「祈りによる交わりの回復」 フィリピの信徒への手紙1章3~11節
フィリピの信徒への手紙は、パウロが牢獄の中から直に書いた書簡だと言います。 自由が奪われ命の危険がある、そのような状況の中で、パウロからフィリピの人たちへ送られた手紙です。 フィリピでのパウロの滞在は、わずか数日間であったと言います。 教会という立派な建物があったわけでもなく、川岸にある「祈り場」にパウロたちが赴き福音を語ったのでしょう。 紫布を商う神を崇めるリディアという婦人が心を開き、パウロの語る話を注意深く聞いた。 そこから、彼女もその家族もバプテスマを受けたと言います。 とある出来事から牢獄の中に捕えられたパウロたちが、そこでも賛美の歌を歌い神に祈る姿が、フィリピの人たちに大きな影響を与えたのでした。 そこからヨーロッパで最初の教会が誕生し、今に至るまでパウロとフィリピの人たちとの「交わり」が脈々と続いているのです。 「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝している。」 「あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」とパウロは言います。 今朝の聖書箇所の「パウロの祈り」は、牢獄の中で祈る「たったひとりの祈り」です。 フィリピの人たちが、「最初の日から今日まで、福音にあずかっていること」への「感謝の祈り」です。 「フィリピの人たちの中で善い業を始められた方」が、今もってそこにおられる。 今日に至るまで、変わらず守り導いてくださっている。 その神の働き、神の恵みに対する「感謝の祈り」です。 ほんのわずかな「交わり」に端を発し、今日に至るまで、その信仰を保ち、支え導いてくださっていることへの「神への賛美」です。 その「善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださる」という確信を表明している「祈り」です。 キリストが再びおいでになるその日まで、フィリピの地において神の業が続けられる。 その日を目指して、フィリピの人たちとの「交わり」は続けられる。 パウロたちも、フィリピの人たちも、「キリスト・イエス」に結ばれている。 監禁されているときも、自由を奪われているときも、社会から断絶されているときも、命の危険さえあるときもです。 「福音を弁明し、立証するときも」と付け加えられているのもまた、広く他の人たちに伝えるときもと積極的な意味です。 み心のままに「終わりの日」には、必ず成し遂げられるとパウロは断言しているのです。 「共に恵みにあずかる」という意味は、自分一人ではなく共に恵みに触れて、共に交わるということです。 「キリストの福音に与る」とは、キリストにそれぞれがふさわしく結ばれ、それぞれ異なる恵みを味わい、それを持ち寄って交わるということなのです。 ご一緒にそれぞれにふさわしい福音の恵みを味わい、それらが一つとなって大きな神の働きへと結び合わされていく。 それが成し遂げられるまで、終わることなく続けられるということです。 パウロはこのことを願い求める「とりなしの祈り」を、たった一人で牢獄の中から喜びと感謝とともにささげているのです。 祈ることは、たったひとりでもできます。 神のみ前に自ら進み出てそこで初めて、神と交わることができる。 むしろ、ありのままの姿が、神によって引き出されていくのです。 私たちはどうしても、自分に依り頼もうするのです。 自分が無力であることを、どうしても認めたくないのです。 パウロはありとあらゆる苦難を体験したと、自己表現しています。 それは、パウロに対する神のご愛に裏打ちされた厳しい神の裁きであったのかもしれない。 しかし、それはパウロが「祈り人」へと変えられる神の「招き」ではなかったでしょうか。 自分たちもフィリピの人たちも、神ご自身の恵みによって守られ、支えられてきた。 これからも神の計らいに導かれていく「確信と事実」を、今まで味わってきた「キリスト・イエスの愛の心で」賛美とともに、「とりなしの祈り」をささげているのです。
[fblikesend]「すべてを支配される共にいる主」 創世記41章1~16節
「夢」は神のみ心を私たちに告げる重要なものであったのでしょう。 この「夢を解き明かす者」としてヨセフが描かれています。 最初にヨセフが見た「夢」は、「兄たちも、両親も皆ヨセフにひれ伏す」というとんでもない夢でした。 ただでさえヨセフは、父ヤコブから寵愛され腹立たしく思っている兄たちにとって、そのような「夢の解き明かし」を言えばどう思われるのか一目瞭然です。 父ヤコブはヨセフをたしなめ、兄たちはヨセフを殺そうと思うまでになったと言います。 ヨセフは一命をとりとめたものの、兄たちの謀り事によってエジプトに奴隷として売られてしまった。 連れて行かれたエジプトで宮廷の侍従長に仕え、その家の財産すべてを管理するまでになった。 ところが、その侍従長の妻の企みにより今度は、ヨセフが監獄に入れられることになった。 そこでも、ヨセフは監獄の看守長の目に叶い、囚人をすべて任されるまでになったと言います。 そこで、囚われていたエジプト王の給仕役の長と料理役の長の夢を説き明かしたのです。 ヨセフが語った通り給仕役の長は、宮廷に復帰することになった。 