秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「キリストに属する者」 ローマの信徒への手紙8章1~9節

2018-01-21

 ローマの信徒への手紙の第8章は、キリスト者に与えられる「神の恵み」が凝縮して記されていると言われています。 パウロは、神によって与えられた律法の戒めを堅く守ることによって神の恵みに与かることに熱心な人物で、生涯をかけていました。 そのパウロが嘆いているのです。 「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょう。」とまで、悲痛な叫びを口にしています。 自分が思うようなことをせず、自分がしてはならないと思っていることばかりをする。 どうにもならない、死に定められた体をもつ者である。 滅びゆく「罪と死とによって支配されている」人間であると告白しているのです。 そうした絶望のどん底から、この悲痛な叫びとともにパウロは語るのです。 そうであるけれども、キリスト者となったこの私は、「主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」 絶望するまでに至ったこの私であるけれども、このキリスト者となったこの私には、感謝が与えられている。 その感謝の理由が、この第8章で語られている「神の恵み」なのです。 
 パウロが語っている「神の最高の恵み」は、大きくまとめて三つあると言います。 一つは、「今や、キリスト・イエスによって罪と死から解放された」ことである。 次に、「神の霊が、言葉に表せないうめきをもって私たちを執り成してくださっている」ことである。 最後に、「キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちをどんなものも、どんなところでも引き離すことができない」ことであると語っているのです。 キリストの福音を聞いて受け取った私たちに与えられている「神の恵み」とは、キリストによって罪と死から解放されているということ、神の霊によって生かされているということ、神の愛によって覆われているということである。 この「神の恵み」に、私たちは生かされているとパウロは言っているのです。 パウロは、「わたしがしていることが分かりません。 自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする。 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」と自分に絶望しています。 自分たち人間には、神に背かせる力が働いている。 生まれながらの人間のままでは、自分の力だけでは神が求めておられることを行うことがどうしてもできないし、神のもとに立ち帰ることができない。 果たそうとすればするほど、自分に絶望してしまう。 罪と死の支配によって、私たちは閉じ込められている。 その絶望のうえに立って、「神の恵み」を実体験したパウロは言うのです。 「主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」 なぜなら、「今や、キリスト・イエスに結ばれているのは、この罪と死の支配からキリスト・イエスによって解放されている」からだ。 「キリスト・イエスによって命をもたらす霊によって解放されている」からだと言うのです。 イエスご自身の生涯を思い起こしてみてください。 パウロが絶望している「からだ」、罪を犯そうとすればいつでも犯すことができる「からだ」をもって、十字架の死によって地上の生涯を終えるその時まで、悪の霊との戦いの連続でした。 私たちと同じ揺れ動く「からだ」をもちながら、悪の霊に身を委ねず、神の求めておられることだけを成し遂げてくださったイエス・キリストという、神の霊が働く特別な場所を神は「初穂」として用意してくださったのです。 神の霊は、私たちが獲得したり、所有したり、保管しておくことのできないものです。 私たちは、ただ神の霊の働きを受け取るだけです。 私たちキリスト者は、キリスト・イエスによって解放の実体験を現実のものとして受け取ることができるようになったのです。 パウロは、このことを「キリストの霊を持つ者」、「キリストに結ばれている者」と言います。 「キリストの霊があなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、キリスト・イエスによって命をもたらす霊によって生きる。」と言うのです。 

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「今日、実現した解放」 ルカによる福音書4章16~21節

