秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「復活の目が開かれる」 ルカによる福音書24章13~35節

2017-04-09

 当時の主イエスの十字架のもとには、様々な人々がいました。 しかし、決して忘れてはならないのは、イエスの十字架の姿を見ることができなかった人たちがいるということです。 自分たちの望みを置き、このお方こそはと期待していたそのイエスが、よりによってローマの処刑により、その命が奪われてしまうことになった。 このお方こそ、エルサレムに入られたなら、いよいよ神の大いなる力によって、私たちをローマの支配から完全に解放してくださるに違いないと信じていたのにです。 ルカは、望みが打ち砕かれて、傷心の心持ちで自分たちの村へ帰って行く途中の二人の弟子の姿を描いています。 そこへ、見ず知らずの旅人が、この二人に近づいて来て、一緒に歩き始めた。 そして、歩きながら、「やり取りしているその話は何のことですか。」と声をかけて尋ねてきた。 その旅人に、二人の弟子は、「ナザレのイエスのことです。 この方は、行いにも言葉にも力があった。 私たちはこの人に望みをかけていた。 その人が十字架にかけられてしまった。 死んでもう三日が経ってしまった。 仲間の婦人たちが墓に行ったが遺体は見つからなかった。 他の弟子たちも駆けつけて捜したが、遺体は見つからなかった。」と、二人の弟子は過去にこだわったのです。 今日で三日が経っているのに、何も起こらない、事態は変わらない。 イエスに置いていた自分たちの信頼と抱いていた期待は裏切られたままであるとこの旅人に訴えたのです。 
 落胆している二人の弟子に声をかけたのは、よみがえられたイエスです。 彼らに追いついて来て、一緒に歩いて、落胆し悲しんで途方に暮れているその理由を本人たちに語らせようと、「何のことですか。」と迫ったのは、よみがえられたイエスです。 ルカは、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」と表現します。 よみがえられたイエスがどのような形で私たちに現れてくださるのかは、神の側の選びです。 その働きかけを受ける側の私たちが決められることではありません。 ここまですれば、必ずよみがえられたイエスに出会うことができるというものではありません。 過去に縛られて、一歩もそこから出てこようとしない私たちが、よみがえられたイエスに出会うためには、イエスの側から追いついて来られ、一緒に歩いて、尋ねられ、それに私たちが応えるところから始まります。 「何もかも希望を失ってしまった。 ところが、イエスの遺体を見つけずに戻ってきた仲間の婦人たちが、神の使いに『イエスは生きておられる』と告げられた」と、二人の弟子は言うのです。 ここから流れが変わります。 目が遮られ、よみがえられたイエスを見ることも、分かることもなかった弟子たちに、「物分かりが悪く、心が鈍く、聖書が語ることを信じ、待ち続けることのできない」弟子たちに、よみがえられたイエスが聖書の説き明かしを始められたのです。 「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 私は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている。 聖書にそう書かれている。 よみがえられたイエスは、弟子たちの抱く自分に都合のよいメシア像を砕きます。 自分に都合のよい望みを砕きます。 聖書に記されている通りになるように、なぜ待つことができないのかとみ言葉の説き明かしをされたのです。 この旅人の言葉に何かを感じ取った二人の弟子は、自分たちの家に泊まるようにとその旅人を無理に引き止めます。 その家で、よみがえられたイエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになったのです。 パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂くのはその家の主人がすることです。 無理に引き止められて、その家に泊まったイエスが、そのことをなさったのです。 二人の弟子は、その旅人を自分たちの家の主人として受け入れた時に、「すると、二人の目が開かれて、イエスだと分かった」とルカは言っているのです。 二人の弟子たちは、時を移さず出発して、エルサレムに再び戻ったとあります。 心を打ち砕かれて故郷に逃れて帰って来た彼らが、復活の主に出会い喜び勇んで、再び危険なエルサレムに帰って行ったのです。 

