「キリストがお書きになった手紙」 コリントの信徒への手紙二 3章1~3節
パウロの手紙には、パウロ自身のことを「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」と、事あるごとに主張しています。 当時の習わしでは、教会は宣教者のために推薦状を出して、その資格を明らかにしていました。 教会がその推薦状を、宣教者に求めることもありました。 パウロは、主イエスと地上での歩みを直接ともにしていたのではありません。 それどころか、キリスト者を迫害していた過去を持つ人でした。 ユダヤ人キリスト者たちからは、「パウロには何の資格もない」と批判的であったのです。 ですから、なおさらパウロは、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」と言わざるを得なかったのです。 パウロは、「イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父」だけに依り頼んでいます。 自分自身の取り返しのつかない忌まわしい過去を乗り越えて、また、コリントの教会のうわべの弱さを乗り越えて、これから変わろうとしている新しい変化を見つめています。 ですから、パウロは「あなた方への推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。」と問います。 「あなたがた」とは、コリントの教会の人たちのことです。 分派争いもある、躓きもある、弱さも露呈している、とても模範的な教会とは言えない存在です。 「わたしたち」とは、パウロであり、テモテのことです。 かつて誤った生き方をしていた、人々から批判を受けても弁解の余地のないパウロでした。 自分の弱さや破れをからだをもって知り尽くしていた人です。 そのパウロが、そのコリントの教会の人たちに向けて、「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。」と言うのです。 なぜ、パウロはコリントの教会そのものが、自分自身の何よりの推薦状であると言うのでしょうか。
パウロは、コリントの教会を今の状態がどうであれ、キリストに刻みつけられた教会として見ています。 「あなたがたは、キリストがお書きになった手紙です。」と言います。 手紙の差出人は、キリストです。 パウロは、ただ用いられただけです。 書かれている内容もまた、キリストの十字架と復活、キリストそのものです。 パウロは、コリントの教会の人たちに「キリストの手紙」にならなければならないと言っているのではないでしょう。 パウロは、「あなたがたは神の作品、キリストの焼印を身に受けている者」とまで言います。 かつての生き様がどうであれ、今の状態が目を覆うばかりのものであったとしても、パウロは「キリストが刻まれている者」、「キリストの手紙」として、もう一度新しく見出していこうとしています。 なぜなら、その手紙の差出人も、その内容もキリストであるからです。 「キリストがお書きになった手紙」として赦されて、そこにあるからです。 キリストのみ言葉とお働きによって、いつでも新しく変えられていく存在であるからです。 コリントの教会の人たちが未だ見えていないものを、すでにパウロは見出しています。 弱さを映し出しているコリントの教会こそ、キリストが働く「キリストのお書きになった手紙」として確信しています。 多くの人を救いに招くために、その弱さも破れも用いてくださると確信しているからです。 未だ見えていないものを見出すパウロの信仰が、コリントの教会のうえに新しくなされる創造の業を導いています。 ですから、私たちもまた恥じることなく、遠慮することなく、試みの中でも、弱さの中でも、もがきながらも、未だ見えていない望みや恵みを、信仰によって、祈りによって見出していきたいと心から願います。
「そばに招いてくださるお方」 コリントの信徒への手紙二 1章3~7節
パウロは、「慰めを豊かにくださる神」と言います。 このパウロの神への正直な呼びかけは、「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるから」と言います。 パウロの現実の苦難とは、自分がつくり上げてきたコリントの教会のなかで起きている自分自身に対するまさかの反感、誹謗、中傷でしょう。 動くにも動けない、投獄され、自由を奪われてしまっている現実でしょう。 み心の適う働きが遮られてしまっている、その絶望的な憂いでしょう。 パウロが今、この手紙で語っていることは、この苦難や苦しみを取り除いてくださいと懇願しているのではありません。 このような苦難や苦しみはなくなるものではない。 その真っ只中にあっても、主イエス・キリストの父である神は、私たちのあらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださる。 むしろ、苦難や苦しみの中にあるからこそ、この神に慰められる。 苦しみは、この慰めによって満たされる。 その「慰め」が、理由を問わず「あらゆる苦難に際して」満たされるとパウロは確信しているのです。
