「光のあるうちに、光を信じなさい」 ヨハネによる福音書12章27~36節
主イエスは「今、わたしは心騒ぐ」と、ご自身の心情を包み隠さず語っておられます。 深い怖れと苦悩を憶えられたと書かれています。 多くの殉教者が確信と平安のうちに「死」を迎えた姿とは対照的とも言えます。 イエスはいったい何を怖れ、何に苦悩されたのでしょうか。 このお姿は、他の福音書にあるゲッセマネでのたったひとりの祈りと同じ姿です。 「わたしは死ぬばかりに悲しい。 父よ、あなたは何でもおできになります。 この杯をわたしから取りのけてください。」と、ひどく怖れ、苦しみもだえ、地面にひれ伏して祈られました。 「わたしと父とは一つである」と語り続けられたイエスが、父なる神の裁きの下に「死」を迎えることの苦悩がそこにあるのです。 「死」が父なる神との永遠の断絶であると知り尽くしておられるがゆえに、怖れ悩まれたのです。 父なる神に従わなかったことのないお方であるがゆえに、私たち人間に代わって引き受けるその「死」を前にして「死ぬばかりに悲しい、心騒ぐ」と吐露されたのです。 私たちが忘れてはならないことは、そのような時にこそ、イエスが時間を割いて一人で祈っておられるという事実です。 「父よ」と呼びかけて、父なる神との交わりを失わないよう祈っておられるということです。 当時のユダヤ教では、「父よ」と直接呼びかけることなど考えもつかないことでした。 主イエスはその深い怖れや苦悩を担ったまま、ご自分に与えられた務めを果たすことによってご自分の願いを克服しようと激しく祈ります。 「しかし、わたしはまさにこの時のために来た。 父よ、御名の栄光を現わしてください。 わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」 これが、その時の主の祈りです。 私たちに与えられている「主の祈り」は、父から見捨てられるという深い怖れと苦悩を抱えたまま、父のみ心である与えられた務めを果たすことで、父の栄光が現れることだけを願う「祈り」です。 私たちはこの祈りを主とともに、主の祈りに添えて、神のみ心に従おうとしてささげているのです。
主イエスは、「今こそ、この世は既に裁かれる。 この世の支配者たちは追放される。 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せる。」と言っています。 主イエスの贖いの死によって、「既に」私たち人間の罪が赦されたのです。 しかし、私たちの見える目にはそうは見えません。 「本当ですか」と疑いたくなります。 しかし、一回限りの救いの業は成し遂げられたのです。 そして十字架に架け上げられて、よみがえりの主として永遠の世界に上げられたのです。 今もなお聖霊の主として働いてくださっているこの主イエスが「再び」来られるその時までを、私たちは今歩んでいます。 ですから、「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。 暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。 暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」と、私たちに決断を促しているのです。 私たちに与えられている時間は貴重です。 私たち人間は生まれながらのままでは、真の光を持ち合わせていません。 暗闇を歩む者です。 光を受けなければ見ることができません。 その為には、光の前に恥ずかしくても立たなければなりません。 自分を光の中に投げ込まなければ、光を信じなければ光の子となることができません。 私たちは、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。 わたしは世の光である。 わたしに従う者は暗闇を歩かず、命の光を持つ」と言われたこのお方を、うちに宿らせなければ光の子となることはできないのです。