秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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『主に結ばれた者のしるし』 テサロニケの信徒への手紙一5章12~22節

2023-11-05

 パウロは第一に、生まれたばかりの教会の群れ(エクレシア)の「交わり」について語ります。 このエクレシアは、ペンテコステの出来事によって誕生した、神の救いの証言者、担い手として選ばれ集められた群れです。 どのような敵意、迫害、攻撃に晒されようと、希望を失うことがないようにと、聖霊の働きにより神ご自身が造り上げた群れです。 自ら目覚め、努力を重ねた人たちが集まって造り上げたものではなく、初めから霊的な力によって霊的な秩序をもったキリストの体として出発した群れです。 そこに、一人一人のキリストに結ばれた者が加えられ、育まれていく。 ですから、「霊の火を消してはいけません。 預言を軽んじてはいけません。 良いものと悪いものを識別しなさい。」と語るのです。 聖霊に満たされること、みことばを豊かに蓄えること、自らの罪深さを神の前に知り、聖なるものと聖ならぬものを識別できるようになることを願い求めなさい。 そのことで、ひとりではないキリストの体を全体として築き上げると言うのです。 第二に、「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。 お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。」と言います。 イエスは「復讐してはならない。」(マタイ5:38-42)と言われました。 寛容をもった無抵抗を語っているのでしょうか。 「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」とも言われる。 復讐心や報復の連鎖の恐ろしさを越えて、決して黙って耐えるのではなく「左の頬をも向けなさい。 上着をも取らせなさい。」と激しい神のご愛と赦しのみ心を語るのです。 パウロもまた、「悪に負けることなく、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:21)と言います。 愛なる神は、義なる神でもあります。 独り子を引き裂いてまで愛し抜かれる神は、決して罪に妥協することのできないお方です。 このままでは滅んでしまう存在であるこの世の私たちが、一人も滅びないで永遠の命を得るために忍耐をもって働いてくださっているのです。 神によって造り上げられた教会の群れは、裁きに値する罪や咎や過ちがあったとしても、赦しと和解の場であるようにと聖霊によって導かれるのです。 このことを、パウロは「終わりの日」、再び主イエスが来られる救いの日を用いて語ります。 この地上の世界は、その時に備えて待ち望む時である。 たとえ肉体の死を迎えたとしても、それは「眠り」であって目覚める時がくる。 目覚めていても、眠っていても主イエスと共に生きるようになると言うのです。 第三に、「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」としてパウロが語った「結びの言葉」として、「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。」と記します。 一人一人のキリスト者の姿だけではない、キリストに結ばれた者どうしが織りなす「交わり」を通してキリストの体としての群れ全体の姿を表現するのです。 今まで自分への愛によって縛られていた私たちが、すべて神の赦しと救いに委ねることのできた喜びと感謝に満たされている。 パウロはこの喜びと感謝の間に、「絶えず祈りなさい」と結びつけます。 私たちは、イエスのみ名によって祈り、神との交わり、神によって用意された群れに、聖霊に導かれ加えられていく。 この「祈り」の積み重ねが、喜びと感謝を生み出していく。 神のみ言葉が蓄えられ、神の霊が注がれているところに、私たちの「祈り」が起こされ、喜びと感謝に満たされる。 神のご愛が注がれるところに、私たちの信仰による働きが起こされ、霊性が研ぎ澄まされていく。 私たちの思いがけない労苦が、私たちの忍耐を起こし、希望を生み出すのです。