2018-01-14

 人々が安息日に集まり、聖書を読み、宣教の話を聞き、祈った場所が「会堂」でした。 ガリラヤのナザレという村にも、この小さな「会堂」があったのでしょう。 人々は、イエスが語られたみ言葉によって励まされました。 イエスがなされた癒しの業に驚かされ、人々のからだが癒されました。 「イエスの評判が周りの地方一帯に広まった。 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」と書かれています。 人々はこのような人物を本当に待ち望んでいたのです。 神は必ず救い主を遣わして、自分たちのこの苦しい生活を助けてくださると言い伝えられていたのです。 評判になっていたそのイエスが、「いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。」 その時のイエスの姿は、「霊の力に満ちていた」と言います。 「教会」は人が集まって、聖書が読まれ、賛美がされて、祈りが為されていたとしても、それだけでは教会とはなりません。 そこにキリストが立っておられて、キリストの霊によって導かれてみ言葉が語られ、そのみ言葉が信仰によって受け取られ、そこから力を与えられなければ「教会」にはならないのです。 イエスは「霊の力に満ちて」、そうした人々の期待の前に立たれたのです。 イエスはイザヤ書61章の1節と2節だけを読まれました。 「主の霊がわたしの上におられる。 その理由は、貧しい人に福音を告げるためである。 捕らわれている人を解放するためである。 目の見えない人に視力の回復を告げるためである。 圧迫されている人を自由にするためである。 主の恵みの年を告げるためである。」 そう読み終わられてイエスは、会堂にいるすべての人の目が注がれるその場で語られたのです。 そのみ言葉が、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」というものでした。 これはいったい、どういうことでしょうか。 
 信仰は神のみ言葉を聞くことから始まる。 このみ言葉があなたがたの内に宿る。 私が父から受けている「霊」が、あなたがたに分け与えられる。 あなたがたは神の国に迎えられて、もうすでに神の恵みによって生きる者となる。 あなたは今日、すでに神の国にいる喜びを味わう者になるとイエスは言うのです。 この父なる神の「霊」を分け与えることができるお方は、よみがえられたイエス・キリストだけです。 誰も与えることができないし、誰もこの「霊」を受け取る資格などありません。 しかし、ただこのみ言葉を受け取って、信じて、心砕かれて、ひれ伏す者にだけには、だれにでも例外なく、恵みとして与えられる。 だからあなたがたは今日、耳にしたみ言葉を信じて受け取るなら、この恵みだけが支配する世界が今日始まる。 あなたの救いは今日、ここに実現した。 恵みがすでに与えられたとイエスはこの小さな「会堂」で言われたのです。 
このナザレの小さな「会堂」で宣言されたイエスのみ言葉を、私たちは本当に解放の時が来たという約束の言葉として受け止めているでしょうか。 神のみ言葉は力です。 神の口から出るみ言葉は必ず成し遂げられるのです。 私たちに恵みとして与えられる「解放、救い」とは、人を神から引き離そうとする力、「悪の霊からの解放」でしょう。 ただ「恵み」として与えようとする神の「解放、救い」を素直に受け取ろうとしない「自分自身からの解放」でしょう。 自分を砕くどころか、築き上げた自分にしがみつき誇る「自分自身からの解放」でしょう。 一喜一憂する「からだ」に囚われない、「霊なるからだ」に変えられるという「不安からの解放」でしょう。 私たち自分自身の力ではどうすることもできないこと、イエス・キリストを通して与えられる「神の霊」によらなければできないことばかりです。 私たちはこのイエス・キリストによって解放された民です。 イエス・キリストは神でありながら人となり、人でありながら奴隷となって、私たちの「解放、救い」のために犠牲となり、仕えてくださったのです。 このお方とともに、私たちは歩むのです。

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「いっさいを創り出す神」 イザヤ書45章2~8節

2018-01-07

 神が預言者イザヤを通して、キュロスという人物に語りかけています。 ペルシャ帝国の初代の王です。 神ご自身を知らない、異教の神を礼拝するキュロスを神はなぜ「油注がれた者」として成功を治めさせ、惜しみなく助けたのでしょうか。 その理由が、「キュロス王自身が、神を知るようになるため」、「イスラエルの民が、イスラエルの神であることを知るため」、「日の昇るところから日の沈むところまで、すべての人々が、わたしが主、ほかにいない。 わたしをおいて神はいないことを知るため」であったと書かれているのです。 次々と諸国を征服していったペルシャの英雄的存在となったキュロスは、征服した民族の伝統を尊重し、宗教の自由を認めたのです。 バビロニアに征服されて、捕らえられていたイスラエルの民も例外ではありませんでした。 キュロスによって、イスラエルの民がバビロニアから解放され、エルサレムに帰り、神殿を再興することが許されたのです。 神はご自身を全く知らない異邦人の王でさえも救いのみ業のために用いて、本人にも、イスラエルの民にも、すべての人々にも「わたしが主、わたしのほかにいない。」と言われる真の神を示されたのです。 
 7節に「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。 わたしが、これらのことをするものである。」と神は言います。 まったく正反対のものである「光」と「闇」、「平和」と「災い」それらいっさいのものを創り上げる神である。 その神は、「これらのことをするものである。 ことを起こすものである。 ことを為すものである。 創るものである。 働きそのものである。」と神は言っているのです。 イザヤは気づいたのです。 バビロニアに捕らえられ、閉じ込められていた自分たちが、異国の王によって解放された。 自分たちだけでなく、異邦人にも、すべての人々にも「わたしが主である。 いっさいのものをなすものである。」ということを神ご自身が示された。 神は万物を存在させる、創り上げる働きそのものであるということに気づかされたのです。 「闇」や「災い」だけを見ていたのでは、いっさいのものを創り上げる神を見ることはできません。 イザヤは自分たちが無数に体験する神の働きの一つずつを結び合わせて、その全体を見出し、「わたしが主である。 いっさいのものをなすものである。」と言われる真の神を見出したのです。 8節に「地が開いて、救いが実を結ぶように。 恵みの業が共に芽生えるように。 わたしは主、それを創造する。」と神は約束されました。 「わたしは初めであり、終わりである。 わたしをおいて神はいない。」(イザヤ44:6)と宣言された神が、初めに天地を創造し、終わりに救いの歴史を完成させると約束されているのです。 最初の人間アダムから始まった、神のもとを離れてしまった人間の罪の歴史があります。 ノアを起こし、アブラハムを立て、モーセを用いて、何度も繰り返して神のもとに立ち戻るようにと呼び戻してくださった神の救い、解放の働きの歴史があります。 しかし、終わりには、この神が力によってではなく、み言葉によって働かれる神である。 片隅に生きている小さな民をわざわざ用いて働かれる神である。 「弱い者、苦しむ者、悲しむ者、貧しい者」にまでご自身を落とし込んで、「苦難の僕」を遣わして、この救いの歴史の総仕上げをしようとされていることにイザヤは気づいたのです。 その「苦難の僕」こそ、ナザレの人イエスです。 十字架に架けられて死刑とされたイエスです。 その死んで葬られたイエスをよみがえらせ、私たち人間の「初穂」として神の子として引き上げられたのです。 このよみがえられて、今も働いておられる神の子、イエス・キリストを用いて救いの歴史を完成されようとしておられる。 このイエス・キリストが再び来られる時、その時が救いの完成の時である。 これが、終わりの日に完成される救いの創造の業であるとイザヤは気づいて語ったのです。 