「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計られたからである」と記されています。 「解き明かしは、神がなさることではありませんか」と屈託なく語るヨセフです。 神が指し示すことを語り、神が必ずその通りに果たすとためらうことなく語るヨセフです。 このヨセフの姿に、主に信頼して生きる人間の原型を感じます。 それから二年後、エジプト王ファラオが七頭のよく肥えた雌牛とやせ細った七頭の雌牛の夢を見た。 再び、良く実った七つの穂と干からびた七つの穂の夢を見たと言う。 その夢は、エジプトの牧畜と農業の豊かさに対する不安を引き起こすものでした。 「ファラオはひどく心が騒ぎ、エジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めた」と言います。 ファラオにとって耳障りな悪い予感を進言する者はいなかったのでしょう。 そこで宮廷の給仕役の長は、監獄で夢を説き明かしたヨセフを思い出したのです。 神が用いられるすべてのものがじっと待たされ、隠され、一気に神の働きが噴き出るその時を満を持して待っている、これが「神の時、神の働き」ということでしょう。 一歩間違えれば、首をはねられるかもしれない危険な立場に立たされたヨセフは堂々と、「七年の豊作と七年の飢饉」という夢そのものの内容ではなく、神がなされることに照準を置いてファラオを前にして語り始めるのです。 これから起こるであろう激しい飢饉に備え、エジプトの人々を飢饉から救おうとする神のみ心をヨセフは受け取った。 そのために何をなすべきかをファラオに伝え、神のみ心に懸命に応えていこうとした。 自分には分からない神の大きな、深いみ心によるものであると受け止め、今与えられている現実を自分のものさしで計らず、そのみ心に精いっぱい従おうとした姿に映るのです。 ヨセフが兄たちの嫉妬によってエジプトに奴隷として売られてしまったことも、人の謀り事によって牢の中に閉じ込められたことも、人の記憶の中から忘れ去られたことも、すべて神のみ心のうちにある。 ヨセフには隠されていたが、神だけは忘れることなく共におられ計らってくださっていた。 神と共に歩む所には、私たちの想定外のことが必ず起こります。 それが引き起こす現実が良いか悪いかではない、幸いか災いかでもない。 神の意志が強く働いているその現実に圧倒されることなく、すべてを支配しておられる神を仰いで、祈りつつ、共にいてくださる神とご一緒にその現実に立ち上がることです。 その時に味わう「苦難、思い煩い、痛み、悲しみ」は決して悪いことではない。 それらを通して、神のみ心をしっかりと受け止めることができるように整えられるのです。 詩編は、「万軍の主はわたしたちと共にいます。 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。 主はこの地を圧倒される。」(46:8-9)と賛美しています。
[fblikesend]「神の国を受け入れる人」 ルカによる福音書18章15~23節
主イエスの最後の死出の旅とも言うべきエルサレムへの旅の終盤、ご自身の死と復活の三度目の予告の直前の二つの出会いがルカによる福音書に記されています。 当時のユダヤ社会では、様々な「しるし」を引き起こす人物には霊的な力がある、その人物に触れると霊的な祝福が注がれると人々に信じられていたのでしょう。 ありとあらゆる病いや患いをことごとく癒していたイエスの評判を聞いて、多くの人々がイエスのもとに集まったのです。 「イエスに触れていただくために、乳飲み子までも連れて来た。」と言います。 しかし、弟子たちはイエスの祝福を求めよる人々の姿を見て叱ったと言います。 エルサレムへの途中でイエスの手を煩わせてはならないと、思わずそのような言葉を発したのでしょう。 別の福音書によりますと、「イエスはこの弟子たちの姿を見て憤り、子供たちをわたしのところに来させなさい。 妨げてはならない。 神の国はこのような者たちのものである。」と言われたのです。 「神の国」とは具体的な場所を言うのではなく、神の恵みが覆いつくす状態を言うのでしょう。 イエスは「神の国は乳飲み子たちのものである」とは言われていない。 「子供のように神の国を受け入れる人でなければ」と言うのです。 「乳飲み子たち」とは、ひとりでイエスのもとに来ることのできない、ただ世話を受けるだけの存在です。 ましてや、この世の戒めはおろか、律法の戒めを知らず、弁えず、守ることのできない存在です。 そうした存在を「来させなさい。 妨げてはならない。」と弟子たちに言われたのです。 弟子たちに対するイエスの「憤り」は、神の国にふさわしい存在であるのかどうかの判断を、自ら下していることに対する「憤り」でしょう。 神の国に入る資格について、私たち人間の介入を断じて赦さない、神の側に属する事柄であるというイエスの「宣言」でしょう。 自分が勝ち取った、築き上げた立派な姿で取り繕うこともせず、ありのままの姿を差し出して、イエスの説く神の恵みを受け入れなさいということでしょう。 これが神の国に入る「条件」だと言われているように響きます。 預言者イザヤは、「造られた者が造った者に言いうるのか。 