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「復活の喜び」 ルカによる福音書24章1~12節

2017-04-02

 ルカによる福音書は、主イエスの十字架の一部始終を見ていた人物として、ふたつの存在を登場させています。 ひとつは、「本当に、この人は正しい人だった。」と告白した、ローマの百人隊長の存在です。 もうひとつは、「ガリラヤからイエスにずっと従ってきた婦人たち」の存在です。 当時のユダヤ教の社会では、処刑された者が通常の埋葬など赦されているはずはありません。 「死体の捨て場」と言われてもいいようなところにもっていかれていたようです。 しかし、神はそこにひとりの人物を備えます。 アリマタヤのヨセフという議員です。 この地方の有力な人物であったのでしょう。ローマ総督ピラトに直接会うことが赦されているほどの人物です。 このヨセフが、ピラトが本当にイエスは息を引き取ったのかと疑い、百人隊長に確かめさせたほど素早くイエスの遺体の引き取りを願い出ているのです。 すべては、神のご計画です。 これから引き起こされる、人類が経験したことのない「復活」の証言のためです。 この世界で最初の「復活の証言」を託されたのが、この「イエスの十字架の一部始終を見ていたガリラヤからイエスにずっと従ってきた婦人たち」です。 
 イエスの遺体に人並みに香料と香油を注ぎたい。 その遺体の前で涙を流し、愛するイエスを偲びたい。 せめて、今、自分たちができることを精一杯しようとして、このヨセフが行った埋葬までも見届けた。 その墓の場所と、イエスの遺体が納められた有様を見届けた。 そして、安息日を終えると直ちに、イエスの遺体に香料と香油を注ぐようにと準備までした。 墓の入り口にある大きな石をいったいだれが取りのけるかなど、思いも及ばないほど彼女たちは駆り立てられていたのです。 もうどうすることもできないと諦めている人には接することのできない、触れることのできない出来事に、これから彼女たちは出遭うのです。 
 驚くべきことは、当時の社会では顧みる価値のない者として位置づけられていた彼女たちを、わざわざ神はその「復活の最初の決定的な証人」として選んだのです。 その驚くべき働きを、そのような人物に委ねた、託したと福音書が語っているということです。 「復活する」ということは、終わりの日にはそうなると教えられていたかもしれない。 しかし、今の私たちと同じように信じることなどできませんでした。 墓のところに行ってみると、墓石がわきに転がされていた。 事前に見届けていたはずのイエスの遺体がなかったことに気づいて、途方に暮れた。 愛するイエスとの最後のお別れに、弔い、悼み、悲しみを心から味わうことができなくなってしまった。 そこにみ言葉が語られたのです。 「あの方は、ここにおられない。 なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。」 この語りかけに、彼女たちは地に顔を伏せるほど恐れたけれども、「必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」というイエスが語られたみ言葉を思い出した。 その時からです。 墓に出かけて行った彼女たちは、墓から戻ってきたのです。 死者の中にイエスを捜していた彼女たちは、向きを変えて生きる世界へと帰ってきたのです。 そして、ほかの弟子たちにその一部始終を知らせたのです。 これが、最初の復活の証人として立てられた瞬間でした。 この時、「たわ言」のように思った弟子たちが変えられていったのはどうしてでしょうか。 この復活の主イエスに出会ったからです。 実体験したからです。 今まで耳で聞いて、頭で聞いていたイエスのみ言葉に、十字架の死と復活の出来事によってイエスの命が注がれたからです。 そして、彼らが、イエスが約束してくださった父なる神の贈り物、聖霊を受け取ったからです。 この十字架こそ、自分たちのためであったと気づいたからです。 イエスを、今よみがえられて、生きて働いておられるお方であると信じる以外に、私たちの信仰はありません。 信じた者だけが、この生きた神の働きと喜びを知ることができるのです。 

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「イエスを愛する者」 ヨハネによる福音書14章15~24節

