「疑うことと信じること」 創世記17章15~21節
「子孫が豊かに与えられる」と、アブラハムが神の約束を受けてからすでに25年が経っています。 再び神が、「わたしは妻サラを祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。 わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。 諸国民の王となる者たちが彼女から出る。」と言われても、アブラハムは素直に神の言葉を聞くことができなかったのです。 ですから、妻サラの「主はわたしに子供を授けてくださいません。 どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。 わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」という提案に、アブラハムは妥協し乗っかってしまったのです。 神の約束を待ち切れず、耐えかねて、浅はかな知恵によって動いてしまう人の姿です。 「またですか。 いつまで同じことを言われるのですか。 何年経っているのですか。 待って、待って、もう待ちくたびれました。 事態は何一つ変わっていないではないですか。」と、アブラハムがつぶやいてもおかしくない時です。 アブラハムは、「百歳の男に子供が生まれるだろうか。 九十歳の妻サラに子供が産めるだろうか。」と、心の中でつぶやいています。 ひそかに笑っています。 ですから妻サラの説得に応じて、女召使ハガルによってイシュマエルという子どもを得たのです。 アブラハムもサラも心の中で満足はしていなかったけれども、これが神の約束である、祝福であると納得していたのです。 「もうイシュマエルで十分です。 主よどうか、イシュマエルが生き永らえるように」と願ったのです。 このアブラハムの祈りに、主は「いや違う。 あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。」とアブラハムを呼び戻したのです。
神の約束を信じ続けることの難しさが、このアブラハムの姿に映し出されています。 神が与えようとしておられる大きな恵みをアブラハムは信じることができず、自分で納得できる、信じることのできる目に見える小さな恵みに変えてしまう。 本当に、信仰は疑うことと裏腹であるように感じます。 疑うことがあるからこそ、信じることが起こされるのではないでしょうか。 神の存在など気づこうともしないところでは神を疑うことなどありません。 信じることもあり得ません。 アブラハムは神のみ言葉を信じて歩み出したからこそ、疑うようになったのです。 私たちは信じることと疑うことのはざまを行ったり来たりしています。 そんな私たちをすべて主がご存じで、「いや違う」と揺れ動く私たちをもう一度信じなさいと呼び戻してくださっているのではないでしょうか。 私たちが何かを見つけたから、何かが分かったから、何かをしたから信じることができるようになったのではないでしょう。 主が何度も声をかけてくださって呼び戻してくださったから、再び信じる者へと変えられたのではないでしょうか。 そこには神の時、神のやり方、神の意図があるのです。 ここで忘れてはならないことは、誤ったアブラハムの願い、「イシュマエルが生き永らえますように」という願いもまた聞き入れられたという事実です。 イシュマエルは、アブラハムとサラの不信仰の結果のような存在であると言えます。 神が祝福の約束をしているサラの子イサクの邪魔となる存在であるとも言えます。 しかし主は、過ちを犯したアブラハムとサラも、その過ちの結果とも言えるイシュマエルもその母ハガルも祝福するのです。 神の手のひらにすべて刻みつけると言うのです。 この世に生まれ出てくるものには、命が与えられている限りすべて神の意思に基づいている。 神の恵みの内にある。 何一つ捨て去るものはないのです。 私たちの目には祝福されていないように見えていても、何にも用いられていないまま放置されているかのように見えても、邪魔になっているかのように思えても、すべて神の手のひらに刻まれたものなのです。 アブラハムとサラの不始末が贖われて呼び戻されたように、祝福されるのです。 このアブラハムの神、イサクの神の系図の果てに、イエス・キリストの誕生があるのです。
「泣いたペトロが語る神の真実」 マルコによる福音書14章66~72節
ユダヤの大祭司やローマ総督の前であろうが、嘲る人々や兵士たちの前であろうが、周囲が敵だらけのところで、命がけで真実を貫いたイエスでした。 まさに主イエスの戦いの真っ最中の時です。 イエスが大祭司の尋問を受けているそのような時に、ペトロはその大祭司の館の中庭にいたというのです。 主イエスが剣や棒で囚われた時に、弟子たちはイエスを見捨てて、皆、逃げてしまったはずです。 そんなところに、ペトロだけが、のこのこと入り込んでいたのです。 居合わせた人々と火にあたって、たわいもない会話をしていたのでしょう。 かつて、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことは知らないなどとは決して申しません」と、勇敢に語っていたペトロの姿ではありませんでした。 