「主人が帰ってくるまでの間の僕」、 マタイによる福音書25章14~30節
有名なタラントンの譬えです。 人にはそれぞれに応じたタラントンが与えられている。 ふさわしく用いるべきであると読めます。 その通りです。 しかし、この譬えには背景があります。 イエスがご自身の十字架の死を直前にして、もう一度来られる日のことを語ったイエスの言葉が集められている聖書箇所の中で、この譬えが語られているのです。 イエスが語られる「もう一度来られる日」、「終りの日」は、必ず訪れる。 しかし、その日までには「あいだ」がある。 その「あいだ」の備えを、イエスは愛する弟子たちに告げているのです。 ですから、直前の13節に「目を覚ましていなさい。 あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」と言います。 このタラントンを僕たちに託して旅へ出て、戻ってくる主人こそイエス・キリストです。 この主人は、「かなり日がたってから」戻ってくると言います。 主人は、それぞれの僕の成果を問題とはせず、その戻ってくるまでの「あいだ」の僕たちの忠実さについて問題にします。 1タラントンは6,000デナリです。 1デナリは働く人の一日の賃金だと言われます。 1タラントンといえども15~16年分の賃金に相当する額です。 主人は、僕たちに多くの信頼とともに多くの財産を託しました。 それだけでなく、その財産を豊かに用いるために、戻ってくるまでの「あいだ」の時をも与えます。 主人は、豊かに用いた僕とともに喜び分かち合うために戻ってくるのです。 預けてくださったのは、主人であるイエスご自身のみことばであり、イエスの愛であり、イエスの平和です。 本来、私たちが持ち合わせていないものです。 放っておいても、自ら叫び出し満ち溢れ出てくるものです。 ですから、主人であるイエスは、託されたものを用いることは難しくないと言います。 主人であるイエスのために用いることが難しい、恐ろしいと思える時でも、何もしなかった自分を守るために言い訳をしてはならないのです。 神のみ子であるイエスに満ち溢れるものを、わたしたち僕たちは何の資格もなく、何の理由もなく預けられているのです。 この与えられたものを喜び用いていく者は、「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになる。」と、イエスは付け加えています。 私たちがともすれば忘れがちな「終りの日」、「神の国の始まりの喜びの日」に目と心を向けたい。 イエスが再び戻って来られる時までの「あいだ」、私たちに委ねられているイエスの持ち物を、喜んで用いる務めが与えられているのです。 忠実な良い僕とはこの恵みによって立ち上がり、イエスの信頼に応えていく者です。