この「慰め」という言葉は、「そばに招く、傍らに呼ぶ、ともにいる」という意味の言葉です。 ヨハネによる福音書は、この言葉から出ている「そばに居てくださるお方」、「そばに招いて、傍らに呼んでくださるお方」を「聖霊」と呼んでいます。 「あらゆる苦難に際して」、「そばに招いて、傍らに呼んで、ともにいて」、あふれる「慰め」を与えてあらゆる苦難に耐えることができるようにしてくださる。 その苦しみの中で、私たちを立ち上がらせてくださる。 何も変わらない苦しみが、まったく別の意味に変わってしまう。 それが、苦しみの中にある「神から与えられる慰め」であると言います。 そして、この神からいただく「慰め」によって、今度は、あらゆる苦難のなかにある人々を慰めることができると言うのです。 神から「慰め」を受けた者が、その「慰め」をもって人を慰めることができるようになる。 神からの「慰め」は自分のところだけに留まらない。 その人を通して自ら、他の人に満ち溢れるようになる。 なぜなら、この「慰め」は、キリストの苦しみから出てくるからですとパウロは語ります。 「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいる。」 それと同じように、「わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。」と言っています。 私たちと同じ人となり、私たちの想像を超える十字架の苦しみを受け、神によってよみがえらされた主イエス・キリストが、私たちをそばに招いてくださっている。 この十字架のうえの主イエス・キリストの苦しみに、私たちが与かることができる。 ですから、「わたしたちが悩み苦しむとき、それは私たちの慰めと救いとなる。」 「わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになる。」 「わたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるようになる。」 私たちは共に、苦しみと慰めに与かる群れ、キリストのからだの一部になると言うのです。
神は、決して模範的な教会を用いられたのではありません。 自分が愛し育てたコリントの教会の人たちの背きによって、パウロは「慰めを豊かにくださる神」を見出したのです。 この苦しみの中に満たされる神の「慰め」が、人をも慰める者へと変えてくださることを知ったのです。 苦しみから与えられる「慰め」を、ともに苦しむ人たちと分かち合う者へと変えられたのでした。 主イエス・キリストの十字架には、この苦しみと慰めが同居しています。 キリストとともにいるということは、キリストの苦しみを担うということです。 キリストの苦しみを避けて通るところでは味わうことのできない、「慰め」がここにあるとパウロは言います。
「和解の福音を語る」 コリントの信徒への手紙二 5章16~21節
コリントの教会は、パウロが開拓伝道して築き上げた教会でした。 その教会に後から入って来た人たちによって、パウロの教えが排斥されるようになったのです。 パウロは、このコリントの教会の人たちとの「和解」を求めてこの手紙を書いています。 しかし、私たちが考えるような人間的な手立てを用いて、険悪となってしまった関係の修復をパウロが求めているのではありません。 「今後だれも肉に従って知ろうとはしません」とパウロは言います。 パウロの言う「今後」とは、「よみがえられた復活の主イエス・キリストに出会った後は」という意味です。 パウロはこのイエスに出会うまでは、キリストを傷つける者でした。 そのパウロに、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」とよみがえられたイエスの言葉が臨みます。 キリスト者を傷つけ、排除しているのは、私を迫害していることだと言われたのです。 その呼びかけを聞いた後のパウロは、キリストを迫害する者からキリストの福音を告げ知らせる者の姿に変えられたのです。人々はこの変身したパウロのことを、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」とまで言っています。 パウロは、この復活されて生きて働いておられるイエスに出会ったその日から、その生涯は一変しました。 生まれ変わり、新しい人が創造されたと言ってもいい大転換です。 聖書は、これを「救い」と言います。 「だれでも、自分たちのために死んでくださったイエス・キリストによって再び新しく創造される」 「だれでも、新しく創造された者なのです。 古い者は過ぎ去った、新しいものが生じたのです。」とパウロは言います。このことこそ、神がキリストによってこの世をご自分と和解させてくださって、私たち人間の罪の責任を問わないようにしてくださった神の福音だと言っているのです。 自分を「神に似たかたち」に創ってくださったお方を忘れて、奢り、高ぶり、自分を神として生きるようになってしまったことを、聖書は「罪」と言います。 