イエスの弟子であることを隠して、大祭司の中庭に居る人々に溶け込んで装っていたペトロでした。 そのペトロに向けて、不意の言葉がかけられました。 「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」という、大祭司に仕える女中の言葉でした。 最初は、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からない。見当もつかない。」と受け流した。 とぼけてその場を繕って、何気なく中庭の出口の方に逃げて行く。 女中はそれを許さない。 「この人は、あの人たちの仲間です。」と、今度は周囲の人たちに叫ぶ。 いよいよ追い詰められたペトロが言い訳をすればするほど、墓穴を掘ります。 慌てたペトロの言葉に、ガリラヤの匂いがしたのでしょう。 「確かに、お前はあの連中の仲間だ。 ガリラヤの者だから。」 ついにペトロは逃げ場を失って、「あなたがたの言っているそんな人は知らない。」と誓い始めたのです。
私たちを試みる力は、私たちが油断している時に何気なく近寄ってきます。 巧みに私たちを落とし込んでいきます。 気がついたら、深みにはまって身動きができないまでになってしまう。 ですから、小さな綻びを軽んじてはなりません。 ペトロは何を間違ったのでしょうか。 ペトロはイエスの「鶏が二度泣く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」という言葉を思い出して、いきなり泣いたとあります。 真実を貫くことができなかった自分の弱さ、その場かぎりに虚ろってしまう自分の愚かさに泣いたのでしょうか。 そうではありません。 ペトロほど、イエスに直接教えられた弟子はいないはずです。 まざまざとイエスの業を目の当たりにした弟子はいないはずです。 自らもイエスの名によって力ある業をなすことができた人物です。 そのペトロが、切羽詰まってイエスと関わりがないように生きようとしてしまった。 装って、繕って、嘘をついて、綻び始めると逃げ出そうとした、その自分の本当の姿を見つめさせられたのです。 試みに出会った人間の真の姿です。 イエスの言われた通りになってしまった。 自分が決意表明したものは一瞬のうちに崩れ落ちてしまった。破れ果てて、途方に暮れて、立ちすくんでしまって、思わずとんでもない言葉を吐いてしまった。 心の奥底にあった自分の罪がえぐり出されてしまった。 その自分の姿を、今、十字架にかけられようとしているイエスが変わらずじっと見つめておられた。 浅はかで愚かなこの自分を、すでに主イエスはすべてご存じであった。 そのまなざしに、変わらない憐れみを見ることができたのです。 「わたしを知らないと言うであろう」という言葉を思い出し、その中に憐れみを見出すことができたのです。 今、主イエスがかかってくださっているこの十字架は、私のためであった。 裏切ったこの私が一緒になって、この十字架の裁きに加担したものであったと気づかされたのです。 この自分が犯してしまった取り返しのつかない、恥ずかしい出来事を、後に、ペトロ自らが語り出したのです。
すべての弟子が、イエスのもとに戻ってきたわけではありません。 ペトロは自分の愚かさや弱さを乗り越えて、十字架に自らつかれたイエスの愛と真実に飛び込んで帰ってきたのです。 その立ち帰ったペトロを、イエスが再び立ち上がらせてくださったのです。 これが「よみがえりの力」です。
「弱さの中にある恵みの力」 コリントの信徒への手紙二12章9~10節
パウロは、「わたしの身に一つのとげが与えられました」と言います。 この「とげ」とは何であったのでしょうか。 聖書は何も語っていません。 体質的な持病であったかもしれない。 度重なる投獄や鞭打ちによって傷つけられた苦痛であったかもしれない。 激しく攻撃してくる人たちの妨害そのものを指しているのかもしれない。 パウロは、その「とげ」を「サタンから送られた使い」とまで言います。 「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。」と言います。 その繰り返された祈りの中で迫った主イエスの言葉が、「わたしの恵みはあなたに十分である。 力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」というみ言葉でした。
パウロの語る「とげ」とは、自分の「弱さ」のことでした。 ですからパウロは、この肉体に与えられた一つの「とげ」が取り除かれるように、この弱さが取り除かれるようにと何度も祈ったのです。 私たちが病気であるなら健康を願うでしょう。 災難や災害があるなら平穏無事を望むでしょう。 乏しさがあるなら豊かさを追い求めるでしょう。 しかし、パウロが自分の為に健康や平穏や豊かさを、何度も繰り返し祈り願ったとは到底思えない。 すさまじい苦難の生涯を送ったパウロです。 福音を宣べ伝えるために、手紙を書き、足を運び、祈り続けているコリントの教会を取り戻すために、この肉体のとげが自分の身から取り除かれること、弱さを克服することを心から願ったのではないでしょうか。
