秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「家を建てる者の捨てた石」 詩編118編5~25節

2017-03-12

 詩編118編は、お祝いの時、祝祭日の際に礼拝の中で歌われた賛美です。 過越しの祭りの食卓で感謝をしめくくる最後の賛美であったようです。 「恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに」という語りかけの言葉によって始まり、終っています。 「主に感謝をささげる」ということが呼びかけられています。 神の民すべてに、「感謝すること」を促しています。 「苦難のはざまから主を呼び求める。」 すると、「主は答えてくださる。」 「主は、その苦しみからわたしを解放してくださる。」 「主はわたしの味方、助けとなって、わたしの敵となる者を支配するまでになることを見させてくださる。」 だから、「わたしは解き放たれた。 わたしは誰をも恐れない。 敵となる者はわたしに何もすることができない。 わたしは人間に頼らない。 この世の力に頼らない。 ただ、主だけを避けどころとする。」と、高らかに賛美しています。 私たちもまた、人生の階段を一歩ずつ歩んでいきますと、本当に様々な苦しみに出会います。 その都度、鍛えられ、新しくされていきます。 どうしても解決することができなくて、呆然とたちすくむ時もあります。 何もかも諦めた時です。 不思議な平安が与えられる経験をされたことはないでしょうか。 私には、呼び求めるお方がおられる。 どのような立場であっても、願うことすら赦されないような状況にあったとしても、私には祈り求めることが赦されている。 それも助けてもらえる理由のない私の側に立って、味方となって、助けとなって励ましてくださる。 私の弱さや醜さを責めることなく、むしろ憐れんで、慰めまでしてくださる。 そのことに気づかされる時が幾度となくあります。 この詩人もまた、「激しく攻められて倒れそうになった私を主は助けてくださった。 救ってくださった。 だから、自分の側に立ってくれる人がだれ一人いないようなところでも、また、敵に何重にも包囲されているような困難なところを通らされても、私は主のみ名によって歩んで行く。 主のみ名が、取り囲む敵から解放してくださるから、また主の右の手によって主の力が私を包んでくださるから、私はその主の救いの喜びを歌う。 主の門を通って主に従い、主に感謝をささげる。 わたしはあなたに感謝をささげる。 あなたはそれに答え、救いをわたしに与えてくださった。」と賛美しているのです。 「わたしたちの目には驚くべき主のみ業であった」と表現している通り、不思議な出来事です。 「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった」と表現しています。 家の四隅に置かれる親石とは、その建物を支える大事な石です。 親石には、選び抜かれた、もっともふさわしい石が用いられるはずです。 人からも神からも捨てられて、軽蔑された石が、時が満ちて主の名によって選ばれ、救われ、もっともふさわしい時にもっとも重要な土台となって、再び用いられるようになった。 主のなさることは驚くべき業、私たちの思いをはるかに超えた業です。 私たちがどのような状態であったとしても、この「隅の親石」となってくださった主の救いにもうすでに私たちは与かっているのです。 この主のみ業に与かっているから、「感謝をささげる」のです。 私たちが役にたたないと捨てた石です。 つまずいた石です。 十字架につけた石です。 それが、父なる神の寛容によって、大きな愛によって、私たちの「救い」となってくださったのです。 詩人が、主の名によって、主の力によって生かされたと悟ったように、私たちもまた「捨てられた石」が「隅の親石」となるという、敗北の中にある逆転の勝利という驚くべき業を本気で信じましょう。 そして、私たち自身もまた「生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるよう」、「神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げて」(ペトロ一2:5)参りたいと心から願います。 

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「すでに、あらゆるところに蒔かれた種」 マルコによる福音書4章1~9節

