「再び根を下ろし、実を結ぶ木」 イザヤ書37章26~31節
大国アッシリアは地中海への足がかりを得ようと、小さな国ユダの町や村を次々と制圧し、その首都エルサレムを包囲したのです。 アッシリア王は、「わたしの力を見なさい。 わたしの力のもとにひざまずくなら、あなたたちの身は守られる。 今の生活は保障される。」と無条件降伏をユダの国に迫ります。 脅迫され、行き場がなくなったユダの王ヒゼキヤは、心が揺れ動き、莫大な国の財産を差し出して命乞いをした。 それも金で覆われた神殿の扉や柱を一部切り取ってまで、賠償金として差し出したと言います。 私たちにとってのアッシリアとは何でしょうか。 「なぜ何の得にもならない、頼りにならない言葉に頼っているのか。」と、私たちに迫るものはいったい何でしょうか。 そうではない、ひょっとしたら私たちこそがそのように思い込んでしまっているのかもしれない。 ヒゼキヤの揺れ動く振る舞いは、私たちのうつろう姿を映し出しています。 「わたしたちの神に寄り頼む」と言いながら、その礼拝する場所の一部をはぎ取って迫りくる者にその場しのぎの犠牲を差し出してはいないでしょうか。 更に執拗に「お前が寄り頼んでいる神にだまされてはならない。 エルサレムは、アッシリアの王の手に渡される。 あらゆる国々の神々は火に投げ込まれて、それらの国を救い出すことはできなかったではないか。」と迫る手紙をヒゼキヤが手にした時です。 ヒゼキヤはその手紙を手に持って、自ら神殿に向ったのです。 神殿を傷つけてしまって顔を出すことも躊躇するようなところに、自ら決断し赴いたのです。 その脅迫の手紙を主の前に広げて、自ら祈り出したのです。 「イスラエルの神よ。 あなただけが地上のすべての国の神です。 あなたこそ天と地をお造りになったお方です。 主よ、この手紙に書かれている言葉に耳を傾けてください。 どうか今、わたしたちをアッシリアの手から救い、地上のすべての国が、あなただけが主であることを知るに至らせてください。」と祈ったのでした。 その時に告げられた主の御言葉が今日の聖書箇所です。
主はアッシリアの王に言います。 「お前は聞いたことがないのか。 すべては、はるか昔にわたしが計画を立てていたことである。 そのいにしえの日にここに描いていたことを、今、わたしは自ら実現させる。 今は、ユダの砦の町々を瓦礫の山にすることになった。 力を失ったユダの住民はうちのめされて恥に覆われ、野の草、青草のようになってしまった。 しかし、お前の奢りがわたしの耳にまで上ってきたために、わたしは行動を起こす。 お前が座っているのも、出て行くのも、入って来るのも、わたしに向って怒りに震えていることもわたしはすべて知っている者である。」と告げ、エルサレムはアッシリアによって滅ぼされることはないと約束してくださったのです。 一方、絶望の淵にいたユダの王ヒゼキヤにも主は言います。 「あなたにその救いの業の約束のしるしを与える。 このアッシリアによる傷跡のなかにも、わたしの民を養う。 最初は苦難が継続する。 しかし、三年目には種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を造り、その実りを食べるようになる。 そのために苦難を味わい、そこに留まり続けた残された者に、「再び根を下ろし、上には実を結ぶ木」を備えると告げられたのです。 主に真剣に祈る者には必ず主は応えてくださいます。 もう祈っても応えられないと諦めていることがあるでしょう。 もう変わりようがないと祈ることを止めていることがあるでしょう。 ヒゼキヤのように、神を罵る者の実情をみ前に広げて、そこに神の力が働くよう祈り求めてみませんか。 私たちが苦しんでいるのは、神に力がないのではありません。 私たちが力あるお方を本当に信じて、期待して、祈り求めて「待つ」ことができないからです。 主はいっぱいの実がなるようにと私たちに期待しておられるのです。
「キリストを宿していく」 ルカによる福音書1章26~38節
「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけである」マリアに、天の使いが唐突に「おめでとう、恵まれた方。 主があなたと共におられる。」と告げたのでした。 「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」とあります。 他の聖書訳では、「ひどく胸騒ぎがして、思いめぐらしていた。」と書かれています。 マリアにとってまったく意味の分からない不可解なことです。 突然の思いがけない知らせです。 そうしたマリアの戸惑いに関係なく、天の使いは「マリア、恐れることはない。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」と告げるのです。 ユダヤの社会では婚約したふたりは、法的には夫婦と同じです。 しかし、一緒に住むまでは結婚生活ではありません。 婚約中の身に、いきなり「自分の子を産む」と告げられても、いったいだれの子がこれから生まれるのか、マリアにとって身に覚えのないことです。 