「わたしの恵みはあなたに十分である。 力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」というイエスのみ言葉こそ、パウロが何度も繰り返された祈りの中で与えられたものです。 パウロの祈りは、確かにすぐには答えの出ない祈りでした。「聞かれざる祈り」でした。 しかし、その時に、パウロはイエスのこのみ言葉を聞くことができたのです。 パウロの祈る「祈り」は、聞き入れられなかったのではない。 「わたしの恵みが十分に発揮される」その「とげ」は、その「弱さ」は十分であるとパウロの祈りは聞かれたのです。 ですから、パウロは、「キリストの力が私に宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。」と、再び立ち上がったのです。 「キリストのためならば、弱さと侮辱と危機と迫害と行き詰まりとに甘んじよう。」と語ることができたのです。 本当の強さは、弱さのところに働く。 そこに、キリストの力が宿るからです。 もう何もすることができないとまったく無力となってただ主にすがる以外にどうしようもないところに、主の恵みが働くとパウロは語っているのです。
私たちはだれしも、弱さと強さをもっています。 しかし、私たちは力を誇り、強さを求めます。 弱さを恥じて、その弱さを隠そうとします。 しかし、パウロは違うと言います。 主イエスは、飼い葉おけの中に小さな存在として生まれた。 その生涯においては、病いに苦しむ者、虐げられている者、自分一人では何もできない者のそばに寄り添って、その弱さを担って交わりをされた。 そして、最後は、権力と妬みと侮辱の中を黙って、自ら進んで十字架の上で死なれたのです。 主イエスはご自身の弱さのうえに、父なる神の力が働かれることに身を委ねたのだと言っているのです。 私たちが誇っている弱さなど、たかが知れています。 自分の能力や努力に頼っている限り、自分の力以上のものを発揮することはできないでしょう。 自分が思い描く以上のことにはならないでしょう。 しかし、自分が消えてなくなり、そこにキリストの力が宿るなら、話しは別です。 もし、キリストの力がそこに宿るなら、キリストの恵みが発揮される。 恵みが十分に満たされる。 そこで、主イエスが私たちを用いてくださるとパウロは言うのです。
[fblikesend]
「夜明けの食事」 ヨハネによる福音書21章9~14節
生涯をかけて従ってきたイエスが十字架によって処刑され、目的を失ってしまった弟子たちでした。 最後には、そのイエスを裏切って、見捨てて、逃げ出してしまった弟子たちでした。 その後ろめたさと相俟って弟子たちは、虚しさの中に漂っていたのでしょう。 ペトロたちの故郷であったガリラヤ湖で漁をしていたというのです。 いなくなった、死んでしまったと思われたイエスが、この虚ろな弟子たちの前に何度か現れて、「あなたがたは、すべての民をわたしの弟子にしなさい。 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と励まされた弟子たちのはずでした。 漁師経験の豊富なペトロが「わたしは漁に行く」と呼びかけて、他の弟子たちが「わたしたちも一緒に行こう」と応じたその日の「夜の漁」でした。 「何も獲れなかった」夜でした。 経験を生かして様々な方策を試してみたが、その夜は一匹の魚も獲れなかったのです。 その様子を、よみがえられたイエスが岸辺に立って一部始終を一晩中ご覧になっていたというのです。 そのイエスが、「子たちよ、何か食べるものはあるか。」と尋ねた。 「何もありません」という弟子たちの叫びに、「舟の右側に網を打ちなさい」と言われた。 何度もお会いしているイエスを目を凝らして見れば、耳を凝らせて聞けば分かるはずの距離であるのに、弟子たちはそれが主イエスであるとは分からなかった。 言われた通りに網を打ってみると、網を引き上げることができないくらいの大漁となったと言います。
イエスは、ペトロたちを「人間をとる漁師になる」と言われて、弟子として召し集められました。 この「夜の漁」とは、いったい何でしょうか。 虚しさの中でただ日常生活に漂う弟子たちの姿を表しているのかもしれません。 先の見えない暗闇のなかにあった弟子たちが「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」とイエスに命じられて、恐れと戸惑いとためらいを携えながら、自分たちなりに懸命に取り組んでいた宣教の姿であったのかもしれません。 その弟子たちに、「舟の右側に網を打ちなさい」とイエスは呼びかけられたのです。 聖書の言う「右側」とは、神の側ということです。 人の思いの側ではなく、神のみ心の側です。 人や自分が喜ぶ側でなく、神が喜ばれる側です。 そこに目や耳や力を傾けなさいと、イエスは呼びかけられたのです。 先が見えない、惨めな結果にもがき苦しんでいる弟子たちであったのでしょう。絶望と失意のなかに歩み始めた弱々しい弟子たちであったのでしょう。 イエスは、その一部始終を一晩中、ずっと見ておられたのです。 ふさわしい言葉をかけて、呼びかけてくださったのです。 網を引き上げることができないくらいの「大漁のしるし」まで与えてくださったのです。 それだけではない。 