「神の安息という祝福に与る」 コリントの信徒への手紙二4章14~18節
「天地創造の由来」には、第一の日から第六の日までの六日間で、人が生きる「時」と「場所」、人の生きる舞台が神によって創造され、神はお造りになったすべてのものをご覧になって、「見よ、それは極めて良かった」と言われ、この第七の日に、「神はご自分の仕事を完成され、安息なさった」ので、第七の日を「神は祝福し、聖別された。」と言います。 神は六日間ですべてを完成され、この七日目の日を、再び迎えることのない日として、第一の日から第六の日までとは全く違う一日として分離され、安息という形で完成された。 神によって創造されたみ業を憶え、神の安息に私たちも預かり、神の祝福を感謝して喜んで受け取る日とされたのです。 神のなさったすべての業は第七の日に向けてなされたものではなかったか。 神のこの祝福に覆われた命、神の国へと向かって私たち人間が憩うことができるようにと、神は第七の日を設けられたのではないだろうか。 そうであるのに、私たち人間が神から与えられたもので生きていこうとせず、神によって与えられている場所を、自ら所有するものであるかのように支配することで、神のもとから離れてしまった。 そこで、私たちを代表してノアでありアブラハムに象徴される「信仰」を注いでくださった。 それでも揺れ動く私たち人間を憐れんで、主イエスを私たちのもとにお遣わしになって、「信仰」によって神のもとに立ち帰る唯一の道を切り開いてくださったイエス・キリストと共に、イエス・キリストの十字架と復活のゆえに、第七の日の神の安息という祝福に与るようにと、忍耐しつつ招き入れてくださる。 このことに気づかされた最初期のキリスト者が、主イエスの十字架の死から復活された日として、週の初めの日に主なる神に賛美し礼拝をささげて「神の安息」に与る日としたのです。 パウロは、「地上の住みか」と人の手で造られたものではない「天にある永遠の住みか」があることは知っています。 「天にある永遠の住みか」をこよなく願って、「地上の住みか」で苦しみ悶えていますと言います。 死ぬはずのものが新しい命が授けられるようにと、父なる神が御子を地上にお遣わしになって「永遠の住みか」に至る道を切り開いてくださったことを知っている。 だからこそ、「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいくことができるようになった。」 「見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。 だから落胆しません。」と言うのです。 その理由の一つは、「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると知っているからだ。」 もう一つの理由は「多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰するようになるためだ」と言うのです。 神の子として裁かれるためではなく赦されて御前に立たせてくださる「約束と希望」、私という小さな存在の上に神の働きが現れ出ることになるまでに主イエスに結ばれること。 だから「落胆しない」と言うのです。 「たとえ外なる人は衰えていくとしても、内なる人は日々新たにされていきます。」 イエス・キリストと共に、イエス・キリストのゆえに、常に新しく創造してくださる、日々新たにされていく。 神のもとから注がれる新しい命を、信仰によって砕けた魂によって受け取っていく。 衰えていく「外なる人」を支えながら、日々新しくされている「内なる人」をも宿しながら、主イエスに従ってみて味わっていく。 そこに恵みと希望があると言うのです。 「一時の軽い艱難が、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらす。」と断言するのです。 私たちは、神によって日々新しくされていく「信仰」に生きる者です。 主イエスと共に神の子として一緒に神の御前に立つ者です。 「神の安息」という、消えてなくならない「祝福」に憩うために立ち帰る者なのです。 そのために主イエスは近づき招いてくださっているのです。
[fblikesend]「信仰による新たな生命の誕生」 ヨハネによる福音書11章28~44節
復活という出来事は理性では受け入れにくい、人から説明を受けて納得しようとすることではなく、自分のありのままの姿を通して見つけ出していくものであるのかもしれません。 「イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。」と言います。 「村の中」には、「多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」、「本人であるラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」と言うのです。 そうした中、「イエスが来られたと聞いた」マルタは真っ先に、悲しみに包まれている「村の中」から「村の外」ヘ、イエスのもとへ、「迎えに行った」と言います。 悲しみに包まれている「村の中」を決然と去って、声にならない望みを抱いてイエスのもとに駆け込むこよなくイエスを愛する姿をマルタは見せるのです。 