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「箱舟から出て行くノアとその家族」 創世記8章15~22節

2017-12-31

 ノアは、神のみ言葉に耳を傾けることのできた人でした。 都合のいいつまみぐいのみ言葉だけでなく、神のすべての命令に従った人でした。 最初の神の命令は、「箱舟をつくる」ことでした。 なぜ今、このようなものを造らなければならないのか理解できない命令です。 「箱舟」は、神が緻密に設計し、造ることをノアに託したものです。 洪水が果てるまで、神がみ心を留めた群れを自ら扉を閉めて閉じ込めておくためのものです。 大洪水という滅びの宣言の只中にあって、それから避難し漂うための「救いの箱舟」でしょう。 その次に神は二番目の命令で、「箱舟に入りなさい」と命じられたのです。 このみ言葉に応えた人は、ノアとその家族8人だけであったと言います。 「箱舟」の外にいた人たちとは、神が命じられたようにノアが箱舟を造っている傍らで、神のみ言葉を聞くこともなく、むしろノアを哀れな者と蔑んで相手にしなかった人たちです。 「食べたり、飲んだり、めとったり、嫁いだり」、この世のことにしか目が留まらない人たちです。 神は三番目に、「この箱舟に留まるように」と、沈黙をもって語られたのです。 神の命令に従うためには、「箱舟」に乗り込まなくてはならなかった。 神が起こされる出来事から避難して漂うためには、「箱舟」に留まっていなければならなかった。 神が為し遂げてくださる出来事の後に備えられた新しい世界を見るためには、神の時を待たなければならなかったのです。 み言葉を聞いているだけでは、神のみ心を知ることはできません。 用意された新しい恵みを味わうこともできません。 人の言葉が、神のみ言葉の邪魔をするのです。 人の思いが、神の思いを見えなくするのです。 神のみ言葉を聞いて、立ち上がって、従って、神が用意されたものに入り込んで、そこに留まって、委ねなければ、神の用意された「救い、恵み」に辿りつかないのです。 
 「さあ、皆一緒に箱舟から出なさい。」という最後の命令が、洪水の前と同じ神の祝福とともに語られました。 神の祝福は、人の勝手なふるまい、身勝手な期待を洪水によってことごとく打ち砕いた後も変わりなく続く。 「さあ、家族とともに、託された生き物とともに一緒に新しい世界を築きなさい」と、ノアが築いた祭壇とささげられた献げものをご覧になって語られたのです。 ノアがささげたものは、人が犯してきた過ちの贖いでしょう。 残された者の救いに対する感謝と賛美でしょう。 神が用意された洪水後の新しい世界での歩みへの献身の祈りでしょう。 神はそこで「人が心に宿す思いは変わらないだろう。 しかし、わたしはこの度したように生き物をことごとく打つことは二度とすまい。」とご自身に誓われたのです。 神は私たちのこの世界を変えるのではなく、新しい救いの恵みを与えるとご自身を変えてくださったのです。 「裁き」から「赦し」へ、「滅亡」から「救い」への大転換です。 このノアとの契約、アブラハムとの契約、モーセとの契約、ダビデの契約を通して、イエス・キリストの十字架の贖いによって成し遂げられた「赦し」の新しい契約です。 目に見える「洪水」に目を惑わされてはなりません。 不信仰な私たちの傲慢、身勝手な期待を打ち砕く「祝福の中断」です。 神が命じられるまでそこに留まるとようにという「待つ試練」です。 待ち切れず、ノアは烏を飛ばし、鳩を飛ばして、水が渇いていることを確かめようとしました。 しかし、ノアは、自らの思いでは動きませんでした。 ノアたちが約一年もの間、そこに留まり耐えることができたのはノアの信仰ではありません。 神が心に留めてくださったからです。 「洪水」は滅びではありません。 再び造り上げるための試練です。 人間がこの「洪水」によって変えられたのではありません。 神が「赦し」へ、「救い」へと、新しい恵みを与えてくださったからです。 神のみ言葉を待つことです。 み言葉に聞くことができたなら、立ち上がって動くことです。 留まり続けた所が備えられた新しい恵みの世界です。 