2017-03-05

 パウロは、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)と言い切っています。 信仰は聞くことである。 信仰はイエス・キリストの言葉を聞くことによって始まると言います。 イエスはご自身のみ言葉を「よく聞きなさい。 聞く耳のある者は聞きなさい。」と、だれにでも分かるたとえを用いて語っておられます。 蒔かれた種は道端に落ちれば、鳥にさらわれてしまう。 石だらけで土の少ないところに落ちれば、根がないために枯れてしまう。 茨の中に落ちれば、茨が邪魔をしてふさいでしまい、実を結ばない。 しかし、良い土地に落ちれば、芽生え育って、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ。 このたとえは、イエスのみ言葉を聞く私たちの態度だけをイエスは語っておられるのでしょうか。 福音書は、「種を蒔く人が種まきに出て行った。」と語り出しています。 「種」だけに注目すれば、神の言葉はだれの目にも分かる形では決して蒔かれていない。 力強い大きな存在としてではなく、小さな存在として種が蒔かれていると語っています。 しかし、その中に、神の言葉の力が秘められている、隠されている。 自ら芽生え、育ち、実を結ぶ力が備えられている。 その種が、神が定められた時に、人間のあらゆる抵抗を打ち破ってみ言葉の力があふれ出る時がくる。 その時を希望をもって待ち続けなさいと言っておられるのです。 「土地」に注目すれば、三種類の「種の成長を妨害するものがある土地」と、「種の成長を妨害するものがない良い土地」が語られています。 「良い土地」とは、どのような土地であるのか一切語られず、神の祝福だけが語られています。 元々は、土地には種は蒔かれていなかったのです。 私たちは、初めから種をもっていないのです。 まして、自分だけで成長させ、実を結ばせる力などないのです。 「種を蒔く人」が出かけてきてくださったから、実を結ぶ希望が与えられたのです。 蒔かれた「種」は、それぞれの「土地」と無関係に働くわけではない。 神の言葉が、生きた私たち人間と出会い、その交わりによって育まれ、神の国をもたらすのです。 「土地」には受身であるけれども、役割があるのです。 本来なかった「蒔かれた種」が授けられた、託された責任があるのです。 神の言葉は、「種を蒔く人」によって様々な形で、もうすでに蒔かれています。 あらゆるところに蒔かれています。 蒔かれたところは、良い土地であると信じて「種を蒔く人」によって蒔かれ続けています。 終りの時には、収穫される実がなると信じて蒔かれているのです。 イエスはこのたとえによって、父なる神がその「種」を育ててくださると約束しています。 私たちはそれを受け止めて、しっかりと離さないことです。 私たちは、「種を奪う者」のしつこい力を知らなければなりません。 一方で、「種を見失う者」の自分の弱さもまた、わきまえておかなければなりません。 信仰をもって受け入れておかなければ、その「種」に秘められた力を持ち続けることができないのです。 イエスは、この秘められた小さな存在である「種」を与えようとして、「よく聞きなさい。 聞く耳のある者は聞きなさい。」と語り、父なる神との交わりに招いてくださっているのです。 「初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。 『光あれ』 こうして光があった。 神は光を見て、良しとされた。」と、創世記1章1~3節に記されています。 暗闇の何も見通すことのできない世界に「光あれ」と、その中心に光を置かれたのです。 言葉による創造です。 私たち人間は、この神の言葉に応える者として創造されたのです。 何の秩序もない混沌の面に、神の霊が動いていたのです。 この世界は、この神の言葉に根底を支えられて創られた世界なのです。 「天地は滅びるが決して滅びない」(マルコ13:31)と言われたイエスの言葉に、本気で立ち上がってみましょう。 

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「主を賛美するために創造された民」 詩編102編2~19節

