「キリストが与えてくださる平和」 ヨハネによる福音書14章25~31節
主イエスはご自身がこれから捕らえられ、十字架に架け上げられ、殺される直前に、愛する弟子たちと最後の晩餐をともにされていました。 その最後に語られた言葉が、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」という言葉でした。 私はこれから、あなたたちの目には見えなくなるが、「わたしが去って行く前に、あなたがたに平和を残していく。 わたしはこの平和を世に与えるように与えるのではない。」と、最後の食事の席で言われてから、「さあ、立て。 ここから出かけよう。」と言われたのです。 世が与えるような平和とはいったい何でしょうか。 病気や災難に出くわさないよう、平穏無事に暮らすことかもしれません。 それだけではない、家庭の問題、経済の問題、社会的な問題もあるでしょう。 これらのものからいくら知恵を絞って逃れられたとしても、また先を見越してその影響を最小限に食い止められたとしてもなくならないでしょう。 ましてや、ひとりの人間が「死」を迎えるにあたってなすべきすべはないでしょう。 私たちは、ほんのわずかなことで崩れ、壊れてしまう者です。 主イエスはこれらのことを十分承知のうえで、「わたしの平和を残しておく。 わたしはこれを、世が与えるようには与えない。」と約束してくださいました。 世の支配者が来て私を捕らえて、十字架につけ処刑して私を殺すだろう。 あなたがたの見える目でみれば、力をもつ世の支配者のもとに屈した哀れな姿に見えるだろう。 しかし、世の支配者は私をどうすることも、私の命を奪うこともできない。 私は父なる神のもとへと去って行く。 しかし、再び、あなたがたのもとへ遣わされて戻って来る。 すべては、父なる神のご計画の中にある。 そのことが分かる時が必ずやってくる。 だから、「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。 すべては、父がお命じになったとおりに行っていることを世は知るべきである。 父がお命じになったように、このわたしが従って行っていることを世は知るべきである。」と言われたのです。 弟子たちがイエスの言われたこのことの意味を知ったのは、十字架の後です。 死んで葬られ、イエスの姿が見えなくなってしまった後です。 「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と言われたとおりでした。 墓の前に泣き崩れ、墓に向っていたマグダラのマリアの目が、「婦人よ、なぜ泣いているのか」という声に今までとは反対向きに振り向いた時でした。 マリアは、それが新しく霊の世界に生きておられるイエスであることが初めて分かったのです。 「わたしは主を見ました」というマリアの言葉が、最初の復活の証言であったことを聖書は語っています。 「キリストが与える平和」とは、神と人との間に回復された交わりでした。 「死」によって終りを告げない「平和」でした。 聖霊によって霊の目で見えることができる平和でした。 「キリストの与える平和」とは、この聖霊によって、賜物として与えられる「平和」であると聖書は言います。 ですから、「この世の支配者やこの世が決して与えることができない真の平和を与える。 心を騒がしてはならない。 おびえてはならない。」と言われたのです。 この「心を騒がしてはならない。 おびえてはならない。」と言ってくださるお方が共におられる「平和」です。 このお方が「さあ、立て。 ここから出かけよう。」と、私たちを世に遣わしてくださっています。 主と共に旅立って、今、生かされているところで、イエスのお求めになっている務めにイエスと共に生きる。 そこには神が働いてくださるという確信に立っている。 この確信こそ、「キリストが与えてくださっている平和」なのではないでしょうか。