それどころか、当時のユダヤ社会で父親に与えられている子どもの名付けの権利すら奪われて、「イエス」という名前まで定められている。 「どうして、そんなことがありえましょうか。 わたしにはまだ、夫がありませんのに」と、マリアは自分のことで精いっぱいです。 この子がどのような者になるのか、その子の名前には「神は救いである」という特別な意味が込められているなど、まったく視野に入っていません。 マリアは、これからささやかな幸いの中に生きていこうとしていた矢先でした。 もし、そのようなことがこの身に起きたなら、婚約は解消されるかもしれない。 世間の中傷や誤解に向き合わなければならないかもしれない。 それよりも前に、どう考えても私の身に起きるはずがない、納得がいかない。 そう思ったからこそ、「どうして、そんなことがありえましょうか」、「どうして、そのようなことが、私にとって恵みなのでしょうか。」と神に反論したのです。 マリアの信仰が、自分の常識と葛藤しています。 このマリアの反論に神は応えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。 神にできないことは何一つない。 それがあなたにとって恵みである。」と告げたのです。
私たちは、自分が納得したから信じているのでしょうか。 分からないから、神を信じていないのでしょうか。 マリアはその時、私たちと同じように神のみ心が分からなかったはずです。 そこに、神が「いつも共にいてくださる。 あなたに聖霊が降る。 神の力があなたを包む。」と語りかけてくださったその言葉を、自分に向けられた言葉として受け止めることができたのではないでしょうか。 その言葉は、今までマリアが大切にしてきたものを壊してしまうものであったかもしれない。 常識を破る、自分の理性を越えるものであったかもしれない。 しかし、マリアは、このみ言葉の前に自分を投げ出して、なぜ自分にとって恵みであるのか分からないまま、この神の意志に身を委ねる決断をしたのです。 その言葉が、「わたしは主のはしためです。 お言葉どおり、この身になりますように。」という表明でした。 イエスは完成された人として、この世に遣わされたのではありません。 私たちと同じように、抵抗することのできない、ただ受けることによってしか成長することのできない弱い赤ちゃんとしてお生まれになったのです。 マリアはこの息子を宿して、養い育てていく、最初の証人として歩み始めたのです。 これは、マリアだけのお話でしょうか。 イエスの誕生を受け入れて、うちに宿して、育んでいく。 生涯の歩みを通して、このイエスの証人として歩んでいく。 この恵みがすべての人に与えられているのです。 パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。 イエス・キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と語っています。
「キリストが与えてくださる平和」 ヨハネによる福音書14章25~31節
主イエスはご自身がこれから捕らえられ、十字架に架け上げられ、殺される直前に、愛する弟子たちと最後の晩餐をともにされていました。 その最後に語られた言葉が、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」という言葉でした。 私はこれから、あなたたちの目には見えなくなるが、「わたしが去って行く前に、あなたがたに平和を残していく。 わたしはこの平和を世に与えるように与えるのではない。」と、最後の食事の席で言われてから、「さあ、立て。 ここから出かけよう。」と言われたのです。 世が与えるような平和とはいったい何でしょうか。 病気や災難に出くわさないよう、平穏無事に暮らすことかもしれません。 それだけではない、家庭の問題、経済の問題、社会的な問題もあるでしょう。 これらのものからいくら知恵を絞って逃れられたとしても、また先を見越してその影響を最小限に食い止められたとしてもなくならないでしょう。 ましてや、ひとりの人間が「死」を迎えるにあたってなすべきすべはないでしょう。 私たちは、ほんのわずかなことで崩れ、壊れてしまう者です。 主イエスはこれらのことを十分承知のうえで、「わたしの平和を残しておく。 わたしはこれを、世が与えるようには与えない。」と約束してくださいました。 世の支配者が来て私を捕らえて、十字架につけ処刑して私を殺すだろう。 あなたがたの見える目でみれば、力をもつ世の支配者のもとに屈した哀れな姿に見えるだろう。 しかし、世の支配者は私をどうすることも、私の命を奪うこともできない。 私は父なる神のもとへと去って行く。 しかし、再び、あなたがたのもとへ遣わされて戻って来る。 すべては、父なる神のご計画の中にある。 そのことが分かる時が必ずやってくる。 だから、「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。 すべては、父がお命じになったとおりに行っていることを世は知るべきである。 