命の根源である神のもとから離れて、的外れに生きることになってしまった私たちのことを、聖書は「罪人」と言います。 ですから、私たちの方から神と和解することはできないのです。 神が差し出してくださる「和解」を受け取る以外には、神との交わりを回復することができないのです。 「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させた」とパウロは表現しています。 ですから、「キリストに代わってお願いします。 神と和解させていただきなさい」と言うのです。 神のもとを離れたことのないキリストを、神は私たちのために罪に定められました。 それによって、神はご自身の方から、人との交わりを求めて、キリストによって和解の道を開いてくださいました。 私たちは、このキリストによって神との新しい関係が創られたのです。 ですから、「神と和解させていただきなさい」とパウロは言うのです。 この神との「和解」をもって、パウロはコリントの教会の人たちとの和解を求めているのです。 神との交わりの回復が無いところに、まことの「和解」はありません。 パウロは続いて言います。 「神は、その和解の言葉をわたしたちにゆだねられた。」 この十字架につけられ、よみがえらされたイエス・キリスト、これが「和解の言葉」そのものの姿です。 この「和解の言葉」が、パウロにも、コリントの教会の人たちにも、また私たちにもゆだねられ、告げ知らせるようにと託されているのです。 この神との「和解」の福音に生きること、持ち運ぶこと、これが「和解」の福音を語ること、仕えることであると、パウロは勧めているのです。 この「和解」に与かることができるのは聖霊の働きによりますが、この「和解の言葉」が語られなければ、救いのみ業は起こらないのです。
[fblikesend]「呼び集め、授け、遣わすお方」、 ルカによる福音書9章1~6節
イエスは、十二人の弟子を選び、呼び集められました。 この十二人を選ぶために、父なる神のみ心を尋ね、夜を徹した祈りをささげています。 それほど重大な決断であったのです。 なぜでしょうか。 イエスは大勢の群衆をご覧になって、「飼い主のいない羊のような有様」を深く憐れみ、たとえ話やみ言葉を語り神の国を宣べ伝えたのです。 また、病いをいやし、奇跡を起こし、ご自身のみ業をもって神の国を宣べ伝えたのです。 この地上での務めを受け継ぐ者として、徹夜の祈りをもって選んで、委ねるための決断であったのでした。 この弟子たちは、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とイエスに声をかけられた人たちでした。 「恐れることはない。 今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われて、網を捨てて、舟を陸に引き上げて、すべてを捨ててイエスに従った人たちでした。 「飼い主のいない羊のような有様」を憐れまれた群衆に向けて遣わすために、この十二人を選び出し、呼び集められたのです。 イエスのみ業を受け継ぐために、そして隣人の救いへと目を移すためそば近く置かれたのです。 その彼らにイエスは、「悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能」をお授けになったというのです。 「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞え、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」 このような有様を創り出すことのできる「力と権能」を選ばれた弟子たちに授けられたのです。 イエスご自身が語られたようにと、語ることのできる「言葉」が授けられた。 イエスご自身が行われたようにと、行うことのできる「力と権能」が授けられたのです。 これは、選ばれた弟子たちを通してイエスご自身が働かれるためでした。 この「言葉」と「力と権能」が、最初の教会の礎として与えられたのです。 私たちが特別なものを持つようになるということではありません。 私たちの小さな器を通して、主が働いてくださるということです。
そのイエスが、神の国を宣べ伝えるために弟子たちを遣わすにあたり、「何も持って行ってはならない」と言うのです。神の宣教の業のために、「杖も袋もパンも金も持って行ってはならない。」 これはいったいどういうことでしょうか。 イエスは、持って行く必要がない。 必要なものは与えられる。 「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 空の鳥をよく見なさい。 種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。 だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」と言われています。 