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「逃れられない神の遍在」 詩篇139編7~12節 

2023-10-22

 いったい「どこに行けば、どこに逃れれば、主なる神から離れることができよう。」と、「神の遍在」を賛美しています。 ただ「どこにでもおられる」というだけではなく、「どこででも、私たちをご覧になっている。」 私たちがどのような存在であるのか、何をしようとしているのか、何をしてきたのかを、「ことごとく、すべてにおいて、究めておられる」というのはむしろ耐え難いことです。 「御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる」という賛美には、この耐え難い驚きと同時に、それを越える喜びの響きを感じます。 私たちは、できれば隠しておきたい誰にも知られたくないことがあります。 神から逃れることができないという「恐れ」があるのに、「どこにおいても、いつでも捉えてくださっている。 御心のうちに導いてくださっている。」と思うことのできるまでになった「喜び」、御手の中に私自身をついに委ねることができた「喜び」が同時に存在しているのです。 このことは、創世記に克明に記されているアブラハムとサラの老夫婦の姿に見る思いがします。 「あなたの子孫は、星の数ほどになる」とまで言われた主なる神の約束にもかかわらず、二人には子どもが授かりませんでした。 妻サラは、「わたしの女奴隷ハガルによって子どもが与えられるかもしれません。」と夫アブラハムに迫ります。 妻の願いを聞き入れたアブラハムはハガルを側女として、イシュマエルが産まれるのです。 思うように捗らない現状に耐えかねた人間の浅はかな姿です。 その途端、ハガルはサラを軽んじるようになる。 ところが、主なる神は「さきに語られたとおり、サラを顧みられたので彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。 それは、神が約束されていた時期であった。」と記すのです。 神のご計画は、神の時に果たされます。 それまでの神の沈黙の時は、私たちが整えられる大切な時期です。 アブラハムは、サラとともに自分たちの思いだけで動いてしまったことを悔いたでしょう。 しかし、アブラハムは、主の言われたとおり「サラが産んだ子をイサクと名付けた。」 主によって備えられた約束の子であると信仰を改めて表し、主が約束を果たしてくださったことを賛美したと言う。 しかし、そのイシュマエルがイサクをからかうようになり、サラは益々態度を硬化させ、「イシュマエルは、わたしの子イサクと同じ後継ぎになるべきではない」と、ハガルとイシュマエルを家から追い出すようにアブラハムに迫るのでした。 それぞれの立場を考えれば、どうすることもできない八方ふさがりの状況ですが、神はそこで介入されるのです。 なんと、「すべてサラの言うことに聞き従いなさい。 あなたの子孫はイサクによって伝えられる。」と、サラの一方的な言い分としか思えないようなことにしなさいと言われる。 このことは、人の思いだけでは納得することも説明することもできないことです。 しかし、神は「あの女の息子も一つの国民の父とする。 彼もあなたの子である。」とつけ加えるのです。 この神の呼びかけに、優柔不断の男にしか見えなかったアブラハムが素早く行動に出ます。 「次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。」と言う。 主なる神が追い出されたハガルとイシュマエルを支え、養いの執り成しを施すのです。 神の知恵と力にすべてを委ねて、周りの人々の批判を一切身に引き受け精いっぱいの責任をとって耐えるアブラハムの姿ではないでしょうか。 見える世界ではサラの思い通りのように見えますが、霊の世界においては神の御心であったのです。 神がすべて捉えてくださっていることを信じることができた喜びを、詩編は賛美しているのです。 私たちは、遍在しておられる神の前に立たされていることを先ず受け入れ、それに耐えることが、遍在の神の御心に触れる唯一の道なのではないでしょうか。

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「赦しを告げられて生きる」 サムエル記下12章1~14節

2023-10-15

 イスラエルの王として立てられたダビデ王が過ちを犯し、その過ちを指摘され悔い改める出来事が記されています。 アンモン人との戦いの最中、エルサレムの王宮の中で起きた出来事でした。 兵士ウリヤの妻バト・シェバを見染めると、夫ウリヤが戦場に赴いていることをいいことにしてバト・シェバを王宮に呼び入れ、こともあろうに子どもを宿してしまった。 問題はそこに止まらず、困惑したダビデがウリヤを戦場から呼び戻し、自宅に戻させ妻と一夜をともにさせようとした。 自分の犯してしまった過ちを隠ぺいするための小賢しい動きです。 王に対しても、軍律に対しても忠実なウリヤは自分一人だけ戦いの最中に家に戻るわけにはいかないと申し出を断る。 目論見が失敗したダビデは権力を濫用し、ウリヤを激戦の戦場に向かわせ、戦いの中で死なせるようにとダビデは命じたと言う。 思惑通りに事が運んだ後、夫が戦死しやもめとなったバト・シェバをダビデは何事もなかったかのように宮殿に迎え入れ、自分の妻とし宿した子を設けるのでした。 人として、一国の王として、過ちに過ちを重ねる姿、陰険な権力の行使者として悍ましい事実を聖書はわざわざ記すのです。 「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。」 「なぜ主のみ言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか」と主なる神から問われても仕方のない事実でした。 主なる神は見逃さず、「主はナタンをダビデのもとに遣わされた。」と言います。 「ナタン」は、主のみ言葉を伝えるダビデ王に仕える預言者です。 そのナタンを主はダビデのもとに遣わし、一つの物語を語らせるのです。 「豊かな男と貧しい男がいた。 豊かな男はたくさんの羊や牛を持っていた。 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかには何一つ持っていなかった。 ある日、豊かな男に一人の客が訪れた。 彼はその旅人をもてなすのに自分の羊や牛を惜しみ、貧しい男の小羊を取り上げて自分の客に振る舞った。」という内容でした。 ダビデは、この物語が自分に向けられていることに気づかず、「そんなことをした男は死罪だ。 小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。」と即座に語った直後、「そんなことをした男とは、あなただ。」とナタンはダビデに単刀直入に告げるのでした。 主なる神は、ダビデの家臣であるナタンを用いてわざわざ物語を語らせ、ダビデの心の奥底にあるものを呼び起こし、悔い改めに導いておられるのです。 私たちの悔い改めは、この神の憐れみに対する応答、神のもとに立ち帰る恵みを受け取るということです。 主が招いて呼びかけてくださらなければ、私たちの悔い改めは起こり得ないのです。 私たちはどうしても過ちを犯してしまう存在です。 その過ちの事実を過ちを犯した相手に対して告げる前に、先ず神に対する過ちとして赦していただかなければならないのです。 ナタンは、主なる神がダビデに注がれた恵みの数々を思い起こさせ、そのうえで当然の報いを宣告するのです。 「わたしは主に罪を犯しました」とだけ記されていますが、この時のダビデの苦闘の心境は詩編51編に延々と歌われています。 「バト・シェバが生むことになるあなたの子は死ぬことになる」と宣言されて、この罪の結果を背負いながら、その涙を越えるほどの罪の赦しの喜びをもって祈りのうちに変えられるのです。 罪赦された喜びが、自らの過ちを悔いて、嘆いて、現実から立ち上がらせる。 犯した過ちが帳消しになったのではない。 罪の結果は残っている。 その過ちが拭われてその結果に縛られることが取り除かれる。 罪の結果を背負って、神に赦されながら生かされる者とダビデは変えられたのです。 この死んだ子どもに替わって新しく授けられたソロモンの系図から、主なる神はイエス・キリストを起こすのです。 私たち人間が犯す過ちを背負うために、イエス・キリストはこの世に遣わされたのです。