2017-03-26

 ひとりの弟子がイエスに尋ねます。 「主よ、わたしたちには御自分を現わそうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか。」 なぜ、だれにでも分かるような形でご自身をお示しにならないのですか。 そうすれば、今のように心配しないですむのではないですか。 これが、イエスから最後の別れを告げられて不安を隠そうとしない弟子たちの本音です。 しかし、イエスは、「心を騒がせるな。 神を信じなさい。 そして、わたしを信じなさい。 戻って来て、あなたがたをわたしのもとへ迎える。 わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」と語られました。 そして、これから始まる新しい世界との別れ目に、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。 わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。 しかし、わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。 あなたがたが聞いているわたしの言葉は、わたしをお遣わしになった父のものである。」 「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。 わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。 わたしもその人を愛して、その人にわたしを現わす。」と語られたのです。 そのために、イエスは大事なものを「父にお願いしよう」と、これから別れることになる弟子たちに約束してくださったのです。 
 ここで、「別の弁護者、真理の霊」と呼ばれているものです。 この「霊」が、あなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいるから、「決してみなしごにはならない。 あなたがたは、わたしを見るようになる。 わたしがあなたがたの内にあることが、あなたがたに分かるようになる。 あなたがたはこの霊を知るようになる。」と言われたのです。 イエスはご自身を「道であり、真理であり、命である」と言われました。 「わたしが、父なる神のもとへ向かう唯一の道である。 あらゆる人の償いの代価として払われたご自身の十字架の死、この道を通らなければ何人と言えども、父のもとへ行くことはできない。 この道案内するものが、真理の霊である。 一度死んだものが、新しい命を授けられて再び父のもとへ導かれて行く。 霊的に死んでいた私たちにとって、新しい命を授けるものである。 神のもとを離れてしまっていた私たちにとって、何のために生きているのか分からなくなってしまっていた私たちにとって、新しい命を与えるものである。 この「よみがえらされて、今もなお、生きて働いてくださっている復活の主イエス・キリスト」、父なる神と一体となってこの地上を歩まれたナザレの人イエスが死んで、父のもとへ戻られたイエス・キリストが、今度は、「復活の主」となられて、「真理の霊」となられて、再び私たちのところに戻って来られる。 そして永遠に私たちと一緒にいることになる。 一緒に住むことになる。 その新しい時代、神の時が訪れている。 その導き手が「別の弁護者、真理の霊」であると、ヨハネの福音書は語っているのです。 私たちは残念ながら、自分の能力や努力で、この死んで「復活されたイエス」を見ることも、知ることも、分かることもできません。 イエスご自身が今も生きて働いてくださらなければ、見ることも、知ることも、分かることもできないのです。 「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。 わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現わす。」 この働きが、「別の弁護者、真理の霊、聖霊」の働きです。 あなたがたはこの霊を知っている。 この霊があなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいる。 だから、あなたがたをみなしごにはしておかない。 あなたがたは、その傍らにあるその霊を受け取ることである。 見ようとして、知ろうとして、分かろうとして受け取ることである。 そうすれば、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛するようになる。 この復活されたイエスご自身を「傍らにおられる者」として受け取ることこそ、イエスを愛するということではないでしょうか.

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「主の祝福を受けた一族」 イザヤ書61章4~11節

2017-03-19

 61章には、「貧しい者への福音」と小見出しがつけられています。 苦しんでいる人たち、抑圧されている人たちへの福音です。 「良い知らせを伝えられた貧しい人」、「心が打ち砕かれた人」、「自由を与えられた囚われ人」、「今はつながれているけれども、解放を告げ知らされた人」、「今は嘆いているけれども、慰められた人」、このような人々こそが、「とこしえの廃虚を建て直す。」 「主の祭司と呼ばれ、わたしたちの神に仕える者となる。」 「永遠の喜びを受ける。」 「主の祝福を受けた一族」であるというのです。 その理由は、「主が油を注ぎ、主なる神の霊がとらえたこの『わたし』を、『貧しい人たち』のところに遣わして、良い知らせを伝えたからだ」と言っているのです。 この『わたし』こそ、預言者イザヤでしょう。 しかし、ルカによる福音書(4:16-21)は、このみ言葉に新しい光を与えます。 イエスはガリラヤ宣教を始められたころ、このイザヤ書61章1節2節を会堂でお読みになって、すべての人の目がイエスに注がれた時、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われたのです。 
 イエスはなぜ、この聖書箇所に目を留められたのでしょうか。 ここに記されていることこそ、イエスがこれから成し遂げようとされていることであったからです。 主なる神の霊がわたしをとらえた。 主が油を注いで、祭司として、王として、そして主の僕として、このみ言葉を成し遂げるために任命してくださった。 そのお方が、今、ここに遣わしてくださった。 だから、イザヤの時代と同じように、このみ言葉が成し遂げられたとイエスは語られたのです。 「あなたたちは永遠の喜びを受ける。 主にあって喜び踊る魂が与えられる。 救いの衣を着せられる。 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。 花婿のように輝きの冠をかぶらせてくださる。 花嫁のように宝石で飾ってくださる。」 この約束を、大地が草の芽を燃えいでさせるように、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、当たり前のように成し遂げてくださる。 それも、すべての民の前で、霊なる恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されたのです。
 このように新しい霊の命を与えようとされておられるのに、私たちはこの世のものを求めてしまいました。 この約束の宣言から三年も経たないうちに、私たちは自分の思い通りにならない不満と焦りから、イエスを十字架にかけてしまったのです。 しかし、父なる神はそのイエスをよみがえらせて、良き知らせを告げる者として、十字架につけた私たちのところに遣わして、その張本人である私たちを「主が輝きを現わすために植えられた木となる。 神に仕える者、祭司となる。 この荒れ果てた廃虚を建て直す者となる。 主から与えられた喜びの冠をかぶせられる。 救いの衣を着せられる。 恵みの晴れ着をまとわされる」と言われたのです。 私たちは、この世に満足して、あるいはこの世に諦めて、せっかく父なる神が用意してくださっているこの「喜びの冠」、「救いの衣」、「恵みの晴れ着」をどこかに置いてしまっているのではないでしょうか。 様々な人を用いて使いを私たちのところにまで遣わしてくださっているのに、私たちは無視していないでしょうか。 この神の呼びかけに応えようとしているでしょうか。 それでも神は、私たちすべての者を招き続けてくださっています。 イエスは、「喜びの冠、救いの衣、恵みの晴れ着をあなたがたはすでにいただいている。 もうこの約束は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現したのである」と宣言されたのです。 私たちは、主の輝きを現わすために選ばれ、ふさわしいところに植えられた木です。 破壊されたものを建て直すために用いられるようになった者です。 神の民の代表として神に仕えるようにされた者です。 新しい務めを授けられた主の僕です。 この身分を回復された最高の祝福を受けた「主の祝福を受けた一族」なのです。