父がお命じになったように、このわたしが従って行っていることを世は知るべきである。」と言われたのです。 弟子たちがイエスの言われたこのことの意味を知ったのは、十字架の後です。 死んで葬られ、イエスの姿が見えなくなってしまった後です。 「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と言われたとおりでした。 墓の前に泣き崩れ、墓に向っていたマグダラのマリアの目が、「婦人よ、なぜ泣いているのか」という声に今までとは反対向きに振り向いた時でした。 マリアは、それが新しく霊の世界に生きておられるイエスであることが初めて分かったのです。 「わたしは主を見ました」というマリアの言葉が、最初の復活の証言であったことを聖書は語っています。 「キリストが与える平和」とは、神と人との間に回復された交わりでした。 「死」によって終りを告げない「平和」でした。 聖霊によって霊の目で見えることができる平和でした。 「キリストの与える平和」とは、この聖霊によって、賜物として与えられる「平和」であると聖書は言います。 ですから、「この世の支配者やこの世が決して与えることができない真の平和を与える。 心を騒がしてはならない。 おびえてはならない。」と言われたのです。 この「心を騒がしてはならない。 おびえてはならない。」と言ってくださるお方が共におられる「平和」です。 このお方が「さあ、立て。 ここから出かけよう。」と、私たちを世に遣わしてくださっています。 主と共に旅立って、今、生かされているところで、イエスのお求めになっている務めにイエスと共に生きる。 そこには神が働いてくださるという確信に立っている。 この確信こそ、「キリストが与えてくださっている平和」なのではないでしょうか。
[fblikesend]「光のあるうちに、光を信じなさい」 ヨハネによる福音書12章27~36節
主イエスは「今、わたしは心騒ぐ」と、ご自身の心情を包み隠さず語っておられます。 深い怖れと苦悩を憶えられたと書かれています。 多くの殉教者が確信と平安のうちに「死」を迎えた姿とは対照的とも言えます。 イエスはいったい何を怖れ、何に苦悩されたのでしょうか。 このお姿は、他の福音書にあるゲッセマネでのたったひとりの祈りと同じ姿です。 「わたしは死ぬばかりに悲しい。 父よ、あなたは何でもおできになります。 この杯をわたしから取りのけてください。」と、ひどく怖れ、苦しみもだえ、地面にひれ伏して祈られました。 「わたしと父とは一つである」と語り続けられたイエスが、父なる神の裁きの下に「死」を迎えることの苦悩がそこにあるのです。 「死」が父なる神との永遠の断絶であると知り尽くしておられるがゆえに、怖れ悩まれたのです。 父なる神に従わなかったことのないお方であるがゆえに、私たち人間に代わって引き受けるその「死」を前にして「死ぬばかりに悲しい、心騒ぐ」と吐露されたのです。 私たちが忘れてはならないことは、そのような時にこそ、イエスが時間を割いて一人で祈っておられるという事実です。 「父よ」と呼びかけて、父なる神との交わりを失わないよう祈っておられるということです。 当時のユダヤ教では、「父よ」と直接呼びかけることなど考えもつかないことでした。 主イエスはその深い怖れや苦悩を担ったまま、ご自分に与えられた務めを果たすことによってご自分の願いを克服しようと激しく祈ります。 「しかし、わたしはまさにこの時のために来た。 父よ、御名の栄光を現わしてください。 わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」 これが、その時の主の祈りです。 私たちに与えられている「主の祈り」は、父から見捨てられるという深い怖れと苦悩を抱えたまま、父のみ心である与えられた務めを果たすことで、父の栄光が現れることだけを願う「祈り」です。 私たちはこの祈りを主とともに、主の祈りに添えて、神のみ心に従おうとしてささげているのです。
主イエスは、「今こそ、この世は既に裁かれる。 この世の支配者たちは追放される。 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せる。」と言っています。 主イエスの贖いの死によって、「既に」私たち人間の罪が赦されたのです。 しかし、私たちの見える目にはそうは見えません。 「本当ですか」と疑いたくなります。 しかし、一回限りの救いの業は成し遂げられたのです。 そして十字架に架け上げられて、よみがえりの主として永遠の世界に上げられたのです。 今もなお聖霊の主として働いてくださっているこの主イエスが「再び」来られるその時までを、私たちは今歩んでいます。 ですから、「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。 暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。 暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」と、私たちに決断を促しているのです。 私たちに与えられている時間は貴重です。 私たち人間は生まれながらのままでは、真の光を持ち合わせていません。 暗闇を歩む者です。 光を受けなければ見ることができません。 その為には、光の前に恥ずかしくても立たなければなりません。 自分を光の中に投げ込まなければ、光を信じなければ光の子となることができません。 私たちは、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。 わたしは世の光である。 わたしに従う者は暗闇を歩かず、命の光を持つ」と言われたこのお方を、うちに宿らせなければ光の子となることはできないのです。