2017-02-26

 イエスは、「求めなさい。 探しなさい。 門をたたきなさい。 だれでも、何の理由であっても、父なる神が耳を傾けて待っていてくださる。 自分の貧しさや足りなさを心底知らされ、恥ずかしさも遠慮も乗り越えて大胆に主のみ前に打ち明け続けるなら、必要なものは何でも、だれでも与えられる。 父なる神は私たちの必要なものをすべてご存じである。 もっとも良いもの、すばらしい賜物を与えてくださる。 だから、祈りは必ず聞かれる。」と言われました。 「祈り」は、神を執拗に呼ぶことです。 神に何でも打ち明けることです。 神こそが、私たちに「祈り」を与え、「祈ること」を求めておられるのです。 私たちはこの待っておられるお方を信じ、信頼して祈ることです。 ある人は、「主との交わりこそ、祈りの足跡である」とまで言われました。 私たちはこの地上の生活の中で圧迫され、虐げられ、抑えつけられればられるほど、主の名を呼び、主のみ心を尋ね、主のみ国を求めて叫ぶのです。 この詩編の「主よ、わたしの祈りを聞いてください。」と、直接主に語りかけています。 「わたしの祈り」を「わたしの叫び」と言っています。 この章で4回も使われている「わたしの生涯」という言葉が示すように、全身から発する「叫び、祈り」です。 「わたしの叫びを聞いてください。 この叫びがあなたに届きますように。 御顔を隠すことなく、御耳を向け、あなたを呼ぶとき、急いで答えてください。」と、ありのままに主に迫っているのです。 この詩が歌われた時代背景は、イスラエルの民が異教の地バビロンに囚われていた時期の末期であると言われています。 このバビロン捕囚が終わり、エルサレムに戻って行くことが赦されて始まっていた。 しかし、この詩人は「わたしの生涯は煙となって消え去る。」 年老いたためか、病気のためか、夢にまで見ていた故郷エルサレムに帰ることができない。 「わたしの力が道半ばで衰え、生涯が短くされようとしている。」と嘆いています。 慰めてくれる友もなく、激励してくれる人もいない。 主までもが、「わたしを持ち上げて投げ出された。」とまで叫んで、取り扱いの理由が分からないと訴えています。 私たちの小さな生涯では、もう破綻してしまうと思わされる時が度々あります。 しかし、人の業の終りは、神の業の始まりです。 信仰に立った多くの人々が叫んだ「わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのですか」という祈りを、主イエスは十字架の上ですべて背負ってくださったのです。 このお方の「叫び、祈り」によって、過ちを犯し続けた私たちが過去に死んで、新しく生きることが赦されたのです。 このお方が、「信仰がなくならないように、誘惑に陥らないように祈りなさい。」と言っておられるのです。 もはや、この詩人の絶望の「祈り」はこのお方によって慰められています。 その試練は克服されています。 13節から詩は一変します。 絶望のどん底にいた詩人の夜明けです。 「恵みのとき、定められたときが来ました。 主を賛美するために民は創造された。 死に定められていた人々を解き放ってくださいました。 主の御名を唱え、主を賛美するために、ひとつに集められる。 そして、主に仕えるために集められる。」 この約束を、詩人は知ることができたのです。 自分はそこに立ち戻ることはできないけれども、無念の思いはあるけれども、主はこの私の「すべてを喪失した者の祈りを顧み、聞いてくださっていた。 この祈りを、主は侮られなかった。」 この信頼と感謝が、この詩人の祈りに貫かれているのです。 自分の状況は何ら変わらなくても、主の業は私たちの死を越えて永らえる。 ですから、このお方に委ねることができる。 委ねる「祈り」が与えられる。 叶えられかった者も、叶えられた者も、ひとつの民として約束の地に招かれることになる。 ひとりの人の「祈り」は、すべての人々の叫びを背負ってくださった主イエスにある群れの「祈り」に連なるのです。 

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「ナザレの人イエス」 マタイによる福音書5章1~12節

2017-02-19

      (渡部協力牧師)

 一年前の今頃、日本語で出版された「共観福音書が語る【ユダヤ人イエス】」という本に衝撃を受けました。 新約聖書の本文は、ギリシャ語。 旧約聖書は、ヘブライ語、と習ってきましたから・・・。 この本がいうには、イエスはユダヤ人ですから、話された言葉はヘブライ語。 聴きに集まった人たちの多くもユダヤ人であり、イエスのあちこちで話された言葉をメモや後で記憶から収録したのは、ガリラヤ湖で漁をしていたペテロやアンデレなど、イエスの弟子とされたユダヤ人たちであった。 ですから、後にイエスの弟子たちが、「イエスの生涯」を記録しようとした「共観福音書」(マタイ、マルコ、ルカ)は、最初ヘブライ語で書かれたに違いない、と推定しているのです(イエスの弟子たちが書いた断片が、見つかっていないので、断定はできません)。
 本【ユダヤ人イエス】は、日本の「ミルトス」出版社の編集出版ですが、その中心には、キリスト教会(米国 南部バプテスト)の牧師・研究者とヘブライ大学教授で旧約聖書の権威の二人が1962年にエルサレムで出会い、後に「共観福音書研究 エルサレム学派」と呼ばれるキリスト教・ユダヤ教双方の研究者の大きな、優れた組織になりました。 その結果の一部を、今朝紹介させていただきますが、主イエスの「山上の説教」と呼ばれる箇所です。 
 言葉には、その国、その民族固有の表現や独特の意味合いがあります。 もし、最初ヘブライ語で書かれたものを、ギリシャ語に翻訳すれば、本意と異なる訳になったり、意味が受け止められないこともあり得ます。 「共観福音書研究」では、単なる言葉の問題だけではなく、「旧約聖書」(ユダヤ教では、聖書)とタルムード(ユダヤ教口伝律法を編纂したものの総称)などを動員して比較、検討。 「律法の教師」でもあった、イエスさまの語られた言葉の真実に迫ろうとしたわけです。 その結果、いろいろなことが分かるようになりました。
 マタイ福音書5:1~10
この箇所には、「義」という言葉が6,10節に出てきます。 研究者たちは、ヘブライ語の義は「救い」と同義語であるといいます。 すると「義に飢え渇く人」とは、神の救いを熱心に求める人、の意になります(マタイ6:33参照)。 また、10節に、「迫害する」(ラダフ)という語が出てきます。 この語には、①「追い求める」、「追跡する」の意と、②「迫害する」、の二つの意味があるといいます。 ですから、10節は、「義=救い、を追い求める人」となるべきだ、というのです。 「義のために迫害される」とする訳が、その後のキリスト教信仰の中に、大きな影響を与えたことを歴史は教えています。 また、今日の信仰とも無関係ではないでしょう。 神が授けてくださった「聖書」は、新・旧約を通じて、罪深く限界のある私たちにとって、神の子イエスの十字架の死を通して示された、神の許しと愛の「福音」です。 聖書の無謬説に立つ人もおりますが、時代と共に、聖書の真理探究が深められ、神の御心がさらに明らかにされていくことは大切ではないでしょうか。      