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「家を建てる者の捨てた石」 詩編118編5~25節

2017-03-12

 詩編118編は、お祝いの時、祝祭日の際に礼拝の中で歌われた賛美です。 過越しの祭りの食卓で感謝をしめくくる最後の賛美であったようです。 「恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに」という語りかけの言葉によって始まり、終っています。 「主に感謝をささげる」ということが呼びかけられています。 神の民すべてに、「感謝すること」を促しています。 「苦難のはざまから主を呼び求める。」 すると、「主は答えてくださる。」 「主は、その苦しみからわたしを解放してくださる。」 「主はわたしの味方、助けとなって、わたしの敵となる者を支配するまでになることを見させてくださる。」 だから、「わたしは解き放たれた。 わたしは誰をも恐れない。 敵となる者はわたしに何もすることができない。 わたしは人間に頼らない。 この世の力に頼らない。 ただ、主だけを避けどころとする。」と、高らかに賛美しています。 私たちもまた、人生の階段を一歩ずつ歩んでいきますと、本当に様々な苦しみに出会います。 その都度、鍛えられ、新しくされていきます。 どうしても解決することができなくて、呆然とたちすくむ時もあります。 何もかも諦めた時です。 不思議な平安が与えられる経験をされたことはないでしょうか。 私には、呼び求めるお方がおられる。 どのような立場であっても、願うことすら赦されないような状況にあったとしても、私には祈り求めることが赦されている。 それも助けてもらえる理由のない私の側に立って、味方となって、助けとなって励ましてくださる。 私の弱さや醜さを責めることなく、むしろ憐れんで、慰めまでしてくださる。 そのことに気づかされる時が幾度となくあります。 この詩人もまた、「激しく攻められて倒れそうになった私を主は助けてくださった。 救ってくださった。 だから、自分の側に立ってくれる人がだれ一人いないようなところでも、また、敵に何重にも包囲されているような困難なところを通らされても、私は主のみ名によって歩んで行く。 主のみ名が、取り囲む敵から解放してくださるから、また主の右の手によって主の力が私を包んでくださるから、私はその主の救いの喜びを歌う。 主の門を通って主に従い、主に感謝をささげる。 わたしはあなたに感謝をささげる。 あなたはそれに答え、救いをわたしに与えてくださった。」と賛美しているのです。 「わたしたちの目には驚くべき主のみ業であった」と表現している通り、不思議な出来事です。 「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった」と表現しています。 家の四隅に置かれる親石とは、その建物を支える大事な石です。 親石には、選び抜かれた、もっともふさわしい石が用いられるはずです。 人からも神からも捨てられて、軽蔑された石が、時が満ちて主の名によって選ばれ、救われ、もっともふさわしい時にもっとも重要な土台となって、再び用いられるようになった。 主のなさることは驚くべき業、私たちの思いをはるかに超えた業です。 私たちがどのような状態であったとしても、この「隅の親石」となってくださった主の救いにもうすでに私たちは与かっているのです。 この主のみ業に与かっているから、「感謝をささげる」のです。 私たちが役にたたないと捨てた石です。 つまずいた石です。 十字架につけた石です。 それが、父なる神の寛容によって、大きな愛によって、私たちの「救い」となってくださったのです。 詩人が、主の名によって、主の力によって生かされたと悟ったように、私たちもまた「捨てられた石」が「隅の親石」となるという、敗北の中にある逆転の勝利という驚くべき業を本気で信じましょう。 そして、私たち自身もまた「生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるよう」、「神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げて」(ペトロ一2:5)参りたいと心から願います。 