「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と思わず語るのです。 なぜ早く来てくれなかったのかという恨み言を言っているのではなく、「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」とマルタは語り、イエスもまた「あなたの兄弟は復活する」と即答するのです。 「終わりの日に復活することは存じております」と反応したマルタが、「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。」というイエスのみ言葉を引き出したのです。 マルタは、「今、ここに」共にいてくださるイエスを仰いで、「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」という信仰告白に導かれたのです。 そのマルタは間髪を入れず、「村の中」に佇むマリアに「先生がいらして、あなたをお呼びです。」と耳打ちし、マリアは「これを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。」と言います。 「イエスを見るなり足もとにひれ伏し」、マルタと全く同じく「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と発し、イエスのおられるところには「死」は存在しないという信仰に導かれるのです。 この復活の出来事の主役は、むしろラザロ本人ではなく、キリスト者の象徴として招かれたマルタとマリアであるのではないでしょうか。 イエスが見られたものは、墓の中に葬られているラザロ、「死」の現実の前に諦めと途方に暮れて泣いている人間の姿です。 人間をここまで悲しみに叩き落す「死」の現実に対し、また、「今、ここに」復活であり、命であるわたしが訪れているのに、頼るべき神の力に依り頼もうとしないで諦める人間の姿に対し、イエスは「心に憤りを憶え、興奮され」、「涙を流された」のです。 「死」の現実の前に絶望し泣き叫ぶしかない私たち人間を憐れまれて、「ラザロが葬られているところ」に立ち向かおうと、「村の外」から「村の中」へ、死が支配しているところへ分け入って行こうとされる。 「ラザロを死なないようにはできなかったのか」とつぶやくユダヤ人たちと、イエスによって整えられた信仰の目によって見つめるマルタとマリアを前にイエスは祈ります。 神の栄光がここに現れ出る。 それは周りにいる群衆のため、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じさせるため、そのことを確信し「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。」と祈りを終え、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれたのです。 ラザロの復活だけではなく、イエスが復活であり、命であることを信じることができたマルタとマリアが変えられたことを語るのです。 「ラザロが葬られたところ」こそ、愛するラザロのために自らの命を差し出されたイエスの体を横たえるところ、神の働き、神の栄光の業が果たされるところであったのです。 イエスは布や覆いに包まれた「死んでいた人」を「ほどいてやって、行かせなさい」と、「村の中」から「村の外」へ、イエスのもとへと後押しをしてくださっているのです。
[fblikesend]「つまずきの後に遣わされる者」 マタイによる福音書11章2~19節
バプテスマのヨハネと主イエスとの、ヨハネの弟子たちを通しての「対話」が記されています。 バプテスマのヨハネの宣教の働きと主イエスの宣教の働きを結びつけるかのように記しています。 そこには連続性があるようで、一方、古いものが寸断されて、新しいものが起こされた非連続性をも感じさせます。 バプテスマのヨハネの宣教の働きは、激しいものでした。 「悔い改めよ。 天の国は近づいた。」と語り、「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川でバプテスマを受けた。」 そのヨハネの働きを耳にして、「イエスが、故郷ガリラヤから出て来て、ヨハネからバプテスマを受けるためにヨルダン川のヨハネのところに来られた。」と言うのです。 そのヨハネが今では、「牢の中にいる」と言う。 ヘロデ大王の子の妻ヘロディアの不倫を厳しく咎めたヨハネは、ヘロディアの策謀によって死海の東岸のマケロスの要塞に幽閉され、ついには首をはねられることになるのです。 ヨハネの弟子たちが、ヨハネの遺体を引き取り、葬り、イエスのところに行って報告したと言うのです。 そのことを聞いたイエスは、ガリラヤに退き、ヨハネと同じように、「悔い改めよ.天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められたのです。