イエスは炭火を起こして、その上に魚を乗せて、パンまでも用意し、たった今与えられた恵みの魚まで持って来させて、食事の用意をし、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と、虚しく夜の湖を漂っていた弟子たちを招いてくださったのです。 ですから、私たちの生涯は虚しいものではありません。 その恵みと憐れみを知る力がなかっただけです。 神のみ心を深く知る、神の力と知恵を求める祈りがなかったからです。 私たちにとって、どのような忌まわしいことが起きたとしても、どんな素晴らしい出来事があったとしても、それは神のみ心によって為された神の恵みです。 それが失敗に見えたとしても、成功に見えたとしても、 深くて長いご計画の中にある神の業です。 先の見えない「死」という終りに向かって漂っている生涯から、新しい命を与えられ新しい道を歩む生涯へと「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と招いてくださっているのです。 イエスの復活は、十字架の終着点ではありません。 弟子たち、私たちが「夜明けの食事」に招かれ、養われ、遣わされていく、新しい命の生涯の始まりです。 イエスに替わって、闇に覆われている遣わされた所で福音を宣べ伝える新しい出発点です。
「神の喜び」 ルカによる福音書15章1~7節
イエスの話を聞こうとして近寄ってきた「徴税人や罪人」がいました。 「徴税人」とは、ローマから税金を徴収する下請けを委託されていたユダヤ人のことです。 決められている額以上のものを徴収すれば、それが自分のふところに入ったのでしょう。 ユダヤ人にとって、異邦の国ローマの下請けという職業だけでも忌み嫌われた存在です。 私腹を肥やすということがあるなら、尚更のことです。 ユダヤの社会から排除された存在を、聖書は「徴税人や罪人」と表現しています。 そこに、「なぜ、そのような人たちと一緒に食事をしているのか」と、イエスに不平を言うために近寄ってきた「ファリサイ派や律法学者たち」がいたと言います。 ユダヤの人々にとって、食事は神への礼拝でした。 神の民の群れの交わりでした。 汚れた者と一緒に食事をするということを、「ファリサイ派や律法学者たち」は認めることができなかったのです。 そのイエスに抗議を唱えて迫った彼らにイエスが語った譬えが、有名な「見失った羊」の譬えであったのです。 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでくださいと言うであろう。」と語られたのです。
「徴税人や罪人こそが、見失った一匹の羊ではないか。 これらの者が、今、私の話を聞きたいと戻ってきているではないか。 なぜ、あなたがたは一緒に喜ぼうとしないのか」と、「ファリサイ派や律法学者たち」に向けてイエスは語るのです。 「ファリサイ派や律法学者たち」とは、自分たちは何の落ち度もなく正しい行いをしている。 しっかりと自立して、神の前に立っている。 自分たちこそ、神に救われる資格をもっていると自負している人の姿です。 イエスは、神のもとに悔い改めて戻ってきている一人の罪人には、「言っておくが、このように悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にはある。」と言われたのです。 自分勝手な理由により、神のもとを離れてしまった人たちであるかもしれない。 しかし、今に至って、ただ神の憐れみだけにすがり、何の行いもなしに神のもとに取り戻されるという恵みに与かろうとしている。 そこに神の大きな喜びがある。 神はどこまでも捜し求めていく。 どのような犠牲を払ってでも見つけ出すまで捜し回る。 そして、見つけたら一緒に喜ぶ。 なぜあなたがたは一緒に喜ぶことができなのかと、「ファリサイ派や律法学者たち」に迫ったのです。
考えてみてください。 私たちはなぜ、神のもとに戻ることができたのでしょうか。 奇跡でしょうか。 偶然でしょうか。 自分の努力でしょうか。 人の助けがあったからでしょうか。 イエスは、神のもとに戻るための資格や努力を何も求めていません。 神がすでに、私たちを捜し求めてくださっていたからです。 失われた人を見つけ出し、連れ戻してくる。 そこに「神の喜び」がある。 神のもとを離れてしまっている人が一人でもいるなら、そこには「神の悲しみ」があるのです。 「悔い改め」とは、罪を犯した者が罪のない者となるための後悔でも、懺悔でもありません。 新しく立ち上がって、今までとは違う神の方向に向きを変える。 神のもとに立ち帰っていく。 見つけ出してくださった神の喜びを感謝して受け取って、その神の喜びの中に生きていくということではないでしょうか。 私たちは神に見出していただかなければ、神のもとに帰ることはできません。 私たちが、神に捜し求められていることに気づかなければなりません。 捜し、見出すことが神の喜びであることを知らなければなりません。 失われた者であった私たちが見つけ出されたように、失われた者に対する「神の悲しみ」が今もなおあることに、私たちは無関心であってはならないのです。
「最後の晩餐の主イエス」 マルコによる福音書14章12~21節
