秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「神の喜び」 ルカによる福音書15章1~7節

2017-09-03

 イエスの話を聞こうとして近寄ってきた「徴税人や罪人」がいました。 「徴税人」とは、ローマから税金を徴収する下請けを委託されていたユダヤ人のことです。 決められている額以上のものを徴収すれば、それが自分のふところに入ったのでしょう。 ユダヤ人にとって、異邦の国ローマの下請けという職業だけでも忌み嫌われた存在です。 私腹を肥やすということがあるなら、尚更のことです。 ユダヤの社会から排除された存在を、聖書は「徴税人や罪人」と表現しています。 そこに、「なぜ、そのような人たちと一緒に食事をしているのか」と、イエスに不平を言うために近寄ってきた「ファリサイ派や律法学者たち」がいたと言います。 ユダヤの人々にとって、食事は神への礼拝でした。 神の民の群れの交わりでした。 汚れた者と一緒に食事をするということを、「ファリサイ派や律法学者たち」は認めることができなかったのです。 そのイエスに抗議を唱えて迫った彼らにイエスが語った譬えが、有名な「見失った羊」の譬えであったのです。 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでくださいと言うであろう。」と語られたのです。 
 「徴税人や罪人こそが、見失った一匹の羊ではないか。 これらの者が、今、私の話を聞きたいと戻ってきているではないか。 なぜ、あなたがたは一緒に喜ぼうとしないのか」と、「ファリサイ派や律法学者たち」に向けてイエスは語るのです。 「ファリサイ派や律法学者たち」とは、自分たちは何の落ち度もなく正しい行いをしている。 しっかりと自立して、神の前に立っている。 自分たちこそ、神に救われる資格をもっていると自負している人の姿です。 イエスは、神のもとに悔い改めて戻ってきている一人の罪人には、「言っておくが、このように悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にはある。」と言われたのです。 自分勝手な理由により、神のもとを離れてしまった人たちであるかもしれない。 しかし、今に至って、ただ神の憐れみだけにすがり、何の行いもなしに神のもとに取り戻されるという恵みに与かろうとしている。 そこに神の大きな喜びがある。 神はどこまでも捜し求めていく。 どのような犠牲を払ってでも見つけ出すまで捜し回る。 そして、見つけたら一緒に喜ぶ。 なぜあなたがたは一緒に喜ぶことができなのかと、「ファリサイ派や律法学者たち」に迫ったのです。 
 考えてみてください。 私たちはなぜ、神のもとに戻ることができたのでしょうか。 奇跡でしょうか。 偶然でしょうか。 自分の努力でしょうか。 人の助けがあったからでしょうか。 イエスは、神のもとに戻るための資格や努力を何も求めていません。 神がすでに、私たちを捜し求めてくださっていたからです。 失われた人を見つけ出し、連れ戻してくる。 そこに「神の喜び」がある。 神のもとを離れてしまっている人が一人でもいるなら、そこには「神の悲しみ」があるのです。 「悔い改め」とは、罪を犯した者が罪のない者となるための後悔でも、懺悔でもありません。 新しく立ち上がって、今までとは違う神の方向に向きを変える。 神のもとに立ち帰っていく。 見つけ出してくださった神の喜びを感謝して受け取って、その神の喜びの中に生きていくということではないでしょうか。 私たちは神に見出していただかなければ、神のもとに帰ることはできません。 私たちが、神に捜し求められていることに気づかなければなりません。 捜し、見出すことが神の喜びであることを知らなければなりません。 失われた者であった私たちが見つけ出されたように、失われた者に対する「神の悲しみ」が今もなおあることに、私たちは無関心であってはならないのです。

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「最後の晩餐の主イエス」 マルコによる福音書14章12~21節

