先週の聖書研究・祈祷会の恵みから
2013-08-22
聖書 マタイによる福音書5章17~20節
*イエスは、律法や預言者を廃止するためではなく、完成するために来たと言います。 イエスは、律法を
きっぱりと肯定し、その完成者となるイエスご自身に移って行くと言います。 神のみこころが示されて
いる律法が本来の務めを果たすために、私は送られて来たとイエスは言うのです。
*イエスは、律法は「神を愛することと、隣人を愛すること」、この二つの戒めに基づいていると言います。 一点一画の文字も、一つ一つがつながり、全体となってこの神のみこころに基づいていると言うのです。
*問題は、だれが「神の義」としているか。 だれが、神が人間にお求めになっているふさわしい生き方であるかを決めているかということです。 ファリサイ派の人々は、自分の解釈で律法を守っていると自分を「神の義」としているのです。 しかし、「憐れんでください」と神のみこころを問う者が、神によって「神の義」を与えられるのです。 神の前に、自分の義が死ぬことが必要なのです。
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