秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「最高の道」 コリントの信徒への手紙一12章31節~13章7節

2017-07-16

 このパウロが語る「愛の賛歌」を、道徳や倫理や感情の中で考えてはならない。 何か人の身についた資質のように捉えてはならないように思います。 これは、働きがバラバラになってしまった、本当に問題の多いコリントの教会の人々に向けて、パウロが書き送った手紙の中の言葉です。 「皆一つの体となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 目が手に向かって、お前は要らないとは言えず、また頭が足に向かって、お前たちは要らないとも言えません。」とまで表現しています。 「あなたがたはもっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい。」と訴えているなかで、「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」と語られた「愛の賛歌」であることを、私たちは忘れてはならないと思います。 
ここでパウロが語っている「愛」とは、自身が体験した「神の愛」です。 よみがえりの主イエス・キリストの語りかける声でした。 パウロが体験した「神の愛」とは、神に知られていることを知ったことです。 神に愛されていることに気づいたことです。 イエス・キリストの十字架の姿を通して神を見ることができたことです。 この「愛」は自分が勝ち取ってきたものでも、築き上げてきたものでもない。 神からいただいた最高の霊の賜物であることを、パウロは決して忘れません。 ですから、「この霊の賜物によって生きる最高の道、神の愛の道を教える」とバラバラになってしまっているコリントの教会の人々に向けて語っているのです。 この「神の愛」がなければ、たとえ雄弁な言葉を語る賜物を与えられていたとしても、「騒がしいどら、やかましいシンバル」である。 たとえ、真理や奥義や知識をもっていたとしても、また、
山を動かすほどの信仰をもっていたとしても、「神の愛」がなければ無に等しい。 たとえ、全財産を投げ出し、自分の命をさえもささげて人の前で誇ることができたとしても、「神の愛」がなければ、神の前に何の益もないとまで言います。  4節から7節に、その「神の愛」が記されています。 すべて主語は「神の愛」です。 愛のある人とは、このような人であるとは書かれていません。 パウロが体験した「神の愛」こそ、十字架にかけられたイエス・キリストの姿です。 「あなたの右の頬を打つなら、左の頬を向けなさい」と語り、その十字架の上で、私たちが決して赦すことのできない者を「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。」と執り成しの祈りをささげてくださっているイエス・キリストのお姿そのものです。 この「愛」は、私たちには備わっていないものです。 イエス・キリストによって、この世にもたらされた新しい愛です。 神のもとからしか出て来ない、神に与えられるものです。 どのような相手であったとしても、どのような状況にあったとしても、分け隔てることなく、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」神の愛です。 この愛が、私たちの破れ果てた愛を覆い、癒し、包んでくださいます。 
 パウロが語った愛の賛歌は、混乱に満ちたコリントの教会に向けて語られた「神の愛」です。 この「神の愛」が、帰ってきた放蕩の弟息子も、その弟息子を裁く兄息子も分け隔てなく招いて、恵みと喜びの「父の家」を造り上げます。 この「神の愛」に応えるように、この「神の愛」に委ねるように、この「神の愛」に生きるようにとパウロは訴えているのではないでしょうか。 教会は、この「神の愛」によって償われた者の集まりです。 ですから、互いに「神の愛」ゆえに赦し合い、愛し合います。 この「神の愛」によって、信仰と希望に支えられて生きる教会、キリスト者にしていただきます。 神を信じている、神に望みを抱いている、神に愛されている。 この神との交わりだけが、「いつまでも残る。」 その中でも最も大いなるものが「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」神の愛であるとパウロは言っています。

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「信じることと赦されること」 マルコによる福音書11章20~25節