「主を待ち望む人」 イザヤ書 30章15~18節
他国が攻め入ってきた時、「落ち着いて静かにしていなさい」と、預言者イザヤに戒められていたユダの国の人々は、エジプトの国の力に頼ってしまったのです。 主に信頼しないで、主のみ言葉に耳を貸さないで、エジプトの保護を求めてしまう。イザヤを通して語られた主のみ言葉を無視して、イザヤに隠して、使いをエジプトに送ってしまったのです。 エジプトこそ、かつて奴隷の身となり、ユダの人々が囚われて虐げられていた地のはずです。 たとえ貧しくとも、主のみ言葉に信頼して、自由を求め、民族を挙げてそこから脱出してきたはずです。 40年にもわたる荒野のさまよいを経て、やっと主が約束してくださった地に辿りついたのに、またそこへ戻って行こうとする。 主に信頼しないで、自らの知恵に頼り、逆の方向に向って財宝を乗せてまで、エジプトの王に助けを求めようとして使いをエジプトに送ってしまうのです。 そのようなユダの国の人々に語られた主の言葉が、「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。 安らかに信頼していることにこそ力がある。 しかし、わたしに立ち帰ることも、安らかに信頼することも望まなかった。 エジプトの軍備に頼って逃げようとした。 もっと大きな力に頼ろうとした。 しかし、その行き着く先は哀れな結果となる。」という厳しいみ言葉でした。 浮足立つ、このユダの国の人々の惨めな姿がここに映し出されています。 しかし、驚くべきことに、反逆の罪を厳しく裁かれるそのお方が同時に、罪そのものを裁き洗い流した後には「罪にまみれて虚ろう人々を救うために、恵みを与えようとして待っておられる。 憐れみを与えようと立ち上がっておられる。 なんと幸いなことか、主を待ち望む人は。」と告げるのです。
イザヤを通して語りかけるこの主なる神の姿と浮足立つユダの人々の姿に、最後の晩餐の時に示されたイエスの姿と弟子たちの姿が重なります。 私たちはユダの人々と同じです。 目に見えるものだけに目を奪われて、自分の求めに従います。 自分たちが求めている声だけに耳を傾けます。 何度も、この世の霊に誘われるままに、過ちを犯してしまいます。エジプトの力に頼る私たちの姿がそこにあります。 ひとりの例外もなく、私たちは主イエスを悲しませる者です。 ですからイエスは、十字架の死によって、過ちにまみれた私たちの足を一人ずつ洗ってくださるのです。 だれも手をつけないこの汚れた足に触れて、十字架で流してくださった血と涙によって洗い、腰にまいた手ぬぐいをもって拭きとってくださるのです。 一度や二度のことではありません。 罪による永遠の死の恐ろしさを、本当に知り尽くしておられる唯一のお方、その主イエスが、私たちのすべての過ちを一身に引き受けてくださったのです。 過ちにまみれたこの足を洗ってくださるお方がおられるからこそ、私たちは主に従う道を歩んで行くことができるのです。 「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。 安らかに信頼していることにこそ力がある。」と預言されました。 このイザヤの預言する「その日」こそ、救い主イエス・キリストの誕生によって成し遂げられたのです。 私たちは目に見える力、エジプトに頼る者です。 逆戻りして、もといたエジプトに戻ろうとする愚かな者です。 常識というものさしで浅はかに動いてしまう者です。 最初にクリスマスが訪れたマリアも、私たちと同じでした。 常識で判断すれば、神に告げられたことは不安と恐れのうちに逃げ出してしまいたい、そういう事柄でした。 しかし、そうした中でも、マリアは解決しないまま、その不安と恐れを担ったまま、「お言葉どおり、この身になりますように」と、主のみ言葉に生涯をかけて従ったのです。 私たちは主の誕生によって、目が見えるようになり、耳が聞こえるようになり、主を信じることが、また主を待ち望むことが赦されるようになったのです。
「私たちのうちに宿る言葉」 エレミヤ書 15章16節