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「マリアとヨセフに示されたこと」 ルカによる福音書2章22~34節

2017-12-24

 聖書のなかに、「残された者」(レムナント)という言葉があります。 すべてのものが失われるような事態になったとしても、そこには必ずわずかなものが残る。 すべての者が滅ぼされるような時にも、わずかな例外が残される。 それが新しい時代の基となる。 洪水物語の中に出てくるノアとその家族などは、この「残された者」の象徴のように思わされます。 イエスがこの世に来られた誕生物語にも、誰の目にも留まらないような残された、小さな存在が用いられています。数少ない者にだけ告げられた「世界で最初のクリスマス」の恵みを、その直後に味わったシメオンという人物の姿に目を向けたいと思います。 
 聖書には、シメオンは「正しい人であった。 信仰があつい人であった。 イスラエルが救われるのを待ち望んでいた人であった。 聖霊が留まっていた人であった。」とだけ書かれています。 マリアとヨセフが律法の定めに従って、その子イエスをささげ、そのいけにえをささげようと神殿にやってきた時です。 霊に導かれて、ひたすら救い主を待ち望んでいたシメオンが神殿の境内に入ってきた時です。 ささげものに「山鳩ひとつがい、家鳩の雛二羽」しか用意することのできなかった貧しいふたりが神殿に連れて来た、生まれて間もない赤ちゃんにシメオンの目が留まります。 シメオンは躊躇なく、その赤ちゃんを自分の腕に抱きかかえます。 そして、神をたたえて言うのです。 「主よ、あなたはお言葉どおり、この身を安らかに去らせてくださいます。」 いったい、この言葉はどういう意味でしょうか。 シメオンはただ律法の戒めをかたく守るだけの人ではありません。 来たるべき救い主に必ず出会う。 そのことが約束されていると、ずっと待ち望んでいた希望の人です。 その約束は、聖霊によってすでに自分に与えられていると確信していた人です。 ですから、今、その赤ちゃんをシメオンが目にした時、その約束が成し遂げられたと、「わたしはこの目であなたの救いを見た。」と言います。 ただ、両親に抱えられている赤ちゃん、自分が抱きかかえた赤ちゃんを見ているだけです。 しかし、シメオンは見えていたのです。 聖霊がうちに宿っていたので、この小さな存在の中に、神の恵み、救いの恵みが満ちていることが分かったのです。 シメオンは、「わたしはこの目で救いを見た。」と言っているのです。 霊の目で、神の約束の救いを、今、見た。 シメオンが見たと言っている救い主は赤ちゃんです。 その救い主の業もこれからです。 しかし、シメオンはその救いのみ業がもうすでに見えた。 それも、今までとはまるっきり違う、万民のための新しい救いを備えてくださったと神に賛美しているのです。 これ以上のものはないと、これから後、このお方と共にあるというずっと続く恵みがシメオンには見えたのです。 
 このシメオンの言葉に驚いているマリアとヨセフに、シメオンは続けて言います。 「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせたりする。 そのために定められたしるしです。 反対を受けるしるしとして定められている。」と、両親が見えていないものを語るのです。 この子はイスラエルの人々に歓迎されるのではなく、逆につまずくものになる。 人を倒すものにもなる。 立ち上がらせることにもなる。 二つに分けるつまずきのしるしとなると、シメオンは言うのです。 多くの人がこの救い主に出会って、その人生が変えられていく。 信じることのできない者にとっては、つまずきの石となる。 しかし、信じて受け入れる者にとっては尊い隅の親石となると、喜びとして、祝福として両親に語っているのです。 シメオンは、ただ死を待っているだけの人ではありませんでした。 神の約束を信じて、期待して、準備をして、待ち望んでいた希望の人でした。 聖霊をうちに宿して、導かれて、救い主に触れて、抱きかかえて、体験して出会うことのできた人でした。 この出会うことのできた救い主を誕生させ、十字架につけ、復活させる神の愛が万民を覆い包むという新しい恵みを、まだ霊の目をもってみることのできない両親に告げた最初の証し人です。 私たちもまた、新しい霊の目をいただいて見えているものを伝え、この救い主のもとに「来て、見なさい」と伝えるものとさせていただきたい。 