ヨハネは牢の中で、自分がここから救い出されることを哀願するのではなく、「来るべき方は、あなたでしょうか。」という問いを、牢の中から自分の弟子たちを送ってイエスに尋ねるのです。 もはや牢の中から出ることができないと悟ったからなのか、かつてイエスに抱いていた思いが揺らいでいることに気づいたのか。 「来るべき方」とは、終わりの日にくると期待されていたメシアのことです。 宣教の言葉は同じであるにしても、宣教の根本的方向の違いを感じ始めたのでしょう。 イエスは、このヨハネの問いに直接答えることなく、事実だけを伝えようとするのです。 イエスは尋ね求める者に、本人が期待しているものを与えるのではなく、福音の事実だけを示してご自身を信じるのかどうか、質問者の決断を迫るのです。 イエスは、「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」と、人の言葉に先立つ、神の起こされた出来事の前に、空虚な飾られた言葉を沈黙させられるのです。 今度は、イエスが尋ね求めてきた者を遣わすのです。 ヨハネは、迫りくる「神の怒り、裁き」を目の前にして、悔い改めを迫る預言者でした。 自分が期待したメシアとしてのイエスにつまずいたのです。 イエスは福音の事実を伝え、この神の働きを自分のこととして受け取る以外に、メシアとしてのイエスに出会うことができないと言われているのです。 つまずく者とならないで、それらを乗り越えてイエスの到来によって福音の事実が実現していることを、イザヤの預言にはなかった「死者の生き返り」を新しく加えて告げるのでした。 「神の怒り、さばき」とは、神のもとを離れてしまった世界を取り戻そうとする忍耐のともなった決断なのです。 「災いだ、幸いだ」と言うのは、神の嘆きであり、喜びなのです。 そのうえで、「わたしにつまずかないものは幸いである」と言われているのです。 「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。 新しい神の恵みの世界が始まる宣言が、イエスの十字架と復活の事実によってこれから果たされる。 つまずかないでその変化をしっかり受け取るようにと言われるのです。 荒野で「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣べ伝えていたヨハネを「悪霊にとりつかれている」と揶揄し、社会からはみ出した人たちと食卓を囲むイエスを、「大食漢だ、大酒飲みだ、徴税人や罪人の仲間だ」とからかい、非難する人たちの時代は終わった。 福音の事実をしっかりと受け取り、喜び、感謝して、与えられている恵みに生かされる時代が始まったとイエスは言われるのです。
「もしここにいてくださいましたら」 ヨハネによる福音書11章17~27節
「ラザロの復活」は、イエスが起こされた七つの「しるし」の最後の「しるし」です。 ここまでの「しるし」によって人々の示した「見て信じる信仰」を越えて、「この病気は死で終わるものではない。 神の栄光のためである。 神の子がそれによって栄光を受ける。」ものであることを、ご自身の時を待って起こされた「しるし」なのです。 これらの「しるし」の働きの目的は、その働きに与った者、その働きを目撃した者が、その働きを通して変えられて、「イエスを神の子である。 神のもとから遣わされた救い主である。」と信じること、変えられて新しい命に生きることにあったのです。 ヨハネによる福音書の冒頭のみ言葉は、「言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」と始まって、最後にこの福音書が書かれた目的は、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(20:31)とはっきりと締めくくるのです。 この「しるし」を引き起こしたイエスに出会うその時、私たちはイエスに対する信仰を告白せざる得なくなる。 変えられて新しい命に生かされる者となるために、イエスはその時を待って、その集大成として「ラザロの復活」という「しるし」を果たされたのです。 ラザロの死体が横たわる墓にイエスが向かうことこそ、イエスが十字架に向かうこと、復活の命に与ること、そして父なる神のもとへ帰ることを指し示しているのではないでしょうか。
イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に4日もたっていたと言います。 ラザロは死んでいたということです。 イエスは、「もう一度、ユダヤに行こう」と言われた。 この「行く」という言葉には、イエスの強い意志が刻まれた言葉が使われています。 14章に出てくる「心を騒がせるな。 神を信じなさい。 そして、わたしをも信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。 もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」と言われた時に使われた「行く」という言葉と同じ強い意志の言葉が使われているのです。 死ぬことを決断して選び取った言葉です。 このイエスの死は、死で終わるのではなく、復活を通して父なる神のもとに行くための死である。 イエスのご愛の中に死んだ者、眠っている者を、父なる神のもとで起こすための死であるのです。 マルタはイエスに会うや否や、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と言います。 すぐにイエスがここに来なかったからラザロは死んでしまったとは言っていない。 