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「み言葉を聞いて行う者」 マタイによる福音書7章24~29節

2017-02-12

 イエスの「山上の教え」は、広く民衆にイエスの思想や道徳や哲学を述べたものではありません。 これからイエスご自身と同じ道をこの地上で歩むことになる、愛すべき弟子たちに向けて語られたみ言葉です。 その「山上の教え」の締めくくりに語られた譬えが、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人」であるというものでした。 「わたしの言葉を聞いて行いなさい。」 そして、「岩の上に自分の家を建てなさい。」と言うのです。 「岩の上に自分の家を建てた賢い人」と「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」 だれにでも分かるような、何でもない譬えの中に込められたイエスのみ心に驚かされます。 どちらの家も見た目には、土台の上に建っていることには変わりがないのです。 その違いが見えてくるのは、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲ってくる」時だと言うのです。その違いは土台の違いだとイエスは言います。 この地上においては、神を信じようが信じまいが、余り変わらないように見えます。 しかし、ひと度、雨や風がその家を襲ってきた時に、砂の上に建てた家は倒れる。 それも、その倒れ方はひどい。 しかし、岩の上に建てた家は倒れない。 土台が「岩」であったからであると言うのです。 このことは容易に、私たちにもよく理解できます。 人生の土台をどこに置いているのかによって、人生の試練に倒れることもあるし、倒れることを免れることもあるでしょう。 経験や知識によって、また家族や友人の助けによって辛うじて乗り越えられる試練もあるでしょう。 しかし、それらのものではどうしようもないことが起きます。 イエスの言う「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲ってくる」時とは、いったい何でしょうか。 私たちがひとりで、父なる神のみ前に立つその時、土台をあなたはどこに置いて生きているのかと問われる時ではないでしょうか。 この時こそ、主イエスの苦しみに与かっている時、それぞれに与えられた自分の家、自分の十字架を、主イエスとともに味わっている時です。 主のみ前に立って、今までの自分がひっくり返され、砕かれ、一緒に働いてくださっているイエスに気づいて、ともに歩み始めている時ではないでしょうか。 自分一人だけで、その試練を味わっているのではないのです。 その時に立たされている私たちに、「倒れることのないように」と「山上の教え」の最後に、イエスはこの譬えをもって憐れんで語ってくださっています。 イエスの言われる「岩」とは、父なる神のみ言葉、十字架に架けられよみがえられるイエスご自身、それに対する私たちの信仰でしょう。 本に書かれた活字となっている言葉ではない。 自分の現実の生活のなかで受け止められているみ言葉、雨や風のなかにおいてでも信頼して従っているみ言葉、私たちの生活の中に生きて働いているみ言葉、これを「岩」としなさい。 あなたがたの生きる「土台」としなさい。 その上に、人の借りものでない「自分の家」を建てなさいと言っておられるのです。 大事なことは、私たちの生涯がこのみ言葉に従って生きているのかどうか。 岩なるみ言葉に信頼する「あなたの信仰」の上に、あなたの生涯を置きなさい。 あなたの生涯を建て続けなさいと言っておられるのです。 み言葉を聞くだけの人、教会があります。 み言葉を聞かないで自らの主張を行うだけの人、教会もあります。 イエスは「聞いて行う者、聞いて従う者」と言います。 聞くことと行うことを切り離すことができないのです。 聞いて従わなければ、聞いていないことと同じです。 み言葉を聞いて従うところに、土台がある。 主イエスの働きがある。 赦しがある。 忍耐がある。 神の愛がある。 希望がある。 み言葉に従うあなたの生涯の上にこそ、「自分の家」を建てなさいと言っておられるのです。 