時は「過越の小羊を屠る日」でした。 ユダヤの人々にとって、奴隷の身であったエジプトから救い出されるという故事を記念として、大事にしてきた祭りの日でした。 弟子たちが「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意しましょうか。」と尋ねる前にすでに、イエスは先を見越して周到に準備されていました。 この時のイエスの身辺には、危険が迫っていました。 ローマ兵士たち、ユダヤの祭司長たちに気づかれないよう、とある二階の広間に準備されていたのです。 イエスはその食事を、「わたしの過越の食事」、私がこの地上で弟子たちとともにする「最後の食事」、「準備しておきなさい」とイエスが言われて招いた食事」であったのです。 それほどまでに大切に思われたその食事で言われたイエスの言葉が、「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」というものでした。 こんな犯人探しのようなことを言うために、イエスはわざわざこの食事を準備したのでしょうか。
この時すでに、ユダは、「イエスを引き渡す機会をねらっていた」と言います。 どのようにしてイエスを捕らえようかと算段にあぐねていた祭司長たちは、イエスの十二弟子の一人ユダが駆け込んで来たことを喜んだでしょうね。 ユダは貧しい人たちを救い、自分たちの国を救い出して復興を成し遂げてくださるに違いないとイエスを見ていたのでしょう。 自分の願いを叶えてくれるお方ではないと分かってくれば、人は簡単に捨ててしまう。 ユダだけではない、他の弟子たちも「まさかわたしのことではと代わる代わる言い始めた」とあります。 この時の様子が、レオナルドダヴィンチの絵画「最後の晩餐」の場面です。 確かに、イエスを直接祭司長たちに引き渡したのは、ユダであったかもしれない。 しかし、他の弟子たちもまた皆イエスを見捨てて逃げてしまったのです。 ローマの兵士たちもユダヤの人々も自分たちの都合により、イエスを十字架に架けてしまったのです。 イエスはそれらすべての者を含めて、この最後の晩餐の「過越の小羊」の姿をご自身の姿になぞらえて語ったのです。 「わたしは、裂かれたパンである。 わたしは、流された血である。」 自分の願いではなく、理不尽な暴力によって、死に価する罪を犯していないにも関わらず、無理やり「裂かれたからだ」である。 敵意と憎悪によって「流された血」であると言われたのです。 イエスはこの「裂かれたからだ」と「流された血」が、このイエスのもとを離れて行こうとしているユダにも、今、食事をともにしているがこれからイエスを見捨てて逃げて行こうとする他の十二弟子たちにも、また自らの身を守るためだけに動いているローマやユダヤの人々にもすべての者に対して、この最後の主の晩餐にイエスは招いておられるのではないでしょうか。 聖書に預言された「屠り場に引かれる小羊のように」、また「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と表現されてお生まれになった通りのイエスのご生涯でした。 この最後の「主の晩餐」は、すべての罪人が招かれる食事です。 その食事の主人は、十字架のうえでからだを裂かれたイエス、血を流されたイエスです。 取り返しのつかない過ちを犯してしまった私たちを、その絶望と孤独の中から贖い出して、すべて赦して祝福へと招いてくださっているのです。 ペトロは泣いて、悔いて、恥ずかしくとも向きを変えて、イエスのもとへ再び帰ってきたのです。 イエスの十字架の赦しを受け入れたのです。 ユダの本当の過ちは、イエスを裏切ったことではありません。 ユダを赦して、じっと待っておられるイエスを拒んだことです。 再びイエスの前に進み出ることに躊躇し、ついに戻らなかったことです。 十字架のうえのイエスというささげものは、眺めて飾っておくものではない。 「取って食べなさい。 飲んで味わいなさい。」と、自ら体験し、味わうものとしてささげられたのです。 私たちは自分自身のためにも、隣人のためにも、このイエスの十字架の死を空しくしてはならないのです。
「わたしが与える平和」 ヨハネによる福音書14章25~31節
イエスは、「平和を実現する人々は幸いである。 その人たちは神の子と呼ばれる。」と言います。
平穏無事である、無病息災である、争いをしていないことが幸いであるとは言っておられません。 口語訳聖書では、「平和をつくり出す人たちは、幸いである。」と記されています。 イエスの言われる「平和」とはいったい何でしょうか。 その平和をつくり出すとはどういうことでしょうか。 「それは祝福だ、災いだ」と自分勝手に決めつけて、「この人にこのような出来事が起きてしまっているのは、どうしてですか。 このような災害や災難が起きているのは、なぜですか。」と尋ねる弟子たちに、イエスは「神の業がその人のうえに起こるためである」と言われました。 納得する理由を外に求め、あるいは神に求める。 それが与えられないなら、社会のせいにする、人のせいにする、神など存在しないと破れてしまう。 受け取りやすい、理解しやすいことだけを外に求め、神に要求してしまう。 これが私たちの現実の姿でしょう。 しかし、イエスは、神の業が起こり、神の恵みが現わされる時がやってきた。 そこに神の国が訪れる。 神に要求する前に、神がすでに働いてくださっておられるみ業にあなたは気づくようになる。 神の恵みがすでに与えられていることに気づかされるようになる。 その機会が今、与えられている。 だから、神のもとに立ち帰りなさいと、私たちをイエスは招かれたのです。 外に向かって破れてしまうほどのことが起こっているにもかかわらず、神に生かされている、愛されている、赦されていることに気づかされる。 この神の赦し、神の愛に生きる者とされていることに喜びをもって感謝をささげることができるようになる。 これがイエスの言う「平和、平安」なのではないでしょうか。