陶器が陶器士に言いうるのか。」と迫ります。 使徒パウロもまた、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子です。 神の子とする霊を受けたのです。 この霊によってわたしたちは、父よと呼ぶのです。」と語り、神の賜物である霊を神の恵みとして受け取る必要を迫ります。 そこに、「大変な金持ちだった」と言う「ある議員」が登場します。 彼はイエスに「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と尋ねるのです。 「永遠の命を受け継ぐ」とは、「神の国に入ること」と同義語でしょう。 この議員の「善い先生」という呼びかけに、自身の評価が込められています。 質問をしている自身もまた「善い人間」として、これまで生きてきた自負を感じます。 イエスの言われた様々な戒めは、「子供の時から守ってきました」と胸を張り、そのうえで「何をすれば神の国に入れるでしょうか」と尋ねるのです。 何かをすることによって、自分が目指している姿に到達することによって神の国に入ろうとするのです。 その議員にイエスは、「あなたに欠けているものがまだひとつある」と言います。 神の国に入る資格は、私たち人間の側にあるのではない。 神の側の憐れみと恵みにあるということ、神の国に入る困難さを示すとともに、「人間にはできないことも、神にはできる。」と、イエスご自身に従うという一点に絞り語られたのではないでしょうか。 イエスは、私たちの努力やつくり上げるものを期待しておられるのではありません。 父なる神が期待して収穫すべきものを用意してくださって受け取ることを待っておられる。 神にしかできない救いの出来事が備えられていること、それを恵みとして受け取るようにと語っておられるのです。
[fblikesend]「聖霊を受けなさいと言う復活の主」 ヨハネによる福音書20章19~23節
場面は、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」ところです。 自分たちが「メシア、救い主」として慕って、人生をささげて従ってきたイエスが、処刑されるという予想外の事態に直面した、その三日後のことです。 イエスはユダヤの国から「神を冒瀆する死罪判決」を、ローマ帝国から「反逆罪」で死刑を執行されたのです。 そのイエスの弟子たちに、身の危険が及ぶと判断してもおかしくはないでしょう。 自らが描いて来た希望が崩れ、生きる目的を失ってしまった状態でしょう。 一方で、命をかけ従ってきたイエスに対する背信の後悔もあったでしょう。 そこで、「イエスの遺体が墓から取り去られた。 どこに置かれているのか分からない」という驚くべき知らせを、マグダラのマリアより受けたのです。 弟子たちは急いで墓に行き、イエスの遺体がなくなっことを確認するも、「イエスは死者の中から復活されることになっている」という聖書のみ言葉を理解することはなかったのです。 墓の外に立って泣いていたマリアに、復活の主が呼びかけるのです。 そこで初めて、それがイエスであることに気づいたマリアに、復活の主イエスは「わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る。」 父なる神のもとへ至る唯一の道であると言われたイエスは、「わたしの兄弟たちのところへ行って、伝えなさい」とマリアに言うのでした。 しかし、イエスから「わたしの兄弟たち」と言われた弟子たちの心は閉じられたまま、復活の主の存在を信じないままです。 イエスは、愛する弟子たちの混乱状態をご覧になって、想像を超えて強引に入って来られるお方です。 途方に暮れて佇んでいる彼らの「真ん中に立って」、十字架の肉体の傷と死、「手とわき腹をお見せになって」古いものから新しいものへ向かうようにと、赦しの宣言を伴って「今、ここに」共にいてくださることを示すために入り込んで来てくださったのです。 「弟子たちは、主を見て喜んだ」と言います。 自分自身を閉じ込めている一切の束縛から解放されて、新しい命に生きるように、備えられた「父なる神のもとへ至る道」を見つけ出すようにと、呼びかけてくださっているのです。 十字架の傷跡が刻まれた主イエスが、変わらずいつも通り呼びかけ、自分たちの深い心の傷を癒してくださった「悲しみから喜びに変えられる体験」が、新たに主イエスの赦しと解放、平和と安息を再び呼び起こし、弟子たちの深い傷と痛みを癒したのではないでしょうか。 ヨハネによる福音書は、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(14:26)と言います。 復活の主としてイエスは、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言われ、息を弟子たちに吹きかけられて、「聖霊を受けなさい」と言われたのです。 小さな群れに聖霊が吹きかけられるペンテコステの出来事の先取りです。 更にイエスは、「わたしが父のうちにおり、あなたがたがわたしのうちにおり、わたしもあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かる。」(14:2) 「わたしと父とはひとつである。」(10:30)と言われ、十字架の主、復活の主に出会うというこの体験の事実が、神との交わりの回復、イエスご自身を通しての人と人との新しい交わりを創造することをつけ加えておられるのです。 この聖霊の働きによって、父なる神のもとにあったキリスト、生前のキリスト、十字架のキリスト、復活のキリスト、そして私たちのうちに宿るキリストが、違いを越えて「全体としてひとつなるキリスト」が、「今、ここに」現れ出て、それがひとつの体となっていく。 それぞれに宿る内なるキリストが折り重なって、一つの体と紡ぎ合わせられていくことになる。 「違いがありつつ、ひとつ」のイエスの体が、小さな群れに築き上げられていくのです。