2017-07-09

 エルサレムの十字架のもとを目指して、先を急がれていたイエスでした。 「翌朝早く」とあります。 「翌日の朝」とは、実のなっていないいちじくの木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」という、寛容で柔和なイエスが語ったとは思えない言葉を発せられたその翌日の朝早くです。 神殿の境内で売り買いをしていた人々を追い出して、両替人の土台や鳩を売る者の腰かけをひっくり返すという乱暴なふるまいをイエスがされたその翌日の朝早くです。 だれも気づかなかった「一本のいちじくの木」にペトロが気づいたのです。 思い出したのです。 あのいちじくの木は、昨日、イエスが呪った木ではないか。 そのいちじくの木が、今朝見るとイエスが言われた言葉の通りに根元から枯れているではないか。 「先生、ご覧ください。 あなたが呪われたいちじくの木が枯れています。」と叫んだペトロでした。 ペトロは、イエスがいちじくの木を呪ったと聞いていたのです。 
 そのペトロにイエスが言われた言葉が、「神を信じなさい」というみ言葉でした。 このみ言葉は、「持ちなさい、信仰を、神の」という言葉になります。 自分がどれだけ信じているかに拠り頼むならば、いずれその信仰は揺らぎます。 行き詰ります。 人間の側に頼るべきものは何もないのです。 しかし、十字架につけられたイエス・キリストに現れた神の憐れみ、神の愛に立つなら、そうとはならないでしょう。 変わることのない神のご真実に拠り頼むなら、信仰は揺らぐことはありません。 この神の確かさをあなたがたのうちに持って、それも、「少しも疑わず、信じなさい。」と言われているのです。 そのように信じ切ることが、私たちにできるでしょうか。 イエスは、『祈り求めること』によって「神を信じなさい。 少しも疑わず、信じなさい。 神の確かさだけをしっかりもって、信じなさい。」と言われているのです。 マルコが「祈り」について語っているのはこの聖書箇所だけです。 たとえ不可能だと思えることであったとしても、目にはまるで見えていないものであったとしても、何でもおできになる神の約束を抱いて信じるなら、「そのとおりになる。」と言われます。 なぜなら、私が共にいて執り成しているから「信じる者は、何でもできる」と言われているのです。 神が全知全能であることを知っていても、分かっていても、はるか遠い存在であるなら信仰にはなりません。 祈りは、神に対する働きかけではありません。 私たちが祈り求めたから、実現しているのでもありません。 神が働いてくださったからです。 私たちの祈りにおいて、主イエス・キリストの名による執り成しがあって初めて、父なる神が応えて働いてくださるのです。 ですから、「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。 そうすれば、そのとおりになる。」とまで言います。 「わたしの思いは、あなたがたの思いを、高く超えている。 わたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ55:8)と語られているように、狭い自分の願いをはるかに越えて、広い豊かな神の思いに生きるようにと促しておられます。 しかし、「わたしは彼らを集めようとしたが、いちじくの木にいちじくはない。 葉はしおれ、わたしが与えたものは彼らから失われていた。」と父なる神は嘆いておられたのです。 イエスはそれでも、忍耐の限りを尽くし、「いちじくの木」に実がなるのを待っておられます。 「いちじくの木」は、神が実を結ぶために準備された場所に植えられた木です。 神の業がその木に起こされるためです。 悔い改め、赦しの機会が与えられているのです。 砕かれて、ただ神の前に進み出るだけで与えられる赦しの実です。 そのいちじくの木をイエスは呪うでしょうか。 イエスは、「赦してもらいなさい。 神に赦された者として祈りなさい。」 そのことが赦されている。 根元から枯れるように滅ぼされなければならないのは、私たちの過ちです。 罪です。 そのために、「枯れたいちじくの木」に主イエスはなってくださったのではないでしょうか。 赦されて、疑わず、信じて、祈り求めるところに、わたしがいるとイエスは言われます。

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「地上を歩む教会の姿」 ヘブライ人への手紙 11章13~16節

