「すべての人を憐れむために」 ローマの信徒への手紙 11章25~36節
キリスト教は、ユダヤ教の中から主イエスの復活において生まれ出てきたもともと少数のものでした。 苦しみを受け、排斥され、殺されてしまうナザレ人を救い主と信じる、人の理屈では信じることのできないものでした。 そのような信じることができないものを信じた少数の者のうちの一人にパウロという人物がいます。 厳格なユダヤ教徒の家庭に生まれ、ユダヤ教の信仰の訓練を受けていきます。 成長し、時の著名な律法学者のもとで律法を徹底的に学びます。 次第に、ユダヤ教の主要人物として頭角を表していきます。 パウロは、大切に学んできた律法をないがしろにし、信仰だけによって救われるというキリスト教徒をどうしても赦すことができません。 徹底的にキリスト教徒を捕らえ、その処刑にまで立ち会い、キリスト教徒からは恐れられていた人物です。 神はこのようなユダヤ人をわざわざ選んで、導き出して、キリスト教徒を迫害する者からそのキリスト教を世界に宣教する者として大転換させたのです。 そのパウロが、「木の根と接ぎ木」の譬えを用いて訴えています。 「ある枝が折り取られ、野生の枝がその代わりに接ぎ木された。 野生の枝は、木の根から豊かな養分を受けるようになった。 野生の枝であるあなたがたは、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたがたが根を支えているのではなく、根があなたがたを支えているのです。 枝が折り取られたのは、あなたがたが接ぎ木されるためだった。」 パウロの言うこの「木の根」とは、イスラエルに対する神の約束です。 行き先を知らずして、ただみ言葉だけに従って旅立ったあのアブラハムの信仰に与えられた神の約束です。 「折り取られた枝」とは、その祝福に与かるはずであったイスラエルの民です。 モーセを通して与えられた律法という垣根の中で養われ、手入れされ、神に与えられる豊かな実を結ぶことになっていた「元からの枝」であるイスラエルの民に代わって、神を知らず自分勝手に歩んできた「垣根の外に放置されていた野生の枝」である異邦の民が、ただ悔い改めて神のもとに立ち帰るという信仰だけによって豊かな祝福を受けることになったとパウロは言っているのです。 ですから、パウロは「思い上がってはなりません。 もし、神の慈しみにとどまらないなら、あなたも容赦なく切り取られるでしょう。 イスラエルの民もまた、不信仰にとどまらないで、再び神のもとに立ち帰るなら接ぎ木されるでしょう。 神は、たとえ切り取られた枝であっても、立ち帰り、恵みだけに依り頼む者には何度でも再び接ぎ木することがおできになるお方です。 すべては神の恵みのもとにある。」と言うのです。 パウロ自身がそうであったように、イスラエルの民の頑なこそ、異邦の民が救われるためであった。 パウロの頑なさもまた、「神の秘められた計画」を語るまでに変えられ、用いられた。 イスラエルの頑なさがなければ、イスラエルが折り取られなければ、異邦の地へこの福音は拡がっていなかった。 「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それはすべての人を憐れむためだった」と、この神の秘められた計画をぜひ知っておいてもらいたいとパウロは訴えているのです。 私たちもまた、救われようのないところから奇跡的に導き出され、「木の幹に接ぎ木された枝」、「木の根から豊かに養分を、ただ神の恵みによって受けるだけの枝」です。 今は信仰に立つことができないでいる人も、信仰に立っている人も、神の慈しみに留まるかぎり、「すべての人を憐れむ」神のもとにあるのです。 ただ神の恵みによって救われることを、すべての人が知るためです。 そのためにふさわしい道のり、神の定めたご計画とみ心があるのです。 パウロはこの神を、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。 だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」 「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向っている。」と賛美しています。
[fblikesend]「主とともにいる今を生きなさい」 テサロニケの信徒への手紙一4章13~18節
「メメント・モリ」という言葉があります。 「死を忘れるな」、「死を憶えよ」、自分が死ぬべき存在であることを忘れることのないように、覚えておくようにという意味の言葉です。 そのことを通して、今、私たちが生かされていることを感謝し、大切にしなさいという戒めがこの言葉に込められています。 テサロニケの信徒たちに語られたパウロの言葉を通して、この言葉に込められたみ声に耳を傾けたいと思います。
この手紙を書いたパウロは、イエスが復活されたと信じるということは、自分たちがこのイエスの死に与かり、イエスの復活に与かることである。 だから、イエスの復活を信じる者は、イエスを信じる自分たちもまた復活すると信じることである。 それは、終わりの日にではなく、今を、このイエスの復活の新しい命に自分たちが一緒に生きることであると信じたのです。 パウロや当時の多くの宣教者たちは、よみがえられたイエスが再び来られると真剣に信じていました。 自分たちが生きている間に、イエスは再び訪れると当然のように待望していたのです。 ですから、同胞の民からの激しい迫害にも屈することなく、この厳しい今を、彼らは「死」を乗り越えて生きることができたのです。