「もしイエスが傍近く、共にいる」ならと、絶望的な悲しみの真っ只中においても、イエスに対するわずかな期待の表明に響きませんか。 イエスに出会い心情の変化を感じさせるマルタは、「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と語ります。 そのマルタにイエスは、「あなたの兄弟は復活する」と断言した。 そして、「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。 このことを信じるか。」と迫ったのです。 これにマルタは、「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」という信仰告白に導かれたのです。 肉体が生きているだけの存在が横たわる墓場に、命の息を吹き入れるためにイエスは時を待って、ふさわしい時に来てくださった。 十字架の死と復活と昇天を通して、神のもとへの道を切り開いてくださったのです。 罪と死に縛られない新しい命を与えてくださった「しるし」が、ラザロの復活ではなかったでしょうか。
「ある病人に対するイエスの呼びかけ」 ヨハネによる福音書11章1~16節
「ある病人がいた。」と、無名の人が登場します。 最初は「病人」として身体的な病いから、ついには肉体的な死に至った人、2000年前に生きて病気にかかって死んで、イエスによってよみがえらされた人として登場するのです。 その人はマリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロという名前であったと言います。 このラザロという名前は、ありふれた名前であると言われています、 「神が助けをもたらした」という意味をもつ言葉のギリシャ語読みです。 ラザロという実名の方ではなく、むしろ実名に込められた意味の方に思いが込められているように思います。 この「ある病人」とは、神の助けによって生かされる人、イエスが愛しておられる人、その代表として登場しているのではないかと思わされます。 死んだ後も、復活させられた後もイエスに愛されているキリスト者の一人であったと、「ある病人」は登場しているのです。 イエスご自身が、父なる神のもとから遣わされた神の子であることを示すために、七つの奇跡が起こされました。 その最後の「しるし」として引き起こされた出来事が、この「ラザロの復活」の出来事でした。 単純な「死から生へのよみがえり」ということだけでなく、「墓の中から出て来る」ということが、「神の栄光のためである。 神の子がそれによって栄光を受けることなのである。」ということとつながっていく。 ラザロの姉妹マルタとマリアたちとイエスの対話の中に、「信じる」ということが密接につながっていく。 この出来事でイエスの公の活動は終わり、一気にイエスの十字架と復活へと突き進む、ヨハネによる福音書全体の分岐点となっている。 その中心に位置している大事な「しるし」であるように思わされるのです。
み言葉は、一対一で神の側から語られた、その人にしか分からない人生のストーリーに呼びかけられた体験を味わうものです。 だれにでも通用する普遍的な教えを語っているのはない。 病気や死という肉体的なものから、イエスご自身のご愛、新しい復活の命に生かされるという霊的なものを辿って語られているのです。 ラザロは、「わたしは彼を起こしに行く。」とイエスに呼びかけられる一人の人物として描かれています。 イエスに愛されている人として登場しているのです。 マリアは、「主イエスに香油を塗り、髪の毛で主の足を拭った女である」、「行動でその信仰を表すキリスト者である」と紹介されています。 マルタは、「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。 このことを信じるか。」とイエスに尋ねられ、「はい、主よ、わたしは信じています。」という「信じる信仰」に導かれたキリスト者として紹介されています。 ラザロは癒される者、救い出される者、「死で終わらない者」として登場し、イエスはラザロの墓の前に立ち、心に憤りを憶え、涙を流し、「墓石をとりのけなさい。 ラザロ、出て来なさい。」と大声で叫ばれたのです。 ラザロの復活の根拠は、ラザロがイエスに愛されていたことでした。 イエスの決断と呼びかけがあったことです。 神の側の働きが先にあるのです。 その時の弟子たちの様子が記されていますが、何とも情けない有様です。 しかし、イエスはそのようなキリスト者たちを憐れんで、「信じる信仰」に至らせてくださるのです。 私たち人間が信じて勝ち取るようなものではなく、イエスの霊なる働きに支えられて、信じさせられたとしか言いようがありません。 信じることによってしか、人は新たな命を得ることができない。 キリスト者らしい姿になったとかという倫理的な状態を言うのではなく、新しい命を得た者、生き返っている、生かされている者に変えられているかどうかです。 そのために、イエスは「神のご愛を信じる信仰」、「復活であり、命である主イエスを信じる信仰」を注ごうとされるのです。
「新たに生まれさせるもの」 ヨハネによる福音書3章1~8節