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「近寄って来た人たち」 ルカによる福音書15章1~7節 

2023-10-08

 当時のイスラエルの日常生活でのありふれた光景であった羊飼いの生き生きとした姿が、この譬えに映し出されています。 羊一匹たりとも傷つけられたり、養われなかったり、見失われることは、羊飼いにとって耐え難いことなのです。 ルカは「羊飼いが羊を見失う」と神の側から語り、マタイは「羊が群れから迷い出る」と人間の側から表現しています。 エゼキエル書(34:11-16)に、「見よ、わたしは自ら自分の群れを捜し出し、彼らの世話をする。 わたしは、自分の羊を探す。 ちりぢりになっている自分の羊を探す。 すべての場所から救い出す。 連れ出し、集めて、導く。 養う。 憩わせる。 わたしは、失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。」と主なる神は約束され、様々な人を用いてこの約束を果たそうとされたのです。 ところが、神の民である羊の群れの世話を委ねられた羊飼いの務めを、イスラエルの指導者たちが果たしていないと、イエスはこの旧約聖書のみ言葉をまるで踏まえたかのように、「見失われた者」や「排除されている者」のところに足を運び、その友になろうとされこの譬えを語られているのです。 ルカは、この譬えを記す前に、どういう状況でこの譬えが語られているのか説明を加えています。 「イエスの話を聞こうと近寄って来た人たち」と「ファリサイ派の人々や律法学者たち」に対して語られた譬えであったと言います。 「イエスの話を聞こうと近寄って来た人たち」とは、皆「徴税人や罪人」ばかりであったと言います。 「徴税人」とは、ローマ帝国の威を借りて私服を肥やす人たち、嫌われていた人たちです。 「罪人」とは、悪いことをした人と言うよりは病気や職業のゆえに律法の戒めを守ることのできないでいる人たちのことです。 「ファリサイ派の人々や律法学者たち」とは、自分たちこそ厳格に律法の戒めを守っている人、神の祝福に与る資格のある正しい人と誇りを持っている人たちです。 「罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」という彼らの批判に答えたのが「見失った羊」の譬えなのです。 「失われた者に対する神のご愛が、今ここに、すでにイエスと共にある」という喜び、「そのイエスによって失われた者たちが取り戻される」という喜びが語られているのです。 ルカはこの「見失った一匹の羊」を、「悔い改める一人の罪人」と言い換えています。 「野原に残された九十九匹の羊」を、「悔い改める必要のない多くの正しい人」と言い換えています。 悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない多くの人たちについてより大きな喜びが天にあると言うのです。 この「悔い改める」とは、「悔いて懺悔する」ということではなく、「立ち帰る、向きを変える」という意味合いです。 神の恵みに対する私たち人間の応答の姿です。 悔いや自責の念に閉じこもらないで、神の呼びかけを聴いたならその場に立ち上がり、踏み出し、神のもとに向きを変えて立ち帰るように。 神の恵みとしか言いようがない「賜物、約束」を喜んで受け取るように。 この恵みとご愛に満たされたところに、自らの身を投じ委ねていくようにという父なる神の御心が、今、ここに訪れている福音を語っているのです。 「罪人」とは、神のもとから離れていたことに気づいて、臆面もなく神のもとに立ち帰ろうとしている幸いな人のことです。 自らが神のもとを離れてしまっている「罪」の状態に気づくことができた人のことです。 神の恵みを体全体で知らされた人のことです。 神の呼びかけに諸手を挙げて立ち帰ろうと応答を示すことのできた人です。 「正しい人、自分に誇りを持っている人」と「罪人、神のもとに立ち帰ろうとしている人」を前に、「失われた者」を取り戻すことに父なる神の大きな喜びがあると語り、両方の人たちにそのことを伝えるために、イエスはこの譬えを用いて招いておられるのです。 父なる神は見失われてはならないと愛してくださっているのです。