イエスと同じように生きるために、このイエスの足跡に従おうとする者を呼び集め、信頼するお方は父なる神だけであると「何も持って行ってはならない」と言われたのです。 こうして備えられた弟子たちは、「出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至る所で福音を告げ知らせ、病気を癒した」と記されています。 私たちは遣わされて行くときに、何も持たされないで、何もできないで呆然とすることがあります。 しかし、主イエスは何も持たないで遣わされることに意味があると言います。 なぜなら、そこによみがえられたイエスが働いておられるからです。 イエスが寄り添っておられるからです。 「何も持って行ってはならない」というイエスのみ言葉が響きます。 「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、今もなお父なる神だけに信頼して叫び続けてくださっているイエスが、誰も担うことのできない私たちの痛み、苦しみ、悲しみを背負い、引き受けてくださって、遣わされたそこに寄り添って働いてくださっているのです。
「わたしを憐れんでください」 マルコによる福音書10章46~52節
三年もの間、主イエスはガリラヤで様々な癒しの業を現わし、教えを宣べ伝えていました。 その評判はユダヤ全土に拡がり、イエスがエルサレムに向かう決断をされて旅立たれた時には、大勢の群衆がついてきたほどでした。 そのイエスに従った弟子たちの気持ちも高揚していたのでしょう。 十二弟子のうちの側近であったヤコブとヨハネが思わず口にしてしまいました。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 そう言われたイエスは、「何をしてほしいのか」と語りかけます。 その言葉に引き出された露骨なふたりの弟子の願い、「栄光をお受けになるとき、わたしどものひとりをあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 このことを聞いた、他の十人の弟子たちは腹を立て始めたとあります。 そのような弟子たちや群衆を引き連れて、エルサレムを目の前にしたエリコの町を出て行こうとしたその時でした。 イエスは、ひとりの人物に「立ち止まられた」のです。
福音書は、その人物を「道端に座っていたバルティマイという盲人の物乞い」であったと紹介しています。 彼は目が見えないために、エリコの町の中に入れてもらえなかったのです。 ただ人々の憐れみにすがって生活をしなければならなかったのです。 しかし、彼は聞くことができたのです。 分かっていたのです。 律法学者たちや祭司長たちが分からなかったことを、彼は分かっていたのです。 イエスがメシアであると信じていたのです。 ですから、「ナザレのイエスだ」という人々の声を聞いて、居ても立ってもおれなかったのでしょう。 「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」と叫んだのです。 イエスについて来た多くの人々が、彼を叱りつけて黙らせようとします。 バルティマイは叫び続けることを止めませんでした。 だれが何と言おうと叫び続ける祈りは、イエスのもとに届きます。 エルサレムに向けて「なおも道を進める主イエス」が、立ち止まってくださったのです。 人々には、物乞いの声にしか聞えなかったその叫びが、苦しむ者、悲しむ者、病める者、貧しい者の友としてこの世に来られたイエスには、救いを求める祈りに聞えたのです。 「あの男を呼んで来なさい」、このイエスの言葉がバルティマイの人生を変えたのです。 「安心しなさい。 立ちなさい。 イエスがあなたをお呼びだ。」と人々によって聞かされたバルティマイは、踊り上がって、上着を脱ぎ捨てて、イエスのもとに行ったのです。 ひょっとしたら、その上着は物乞いのために広げて用いる上着であったのかもしれない。その唯一の持ち物と言ってよいものを投げ捨てて、自分の過去に決別して、イエスのもとに彼は行ったのです。 その時です。 イエスは、あの二人の弟子に尋ねた「何をしてほしいのか」と語りかけたのでした。 二人の弟子は、自分のために願い求めました。 しかし、「先生、目が見えるようになりたいのです。」というバルティマイの願い求めに、イエスは「行きなさい。 あなたの信仰があなたを救った。」と言われたのです。 そして、福音書は「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」とあります。 イエスが家に帰りなさいと言われたのに、バルティマイはそのイエスに従ってエルサレムにまで向ったのでした。 彼はイエスに従うために、「目が見えるようになりたい」と願い求めたのです。 彼が見えるようになって最初に見たものは、主イエスの姿でした。 そのイエスに従って行ったエルサレムで見たものは、主イエスの十字架の姿でした。 イエスは彼に何の癒しの業も行っていません。 ただ、「あなたの信仰があなたを救った」と、体の癒しを越えた真の癒しが成し遂げられたと言われたのです。 「わたしを憐れんでください。 目が見えるようになりたいのです。」 この祈りにイエスは、どのような時にも立ち止まってくださるのです。
