秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「神と私たちの間の扉」   ヨハネの黙示録3章14~22節

2014-08-10

 ヨハネ黙示録が語る七つの教会は、ローマの属州であったアジア州にありました。 そこでは、ローマの権力者から皇帝礼拝の強要もあったでしょう。 ユダヤの会堂から「イエスは主である」と飛び出してきたキリスト者は、ユダヤ人社会から異端者として排除されていたでしょう。 教会の中にあっても、偽りの教えによって揺れ動いていたこともあるでしょう。 そうした教会に、この世には終わりがある、イエス・キリストが再びこられることが差し迫っていると強くこのヨハネの黙示録は告げ知らせたのです。 再び来られるこのイエス・キリストを信じて、最後まで忠実であるようにと時代を越えて教会を励ましたのです。 そのなかのひとつラオディキアの教会に、主イエスはこのように言われました。 「わたしはあなたの行いを知っている。 あなたは、冷たくもなく熱くもない。 むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」
 ラオディキアは、麻布、毛織物の産出で有名な経済的にとても繁栄した町でした。 そこにあるラオディキアの教会に、「あなたは、『わたしは金持ちだ。 満ち足りている。 何一つ必要な物はない。』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」と言われたのです。 本当に冷え切ってしまって、初めのころの信仰を全く失ったのであれば、まだ悔い改めて再び立ち上がることもあるでしょう。 ですから、「むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」とまで、イエスは言われたのです。 ご自身が再び来られる「時が迫っている」ことを忘れてしまっている、熱くも冷たくもなくなまぬるい信仰である。 そうであるのに、自分に欠けているところがない、すべて満ち足りている。 神を求める祈りに欠けてしまったラオディキアの教会に、その本当の姿をイエスは突きつけたのでした。 イエスは、ラオディキアの教会に苦難と試練を経て与えられる信仰、「火で精錬された信仰」が欠けていると言います。 「熱くもなく冷たくもなく、なまぬるい」ところからでは得ることのできない「火で精錬された信仰」をわたしから買いなさい。 あなたは、わたしにそれを求めることができる。 「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。 だから、熱心に努めなさい。 悔い改めなさい。 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。」と言われたのです。 イエスは、扉の外に立って、私たちの心の扉をたたいてくださっています。 それでも、固く閉ざされた扉があります。 イエスがたたいている扉の音が聞こえているでしょうか。 聞こえているにもかかわらず、扉の外を見るのを恐れて閉じこもっているのでしょうか。 扉を開くなら、ただちにイエスは入って来られます。 イエスは「わたしは中に入ってその者と共に食事をする」と約束してくださいました。 その約束を受ける者は、イエスが扉をたたいて呼びかける声を聞いて、扉を開けた者すべての人です。 そこには何の資格も行いもありません。 ただ神の恵み、神の憐れみがあるだけです。 私たちは、扉をたたいておられるイエスが再び入って来られるという緊張感がなければ、熱くもなく冷たくもないなまぬるい信仰生活に陥ってしまいます。 盗人のように来るかもしれない終わりの日に備えて、希望の時、確信の時としてイエス・キリストを待つために、目を覚ましていることをこの黙示録は求めています。 戸口で立ってたたいておられる主の方に向き直して、悔い改めて、扉の取っ手を自ら引いて主を迎え入れる。 主は、扉をたたいて招いて、共に食事をすると約束してくださっています。  



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