「キリストの赦しによる平和」 ルカによる福音書 13章6~9節
「実のならないいちじくの木」のたとえが語られています。 ルカは、このたとえの直前に、なぜか、ガリラヤ人たちが受けた事件と、18人の命が失われた災害について語っています。 ローマの支配に反旗を翻したガリラヤ人たちが鎮圧され、殺されたという事件です。 シロアムの池から水を引くという工事に際して、シロアムの塔が倒れてしまって、18人の人たちが死んでしまったという災害です。 こんな事件が彼らに起きたのは、他の人たちよりも罪が深かったからですか。 こんな災害が彼らに引き起こされたのは、他の人たちよりも罪が深かったからですか。 そうイエスに問う人たちがいたのでしょう。 弟子たちでさえ、「こんな目に遭っているのは、この人が犯した罪のためですか。 あるいは親の罪のためですか。」と言ってしまっています。 これが当時の常識でした。 イエスは弟子たちに、「神の業がその人のうえに起こるためである」と言われました。 この箇所でも、「決してそうではない。 言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆滅びる。」と言います。 イエスの宣教は一貫して、「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい。」という短いみ言葉でした。 すでに神の恵みは訪れている。 だから、悔い改めてこのよき訪れを信じて、受け取りなさいと言うのです。 悔い改めるとは、後悔することでも、反省することでもありません。 神のもとから離れてしまったかつての私たちの姿から、向きを変えて神のもとに立ち帰ることです。 イエスは、あなたがたが言っている事件の犠牲となったガリラヤ人たちの問題ではない。 災害によって命を奪われた18人の問題でもない。 今、向きを変えることのできるその時を与えられているあなたがた自身の問題である。 向きを変えて神のもとに立ち帰ることが、今、時が満ち、赦されている神の恵みの時、救いの時である。 このことに気づかないで神のもとを離れたままでは、その魂は永遠に滅んでしまう。 あなたがたも悔い改めなければ、皆同じようになる。」と、その恐ろしさをイエスはここで語っています。
そう語ったうえで、イエスは「実のならないいちじくの木」のたとえを語ります。 「いちじく」とは、イスラエルの象徴です。 「ぶどう園」とは、神が悔い改めの実を結ぶために準備された豊かな土壌です。 そのような場所に、特別の使命を与えられて一本のいちじくの木が植えられたのです。 選ばれたイスラエルの木が植えられたのです。 ところが、イエスの宣教が始まり3年もの間、いっこうに実を結ぼうとしない。 依然として向きを変えようとしない。 切り倒されても仕方のない「いちじくの木」でした。 そのような「いちじくの木」でも、ひとりの園丁が、実がなるようにとなおも願い求めています。 「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。 木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。」 この園丁こそ、父なる神にとりなしてくださっているイエス・キリストです。 その究極の姿が、十字架の死です。 私たちには、赦しのしばしの機会が与えられています。 本来、神の栄光を現わすために造られたはずの私たちにとって、もとの姿に立ち帰るために準備された、悔い改めることが赦されている時です。 私たちは、砕かれて主のみ前に進み出るだけで与えられる、赦しの実であるはずです。 私たちの中に潜む敵意、憎しみ、恨み、妬み、これらのものをキリストの十字架の前に差し出して、砕かれて、赦していただかなければなりません。この赦しをいただいた者こそが赦すことができるのです。 このキリストの赦しを刻まれた者が、「キリストの平和」を創り出す者としてこの世に送り出されるのです。