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「新しいことをする神」 イザヤ書43章16~20節

2023-10-01

 イスラエルの国は紀元前722年に滅亡し南北に分裂します。 分裂した北イスラエル王国は、アッシリアに滅ぼされ民は連れ去られる。 一方、南ユダ王国もまたバビロニアに滅ぼされ、民は連れ去られる。 その後、エルサレム神殿も破壊され、再び民はバビロニアに連れ去られ、イスラエルの民が帰還するまでの間、バビロニアに囚人として留められるのです。 その時主なる神は、イザヤという預言者を通して、神殿の崩壊も故郷からの離散も主なる神の呼びかけに聞こうとしない自らの過ち、自らの歩みの結果であるとイスラエルの民に促すのです。 イスラエルの民は、それでも主なる神に選ばれた民としての誇りがあった。 かつて自分たちの先祖がエジプトから救い出されたように主なる神は必ず助けてくださると、その救いの出来事の回顧に浸り、「目があっても見えぬ民、耳があっても聞えぬ民」となってしまっていたのです。 過去の栄光に縛られ、今もってその時の再来を強く求めるイスラエルの民の、自分たちの姿を見つめ直そうとしない姿に失望した主なる神はイザヤを通して語るのです。 そのような不信仰の民であるにもかかわらず、主なる神は「恐れるな」と繰り返し語ります。 その理由を三つ述べています。 「恐れるな。 わたしはあなたを贖う。 あなたはわたしのもの。 わたしはあなたの名を呼ぶ。」と言います。 「贖う」という言葉は、「代価を払って買い取る」ということです。 バビロニアからイスラエルの民を解放し故郷に帰還させるために、バビロニアを倒すペルシャの王に代償を与えてイスラエルの民を買い取り、あなたがたを故郷へ連れ帰ると約束するのです。 新約聖書の時代風に言いますと、「わたしの独り子イエス・キリストの十字架という代償をこの地に君臨する者に与えて、わたしたちを救い出すために買い取った。」と語るのです。 「わたしは、あなたがを創造したあなたがたの主である。 あなたがたを贖ったあなたがたの主である。」から、もはや恐れることはないと言うのです。 ふたつ目の理由は、「わたしはあなたがたとどのようなところにおいても共にいる。 わたしは東から連れ帰る。 西から集める。 北に向かって行かせる。 南に向かって引き止めるなと言う。」から、恐れることはないと言うのです。 バビロニアから連れ戻すだけでなく、「救い主、贖い主」として選んだ民すべてを東西南北より一つに集めると、終わりの日になさることをすでに約束しておられるのです。 三つ目の理由は、「わたしの目にあなたがたは価高く、貴く、わたしはあなたがたを愛している。 だから、わたしの名によって呼ばわる者、わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者になる。」からだと言います。 主なる神を見ることも聞くことも拒んだイスラエルの民を、主なる神は「わたしの証人、わたしの僕」に選び出すと宣言する。 過去がどうであれ、私が選び出し一つに集められたイスラエルの民は、「わたしを知り、信じ、理解する」ようになると言う。 イスラエルの民の主なる神への背きにもかかわらず、恵みにより過去の古い姿を拭い去り神ご自身を示すまでの証人となる。 過ちを犯した者が贖い出され、約束されたことを必ず果たす神であることを証明する関係に変えられると約束されたのです。 「昔のことを思い巡らすな。 見よ、新しいことをわたしは行う。」と言われます。 神ご自身を悟るようになる「新しいこと」、神ご自身の大きな愛を悟り知らせるまでの「新しいこと」を、「昔のように」ではなく全く新しい救いとして行うと宣言するのです。 それほどまでに私たちが主なる神の前に高価で貴いものであると、過去の過ちを帳消しにしてくださって、愛してくださって、用いてくださるまでに引き上げてくださるのです。 「今や、それは芽生えている」と言います。 過去に縛られることなく、今まさに起ころうとしている新しい神の業に自らの霊の目と耳が開かれるようにと迫るのです。