2017-08-27

 時は「過越の小羊を屠る日」でした。 ユダヤの人々にとって、奴隷の身であったエジプトから救い出されるという故事を記念として、大事にしてきた祭りの日でした。 弟子たちが「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意しましょうか。」と尋ねる前にすでに、イエスは先を見越して周到に準備されていました。 この時のイエスの身辺には、危険が迫っていました。 ローマ兵士たち、ユダヤの祭司長たちに気づかれないよう、とある二階の広間に準備されていたのです。 イエスはその食事を、「わたしの過越の食事」、私がこの地上で弟子たちとともにする「最後の食事」、「準備しておきなさい」とイエスが言われて招いた食事」であったのです。 それほどまでに大切に思われたその食事で言われたイエスの言葉が、「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」というものでした。 こんな犯人探しのようなことを言うために、イエスはわざわざこの食事を準備したのでしょうか。 
 この時すでに、ユダは、「イエスを引き渡す機会をねらっていた」と言います。 どのようにしてイエスを捕らえようかと算段にあぐねていた祭司長たちは、イエスの十二弟子の一人ユダが駆け込んで来たことを喜んだでしょうね。 ユダは貧しい人たちを救い、自分たちの国を救い出して復興を成し遂げてくださるに違いないとイエスを見ていたのでしょう。 自分の願いを叶えてくれるお方ではないと分かってくれば、人は簡単に捨ててしまう。 ユダだけではない、他の弟子たちも「まさかわたしのことではと代わる代わる言い始めた」とあります。 この時の様子が、レオナルドダヴィンチの絵画「最後の晩餐」の場面です。 確かに、イエスを直接祭司長たちに引き渡したのは、ユダであったかもしれない。 しかし、他の弟子たちもまた皆イエスを見捨てて逃げてしまったのです。 ローマの兵士たちもユダヤの人々も自分たちの都合により、イエスを十字架に架けてしまったのです。 イエスはそれらすべての者を含めて、この最後の晩餐の「過越の小羊」の姿をご自身の姿になぞらえて語ったのです。 「わたしは、裂かれたパンである。 わたしは、流された血である。」 自分の願いではなく、理不尽な暴力によって、死に価する罪を犯していないにも関わらず、無理やり「裂かれたからだ」である。 敵意と憎悪によって「流された血」であると言われたのです。 イエスはこの「裂かれたからだ」と「流された血」が、このイエスのもとを離れて行こうとしているユダにも、今、食事をともにしているがこれからイエスを見捨てて逃げて行こうとする他の十二弟子たちにも、また自らの身を守るためだけに動いているローマやユダヤの人々にもすべての者に対して、この最後の主の晩餐にイエスは招いておられるのではないでしょうか。 聖書に預言された「屠り場に引かれる小羊のように」、また「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と表現されてお生まれになった通りのイエスのご生涯でした。 この最後の「主の晩餐」は、すべての罪人が招かれる食事です。 その食事の主人は、十字架のうえでからだを裂かれたイエス、血を流されたイエスです。 取り返しのつかない過ちを犯してしまった私たちを、その絶望と孤独の中から贖い出して、すべて赦して祝福へと招いてくださっているのです。 ペトロは泣いて、悔いて、恥ずかしくとも向きを変えて、イエスのもとへ再び帰ってきたのです。 イエスの十字架の赦しを受け入れたのです。 ユダの本当の過ちは、イエスを裏切ったことではありません。 ユダを赦して、じっと待っておられるイエスを拒んだことです。 再びイエスの前に進み出ることに躊躇し、ついに戻らなかったことです。 十字架のうえのイエスというささげものは、眺めて飾っておくものではない。 「取って食べなさい。 飲んで味わいなさい。」と、自ら体験し、味わうものとしてささげられたのです。 私たちは自分自身のためにも、隣人のためにも、このイエスの十字架の死を空しくしてはならないのです。

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「わたしが与える平和」 ヨハネによる福音書14章25~31節