「人間を誇ってはならない」 コリントの信徒への手紙一3章18~23節
パウロがコリントの教会の人たちに手紙を書き送っています。 コリントの教会は、パウロの開拓伝道によって築き上げられた教会でした。 一年半そこに滞在し、その後をアポロに託した教会でした。 ところがそのコリントの教会の中で、「わたしはパウロにつく、アポロにつく、ケファにつく」と、その指導者を巡り争いが起こっている。 イエス・キリストという土台を築いて、その上に建てられたはずのコリントの教会に呼び集められた群れが分裂状態になってしまっている。そのことを嘆いてパウロは、「アポロとは何者か。 また、パウロとは何者か。 この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。」と訴えています。 私も、アポロも神の同労者である。 神の働きがあって初めて、「イエスを主とする信仰の群れ」が生まれ、育てられたのである。 そのように、コリントの教会の人たちを戒め、成長させてくださった命の根源である神をパウロは指し示したのです。 更に、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」とまで戒めています。 あなたがた教会は、イエスを主として信じるその信仰において集められた群れであるはずである。 そのキリストの信仰によって造り上げられた交わりの中に、神の霊が宿るようになる。 そのキリストとの交わりによって産み出される群れこそ、この地上で霊なる神が住まわれる場所である。 それが、神の神殿であるとパウロは宣言したのです。 ですから、この神の神殿を、あなたがた自身が壊してはならない。 私たちが心から賛美し、礼拝し、ひざまずいて祈るところ、地上で霊なる主が生きて働いておられるところ、そこがキリスト者の群れ、神の神殿である。 そこに私たちは選ばれて、招かれているとパウロは訴えているのです。 「パウロもアポロもケファも」ないのです。 すべて神に仕える同労者である。 人々を導くために等しく召された神の僕に過ぎないのです。
それと同じように、地上の「世界」も、すべての人に訪れる「生も死」も、「今起こっていること」も「将来起こること」もすべて神のものである。 パウロは、「すべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向っている」と言います。 神の愛以外に、私たちを支配すべきものは何もない。 一切が神の祝福の内にある。 あなたがた教会は、キリストに属する者である。 その教会を支配する者はキリストのみである。 キリストだけに従うあなたがた教会は、キリストのものである。 神の賜物である。 そのことを、パウロは「一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」と言います。 ところが、すべては神のものであるはずであるのに、それを壊すものがあると言います。 この神が宿るところを壊すもの、神の霊が臨んで住まうとされようとしているところを占領し、壊すものがある。 それは、神を望みとしない、神を頼りとしない、人間の知恵を誇る「誇り」だと言うのです。 パウロは、人の知恵と経験だけに踏みとどまっている人、神を頼りにしない人のことを「肉の人」と呼んでいます。 すべては神のものであるからこそ、私たちは神の前に愚かな者、貧しい者であるということに気づかなければなりません。 私たちの目には、愚かで、空しいものに見える「十字架につけられたキリスト」こそ、神の愛、神のご真実を表す神の知恵です。 この「十字架につけられたキリスト」がおられるところを壊してはなりません。 このお方に私たちは結びついています。 そこに、自分を投げ入れることが神の知恵を得るための唯一の道であるとパウロは言います。 ですから、だれも人間を誇ってはならないのです。
「憤りを覚え、涙を流される人」 ヨハネによる福音書11章28~37節
「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」 遠く離れたイエスのもとに悲しい知らせが届きました。 この重病の知らせにも、イエスはその場を二日間動くことはありませんでした。 あなたがこれほどまでに愛した者が、なぜ、死に至るようなことになるのでしょうかという疑問を込めた、情に訴えたこの知らせに、イエスは「この病気は死で終わるものではない。 神の栄光のためである。 神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と言われ、神の時を待っておられたのです。 病いも様々な苦しみも死で終わらない。 神の栄光が現わされるその始まりである。 神がみ業を起こしてくださるその始まりであると言っておられるのです。 その二日後、「わたしたちの友ラザロが眠っているユダヤに、もう一度行こう。 わたしは彼を起こしに行く。 ラザロは死んだのだ。 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。」とまで言っておられます。 その理由は、弟子たち、ラザロの姉妹マルタとマリア、その場に居合わせたユダヤ人たちすべてが信じるようになるためであると言われたのです。 いったい、何を信じるようになるためであったのでしょうか。
