「あなたは、わたしに従いなさい」 ヨハネによる福音書21章20~23節
教会の暦では、イエスが復活の後、聖霊が降るペンテコステまでの間を歩んでいます。 十字架の後、よみがえられたイエスが天に昇られるまで、この地上に現れてくださったその40日の間のお姿とみことばを数週間にわたって味わっています。 その弟子たちのうちのひとりペトロに注がれた、よみがえりの主イエスの愛に触れたいと思います。
ルカによる福音書によりますと、夜通し漁をして何もとれず疲れ切って「網を洗っていた」ペトロにイエスが声をかけます。 「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」というイエスの言葉でした。 ベテラン漁師の私が夜通し漁をしても何も取れなかった。 この昼間にもう一度網を降ろせとは無知もはなはだしい。 これがペトロの言い分だったでしょう。 しかし、ペトロは「しかし、あなたのお言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と、大きな期待を求めず返事したのが正直な思いであったでしょう。 これが、ふたりの最初の出会いの言葉でした。 湖のほとりにイエスが立つだけで、多くの群衆が取り巻いて騒いでいる。 そのような所で、イエスが本当に見つめておられるのは群衆ではなく、ペトロという一人の人物でありました。 夜じゅう苦労したけれども魚が一匹もとれなかった、そのことだけに心が奪われ黙々と「網を洗っていた」ペトロでした。 イエスは、見つめるだけでなく、耳を傾けようとしないペトロに、名指しで語りかけます。 「網を降ろし、漁をしなさい」とぺトロにも分かる生活の言葉で語ります。 希望を失い、ぼんやりと生活の中に埋もれているペトロに、一緒に舟に乗り込んで、同じ生活の言葉をもって語りかけるのです。 聴いたペトロは何を今さらと思いながらも「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 言っただけでなく、網を降ろしてみた。 これがペトロの大転換となったのです。 舟が沈みそうになるまで多くの魚でいっぱいになった。 考えてもいなかった時と場所で「網を降ろし、漁をしなさい」と語ったお方の圧倒的な力にペトロは驚いた。 心の中で馬鹿にした自分の姿を見つめさせられた。 聖書はただ、そのペトロが「すべてを捨ててイエスに従った」とだけ書かれています。 その後のペトロの生涯は失敗と挫折の連続でした。 痛恨の極みは、十字架のもとに連行されたイエスを、ユダヤの人々に問い詰められて三度「イエスの弟子とは違う」と言い放ってしまったことでしょう。 間違いなく、イエスに従うというペトロの決意と勇気は挫折に終わっています。 痛恨の傷を身に帯びて、まともにイエスの顔をみることのできなかったペトロに、よみがえりの主イエスが三度「わたしを愛するか」と呼びかけるのです。 「わたしがあなたを愛していることは、あなたはご存知です」と応える機会をペトロに三度与え、過去の三度の傷を拭っておられる。 「網を洗っている」ペトロを、「網を降ろす」ペトロに、そして、イエスの死とよみがえりを通して、傷を癒し、「人間をとる漁師」、「主の民を養う羊飼い」という新しい務めを与えられたのです。 つまづき、倒れ、裏切ることがあっても、イエスの十字架とよみがえりの力によって回復される、変えられる。 その度に「わたしに従いなさい」と新しい力を与え、励まされる。 それでもペトロは、自分と同じようにイエスに従う道を歩むもうひとりの弟子が気になる。 「主よ、あの人はどうなるのでしょうか」と聞いてしまうのです。 私たちは、それぞれにイエスに従う者です。 ただその従い方が異なります。 生涯の閉じ方も、閉じる時期も違ってくるでしょう。 イエスは「あなたに何の関係があるか。 あなたは、わたしに従いなさい」と天に昇られる前に、愛するペトロに言われたのです。