2017-08-20

 イエスは、「平和を実現する人々は幸いである。 その人たちは神の子と呼ばれる。」と言います。 
平穏無事である、無病息災である、争いをしていないことが幸いであるとは言っておられません。 口語訳聖書では、「平和をつくり出す人たちは、幸いである。」と記されています。 イエスの言われる「平和」とはいったい何でしょうか。 その平和をつくり出すとはどういうことでしょうか。 「それは祝福だ、災いだ」と自分勝手に決めつけて、「この人にこのような出来事が起きてしまっているのは、どうしてですか。 このような災害や災難が起きているのは、なぜですか。」と尋ねる弟子たちに、イエスは「神の業がその人のうえに起こるためである」と言われました。 納得する理由を外に求め、あるいは神に求める。 それが与えられないなら、社会のせいにする、人のせいにする、神など存在しないと破れてしまう。 受け取りやすい、理解しやすいことだけを外に求め、神に要求してしまう。 これが私たちの現実の姿でしょう。 しかし、イエスは、神の業が起こり、神の恵みが現わされる時がやってきた。 そこに神の国が訪れる。 神に要求する前に、神がすでに働いてくださっておられるみ業にあなたは気づくようになる。 神の恵みがすでに与えられていることに気づかされるようになる。 その機会が今、与えられている。 だから、神のもとに立ち帰りなさいと、私たちをイエスは招かれたのです。 外に向かって破れてしまうほどのことが起こっているにもかかわらず、神に生かされている、愛されている、赦されていることに気づかされる。 この神の赦し、神の愛に生きる者とされていることに喜びをもって感謝をささげることができるようになる。 これがイエスの言う「平和、平安」なのではないでしょうか。
 これからイエスと別れることになる弟子たち。 イエスの名のゆえに、自分たちの死をも覚悟しなければならない立場に置かれることになる弟子たち。 その直前のしばしのイエスとともにする最後の晩餐に与かった弟子たちです。 その場で、イエスは「わたしは、平和を残す。 わたしの平和を与える。 この世が与えるようなものではない。」と言われたのです。 考えてみてください。 弟子たちは、仕事も、家族も、故郷も捨てて、その存在すべてをかけてイエスに従ってきたのです。 そのイエスがいなくなる。 間違いなく神の子であるそのお方が殺され、踏みにじられ、嘲られなければならない理由が分からない。 絶望と孤立にただ佇んでいるだけの弟子たちの耳に、イエスのこの言葉が響いたのです。 これから弟子たちが向かって行くのは嵐が吹き荒れる世界です。 無病息災でも、平穏無事でもありません。 「わたしは去っていくが、あなたがたのところへ戻って来る。 わたしの平和を残す。 父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」と、この最後の晩餐の部屋から出て行く勇気のない弟子たちに、イエスが憐れみをもって語りかけられたのです。 イエスが与える平和は、聖霊による平和です。 賜物として与えられる平和です。 かつて何も分からなかった、見ることも聞くこともできなかった神のみ言葉や業が思い起こされる平和です。 ですから、私たちは与えられたもので、崩れ落ちるような見せかけのはかない平和に惑わされてはなりません。 錯覚もしてはなりません。 逆に勝手に思い描いているものを与えられていないと、失望もしてはなりません。 私たちは、神に愛されている、赦されていることに気づいて喜んでいるでしょうか。 この神の愛、赦しの体験が、力や喜びや感謝を産み出します。 イエスの平和、平安を味わった者が、イエスの平和を創り出します。 地上の弟子たちがイエスに招かれたように、聖霊の主が私たちをイエスの平和に招いてくださっているのです。 「さあ、立て。 ここから出かけよう」と奮い立たせてくださっているのです。

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「終わりの日を迎えるとは」 マルコよる福音書13章1~13節