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「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」 ルカによる福音書11章5~13節

2017-02-05

 主イエスの祈る「祈り」を聴いて、祈る姿を見てひとりの弟子が尋ねました。 「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。」 口語訳聖書では、「祈ることを教えてください」となっています。 それに応えたイエスの祈りが、私たちがささげている「主の祈り」です。 イエスは、決まり切ったお題目として「祈り」を教えたのではありません。 祈るべき順番と内容、そしてどのように祈るべきかという「祈ること」を語っておられます。 「主よ」と呼びかけるお方がおられること、そしてそのお方が耳を傾けて、応えてくださることを先ず教え、祈りは単なる願いごとではなく父と子の関係にたとえられるほどの人格の交わりであると言われているのです。 そのうえで、この世のものではない神の名、神の国、神のみ心を第一に求めて祈るようにと教えます。 その後に、今日、私たちが生きるために必要なものを求めなさい。 昨日、私たちが犯してしまった過ちが赦されるよう願いなさい。 明日、私たちに迫ってくる試みから守られるよう祈りなさいと言うのです。 その際に語られたたとえが、今日の聖書箇所です。 
 たとえの中に出てくる人に、ふたりの友だちがいます。 ひとりは、旅をして、夜遅く尋ねて来た友だちです。 その人は、予定になかった友だちのために差し出すパンがありません。 真夜中でもありましたので、迷惑をかけることを承知のうえで「もうひとりの友だち」のところへ助けを求めたのです。 しかし、イエスは、その「もうひとりの友だち」は、「面倒をかけないでください。 もう戸は閉めたし、子どもたちはわたしのそばで寝ています。 起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません」と断るだろうと言います。 問題はここです。 イエスはそこで、「しかし、言っておく。 その人は友だちだからということでは起きて何かを与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるだろう」と言っておられるのです。 だから「求めなさい。 探しなさい。 門をたたきなさい。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」とおっしゃって、その約束の確かさを語っておられるのです。 この「しつように頼めば」という言葉は、「恥知らずな祈り」、「厚かましい祈り」と言ってもいいような言葉です。 「しつように」、厚かましく祈り続けるなら、それが非常識でも、迷惑でも「もうひとりの友だち」は「だれであっても、なんであっても与える、門を開く」と言っておられるのです。 この「もうひとりの友だち」こそ、イエス・キリストです。 「求めて、探して、門を開けよう」と待っておられるのは、父なる神の方です。 そのためにイエスは遣わされたのです。 イエスはご自身を「友」と呼んで、傍らで眠りこけている私たちに替わって祈り続けてくださっているのです。 だから、私の名によって祈り続けなさいと言うのです。 私たちは何も差し出すことができないと「貧しさ」を知ったから、恥知らずにその「貧しさ」をさらけ出したから、「与えられる、見つける、開かれる」という約束を得たのです。 門は締まっています。 こちら側からは明けることのできないものです。 「聴かれざる祈り」と感じさせられるものです。 もはや状況が好転するとか、問題が解決するとか望む由もない状況にあれば、私たちは、「主よともにいてください、憐れんでください」という祈りに至るでしょう。 この時に初めて、「天の父は必要なものはすべて知っておられる。 私たちを待っていて、聖霊を与えてくださる。」と私たちは知るのです。 聖霊は見通しのきかない「真夜中」であっても、神が働いておられることを私たちに知らせます。 それによって私たちは、神の恵みの世界に生かされていることを知らされるのです。

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「喜んで神の国をくださる」 ルカによる福音書12章22~34節