預言者エレミヤは、主の言葉が直接臨んで召された預言者でした。 「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。 母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」と、主なる神に告げられたエレミヤはしり込みをします。 「わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。 わたしは若者に過ぎませんから。」と逃げ出そうとするエレミヤに、更に主の言葉が及びます。 「若者にすぎないと言ってはならない。 わたしがあなたを、だれのところに遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。 彼らを恐れるな。 わたしがあなたと共にいて必ず救い出す。 見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。 見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。」と、エレミヤを送り出したのです。 これが、エレミヤの預言者として召し出された時の「み言葉体験」でした。
主なる神に託されたみ言葉は、神を捨て、神に背き、踏み外したその道から悔い改めしようとしないユダヤ、エルサレムに向いました。 厳しい裁きの言葉を告げられたのでした。 エレミヤはこのユダヤの国を愛するがゆえに、主なる神から託された厳しい言葉によって、その滅びを嘆き悲しみました。 預言者として、この国そしてその民のために執り成そうとしたけれども、主なる神に拒まれてしまった。 主の憤りの言葉を語れば語るほど、社会を混乱に陥れる無用な人物と排斥され、反発を受けた。 エレミヤは、人々からも、また主なる神からも退けられるという孤独な道を歩まなければならなかったのです。 「わたしは災いだ。 わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。 国中でだれもがわたしを呪っている。」と嘆いたのです。 それだけではない。 「わたしは独りで座っていました。 あなたはわたしを憤りで満たされました。 なぜ、わたしの痛みはやむことなく、わたしの傷は重くて、癒えないのですか。 あなたはわたしを裏切り、当てにならない流れのようになられました。」と、ついに不信仰な訴えを口にするまでになったのでした。 エレミヤは悩み、嘆き、悲しむ中においても、民のために執り成しを訴え続けます。 主なる神との深刻な対話を繰り返し、その格闘の末のエレミヤの言葉が、「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。 あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び踊りました。」という告白でした。 エレミヤは何度も何度も神の御言葉を求めました。 召し出されたその時から、神の呼びかけと語りかけを決して聞き流しませんでした。 エレミヤは、その御言葉をむさぼり食べたと言うのです。 食べ物が、食べた人の体の一部となっていくように、み言葉を体の一部になるまでに食べた。 そのような体験をしたとエレミヤは言うのです。 神のみ言葉が、私の言葉になる。 私のからだに刻まれたみ言葉になる。これは、大げさな表現なのでしょうか。 エレミヤは、「むさぼり食べたその御言葉が、わたしのものとなった。 そのわたしのものとなった御言葉が、わたしのうちで喜び踊る心を産んだ。」と告白しています。 エレミヤは、み言葉によって新たに生きる者とされました。 むさぼり食べたそのみ言葉を語り続ける者とされました。 人がどのような言葉を見つけ出して、それをからだに刻みつけて支えられているかによって、その人のあり方や生き方が定まります。 その人のうちに宿った主なる神のみ言葉は、その人のところに留まりません。 霊が働いて、新しい命を産み出します。 それが躍動して、人から人へと語りかける言葉となって伝わります。 そこには、み言葉によって生まれた新しい「私」が生まれます。 み言葉は、私たちのうちに宿るのです。 それが喜びとなって、霊によって躍動して伝わるのです。 私たちはどのような言葉を内に宿すのでしょうか。
「神に結ばれるという実」 コリントの信徒への手紙二 9章6~15節
パウロは、なぜ異邦人の地から遥かに遠いエルサレムのユダヤ人教会を、献金をもって支えようとしたのでしょうか。 同胞の民であるユダヤ人たちに裏切り者だと憎まれ、疎まれていたにもかかわらず、このユダヤ人たちのために、なぜ献金をささげようとしたのでしょうか。 ユダヤ人の教会に献金をするなど関心の薄い異邦人の教会の人たち、むしろパウロが自分の私腹を肥やすために献金を集めているのではないかと中傷誹謗していた人たちを説得してまで、なぜ献金の業に拘ったのでしょうか。 それは、ユダヤ人であったパウロが、いつまで経ってもイエス・キリストの福音を受け入れようとしない同胞のユダヤ人たちを愛していたからです。 彼らを真の福音のもとに救うために、諦めていなかったからです。 生活の窮乏に陥っていたユダヤ人の教会を現実に助けるためです。 信仰の形や香りの違いによって亀裂が生じていた、異邦人の教会とユダヤ人の教会との間の交わりを造り上げるためです。 ともに協力して、更にキリストの福音を拡げていくためでした。 