イエスはその当時、様々な奇跡を起こして誰の目にも「奇跡」としか言いようがない「しるし」を通して、ご自身が父なる神のもとから遣わされてきた神の子であることを示されました。 この「イエスのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。」と言います。 一方で、そのイエスを、奇跡を起こし秩序を乱す者、人々を扇動する危険人物として、ユダヤ教当局は問題視するのです。 「ファリサイ派に属する。 ユダヤ人たちの議員である。」というニコデモという人物が登場します。 律法の教師であり、最高法院の議員であり、社会的にも恵まれた存在であったニコデモが、問題視されているイエスのもとに公然と昼間に訪れることはできなかった。 しかし、イエスが起こしている奇跡を目の当たりにして、神の力のようなものを身に着けたいと心躍らせて、人目を忍んで夜にイエスのもとを訪れたのでしょう。 ニコデモは、「あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。 神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」と言います。 ニコデモの精いっぱいの信仰告白、「しるしを見て信じる信仰」です。 イエスは人間のもつ限界を十分知り尽くしたうえで、新しい目が開かれるよう更なる信仰を求めるのです。 今の恵まれた自分を保ったまま、いつでも引き返すことのできる道をもったまま、イエスが起こすしるしを示す力を求めたニコデモです。 それを見て取ったイエスは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われた。 「しるし」の背後にある隠された神のみ心を見抜く信仰へ、神が共にいて生きて働いてくださるということがどういうことであるのかを知ろうとする信仰へ、更に、「見ないで信じる信仰」へと招くのです。 イエスは、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 肉から生まれたものは肉である。 霊から生まれたものは霊である。 新たに生まれることによって、神の国を見ることができる。」と言われたのです。 「肉」と表現されているものが自分自身に頼る生き方であるとするなら、「霊」と表現されているものは隠された神の働き、神のみ心に頼る生き方でしょう。 神の子でありながら、私たちと同じ肉体を背負ってくださったイエスは、どちらも併せ持つ「肉」の存在として、「肉」からでは切り開くことのできない道が、「霊」の呼びかけによって切り開かれていくと言います。 創世記には、私たち人間は神の息吹、神の霊を受けて初めて生きる者とされたと言います。 人は自らの意志と力で生きる存在ではなく、神の働きと神のみ心によって生かされる存在として形づくられたのです。 「新たに生まれる」とは、神によって新しくされるということです。 神によって生かされていることに気づかされると、先行きが見通せない中にあっても、神が私たちを生かし続けてくださっているという信仰へと変えられるのです。 この後、ニコデモは最高法院の議会の中で、イエスを弁護するために立ち上がったと言う。 しかし、わずかな抵抗によって、身の危険を感じ再び黙り込んでしまう。 ついには、議員という地位、律法の教師という名誉を剥奪されてもおかしくはない危険性を顧みず、公然と十字架刑によって命を奪われたイエスを手厚く埋葬するのです。 最初は人目を忍んでイエスを尋ねたニコデモが、劇的な変化を遂げるのです。 最初のイエスとの出会い、そこで蒔かれた小さな種がニコデモの心の中に宿り、芽を出し、育まれ、信仰の実がなっていったのです。 「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と、バプテスマの象徴である水から引き上げられ、新しい霊なる命に生きる者となる。 イエスの十字架こそ、神のもとを離れてしまった私たちをイエスご自身と共に神の国に引き上げるためのものであったと語るのです。
[fblikesend]「わたしたちは日のあるうちに」 ヨハネによる福音書9章4節
「生まれつき目の見えない人」のいやしの「しるし」は、単に「目が見えるようになった」ということに止まりません。 弟子たちはこの盲人の姿を見て、何の躊躇もなく「だれが罪を犯したからですか」とイエスに尋ねています。 その姿を、「罪」というものに対する「神の裁き」と受け止めています。 ユダヤの指導者たちも、律法の定めに反した安息日の行いであったことから、「定めを守らない罪人」としてイエスを捕らえようとします。 もし、このイエスがメシアであると公言する者がおれば会堂から追放すると定めたがゆえに、この盲人の両親は恐れて真実を語りません。 しかし、最初は「目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」としか言えなかった盲人が、次第に変えられていきます。 問い詰めるユダヤ人たちに、「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで聞いたことがありません。 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と述べるまでに変えられた。 案の定、会堂から追放された孤独なこの盲人に、主イエスは再び出会い「救い主を信じるか」と呼びかけるのです。 