2017-07-02

 ヘブライ人への手紙は、ノアについて、「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」と言います。 また、アブラハムについても、「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」と記しています。 この「ヘブライ人」という言葉には、エジプトで奴隷であったイスラエルの民に向かって、エジプト人たちが付けたあだ名であると言われています。 定住の地を持たない、さまよい歩く人たちという蔑んだ思いがこの言葉には込められているのでしょう。 その当時のキリスト者の悲惨さは、「釈放を拒み、拷問にかけられました。 あざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。 彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。」と表現されています。 ヘブライの人々の信仰は揺らぎ、「本当に神はおられるのだろうか。 あの十字架につけられたイエス・キリストは救い主であったのだろうか。」という疑いの中にあったのでしょう。 ノアは、「あろうはずもない洪水が起こる。 あなたは木の箱舟を造りなさい。 あなたとあなたの家族はその箱舟の中に入りなさい。」と言われ、神自らによって箱舟の扉が閉められたのです。 人々からは愚かなことと馬鹿にされ、罵られ、本当にこの先どうなるのかという先の見えないノアの旅立ちでした。 アブラハムもまた、相当な財産を蓄えていてそのままその地で暮らしていれば、何の不自由もない暮らしを約束されていたのです。 しかし、神は、「あなたは生まれ故郷を離れ、わたしが示す地に生きなさい。 わたしはあなたを祝福する。」と約束されたのです。 二人ともこの地上においては寄留者であり、旅人でした。 神の言葉を聞くだけで、従うことから逃げることも、避けることもできたでしょう。 しかし、ノアもアブラハムも、この神の言葉を直接自分に語られた言葉として聴いた。 この神の約束に信頼を置いた。 信じて失敗を恐れず従ったのです。 常識ではありえないことを、神の約束の確かさだけに頼り、歩み出したのです。 
 主イエスは、私たちに「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。 わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い。」(マタイ11:28)と言われました。 「軛(くびき)」とは、牛が田畑を耕すために首にはめられる道具です。 ふたつの穴が空いていて、二頭の牛の首にはめるのです。 イエスがその片方の軛(くびき)を担ってくださるので私の軛(くびき)は軽い。 ですから、私と共に重荷を背負いながら休みなさいと言われているのではないでしょうか。 この「重荷」とはいったい何でしょうか。 負わなくてもよい、逃げることができる、信仰のゆえに負う重荷や悲しみ。 ノアもアブラハムも、逃げて、諦めて、神の前から避けることもできた重荷や悲しみであったでしょう。 しかし、それが神の恵み、祝福の約束だと言っている。 この地上で、まだ目にしてはいないけれども、神は成し遂げてくださると信じることができるという信仰を語っているのではないでしょうか。 重荷や悲しみの状況が恐ろしいのではありません。 本当の恐ろしさは、この重荷や悲しみからくる思い煩い、不安、諦めが、神に対する期待や望みを失わせる。 神に頼らなくする。 希望を失わせることです。 私たちは勝手に諦め、変わることのない神の約束、希望を自ら失うのです。 絶望の死に至るところからよみがえられたイエスの歩んだ跡を、私たちは踏み従っているのです。 その先頭に立って歩いておられるのは十字架に架けられたイエス・キリストです。 教会は、天に国籍を置いて、この地上をこのお方の跡に従っている群れなのです。 

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「教会の旗印」 ガラテヤの信徒への手紙 3章1~2節、13~14節

2017-06-25

 私たちの教会の群れの原形は、奴隷の身にあったイスラエルの人々がエジプトから脱出した、旧約聖書に書かれている荒野を旅する姿であると言われています。 壮年男子だけで60万人、そのほか種々雑多な人々が加わったと言いますから、おびただしい数の群れであったのでしょう。 これほど大勢の人々を導いたのは、それぞれ「家系の印を描いた旗」であった。 彼らはその旗を宿営に掲げ、その旗を先頭にして群れごとに行進したと言います。 今日の私たちの群れは、何を旗印に掲げているのでしょうか。 イエスは、シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた、その信仰告白のうえに教会を建てると言われました。 イエスがこの地上に遣わされたのは、私たちを神のもとに取り戻すためでした。 一人一人の罪が赦され、一人残らず神との交わりを取り戻すためでした。 そのための十字架でした。 この「十字架につけられたイエス・キリスト」という旗のもとに集められたのが教会の群れでした。 この教会の旗印である「十字架」とはいったい何でしょうか。 ローマにとっては、死刑の道具でした。 ユダヤにとっては、「木にかけられた者は、神に呪われたもの」と旧約聖書に書いてあるように、神の呪いでした。 イエスご自身にとっても、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶまでに、絶望の死を意味するものでした。 この時には、何も分からなかった弟子たちが、聖霊の働きによって後に知らされたのです。 この絶望の死は、自分たちが味わうはずのものだった。 神との断絶の前に、主イエスは立ち続けてくださって、それを受けるべきであった自分たちに代わって味わってくださった。神の呪いとしか見えていなかった十字架の姿が希望に変えられたのでした。
 ガラテヤの教会の人々は、パウロが宣教したころには、この主イエス・キリストの十字架によって救われた喜びと賛美に満ち溢れていました。 ところが、エルサレムから派遣された教師たちによって、「律法を守らなければ本当の救いはない」と教えられて混乱が生じていたのです。 律法は本来、神のみ心を示したものでした。 しかし、分かっていても守ることができない、守る力のない私たちにとっては、到底守ることのできない戒めでした。 その私たちに、イエス・キリストの十字架によって贖われ、救い出されなければならない存在であることに気づかせるものでした。 パウロは訴えています。 「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」 十字架のうえでイエスが「わたしたちのために死んでくださった」と言うところを、パウロは「わたしたちのために呪いとなってくださった」と言います。 神との交わりから引き離そうとする者との戦いから、主イエスが逃げることなく立ち続けてくださったその理由を、パウロは二つ述べています。 ひとつは、「アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶため」であったと言います。 「キリストにおいて」とは、ユダヤ人も異邦人も区別なく、だれひとり例外なくキリストに結ばれることによってということです。 一人残らず、神が約束されたことであるからとだけ信じて従ったアブラハムの信仰に与えられた神の約束、祝福に、与かることができると言っているのです。 もうひとつは、「わたしたちが、約束された霊を信仰によって受けるため」であったと言います。 主イエスは十字架の上で、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られました。 私たちの諦めと絶望のところにある「木に架けられた呪いの場所」で、その呪いが祝福に変えられた、成し遂げられたと宣言されてイエスは息を引き取られたのです。 成し遂げられたのであるからこそ、神の福音です。 神の約束です。 その証しに今もなお、聖霊を私たちに遣わし、力を与え、慰めを与え、励ましを与えてくださっているのです。 私たちはその霊を祈りによって受け取るだけなのです。 