2017-01-29

 イエスは、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」と言います。 「思い悩む」という言葉が4回も、それも強い命令として繰り返し使われています。 別の聖書訳では「思いわずらう」という言葉です。 「恐れるな」と訳されてもおかしくない言葉です。 私たちは、衣食住のことを事あるごとに思い悩みます。 病気であったり、災害であったり、試練であったり様々でしょう。 いったい、イエスは何を「思い悩むな」とおっしゃっているのでしょうか。 ここで言われていることは、「世の人々が切に求めているもの」、「あなたがたにとって必要なもの」、「自分の持ち物」について「思い悩むな」と言っておられます。 世の人々が熱心に求めているもの、家内安全、無病息災、商売繁盛でしょう。 生きていくために必要な糧、それを得るための富でしょう。 どのようにして得ていくのか、これが世の人々の最大の関心事です。 しかし、それらのものが豊かに蓄積されたなら、更に貪欲になります。 今度は、名誉、権力、将来の安心でしょう。 本当に限りがありません。 やがて、それらは自分の力や知恵や努力によって得られたものであるかのように見当違いをするようになります。 そこには、自分がなんとかすれば事態は変えられるという気がつかない奢りがあります。 今日の聖書箇所の直前にイエスは「愚かな金持ち」に語っておられます。 「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。 有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない。 自分のためにいくら富を積んだとしても、神の前に決して豊かにならない。」と言われたのです。 
 自然の恵みの中からイエスは、「烏」がどのように養われているのか、「野原の花」がどのようにして育てられているのか、よく考えなさい、よく見なさいと言われました。 鳥でも、花でもない、その背後にある父なる神の配慮をよく見なさい。 人の目に留まらないような存在のものにまで、神の配慮がある、養いがある、霊なる神との交わりがある、つながりがある。 ましてや、父なる神の恵みによって無条件に神の子とされた私たちが、その信頼によって生きるようにと、イエスは招いておられるのです。 この天地を創造されたお方、命をつくられるお方がおられるということ、そのお方がこの天地を支え、鳥も花も私たちをも今もなお支え続けてくださっていることを、霊の目でよく見なさい。 「だから、言っておく。 思い悩むな。 あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをすべてご存じである。」 父なる神に委ねなさい。 「自分の持ち物、自分の富を売り払い、施しなさい。 尽きることのない富を天に積みなさい。 神の国を求めなさい。 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。 富は地上にではなく、天に積みなさい。」と言われたのです。 私たちの生活の周りには、こうしてほしい、こうなってもらいたいと思い悩むことが山ほどあります。 「思い悩む」とは、「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをすべてご存じである。」というみ言葉に不安をもち、委ね切ることができない私たちの姿です。 自分のためにいくら富を積んだとしても、神の前に豊かにならない。 自分が大切にしているところに自分の心を置いているとイエスは言われたのです。 ですから、「小さな群れよ、恐れるな。 思い悩むな。 あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」と約束してくださったのです。 私たちは、この神の国の約束を喜んで受け入れるのです。 神の国にすでに入れられているその喜びに、希望をもつのです。 そうすれば、朽ちることのない、擦り切れることのない、尽きることのない富を、天に積むことになるのです。  

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「憐れみ深い者となりなさい」 ルカによる福音書6章27~36節

2017-01-22

 主イエスは、「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。」と呼びかけます。 聞いているのは、イエスの呼びかけに従って来て、今、そば近くにいて、静かに耳を傾けている弟子たちです。 これからもずっとイエスとともに歩んで行きたいと願っている弟子たちです。 その弟子たちに「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」とイエスは言います。 「敵」とはだれのことでしょうか。 「あなたがたを憎む者」、「あなたがたに悪口を言う者」、「あなたがたを侮辱する者」、「あなたがたの頬を打つ者」、「あなたがたの上着を奪い取る者」です。 しかし、そういう人たちに親切にし、祝福を祈り、もう一方の頬をも向け、拒ばないことができるでしょうか。 人間の世界ではありえない、納得できない、理屈が通らない、理由が分からないことです。 イエスは、これからご自身と一緒に歩むことになる弟子たちに、これらの「敵」にあなたがたは取り囲まれて生きていくことになる。 そうであるけれども、「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」と言っておられるのです。 この世の人たちは、自分を愛してくれる人を愛する。 自分によくしてくれる人によいことをする。 それでも、「あなたがたは、敵を愛しなさい」と言っているのです。 イエスは「愛する」という教えや行いを、弟子たちに説いているのではありません。 
 イエスは弟子たちに、「あなたがたに新しい掟を与える。 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と言われたのです。 「わたしがあなたがたを愛したように」です。 ここに選ばれて、招かれて、従ってきている弟子たちは、イエスによって愛された、赦された体験があるのです。 そのイエスの赦し、愛を心のうちに宿して、生涯をかけてイエスに従ってきているのです。 イエスは当然のように、「あなたがたは敵を愛するようになる」と言われるのです。  愛するためには、相手を必要とします。 自分一人ではできないものです。 人と人の交わりのなかに、神と人との交わりのなかに初めて生まれ出てくるものです。 イエスが語られた「敵」こそ、この交わりを壊し、引き裂くものです。 私たちがこの「敵」を愛することができないのは、赦すことができないからです。 イエスはこのために地上に来たと言われました。 神との交わりを失ってしまった私たちに、回復の道を整えるためです。 自分こそ交わりを壊すものでありながら、人を赦すことができなくなってしまった私たちの過ちを担うためです。 そのためにイエスは私たちのもとへ遣わされたのです。 イエスは十字架のうえで、その苦しみや痛みを担いながら、「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。」と、ご自身を十字架に架けた私たちのために祈られたではありませんか。 父なる神に祈って、赦しを求め、とりなしてくださったではありませんか。 この十字架によって初めて、私たちは赦される、愛されるという恵みを知らされたのです。 自分ができるとかできないとかという問題ではない。 もうすでに、この無条件の恵みの世界に私たちはあるのです。 イエスのように、すべての人の過ちを担い、赦すことなど私たちにはできません。 しかし、自分にしか赦すことのできない人の「過ち」があるはずです。 自分にしか愛することのできない人が、そば近くにいるはずです。 イエスはそのために祝福を与え、恵みを与えて、周囲はどうであれ「しかし、あなたの敵を愛しなさい」と呼びかけてくださっているのです。

