「将来の栄光と現在の苦しみ」 ローマの信徒への手紙 8章18~30節
使徒ペトロは、その手紙のなかで「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれません。」 しかし、「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明されて、火に精錬されながら、やがて、喜びに満ちあふれる」と言います。 更に、苦しみにはふたつある。 苦しみを受けるようなことがあってはならない苦しみと、キリスト者として受ける苦しみがある。 キリスト者としての苦しみを受けるなら、「決して恥じてはなりません。 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。」と言います。 ですから、「あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」と言います。
同じように、使徒パウロもまた今日の聖書箇所で言います。 「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りない。」と言います。 パウロは、この「現在の苦しみ」の真っ只中に立っています。 「キリスト者としての苦しみ」の上に立っています。 これは、私たちキリスト者だけではない、すべての被造物が同じ苦しみに立っている。 しかし、「いつか」、「この滅びから解放される自由になる希望が与えられている。」 人の罪によって覆われてしまったこの世界が、またもとの神のもとにあった姿を取り戻すようになる。 これは、神の意志である、神の憐れみを受けるためであると言います。 被造物も、また私たちキリスト者もまた、神のもとから離れてしまっているのは同じことです。 しかし、私たちはイエス・キリストを知っています。 キリストの十字架と復活によって、「神の子とされること、体が贖われること」を、ただ一度の救いの出来事によって知らされました。 私たちは、現在の苦しみのなかにあっても希望を持つことが赦されました。 キリストの霊の働きによって、準備されている「将来の栄光」に与かることを知らされました。 ですから、パウロは被造物を代表して、「私たちは、切に待ち望んでいます。 私たちは、希望を持っています。 私たちは、今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、知っています。 目に見えないものを忍耐して待ち望むのです。」と言うのです。 パウロは、「待ち望んでいる、希望をもっている」ということを、「うめいている」と表現します。 私たちは、キリストと共に苦しみの中にあって、パウロのようにうめくまでに希望をもっているでしょうか。 「いつかは」と、目に見えないものを忍耐して信じて待ち望んでいるでしょうか。 パウロは、霊の初穂としての復活の主イエス・キリストに出会って、私たちのうめきには終わりがある。 私たちに与えられているこの「現在の苦しみ」と「将来の栄光」を結びつけるもの、これこそキリストの十字架の上でのうめきであると知らされたのです。 このキリストの「霊自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださっている。」 これが、私たちのうめきを父なる神のもとに届けてくださっている。 父なる神のみ心に最後まで忠実に従われたこのキリストの霊が、父なる神のみ心に従って今もなお私たちのために執り成してくださっている。 そのキリストの霊の働きを父なる神は、すべてご存じである。 だから、私たちは、「父なる神の救いのご計画が成し遂げられるまで、このキリストの霊が万事が益となるように共に働いてくださるということを知っている」とパウロは確信するのです。 この希望を持ち続けることのできるのは、このキリストの霊のうめきによる執り成しがあるからです。 キリストの十字架上にかかり続けてくださっている、このうめきのとりなしの祈りがあるからです。 これによって、「現在の苦しみ」がやがて与えられる解放を求める祈り、うめきとなっていくのです。