ところが、テサロニケの信徒の中には、主が再び来られ、自分たちの救いが完成されるという希望のうちに一緒に生きていた人が、イエスの来られる前に死んでしまった。 この信仰の友は、無駄に死んでいったのではないか。 もし、自分たちもよみがえられたイエスに再び出会うことなく死んでしまうなら、この地上で与かるはずの救いに与かることができなくなるのではないか。 このように真剣に悩み始めたというのです。 そのテサロニケの信徒たちにパウロは訴えます。 「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ、次のことを知っておいてほしい。」と言います。 聖書は、「死」を「眠り」と表現しています。 人が死ぬということは眠るということである。 目覚めて起きる時がくる。 眠りについた人は起こされる、死を通っても復活して命は続くと語っています。 パウロはここでこう叫んでいます。 「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。 神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちも導き出してくださいます。」 イエスが復活したと信じるなら、イエスを信じて眠りについた人たちも復活する。 無駄に死んでいったのではない。 イエスが復活したと信じる者には、「死」は終わりではない。 よみがえられたイエスが、私たちも、またイエスを信じて眠りについた人たちも導き出してくださる。 そうであるのに、なぜ、あなたがたは嘆き悲しむのかと言うのです。 イエスは一度限り死んで、葬られ、よみがえらされたのです。 私たちは、そのイエスの死に結び合わされ、それゆえにイエスの復活とも結び合わされたのです。 イエスの死と復活を信じるなら、同じことがこの私たちの上にも起こるのです。 かつて地上で成し遂げられた贖いのみ業を受け入れて、神の民となった者を空中で迎えるために主ご自身が再び来られるのです。 地に生き残っている者も、既に眠りについた者も、共に新しい霊の体を与えられて、共に空中に引き上げられ、よみがえりの主イエスとともに生きるようになるためです。 私たちが目覚めていても、眠りについていても主と共に生きるようになる。 いつまでも主と共にいることになるためです。 これがパウロのいう「今、ここにある救い」です。 いつまでも主と共にいることになるという復活を見て、今を生きるキリスト者の希望です。 ですから、パウロは互いに励まし合いなさいとテサロニケの人々に語るのです。 主と共に生きるということは、死者の復活という望みをもって今を生きるということです。 だれでも、イエスにあって生き、イエスにあって死んだのなら、たとえ今死んでいても、イエスの中にあり、イエスにあって眠りより起こされるとパウロは言っているのです。
「初めのささやかな日」 ゼカリヤ書4章1~14節
主の使いが、眠りについていた預言者ゼカリヤに「何を見ていたのか」と迫ります。 ゼカリヤは「眠りから揺り起された者のようであった」と言います。 「すべてが金でできている燭台が見えます。 その頭の部分には、七つのともし火皿と七つの管が付いています。 その左右の傍らには、二本のオリーブの木が立っているのが見えます。」とゼカリヤが答えています。 しかし、ゼカリヤはそこに留まらず、「主よ、これは何でしょうか」と主に問います。 ゼカリヤが主を信じていたからこそ、主は答えてくださると信頼していたからこそ、祈り求めたのでしょう。 主を信じて、従った者だけが味わう、後で知らされる主の恵みの体験です。
ペルシャ帝国の王が、捕らえていたすべての民を故郷に返し、宗教の自由を与え、神殿の建築を許可したようです。 イスラエルの民もまた祖国に帰り、その荒れ果てた祖国の姿に本当に驚きました。 ゼルバベルというダビデの家系にあった政治家、そしてヨシュアという祭司の系統をひく信仰の指導者が立てられていました。 ペルシャ帝国が独立運動への厳しい監視をする。 他民族の横やりがある。 あまりにも荒廃した瓦礫が山積みになっている。 この二人の人物に、様々な障害が「山地」となって立ちはだかっていたのです。 神の民を託されたこの二人の働きに、果たしてイスラエルの再建につながっていくのだろうかと人々は不安を感じていた。 その時にゼカリヤに語られた主のみ言葉と幻が、今日の聖書箇所です。 「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、立ちはだかる山は平地となる。 ゼルバベルの手が用いられて、イスラエルの家の基を据えることになる。 完成することになる。 ゼルバベルの手にある選び抜かれた石を見て、喜び祝うべきである。 全地の主の御前に立つ二人の油注がれた人たちによって成し遂げられるようになる。」というみ言葉がゼカリヤに臨んだのです。 「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」です。 他の聖書では、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」となっています。 