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「すでに、あらゆるところに蒔かれた種」 マルコによる福音書4章1~9節

2017-03-05

 パウロは、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)と言い切っています。 信仰は聞くことである。 信仰はイエス・キリストの言葉を聞くことによって始まると言います。 イエスはご自身のみ言葉を「よく聞きなさい。 聞く耳のある者は聞きなさい。」と、だれにでも分かるたとえを用いて語っておられます。 蒔かれた種は道端に落ちれば、鳥にさらわれてしまう。 石だらけで土の少ないところに落ちれば、根がないために枯れてしまう。 茨の中に落ちれば、茨が邪魔をしてふさいでしまい、実を結ばない。 しかし、良い土地に落ちれば、芽生え育って、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ。 このたとえは、イエスのみ言葉を聞く私たちの態度だけをイエスは語っておられるのでしょうか。 福音書は、「種を蒔く人が種まきに出て行った。」と語り出しています。 「種」だけに注目すれば、神の言葉はだれの目にも分かる形では決して蒔かれていない。 力強い大きな存在としてではなく、小さな存在として種が蒔かれていると語っています。 しかし、その中に、神の言葉の力が秘められている、隠されている。 自ら芽生え、育ち、実を結ぶ力が備えられている。 その種が、神が定められた時に、人間のあらゆる抵抗を打ち破ってみ言葉の力があふれ出る時がくる。 その時を希望をもって待ち続けなさいと言っておられるのです。 「土地」に注目すれば、三種類の「種の成長を妨害するものがある土地」と、「種の成長を妨害するものがない良い土地」が語られています。 「良い土地」とは、どのような土地であるのか一切語られず、神の祝福だけが語られています。 元々は、土地には種は蒔かれていなかったのです。 私たちは、初めから種をもっていないのです。 まして、自分だけで成長させ、実を結ばせる力などないのです。 「種を蒔く人」が出かけてきてくださったから、実を結ぶ希望が与えられたのです。 蒔かれた「種」は、それぞれの「土地」と無関係に働くわけではない。 神の言葉が、生きた私たち人間と出会い、その交わりによって育まれ、神の国をもたらすのです。 「土地」には受身であるけれども、役割があるのです。 本来なかった「蒔かれた種」が授けられた、託された責任があるのです。 神の言葉は、「種を蒔く人」によって様々な形で、もうすでに蒔かれています。 あらゆるところに蒔かれています。 蒔かれたところは、良い土地であると信じて「種を蒔く人」によって蒔かれ続けています。 終りの時には、収穫される実がなると信じて蒔かれているのです。 イエスはこのたとえによって、父なる神がその「種」を育ててくださると約束しています。 私たちはそれを受け止めて、しっかりと離さないことです。 私たちは、「種を奪う者」のしつこい力を知らなければなりません。 一方で、「種を見失う者」の自分の弱さもまた、わきまえておかなければなりません。 信仰をもって受け入れておかなければ、その「種」に秘められた力を持ち続けることができないのです。 イエスは、この秘められた小さな存在である「種」を与えようとして、「よく聞きなさい。 聞く耳のある者は聞きなさい。」と語り、父なる神との交わりに招いてくださっているのです。 「初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。 『光あれ』 こうして光があった。 神は光を見て、良しとされた。」と、創世記1章1~3節に記されています。 暗闇の何も見通すことのできない世界に「光あれ」と、その中心に光を置かれたのです。 言葉による創造です。 私たち人間は、この神の言葉に応える者として創造されたのです。 何の秩序もない混沌の面に、神の霊が動いていたのです。 この世界は、この神の言葉に根底を支えられて創られた世界なのです。 「天地は滅びるが決して滅びない」(マルコ13:31)と言われたイエスの言葉に、本気で立ち上がってみましょう。 

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「主を賛美するために創造された民」 詩編102編2~19節