2017-08-06

 イエスがエルサレムの神殿の境内を出て行かれる時、重大な予告をされました。 「この神殿は一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」と、神殿の崩壊を預言されたのでした。 事実、この約40年後にエルサレム神殿は壊滅しています。 イエスはここで、神殿の建物の行く末を語ったのでしょうか。 「なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と目を奪われている弟子に、「これらの大きな建物を見ているのか」とイエスは言われたのです。 目に見えるものに目を奪われ、祈りの家とは程遠い強盗の巣になってしまっている神殿の有様をイエスは憐れみ、嘆いておられるのです。 このイエスの預言を聞いた弟子たちは動揺します。 天然の要害であり、何重にも城壁に囲まれたこの神殿が崩れることはないし、神が必ず守ってくださると信じていたからです。 
 オリーブ山に退いてその神殿の有様をご覧になって、十字架によってこれから始まる新しい世界の始まりを仰いでおられたイエスに、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが密かにイエスに尋ねます。 故郷も家族も仕事も置いたまま、イエスに最初に従ってきた最古参の4人の弟子たちです。 「この世の終わりとでも言うべき神殿の崩壊は、いつ起こるのです。 そのときには、どのようなしるしがあるのですか。」 その弟子たちの質問に、イエスは「大規模な天災や人災がある。 人心を惑わす者が大勢でてくる。 社会的な苦難も、個人的な苦難もある。 しかし、それらは『終わりの日』のことではないし、その『しるし』でもない。 『産みの苦しみの始まり』である。」と言われたのです。 『産みの苦しみ』とは、新しい命の誕生という喜びの直前の苦しみではないでしょうか。 それこそ、終わりではなく始まりです。 『終わりの日』は神の国が完成される、神の国の始まりである。 新しく変えられる時である。 その時には、人によってつくられたものはことごとく覆されるのだと、神殿の建物の崩壊という表現を用いて語られたのではないでしょうか。 それが、すでにこの私の中に隠された形で来ている。 世の人たちはそれを見ることができないが、あなたがたは信仰によって見ることができると言われたのです。 思い起こしてみてください。 あのゴルゴダの丘に立った十字架は三本でした。 イエスはひとりの人間として、罪人として、強盗たちと同じ者となって横に並べられて十字架にかけられたのです。 「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。」と祈り通して、この理不尽な苦難と死を身に受けてくださいました。 私たちのために、神の子となる道、神の国に入る命の道をつくってくださいました。 象徴的なことは、その十字架の前に立った二人の強盗が二手に分かれたということです。 ひとりは「お前はメシアではないか。 自分自身と我々を救ってみろ」と語った強盗です。 もうひとりは、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と語り、イエスに「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と語られた強盗です。 「終わりの日」とは、この十字架の主イエスに顔と顔をつき合わせて出会うということです。 それは恐れ、呪いでしょうか。 あるいは喜び、救いでしょうか。 終わりの日には、二手に分かれるのです。 
 ですからイエスは、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。 あなたがたはわたしの名のゆえに様々なところに連れて行かれ、私の十字架の証しをすることになる。 信仰ゆえの苦難がある。 しかし、すべては聖霊が導いて語らせる。 兄弟、親子、すべての人に疎まれることもあるだろう。 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」と最古参の弟子たちに語られたのです。 「耐え忍ぶ」という言葉には、「しっかり立つ」という意味合いがあります。 現実の苦しさ、厳しさの中にこそ、この喜びの福音が語られなければならない。 終わりの日に向かっているからこそ、神の救いのご計画があるからこそ、イエスの十字架の苦難と死を私たちは宣べ伝えるのです。

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「私と私の家は主に仕える」 ヨシュア記24章14~15節