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「まことの闇の中で輝くまことの光」 ヨハネによる福音書1章1~13節

2017-12-17

 「初めに言があった。 言は神と共にあった。 言は神であった。 万物は言によって成った。 成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」とヨハネによる福音書は言います。 創られたこの世界より前に、言葉はあった。 それは神の言葉であった。 神が発する言葉は、神そのものであった。 その言葉が、この世界を創り出したと言います。 神は「語りかける言葉」をもつお方である。 この世界は偶然にでき上がったものではない。 神の意思によって、神の言葉によって成ったものである。 私たちはこの厳粛な事実を忘れてはならないし、この神の言葉に応えて生きるようにと私たちは創られたことを思い起こすべきです。 
 かつて神は、多くの預言者を通してみ言葉を語ってくださいました。 それでも神の言葉を聞こうとしないこの世に、神は神の子である「この言」によって忍耐強く語り続けておられるのです。 「この言」とは、イエス・キリストです。 この遣わされたイエス・キリストの言葉によって起こされる出来事こそ、この世にある私たちにとって「命である。 光である。」そうであるのに、この世は認めなかった。 受け入れなかった。 しかし、それでもなお、この「光は暗闇の中で輝いている。暗闇はその光を理解しなかった。」とヨハネによる福音書は語っているのです。 
 私たちはその「暗闇」を見ようとしません。 見続けることができません。 一時しのぎのかりそめの光を自ら造ろうと努力します。 おぼろげな光に目を奪われて、「まことの暗闇」であることに気づきません。 「まことの暗闇」とは、神のみ言葉が存在しないところです。 神のみ言葉を失ったところです。 神のみ言葉に聞こうとしない、神の言葉を必要としないところです。 私たちはそのようなところに生きていくことはできません。 しかし、そのようなところに、「まことの光となって輝いている。 今もなお、輝き続けている。」と言うのです。 この世の暗闇は、私たちの想像をはるかに越えて深いものです。 私たちの力では限界があります。 そのようなところに、私たちが見て、聴いて、触れて、出会うことができるお方として神が現れてくださっている。 条件付きの命に定められている私たちが、この神の言葉に耳を傾け、受け入れるなら、「まことの光」を見出す。 まったく「新しい命」を見出す。 この暗闇に包まれた世界に、イエス・キリストは「光」として、「命」として誕生されたとヨハネによる福音書は告げているのです。 12節に、「この言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」と証言しています。 イエスが与えた神の子となる資格とは、「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」(14:16)と言われた新しい命です。 まったく別次元の命です。 終わりの時に、神が創造される新しい命をもつ、神の子となる命です。 これは、神によって授けられる恵みの賜物です。 「血によってではなく、肉の欲によってでもなく、人の欲によってでもなく、神によって与えられる」と言います。 血筋でもなく、人間の計らいによるものでもなく、人間の営みによるものでもない。 神の子でない者が、神の子になる資格のない者が、神の子となる。 神から生まれ出た者になる。 このような出来事が、神によってなされると言っていることなのです。 私たちの住む世界は、神の言葉なき「まことの暗闇」です。 しかし、そこにこそ、「まことの光」が輝いている。 この誕生されたイエスこそ、「人間を生かす命の言葉」です。 「暗闇に住む人間を照らし出す光」です。 暗闇の中に死に定められている私たちを救わずにおれない神の愛が、言葉として鳴り響いています。 光として輝いています。 命として生きています。 その出来事について、私たちはクリスマスを喜び祝っているのです。 この出来事を起こしてくださったのは、変わらずに初めからあった「神の愛」です。

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「御子によって語られる神」 ヨハネによる福音書1章14~18節

