「神からの報酬」 マタイによる福音書10章5~15節
イエスは、群衆が「飼い主のいない羊」のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれました。 いったい誰の声を聞いて従ったらよいのか分からなくなってしまった、自分たちをふさわしいところに導いてくれる存在を失なってしまった姿に見えたのです。 そのイエスが憐れんで、真の羊飼いのもとへと回復させるためにとった業が「12人の弟子を呼び寄せて、派遣する」というやり方であったのです。 12人の弟子の名前が挙がっています。 ペトロと呼ばれるシモン、その兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、彼ら4人はつい最近までガリラヤの漁師でした。 疑ぐり深いトマスも、人から嫌がられる徴税人であったマタイの名前も入っています。 熱心党のシモンという名前もあります。 熱心党とは、今で言いますと過激派かもしれません。 イエスを裏切ったユダの名前も明記されています。 なぜ彼らが選ばれたのか、私たちには分かりません。 彼らはイエスに従って3年も経っていない人ばかりです。 信仰歴で言えば、私たちの方がはるかに長いのではないでしょうか。
イエスはこのような弟子たちを集めて、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす」権能を授けたというのです。 彼らの中にそのような力が備わったからでも、その資格が与えられたからでもありません。 この権能の授け主であるイエスが、「私たちの病を担い、私たちの患いを背負ってくださる」からできる。 彼らの中にある主イエスを通して働いた神の力が、そうさせるのです。 そのことをイエスは「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と表現しています。 賜物として、何の代価も払わないでという意味です。 パウロが「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる」(ローマ3:24)と表現している通りです。 この無償の神の恵みの世界に委ねて、生きるようにとイエスは彼らを招いておられるのです。 このことは分かっているようで案外、私たちは分かっていません。 いつまで経っても、損か得か、無駄か有益か、受ける資格があるのかないのか、自分のものさしを振り回してしまいます。 イエスは「ただで受けたのであるから、ただで与えなさい」と言います。 むしろ、イエスは進んで、受ける資格のない者に、代価を払うことのできない者にこそ、ご自身の豊かなもの、善きものを与えようとされます。 自分のものさしを振り回す人は、これが我慢ならないのです。 自分は何ももっていない、自分は受ける資格などない、幼子のようにただ信頼して受けるだけの世界。 そこではすべてが、恵みによる神の賜物となります。 プラスだけの世界で、喜びが湧き上がり、感謝に満ち溢れます。 私たちには、大きな賜物が与えられています。 主イエスの名によって神に語りかける「祈り」が与えられています。 そのお方に信頼することのできる「信仰」「神を愛すること」が与えられています。 「神のみ言葉に希望をもつこと」ができます。 この霊なるイエスが私たちの中に宿る、ともにいてくださる。 これこそ、父なる神からいただいた最大のプレゼント、最大の祝福です。 「ただで与える」者が受け取ることのできる、神からの報酬です。 イエスは弟子たちに何も持たないで、ただ「天の国は近づいた」という神の恵みだけを携えて行けと言われます。 弟子たちの働く場所は神が働く場所である。 神がともにおられる場所である。 当然、必要なものは神が準備してくださる。 行く先々には、受け入れられたり、拒絶されることがある。 しかし、そのことをお決めになるのも神である。 持ち物についても、語るべき場所についても、神に委ねて行きなさいと言います。 私たちに与えられた喜びや感謝、祈りや賛美はすべて、神の業のために「ただで」与えられたものです。 「ただで与えられる」ものを感謝し、「ただで与える」ことのできる恵みを分かち合いたいと願います。