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「神を見るとは」 コリントの信徒への手紙一13章12節 

2023-09-24

 「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。 しかし、そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。」 「今」は一部分しか、不完全にしか見えないが、「そのときには」全体が、完全に見えるようになる。 しかるべき「そのときには」、神が私たちを知っておられるようにはっきりと私たちは神を知るようになる。 神に知られることによって、私たちは神に知られていることを確信することになるとパウロは語ります。 私たちは様々な喜びや悲しみ、成功や挫折を通して神さまがどのようなお方であるのかをそれぞれに受け取っています。 しかし、災いとも思える解決の糸口さえ見出せない状況であるなら、神に信頼し続けることは至難の業でしょう。 「今迫られているこの痛み、苦しみはなぜですか」と問い質したくなります。 旧約聖書に記されているヨブという人物の凄まじい生涯が、このことを物語っています。 ヨブは「無垢な正しい人、神を畏れ、悪を避けて生きていた。 家族にも恵まれ、多くの財産を抱える東の国一番の富豪であった。」と言います。 これにサタンは、「ヨブが利益もないのに、神を敬うでしょうか。 神がすべて祝福されているからだ。」と、ヨブから家族や財産を奪うことを唆し、ヨブはすべて取り上げられ妻とふたりだけとなってしまうのです。 その時のヨブの言葉です。 「わたしは裸で母の胎を出た。 裸でそこに帰ろう。 主は与え、主は奪う。」 サタンは諦めず更に迫ります。 ヨブの体を奪うことを唆し、全身に皮膚病にかからせたと言います。 あまりの悲惨な姿に、「どこまでも無垢でいるのですか。 神を呪って、死ぬ方がましでしょう。」と呟くヨブの妻に語ったヨブの言葉です。 「お前まで愚かなことを言うのか。 わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」 財産や家族が失われようが、自身の体が壊されようが動揺することのない、神への信頼を失わないヨブでした。 ただ、なぜこのような苦しみに神が遭わせられるのかその理由が分からなかった。 「面と向かってその理由を答えてほしい。」と神に求めるヨブの姿を見た3人の友人は、因果応報の世界観から神の戒めに従うようにとヨブに悔い改めを迫る。 サタンは、ヨブの信仰は人間的な幸いを求める信仰であると迫るのです。 ヨブは神を依然として信頼するがゆえに、執拗に苦難の理由を神ご自身に求めるのです。 そのヨブに対する神の応答が「沈黙」でした。 私たちが神と出会う準備の時、私たちが神と直接出会うための備えの時です。 ヨブは待ち続け祈り続けます。 そのヨブに神は怒涛の如く、優しい言葉ではなく厳しい言葉で一気に呼びかけるのです。  大地を示し、いかにヨブの存在が小さなもの、弱いものであるかを見つめさせ、「わたしに答えてみよ。」と迫るのでした。 神の答えは苦難の理由を告げることではなく、ヨブ自身が変えられることでした。 ヨブの状態は何ら変わらないのに、この苦しみに対するヨブの向き合い方が変えられていくのです。 ヨブが今まで求め続けていた苦難の理由の回答を得る必要がなくなるまでに変えられたのでした。 神との直接の出会いによって、ヨブは自分の頭や目や耳で分かっていたことが一部分であり、不完全であり、一時的なものであったこと、苦難の理由が分からなくとも自分の思いをはるかに越えた神のご計画があることを思い知らされたのでした。 神が沈黙の末に備え面と向かって出会ってくださったから、ヨブがありのままの姿を神のみ前に曝け出し祈りの格闘をしたから、ヨブは神に知られる者、その名を刻まれる者となったのです。 この世界を支え導いておられる「隠された神」に出会うことができる。 神に捉えられ、知られ、その名が神の国に刻まれていると喜ぶことができるようになる。 おぼろげにしか見えていないところから解放されて、「はっきりと知られているように、はっきり見ることになる。」とパウロは語るのです。

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「パウロの語る信仰、希望、愛」 テサロニケの信徒への手紙一1章2~10節