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「イエス・キリストのため」 マルコによる福音書 10章17~31節

2017-06-18

 エルサレムの十字架に向けて、旅の先を急いでいるイエスの姿があります。 そのイエスの毅然とした、ただならない雰囲気を感じ取り、弟子たちは驚き、恐れたとあります。 そのイエスに「走り寄って、ひざまずいて、尋ねる人がいた」と言います。 「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」 これが、どうしてもイエスに尋ねて聞いて置かなければならない彼の質問でした。 イスラエルの人々は、自分たちこそ選ばれた神の民、戒めを堅く守る者、神の国を受け継ぐ者であると自負していたのです。 しかし、本当に律法を守っていれば神の国に入ることができるのであろうか。 そう確信をもつことができないでいたその人物を見つめて、イエスは慈しんで言われたのです。 「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という掟を、あなたは知っているはずだ。 イエスが例示された戒めは、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」とする隣人に対する戒めばかりです。 イエスのこの答えを聞いたこの人は、「子どものころからそのような戒めを守ることは当たり前である」と言い、イエスに失望したのかもしれない。 そこで語られたイエスの言葉が、「あなたに欠けているものが一つある。 持っているものを捨てて、わたしに従いなさい。」と言われたのです。 すると、「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。」とあります。  この人は、戒めを守ってきたことを誇りにしています。 その上になお、「何をすれば、神の国を受け継ぐ者となるのでしょうか。」と、自分のもっているもの、自分が果たしてきたことによって神の国に入ろうとします。 その姿にイエスは、「あなたに欠けているものが一つある。 持っているものを明け渡しなさい。」と言われたのです。 イエスは、持っている物を売り払い、貧しい人々に施したら、神の国を受け継ぐ者となると言われたのではありません。 また、すべてを捨てたら救われると言っているのでもありません。 自分を明け渡して自ら貧しくなるということ、これがあなたに欠けていると言われたのではないでしょうか。 イエスは、「なぜ、わたしを善いと言うのか。 神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」と言われました。 神以外の者は何ももっていない。 神の国を受け継ぐのも、また永遠の命を得ることもすべて神の恵みによる。 自分が何をしてきたのか、自分が苦難をいくつ乗り越えてきたかさえも、また自分が何をもっているのか、自分がどのようなものを身に着けているかさえも関係がない。 すべては神の恵みである。 私たちの真の充足は、神に自分を明け渡すことである。 持っているこの地上の富が、そして自らの誇りが砕け散った時に、この神の無条件の恵みが注がれる。 それが「天に富を積むことになる。 それから、わたしに従ってきなさい。」 イエスご自身に従うこと以外のところで、この神の恵みに与かることはできない。 イエスの通られた道以外のところを通っては到達することができないと言われたのです。 彼は、このイエスの宣言に気を落とし、悲しみながら絶望して立ち去って行きました。 同じように、自分をささげることのできない多くの弟子たちが、イエスのもとを離れて行ったと言われています。 イエスは、彼らの悲しみの姿を見つめながら、慈しんでこう言われたのです。 「人間にはできることではないが神にはできる。 神は何でもできるからだ。」 イエスは、この私たち人間ができないこと、絶望せざるをえないことを、ご自分の命を十字架の上でささげること、捨てることによって、私たちに代わって成し遂げてくださったのです。 「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる」と聖書に賛美されています。 この自分を捨てることのできなかった人にも、イエスのもとを離れていった多くの弟子たちにも、これから向かうエルサレムの十字架の上で帰ってくる道を備えてくださって、この世においても百倍の真の祝福を受ける、後の世においても永遠の命が与えられると言われました。 このイエスの慈しみのまなざしの中に私たちがいるという恵みが与えられていうのです。

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「与えてくださる神」 マルコによる福音書 12章41~44節