ユダヤに戻って来られたイエスにマルタは、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と言います。 死後四日経ってから来られたイエスに対する残念な思いと、もう手遅れになったという絶望の思いが込められています。 しかし、イエスは、「あなたの兄弟は復活する。」と言われました。 終りの日に人は復活して神の裁きを受ける。 正しい者はよみがえる。 そのようなファリサイ派の教えは存じていますと答えたマルタに、「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と言われたのです。 イエスは、ラザロが復活する出来事を信じなさいと言っているのではない。 死人をも生かす神がここに働いておられる。 その神に遣わされたイエスが、死んだラザロを復活させる。 そのことを「信じるか」とマルタに問うたのです。 問われたマルタは、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じています。」と答えています。 そう告白したマルタがラザロの墓の前に立たされて、「石を取りのけなさい」と言われたイエスに「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます。」と答えているのです。 これが私たちの本当の姿です。 イエスはマルタに、「もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか」と言い、人々が墓の石を取りのけると天を仰いで言われました。 「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。 あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 こう言い終えて、確信してイエスは「ラザロ、出て来なさい」と言われたのです。
ここまで確信したイエスが、マリアやユダヤ人たちが泣いているのをご覧になって、憤りを覚え、興奮されています。 涙を流されています。 愛する者を失った人間の悲しみを背負ったイエスのお姿がここにあります。 これほどまでに、人間を絶望させ、悲しみに陥れる肉体の「死」を操る悪の霊に憤り、興奮されたのではないでしょうか。 ラザロの死を悲しむ姉妹や人々のために涙を流されたのではないでしょうか。 これがイエスのみ業の原動力でした。 父なる神へ天を仰いで祈るイエスの祈りの原動力でした。 涙をもって自ら進んで担ってくださったイエス・キリストの十字架こそ、一人の罪人が失われてしまうことに悲しんで、この世を支配する諸々の力と戦われた戦いのしるしです。 その十字架の主がここに復活して生きて働いておられる。 そのことを「信じるか」とイエスは私たちに迫っておられるのではないでしょうか。
「祝福の源」 創世記12章1~9節
旧約聖書によりますと、人は神に背き、神のもとを離れてしまいました。 神が創造したその人間が、その造り主を忘れて自分に頼り、神なき世界に生きようとしたと言います。 その愚かな人間の姿を、主はご覧になってもなお、私たちを見捨てることはありませんでした。 ひとりの人間を選び出し、その民を通してもとの関係を回復させよう、人間を救おうと主はご計画されたのでした。 創世記は、その始まりがアブラハムという一人の人物に対するみ言葉から始まったと告げています。 「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしの示す地に行きなさい。」 この言葉から、人間の救いの道が始まったのです。 新約聖書では、このアブラハムの姿を、「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」と述べています。 確かに、アブラハムは主のみ言葉を信じて旅立った「出発の人」でした。 約束の地がいったいどこにあるのか、そこまでどれぐらいかかるのかも分からないままに、主が「わたしの示す地に行きなさい」と言われた場所を目指して出発した人でした。 「信仰という一本の杖」だけで旅立った人でした。 そのアブラハムに、「わたしはあなたを祝福する。 あなたを祝福の源とする。 すべてはあなたによって祝福に入る。」という主の約束が臨んだのです。