2017-07-30

 エジプトの奴隷の家に生まれて、モーセによるエジプトからの脱出の大事業を目の当たりにしたヨシュアでした。 主なる神の僕として立つモーセを心から慕い、忠実に従い、その後を託された人物です。 外に向かっては他の民族との戦い、内においてはイスラエルの民の不信仰との戦いという壮絶な生涯でした。 そのヨシュアが、自分の死期の近いことを悟り、イスラエルの民の指導者たちを呼び集めます。 110年の生涯を終える前に、最後の「証し」を家族に、そしてイスラエルの民に語るのです。 ヨシュアは、「わたしは年を重ね、老人となった。 今、この世のすべての者がたどるべき道を行こうとしている。」と静かに語り始めます。 ヨシュアの遺言です。 最後の奉仕です。 後を託すための言葉です。  ヨシュアが語ったことは、自分たちイスラエルの民に与えられた「神の恵み」です。 主なる神に与えられた恵みの「証し」を、最後の奉仕として感謝して次の世代に向けて宣べ伝えている、「死」を前にした信仰者の姿がここにあります。 「あなたたちの神、主があなたたちに約束されたすべての良いことは、何一つたがうことはなかった。 何一つたがうことなく、すべてあなたたちに実現した」(23:14)と、ヨシュアは自分の家族に、自分の民に語っているのです。 生涯の最後に、このような「証し」を、次なる世代に語ることができる幸いは最高の恵みではないでしょうか。 そのヨシュアの姿と言葉が、どれだけ後に続く者を勇気づけたでしょうか。 他の民族と戦って勝ち取ったとか、土地が与えられたとか、子孫が増し加えられたとかいう単純な話ではない。 ヨシュアは、主ご自身が私たちに与えようとしているものに、命じられたように脅えず、疑わないで、向かって行ったことによって主が用意してくださったものを得ることができた。 主のみ言葉通りに事が成し遂げられた。 「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。 わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。 あなたを見放すことも、見捨てることもない。」という主の約束の確かさを、人生の最後にヨシュアは噛みしめているのです。 主ご自身が先頭に立って戦って、私たちに必要でないものを押しのけ、払いのけてくださったからです。 
 ヨシュアはその恵みに応えて、「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって主に仕えなさい。 諸々の神を除き去って、主に仕えなさい。 仕えたいと思う神を、今日、自分で選びなさい。」と言うのです。 主は準備をして先に住んでいるものを追い払い、占領しなさいと命じてくださった。 ヨシュアは、そのみ言葉を信じて従ったのです。 先に住んでいるものとは何でしょうか。 主がそこに神の国を建てると準備してくださっているところです。 主は人を用いて業を成し遂げられます。 そのみ言葉を信じて従う者がいなければ、神の国を打ち立てることができません。 偶像を礼拝しているところ、神のものとは異なるものによって支配されているところです。 私たちは断固としてこのみ言葉に聴き、主に仕えて従うことです。 「諸々の神を除き去りなさい。 今日、自分が仕えたいと思う神を選び取りなさい。」とヨシュアは託したのです。 そして最後に、「ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」と宣言したのです。 ヨシュアは自分自身の信仰、自分だけの恵みとしません。 たとえどのような時代になったとしても、周囲が何と言おうとも、「わたしとわたしの家は主に仕えます。」と公に言い表したのです。 幸いに、私たちには、「心騒がせるな。 神を信じなさい。 わたしをも信じなさい。」と語ってくださる主イエス・キリストがともにおられます。 「わたしの父の家には住む所がたくさんある。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。 わたしはそこへ行くための道であり、真理であり、命である。 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と言ってくださっているのです。