パウロは、「喜んで与える人を、神は愛してくださるから」、「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりに」献金をささげなさいと勧めます。 パウロにとって、献金をささげるということは、神に対する感謝です。 祈りや賛美、信仰の告白と同じことです。 神に向って行われる感謝の応答です。 神に仕える奉仕の業です。 祈りも、賛美も、信仰の告白も、献金も神に対する信仰の行いです。 イエス・キリストの贖いの恵みによって解放され、これからキリストを主として生きていく、キリストに仕えて生きていくという「献身」を表す信仰の表明であるとパウロは言っているのです。 ですから、私たちもまた、礼拝の中で、神に向ってささげます。 献身の表れとして、自分自身をささげます。 パウロは、「献金をささげる」とは、「種を蒔く」ことであるとたとえます。 気がつくにしても、気がつかないにしても、私たちは神のみ業によって多くの恵みをいただいています。 その恵みに対する感謝の応答が、神を礼拝する者の奉仕です。 しかし、考えてみてください。 私たちが受け取っている恵みは、気がつかないほど無尽蔵です。 私たちが精いっぱいささげても、たかが知れています。 神の側からみれば実に不十分なものです。 しかし、主はそれを決して不十分なものとは思われず、憐れみをもって受け取ってくださっています。 私たちの精いっぱいのささげものを、主は憐れみと慈しみをもって、そのささげているそのままの私たちを受け取ってくださって、その信仰を喜んでくださっているのです。 私たちは、受け取ってくださっているこの神の憐れみと慈しみを決して忘れてはなりません。 神の憐れみと慈しみを信じて、信頼と謙遜をもってささげます。 主の犠牲によってどれほどの豊かさを与えられたのかをわきまえ知って、祈りや賛美とともに礼拝で献身の表明として、神に向って自分自身をささげます。 「神は、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになるお方です。」 「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになるお方です。」 「あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださるお方です。」とパウロは言います。 祝福が感謝をつくり出す。 その感謝が、神への信頼と謙遜によってささげられるところに、神が働いて更に用いてくださる。 その感謝が、更に必要としている隣人との交わりを産み出していく。 「ささげる」ということは、この神の働きに用いられてしっかりと「神に結ばれる実を結ぶ」ということではないでしょうか。 「ささげる」ところには、必ず主の祝福が起こされます。 「蒔く者が刈り取る神の報いは、慈しみが結ぶ実である」と言います。
[fblikesend]「おびただしい証人の群れ」 ヘブライ人の手紙12章1~3節
この手紙は、相次ぐ試練に直面した一世紀ころのキリスト者たち、特にユダヤ教から改宗したユダヤ人キリスト者たちに書き送られた励ましと慰めの手紙です。 度重なるローマ皇帝による弾圧、言われなき中傷誹謗によって、気力を失い、疲れ果ててしまい、もとの生活に逆戻りしてしまう危うさをもつ人たちに向けて語っています。 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 昔の人たちはこの信仰のゆえに神に認められました。」と、「おびただしい証人の群れ」の名前を数多く挙げて、この世に流されないように、神への信頼と希望を最後まで持ち続けるようにと訴えています。 この「おびただしい証人の群れ」のひとりひとりの「証し」は、実にユニークで一つとして同じものがありません。 神の導きは、それぞれの人生に沿って本当に自由奔放です。 「このおびただしい証人の群れに取り囲まれている。 見守られている。 応援されている。」と、この手紙の送り主は自覚しています。 そして、大事なことは、「かつて信仰によって認められた彼らを導き支えられた神は、今も同じように私たちの人生に関わってくださっている。」という確信に立って生きているということです。 ですから、信仰は失望に終わらない。 信仰は希望であると訴えるのです。
この手紙では、私たちが走っている道を「自分に定められている競争」と言います。 人と同じ道を走っているのではない。 人と比べられるような道でもない。 定められた道を、終着点を目指して旅する生涯のことを「競争」と言います。「走る」とは、その生涯に生きるということ、その「走る」ために必要な力を「信仰」と言っているのではないでしょうか。 そのために、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」と言います。 走るのに「重荷となっているもの、絡みつく罪」とはいったい何でしょうか。 走ることを止めさせようとする力、 もう「生きる」のはいいではないですかとささやく力です。 この世の抵抗や誘惑といったところでしょう。 