2017-06-11

 神殿の賽銭箱の前に様々な人々が進み出てささげている光景は、いつもの祭りの風景であったでしょう。 神殿の中庭には、13の賽銭箱があったと言われています。 人々は競ってたくさんお献金をささげていたのでしょう。 日本の賽銭箱とは異なりラッパ型の容器にささげられる貨幣の音で、その量が推し量られたかもしれません。 大口の献金者については、祭司がその名と金額を読み上げる慣習があったとさえ言われる。 その賽銭箱の向いに座って、イエスは見ておられたのです。 イエスがご覧になっていたものは、いったい何だったのでしょうか。 イエスの目の先には、有り余る中からささげる金持ちの姿があったでしょう。 長い衣をまとった堂々とふるまう律法学者たちの姿もあったでしょう。 そのような金持ちや律法学者たちにまぎれて、人知れず、人に隠れてささげたひとりのやもめの姿がイエスに見出されたのです。 ささげられた貨幣はレプトン銅貨2枚であったという。 ギリシャ貨幣の最小単位の銅貨2枚です。 今に換算しても百円玉にも満たないものであったようです。 その日のパンを買うための最後の2枚であったかもしれない。 その1枚を自分のために残しておくこともできたのに、やもめは賽銭箱に2枚ともささげた。 その姿に、イエスは真の礼拝をささげる者の姿を見て取って、「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた。」と弟子たちを呼び寄せて言われたのです。 
 自分の生活がすべて神に支えられていると告白している姿。 神に支えられて生きていることが赦されていると感謝している姿。 神の国に生きる者としてくださった恵みに応えて、自分自身をささげますと言っていいほどに献身を表している姿であったのです。 イエスはその姿を、「だれよりもたくさん入れた。」と表現されたのでしょう。 これからエルサレムで十字架に架けられて命をささげるご自身の姿と重ね合わせて、「その姿こそ、アーメン。 その通り。」と、十字架の後、身をささげて歩むことになる弟子たちに向けて、その姿を伝えたのです。 イエスは、じっと座って、ささげるその姿、そのささげる中にある思いを見ておられたのです。 イエスは、やもめの献金をささげる行いを褒めてもいないし、このような献金をするようにと勧めてもいない。 そのやもめの信仰を弟子たちに伝えているのです。 私たちが全財産を投げ出したとしても、この神の恵みに対する感謝がなければ、またイエス・キリストのご愛に応えるものでなければ、また物をささげるだけで自分自身をささげるものでなければ、それは空しいのではないでしょうか。 神は私たちのもっているものを取り上げるお方ではありません。 み子イエスを、私たちのために与えてくださったお方です。 そのお方に信頼して、感謝して、応えて、自身をささげていく祝福をイエスは語っておられるのです。 
 このだれの目にも留まらなかったひとりのやもめを見出したイエスが、じっと座って見ておられる幸いを私たちは憶えます。 私たちは、だれのまなざしの中で生きているでしょうか。 この世の人たちのまなざしでしょうか。 このやもめは必要なものが欠けているようなところからでも、持ち物ではない「自分自身」をささげました。 神より与えられる恵みに応えて、「感謝」をささげました。 やもめはこの世ではなく、神を愛したのです。 イエスは、人目につかず、自分をささげている一人のやもめの姿を見出して、ご自身の姿に重ね合わせて、神の前に自分自身を差し出す恵みと、感謝と賛美をささげることのできる幸いを、私たち、弟子たちに祝福してくださっているのです。 預言者エリアを通して語られた「壺の粉は尽きることなく 甕の油はなくならない」(列王記上17章14節)というみ言葉を信じたやもめが、み言葉とおりであったと後に語っています。 私たちもまた、同じように、聖書のみ言葉すべてその通りであったと証言する者として歩ませていただきたいと願います。