これからイエスと別れることになる弟子たち。 イエスの名のゆえに、自分たちの死をも覚悟しなければならない立場に置かれることになる弟子たち。 その直前のしばしのイエスとともにする最後の晩餐に与かった弟子たちです。 その場で、イエスは「わたしは、平和を残す。 わたしの平和を与える。 この世が与えるようなものではない。」と言われたのです。 考えてみてください。 弟子たちは、仕事も、家族も、故郷も捨てて、その存在すべてをかけてイエスに従ってきたのです。 そのイエスがいなくなる。 間違いなく神の子であるそのお方が殺され、踏みにじられ、嘲られなければならない理由が分からない。 絶望と孤立にただ佇んでいるだけの弟子たちの耳に、イエスのこの言葉が響いたのです。 これから弟子たちが向かって行くのは嵐が吹き荒れる世界です。 無病息災でも、平穏無事でもありません。 「わたしは去っていくが、あなたがたのところへ戻って来る。 わたしの平和を残す。 父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」と、この最後の晩餐の部屋から出て行く勇気のない弟子たちに、イエスが憐れみをもって語りかけられたのです。 イエスが与える平和は、聖霊による平和です。 賜物として与えられる平和です。 かつて何も分からなかった、見ることも聞くこともできなかった神のみ言葉や業が思い起こされる平和です。 ですから、私たちは与えられたもので、崩れ落ちるような見せかけのはかない平和に惑わされてはなりません。 錯覚もしてはなりません。 逆に勝手に思い描いているものを与えられていないと、失望もしてはなりません。 私たちは、神に愛されている、赦されていることに気づいて喜んでいるでしょうか。 この神の愛、赦しの体験が、力や喜びや感謝を産み出します。 イエスの平和、平安を味わった者が、イエスの平和を創り出します。 地上の弟子たちがイエスに招かれたように、聖霊の主が私たちをイエスの平和に招いてくださっているのです。 「さあ、立て。 ここから出かけよう」と奮い立たせてくださっているのです。
「終わりの日を迎えるとは」 マルコよる福音書13章1~13節
イエスがエルサレムの神殿の境内を出て行かれる時、重大な予告をされました。 「この神殿は一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」と、神殿の崩壊を預言されたのでした。 事実、この約40年後にエルサレム神殿は壊滅しています。 イエスはここで、神殿の建物の行く末を語ったのでしょうか。 「なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と目を奪われている弟子に、「これらの大きな建物を見ているのか」とイエスは言われたのです。 目に見えるものに目を奪われ、祈りの家とは程遠い強盗の巣になってしまっている神殿の有様をイエスは憐れみ、嘆いておられるのです。 このイエスの預言を聞いた弟子たちは動揺します。 天然の要害であり、何重にも城壁に囲まれたこの神殿が崩れることはないし、神が必ず守ってくださると信じていたからです。
オリーブ山に退いてその神殿の有様をご覧になって、十字架によってこれから始まる新しい世界の始まりを仰いでおられたイエスに、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが密かにイエスに尋ねます。 故郷も家族も仕事も置いたまま、イエスに最初に従ってきた最古参の4人の弟子たちです。 「この世の終わりとでも言うべき神殿の崩壊は、いつ起こるのです。 そのときには、どのようなしるしがあるのですか。」 その弟子たちの質問に、イエスは「大規模な天災や人災がある。 人心を惑わす者が大勢でてくる。 社会的な苦難も、個人的な苦難もある。 しかし、それらは『終わりの日』のことではないし、その『しるし』でもない。 『産みの苦しみの始まり』である。」と言われたのです。 『産みの苦しみ』とは、新しい命の誕生という喜びの直前の苦しみではないでしょうか。 それこそ、終わりではなく始まりです。 『終わりの日』は神の国が完成される、神の国の始まりである。 新しく変えられる時である。 その時には、人によってつくられたものはことごとく覆されるのだと、神殿の建物の崩壊という表現を用いて語られたのではないでしょうか。 それが、すでにこの私の中に隠された形で来ている。 世の人たちはそれを見ることができないが、あなたがたは信仰によって見ることができると言われたのです。 思い起こしてみてください。 