[fblikesend]「成し遂げられたものは」 ヨハネによる福音書19章28~30節
ヨハネによる福音書は、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(1:17)と語ります。 イエスが十字架上で「頭を垂れて息を引き取られる」直前に語られた二つの言葉、「渇く」という言葉と「成し遂げられた」という言葉から、父なる神が主イエスを通して表された「恵みと真理」を味わいたいと願います。 この時のイエスの十字架上の姿はイザヤ書53章が語っているとおり、「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、無視されていた。 苦役を課せられても、かがみ込み、口を開かなかった。 屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、口を開かなかった。」と言います。 このイエスが語られた二つの言葉には、惨めな敗北者のような姿には似つかない力強い確信めいた響きがあります。 この「渇く」という言葉は、絶望のどん底と思われるような「魂の渇き」を指し示します。 すぐ後で語られた「成し遂げられた」という言葉と相俟って、人間としての魂の渇きが、人間の肉体を背負われたイエスご自身の身に起こされた。 「神の言」そのものであられるイエスご自身に「今、ここに」実現したと、人間の死の直前に確信して発せられた魂の言葉として響きます。 ユダヤの「人々は、酸いぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプという植物に付け、イエスの口もとに差し出した」と言います。 マルコによる福音書では「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった」と言い、ルカによる福音書では「兵士たちがイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突き付けながら侮辱した」とあります。 このヨハネによる福音書は、イエスは鎮痛剤としての没薬を混ぜ合わせたぶどう酒は拒まれたが、屈辱を加える嫌がらせの酸いぶどう酒はむしろ受け入れられたと語っているのでしょう。 イエスは、父なる神の民を取り戻す為に、その屈辱にまみれた杯を父なる神がお与えになった杯として受け入れられ、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られたのでした。 この言葉には、人間の生涯の終わりは神のみ心の中の一つの目的の成就であり、終わりではない。 人間の可能性の一切が失われたその「終わり」から初めて始まるものがある。 その十字架上で主イエスが示してくださった「恵みと真理」を味わい知るようにと、息を引き取られる直前に心に留めるようにと導いておられるのです。 パウロが語る「あなたがたも罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」という、その順序を忘れてはならないのです。 終わりがあって初めて始まる、「死」から「命」へという始まりがあるのです。 「神との交わり」の復活です。 「恵みと真理」の大事な実体験です。 この段落の後には、主イエスのお姿によって表された「終わり」を体験した二人の変えられた姿が記されています。 「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて隠していた」アリマタヤの出身のヨセフと、「かつてある夜、人目を忍んでイエスのもとに来たことのある」ニコデモの、公然とイエスを埋葬する姿です。 ユダヤ人たちを恐れない、会堂から追放されることにも動じない、人の誉れを追い求めず、神の誉れを尋ね求める、新しく生まれ変わった「始まり」に生きるよう変えられた姿です。 主イエスが十字架上で宣言された「終わり」に、目と耳を傾けなければならない。 主イエスは、「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。 わたしは自分でそれを捨てる。 わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。 これは、わたしが父から受けた掟である。」(10:18)と言われていたのです。 そのために一切の侮辱も、一切の過ちや弱さもすべて背負われたのです。 主イエスの生涯の「終わり」が、私たちの救いの「始まり」となったのです。