「目に映るのは無に等しいものではないか」と蔑んだ人々に、「立ちはだかる山を平地とし、ゼルバベルの手を用いて神殿のもっとも大切な親石を据えさせる。 事をつくり出しているのは、わたしの霊である。 その初めのささやかな日をだれが蔑むのか。 わたしの霊はあなたがたの中にとどまっている。 恐れてはならない。」と、主は励ましてくださったのです。 七つのともし火とは、全地をくまなく見回る主の目です。 二本のオリーブの木とは、主に油注がれた二人の者です。 オリーブの木が大地から栄養を吸い上げ、油を産み出しているように、主のみ言葉により主の霊を受け、それを注ぎ出して人々に分け与えています。 この二人が神殿を再建しているのではない。 主ご自身がその霊によって、彼らを用いて成し遂げようとされているとゼカリヤに告げたのです。 人々の目が「初めのささやかな日」、無意味と思える些細なことと蔑んだことを、主は喜んでくださる。 この些細なことをご覧になって、自らの霊を送り、導いて、み心を成し遂げてくださる。 ともし火の燃料となるオリーブ油が背後の木から供給され続けているように、私たちに霊を注いで働いてくださる。 新訳聖書の時代のペトロは、この油注がれた二人を合わせもつ王であり、祭司であり、遣わされて据えられた石こそ、よみがえられた主イエス・キリストであると言います。 この地上に主の家を建て上げるために遣わされたこの尊い石、生きた石を、私たちは不要な石だと十字架に向って投げ捨てたのです。 その捨てられた石を主が拾ってよみがえらせ、主の教会のために据えた。 主は、瓦礫の石ころのような私たちを拾い上げて、用いて、尊い生きた親石、よみがえられた主イエス・キリストに結びつけてくださるのです。 この主の霊によらなければ、何事も成し遂げられません。 私たちは、油が注がれ続けることを求め、備え、祈り続けることです。 それは、小さな「初めのささやかな日」から始まるのです。
「まさしくわたしだ」 ルカによる福音書24章36~49節
ルカ福音書によると、最初のイースターは、復活の日の朝早く先ず「イエスと一緒にガリラヤから従って来た婦人たち」に訪れた。 その日の昼には、望みを失って、困惑のなか十字架のもとを離れて、もといた故郷に戻って来た二人の弟子に訪れた。 その日の夕方、夜には、弟子たちが恐れおののきエルサレムに隠れ集まっていたところに訪れたと語っています。 エルサレムに残っていたイエスの弟子たちは、恐ろしさのあまり家の戸に鍵をかけて部屋に閉じこもっていたのです。 自分たちが従ってきたイエスが、十字架刑という重大犯罪人として処刑されてしまった。 今度は、自分たちにその危険が及ぼうとしている。 しかし、肝心のイエスの遺体が見つからないと知らされた。 また、よみがえられたイエスに出会ったという証言も聞かされた。 家に閉じこもって弟子たちが互いにあれこれと話し合っていた。 おそらくそこには、イエスの墓を見に行って「あの方は、ここにはおられない。 復活なさったのだ。」と神の使いに告げられて、その一部始終を知らせた婦人たちもいたのでしょう。 エマオの村へ災難を避けて帰る途中にあった二人の弟子もエルサレムに再び戻されて、そこにいたのかもしれない。 その真ん中に、突然、イエスが立たれて「あなたがたに平和があるように」と言われた。 弟子たちは「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」とあります。 イエスは家の中にまで入って来てくださり、かつて地上の生活をともにしたイエスである。 手も足もある。 肉も骨もある。 焼いた魚もあなたがたと一緒に食べる。 その姿を見よ。 「なぜ、うろたえているのか。 どうして心に疑いを起こすのか。 私の語る言葉を聞きなさい。 わたしのからだを触ってよく見なさい。」とかつてあり、今もあり、そしてこれからもある、変わらないイエスご自身であると、釘をさされた手と足をお見せになって「まさしくわたしだ」と宣言してくださったのです。 このイエスが見えていないというこの時が大事なのです。 私たちがイエスの語りかけを聞くためです。 イエスの説き明かしを聞くためです。 自分の本当の姿を見つめ直し、悔い改めを与えられるためです。 よみがえられたイエスと一緒に食事をするためです。 イエスが分からないと、私たちがイエスを追い求めているこの時こそ、イエスが私たちを支えて、導いて、汗を流してくださっている時です。 イエス自ら呼びかけて、憐れんで、祈って、自らの体を示して、私たちに働きかけてくださっている時です。 「わたしは苦しみを受けて、死に至る。 しかし、そこから復活する。 そのことが宣べ伝えられる。 死んで生き返ったという事実だけに留まらない。 その意味が、私たちの罪のためであったと気づかされる。 そのための悔い改めが、私たち一人一人に与えられる。 その事実の証人として、私たちは立てられる。 そのために、父が約束されたものを送る。」と言われたのです。 よみがえられたイエスが真ん中に立たれたところに神の国が訪れました。 弟子たちが分かろうが、分かるまいが、家の中にまで入ってきて、呼びかけてくださったところに神の国が訪れました。 復活の主ご自身が、エルサレムの片隅の家に弟子たちを集められたのです。 空の墓を見つめさせられた婦人たちも集められたのです。 エルサレムから反対方向へ戻って行った二人の弟子も呼び戻されたのです。 恐れおののいている彼らに、「前にわたしから聞いた、父が約束されたものを待ちなさい。 その聖霊の力に覆われるまでは、このエルサレムにとどまっていなさい。 エルサレムを離れないで、聖霊のよるバプテスマを授けられなさい。」と命令されたのです。 復活の主に出会う体験とともに、父から与えられる聖霊の力によってその意味を悟るために、そこに留まるようにと言われたのです。 この時の弟子たちの群れが、エルサレムから始まって、エルサレムを越えて、復活の証人として世界に遣わされて行ったのです。 イースターとは、静かにこの父なる神が約束してくださったもの、聖霊を待つ時なのではないでしょうか。
