「私たちのエルサレム」 使徒言行録 20章17~24節
パウロがミレトスというところに辿りついた時、わざわざ「人をやって」、エフェソの教会の人たちを「呼び寄せて」います。 招いたパウロも、また招かれたエフェソの教会の人たちもよほど会いたかったのでしょう。 エフェソが近いと言っても、ミレトスから約60キロも離れていたのです。 パウロは再会しただけに留まらず、この時が最後になると語り始めたのです。 パウロがエフェソの教会の人たちとの最後の別れに語ったことは、「私は、ただ主だけにお仕えしてきた。」 「私は、主の姿とみことばだけを伝え、教えてきた。」 「力強く証ししてきた。」ということでした。 エフェソの人たちは、一緒に辿って来た生きたパウロの姿を思い浮かべながら聴いていたことでしょう。 パウロは先ず、それらをどのように伝え、教えてきたのかを語ります。 「自分を全く取るに足りない者と思い」ながら、主に仕えたと言います。 自分を低くし、小さくして主に仕えたと言います。 そして、「涙を流しながら、この身にふりかかってきた試練に遭いながら」も、主に仕えてきたと言うのです。 パウロにとって、一人の人を救うための謙遜であり、涙であり、試練でありました。 それを、「公衆の面前」でも、「方々の家々」でも、「ユダヤ人にもギリシャ人」にも伝え、教え、証ししてきた。 「一人の人」を救うために、主に仕えてきたと言います。 この姿こそ、十字架のうえで痛みと侮辱と罵りを背負って、私たちの卑しさや醜さから解放してくださったイエスの姿です。 この主イエスの姿とみことばに揺り動かされたからこそ、パウロ自身が語ることができた。 エフェソの人たちが心を揺り動かされて聴くことができた。 ですから、エフェソの人たちは激しく泣いた。 人のために自分をさらけ出して差し出すパウロとともに、ひざまずいて祈った。 主イエスのみことばを指し示すパウロを抱いて、接吻したのです。 パウロは、「神に対する悔い改め」と、「わたしたちの主イエスに対する信仰」を伝え、教え、証ししたと言います。 これらは、私たちの力では得ることができないものです。 神からの恵み以外には受け取ることのできない、与えられるものです。 神は、あなたがた一人一人に霊を与え、「悔い改め」を与え、「信仰」を与える。 神を知る知恵を与える。 そのことを支えるのは、「神のみことば」であると、パウロはエフェソの人たちとの最後の別れに語ったのです。 その言葉が「今、神とその恵みの言葉にあなたがたをゆだねます」というみことばでした。
パウロはそれだけではありません。 「今、わたしは霊に促されてエルサレムに行きます」と言うのです。 律法を持たない、律法を守らない異邦人が救われるというパウロの教えなど到底受け入れることのできないエルサレムでは、激しくパウロに敵意を抱いています。 わざわざそのような渦中に入り込まなくてもいいのではないか。 そのような声が、自分自身からも周囲の人々からも聞こえていたことでしょう。 しかし、パウロは、「自分の決められた道を走り通します」、「主イエスからいただいた務めを果たします」と答えています。 その務めとは、「神の恵みの福音を力強く証しすること」であると言ったのでした。 パウロはいただいた恵みにとどまらず、霊に促されて、恵みに促されて、自らの務めを果たすために主イエスと全く同じようにエルサレムに入って行ったのです。 私たちにとってのエルサレムとは、どこでしょうか。 エルサレムを前にしてためらっているのでしょうか。 どのように主に仕え、従って行くのでしょうか。 何を伝え、何に信頼して歩んで行くのでしょうか。 そのことを問いながら、新しい年を迎えたいと思います。