「キリストを体験する」 ガラテヤの信徒への手紙3章26~29節
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」と、パウロは短く語ります。 私たちは皆、神の子である。 「信仰」によって、私たちは「神の子」となる。 「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる。」(ローマ10:17) キリストの言葉を聞くことによって、キリストに結ばれたから神の子になると、パウロは言っているのです。
ヨハネによる福音書のイエスの最初の弟子たちの姿を見ますと、彼らは「メシアに出会った。 来て、見なさい。 来てみれば分かる。」と、イエスに出会った喜びを語りました。 そして、隣人をイエスのもとに連れて行くのです。 イエスの語るみことば、イエスの生きている姿こそ、「神の言葉、神の姿」そのものであるという体験の喜びが、「メシアに出会った。 来て、見なさい。 来てみれば分かる。」という信仰告白になったのでしょう。 弟子たちが、イエスの「教え」が分かったからではありませんでした。 イエスに出会い、そのもとに連れて来られて、イエスとともにそこに留まって、イエスとともに生きる体験をしたから、信じることができるようになった。 これが、彼らの喜びではなかったかと思います。 彼らの側に何か特別なものがあったわけではありません。 また、呼び寄せられる特別な理由があったわけでもありません。 弟子たちと同じように私たちもまた、「イエスと共に生きる」、「信仰により、このキリスト・イエスに結ばれる」ことによって、神の子とされる恵みのもとに招かれたのです。 私たちのあやふやな信仰のうえに、キリスト・イエスに結ばれているのではありません。 私たちの心構えや信仰の深さによって結ばれているのでもありません。 パウロは、このことを「神の子とする霊を受けたのです」(ローマ8:15)と表現しています。 キリストを信じて従う者には、神の側から必ず霊が与えられる。 霊が私たちの中に宿る時、私たちは神の子となる、キリストのものになる。 私たちの体験がどのようなものであれ、霊によってキリストに結ばれ、神との交わりに生きる者となる。 その理由を、パウロは「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と言います。 パウロの言う「信仰」とは、私たちの努力ではなく、神の側からの約束の霊を受け取って、キリストに結ばれることである。 キリストと共に生きる、従うことである。 この霊的な体験の事実を、「キリストを着る者」とされると表現しているのです。
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9)と、パウロは言いました。 口で、心で、全身で、キリストに結ばれることが信仰でした。 更に、パウロは「あなたがたは皆、キリストを着ているから、キリスト・イエスにおいて一つとなる」恵みを加えます。 キリストに結ばれるという平安を一人一人に与えて、そこにキリストの体、教会の群れを起こすと宣言しているのです。 この手紙が書き送られたガラテヤの教会は、様々なことで混乱をもたらされていた教会でした。 パウロはそのような現状の痛み、悲しみを超えて「あなたがたは皆、キリストを着ているから、キリスト・イエスにおいて一つとなる。」 現状はどうであれ、「キリストにおいて一つとなる」という希望を語ったのです。 自分の位置が分からなくなったガラテヤの教会、神のもとから離れてしまった私たちに「わたしのもとに帰りなさい」と言われる。 神に捨てられるという一切の罪を担ってくださった、そのキリストが「死んではならない、私と結ばれて生きなさい」と、新しい生涯をそれぞれに与えてくださっているのです。