[fblikesend]「復活の目が開かれる」 ルカによる福音書24章13~35節
当時の主イエスの十字架のもとには、様々な人々がいました。 しかし、決して忘れてはならないのは、イエスの十字架の姿を見ることができなかった人たちがいるということです。 自分たちの望みを置き、このお方こそはと期待していたそのイエスが、よりによってローマの処刑により、その命が奪われてしまうことになった。 このお方こそ、エルサレムに入られたなら、いよいよ神の大いなる力によって、私たちをローマの支配から完全に解放してくださるに違いないと信じていたのにです。 ルカは、望みが打ち砕かれて、傷心の心持ちで自分たちの村へ帰って行く途中の二人の弟子の姿を描いています。 そこへ、見ず知らずの旅人が、この二人に近づいて来て、一緒に歩き始めた。 そして、歩きながら、「やり取りしているその話は何のことですか。」と声をかけて尋ねてきた。 その旅人に、二人の弟子は、「ナザレのイエスのことです。 この方は、行いにも言葉にも力があった。 私たちはこの人に望みをかけていた。 その人が十字架にかけられてしまった。 死んでもう三日が経ってしまった。 仲間の婦人たちが墓に行ったが遺体は見つからなかった。 他の弟子たちも駆けつけて捜したが、遺体は見つからなかった。」と、二人の弟子は過去にこだわったのです。 今日で三日が経っているのに、何も起こらない、事態は変わらない。 イエスに置いていた自分たちの信頼と抱いていた期待は裏切られたままであるとこの旅人に訴えたのです。
落胆している二人の弟子に声をかけたのは、よみがえられたイエスです。 彼らに追いついて来て、一緒に歩いて、落胆し悲しんで途方に暮れているその理由を本人たちに語らせようと、「何のことですか。」と迫ったのは、よみがえられたイエスです。 ルカは、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」と表現します。 よみがえられたイエスがどのような形で私たちに現れてくださるのかは、神の側の選びです。 その働きかけを受ける側の私たちが決められることではありません。 ここまですれば、必ずよみがえられたイエスに出会うことができるというものではありません。 過去に縛られて、一歩もそこから出てこようとしない私たちが、よみがえられたイエスに出会うためには、イエスの側から追いついて来られ、一緒に歩いて、尋ねられ、それに私たちが応えるところから始まります。 「何もかも希望を失ってしまった。 ところが、イエスの遺体を見つけずに戻ってきた仲間の婦人たちが、神の使いに『イエスは生きておられる』と告げられた」と、二人の弟子は言うのです。 ここから流れが変わります。 目が遮られ、よみがえられたイエスを見ることも、分かることもなかった弟子たちに、「物分かりが悪く、心が鈍く、聖書が語ることを信じ、待ち続けることのできない」弟子たちに、よみがえられたイエスが聖書の説き明かしを始められたのです。 「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 私は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている。 聖書にそう書かれている。 よみがえられたイエスは、弟子たちの抱く自分に都合のよいメシア像を砕きます。 自分に都合のよい望みを砕きます。 聖書に記されている通りになるように、なぜ待つことができないのかとみ言葉の説き明かしをされたのです。 この旅人の言葉に何かを感じ取った二人の弟子は、自分たちの家に泊まるようにとその旅人を無理に引き止めます。 その家で、よみがえられたイエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになったのです。 パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂くのはその家の主人がすることです。 無理に引き止められて、その家に泊まったイエスが、そのことをなさったのです。 二人の弟子は、その旅人を自分たちの家の主人として受け入れた時に、「すると、二人の目が開かれて、イエスだと分かった」とルカは言っているのです。 二人の弟子たちは、時を移さず出発して、エルサレムに再び戻ったとあります。 心を打ち砕かれて故郷に逃れて帰って来た彼らが、復活の主に出会い喜び勇んで、再び危険なエルサレムに帰って行ったのです。
「復活の喜び」 ルカによる福音書24章1~12節