2023-09-17

 パウロたちは、アジアからエーゲ海を渡ってフィリピ、テサロニケへと現在のギリシャに入って行きます。 ヨーロッパ宣教の始まりです。 テサロニケの信徒への手紙は福音書が書かれる前のパウロが書いた最も古い手紙だと言われています。 テサロニケでの宣教は、ユダヤ人の会堂で「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 ユダヤ人もギリシャ人もない。 奴隷も自由な身分の者もない。 男も女もない。 イエス・キリストにおいて一つである。」と語り始めたものですから、大変な反発を招いたことは容易に想像がつきます。 ここから多くのユダヤ教からの改宗者が出たことから、ユダヤ人たちは妬み、暴動を起こしてパウロたちを追い出したのです。 しかし、生まれて間なしの教会は、ユダヤ人の会堂から個人の家の教会に移り、多くのギリシャ人、女性たちがパウロたちの伝えた福音に従ったと言います。 指導者たちを失ってしまった何も整っていない生まれたばかりの教会の群れが、蒔かれた種のごとく順調に育っている。 そのことを聞かされたパウロは、「あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。 私たちは、神のみ前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。 この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。」と言うのです。 この感謝の捧げものが、喜びと感謝にあふれたこのテサロニケの信徒への手紙なのです。 パウロの語った有名な「信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。 その中で最も大いなるものは愛である。」(コリントⅠ13:13)という言葉の原形がこの手紙の3節に表されています。 「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めている。」と言います。 「信仰」に働きを、「愛」に労苦を、「希望」に忍耐を加えているのです。 「信仰によって働く」とは、神の側からの一方的な恵みに、私たち人間の側が応えるということでしょう。 神の恵みが注がれた者は内に働くものが溢れ出て、それに応えた生活、生き方を通して福音の恵みを伝えていく、分かち合うはずだと言います。 「愛のために労苦する」とは、愛の対象である人の重荷を一緒に担っていくということでしょう。 このような私の重荷を主イエスが背負ってくださったのだから、もう一人の私、隣人にも注がれている愛を分ち合っていくということです。 自分に注がれた「愛」をもって「愛する者」をもつことの喜びが語られているのです。 「希望をもって忍耐する」とは、「イエス・キリストに対する」という言葉が加えられています。 イエスを信じたばかりに誹謗中傷に遭っているテサロニケの教会の人たちが、目に見える現実の希望ではなく、終わりの日、イエスが再び現れ救いを完成してくださる時に必ず報われるという希望に生きている。 神ご自身がイエスを通してずっとご覧になっていてくださって、捉え続けてくださっている。 その「証し」が成し遂げられるまでの時の流れを歩むことを「忍耐」という言葉で表しているのではないでしょうか。 神と人との垂直の関係、人と人の水平の関係、私たちが歩んでいる歴史上の時の流れと神の秘められた計画のうちにある救いの時の流れの関係、この三つの座標軸に、福音を信じる者とそれを拒む者との違いがはっきりと見えてくる。 この三つの方向性は、同じ一つの力、聖霊の導きによって果たされるものです。 主イエス・キリストに結ばれているところからあふれ出てくる「信仰、希望、愛」が、この地上においても現れ出てくる。 この座標軸の源はイエス・キリストご自身であり、この地上と神の国は結ばれているのです。 そこに、主イエスに結ばれた「信仰、希望、愛」の姿が生まれ出てくるとパウロは語るのです。

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「パウロが語る信仰者の姿」 コロサイの信徒への手紙4章2~6節

