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「神が備えてくださる」   創世記22章7~18節

2014-07-20

 アブラハムは、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」という神の招きに旅立ちました。 「あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」という神の約束に、過去を断ち、新しい未来に向けて、行き先が分からないまま家族を連れて出発をしたのです。 様々な出来事の後、ついに神は、アブラハムを一対一の契約の相手とされたのです。 「これがあなたと結ぶわたしの契約である。 わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。 わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。 そして、あなたとあなたの子孫の神となる。 わたしは、彼らの神となる。」という契約でした。 
 そうした時、神はひとつの試みをアブラハムに与えます。 「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。 わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」と命じられたのです。 しかし、年老いたアブラハムと妻サラには、子供がいなかったのです。 子孫を増やすと言う神の約束にもかかわらず、アブラハムはうすら笑いを浮かべて「百才のわたしに子供が生まれるだろうか」と神を疑ったのです。 そのアブラハムに神は「わたしに不可能なことがあろうか」と迫って与えた約束の子です。 アブラハムが晩年になってやっと与えられた待望の子、愛する独り子です。 その独り子を焼き尽くす献げ物としてささげなさいと、神は命じられたのです。 この時アブラハムは、神に「アブラハムよ」と呼ばれて「はい」と答える、神との正しい関係にありました。 神と正しく向き合っている者、神の言われる通りに歩んでいる者にも試練がある。 神の試みは、その人の罪でもなければ、その人に対する懲らしめでもありません。 神のみこころから出てくるものです。 アブラハムは驚くほど、冷静です。 「次の朝早く」、すぐさま、自分で「ろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割って」準備をしています。 「神の命じられた所に向って」歩み出しています。 黙々と準備するアブラハムがひと言だけ口にしています。 「わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をしてまた戻ってくる。」 あの「わたしに不可能なことがあろうか」と強く迫った神が、あの山に登れと言われている。 「自分が愛する独り子イサクをささげよ」とすべてをご存じなうえで命じておられる。 愛する子イサクも、神が与えて下さった賜物であった。 「わたしがお前を旅立ちへと導き出した主である」と言われる神が、ここでも私を導いておられる。 アブラハムは、この三日間、このようなことを思い浮かべながら黙って従って行ったのです。 アブラハムは、愛する独り子イサクをささげ切ることができたのではない。 イサクをささげることによって、自分自身を神にささげ切ったのではないでしょうか。 ですから、成長したイサクの「焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」という問いに、「きっと神が備えてくださる」と答えることができたのでしょう。 「二人は一緒に歩いて行った」と書かれています。 神の命じられている場所に、礼拝をささげるためにささげ切って向った二人の後ろ姿を見ることができます。 主に信頼して希望を抱きながら、アブラハムは絶望の山に登って行きました。 そこに神の備えを見出したのです。 過去を断ち切って、旅立たなければ主が備えた山のうえに登ることができません。 そこに登って行かなければ味わうことのできない神の備えです。 神は、私たち一人一人を契約の相手として、その人にしか歩むことのできない道を備えてくださいます。 ですから、その生涯が尊いのです。 神だけが試練を与え、そこから救い出す備えを与えることができるのです。



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