しかし、アブラハムの生涯は、それほど単純なものではありませんでした。 カナンの地のシケムの聖所にまでやってきたその所で、主は再びアブラハムに現れて言われたのです。 「あなたの子孫に、この土地を与える。」 やっと到着したその約束の地には、カナン人がすでに住んでいる。 偶像の地から抜け出してやっと辿りついたところが、カナン地方の偶像礼拝の祭りの場所である。 これが、本当に約束の地ですかと主に問いたくなるアブラハムの心境でしょう。 ですから、アブラハムはその後、住むのによりよい場所を求めてその場を離れてしまう。 自ら望んだ所で大失敗を犯してしまう。 これがアブラハムの本当の旅の姿でした。 やっと辿りついたところが、アブラハムには受け取りがたいものでした。 現実の厳しさに主の言葉から離れて、自分を納得させ歩み出してしまう。 しかし、このアブラハムを主なる神は見離すことはありませんでした。 なぜなら、アブラハムは、行く所々で、主のために祭壇を築いている。 そして、主のみ名を呼んで礼拝をしている。 どこにおいても主を礼拝する場所を確保して、礼拝をささげているアブラハムに約束されたのです。 「あなたを祝福する。 あなたを祝福の源となる。 あなたによってすべてのものは祝福に入る。」という主のみ言葉は揺るがなかったのです。 たとえ失敗を何度繰り返したとしても、アブラハムを祝福する。 そのアブラハムが祝福の源となる。 そこから流れ出る祝福によって、隅々にまで深く、広く浸み渡っていくことになる。 その務めがあなたにはあると約束されたのです。 アブラハムは信仰によって、主に促されて旅立ちました。 祭壇を築く、主のみ名を呼ぶことによってその信仰を保ちました。 私たちは、主の約束の地を離れてはならないのです。 主のみ言葉を聴き、そのみ言葉を信じることができるよう、その約束が為し遂げられるようにと祈らなければならないのです。 祝福された者が祝福する者となる、祝福の源となる。 その源から流れ出る祝福によってすべては満たされるようになる。 アブラハムは「一本の信仰の杖」と、「主の確かな祝福の約束」を携えて旅を続けました。 アブラハムは家族を連れて、一族を連れて、与えられた賜物を携えて、そして途中で加えられた人々と共に、約束の地を目指して旅を続けました。 祝福の源となるために、主の祝福が、そして信仰の杖が必ず与えられるのです。
「命ある限り 主の家に宿る」 詩編27編1~4節
ダビデは、羊飼いから身を起していった人物です。 次第に頭角を現わしていき、初代のイスラエルの王サウルのもとで、軍事的にも、政治的にもその有能さが認められていきます。 ダビデが、敵国ペリシテの一番手の武将ゴリアテを倒した話はあまりにも有名です。 戦士としての有能さは、後に、サウル王から妬まれるほどになったことでもよく分かります。 その一方で、この詩編の歌を歌っているように詩人の素養もありました。 病いに悩むサウル王の慰め手として、琴を弾いたとも記されています。 聖書には、「竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良く、まさに主が共におられる人です。」(サムエル上16:18)と紹介されています。 そのダビデが思いもかけない苦しみに出会っていきます。 あれだけ認められたサウル王に、その嫉妬のゆえに命を狙われます。 敵国であるペリシテの地にまで逃げなければならなかったこともありました。 その追っ手を避けるためにほら穴に隠れたり、枕するところがないほどの流浪の旅を余儀なくされたこともありました。 この詩編27編の歌は、息子アブサロムに王の地位を追われた時に歌われたダビデの詩であるとも言われています。 イスラエルを統一した偉大な王と言うよりは、様々な苦悩を経験しつつも、神の守りによって導かれた波乱の生涯を送った人物です。
そのダビデが、主への信頼の証しとして、「主はわたしの光、わたしの救い、わたしの命の砦」と歌います。 この三つの言葉は、ダビデにとって切っても切れない一つの言葉のように思わされます。 この一体となった三重の神の守りが、ダビデの生涯を支えてきたのでしょう。 これによって乗り越えられた。 これからも、「わたしに向って戦いを挑んでくる者」があったとしても、この神の守りによって恐れることがない。 わたしにはその確信がある。 信頼を置いているとダビデは歌っています。 そのダビデが、「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。」と歌います。 「ひとつのこと」とは、第一、唯一、最高、最大のことということでしょう。 ダビデのひとつの願いが、「命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えること」だと言うのです。 口語訳聖書では、「わたしは生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で、思いにふけること」だとあります。 様々なことを経験し、身に迫る危険を乗り越えて、また大失敗をして、悔い改めて、再び思い直したダビデでした。 そのダビデの一番の、唯一の、最高の、最大の願いは、命のある限り主の家に宿ることでした。 困難や問題が解決されることであったり、苦しみや悲しみが取り去られることをダビデが願っているのではありません。 目の前の敵がいなくなることや、これから向かってくる敵が来ないようにと望んでいるのでもありません。 