2023-09-10

 パウロは、コロサイの教会が異質な福音の教えに惑わされ混乱していると、教会の創立者エパフロスから聞いて、「そのことを聞いたときから、わたしたちは絶えず、あなたがたのために祈り願っています。 人間の言い伝えに過ぎない哲学、世を支配する諸霊に気をつけなさい。」と概ね三つの祈りをもって語り始めます。 最初の「祈り」は、「霊によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟るように。」(1:9)と祈ります。 先ず、神の御心を知ること、神ご自身を悟ることだ。 神の起こされる事実から味わい知った最高の知恵と理解を知ることだ。 「主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。」(1:10)と言うのです。 二つ目の「祈り」は、「神の力に従い、強められ、どんなことにも根気強く耐え忍ぶように。」(1:11)と祈ります。 数々の重荷や十字架、試練に耐えるところに、神の業は鮮やかに働く。 神の知恵と力がどれほど素晴らしいものであるかを体全体をもって知ることになると言うのです。 三つ目の「祈り」は、「喜びをもって、あなたがたが恵みに与れるようにしてくださった御父に感謝するように」(1:12)と祈るのです。 御子イエス・キリストを通して成し遂げられた御父の救いの業、「世の初めから代々に渡って隠されていた秘められた計画」(1:26)が明らかになって、その救いの業を受け取って感謝するようにと言うのです。 この三つの「祈り」の根拠を、「あなたがたは神に選ばれ、神に愛されている」(3;12)からだ。 「あなたがたが、主イエス・キリストを受け入れた」(2:6)からだと言うのです。 神の側の働きと私たち人間の側の応答と決断が相俟って、隠されていた「秘められた計画」が明らかにされた。 だから、「キリストに結ばれて歩みなさい。 イエスによって父である神に感謝しなさい。」と祈り、この手紙の最後のまとめの「勧めの言葉」として集約しているのです。 先ず、「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」と言います。 「目を覚まして」とは、キリストがはっきりと見えるように、見失わないように、見えるこの世の力に目を奪われることなく、霊の目と耳が開かれるようにということでしょう。 「ひたすら」とは、生活の節々で、どんなことでも祈り続けるということでしょう。 パウロは、「同時にわたしたちのためにも祈ってください。」と、互いの「祈り」の助けを求めるのです。 次に、「神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。」祈りなさいと言います。 御言葉を受け取るだけでなく、御言葉を語ることができるように。」「神が門を開いてくださるように」と祈りなさいと言うのです。 本来、神のみ言葉を語るということは、人間にとって神の働きがない限り不可能なことです。 「語る」ためには、「聞く者」に対する祈りが必要です。 神のみ言葉を最初に聴かなければ語ることができません。 一方で「語る者」に対する「聞く者」の「祈り」が必要です。 「祈り」が一体となって、礼拝が深められ、外に向かって「宣教」が動き始めるのではないでしょうか。 私たちは、神御自身をすべて理解し、すべて受け入れることができず、受け入れやすいものに置き換えてしまう未熟さや弱さや貧しさをもっています。 「語る者」の唇からそれらは取り除かれなければなりません。 しかし、そのような私たちを、神は忍んで語りかけ、私たちの応答を待っておられるのです。 決して、神は強制などされないし、断罪などなされない。 私たち人間に選び取る決断の自由を与えて、待っていてくださるのです。 パウロは、コロサイの教会の人々に、この世に生きる喜びと苦しみと死を超えた希望がすでに与えられていると、神への信頼の中に感謝と喜びをもって生きるようにと祈っているのです。

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「終わりから始まる新しい生」 マタイによる福音書27章57~66節 

2023-09-03

 イエスが十字架上で息を引き取った後の週の初めの日の復活のわずかな間の、イエスが「葬られる」という埋葬とそれにともなう人間の姿が織りなす聖書箇所です。 イエスは人間として、この地上での働きの終わりを迎え、やがて迎えるはずであった将来が「葬られた」のです。 この箇所の主役は、無言のまま葬られたイエスです。 脇役に、金持ちで、ユダヤの最高法院の議員であったというアリマタヤ出身のヨセフが登場します。 イエスの遺体が納められていた「墓の方を向いて座っていた」ふたりのマリアも登場します。 このふたりの女性が、週の初めの日の早朝の復活の出来事の重要な生き証人となるのです。 また、イエスを邪魔者としてきた祭司長たちとファリサイ派の人たち、ローマ総督ピラトや番兵たちも登場します。 ここに一切登場しない、一言のセリフもない死者となって葬られたイエスが、すべての脇役たちを動かしている。 この地上の存在を失ってしまったイエスが、この世の人たちをそれぞれに用いているように思わされるのです。 
 アリマタヤのヨセフは、「神の国を待ち望んでいた」が「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れてそのことを隠していた」と言われています。 イエスの弟子として公然とイエスに従った多くの弟子たちが、十字架の処刑後には雲散霧消のごとく逃げ去ってしまってここに登場しない姿が浮かび上がってきます。 アリマタヤのヨセフは彼らとは真逆に、意を決して立ち上がるのです。 ユダヤの国からは異端者および神を冒涜する者として、ローマの国からは反逆罪による十字架刑による最も重い死刑判決を受けたイエスです。 そのイエスの遺体を引き取って、埋葬するために渡してくれるようにとローマ総督ピラトに申し出た。 自らが用意していた「新しい墓」にユダヤの慣習に従って丁寧に収めたと言うのです。 イエスの弟子であることをひた隠しにしてきたヨセフが変えられて、公然とイエスの弟子であることを表すまでになった出来事であった。 ただ悲しみに包まれて墓の方を向いて座っていただけのふたりのマリアもまた変えられて、イエスの遺体を納めた場所を見届け、更に「イエスの遺体が埋葬された墓」が「空の墓」となったことの最初の証言者となった。 思い通りの展開となって安堵感に浸っているはずの祭司長たちやファリサイ派の人たちは、イエスが復活するかもしれない、イエスの弟子たちが遺体を盗んでイエスが復活したと言いふらすかもしれないと、イエスの亡き後もイエスを恐れ、埋葬の警備を企み脅えていたと語るのです。 私たちの現実の姿は、意気消沈してバラバラに逃げ去った多くの弟子たちの姿、言い知れぬ悲しみと失望を乗り越えて埋葬を申し出たヨセフの姿、過去の方だけにしか目を向けられないふたりのマリアの姿、企みのうえに企みを重ねて不安と危惧に脅える祭司長たちの姿でしょう。 「復活」は死んで生きるということです。 自らの作り話で飾る者の隠されたものがすべて明らかにされる。 今までとは違った道を歩もうと一歩踏み出した者に変えられる。 逃げ去った者が再び取り戻されようと準備されていく。 失望が失望のままで終わらない。 人間の小賢しい企みはその思い通りには終わらない。 すべては、これから起こる復活の朝に明らかにされる。 そのためのイエスの葬りであったとマタイは「葬られた」事実と、隠された父なる神のご計画を記すのです。 ヨセフやふたりのマリアたちの悲しみも葬り去られなければならない。 敵対する者の墓の警備も、祭司長たちの不安も打ち砕かれなければならない。 すべての人びとの救い主となるために、この地上で葬られなければイエスは神の国に立ち戻ることができなかったのです。 その出来事の証言者として、ヨセフもふたりのマリアも祭司長たちやローマ総督や番兵も用いられたのです。