重荷にもいろいろあるでしょう。 思い煩いこそ、最大の重荷かもしれません。 「自分に定められている競争」とは、自分の前に置かれている生涯ということでしょう。 自分にしか生きることができない道のことです。 だれかと比較しようのない人生の道です。 自分に与えられた使命に生きる。 神が望んでおられる自分にしか与えられていない道に生きるということです。 その生きる力、走る抜く力を与えるのが「信仰」です。 その走り抜く力を阻もうとするのが「絡みつく罪」です。 「重荷」です。 神の思いに従うことを妨げるもの、そのささやきをかなぐり捨てて、「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と言うのです。 忍耐強くとは、ただ何もせず我慢することではありません。 何もかも諦めて受け入れるだけのことでもありません。 神の約束に従って生きる生涯には、神の大きな報いが用意されています。 それまで「待つこと」が忍耐です。歯を食いしばって私たちが我慢することではありません。 神が愛し、守り、支えてくださるから可能となる神の忍耐、神の時を待つことです。 気力を失わないように、疲れ果ててしまわないように、ご自分に対する罪人たちの反抗を忍耐された主イエスを仰ぎみれば立ち止まらないで走り抜くことができます。 「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、走り抜こうではありませんか」と言います。 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」と言われた主イエスは、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。 そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と言われたのです。 このお方とともに最後まで、神の時を「待ちながら」走り抜こうではありませんか。
「何も入っていない油の壺」 列王記下4章1~7節
預言者の仲間のひとつの家庭に起きた悲しい出来事です。 ひとつの家族に訪れた、愛する者との別れでした。 失われた夫の妻が、預言者のリーダーであったエリシャに訴えています。 「あなたの僕であるわたしの夫が死んでしまいました。 ご存じのようにあなたの僕は主を畏れ敬う人でした。 ところが債権者が来てわたしの子ども二人を連れ去り、奴隷にしようとしています。」 夫の死により、家族がバラバラになってしまうという悲痛な「妻として、母親としての叫び」でした。 債権者には、債権者としての言い分があり、その返済のために子どもを奴隷にするということは、当時としては認められていたのでしょう。 自分が孤独になる、二人の子を奪われるという、そのつらさを彼女は嘆いているのでしょうか。 貧しい預言者の家庭であった、その不遇の人生を嘆いているのでしょうか。 債権者への懲らしめを、主に願い出ているのでしょうか。 そうではないように思います。 彼女の叫びには、「私の夫は主を畏れ敬う人でした」 それなのに、神はどうしてこのような扱いをするのですかという響きがあります。 その理由がわからないから苦しい、主のみ心を知りたい。 その一心で叫んだのではないでしょうか。 この女性の叫びに、預言者エリシャはこう答えます。 「何をしてあげられるだろうか」 バルティマイという道端に座っていた物乞いの盲人が「わたしを憐れんでください」と、イエスに叫び続けた時のことです。 イエスはすべてをご存じのうえで「何をしてほしいのか」と、盲人の心の中にある本当の彼の祈りを引き出そうとしました。 エリシャもまた、この悲しみと理由の分からない苦しみの中にある彼女に、主のみ業の備えをなさせようとします。 「何をしてあげられるだろうか」 そして「あなたの家に何があるのか言いなさい」と言います。 彼女は「私の家には、油の壺ひとつのほか何もありません」と言います。 彼女はもうどうすることもできないと、望みを失っているのです。 何もないと思っているからこそ、主に祈っているのです。 その彼女は、「油の壺ひとつしかない」と言うほどまでに、何もないと訴えているのです。 エリシャは、その一つしかない油の壺の油を用いようとします。 そして、「近所からできるだけたくさんの空の器を借りて来なさい。 集まったら、家の戸を閉めて、子どもたちと一緒に家に閉じこもり、その器のすべてに油を注ぎなさい。 いっぱいになったものは脇に置くのです。」と彼女に促したのです。 彼女は、その理由がわかりません。 イエスは祈りの姿について、「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って、戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。 そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」と言われました。 エリシャは、隣人との交わりの中で助けてもらいなさい。 