ルカによる福音書は、主イエスの十字架の一部始終を見ていた人物として、ふたつの存在を登場させています。 ひとつは、「本当に、この人は正しい人だった。」と告白した、ローマの百人隊長の存在です。 もうひとつは、「ガリラヤからイエスにずっと従ってきた婦人たち」の存在です。 当時のユダヤ教の社会では、処刑された者が通常の埋葬など赦されているはずはありません。 「死体の捨て場」と言われてもいいようなところにもっていかれていたようです。 しかし、神はそこにひとりの人物を備えます。 アリマタヤのヨセフという議員です。 この地方の有力な人物であったのでしょう。ローマ総督ピラトに直接会うことが赦されているほどの人物です。 このヨセフが、ピラトが本当にイエスは息を引き取ったのかと疑い、百人隊長に確かめさせたほど素早くイエスの遺体の引き取りを願い出ているのです。 すべては、神のご計画です。 これから引き起こされる、人類が経験したことのない「復活」の証言のためです。 この世界で最初の「復活の証言」を託されたのが、この「イエスの十字架の一部始終を見ていたガリラヤからイエスにずっと従ってきた婦人たち」です。
イエスの遺体に人並みに香料と香油を注ぎたい。 その遺体の前で涙を流し、愛するイエスを偲びたい。 せめて、今、自分たちができることを精一杯しようとして、このヨセフが行った埋葬までも見届けた。 その墓の場所と、イエスの遺体が納められた有様を見届けた。 そして、安息日を終えると直ちに、イエスの遺体に香料と香油を注ぐようにと準備までした。 墓の入り口にある大きな石をいったいだれが取りのけるかなど、思いも及ばないほど彼女たちは駆り立てられていたのです。 もうどうすることもできないと諦めている人には接することのできない、触れることのできない出来事に、これから彼女たちは出遭うのです。
驚くべきことは、当時の社会では顧みる価値のない者として位置づけられていた彼女たちを、わざわざ神はその「復活の最初の決定的な証人」として選んだのです。 その驚くべき働きを、そのような人物に委ねた、託したと福音書が語っているということです。 「復活する」ということは、終わりの日にはそうなると教えられていたかもしれない。 しかし、今の私たちと同じように信じることなどできませんでした。 墓のところに行ってみると、墓石がわきに転がされていた。 事前に見届けていたはずのイエスの遺体がなかったことに気づいて、途方に暮れた。 愛するイエスとの最後のお別れに、弔い、悼み、悲しみを心から味わうことができなくなってしまった。 そこにみ言葉が語られたのです。 「あの方は、ここにおられない。 なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。」 この語りかけに、彼女たちは地に顔を伏せるほど恐れたけれども、「必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」というイエスが語られたみ言葉を思い出した。 その時からです。 墓に出かけて行った彼女たちは、墓から戻ってきたのです。 死者の中にイエスを捜していた彼女たちは、向きを変えて生きる世界へと帰ってきたのです。 そして、ほかの弟子たちにその一部始終を知らせたのです。 これが、最初の復活の証人として立てられた瞬間でした。 この時、「たわ言」のように思った弟子たちが変えられていったのはどうしてでしょうか。 この復活の主イエスに出会ったからです。 実体験したからです。 今まで耳で聞いて、頭で聞いていたイエスのみ言葉に、十字架の死と復活の出来事によってイエスの命が注がれたからです。 そして、彼らが、イエスが約束してくださった父なる神の贈り物、聖霊を受け取ったからです。 この十字架こそ、自分たちのためであったと気づいたからです。 イエスを、今よみがえられて、生きて働いておられるお方であると信じる以外に、私たちの信仰はありません。 信じた者だけが、この生きた神の働きと喜びを知ることができるのです。
「イエスを愛する者」 ヨハネによる福音書14章15~24節
ひとりの弟子がイエスに尋ねます。 「主よ、わたしたちには御自分を現わそうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか。」 なぜ、だれにでも分かるような形でご自身をお示しにならないのですか。 そうすれば、今のように心配しないですむのではないですか。 これが、イエスから最後の別れを告げられて不安を隠そうとしない弟子たちの本音です。 しかし、イエスは、「心を騒がせるな。 神を信じなさい。 そして、わたしを信じなさい。 戻って来て、あなたがたをわたしのもとへ迎える。 わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」と語られました。 そして、これから始まる新しい世界との別れ目に、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。 わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 しかし、わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。 あなたがたが聞いているわたしの言葉は、わたしをお遣わしになった父のものである。」 「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。 わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。 わたしもその人を愛して、その人にわたしを現わす。」と語られたのです。 そのために、イエスは大事なものを「父にお願いしよう」と、これから別れることになる弟子たちに約束してくださったのです。