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「キリストに結ばれた神の子」 コロサイの信徒への手紙2章6~15節

2023-08-27

 コロサイの教会の問題は、教会の人たちの信仰の中味の問題であったようです。 信仰の核心部分と枝葉の部分、神さまの働きの部分と人間の働きの部分が混ざり合って、信仰の核心部分がぼやけてしまっている。 そのことに気づいていない、気づいていたとしても成り行きに任せてしまっているところにパウロの危機感があったようです。 パウロは、「人間の言い伝えにすぎない哲学、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい」と言います。 「哲学」と言いますから、洗練され、分かりやすく説明されていたのでしょう。 むしろ、人間の欲求に見事に応え、受け入れやすいものであったのでしょう。 「実態、本質」を、人間の造り出したもので飾って、装って、隠して、見えなくしてしまう。 見たくもない、聴きたくもない「実態、本質」に目や耳や心を閉ざし、受け入れやすいものだけを簡単に受け入れてしまうのです。 パウロは、「上にあるものを求め、心に留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。 むなしいだまし事は、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。」と言います。 キリストとそれ以外のものを一緒にしてはならないその理由を、「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから」と言います。 この言葉には、様々な信仰告白が含まれています。 ナザレの人イエスを自分たちの「主」とした。 人間イエスを「キリスト、救い主」とした。 「キリスト」を通して、自分たちの救いを得た。 人間であり神に遣わされた独り子である「キリスト・イエス」を受け入れた。 このキリストの十字架の死と復活にあずかることによって、自分たちも神の子とされ、新しく生まれ変わり、地上の体が贖われる。 その神の約束を受け入れたと告白しているのです。 キリストの名の他には、自分たちの救いはない。 救いの核心は、このキリストご自身である。 自分たちのために果たされた救いの業を感謝し、喜んで、子どものように受け入れるだけであると語るのです。 この「受け入れた」という言葉には、私たち人間の側の「応答、決断」の意味合いが込められています。 すべては神が用意してくださった働きの結果です。 しかし、神が用意してくださったものを、私たちは決断し後押しされて受け取ったのです。 神の国に入り、神の子となるようにと願い、その道を選び取ったのだから「キリストに結ばれて歩むように、キリストという核心から逸れることのなく歩むように。 キリストに根を下ろし、造り上げられ、教えたとおりの信仰をしっかり守り、あふれるばかりに感謝しなさい。」とパウロは勧めるのです。 「キリストに根を下ろし、造り上げられ」とは、神の働きの結果です。 一方、「教えたとおりの信仰をしっかり守り、あふれるばかりに感謝する」とは、私たち人間の応答、決断の結果です。 私たちはこの地上で、神の働きと私たち人間の側の働きの真っ只中に生かされています。 パウロはこのことを、「バプテスマ」を受けるという出来事に結びつけます。 「過去」において、「わたしたちはキリストと共に葬られた。 死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられた。」と言います。 「キリストの内には、満ちあふれる神性が、見える形をとって宿っている。」から、「現在」では、「あなたがたはこのキリストにおいて満たされている。 あなたがたの命はキリストと共に神の内に隠されている。」と言うのです。 だから「将来」、隠されたものが現れ出る時がくる。 「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。 それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどです。」と言われています。 このキリストに結ばれて生きることこそ、バプテスマという聖霊による神の子の誕生です。 神の働きと、私たちの応答、信仰がなせる業なのです。

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