空の器を貸してもらいなさい。 空の器が集まったら、その家の家族だけで、戸を閉めて、子どもたちと一緒に祈りなさいと言われたのです。 そのエリシャの言葉に、彼女は理由が分からないままに、神の言葉として聞き従うのです。 その通りにするなら、注ぎ溜まった油を売ることによって、いっさいの負債を払い終えることができる。 そして、払い終えた以上に残された油によって、家族がともに暮らしていくことができるという神の約束として受け取り、聴き従ったのです。 預言者仲間の交わりがそこにあったから、彼女のもとに空の器が集まりました。 家族を挙げての祈りがあって忠実に聴き従ったから、子どもたちが集めて来た器が油で満たされました。 私たちは、主の恵みを受け取るためには、借りて来てまでも用意するのです。 そこにいっぱいに満たされるまでに、家族と一緒に祈り、聴き従うのです。 主の恵みが注がれるためには、その器は空でなければならないのです。
[fblikesend]「皆さん、元気を出しなさい」 使徒言行録27章21~26節
パウロはエルサレムでの騒ぎに巻き込まれ、ローマの役人に捕らえられていました。 しかし、ローマの市民権をもっていたパウロはローマ皇帝に直訴することを願い出たために、ローマに護送され、裁判にかけられることになっていました。パウロの長年の祈りは、世界の中心地ローマの信徒たちと会い、彼らに送り出されて地の果てイスパニアまで福音を語ることでした。 神もまた、「勇気を出せ。 エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」(23:11)とパウロを導いていたのでした。 神の深いみ心によって、パウロは囚人としてローマに運ばれようとしていたのです。 パウロが乗せられていた船は、貿易のための積荷がいっぱい載せられていた船でした。 276人もの人々を乗せていた大きな船でした。 そこには、百人隊長が指揮するローマの兵士たち、パウロなどの囚人たち、貿易商人たち、ユダヤ人、ギリシャ人、イタリア人、エジプト人など様々な人々が乗っていたと言われています。 その船が「エウラキオン」と呼ばれる暴風に行く手を遮られ、積荷を海に捨てなければ、また船の道具までも犠牲にしなければ沈没してしまうほどの危機にさらされたのです。 「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていた」と聖書に書かれています。 神を信じたからといって、暴風や災難から免れることはありません。 キリスト者も嵐に出会い、逆風を受ける時があります。 パウロは望んでもいなかったところに連れて来られました。 「助かる望みは全く消え失せる」絶望の淵に追い込まれた時に一緒に船に乗っていたのは、パウロの忠告に全く耳を貸さなかった船員や船長や船主です。 貿易をしようとその一心で、積荷をいっぱい載せて目的地に向っている貿易商たちです。 囚人たちを捕らえて護送している百人隊長であり兵士たちです。 そのような人たちとともにいた暴風の真っ只中の船の中で、「ローマでも証しをしなければならない」とパウロに迫った神のみ声が再び響いたのです。 「パウロ、恐れるな。 あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。 神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」という神の使いの声がしたのです。 パウロはこの嵐の中でも、神の声に耳を澄ましているのです。聞くだけでなくそのみ言葉に立とうとします。 パウロは神のみ声を信じているから、失望が失望に終わらず希望に替わります。 そして、新しい道へと目を向けているから、同じように恐れを抱いている人々に希望を語りかけることができるのです。 「皆さん、元気を出しなさい。 わたしは神を信じています。 わたしに告げられたことは、そのとおりになります。」と、「わたしが仕え、礼拝している神がわたしのそばに立ってそう告げた」と叫びます。 暴風を受けているその船の中に、このパウロの言葉が響きました。 「皇帝の前に出頭しなければならない。 それまで、船そのものが失われたとしても命は失われることはない。 わたしたちは、必ず、どこかの島に打ち上げられるはずです。」とパウロは確信していたのでした。 パウロの確信は、神に仕え、祈り、賛美し、礼拝して、神との交わりの中にいたからです。 その交わりによって、神にパウロ自身が捕らえられていたからです。 ですから、「助かる望みが全く消え失せようとしていた」状態にあっても、パウロは繰り返し神のみ言葉を聞くことができた。 信じることができた。 自分を神のみ心に委ねることができたのです。 もはや船の導き手は、船長から神のみ言葉に固く立つ囚人パウロに移りました。 すべてのものを失った船に乗っていた人々は、ありのままの裸の姿でパウロと一緒に救われたのです。 沈没しそうな状況にある時こそ、救われた一人のキリスト者の存在は大きいのです。
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