2017-12-10

 ヨハネによる福音書は、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。 この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。」と言います。 「父のふところにいる独り子である神、イエス・キリストがこの世に来て父なる神を表してくださったのだ」と、クリスマスを短い言葉で端的に語っています。 イエスは、神の言葉となって、私たちの世に来られました。 初めから神と共におられた、神の子であったそのキリストが、ナザレの大工であったイエスとしてこの世に来られました。 父なる神の側から言えば、人としてのイエスの中に神が宿り、イエスの中から私たちに語りかけ、ご自身をイエスを通して表してくださったのだとヨハネは語っています。 聖書に、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖たちに語られたが、この終わりの時代には、御子、イエス・キリストによってわたしたちに語られました。」(ヘブライ1:1-2)と言う通りです。その通りに、イエスは神の言葉を権威をもって語られたのです。 預言者が語る「主は言われる」というような間接的な表現ではなく、「わたしは言う」と父なる神の言葉を直接語ったのです。 
 ヨハネは、「わたしたちは、父の独り子としての栄光を見た」と言います。 イエスを十字架につけたユダヤの祭司や律法学者たちは、「自分たちの栄光」を求め、守るために、「イエスの栄光」を見ることができませんでした。 イエスの不思議な力を見て驚いたユダヤの民衆もまた、「自分たちが求めていた栄光や恵み」と「イエスの栄光」は異なるものであると知ると、イエスを捨てました。 弟子たちもまた、「自分たちが描いていた栄光」が崩れ去ったことは民衆と同じです。 しかし、この弟子たちがよみがえられたイエスと出会って変えられたのです。 新しく造り変えられたのです。 神のみ言葉が語りかけられ、聖霊が降った時、彼らの中に新しい命が誕生したのです。 イエスの誕生こそ、私たち人間が生まれ変わって生きるようにと、新しい神の子として生きる道を初穂として切り開いてくださった神の出来事であるとヨハネは語っています。 「主が豊かであったのに、わたしたちのために貧しくなられた。 それは主の貧しさによって、わたしたちが豊かになるためだった」(コリント一8:9)のです。 「そのお方は、恵みと真理に満ちていた。 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」と言います。 かつての恵みの上に、かつてないまったく新しい恵みを更に受けたと言います。 石打ちの刑で打ち殺されようとしていた女性に、「わたしはあなたを罪人としない。 これからは、もう罪を犯してはならない。」と、罪の赦しを与えられたのは、まったく新しい恵み、救いの恵みではないでしょうか。 そのお方が神の子であったという新しい恵みです。 このイエスをこの身に宿すことによって与えられる新しい「恵みと真理」を豊かに浴びることができるようになる。 この「恵みと真理」は、イエス・キリストを通して現れたまったく新しい恵みであると、ヨハネは語っているのです。 パウロは、「神がイエスを死人の中から復活させたと信じるなら、あなたは救われる。」(ローマ10:9)と言います。 神のみ言葉であるイエス・キリストの言葉を信じるなら、あるいは語りかけてくださる「イエス・キリストの恵みと真理」の確かさにゆだねるなら、その語られたみ言葉は、信仰によって、聖霊の働きによって、救いの出来事になっていく。 み言葉が語られ、信仰によってそのみ言葉が聞かれるなら、新しい命の誕生というイエス・キリストの救いの出来事が必ず起きると言うのです。 ですから、私たちは人間の知恵を捨てて、み言葉に聴くことです。 そのみ言葉を受け入れることです。 その「恵みと真理」に委ねることです。 マリアや弟子たちが体験したと同じように、私たちの身にも起きるのです。

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「お言葉どおり、この身に」 ルカによる福音書1章26~38節