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「箱舟にみる教会の姿」 創世記8章15~22節

2017-07-23

 なぜノアの洪水が起こされたのかを、聖書は短く「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」と言います。 この神の思いは、いったいどのようなものであったのでしょうか。 私たち人間が悔い改めて、神のもとに立ち帰るのを待ちわびている「神の忍耐」でしょう。 神を拒む私たちの自由意志に耐えて、委ねてくださっている「神の痛み」でしょう。 そのような嘆かわしい世界にあって、「この世代の中であなただけはわたしに従う人だ」と、神に認められた人物がノアであったのです。 神は決して滅び尽くすことはなさらないのです。 必ず、「残りの者」を立てます。 そのわずかな者たちから、新しい群れを起こしてくださるのです。 
 ノアの姿は、神など必要としないで、何の支障もなく生きている人々から嘲られ、馬鹿にされ、変人扱いされた。 大洪水など起こりようもないと一笑に付されてしまう状況のなかでは、人々には、ノアの姿は愚かな姿に見えたのです。 それでもノアは、神のみ言葉だけに従って巨大な箱舟を造り続けたのです。 信仰は、神の語りかけによって始まる「神の挑戦」です。 ノアは、煩わしい「神の挑戦」を避けて、何事もなかったかのようにふるまうこともできたでしょう。 ノアは、この「神の挑戦」を真正面から受け取っていきます。 生涯をかけます。 必ず助けてくださるという「神の希望」に生きていきます。 神のみ言葉通りに果たした者だけが神の栄光に与かる。 その喜びを体験することができると聖書は語っています。 ノアは最初、果たして洪水は起こるのだろうか。 洪水が起こりその波間に漂う間では、いつまで続くのだろうか。 洪水の果てには、何が待ち構えているのだろうか。 ノアは本当に孤独です。 不安です。 思い煩いも、寂しさも感じています。 そのような箱舟の中に閉じ込めたのは、「神の業」です。 箱舟の後方の扉が自由に開けることができたなら、もしかしたらノアは逃げ出していたかもしれない。 ノアが一年にもわたり、箱舟の中に留まることができたのも、また、ハトによって大地が現れ出たことを知らされても、じっと待つことができたのは、神がその扉を閉めていたからです。 このわずか8人のノアの家族の姿に、今日の教会の姿を見ます。 バプテスマの水によって弱さと罪深さを洗い流され、救いの箱舟に加えていただき、それぞれに与えられた人生の荒波にじっと耐えて、イエス・キリストに希望を一緒に抱き、父なる神に赦される時まで地上の世界をさまよっている姿ではないでしょうか。 
 箱舟の扉が開かれていた時こそ、「恵みの時、救いの日」です。 しかし、「扉が閉ざされる時が来た」のです。 私たちは、この「神の挑戦」を知る者です。 ですから、家族をともない、隣人をともない、すべての人々の救いのために、私たちは外に向けて呼びかけるのです。 そしてついに、「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい」と、赦される時が来たのです。 再び、大地に足を踏み出したノアは、最初に、主のために祭壇を築いて礼拝をささげたと言うのです。 ノアの家族わずか8人だけの礼拝です。 しかし、家族を挙げての礼拝です。 目の前で繰り広げられた、裁きから救いに変えられた感謝の礼拝です。 これからの新しい歩みに対する献身を表明した礼拝です。 そのノアの礼拝に喜んで応えた神は、「大地を呪うことは二度とすまい。」と、ノアに約束されたのです。 神が人の罪を耐え忍び、受け入れてくださったのです。 憐れみのゆえに、慈しみのゆえに、裁きを赦しに替えて、私たちの罪を受け入れてくださったのです。 その結実が、主イエス・キリストによる十字架の救いです。 ノアの洪水は天罰でも、呪いでもありません。 神が苦悩と忍耐をもって、憐れみと慈しみをもって人々が悔い改めるのを待っておられたのです。 そのためにノアの家族を用いて新しい世界を再び創造されたのです。 

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「最高の道」 コリントの信徒への手紙一12章31節~13章7節