この盲人の口から、「その方はどんな人ですか。 その方を信じたいのですが。」という言葉を引き出され、「あなたは、もうその人を見ている。 あなたと話しているのが、その人だ。」と言われ、盲人は「主よ、信じます。」と答えてひざまずいたと言う。 「信じます」という告白に変えられたその人に、イエスは「わたしがこの世に来たのは、見えない者が見えるようになり、見える者が見えないようになる。」と言われたのです。 「見える」という言葉が「信じる」という言葉に密接に繋がっています。 この盲人の周りに動めく人々の捉える「罪」、「神の裁き」、「行い」と、主イエスを通して働く「神の業」が捉えるものとの違いがよく分かります。 主イエスは、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。 わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」(14:11-12) これから起こる十字架によるこの世の「死」によって姿は見えなくなるが、あなたがたのもとに聖霊が送られ、霊によって生きるイエスが私たちの内に宿り共に働くようになる。 目が癒されるとは、イエスと共に神の働きが起こされるということ。 イエスの言われる「信じなさい」とは、イエスと父なる神との交わりの中に、死に至らない生きる命の中に入って来なさいという招きの出来事であったのです。 イエスは、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(6:29)とはっきりと語っています。 「信じることによって生かされる」、「与えられる新しい命、み言葉に生かされる」ことが、「神の業」だと言うのです。 「罪」とは、見るべきものが見えていない、聞くべき言葉を聞くことができない状態、神のもとを離れていることに気づかず、どこに向かって生きているのか分からない状態を言うのでしょう。 そこから神が救うがために取り分けられることを、聖書は「裁く」と表現しているのではないでしょうか。 イエスはたった一人の盲人のもとに遣わされた者として、その目が開かれるために、ご自身を信じることを求められました。 世の光であるイエスを信じる時、初めて見えてくることがある。 イエスを用いて闇の中から救い出す神として出会ってくださったのです。 イエスと出会い、イエスの光に照らされ、自分の本当の姿を見つめることです。 イエスの光の前に立ち続け、共に歩んでくださるイエスを見失わないことです。 罪の赦しを与える神の救いの業があることを、未だ見ることも、聞くこともできない人々に伝え、証しすることです。 それらのことは自分の力ではなく、聖霊によって支えられると言うのです。 「日のあるうちに」私たちを用いて、今もって漂う人々を招いておられるのです。
[fblikesend]「神共にいますというしるし」 イザヤ書7章3~14節
イザヤが遺した「インマヌエル預言」が、新約聖書の時代にマタイによる福音書の中心的なメッセージとしてよみがえっていることに目を留めたい。 イザヤ書は当時の南ユダ王国の人々の姿を、「ぶどう畑」に譬えて、「わたしの愛する者は、肥沃な丘に ぶどう畑を持っていた。 よく耕して石を取り除き、良いぶどうを植えた。 その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り 良いぶどうが実るのを待った。 しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。 わたしがぶどう畑のためになすべきことで 何か、しなかったことがまだあるというのか。」と歌います。 ヨハネによる福音書(12:40)では、「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。 こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。」というイザヤが語るべき言葉は、神の厳しい御言葉であったと言うのです。 イザヤにとってみれば、「主よ、いつまで語るのでしょうか。」と尋ねるのが精いっぱいであったのでしょう。 それに対する神の答えは、すべてが奪い去られて、もはや自らの力では立ち直れないところにユダの人々は立たされる。 そこから初めて、イザヤを通して語られた神のみ言葉が、ユダの人々に聞き直される時がくる。 そこに立たされて初めて、新しい命が育まれていく。 「それでも、切株が残る。 その切り株とは聖なる種子である。」、神のみ心が刻まれた大切な命が残されている。 これがイザヤ書の中心メッセージです。 イザヤは、「落ち着いて、静かにしていなさい。 恐れることはない。」と、神に頼ろうとせず、自分の策と知恵、アッシリア帝国という目に見える力に頼ろうとするアハズ王に勧告するのです。 同時に、「あなたの神にしるしを求めよ。」と、真の助けが最もふさわしい時に授けられることに目を向けさせようと命令を降すのです。 しかし、アハズ王はこの先どうなるのか見通せない神の勧告よりも、目に見える一時的な安定と安らぎを求めてしまうのです。 そこでイザヤによって、「わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。」