[fblikesend]「主なる神の正しさと人の正しさ」 創世記4章1~16節
主なる神は人間を土の塵で形づくり、その鼻に命の息を吹き入れ生きる者とされた。 「地に満ちて地を従わせよ。 生き物すべてを支配せよ。」と命じ、エデンの園を設けそこに人を置かれ、「そこを耕し、守るようにされた。」 更に、「園のすべての木から取って食べなさい。 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。 食べると必ず死んでしまう。」と命じられたと言います。 「これを食べると、神のように善と悪を知るようになる」という蛇の誘惑により、最初の女と男は神の命令に反し食べてしまった。 すると、自分たちが裸であることに気づき、神の呼びかけに隠れ言い訳を言い始めた。 それをご覧になった主なる神は、彼らをエデンの園から追放されたのです。 追放された二人が最初になした出来事が、今朝の聖書箇所です。 「新しい命を産んだ」という命の創造の業を、エバは「わたしは主によって男子を得た」と言います。 蛇の誘惑に乗って禁断の実を食べ、その過ちを神に赦しを乞うことなく、身を隠した人の言葉とすれば、新たな命を生み出すという神のような力を持ち得たのではないかと、その業に自分が用いられた自負と喜びが含まれているのかもしれません。 その子どもの「兄カインは土を耕す者となった。 弟アベルは羊を飼う者となった。」 どちらも、自分たちの働きを守り、祝福してくださった神に感謝の献げ物をささげるのです。 兄カインは土の実りをささげた。 弟アベルは羊の群れから肥えた初子をささげた。 問題は、主が弟アベルの献げ物には目を留められたが、兄カインの献げ物には目を留められなかったことです。 その理由はここに語られていません。 この神の選択をあれこれと私たちは詮索します。 人間的にみれば、不公平、不平等、不条理と思われる現実を多々目にします。 しかし主は、その違いの理由を探ることよりも、人が納得できないような現実があることを踏まえ、それをどう受け止めていくのか神のみ心を尋ね求めるようにと、「どうして怒るのか。 どうして顔を伏せるのか。」と迫り、「もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。 正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せてお前を求めている。」と、カインの応答を待ったのです。 「もし、自分の正しさに拘り続けるなら、戸口で待ち伏せているものに縛られてしまう」と、み前に進み出てくることを促しておられるのです。 兄カインは神の語りかけを無視し、弟アベルに屈折した怒りをぶつけます。 一方、理由なく殺されてしまった弟アベルの叫びを神が、「弟の血が土の中から叫んでいる」と代弁します。 その理由に対し、神は沈黙です。 「わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた主イエスの十字架上での叫びを思い起こします。 私たちは、理由の分からない神のみ心、神の正しさがあることも、それを知り尽くすことなどできないことも知らなければならない。 むしろ、そうした厳然たる事実をどのように受け止めていくのかを、その事実を起こしておられる主なる神に尋ね求めなければならない。 顔を伏せず、呼びかけを無視せず、応えなければならない。 神のみ心、正しさ、ご愛は、イエスの十字架のご愛を味わうことによってしか知り得ないものなのです。 十字架を避けて、顔を上げず、応えず歩むところでは、主イエスに出会うことも交わることもできない。 十字架の主イエスのみ前に立たなければ、主なる神のご愛、正しさ、御心を知ることはできないのです。 主なる神は、いつでも手に取って食べることのできるところに、食べてはならない木を置いて、食べてはならない理由を告げず、それを食べてはならないと命じられる。 神さまはご自身のご愛、正しさ、み心をそれぞれにふさわしく示すために、ご自身との交わりを強く求めておられるのです。 「地上をさまよい、さすらう者となる」と言われたカインにも諦めず、神は「しるし」を着けて守られているのです。
[fblikesend]「主イエスを通して入る神の門、神の家」 創世記11章1~9節
わずか9節に過ぎない聖書箇所ですが、「バベルの塔」として広く語り継がれています。 一般的には、人間が勝ち取ってきた力と知恵を支えに、神の域に達しようとする人間の驕りの象徴のように語られています。 天まで届くような塔をつくろうとしている人間の姿をご覧になった神さまが、人間の言葉を混乱させ、人間をそこから全地に散らされた。 人間が、その力と知恵によって全地を支配しようとした結果が、人間相互の交わりを壊す結果をもたらしたと受け取られてきたのではないかと思わされます。 ノアの洪水の後、ノアの三人の息子たちの子孫が、祝福のうちに各地に広がっていった。 それぞれのところで異なる「氏族、言語、地域、民族」となったと、10章では描かれている。 しかし、この11章では、逆に神の怒りの結果のように「全地に散らされた」と言う。 