「パウロの手紙の結び」 ローマの信徒への手紙15章13~21節
今日、取り上げさせていただいた15章13節こそ、有名な「ローマの信徒への手紙」の最後の締めくくりの言葉ではないかと強く思わされます。 「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」という言葉です。 どう読んでも、この手紙の結びはパウロの祈りです。 「希望の源である神が、希望に満ちあふれさせてくださるように。」というパウロの希望の祈りです。 パウロはその生涯を通して、確信して、この祈りによって手紙を結んでいます。
神の言葉である聖書を読み進めていきますと、不思議なことに気づかされます。 神は、いろいろな人を通してあらかじめ準備しておられることです。 その準備を、「このようにする、このようになる」と約束を告げておられることです。 そして、神は、その約束をご自身が果たすという形で、ご自身の働きを現わしておられることです。 聖書のなかで物語られていることは、この約束を告げるということ、その約束は必ず果たされるということです。 そこに、神の働きがあります。 取るに足りないひとりの人が用いられていきます。 神の約束が与えられているが、未だ果たされていないところに、「約束を信じる」という「信仰」が私たちに与えられます。 その「約束は果たされる」という「希望」が私たちに与えられます。 ですから、私たちはとても信じることができないようなことでも信じることができます。 神の約束があるからこそ、希望を持ち続けることができます。 そこには、神のもとに立ち帰って生きることを望んでおられる「神の愛」が注がれて、支えているからです。 このことこそ、パウロが語った「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。」という言葉の意味ではないかと思うのです。
パウロの生涯を思い起こしてみましょう。 彼はユダヤ人でした。 ユダヤ教徒の指導者でその中心にいた人でした。 自分が生きてきた世界こそ、正しいと信じてきた。 これが絶対と信じて、苦労して築き上げてきた。 それが、ある日突然、イエス・キリストの呼びかけによって、根底から覆されました。 今まで見えていなかったもの、見ようともしなかったものに、パウロの目が開かれたのです。 今までのユダヤ教の世界から出て、「異邦人のために」、迫害の対象にしてきた「キリスト・イエスに仕える者」になったのです。 パウロは、すでにこの時、ユダヤ人も異邦人もない、奴隷も自由人もない、男も女もない。 この地上での多少の違いなど、「終わりの日」には問題でなくなる。 その「終わりの日」が来ることが、今、約束されている。 私たちのそのままの姿で神に赦され、迎え入れられている世界がパウロには見えていたのです。 このことが、「信仰によって」、知らされる。 喜びと平和で満たされる。 「聖霊の力によって」、知らされる。 希望に満ちあふれさせてくださる。 ですから、パウロは手紙の結びに、信じることができないことを信じて生きる。 その奇跡とも思える約束を待ち望んで生きる。 新しい命に創り変えられるという希望を持ちながら生きる。 この「希望の祈り」を、最後に語ったのです。 パウロは「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。」(コリント一15章42-44節)と言っています。 自然の命が与えられるのも、死んで霊の体に復活させられるのも、神の創造の働きです。 「神は何でもできる」と信じる信仰こそ、死者をも復活させると信じる信仰によって完成されるという「希望の信仰」です。 パウロは、この手紙の最後にこの「希望」を祈っています。