と言い、そのしるしこそ、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」と、「インマヌエル」(神共にいます)というメシア預言が出てくるのです。 神のみ言葉に聴こうとしない、目の前の敵を撃退するがために、もっと危険な敵に頼ってしまうという愚かさを示すことになったアハズ王に替わる新しい王の誕生をイザヤは望んだのかもしれない。 続いて即位する王もまた同じ過ちを犯し、希望を失いかけたイザヤは、主なる神による救いを求めてついに、11章1-2節において、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。 知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。」という、主の霊の注がれる真の救い主、メシア預言を「インマヌエル預言」として確信をもって語り始めたのです。 この預言がイザヤの生前にはユダの人々には響かず、失意のうちに40年間にわたる預言活動を終えたイザヤの死後、700年経った後、新約聖書の時代のマタイによってイエス・キリストの誕生の意味を、この「インマヌエル預言」に新しいイスラエルの誕生という希望の光を見出した。 イエス・キリストこそメシア、救い主、神の子の誕生の知らせだと聞き始めたのです。 この間の神の忍耐と、残された聖なる種子の働きによって、人々は神の預言の言葉を噛みしめ、味わったのです。 私たちは一時的な安らぎ、見えている安価な助けを求めるのではなく、「神共にいます」という呼びかけに、共に歩んでくださる神を、私たちのうちに受け入れて宿すことです。 主イエスは「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われたとマタイは福音書を締めくくっているのです。 主イエスの御言葉に生かされているという確信と安らぎのうちに、神の前に立ち続け、自分の姿を教えていただくことです。
[fblikesend]「クリスマスが訪れた後」 マタイによる福音書2章13~15節
遥か遠い東方の国の占星術の学者たちは、「ユダヤに新しい王が生まれた」と見て取って、確かめるためにユダヤを訪れたのです。 その知らせを素早く知ったユダヤの領主ヘロデは、「祭司長や律法学者たちを皆集めて問いただした。 その学者たちをひそかに呼び寄せ、見つけるように頼んだ。」と言います。 「星が先だって進み、幼子のいる場所の上に止まった。」と言いますから、学者たちがなぜエルサレムに寄り道をし、「ユダヤ人の王はどこにおられますか」と尋ねたのか疑問が残ります。 ヘロデ王は自分のためなら、自らの妻も親族も子供たちまでも処刑するという残酷さをもっています。 「ヘロデのところに帰るな」と神に告げられ、別の道を通って自分たちの国に帰った学者たちに騙されたとヘロデは知って、ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を一人残らず殺させたと言います。 そうしたことを背景に、「ヘロデが、この子を殺そうとしている。 起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。」と夢で神に命じられるのです。 ヨセフは、婚約中のマリアが聖霊によって身ごもっていることが明らかになった際、「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうとした」のです。 自分の正しさに心が奪われ自分の身を守ろうとする一方、マリアをかばおうともするのです。 そのヨセフに神は、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。 マリアは男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。 これは、預言者を通して言われていたことが実現するためである。」と夢で告げられるのです。 この時を境にヨセフは一転して、迷いながらもマリアを守り抜く決断をするのです。 夢から覚めたヨセフは、「起きて、夜のうちに幼子とその母マリアを連れてエジプトの地へ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。」と言います。 どれほどの期間がかかるのか先行きが見通せないままに、神のみ言葉に生きていこうとするのです。 マタイによるイエスの誕生の出来事は、このヘロデとヨセフの真の姿を鮮やかに浮かび上がらせています。 占星術の学者たちは、ヘロデという殺す側とヨセフという殺される側の間に立った人たちです。 学者たちは、星の輝き、神の導きだけに頼らず、エルサレムの人々に頼ろうとした。 私たちは迷いや思い煩いから、頼ってはならないものに一時的な安らぎを求めてしまう。 また、ヨセフにとってみれば、イエスを救い主として受け入れるということは、人生の根底が覆されるということでした。 マタイは、これがひとりの乳飲み子との出会いであった。 主なる神のご計画のためにヨセフが用いられて、生まれたばかりのイエスの命はヘロデから守られたと言うのです。 ヨセフを通して、占星術の学者たちを通して、またヘロデを通して、私たちが持ち合わせている本当の姿を様々に浮き彫りにしているのです。 