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「地の塩、世の光である」 マタイによる福音書5章13~16節

2017-01-15

 イエスは、ご自身の後をついてくるおびただしい数の群衆をご覧になって、山に登られました。 そこで腰を下ろして、そば近くに寄って来た弟子たちに向けて語られました。 「心の貧しい人は幸いである。 天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は幸いである。 その人たちは慰められる。 ・・・義のために迫害される人々は幸いである。 天の国はその人たちのものである。」と、決してこの世において「幸い」を受けているとは思えないような人々こそ「幸い」を受けている。 神の国はその人たちのものであると、先ず神の祝福を語ったのです。 このようにイエスに呼びかけられたのは、イエスについて来た弟子たちです。 イエスによって選ばれ、召されて、従って来た弟子たちです。 そしてこれから、イエスに務めを与えられて、遣わされようとしている弟子たちです。 そうした弟子たちに最初に語られた「幸い」の直後に、イエスは「あなたがたは地の塩である。 世の光である。」と語られたのです。 当時の「塩」は高価なものであったようです。 食物に味をつける、腐敗を防ぐ、汚れを清める良いものと古くから考えられていたのです。 イエスは、神の国の祝福がすでにこの世に到来したにもかかわらず、心を頑なにしてこの「幸い、恵み」を受け取ることを拒むイスラエルの民を「塩気を失った塩」と言っておられます。 イエスは、「地」の「塩」で「ある」と言っています。 死んであの世で「塩」になると言っているのではありません。 この地上の困難な中で、頑張って塩気をもつ「塩」になりなさいと言っているのでもありません。 あなたがたは、この神から与えられる「幸い」の中に「ある」者である。 あなたがたがもともと塩味をもっているのではない。 神からの賜物によって初めて塩気を味つけられるものである。 その時が満ちて、今ここに到来したである。 あなたがたイエスに従って来た弟子たちはすでに、この「地の塩である」とイエスは宣言されたのです。 イエスの十字架の哀れな姿を前にして弟子たちはだれ一人例外なく、イエスのもとを離れて行きました。しかし、イエスが死んで葬られた後、イエスの霊が弟子たちのうえに降ってからは、彼らはその賜物を宿して、その恵みをいっぱい受けてイエスと同じ道を歩み出すことができるようになったのです。 イエスこそ、「塩」でありました。 そのイエスを内に宿すことによって、弟子たちは塩気を保つことができたのです。 「わたしは世の光である」と言われたイエスを、内に宿すことによって、その光が輝き出る。 この暗闇にあるからこそ、光は輝きます。 暗闇は光を嫌います。 光が見えないように、私たちの目をくらますのです。 この光はもともと、私たちに「初めに光あれ」と与えられて、「神が光を見て、良しとされた」ものです。 私たちが神を忘れ、神を見失ったことによって失われたものです。 暗闇を漂っている私たちが赦されて、もう一度、希望の光を見出し、取り戻すことができる時が来たと宣言されたのです。 「光のあるところでは、隠れることができない。 ともし火が照らすところでは、すべてを照らし出す。」と言います。 神の国の福音は隠しておくことはできない。 福音自らの命によって、語り始めるのです。 
 父なる神に「幸い、祝福」を受けた者は、もうすでに新しい存在です。 私たちは、私たちを生かしてくださっているお方から離れるなら、祝福として与えられている塩気も、見える光も失ってしまうのです。 イエスが、失われたものが回復されたと言っておられるのに、その恵みを受け取ろうとしないのが私たちです。 イエスは祝福を授けた後に、「あなたがたは地の塩、世の光である。」と宣言されたのです。 このイエスのとりなしによって、そのイエスに従うことによって、そのような存在にさせていただいているのです。 