2017-02-26

 イエスは、「求めなさい。 探しなさい。 門をたたきなさい。 だれでも、何の理由であっても、父なる神が耳を傾けて待っていてくださる。 自分の貧しさや足りなさを心底知らされ、恥ずかしさも遠慮も乗り越えて大胆に主のみ前に打ち明け続けるなら、必要なものは何でも、だれでも与えられる。 父なる神は私たちの必要なものをすべてご存じである。 もっとも良いもの、すばらしい賜物を与えてくださる。 だから、祈りは必ず聞かれる。」と言われました。 「祈り」は、神を執拗に呼ぶことです。 神に何でも打ち明けることです。 神こそが、私たちに「祈り」を与え、「祈ること」を求めておられるのです。 私たちはこの待っておられるお方を信じ、信頼して祈ることです。 ある人は、「主との交わりこそ、祈りの足跡である」とまで言われました。 私たちはこの地上の生活の中で圧迫され、虐げられ、抑えつけられればられるほど、主の名を呼び、主のみ心を尋ね、主のみ国を求めて叫ぶのです。 この詩編の「主よ、わたしの祈りを聞いてください。」と、直接主に語りかけています。 「わたしの祈り」を「わたしの叫び」と言っています。 この章で4回も使われている「わたしの生涯」という言葉が示すように、全身から発する「叫び、祈り」です。 「わたしの叫びを聞いてください。 この叫びがあなたに届きますように。 御顔を隠すことなく、御耳を向け、あなたを呼ぶとき、急いで答えてください。」と、ありのままに主に迫っているのです。 この詩が歌われた時代背景は、イスラエルの民が異教の地バビロンに囚われていた時期の末期であると言われています。 このバビロン捕囚が終わり、エルサレムに戻って行くことが赦されて始まっていた。 しかし、この詩人は「わたしの生涯は煙となって消え去る。」 年老いたためか、病気のためか、夢にまで見ていた故郷エルサレムに帰ることができない。 「わたしの力が道半ばで衰え、生涯が短くされようとしている。」と嘆いています。 慰めてくれる友もなく、激励してくれる人もいない。 主までもが、「わたしを持ち上げて投げ出された。」とまで叫んで、取り扱いの理由が分からないと訴えています。 私たちの小さな生涯では、もう破綻してしまうと思わされる時が度々あります。 しかし、人の業の終りは、神の業の始まりです。 信仰に立った多くの人々が叫んだ「わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのですか」という祈りを、主イエスは十字架の上ですべて背負ってくださったのです。 このお方の「叫び、祈り」によって、過ちを犯し続けた私たちが過去に死んで、新しく生きることが赦されたのです。 このお方が、「信仰がなくならないように、誘惑に陥らないように祈りなさい。」と言っておられるのです。 もはや、この詩人の絶望の「祈り」はこのお方によって慰められています。 その試練は克服されています。 13節から詩は一変します。 絶望のどん底にいた詩人の夜明けです。 「恵みのとき、定められたときが来ました。 主を賛美するために民は創造された。 死に定められていた人々を解き放ってくださいました。 主の御名を唱え、主を賛美するために、ひとつに集められる。 そして、主に仕えるために集められる。」 この約束を、詩人は知ることができたのです。 自分はそこに立ち戻ることはできないけれども、無念の思いはあるけれども、主はこの私の「すべてを喪失した者の祈りを顧み、聞いてくださっていた。 この祈りを、主は侮られなかった。」 この信頼と感謝が、この詩人の祈りに貫かれているのです。 自分の状況は何ら変わらなくても、主の業は私たちの死を越えて永らえる。 ですから、このお方に委ねることができる。 委ねる「祈り」が与えられる。 叶えられかった者も、叶えられた者も、ひとつの民として約束の地に招かれることになる。 ひとりの人の「祈り」は、すべての人々の叫びを背負ってくださった主イエスにある群れの「祈り」に連なるのです。 

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「ナザレの人イエス」 マタイによる福音書5章1~12節

2017-02-19

      (渡部協力牧師)