ここで、「別の弁護者、真理の霊」と呼ばれているものです。 この「霊」が、あなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいるから、「決してみなしごにはならない。 あなたがたは、わたしを見るようになる。 わたしがあなたがたの内にあることが、あなたがたに分かるようになる。 あなたがたはこの霊を知るようになる。」と言われたのです。 イエスはご自身を「道であり、真理であり、命である」と言われました。 「わたしが、父なる神のもとへ向かう唯一の道である。 あらゆる人の償いの代価として払われたご自身の十字架の死、この道を通らなければ何人と言えども、父のもとへ行くことはできない。 この道案内するものが、真理の霊である。 一度死んだものが、新しい命を授けられて再び父のもとへ導かれて行く。 霊的に死んでいた私たちにとって、新しい命を授けるものである。 神のもとを離れてしまっていた私たちにとって、何のために生きているのか分からなくなってしまっていた私たちにとって、新しい命を与えるものである。 この「よみがえらされて、今もなお、生きて働いてくださっている復活の主イエス・キリスト」、父なる神と一体となってこの地上を歩まれたナザレの人イエスが死んで、父のもとへ戻られたイエス・キリストが、今度は、「復活の主」となられて、「真理の霊」となられて、再び私たちのところに戻って来られる。 そして永遠に私たちと一緒にいることになる。 一緒に住むことになる。 その新しい時代、神の時が訪れている。 その導き手が「別の弁護者、真理の霊」であると、ヨハネの福音書は語っているのです。 私たちは残念ながら、自分の能力や努力で、この死んで「復活されたイエス」を見ることも、知ることも、分かることもできません。 イエスご自身が今も生きて働いてくださらなければ、見ることも、知ることも、分かることもできないのです。 「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。 わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現わす。」 この働きが、「別の弁護者、真理の霊、聖霊」の働きです。 あなたがたはこの霊を知っている。 この霊があなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいる。 だから、あなたがたをみなしごにはしておかない。 あなたがたは、その傍らにあるその霊を受け取ることである。 見ようとして、知ろうとして、分かろうとして受け取ることである。 そうすれば、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛するようになる。 この復活されたイエスご自身を「傍らにおられる者」として受け取ることこそ、イエスを愛するということではないでしょうか.
「主の祝福を受けた一族」 イザヤ書61章4~11節
61章には、「貧しい者への福音」と小見出しがつけられています。 苦しんでいる人たち、抑圧されている人たちへの福音です。 「良い知らせを伝えられた貧しい人」、「心が打ち砕かれた人」、「自由を与えられた囚われ人」、「今はつながれているけれども、解放を告げ知らされた人」、「今は嘆いているけれども、慰められた人」、このような人々こそが、「とこしえの廃虚を建て直す。」 「主の祭司と呼ばれ、わたしたちの神に仕える者となる。」 「永遠の喜びを受ける。」 「主の祝福を受けた一族」であるというのです。 その理由は、「主が油を注ぎ、主なる神の霊がとらえたこの『わたし』を、『貧しい人たち』のところに遣わして、良い知らせを伝えたからだ」と言っているのです。 この『わたし』こそ、預言者イザヤでしょう。 しかし、ルカによる福音書(4:16-21)は、このみ言葉に新しい光を与えます。 イエスはガリラヤ宣教を始められたころ、このイザヤ書61章1節2節を会堂でお読みになって、すべての人の目がイエスに注がれた時、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われたのです。
イエスはなぜ、この聖書箇所に目を留められたのでしょうか。 ここに記されていることこそ、イエスがこれから成し遂げようとされていることであったからです。 主なる神の霊がわたしをとらえた。 主が油を注いで、祭司として、王として、そして主の僕として、このみ言葉を成し遂げるために任命してくださった。 そのお方が、今、ここに遣わしてくださった。 だから、イザヤの時代と同じように、このみ言葉が成し遂げられたとイエスは語られたのです。 「あなたたちは永遠の喜びを受ける。 主にあって喜び踊る魂が与えられる。 救いの衣を着せられる。 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。 花婿のように輝きの冠をかぶらせてくださる。 花嫁のように宝石で飾ってくださる。」 この約束を、大地が草の芽を燃えいでさせるように、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、当たり前のように成し遂げてくださる。 それも、すべての民の前で、霊なる恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されたのです。