ある牧師は、10章で「言語」と訳されている言葉と、11章で「言葉」と訳されている言葉は、明らかに異なる言葉が使われている。 10章の「言語」は、いわゆる母国語で、11章の「言葉」は、異なる「言語」の民をまとめ支配するための公用語を意味するものではないかと言います。 「シンアルの地に住み着いた人々」とは、この創世記が編纂された頃のバビロニア帝国の地に住み着いた、集められた人々ではないかと言われています。 当時のバビロニア帝国は、武力により、様々な文化により栄えた国です。 帝国の諸都市にはそれぞれの都市の神を祀る神殿があり、その脇にはそびえる塔が立った。 高い塔は、現在で言えば30階建ての高層ビルに相当するものもあったと言います。 それほど高い建物を造る技術がすでにあったということです。 「さあ、天まで届く塔の町を建てよう。 有名になろう。 全地に散らされることのないようにしよう。」とは、人々の自信の現れでしょう。 「バベル」とは、バビロンのヘブライ語読みです。 バビロニア帝国が、領土を拡大し、その土地の資源を収奪し、その土地の人々を捕囚として集め、支配し、奴隷化する。 その帝国の支配を確かなものとするために、自らに都合の良い公用語を制定し、その土地の人々に押し付ける。 その有様を「主は降って来て、人間が建てた塔のある町を見て」、「直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」と言われたのです。 人のつくる権力や権威を無意味なものとされた。 すでに神との交わりを自ら断ち、神ならぬものを創り出し、それを神殿に納め、この塔を通ってその神殿に入るようにと強制する「人間の支配」を無きものにしようとされた。 神との間に成り立たなくなった「交わり」のように、人と人との間でもその「交わり」が成り立たなくさせたということです。 かつて神さまは、この私たち人間の有様をご覧になって憐れんで、内なる罪に縛られてしまった人間どうしの交わりを破綻させたのです。 神が必要な措置として果たされた「言葉」の混乱であったのでしょう。 人間はそのような内なる誘惑に苛まれるところから散らされました。 神はそのようなところから、アブラハムを起こし、ご自身に交わる信仰を与え養われました。 ついには、神さまは私たち人間の救いのため、イエス・キリストの十字架と復活によって、臆病で弱々しかった弟子たちに聖霊を注ぎ込んで、与えられた信仰に応えて神のみ言葉、福音を自分の言葉で語る新しい「言葉」を授けられたのでした。 主なる神との交わりを回復する唯一の道を切り開いてくださったのです。 このペンテコステの事実にこそ、語る言葉が新しく回復され、神との交わりに止まらず、主イエスと結ばれた者どうしの交わりをも回復されたのです。 神の与える混乱と妨げは、神の救いと恵みの始まりです。 人間の造り上げるような塔から入るのではなく、人間が造り上げた神を祀るような神殿ではなく、「父なる神が準備されている」(ヘブライ1:16)新しい都と神殿があると言うのです。
[fblikesend]「生き延びさせるための滅亡」 創世記6章9~22節
神さまが「すべてが良しとして創造された世界であるはずなのに、どうしてこのような世界になってしまったのかと後悔し、心を痛められた。」と言います。 「神の前に堕落し、不法に満ちていた。 すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。」と言わざるを得ないその現実に対し、神さまは「わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。」と言われる。 神によって形づくられたはずの神の似姿から遠く離れ、神によって愛されている自分自身の尊厳も、祝福されるべき人生をも破壊していく。 神さまからみれば、もうすでに終わっている。 この「ノアの洪水物語」を記した当時の祭司たちこそ、バビロニア帝国によって南ユダ王国が滅ぼされ、エルサレム神殿を破壊され、望みを失ってしまった捕囚民として遠くバビロンの地に流された人たちです。 自分たちの誤った歩みから、こうした滅びの歩みを生み出したのだと自戒しつつも、神の憐れみに寄り縋っていこうと、この「ノアの洪水物語」を記したのではないでしょうか。 怒りに燃えた神が、ついにその怒りを爆発させて「地もろとも滅ぼす」と語られたのでしょうか。 恐ろしい神が激しい言葉を口にされたのでしょうか。 神の安息のうちに憩うはずであった祝福されるべき自分自身を破壊し続け、神との交わりを自ら断ち切って、自分のためだけに神の造られたものを利用しようとした。 そうした私たち人間の姿を神さまはご覧になって、心を痛め、苦しみ、忍耐し、自らに似せてつくられた人間を造ったことを後悔するほどまでに、嘆き悲しんで叫んだ言葉として、また、誰よりも深く私たち人間を憐れんで愛しておられる神さまが、すべてのものをご自身のもとに取り戻すために発した言葉として響いてきます。 神ご自身が「目を覚ますように」と裁き、その裁きの上に立つ「真の救いと解放」を与えようと決断されたみ言葉が「ノアの洪水物語」ではなかったでしょうか。 