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「力をふるって声をあげよ」 イザヤ書40章1~11節

2017-01-08

 主によって、選びの民として約束の地を与えられたイスラエルの民は豊かになり、生活は安定し次第に傲慢になっていきます。 「あなたは自分の力と手の働きで、私はこの冨を築いたなどと考えてはならない。 むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。 冨を築く力をあなたに与えられたのは主である。 主が先祖に誓われた契約を果たしたのである。 今日のようにしてくださったのは主である。」と警告されていたのにです。 いつしか自分たちの力に過信し、神の存在を忘れ、神に従わないようになっていったのでした。 その結果訪れた出来事が、歴史上有名なバビロン補囚でした。 イスラエルはバビロニア帝国に滅ぼされました。 その首都エルサレムが火に焼かれ、エルサレム神殿も破壊され廃墟と化しました。 しかし神は、ご自身の民を捨てることはありません。 エレミヤやエゼキエルという預言者を立て、新しい契約を結ぶ時が来ると、赦しと解放を憐れみをもって語りかけてくださったのです。 約半世紀ほどの月日が流れたころに、このイザヤ書40章の預言は語られたと言われています。 
 私たちは順調な時、自分の力や自分の働きに過信します。 何でもできると錯覚します。 神を忘れていても何ら支障がなかったからです。 神を信じても、信じなくても変わりがないと私たちが勘違いしたからです。 神はこのような危機の時に、神がおられること、神が生きて働いておられることを私たちに気づかせてくださるのです。 自分自身も捕囚の身にあったイザヤを通して、「苦役の時は今や満ち、エルサレムの咎は償われた。 罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた。」という神の声がイスラエルの民に響いたのです。 もうバビロニアに服従する時は終り、そのもとから解放される時が来た。 もう十分すぎるほどの苦役を経験した。 主はご自身の力を現わすために、必ずみ言葉を成し遂げられる。 エルサレムに帰還する道が備えられるという希望のみ言葉が、イザヤを通して宣言されたのでした。 肉なるものは皆、草に等しい。 永らえても、すべては野の花のようにはかないものだ。 今、あなたがたの目に見えるところは、草は枯れ、花はしぼんでいるように見える。 しかし、その枯れた草、しぼむ花に主の風が吹きつける。 永遠に枯れない、しぼまない主のみ言葉が語りかけられる。 今までの苦難は、このお方がおられることをあなたがたが知るためだった。 このお方の力があなたがたのうえに現れるためだった。 このお方に守られ、導かれ、生かされていることをあなたがたが思い起こすためだった。 主なる神は、ここまで神に背き、神を忘れてしまっていたあなたがたを捨てることなく、憐れんでくださっている。 囚われと苦難の時代は終わる。 今まで通り、「わたしはあなたがたの神である。 あなたがたはわたしの民である。」という声を、苦難の嘆きと諦めのただ中で人々は聴き取ったのです。 主イエスによって「時が満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい。」と言われたようにです。 バビロンにイスラエルの人々を捕らえたバビロニアも、またそのバビロニアを倒して、イスラエルの人々を解放したペルシャもすべて、失われた者を再び呼び集める主なる神の業に用いられたのです。 「あなたがたはもはや赦された。 解放された。」という喜びの知らせが、イスラエルの人々の絶望の日常のなかにこだましたのです。 私たちはもうすでに祝福されているのです。 ただ受け取るだけなのです。 この知らせを、「よき知らせ、神の福音」と受け取る者が、神の国に入ることができたのです。 主が、「私を見よ。 力をもって現れる私を見よ。 羊飼いのように、み腕に小羊を抱きかかえるように、その乳を飲ませる母羊を導くように、そしてその群れを養うこの私を見よ。」と、困難な中にも希望をもって歩み出すようにと私たちを招いてくださっています。

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