 一年前の今頃、日本語で出版された「共観福音書が語る【ユダヤ人イエス】」という本に衝撃を受けました。 新約聖書の本文は、ギリシャ語。 旧約聖書は、ヘブライ語、と習ってきましたから・・・。 この本がいうには、イエスはユダヤ人ですから、話された言葉はヘブライ語。 聴きに集まった人たちの多くもユダヤ人であり、イエスのあちこちで話された言葉をメモや後で記憶から収録したのは、ガリラヤ湖で漁をしていたペテロやアンデレなど、イエスの弟子とされたユダヤ人たちであった。 ですから、後にイエスの弟子たちが、「イエスの生涯」を記録しようとした「共観福音書」(マタイ、マルコ、ルカ)は、最初ヘブライ語で書かれたに違いない、と推定しているのです(イエスの弟子たちが書いた断片が、見つかっていないので、断定はできません)。
 本【ユダヤ人イエス】は、日本の「ミルトス」出版社の編集出版ですが、その中心には、キリスト教会(米国 南部バプテスト)の牧師・研究者とヘブライ大学教授で旧約聖書の権威の二人が1962年にエルサレムで出会い、後に「共観福音書研究 エルサレム学派」と呼ばれるキリスト教・ユダヤ教双方の研究者の大きな、優れた組織になりました。 その結果の一部を、今朝紹介させていただきますが、主イエスの「山上の説教」と呼ばれる箇所です。 
 言葉には、その国、その民族固有の表現や独特の意味合いがあります。 もし、最初ヘブライ語で書かれたものを、ギリシャ語に翻訳すれば、本意と異なる訳になったり、意味が受け止められないこともあり得ます。 「共観福音書研究」では、単なる言葉の問題だけではなく、「旧約聖書」(ユダヤ教では、聖書)とタルムード(ユダヤ教口伝律法を編纂したものの総称)などを動員して比較、検討。 「律法の教師」でもあった、イエスさまの語られた言葉の真実に迫ろうとしたわけです。 その結果、いろいろなことが分かるようになりました。
 マタイ福音書5:1~10
この箇所には、「義」という言葉が6,10節に出てきます。 研究者たちは、ヘブライ語の義は「救い」と同義語であるといいます。 すると「義に飢え渇く人」とは、神の救いを熱心に求める人、の意になります(マタイ6:33参照)。 また、10節に、「迫害する」(ラダフ)という語が出てきます。 この語には、①「追い求める」、「追跡する」の意と、②「迫害する」、の二つの意味があるといいます。 ですから、10節は、「義=救い、を追い求める人」となるべきだ、というのです。 「義のために迫害される」とする訳が、その後のキリスト教信仰の中に、大きな影響を与えたことを歴史は教えています。 また、今日の信仰とも無関係ではないでしょう。 神が授けてくださった「聖書」は、新・旧約を通じて、罪深く限界のある私たちにとって、神の子イエスの十字架の死を通して示された、神の許しと愛の「福音」です。 聖書の無謬説に立つ人もおりますが、時代と共に、聖書の真理探究が深められ、神の御心がさらに明らかにされていくことは大切ではないでしょうか。      

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「み言葉を聞いて行う者」 マタイによる福音書7章24~29節

2017-02-12

 イエスの「山上の教え」は、広く民衆にイエスの思想や道徳や哲学を述べたものではありません。 これからイエスご自身と同じ道をこの地上で歩むことになる、愛すべき弟子たちに向けて語られたみ言葉です。 その「山上の教え」の締めくくりに語られた譬えが、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人」であるというものでした。 「わたしの言葉を聞いて行いなさい。」 そして、「岩の上に自分の家を建てなさい。」と言うのです。 「岩の上に自分の家を建てた賢い人」と「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」 だれにでも分かるような、何でもない譬えの中に込められたイエスのみ心に驚かされます。 どちらの家も見た目には、土台の上に建っていることには変わりがないのです。 その違いが見えてくるのは、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲ってくる」時だと言うのです。その違いは土台の違いだとイエスは言います。 この地上においては、神を信じようが信じまいが、余り変わらないように見えます。 しかし、ひと度、雨や風がその家を襲ってきた時に、砂の上に建てた家は倒れる。 それも、その倒れ方はひどい。 しかし、岩の上に建てた家は倒れない。 土台が「岩」であったからであると言うのです。 このことは容易に、私たちにもよく理解できます。 人生の土台をどこに置いているのかによって、人生の試練に倒れることもあるし、倒れることを免れることもあるでしょう。 経験や知識によって、また家族や友人の助けによって辛うじて乗り越えられる試練もあるでしょう。 しかし、それらのものではどうしようもないことが起きます。 イエスの言う「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲ってくる」時とは、いったい何でしょうか。 私たちがひとりで、父なる神のみ前に立つその時、土台をあなたはどこに置いて生きているのかと問われる時ではないでしょうか。 この時こそ、主イエスの苦しみに与かっている時、それぞれに与えられた自分の家、自分の十字架を、主イエスとともに味わっている時です。 主のみ前に立って、今までの自分がひっくり返され、砕かれ、一緒に働いてくださっているイエスに気づいて、ともに歩み始めている時ではないでしょうか。 自分一人だけで、その試練を味わっているのではないのです。 その時に立たされている私たちに、「倒れることのないように」と「山上の教え」の最後に、イエスはこの譬えをもって憐れんで語ってくださっています。 イエスの言われる「岩」とは、父なる神のみ言葉、十字架に架けられよみがえられるイエスご自身、それに対する私たちの信仰でしょう。 本に書かれた活字となっている言葉ではない。 自分の現実の生活のなかで受け止められているみ言葉、雨や風のなかにおいてでも信頼して従っているみ言葉、私たちの生活の中に生きて働いているみ言葉、これを「岩」としなさい。 あなたがたの生きる「土台」としなさい。 その上に、人の借りものでない「自分の家」を建てなさいと言っておられるのです。 大事なことは、私たちの生涯がこのみ言葉に従って生きているのかどうか。 岩なるみ言葉に信頼する「あなたの信仰」の上に、あなたの生涯を置きなさい。 あなたの生涯を建て続けなさいと言っておられるのです。 み言葉を聞くだけの人、教会があります。 み言葉を聞かないで自らの主張を行うだけの人、教会もあります。 イエスは「聞いて行う者、聞いて従う者」と言います。 聞くことと行うことを切り離すことができないのです。 聞いて従わなければ、聞いていないことと同じです。 み言葉を聞いて従うところに、土台がある。 主イエスの働きがある。 赦しがある。 忍耐がある。 神の愛がある。 希望がある。 み言葉に従うあなたの生涯の上にこそ、「自分の家」を建てなさいと言っておられるのです。 