あのゴルゴダの丘に立った十字架は三本でした。 イエスはひとりの人間として、罪人として、強盗たちと同じ者となって横に並べられて十字架にかけられたのです。 「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。」と祈り通して、この理不尽な苦難と死を身に受けてくださいました。 私たちのために、神の子となる道、神の国に入る命の道をつくってくださいました。 象徴的なことは、その十字架の前に立った二人の強盗が二手に分かれたということです。 ひとりは「お前はメシアではないか。 自分自身と我々を救ってみろ」と語った強盗です。 もうひとりは、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と語り、イエスに「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と語られた強盗です。 「終わりの日」とは、この十字架の主イエスに顔と顔をつき合わせて出会うということです。 それは恐れ、呪いでしょうか。 あるいは喜び、救いでしょうか。 終わりの日には、二手に分かれるのです。
ですからイエスは、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。 あなたがたはわたしの名のゆえに様々なところに連れて行かれ、私の十字架の証しをすることになる。 信仰ゆえの苦難がある。 しかし、すべては聖霊が導いて語らせる。 兄弟、親子、すべての人に疎まれることもあるだろう。 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」と最古参の弟子たちに語られたのです。 「耐え忍ぶ」という言葉には、「しっかり立つ」という意味合いがあります。 現実の苦しさ、厳しさの中にこそ、この喜びの福音が語られなければならない。 終わりの日に向かっているからこそ、神の救いのご計画があるからこそ、イエスの十字架の苦難と死を私たちは宣べ伝えるのです。
「私と私の家は主に仕える」 ヨシュア記24章14~15節
エジプトの奴隷の家に生まれて、モーセによるエジプトからの脱出の大事業を目の当たりにしたヨシュアでした。 主なる神の僕として立つモーセを心から慕い、忠実に従い、その後を託された人物です。 外に向かっては他の民族との戦い、内においてはイスラエルの民の不信仰との戦いという壮絶な生涯でした。 そのヨシュアが、自分の死期の近いことを悟り、イスラエルの民の指導者たちを呼び集めます。 110年の生涯を終える前に、最後の「証し」を家族に、そしてイスラエルの民に語るのです。 ヨシュアは、「わたしは年を重ね、老人となった。 今、この世のすべての者がたどるべき道を行こうとしている。」と静かに語り始めます。 ヨシュアの遺言です。 最後の奉仕です。 後を託すための言葉です。 ヨシュアが語ったことは、自分たちイスラエルの民に与えられた「神の恵み」です。 主なる神に与えられた恵みの「証し」を、最後の奉仕として感謝して次の世代に向けて宣べ伝えている、「死」を前にした信仰者の姿がここにあります。 「あなたたちの神、主があなたたちに約束されたすべての良いことは、何一つたがうことはなかった。 何一つたがうことなく、すべてあなたたちに実現した」(23:14)と、ヨシュアは自分の家族に、自分の民に語っているのです。 生涯の最後に、このような「証し」を、次なる世代に語ることができる幸いは最高の恵みではないでしょうか。 そのヨシュアの姿と言葉が、どれだけ後に続く者を勇気づけたでしょうか。 他の民族と戦って勝ち取ったとか、土地が与えられたとか、子孫が増し加えられたとかいう単純な話ではない。 ヨシュアは、主ご自身が私たちに与えようとしているものに、命じられたように脅えず、疑わないで、向かって行ったことによって主が用意してくださったものを得ることができた。 主のみ言葉通りに事が成し遂げられた。 「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。 わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。 あなたを見放すことも、見捨てることもない。」という主の約束の確かさを、人生の最後にヨシュアは噛みしめているのです。 主ご自身が先頭に立って戦って、私たちに必要でないものを押しのけ、払いのけてくださったからです。