このように新しい霊の命を与えようとされておられるのに、私たちはこの世のものを求めてしまいました。 この約束の宣言から三年も経たないうちに、私たちは自分の思い通りにならない不満と焦りから、イエスを十字架にかけてしまったのです。 しかし、父なる神はそのイエスをよみがえらせて、良き知らせを告げる者として、十字架につけた私たちのところに遣わして、その張本人である私たちを「主が輝きを現わすために植えられた木となる。 神に仕える者、祭司となる。 この荒れ果てた廃虚を建て直す者となる。 主から与えられた喜びの冠をかぶせられる。 救いの衣を着せられる。 恵みの晴れ着をまとわされる」と言われたのです。 私たちは、この世に満足して、あるいはこの世に諦めて、せっかく父なる神が用意してくださっているこの「喜びの冠」、「救いの衣」、「恵みの晴れ着」をどこかに置いてしまっているのではないでしょうか。 様々な人を用いて使いを私たちのところにまで遣わしてくださっているのに、私たちは無視していないでしょうか。 この神の呼びかけに応えようとしているでしょうか。 それでも神は、私たちすべての者を招き続けてくださっています。 イエスは、「喜びの冠、救いの衣、恵みの晴れ着をあなたがたはすでにいただいている。 もうこの約束は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現したのである」と宣言されたのです。 私たちは、主の輝きを現わすために選ばれ、ふさわしいところに植えられた木です。 破壊されたものを建て直すために用いられるようになった者です。 神の民の代表として神に仕えるようにされた者です。 新しい務めを授けられた主の僕です。 この身分を回復された最高の祝福を受けた「主の祝福を受けた一族」なのです。
「家を建てる者の捨てた石」 詩編118編5~25節
詩編118編は、お祝いの時、祝祭日の際に礼拝の中で歌われた賛美です。 過越しの祭りの食卓で感謝をしめくくる最後の賛美であったようです。 「恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに」という語りかけの言葉によって始まり、終っています。 「主に感謝をささげる」ということが呼びかけられています。 神の民すべてに、「感謝すること」を促しています。 「苦難のはざまから主を呼び求める。」 すると、「主は答えてくださる。」 「主は、その苦しみからわたしを解放してくださる。」 「主はわたしの味方、助けとなって、わたしの敵となる者を支配するまでになることを見させてくださる。」 だから、「わたしは解き放たれた。 わたしは誰をも恐れない。 敵となる者はわたしに何もすることができない。 わたしは人間に頼らない。 この世の力に頼らない。 ただ、主だけを避けどころとする。」と、高らかに賛美しています。 私たちもまた、人生の階段を一歩ずつ歩んでいきますと、本当に様々な苦しみに出会います。 その都度、鍛えられ、新しくされていきます。 どうしても解決することができなくて、呆然とたちすくむ時もあります。 何もかも諦めた時です。 不思議な平安が与えられる経験をされたことはないでしょうか。 私には、呼び求めるお方がおられる。 どのような立場であっても、願うことすら赦されないような状況にあったとしても、私には祈り求めることが赦されている。 それも助けてもらえる理由のない私の側に立って、味方となって、助けとなって励ましてくださる。 私の弱さや醜さを責めることなく、むしろ憐れんで、慰めまでしてくださる。 そのことに気づかされる時が幾度となくあります。 この詩人もまた、「激しく攻められて倒れそうになった私を主は助けてくださった。 救ってくださった。 だから、自分の側に立ってくれる人がだれ一人いないようなところでも、また、敵に何重にも包囲されているような困難なところを通らされても、私は主のみ名によって歩んで行く。 主のみ名が、取り囲む敵から解放してくださるから、また主の右の手によって主の力が私を包んでくださるから、私はその主の救いの喜びを歌う。 主の門を通って主に従い、主に感謝をささげる。 わたしはあなたに感謝をささげる。 あなたはそれに答え、救いをわたしに与えてくださった。」と賛美しているのです。 「わたしたちの目には驚くべき主のみ業であった」と表現している通り、不思議な出来事です。 「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった」と表現しています。 家の四隅に置かれる親石とは、その建物を支える大事な石です。 親石には、選び抜かれた、もっともふさわしい石が用いられるはずです。 人からも神からも捨てられて、軽蔑された石が、時が満ちて主の名によって選ばれ、救われ、もっともふさわしい時にもっとも重要な土台となって、再び用いられるようになった。 