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「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」 ルカによる福音書11章5~13節

2017-02-05

 主イエスの祈る「祈り」を聴いて、祈る姿を見てひとりの弟子が尋ねました。 「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。」 口語訳聖書では、「祈ることを教えてください」となっています。 それに応えたイエスの祈りが、私たちがささげている「主の祈り」です。 イエスは、決まり切ったお題目として「祈り」を教えたのではありません。 祈るべき順番と内容、そしてどのように祈るべきかという「祈ること」を語っておられます。 「主よ」と呼びかけるお方がおられること、そしてそのお方が耳を傾けて、応えてくださることを先ず教え、祈りは単なる願いごとではなく父と子の関係にたとえられるほどの人格の交わりであると言われているのです。 そのうえで、この世のものではない神の名、神の国、神のみ心を第一に求めて祈るようにと教えます。 その後に、今日、私たちが生きるために必要なものを求めなさい。 昨日、私たちが犯してしまった過ちが赦されるよう願いなさい。 明日、私たちに迫ってくる試みから守られるよう祈りなさいと言うのです。 その際に語られたたとえが、今日の聖書箇所です。 
 たとえの中に出てくる人に、ふたりの友だちがいます。 ひとりは、旅をして、夜遅く尋ねて来た友だちです。 その人は、予定になかった友だちのために差し出すパンがありません。 真夜中でもありましたので、迷惑をかけることを承知のうえで「もうひとりの友だち」のところへ助けを求めたのです。 しかし、イエスは、その「もうひとりの友だち」は、「面倒をかけないでください。 もう戸は閉めたし、子どもたちはわたしのそばで寝ています。 起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません」と断るだろうと言います。 問題はここです。 イエスはそこで、「しかし、言っておく。 その人は友だちだからということでは起きて何かを与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるだろう」と言っておられるのです。 だから「求めなさい。 探しなさい。 門をたたきなさい。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」とおっしゃって、その約束の確かさを語っておられるのです。 この「しつように頼めば」という言葉は、「恥知らずな祈り」、「厚かましい祈り」と言ってもいいような言葉です。 「しつように」、厚かましく祈り続けるなら、それが非常識でも、迷惑でも「もうひとりの友だち」は「だれであっても、なんであっても与える、門を開く」と言っておられるのです。 この「もうひとりの友だち」こそ、イエス・キリストです。 「求めて、探して、門を開けよう」と待っておられるのは、父なる神の方です。 そのためにイエスは遣わされたのです。 イエスはご自身を「友」と呼んで、傍らで眠りこけている私たちに替わって祈り続けてくださっているのです。 だから、私の名によって祈り続けなさいと言うのです。 私たちは何も差し出すことができないと「貧しさ」を知ったから、恥知らずにその「貧しさ」をさらけ出したから、「与えられる、見つける、開かれる」という約束を得たのです。 門は締まっています。 こちら側からは明けることのできないものです。 「聴かれざる祈り」と感じさせられるものです。 もはや状況が好転するとか、問題が解決するとか望む由もない状況にあれば、私たちは、「主よともにいてください、憐れんでください」という祈りに至るでしょう。 この時に初めて、「天の父は必要なものはすべて知っておられる。 私たちを待っていて、聖霊を与えてくださる。」と私たちは知るのです。 聖霊は見通しのきかない「真夜中」であっても、神が働いておられることを私たちに知らせます。 それによって私たちは、神の恵みの世界に生かされていることを知らされるのです。

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