それらの姿が強くなったり、弱くなったり、現れては消え、消えては浮かび上がってくるのです。 ヘロデが特別の悪人でしょうか。 自分の身のため、自分の欲のため、程度の差こそあれ、同じようなことがこの世の歴史の中で繰り返されています。 何もすることのできない乳飲み子が、それぞれの人物の真の姿を映し出すのです。 このお方が、「神共にいます」というインマヌエルの神として宿ってくださるとマタイは語るのです。 マタイの語るクリスマスは、このインマヌエルの神との出会いであったと言います。 イエスにおいて起こされることは、神ご自身が予め決意し、準備して起こされたことであるはずです。 私たちがこのイエスと共にある限り、神がご計画し、約束されたことだけが起こるはずです。 神が決意し、準備された恵みを受け取ろうとしない私たちの頑なな反発と、それに対する神の忍耐があるのです。 神は私たちの側の状況に関係なく、神ご自身の約束に対する「真実」を貫いておられるのです。
[fblikesend]「この目で見た救いによる慰め」 ルカによる福音書2章22~35節
次々と、神のみ言葉通りに事が進んでいく「世界で最初のクリスマス」の出来事に、ルカによる福音書は賛美に溢れています。 主の天使たちの「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」という賛美が起こされ、ザカリアにも賛歌が生まれ、マリアにも賛歌が生まれ、「お言葉どおり、この身に成りますように」と身を委ねる覚悟をするのです。 羊飼いたちにも、「見聞きしたことがすべて天使が話したとおりであったので賛美が生まれたのです。 主イエスが生まれて40日が経過した時のことです。 イエスの両親はモーセの律法の定めに従って、神殿に向かったと言いますから、がんじがらめの律法の定めの中、そして、そのささげものが「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽」と言いますから、イエスは貧しさの中に生まれてくださったということです。 そこにシメオンという人物が登場します。 「正しい人、信仰があつい人、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた人、聖霊がとどまっていた人」そして、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた人。」と紹介されています。 直訳すると、「主からのメシアを見る前には死を見ることはないと聖霊から約束されていた人」となります。 生きている間に「メシア・救い主」に出会うと聖霊によって約束されていたということです。 大勢の人で混み合う神殿に、イエスの両親は律法に従って幼子イエスを伴って境内に入って来た。 一方、シメオンもまた、聖霊に導かれて神殿の境内に入って来た。 シメオンはなぜか、人混みの中にいるイエスの両親に抱かれた幼子が、シメオンの目に留まった。 その両親に近寄って来て、その幼子をシメオンは抱いたと言います。 聖霊の導き、神のみ言葉による働きのとおりに進んでいく神のご計画でなければありえないことでしょう。 偶然の出会いとは思えません。 その時、シメオンは「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。」と言ったという。 シメオンに与えられていた務めは、主が遣わすメシア、主なる神の救いの働きを見て神を賛美することでした。 シメオンは、「わたしはこの目であなたの救いを見た」と言い、「万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」とまで言うのです。 シメオンには聖霊が宿り、すべてが見えていたのでしょう。 イエスの両親に、「主のみ言葉どおりに進んでいることを目の当たりにすることができる者は幸いである。」と祝福すると同時に、「信じることのできない者にとっては躓きの石となり、信じて受け入れる者には隅の親石となる。」と預言するのです。 もうひとつには、シメオンは神のみ言葉を信じて、この世においても「救い」がもたらされると期待し、準備をし、その救いを待ち望んでいた人です。 シメオンは「死」を待っているのでも、「死」に向かって生きているのでもありません。 聖霊を内に宿して、それに導かれて、「救い主」に出会い、抱きかかえた人物です。 この幼子を「救い主」として誕生させ、十字架に架けて復活させる、神のご愛がすべての民を覆いつくすという「救い」による「慰め」を、まだ霊の目によって見ることのできないマリアとヨセフに告げた最初の証人なのです。 復活の際のエマオに向かって傷心の旅を続けていたふたりの弟子たちと同じです。 霊の目が開かれた二人は、時を移さず、エルサレムに急ぎ立ち戻って、故郷で復活されたイエスを見聞きしたことを告げ知らせようと賛美しながら元の場所に、新しい務めを帯びて戻って行ったのでした。 「主を賛美するために民は創られた。」(詩編102:19)と言われているとおりです。 私たちもまた、霊の目が開かれるなら、「主イエスを見た。 味わった。 御言葉どおりであった。」と賛美する「主イエスの救いの証し」の姿に変えられるのです。
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