2017-12-03

 ナザレというガリラヤの町のひとりのおとめのもとに、天の使いが神から遣わされた。 そのおとめの名は、マリアという名前であった。 その人は、ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであったと言います。 記されているのはそれだけです。 マリアに語られたみ言葉は、「おめでとう、恵まれた方。 主があなたと共におられる。」というものでした。 突然告げられたみ言葉に対するマリアの反応です。 「この告げられた神のみ言葉に戸惑った。 いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」とあります。 戸惑っている、考え込んでいるマリアにおかまいなく、神は一方的に告げます。 「マリア、恐れることはない。 あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人となり、いと高き方、神の子と言われる。」 マリアにしてみれば、「それが自分といったいどんな関わりがあるのですか。 これから夫なるヨセフとともに、慎ましやかな家庭を出発させようとしているこの私に、このことが恵みになるのでしょうか。」と思ったに違いない。 ですから、マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。 わたしは男の人を知りませんのに。」と答えたのです。 マリアの生涯は、授けられたこの神の子、イエスの存在に思い巡らし、考え込む生涯でした。 人間の常識や理性の中に、突如として神のみ言葉が入り込んできて告げられる。 その言葉に葛藤し、不安や動揺が起こされる。 社会や人々を恐れる。 しかし、神は、「恐れるな。 あなたはもうすでに恵みを用意されていただいている。」と言われるのです。 マリアこそ、神とこの世のはざまに立って葛藤する私たちを代表している姿なのではないでしょうか。 
 天の使いは、思い巡らす、戸惑うマリアに続けて言います。 「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。 だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 神にできないことは何もない。」 マリアは、この神のみ言葉を受け入れて言うのです。 「わたしははしためです。 お言葉どおり、この身になりますように。」 私は取るに足りない存在です。 しかし、神の力が私を覆い包むなら、それに委ねますと言うのです。 これから起ころうとしている出来事に、葛藤や不安や動揺の中においても、マリアはただ神の働きだけによって自分の胎内に神の子が宿ることを委ねているのです。 この体験は、マリアだけのものでしょうか。 神の力によって、私たちのなかに変化が起こされる。 聖霊だけによって、私たちのなかに神の子が宿るようになる。 これこそ、よみがえられて今も働いておられる復活の主イエス・キリストを私たちが迎え入れるということでしょう。 この体験こそ、マリアの体験なのではないでしょうか。 聖霊が降って新しい命が誕生する体験は、マリアだけの体験ではありません。 このマリアを覆い包む神の力が、人をまったく造り変えるのです。 イエスの誕生物語こそ、私たちのうちによみがえられたイエス・キリストが宿ってくださったという信仰者の喜び、働いてくださった神への賛美です。 マリアは辛うじて、神のみ言葉に立ち上がることができました。 辛うじて、神のみ言葉に自分を委ねることができました。 常識や理性の世界と信仰の世界との葛藤のなかに、「お言葉どおり、この身になりますように。」と告白しているのです。 これはマリアの決断でも、決意でもありません。 神の力、聖霊がマリアに語らせた言葉です。 イエスの誕生物語は、この神の霊を受け取って、この身に宿ってくださったイエス・キリストの誕生を賛美しているのです。 イエスが神の子として、この地上に誕生して、死んで、復活してくださった賛美をしているのです。 私たち自身の身に起こった神の子としての誕生を喜ぶ日でもあります。 「神にできないことは何一つない。」という信仰告白と、「お言葉どおり、この身になりますように。」という賛美を語っているのです。

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「眠りについた人たちの初穂」 コリントの信徒への手紙一15章20~28節

2017-11-26

 パウロは、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」と言います。 「神の子であるイエス・キリストには復活が起きてもおかしくはないだろう。 しかし、私たちの身に死からよみがえるということが起きるとは考えられない。」と言って憚らないコリントの教会の人たちに向けて、パウロは訴えるのです。 「死者の中から復活したキリストは、眠りについた人たちが目をさます先がけとなってくださった。」 「死んで葬られた者たちの復活の初穂となって、父なる神に刈り取られたのだ。」と言っているのです。 パウロが語る「復活」とは、ただ死んだ人が生き返ることではありません。 死んだ人が死ぬ前の体、命を取り戻して、再び、元の人間として立ち上がるというものでもありません。 再生ではなく新しく生まれることだと言います。 かつての命、元の体の回復ではないのです。 全く別の新しい命、新しい体を与えられて、新しく創造されることだと言います。 土の塵に帰るべきこの体を脱ぎ捨てて、神の息に吹き入れられた霊による体を取り戻す。 もはや死ぬことのない、朽ちない新しい霊の体によみがえさせられることであるとパウロは言っているのです。 まさにイエスが、この新しい体、新しい命を、地上の人々が自分の力で自分の手に入れようとすればするほど失うものである。 ご自身の十字架と復活によって神から与えられる賜物であると受け取るものである。 この与えられた命を大切に生きる者が手にすることができるものであると語られたものです。 
 パウロは、復活には順序があると言います。 「最初にキリスト、次いでキリストが来られるときにキリストに属している人たち」 そして、「世の終わりが来る」と言っています。 最初にキリストの復活が起こされる。 それから、その復活されたキリストが再び来られる。 そして、私たちキリストに属する者の復活が起こされる。 そして、この世の最後を迎えると大胆に語っています。 その最後こそ、神のもとから引き離そうとするすべての地上の支配が滅びる。 一生懸命に人が造り上げてきた権威や権力もすべて失われる。 すべてのものが復活されたキリストの足もとに降った時、「最後の敵として、死が滅ぼされる。」 最も恐ろしい敵である「死」を私たちが克服する。 その時こそ、神の完全な支配が完成される。 「アダム」のもとに入り込んできた「死」から解放される時である。 「世の終わりである。」 それが復活の業の目的であり、復活の業の力である。 「神がすべてにおいてすべてとなられるため」であるとパウロは言うのです。 そのために、よみがえられたキリストは再び、私たちのところに来なければならないのです。 キリストを信じて、従っている私たちがよみがえるためです。 天からの新しい霊の命に私たちが生きるように、救いが完成されるためです。 罪に定められ、死に定められた私たちが、死からも、罪からも救い出されて解放されるためです。 それは、「神がすべてにおいてすべてとなられるため」です。 私たちが、復活があるとかないとか問うべきではありません。 よみがえられたキリストによって、「神がすべてにおいてすべてとなられるため」に復活の業は起こされるのです。 世の終わりに、私たちは復活するのです。 それが、神が独り子イエス・キリストを死に渡し、よみがえらされた目的です。 「初穂」とは作物を先取りし、代表するものでしょう。 すべての収穫のなかで、最初で最高のものでしょう。 キリストの復活は、私たちの復活のために先んじてなされたものです。 死に定められた私たちをよみがえらせるためです。 死んだ人にも、生きている人にも主となられるためです。 それが、一人でも滅びることがないようにと、すべての人が立ち戻ることを望んでおられる主なる神のみ心です。 この地上に生きているキリスト者には、終わりの日に朽ちない体を与えられて、救いが完成されるという約束と大きな希望があるのです。

