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「まさしくわたしだ」 ルカによる福音書24章36~49節

2017-04-16

 ルカ福音書によると、最初のイースターは、復活の日の朝早く先ず「イエスと一緒にガリラヤから従って来た婦人たち」に訪れた。 その日の昼には、望みを失って、困惑のなか十字架のもとを離れて、もといた故郷に戻って来た二人の弟子に訪れた。 その日の夕方、夜には、弟子たちが恐れおののきエルサレムに隠れ集まっていたところに訪れたと語っています。 エルサレムに残っていたイエスの弟子たちは、恐ろしさのあまり家の戸に鍵をかけて部屋に閉じこもっていたのです。 自分たちが従ってきたイエスが、十字架刑という重大犯罪人として処刑されてしまった。 今度は、自分たちにその危険が及ぼうとしている。 しかし、肝心のイエスの遺体が見つからないと知らされた。 また、よみがえられたイエスに出会ったという証言も聞かされた。 家に閉じこもって弟子たちが互いにあれこれと話し合っていた。 おそらくそこには、イエスの墓を見に行って「あの方は、ここにはおられない。 復活なさったのだ。」と神の使いに告げられて、その一部始終を知らせた婦人たちもいたのでしょう。 エマオの村へ災難を避けて帰る途中にあった二人の弟子もエルサレムに再び戻されて、そこにいたのかもしれない。 その真ん中に、突然、イエスが立たれて「あなたがたに平和があるように」と言われた。 弟子たちは「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」とあります。 イエスは家の中にまで入って来てくださり、かつて地上の生活をともにしたイエスである。 手も足もある。 肉も骨もある。 焼いた魚もあなたがたと一緒に食べる。 その姿を見よ。 「なぜ、うろたえているのか。 どうして心に疑いを起こすのか。 私の語る言葉を聞きなさい。 わたしのからだを触ってよく見なさい。」とかつてあり、今もあり、そしてこれからもある、変わらないイエスご自身であると、釘をさされた手と足をお見せになって「まさしくわたしだ」と宣言してくださったのです。 このイエスが見えていないというこの時が大事なのです。 私たちがイエスの語りかけを聞くためです。 イエスの説き明かしを聞くためです。 自分の本当の姿を見つめ直し、悔い改めを与えられるためです。 よみがえられたイエスと一緒に食事をするためです。 イエスが分からないと、私たちがイエスを追い求めているこの時こそ、イエスが私たちを支えて、導いて、汗を流してくださっている時です。 イエス自ら呼びかけて、憐れんで、祈って、自らの体を示して、私たちに働きかけてくださっている時です。 「わたしは苦しみを受けて、死に至る。 しかし、そこから復活する。 そのことが宣べ伝えられる。 死んで生き返ったという事実だけに留まらない。 その意味が、私たちの罪のためであったと気づかされる。 そのための悔い改めが、私たち一人一人に与えられる。 その事実の証人として、私たちは立てられる。 そのために、父が約束されたものを送る。」と言われたのです。 よみがえられたイエスが真ん中に立たれたところに神の国が訪れました。 弟子たちが分かろうが、分かるまいが、家の中にまで入ってきて、呼びかけてくださったところに神の国が訪れました。 復活の主ご自身が、エルサレムの片隅の家に弟子たちを集められたのです。 空の墓を見つめさせられた婦人たちも集められたのです。 エルサレムから反対方向へ戻って行った二人の弟子も呼び戻されたのです。 恐れおののいている彼らに、「前にわたしから聞いた、父が約束されたものを待ちなさい。 その聖霊の力に覆われるまでは、このエルサレムにとどまっていなさい。 エルサレムを離れないで、聖霊のよるバプテスマを授けられなさい。」と命令されたのです。 復活の主に出会う体験とともに、父から与えられる聖霊の力によってその意味を悟るために、そこに留まるようにと言われたのです。 この時の弟子たちの群れが、エルサレムから始まって、エルサレムを越えて、復活の証人として世界に遣わされて行ったのです。 イースターとは、静かにこの父なる神が約束してくださったもの、聖霊を待つ時なのではないでしょうか。



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