ヨシュアはその恵みに応えて、「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって主に仕えなさい。 諸々の神を除き去って、主に仕えなさい。 仕えたいと思う神を、今日、自分で選びなさい。」と言うのです。 主は準備をして先に住んでいるものを追い払い、占領しなさいと命じてくださった。 ヨシュアは、そのみ言葉を信じて従ったのです。 先に住んでいるものとは何でしょうか。 主がそこに神の国を建てると準備してくださっているところです。 主は人を用いて業を成し遂げられます。 そのみ言葉を信じて従う者がいなければ、神の国を打ち立てることができません。 偶像を礼拝しているところ、神のものとは異なるものによって支配されているところです。 私たちは断固としてこのみ言葉に聴き、主に仕えて従うことです。 「諸々の神を除き去りなさい。 今日、自分が仕えたいと思う神を選び取りなさい。」とヨシュアは託したのです。 そして最後に、「ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」と宣言したのです。 ヨシュアは自分自身の信仰、自分だけの恵みとしません。 たとえどのような時代になったとしても、周囲が何と言おうとも、「わたしとわたしの家は主に仕えます。」と公に言い表したのです。 幸いに、私たちには、「心騒がせるな。 神を信じなさい。 わたしをも信じなさい。」と語ってくださる主イエス・キリストがともにおられます。 「わたしの父の家には住む所がたくさんある。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。 わたしはそこへ行くための道であり、真理であり、命である。 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と言ってくださっているのです。
「箱舟にみる教会の姿」 創世記8章15~22節
なぜノアの洪水が起こされたのかを、聖書は短く「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」と言います。 この神の思いは、いったいどのようなものであったのでしょうか。 私たち人間が悔い改めて、神のもとに立ち帰るのを待ちわびている「神の忍耐」でしょう。 神を拒む私たちの自由意志に耐えて、委ねてくださっている「神の痛み」でしょう。 そのような嘆かわしい世界にあって、「この世代の中であなただけはわたしに従う人だ」と、神に認められた人物がノアであったのです。 神は決して滅び尽くすことはなさらないのです。 必ず、「残りの者」を立てます。 そのわずかな者たちから、新しい群れを起こしてくださるのです。
ノアの姿は、神など必要としないで、何の支障もなく生きている人々から嘲られ、馬鹿にされ、変人扱いされた。 大洪水など起こりようもないと一笑に付されてしまう状況のなかでは、人々には、ノアの姿は愚かな姿に見えたのです。 それでもノアは、神のみ言葉だけに従って巨大な箱舟を造り続けたのです。 信仰は、神の語りかけによって始まる「神の挑戦」です。 ノアは、煩わしい「神の挑戦」を避けて、何事もなかったかのようにふるまうこともできたでしょう。 ノアは、この「神の挑戦」を真正面から受け取っていきます。 生涯をかけます。 必ず助けてくださるという「神の希望」に生きていきます。 神のみ言葉通りに果たした者だけが神の栄光に与かる。 その喜びを体験することができると聖書は語っています。 ノアは最初、果たして洪水は起こるのだろうか。 洪水が起こりその波間に漂う間では、いつまで続くのだろうか。 洪水の果てには、何が待ち構えているのだろうか。 ノアは本当に孤独です。 不安です。 思い煩いも、寂しさも感じています。 そのような箱舟の中に閉じ込めたのは、「神の業」です。 箱舟の後方の扉が自由に開けることができたなら、もしかしたらノアは逃げ出していたかもしれない。 ノアが一年にもわたり、箱舟の中に留まることができたのも、また、ハトによって大地が現れ出たことを知らされても、じっと待つことができたのは、神がその扉を閉めていたからです。 このわずか8人のノアの家族の姿に、今日の教会の姿を見ます。 バプテスマの水によって弱さと罪深さを洗い流され、救いの箱舟に加えていただき、それぞれに与えられた人生の荒波にじっと耐えて、イエス・キリストに希望を一緒に抱き、父なる神に赦される時まで地上の世界をさまよっている姿ではないでしょうか。
箱舟の扉が開かれていた時こそ、「恵みの時、救いの日」です。 しかし、「扉が閉ざされる時が来た」のです。 私たちは、この「神の挑戦」を知る者です。 ですから、家族をともない、隣人をともない、すべての人々の救いのために、私たちは外に向けて呼びかけるのです。 そしてついに、「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい」と、赦される時が来たのです。 再び、大地に足を踏み出したノアは、最初に、主のために祭壇を築いて礼拝をささげたと言うのです。 ノアの家族わずか8人だけの礼拝です。 しかし、家族を挙げての礼拝です。 目の前で繰り広げられた、裁きから救いに変えられた感謝の礼拝です。 これからの新しい歩みに対する献身を表明した礼拝です。 そのノアの礼拝に喜んで応えた神は、「大地を呪うことは二度とすまい。」と、ノアに約束されたのです。 神が人の罪を耐え忍び、受け入れてくださったのです。 憐れみのゆえに、慈しみのゆえに、裁きを赦しに替えて、私たちの罪を受け入れてくださったのです。 その結実が、主イエス・キリストによる十字架の救いです。 ノアの洪水は天罰でも、呪いでもありません。 神が苦悩と忍耐をもって、憐れみと慈しみをもって人々が悔い改めるのを待っておられたのです。 そのためにノアの家族を用いて新しい世界を再び創造されたのです。
« Older Entries Newer Entries »