同時代に生きた人々が、「常に悪いことばかりを心に思い計っている」のに、「ノアは神と共に歩んだ」、「神に従う無垢な人であった」と表現され、神の前に正しい人、神のみ心に従うという一点において非の打ちどころのない人でした。 そのノアに、神は「木の箱舟をつくりなさい」と事細かく指示されたのです。 ここで言う「箱舟」とは、帆もなければ舵もない、ただ水の上を漂い流されていくだけで、自分でその行き先を定めることも進めることもできない、命じられた神さまに委ねて漂うだけの舟なのです。 指示された長さ、幅、高さは破壊されたエルサレム神殿とほぼ同じ大きさです。 エルサレム神殿が完全に破壊され、エルサレムから遠くバビロンの地に捕囚として流された体験を味わった祭司たちが、再び「残された者」として息を吹き返し再び神殿が起こされるという約束を信じて辛うじて生きていた者たちによって記されたものです。 「造れ、入れ」と命じられた「箱舟」こそ、再建されるべき神の神殿のしるし、「ノア」こそ、神に命じられたとおりにみ手の中に委ねた「残りの者」の象徴です。 再び神の真の神殿が起こされる時がくるという「希望のしるし」を信仰告白として語ったのです。 箱舟に入れられたノアたちこそ、破滅的な現実を目の当たりにし、神の正しい裁きを味わい尽くすことを強いられた人物、神の約束に生きていくことを箱舟の中で待った人物です。 神が取らざるを得なくなった滅亡です。 神の悲しみと憐みと忍耐によって、もう一度新しい出発のために生き延びるようにという愛の裁きです。 それを受け取って、すべてを飲み尽くした水の上で解放の時を待ち続けたノアたちの姿こそ、捕囚の身となった祭司たちの希望の姿です。 主イエスを裁かれたのは神ご自身でした。 罪に縛られて身動きができないでいる私たちを見かねて、主イエスによって新しい神の神殿がつくられ、箱舟の中だけでなくすべての人々に今や主イエスの十字架と復活によって「真の救い」が解放されているのです。
[fblikesend]「叫び求める選ばれた者の祈り」 ルカによる福音書18章1~14節
「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」と、「やもめと裁判官」のたとえを語られたのでした。 イエスはこの直前にファリサイ派の人々から、「神の国はいつ来るのか」と問われ、「神の国は、見える形では来ない。 ここにある、あそこにあると言えるものでもない。 実に、あなたがたの間にある。」と言われ、イエスご自身こそ神の憐れみと恵みを示すものであると宣言されたのです。 弟子たちには、「多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」と、すべての人々の贖いのいけにえとなる決意をもって、その十字架と復活が待ち受けるエルサレムに向かう途上にあることを告げるのです。 その途上で、「再びご自身が現れる日がくる。 その日には、裁きと救いが同時に起こされるように、『残される者』と『集められる者』が取り分けられる。 ご自身の十字架と復活によってもたらされる恵みと憐みが支配する世界がやってくると宣言された直後に語られた「たとえ」なのです。 当時の裁判官とは、賄賂を受け取り、裁きを曲げる者であったようです。 「一人のやもめ」とは、お金も援助者もいないので、何度も繰り返しひっきりなしに訴える存在として語られたのでしょう。 「失望せずに祈り続ける」という「ひたすらな祈り」が不正な裁判官さえも貫き通す。 まして公正な裁き人であるならほおっておかれることはないと、いずれ訪れる「終わりの日」、「イエスが再び来られる日」に救いの完成を受け取るために「失望せず、祈るように」と愛する弟子たちに語られたのです。 「祈り」は単なる願いではなく、自らの意志をもって直接神の前に出ていくことです。 しつように繰り返すなら、自らの意志が神の前に曝け出されていくのです。 不正な裁判官が祈りのひたむきさにせき立てられ仕方なく応じるようなものではなく、神ご自身がみ心を果たす為に,忍耐して待ち、選ばれた人に祈る心を迫り、「祈り」を生み出されるのです。 「祈り」は神さまからの賜物です。 「祈り」をもつこと、「祈り」が与えられることは、もうすでに神のみ心に動かされ、用いられ始めているということです。 主イエスが「今の時代の人たちから排斥されることになる」事態となっても、再び来られるという主イエスの約束に立って、「目を覚まして祈りなさい。 信仰に至るまでに待ち望みつつ祈りなさい。」と響いてきます。 「祈り」は呼吸をしているように、神の息を受け止めるような生活にまでならなければならないと言います。 主イエスは「祈り」と「信仰」をほぼ同義語のように用いておられます。 直前に「神の国はいつ来るのか」と尋ねたファリサイ派の人たちの祈りの姿と、徴税人の祈りの姿を主イエスは語ります。 ファリサイ派の人たちの祈りは、人々の前で堂々と人々に聞かせるように、心の中では「ほかの人たちのような者ではないことを感謝します。 週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と、そうした思いを秘めながら祈る姿であると言います。 人と比較して自分自身を見つめ、神と人の前で自らを誇り本当の自分の姿を見つめようとしない姿です。 主イエスは、神の御前に進み出ることさえ憚るような「わたしを憐れんでください」と祈る徴税人の祈る姿を、「神に義とされて家に帰ったのは、徴税人であって、ファリサイ派の人ではない。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 「神に義とされる」とは、神の憐れみによって受け入れられるというただ一点だけであると言うのです。 やもめのひたすらな祈りと「憐れんでください」と叫ぶ徴税人の祈りが合わさって、「祈り」が「信仰」となって生活に息づいて、本当の自分の姿を知らされて、神の憐れみにすがる「祈りの姿」を愛する弟子たちに、これから起こる苦難と絶望と背信の誘惑を前にして、エルサレムへの途上に語られたのです。