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「聖霊を受ける」 使徒言行録 2章37~42節

2017-06-04

 「聖霊が降る、聖霊を受ける」とは、私たちの信仰にとってどのような意味のある出来事なのでしょうか。 ヨハネによる福音書によりますと、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、あなたがたに平和があるようにと言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。 弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。 あなたがたに平和があるように。 父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。 聖霊を受けなさい。」と記されています。 これから自分たちの国が復興されるであろうと得意満面になってエルサレムの都に入ってきたのに、その肝心のイエスが処刑されてしまった。 ついてきた自分たちはどん底へ蹴落とされてしまった。 師と仰いで従ってきたそのイエスを一人残して逃げ出してしまった、自分たちの哀れな姿に打ちのめされて沈んでいた弟子たちでした。 息を潜め、肩を寄せ合って閉じこもって絶望に沈んでいたところに、「家の鍵、家の戸の中」という見える壁を越えて、「あなたがたはもはや赦された。 わたしの十字架の死と復活によって神の子どもとしての道、神との平和が再び取り戻された。」と語り、その証しにお見せになったのが、「打たれた釘の傷跡、突かれた槍の傷跡」であったのでしょう。 「そのわたしが今、ここに立っているではないか。 私が吹きかける私の息を受けなさい。 神のもとからくる聖霊を受けなさい。」と「聖霊が降る」というペンテコステの驚くべき出来事をヨハネはこのように語っているのです。 この群れからこぼれてしまった十二弟子のひとり、ユダの存在を憶えます。 十字架の業が成し遂げられるために必要な人物であったでしょう。 しかし、イエスを裏切ったのは、ユダひとりでしょうか。 すべての弟子がイエスを裏切ったはずです。 何度もイエスを裏切り、失敗を繰り返したペトロも同じです。 しかし、ユダは自分で自分を裁いてしまって、イエスのもとに帰ってくることがありませんでした。 しかし、ペトロは恥ずかしくとも、向きを変えて復活されたイエスのもとに駆け込んできた。 その時に、自分がこれほどまでに愛されていることが分かった。 自分の弱さや小ささを知らされたペトロは、イエスの吹きかける息を受けとめることによって変えられていったのです。 使徒言行録では、復活の事実を知らされ、40日もの間、復活されたイエスに何度出会っても何も変わらなかった弟子たちが激変した。 イエスがどのようなお方であるのか、大胆に証言するようになった。 その境目がペンテコステの出来事であったと言うのです。 聖霊が降ったのは、弟子たちが心を合わせて熱心に祈っていたところでした。 一同が一つとなって集まっていたところでした。 これがイエス・キリストの群れ、教会の誕生です。 聖霊によって新しい命を吹きつけられた、神のもとを離れてしまった私たち人間を取り戻すための新しい人間の創造でした。 言い換えれば、共に一緒に生活をしてくださったナザレ人イエスが、再び「聖霊」として自分たちとともに歩んでくださると確信した時でした。 このイエスの復活の信仰の確信が与えられた、私たちの教会の出発点でした。 弟子たちの語り出す言葉によって、弟子たちが味わったと同じ出来事が次々と拡がっていったと語っているのが今日の聖書箇所です。 「悔い改めなさい。 めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。 そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられるものなのです。」と、まったく変えられたあのペトロの言葉を通してイエスの言葉そのものが語られたのです。 この時の弟子たちに起きた体験が繰り返し私たちの歴史においても、私たちの小さな生涯の歩みの中にも起きているのです。 イエスが聖霊として働いてくださっている証しです。

