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「神の御心に適った悲しみ」 コリントの信徒への手紙二7章5~12節

2015-08-16

 この手紙の送り主であるパウロには、大変な出来事が起きていました。 パウロがいなくなった後のコリントの教会の中に、後から入ってきた人物が公然と「パウロには使徒としての資格がない」と批判し始めたのです。 パウロが熱心に進めているエルサレム教会への献金もまた、パウロ自身の私腹を肥やすものであると中傷したのです。 このことを伝え聞いたパウロは、『弁明の手紙』を書き送ります。 ところが、コリントの教会の実態は、パウロの予想以上に深刻でした。 自身が心血を注いだ教会から追放されたパウロは、深く傷つきます。 「わたしは悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」(2:4)と証言しているように、『涙の手紙』を書き送ったのでした。 コリントの教会はパウロが設立した教会です。 その教会が、神のもとから離れてしまうことに危惧したのです。 『涙の手紙』は、パウロを侮辱し、深く傷つけた人物の処罰を強く求めるほどの厳しい手紙であったようです。 手紙だけでは不十分としたパウロは、信頼する同労者テトスを派遣します。 そのテトスに一刻も早く会ってコリントの教会の報告を聞こうと、すべてを残してマケドニア州にすでに渡り、テトスを待ちわびていたのがこの聖書箇所の場面です。
 「マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。 外には戦い、内には恐れがあったのです。」と正直に、その心境を語っています。 からだ全体が弱り果てたパウロが、ついに「テトスの到着によって」コリントの教会で起きた大きな変化が伝えられ、パウロは慰められました。 加えて、テトス自身が、コリントの教会の人たちから慰めを受けたことからもパウロは慰められました。 コリントの教会の変化の詳しい理由は分かりません。 パウロの書き送った『涙の手紙』の厳しさが、コリントの教会の人たちに衝撃を与え悲しませたのでしょう。 パウロが慰められたのは、自分が書き送った手紙を読んで彼らが変わったからではありません。 コリントの教会の人たちが犯した過ちに気づかされ、そのことに本当に悲しんで、悔い改めるまでにされたことでした。 そして、そのことをともに喜んで語り伝えているテトスの姿によって、パウロは慰められたのでした。 パウロは、「悲しみ」には、死に至る「世の悲しみ」と、人に悔い改めを生じさせる「御心に適った悲しみ」があると言います。 この世の悲しみには、自分の犯した過ちを悔いることも、気づいて責めることもあるでしょう。 しかし、そこには向きを変えるという新しい出発がありません。 裁きだけがあり、赦されることも、赦す存在もありません。 神の「御心に適った悲しみ」はそうではない。 過ちが過ちとして神によって裁かれ、そのことを本当に悲しむところに十字架の救いによる「赦しと祝福」が神によってもたらされます。 神の「御心に適った悲しみ」は、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせる、神の賜物なのです。 パウロは、コリントの教会の人たちの「悲しんで悔い改めた姿」のなかに、「神の慰め」を見つめることができました。 彼らの「悲しんで悔い改めた姿」に、その教会を心配したテトス自身が慰められている姿にパウロは慰められたのでした。 パウロは、コリントの教会の姿にも、テトスの姿にも、「気落ちした者を力づけてくださる神」、「慰められる神」が働かれるのを見ることができたのです。 私たちの存在があるということだけで、どれほどそこに「神の慰め」、「神の力」が働いているかということです。 私たちの存在に力があるのではありません。 そこに、「慰められる神」が働かれるからです。 「神の力」が、私たちの存在を通して働かれるからです。 ですから、「神の慰め」、「神の力」を受け入れるため、私たちの存在を大切にしたいと思います。



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