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「神を信じるとは」  ヨハネによる福音書4章46~54節

2017-11-19

聖書箇所の場所は、「ガリラヤのカナ」でした。 わざわざ「前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所であった」と書き加えられています。 カナで行われていた婚礼の祝宴の席で起きたぶどう酒の出来事でした。 イエスの言葉通りに満たされた水がめいっぱいの水が、すべてぶどう酒に変わった。 それも、今までにない新しい味となった。 これが「一回目のしるし、奇跡」である。 これから述べる出来事が「二回目のしるし、奇跡」であると聖書は語っています。 
 エルサレムの過越の祭りでなされたイエスの癒しの「しるし」を見ていた大勢の人たちがイエスを待っていました。 そのようなところに、約30キロ離れたところから、ひとりの「王の役人」がやってきたというのです。 召使たちが迎えに来るほどの役人です。 王に仕える高官あるいは軍人であったかもしれません。 そのような人が、なりふり構わずイエスに頼むのです。 「主よ、子供が死なないうちに、おいでください。」と、約30キロも離れたところにご足労くださいと必死に頼むのです。 ガリラヤ地方の相当な身分の役人が大工の息子に頭を下げて、地位や名誉もかなぐり捨てて必死に願う父親の姿がここにあります。 その父親に対する最初のイエスの言葉が、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」という言葉でした。 イエスは、「しるし、奇跡を行う人」として歓迎している大勢の人々をよしとしていないのです。 病気が癒されることが問題であるとは言っておられません。 そのように願い求めることを否定されているのでもありません。 息子の癒しを求めている。 神の助けを求めている。 しかし、それは神を求めているのではないとイエスは言っておられるのではないでしょうか。 そのイエスの言葉に役人は怯みません。 「主よ、子どもが死なないうちに、おいでください。」と、最後の頼みを熱心に繰り返し訴えたのです。 役人は「死なないうちに」と言っている。 死んだら終わりだ。 だから、死ぬ前に一緒に来てくださいとイエスに願ったのでしょう。 そう語る役人に、イエスは「帰りなさい」、そして、「あなたの息子は生きる」と言われたのです。 イエスは、その役人の息子が助かるとか、病気が治るなどと言っているのではありません。 「あなたの息子は生きる」と言って、今やって来た道のりをもう一度、「帰りなさい」と言われたのです。 
 どういうことでしょうか。  神は天地をみ言葉だけで創造されたお方です。 何でも言葉によって新しく創り出すことができるお方です。 私たちは神のみ言葉がすでに与えられているのに、なおも、今、目に見える形で見せてくださいと願うのでしょうか。 イエスは、「あなたの息子は生きる」という短いみ言葉を、その役人に与えました。 私が与える力を、あなたの息子は持つだろう。 そこにあなたは今、何ももたないで、私のみ言葉だけを携えて「行きなさい」と言われたのではないでしょうか。 もとのところへ帰って行くのではありません。 イエスがもたらしてくださる新しい力によって創り出される、新しいところに「行きなさい」とイエスは送り出しておられるのではないでしょうか。 その役人は、「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」と言います。 イエスが自分の家に来てくださることだけを願っていた父親が、イエスの言葉だけを信じてひとり歩み始めたと言っているのです。 イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたその時刻に、その息子の熱が下がったことを、後に召使たちによって知らされるのです。 そして、その役人も、その家族もこぞってイエスを信じたと言うのです。 これは死に直面した息子の病気が癒された「しるし」ではありません。 父親が、イエスのみ言葉だけによってまったく新しく変えられた「しるし」です。 イエスのみ言葉に立ち上がって、そのみ言葉に従って、もしかしたらもとのままであるかもしれないところへ帰って行ったのです。 その途上でイエスのみ言葉が成し遂げられた。 父親と家族が変えられたという「二回目のしるし」だと聖書は言っているのです。

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