ダビデは、自分の願いを越えて、主なる神との交わりだけを求めて、「主の家に宿る、住む、とどまる」ことだけを願っているのです。 主なる神が共にいて、「わたしの光、わたしの救い、わたしの命の砦」となってくださる主の家にとどまり続けるならば、恐れることなどあるでしょうか。 その主のお姿を仰ぎ見るならば、どんなに喜ばしいことでしょうかと賛美しています。 そして、「その宮で朝を迎えること」をダビデは願うのです。 涙があっても、痛みがあっても、つらくても、「主の家に宿って、主との交わりの中にある」幸いを賛美し、その涙をもって、痛みをもって、つらさをもって新しい朝を迎えることを、ダビデの一番の、唯一の、最高の、最大の願いとしているのです。 これこそ、ダビデの言うよみがえりの朝でしょう。 主ご自身との交わりを求める、これが力の源です。主のみ顔を仰いで賛美し、礼拝する、これが喜びの源です。
「もう用意ができましたから」 ルカによる福音書14章15~24節
主イエスは、「神の国」は盛大な宴会を催しているようなものである。 特別に大勢の人が招かれる、喜ばしい交わりの場であると言います。 招く家の主人は、父なる神である。 遣わされる僕は、主イエスである。 家の主人が用意して、その準備が整ったら、僕を遣わして人々を招く。 僕である主イエスによって招かれる、父なる神と共にある喜びの場所であると言います。 当時のイスラエル社会では、招かれた客は招き返すのが習わしでした。 その招きも、一度あらかじめ招いておいて、時期が来てその準備が整ったいよいよという時に、僕を遣わし再び招くのでした。 もし、その招きをその時に及んで断るというのは、その家の主人に対する「侮辱」になったというのです。
「ファリサイ派のある議員の家に招かれた食事」でした。 招き、招かれる、いつものメンバーで溢れていた食事であったのでしょう。 律法の教えを第一とする道徳的にも、宗教的にも、イスラエルの人びとの模範となるファリサイ派の人たちを相手にして、イエスは「神の国」を「たとえ」で語ったのでした。 「神の国」は大勢の人を招くものである。 時刻になったら招くものである。 用意ができたから招くものである。 父なる神が自ら計画を立て、準備をして、み子イエスを遣わしてまで「もう用意ができましたから、おいでください」と言っているようなものだとイエスは言います。 今まで一貫して語ってこられた「時は満ちた。 神の国は近づいた。 悔い改めて、福音を信じなさい。」と、「宴会」のたとえを用いてこの「神の国」を語っておられるのです。 もし、この招きを断れば、その家の主人に対する大きな侮辱となるのです。 三人の客がその招きを断っています。 畑を買った人。 牛を買った人。 結婚したばかりの人です。 理由は様々なことを言っています。 「~しなければなりません。 今~しているからできません。」 私たちがよく使う言葉です。 父なる神が周到に備えたものを、選ばれたイスラエルの民が主イエスによって再び招かれている。 その招きを今、イスラエルの民が拒んでいる。 そのことを、僕から報告された家の主人は怒ります。 しかし、その招きを家の主人は決して止めないのです。 「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、からだの不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。 通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来なさい。 この家をいっぱいにしてくれ。」と「神の国」の祝宴に強く招こうとされるのです。 ファリサイ派の議員の家で催された宴会に招かれているのは、神が第一であることを教える人たちの筈です。 しかし、彼らは自分の持ちものが大切なのです。 自分の事情、自分のことが大切なのです。 自分を招く人たちだけを招く交わりだけに、意を注いでいる人たちです。 「神の国」の宴会は、父なる神が用意して、僕イエスを一人一人の家に出向かせ、扉をたたいて招く宴会です。 人を招くようなものを何ひとつもっていない人たちこそ招かれる宴会です。 招かれた者がたたかれた扉を開けて、その招きに応えるだけで入れてもらえる宴会です。 ですから、主はそのことを「恵み」、「祝福」と言われるのです。 信仰は私たちが用意したり、つくり上げるものではありません。 父なる神がイエス・キリストを通して用意してくださるものです。 私たちはそのイエスの呼びかけに、扉を開いて応えるだけです。 主イエスは、いつまで経っても「神が用意してくださった恵み」を受け取ろうとしない私たちのために、「聖なるささげもの」となるために十字架に上がってくださいました。 その十字架のうえで「すべては為し遂げられた」と頭を垂れて息を引き取り、私たちにその霊を分け与えてくださったのです。 このイエスのご真実によって私たちは「神の国」に招かれたのです。
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