人びとの中にある問題である。 イスラエルの神との交わりがおろそかになっている。 そこから引き起こされていることである。 この乱れが故郷の人びとの群れの中から、また群れの外からも忍び込んで、今や壊滅的な状態にまで落ち込んでいる。 ネヘミヤは場所こそ遠く離れているが、このイスラエルの人々とともにその悲しみや苦しみを共にするために祈るのです。 嘆いたままでなく、「祈り」によって人々の神との交わりの回復を堂々と神に願い求めたのです。 
 「おお、天にいます神、主よ、偉大にして畏るべき神よ」と呼びかけます。 神は、「ご自身を愛し、ご自身の戒めを守る者に対しては、契約を守り、慈しみを注いでくださる。」お方である。 しかし、「もしもご自身に背を向け、ご自身の戒めを守らないなら、諸国の民の中に散らすことのできるお方である。 ところが、ご自身にもう一度立ち帰り、ご自身の戒めを守り、行うならば、天の果てまで追いやられている者があろうとも、ご自身は彼らを集めて、ご自身が選んだ場所に再び連れ戻す」ことのできるお方であると祈るのです。 過ちを犯す者を散らすお方は、悔い改めて戻ってくる者を必ず赦し集めてくださるお方である。 これは神の契約である。 神の約束の言葉である。 だから、ユダの人々から伺った悲しい知らせもまた、自分たちがこの契約の約束の言葉を信じ、この御言葉の約束に立ってもう一度向きを変えて、神のもとに立ち帰るなら、その悲しみは喜びに変えられる。 神のみ言葉の約束の確かさは揺らぐことがないと、ネヘミヤの「祈り」は続いたのです。
「あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈りに、どうか耳を傾けてください。 どうぞ、今日、わたしの願いをかなえ、この人の憐れみを受けることができるように」と祈りをしめくくっています。 「この人」とは、ペルシャの今の王のことです。この王に許可をもらってイスラエルに戻って、イスラエルの再建、エルサレムの修復、イスラエルの民の礼拝の再建を図ろうとしたのです。 ネヘミヤの祈りには、異教の国の王でさえも神は用いて、動かして、ご自身の約束されたみ言葉を成し遂げるお方であるという確信があるのです。 この再建は、ひとりの食を断っての「祈り」から始まりました。 王の許可を得たネヘミヤと人々が味わった喜びは、修復された城壁でもエルサレムの再建された新しい姿でもありません。 赦して、連れ戻して、再建させて「ひとりの人のように」集めてくださった神を人々は、賛美して喜んでいるのです。



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