主のなさることは驚くべき業、私たちの思いをはるかに超えた業です。 私たちがどのような状態であったとしても、この「隅の親石」となってくださった主の救いにもうすでに私たちは与かっているのです。 この主のみ業に与かっているから、「感謝をささげる」のです。 私たちが役にたたないと捨てた石です。 つまずいた石です。 十字架につけた石です。 それが、父なる神の寛容によって、大きな愛によって、私たちの「救い」となってくださったのです。 詩人が、主の名によって、主の力によって生かされたと悟ったように、私たちもまた「捨てられた石」が「隅の親石」となるという、敗北の中にある逆転の勝利という驚くべき業を本気で信じましょう。 そして、私たち自身もまた「生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるよう」、「神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げて」(ペトロ一2:5)参りたいと心から願います。
[fblikesend]「すでに、あらゆるところに蒔かれた種」 マルコによる福音書4章1~9節
パウロは、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)と言い切っています。 信仰は聞くことである。 信仰はイエス・キリストの言葉を聞くことによって始まると言います。 イエスはご自身のみ言葉を「よく聞きなさい。 聞く耳のある者は聞きなさい。」と、だれにでも分かるたとえを用いて語っておられます。 蒔かれた種は道端に落ちれば、鳥にさらわれてしまう。 石だらけで土の少ないところに落ちれば、根がないために枯れてしまう。 茨の中に落ちれば、茨が邪魔をしてふさいでしまい、実を結ばない。 しかし、良い土地に落ちれば、芽生え育って、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ。 このたとえは、イエスのみ言葉を聞く私たちの態度だけをイエスは語っておられるのでしょうか。 福音書は、「種を蒔く人が種まきに出て行った。」と語り出しています。 「種」だけに注目すれば、神の言葉はだれの目にも分かる形では決して蒔かれていない。 力強い大きな存在としてではなく、小さな存在として種が蒔かれていると語っています。 しかし、その中に、神の言葉の力が秘められている、隠されている。 自ら芽生え、育ち、実を結ぶ力が備えられている。 その種が、神が定められた時に、人間のあらゆる抵抗を打ち破ってみ言葉の力があふれ出る時がくる。 その時を希望をもって待ち続けなさいと言っておられるのです。 「土地」に注目すれば、三種類の「種の成長を妨害するものがある土地」と、「種の成長を妨害するものがない良い土地」が語られています。 「良い土地」とは、どのような土地であるのか一切語られず、神の祝福だけが語られています。 元々は、土地には種は蒔かれていなかったのです。 私たちは、初めから種をもっていないのです。 まして、自分だけで成長させ、実を結ばせる力などないのです。 「種を蒔く人」が出かけてきてくださったから、実を結ぶ希望が与えられたのです。 蒔かれた「種」は、それぞれの「土地」と無関係に働くわけではない。 神の言葉が、生きた私たち人間と出会い、その交わりによって育まれ、神の国をもたらすのです。 「土地」には受身であるけれども、役割があるのです。 本来なかった「蒔かれた種」が授けられた、託された責任があるのです。 神の言葉は、「種を蒔く人」によって様々な形で、もうすでに蒔かれています。 あらゆるところに蒔かれています。 蒔かれたところは、良い土地であると信じて「種を蒔く人」によって蒔かれ続けています。 終りの時には、収穫される実がなると信じて蒔かれているのです。 イエスはこのたとえによって、父なる神がその「種」を育ててくださると約束しています。 私たちはそれを受け止めて、しっかりと離さないことです。 私たちは、「種を奪う者」のしつこい力を知らなければなりません。 一方で、「種を見失う者」の自分の弱さもまた、わきまえておかなければなりません。 信仰をもって受け入れておかなければ、その「種」に秘められた力を持ち続けることができないのです。 イエスは、この秘められた小さな存在である「種」を与えようとして、「よく聞きなさい。 聞く耳のある者は聞きなさい。」と語り、父なる神との交わりに招いてくださっているのです。 「初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。 『光あれ』 こうして光があった。 神は光を見て、良しとされた。」と、創世記1章1~3節に記されています。 暗闇の何も見通すことのできない世界に「光あれ」と、その中心に光を置かれたのです。 言葉による創造です。 私たち人間は、この神の言葉に応える者として創造されたのです。 何の秩序もない混沌の面に、神の霊が動いていたのです。 この世界は、この神の言葉に根底を支えられて創られた世界なのです。 「天地は滅びるが決して滅びない」(マルコ13:31)と言われたイエスの言葉に、本気で立ち上がってみましょう。
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