「私たちの生涯を巡る主の言葉」 イザヤ書55章1~11節
紀元前6世紀に、イスラエルはバビロニアという強国に滅ぼされました。 主だった人びとがバビロニアの首都バビロンに連れて行かれたのです。 国は滅ぼされ、信仰の中心であったエルサレム神殿も破壊されました。 その希望を失くし、囚われの身で過ごさなければならなかったイスラエルの民の一人イザヤに、主の言葉が臨んだのです。 その締めくくりの「主の言葉」が、この55章です。 主が力強く招いて呼びかけておられるのは、「渇きを覚えている者」、「銀を持たない者」、「穀物を求めている者」です。 「水や穀物を買うのに、銀をもっていない人々」に呼びかけておられます。 「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。」 「穀物を求めて、食べよ。」 「来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」と言います。
私が「主の僕」という代価を払う贖いを用意した。 この贖いによって、あなたがたの罪が赦されて、もとのエルサレムに戻ることができるように準備された。 だから、あなたがたは何も持たないで「貴重な水、大事な穀物、ぶどう酒や乳」を求めて、わたしのもとへ来なさい。 主の言葉は、「求めて、来なさい」と言われる。 私が用意しているものを代価を払うことなく、尋ね求めて「来るがよい」、「食べよ」、「得よ」と言われているとイザヤは言います。 主に招かれる私たちの唯一の資格は、ただこの飢えと渇きという求めだけです。
主イエスは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と言っておられます。 先ず、主の言葉を求めて、主のもとに来ることです。 「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。 あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。 聞き従って、魂に命を得よ。」と主の言葉が響きます。
イザヤが言う主の言葉は、「エルサレムに帰れ」ということでした。 そのふるさとは荒れ果てて、戻っても食べることも飲むこともできないかもしれない。 それでも、イザヤは主の言葉に聞き従えば「良いものを食べることができる。 その豊かさを楽しむことができる。」と言います。 主の思いは、私たちが思い描いているものとは異なる。 主の道は、私たちが歩もうとしている道とは異なる。 そうであるけれども、イザヤは、この遥かに高い主の思いと、私たちの思いをつなぐものがあると言います。 それが「主の言葉」である。 雨や雪が天から一方的に降り注いで、大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせる。 それらはむなしく天に戻らない。 それと全く同じように、「主の言葉」が私たちに一方的に降り注ぐ。 私たちに尽きない憐れみを与え、豊かな赦しを与える。 なぜでしょうか。 それは、『私』の口から出る『私』の言葉は、むなしく、『私』のもとに戻らない。 それは、『私』が望むことを『私』が成し遂げるからである。 『私』が与えた使命を必ず、『私』が成し遂げるからだと約束してくださったからです。 主イエスもまた、父なる神と全く同じように言います。 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」 主の言葉は、最初からあったものです。 それを私たちがイエス・キリストという姿を通して、聞いて、よく見て、手で触れて知らされたものです。 「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくはわたしのもとに戻らない。」 このみ言葉は、私たちの生涯にわたって途切れることなく、日毎に語られ続けられているものです。 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」 なぜなら、主の言葉は神と私たちをつなぐものだからです。