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「信仰の真髄」 マルコによる福音書 9章14節~29節

2017-05-28

 大勢の群衆に取り囲まれて、イエスの弟子たちと律法学者たちが議論をしていました。 一人の父親から息子の病いを癒してほしいと頼んだのに、イエスの弟子たちは癒すことができなかった。 群衆からは、「病いを癒せないではないか。 あなたたちは本当に神から遣わされたイエスの弟子なのか」と問い詰められていたのでしょう。 そばにいた律法学者たちに嘲笑われて、それに弟子たちは言い分けをしていたのかもしれない。 肝心の病いの息子をそっちのけにして、また哀願している父親を横に置いて論争しているその有様をご覧になって、イエスは嘆かれたのです。 「なんと信仰のない時代なのか。 いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。 いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」 今、癒しを求め、救いを求め、哀願しているその親子を差し置いて、互いの主張をし合っている律法学者とイエスの弟子たち、その議論に興味を抱いて取り巻いている群衆の姿にイエスは嘆いておられたのではないでしょうか。 そのような中にあって見放されていた親子の父親が、イエスに直接訴えます 「先生、息子をおそばに連れて参りました。 この子は霊に取りつかれてものが言えません。 この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」その切ない父親の愛情に応えたイエスの言葉が、「その子をわたしのところに連れてきなさい。」という呼びかけでした。 イエスは、群衆の中の一人であったにすぎないその父親をご自身の前に立たせようとします。 汚れた霊を追い出す力のあるところに進み出て来なさいと言います。 長年の息子の病いでした。 多くの医者に診てもらったけれども治すことができませんでした。 イエスの弟子たちにも期待を裏切られました。 その父親が最後の望みを振り絞って叫んだ言葉が、「おできになるなら、わたしどもをお助けください」という叫びでした。 イエスはこの言葉を引き出すために、群衆の中から導き出し、み前に父親を立たせたのです。 イエスは応えざるを得なくなるまでに、私たちに迫ります。 間髪を置かない「できればと言うか。 信じる者には何でもできる。」というイエスの言葉に対する父親の言葉が、「信じます。 信仰のないわたしをお助けください。」という祈りでした。 イエスは父親に、「あなたは信じていない」と言われたのです。 何でもおできになるお方を信じる者は何でもできる。 そのお方が憐れんでくださることを、あなたは知らないのか。 知りながらも、その憐れみをどうして信じて受けようとしないのかと言っています。 このイエスの迫りに応えることが、この父親の信仰の始まりでした。 「信じます」という言葉は、イエスが呼び起こした父親の心の応答です。 これこそ、イエスのみ言葉に聴く信仰に変えられた瞬間です。 「実に、信仰は聴くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とパウロが語った通りです。 息子の病いの癒しだけを願っていた祈りが、「信仰のないわたしをお助けください」という、自分自身の祈りに変えられたのです。 「できればと言うか」と問われて、「信仰のないわたし」、罪人としてイエスのみ前に立ったのです。 この時から、父親の生涯が神の恵みの支配のもとに置かれたのです。 「イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった」とあります。 父親の祈りが自身の不信仰を認める祈りへと変えられた時、息子は命を取り戻した。 イエスの言葉をもって死者を復活させる力あるお方であることが、この父親と息子のうえに示されたと聖書は語っています。 私たちは祈るしかないのではありません。 祈らなければ、信仰も、何も起こらないのです。 祈れないからこそ、祈らなければなりません。 イエスが本当に嘆いておられるのは、私たちのこの祈りの不足なのではないでしょうか。 神は何でもおできになるという信仰に基づいて期待して、確信して祈ることの弱さを嘆いておられるのです。 

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「主によって喜ばせてもらいたい」フィレモンへの手紙 8節~20節

2017-05-21

 フィレモンの手紙は、パウロの個人的な色彩の強い本当に短い手紙です。 端的に言えば、今は牢獄に囚われている囚人パウロから、その信仰の協力者フィレモンへ宛てられた個人的な、かつ具体的な願いが記されています。 フィレモンは、パウロによって信仰に導かれ、家族を挙げて自分の家を開放していたほどの、コロサイの群れの教会の中心人物です。 パウロはこの手紙がコロサイの群れの人たちの前で読み上げられることを承知のうえで手紙を書いています。 互いの信頼関係は強いものがあり、師弟関係にあったとも言えるでしょう。 そのパウロがフィレモンに、「年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっているこのパウロが、監禁中にもうけたわたしの子オネシモを、あなたのもとへ送り帰します。 オネシモをわたしと思って迎え入れてください。」 と、切なる願いを訴えています。 オネシモという名の奴隷がいた。 彼の主人はフィレモンであった。 今のオネシモは、パウロが「わたしの子オネシモ」、「わたしの心であるオネシモ」、「オネシモをわたしと思ってください」と言うほどに、パウロのもとで、パウロのために懸命に働いていた。 今の私たちには理解できない奴隷制度のようなものを用いても、聖書はつまずくことなく信仰の世界を見るように、霊の世界を見るようにと促しています。 
 オネシモは、主人フィレモンのもとを逃げ出した逃亡奴隷です。 逃亡奴隷が見つかれば、主人のもとへ戻されるか、ひどい仕打ちにあうのかどちらかでしょう。 しかし、パウロは一人の人間、奴隷オネシモの変化を丁寧に語っていることに気づかされます。 かつてのオネシモは、フィレモンのもとにいたたまれなくなって逃げ出してしまった人物でしょう。 パウロも「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でした」と認めている。 しかし、パウロはオネシモに失望していない。 そこには、神の目的、ご計画があった。 「しばらくあなたのもとからオネシモが引き離されていたのは、主人であるあなたが奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟として、いつまでもオネシモを自分のもとに置くためであったかもしれません。」と言っている。 パウロは奴隷という身分を取り払ってくださいとフィレモンに懇願しているのではありません。 オネシモが直ちに奴隷でなくなるわけでもないでしょう。 しかし、オネシモが奴隷であったとしても、またフィレモンとオネシモが主人と奴隷という関係のままであったとしても、主人であるあなたは、「もはや奴隷としてではなく、つまり愛する兄弟として、ひとりの人間として、主を信じる者として」、オネシモを迎え入れることができるはずだと訴えているのです。 オネシモは、獄中にあったパウロを通して霊的に生まれ育てられ、今は変えられている。 「わたしの子オネシモ」、「わたしの心オネシモ」と言わせるほどに、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっている。 「役に立たない者」から「役に立つ者」へと変えられている。 だから、「オネシモをわたしと思って迎え入れてください」と言うのです。 パウロは師弟関係にあったフィレモンに命令しているのではなく、フィレモンに「あなたの愛に訴えてお願いします」とあります。 フィレモンに満たされている、主イエスの十字架の赦しと和解の愛をパウロは十分知っている。 フィレモンがささげているその十字架の愛によって、私の願いを叶え、「主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。 キリストによって、わたしの心を元気づけてください。」と言っているのです。 フィレモンには、オネシモによってもたらされた痛みがあったでしょう。 オネシモもまた、自らの償いをどうしたらよいのかという苦悩があったでしょう。 パウロは「わたしの借りにしておいてください」、「わたしが自分で払いましょう」とまで言いつつ、唯一の償いの道、十字架の愛による和解と救いを語っているのです。 奴隷制度の社会の片隅で、パウロとフィレモンとオネシモとの間に、贖いの業が成し遂げられようとしているのです。