[fblikesend]「主イエスと共にする食卓」 ヨハネによる福音書12章1~11節
「さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた」頃のことです。 「過越祭」とは、年一回、BC13世紀ころ、エジプト王ファラオの奴隷として苦役に従事させられていたイスラエルの民を、神はモーセという指導者を選び、イスラエルの民を引き連れてエジプトから脱出させた。 そしてシナイ山で十戒を与えて彼らを神の民とし、信仰の祖アブラハムに対し「約束された地」カナンに導き帰してくださった、その救いの出来事を忘れないよう心に刻むために行っていた祭りです。 脱出の前夜、「小羊を屠って、その血を家の鴨居に塗り、室内では種入れぬパンを苦菜と一緒に食べることを、神はご自身の民に命じられたのです。 鴨居に塗られた小羊の血がしるしとなって、「死の使い」がその家を通り過ぎる。 しかし、血が塗られていないエジプト人の家には、「死の使い」が入り込み、その家の初子が死んだと言う。 裁きと救いの両面があるように、新しい生に生きる者と古い生に死ぬ者を分かつ「小羊の血」がそこにある。 イエスご自身もまた、流される血を贖いのしるしとしてささげ、信仰によって生かされる人間を新たに創造するために遣わされてきたのです。 「過越祭」を前にして、世の罪と死に縛られているすべての人を解放し、神の子として新しく生かすために来られたご自身の姿をもって感じ取られていたのでしょう。 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と、初めてイエスを見た途端、バプテスマのヨハネが発した言葉はこのことを象徴させるのです。 「過越祭の六日前」、イエスがいよいよ十字架に磔にされ、殺されるその時が近づいている。 多くの人々は、イエスを大歓迎する。 一方、祭司長たちやファリサイ派の人々は、「イエスの居所が分かれば届け出よと命令を出していた。」 様々な思いが入り混じる中、「過越祭の六日前」、神の安息と祝福に与るようにとそれぞれの家庭で賛美し、礼拝し、神が与えてくださった食べ物を分ち合う光景があったのです。 そこには、復活のしるしとしてのラザロ、イエスによって新たな信仰へと導かれたマルタとマリア、神がこの世に遣わし死者の中から復活させることになっているイエスがおられるのです。 一方、イエスを銀貨30枚で裏切ったユダもいた。 ラザロもイエスも捕らえて殺そうとした祭司長たちもいた。 いずれイエスのもとを離れてしまう弟子たちもいたのです。 そこでマリアは、驚くべきふるまいを取るのです。 純粋で高価なナルドの香油をもってイエスの足に塗り、自分の髪の毛でイエスの足を拭ったと言います。 油を塗るというのは、客人をもてなすということもあったでしょう。 聖別のために油を注ぐことも不思議ではなかったでしょう。 しかし、イエスは「この人のするままにさせておきなさい。 わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」と言われた。 「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は死んでも生きる。 このことを信じるか。」とイエスにマルタは言われて、「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子であると信じます」と信仰告白したように、マリアもまた無言のふるまいとして、すべての人間が支配されている罪と死を取り除くためにささげられる贖いの小羊として血を流すことになると、本当の意味でイエスをメシアであると信じる無言の信仰を告白したのではないでしょうか。 信仰をもって生きるとは、実は人間の罪の深さを知ることになるのです。 そうした只中にあって、マルタに給仕され、マリアに愛されているイエスがすべての人を客人として「共にする食卓」においてもてなしておられるのです。 「その家は香油の香りでいっぱいになった」と言います。 入り混じる只中で、神が喜んで受けてくださる香ばしい香りをささげているのです。 「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」とイエスに言われるほどの「香ばしい香り」をささげたいものです。
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