2017-07-16

 このパウロが語る「愛の賛歌」を、道徳や倫理や感情の中で考えてはならない。 何か人の身についた資質のように捉えてはならないように思います。 これは、働きがバラバラになってしまった、本当に問題の多いコリントの教会の人々に向けて、パウロが書き送った手紙の中の言葉です。 「皆一つの体となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 目が手に向かって、お前は要らないとは言えず、また頭が足に向かって、お前たちは要らないとも言えません。」とまで表現しています。 「あなたがたはもっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい。」と訴えているなかで、「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」と語られた「愛の賛歌」であることを、私たちは忘れてはならないと思います。 
ここでパウロが語っている「愛」とは、自身が体験した「神の愛」です。 よみがえりの主イエス・キリストの語りかける声でした。 パウロが体験した「神の愛」とは、神に知られていることを知ったことです。 神に愛されていることに気づいたことです。 イエス・キリストの十字架の姿を通して神を見ることができたことです。 この「愛」は自分が勝ち取ってきたものでも、築き上げてきたものでもない。 神からいただいた最高の霊の賜物であることを、パウロは決して忘れません。 ですから、「この霊の賜物によって生きる最高の道、神の愛の道を教える」とバラバラになってしまっているコリントの教会の人々に向けて語っているのです。 この「神の愛」がなければ、たとえ雄弁な言葉を語る賜物を与えられていたとしても、「騒がしいどら、やかましいシンバル」である。 たとえ、真理や奥義や知識をもっていたとしても、また、
山を動かすほどの信仰をもっていたとしても、「神の愛」がなければ無に等しい。 たとえ、全財産を投げ出し、自分の命をさえもささげて人の前で誇ることができたとしても、「神の愛」がなければ、神の前に何の益もないとまで言います。  4節から7節に、その「神の愛」が記されています。 すべて主語は「神の愛」です。 愛のある人とは、このような人であるとは書かれていません。 パウロが体験した「神の愛」こそ、十字架にかけられたイエス・キリストの姿です。 「あなたの右の頬を打つなら、左の頬を向けなさい」と語り、その十字架の上で、私たちが決して赦すことのできない者を「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。」と執り成しの祈りをささげてくださっているイエス・キリストのお姿そのものです。 この「愛」は、私たちには備わっていないものです。 イエス・キリストによって、この世にもたらされた新しい愛です。 神のもとからしか出て来ない、神に与えられるものです。 どのような相手であったとしても、どのような状況にあったとしても、分け隔てることなく、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」神の愛です。 この愛が、私たちの破れ果てた愛を覆い、癒し、包んでくださいます。 
 パウロが語った愛の賛歌は、混乱に満ちたコリントの教会に向けて語られた「神の愛」です。 この「神の愛」が、帰ってきた放蕩の弟息子も、その弟息子を裁く兄息子も分け隔てなく招いて、恵みと喜びの「父の家」を造り上げます。 この「神の愛」に応えるように、この「神の愛」に委ねるように、この「神の愛」に生きるようにとパウロは訴えているのではないでしょうか。 教会は、この「神の愛」によって償われた者の集まりです。 ですから、互いに「神の愛」ゆえに赦し合い、愛し合います。 この「神の愛」によって、信仰と希望に支えられて生きる教会、キリスト者にしていただきます。 神を信じている、神に望みを抱いている、神に愛されている。 この神との交わりだけが、「いつまでも残る。」 その中でも最も大いなるものが「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」神の愛であるとパウロは言っています。

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「信じることと赦されること」 マルコによる福音書11章20~25節