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「御子から注がれた油」 ヨハネの手紙一 2章26節~3章3節

2017-05-14

 この手紙が送られた群れ、教会の中には、深刻な問題があったことが伺われます。 最初のころの教会ができあがる際には、その群れの交わりから起こる対立によって争いがあったことが知られています。 しかし、もっとも深刻なことは、イエスをどのような者であるとするのかという信仰理解の根本的な違いであったようです。 この決定的な違いによって、この群れから離れていった人たちがいた。 教会の分裂という苦い経験を味わってしまった。 しかし、このヨハネの手紙は、問題が深刻であればあるほど、「教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」 信仰の理解に違いがあればあるほど、イエス・キリストの内にとどまり、そのもとに立ち帰りなさい。 人間の知恵を捨てて、人間の工夫や努力を捨てて、ただ神のみ声に、み言葉に聴いていく。 耳を傾けていく。 そのように、イエス・キリストという信仰の原点、土台に繰り返し戻っていくようにと勧めています。 残念ながら、「あなたがたを惑わせようとしている者たち」がいた。 イエスを人間としか認めない者たちがいた。 しかし、あなたがたは既にみ言葉を聞いている。 最初からおられ、変わることなくおられるお方を、あなたがたは既に知っている。 イエス・キリストの名によって、あなたがたは罪を赦されて既に救われている『神の子たち』である。 「いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。 この油が万事について教えます。 だから教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」と訴えているのです。 「御子から注がれた油」とは何でしょうか。 父なる神が約束してくださったよきもの、聖霊です。 人が求めて祈れば、必ず与えられると約束された賜物です。 よみがえられたイエス・キリストとの交わりを保つ力です。 助け主、慰め主です。 神の国とこの世のものとを見極める真実の目です。 キリストの内にとどまるとは、このキリストの霊を私たちの内に信仰によって受け入れて、キリストとの交わりにとどまり続けるということです。 このことを、イエスは分かりやすく『ぶどうの木と枝』のたとえをもって語っています。 「わたしにつながっていなさい。 わたしもあなたがたにつながっている。 ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。 人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と語っておられます。 聖書に記されている教えにいくら私たちがしがみついたとしても、ほんの少しのことで私たちは揺らぎます。 私たちのしがみつく力など、たかが知れています。 しかし、このヨハネたちと同じように、神が何をされようとしておられるのか、神がどのように導いてくださろうとしているのか、逃げないで思い切って神のみ前に立って、そして堂々と神に向って問いかけて、神の答えを辛抱強く信じて待ち続けた者だけが、そして、この神のみ言葉にすがるように聴いていこうと、神との交わりを保ち続けて行こうと祈り求めた者だけが味わうことのできる恵みの体験、この事実がヨハネたちを支えたのではないでしょうか。 信じて従ってみて、待っているところで初めて、神がじっとご覧になっていてくださったと気づかされる。 一緒に重荷を担ってくださって、愛し続けてくださっていた事実に私たちは気づかされます。 これがヨハネたちを支えている本当の土台、信仰の原点です。 「そうすれば」、御子に注がれた霊によって、「御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがなくなる。 確信をもつことができるようになる。 今、既にあなたがたは神の子である。 御子が現れるとき、御子に似た者となる。 私たちの内には、そのような力も種も輝きもありません。 人を赦すことも、受け入れることも、愛することもできません。 しかし、私たちの内に種が蒔かれて、キリストの霊を宿らせることによって私たちは変えられるのです。 この望みに、私たちは生きています。

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