2017-07-09

 エルサレムの十字架のもとを目指して、先を急がれていたイエスでした。 「翌朝早く」とあります。 「翌日の朝」とは、実のなっていないいちじくの木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」という、寛容で柔和なイエスが語ったとは思えない言葉を発せられたその翌日の朝早くです。 神殿の境内で売り買いをしていた人々を追い出して、両替人の土台や鳩を売る者の腰かけをひっくり返すという乱暴なふるまいをイエスがされたその翌日の朝早くです。 だれも気づかなかった「一本のいちじくの木」にペトロが気づいたのです。 思い出したのです。 あのいちじくの木は、昨日、イエスが呪った木ではないか。 そのいちじくの木が、今朝見るとイエスが言われた言葉の通りに根元から枯れているではないか。 「先生、ご覧ください。 あなたが呪われたいちじくの木が枯れています。」と叫んだペトロでした。 ペトロは、イエスがいちじくの木を呪ったと聞いていたのです。 
 そのペトロにイエスが言われた言葉が、「神を信じなさい」というみ言葉でした。 このみ言葉は、「持ちなさい、信仰を、神の」という言葉になります。 自分がどれだけ信じているかに拠り頼むならば、いずれその信仰は揺らぎます。 行き詰ります。 人間の側に頼るべきものは何もないのです。 しかし、十字架につけられたイエス・キリストに現れた神の憐れみ、神の愛に立つなら、そうとはならないでしょう。 変わることのない神のご真実に拠り頼むなら、信仰は揺らぐことはありません。 この神の確かさをあなたがたのうちに持って、それも、「少しも疑わず、信じなさい。」と言われているのです。 そのように信じ切ることが、私たちにできるでしょうか。 イエスは、『祈り求めること』によって「神を信じなさい。 少しも疑わず、信じなさい。 神の確かさだけをしっかりもって、信じなさい。」と言われているのです。 マルコが「祈り」について語っているのはこの聖書箇所だけです。 たとえ不可能だと思えることであったとしても、目にはまるで見えていないものであったとしても、何でもおできになる神の約束を抱いて信じるなら、「そのとおりになる。」と言われます。 なぜなら、私が共にいて執り成しているから「信じる者は、何でもできる」と言われているのです。 神が全知全能であることを知っていても、分かっていても、はるか遠い存在であるなら信仰にはなりません。 祈りは、神に対する働きかけではありません。 私たちが祈り求めたから、実現しているのでもありません。 神が働いてくださったからです。 私たちの祈りにおいて、主イエス・キリストの名による執り成しがあって初めて、父なる神が応えて働いてくださるのです。 ですから、「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。 そうすれば、そのとおりになる。」とまで言います。 「わたしの思いは、あなたがたの思いを、高く超えている。 わたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ55:8)と語られているように、狭い自分の願いをはるかに越えて、広い豊かな神の思いに生きるようにと促しておられます。 しかし、「わたしは彼らを集めようとしたが、いちじくの木にいちじくはない。 葉はしおれ、わたしが与えたものは彼らから失われていた。」と父なる神は嘆いておられたのです。 イエスはそれでも、忍耐の限りを尽くし、「いちじくの木」に実がなるのを待っておられます。 「いちじくの木」は、神が実を結ぶために準備された場所に植えられた木です。 神の業がその木に起こされるためです。 悔い改め、赦しの機会が与えられているのです。 砕かれて、ただ神の前に進み出るだけで与えられる赦しの実です。 そのいちじくの木をイエスは呪うでしょうか。 イエスは、「赦してもらいなさい。 神に赦された者として祈りなさい。」 そのことが赦されている。 根元から枯れるように滅ぼされなければならないのは、私たちの過ちです。 罪です。 そのために、「枯れたいちじくの木」に主イエスはなってくださったのではないでしょうか。 赦されて、疑わず、信じて、祈り求めるところに、わたしがいるとイエスは言われます。

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「地上を歩む教会の姿」 ヘブライ人への手紙 11章13~16節

2017-07-02

 ヘブライ人への手紙は、ノアについて、「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」と言います。 また、アブラハムについても、「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」と記しています。 この「ヘブライ人」という言葉には、エジプトで奴隷であったイスラエルの民に向かって、エジプト人たちが付けたあだ名であると言われています。 定住の地を持たない、さまよい歩く人たちという蔑んだ思いがこの言葉には込められているのでしょう。 その当時のキリスト者の悲惨さは、「釈放を拒み、拷問にかけられました。 あざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。 彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。」と表現されています。 ヘブライの人々の信仰は揺らぎ、「本当に神はおられるのだろうか。 あの十字架につけられたイエス・キリストは救い主であったのだろうか。」という疑いの中にあったのでしょう。 ノアは、「あろうはずもない洪水が起こる。 あなたは木の箱舟を造りなさい。 あなたとあなたの家族はその箱舟の中に入りなさい。」と言われ、神自らによって箱舟の扉が閉められたのです。 人々からは愚かなことと馬鹿にされ、罵られ、本当にこの先どうなるのかという先の見えないノアの旅立ちでした。 アブラハムもまた、相当な財産を蓄えていてそのままその地で暮らしていれば、何の不自由もない暮らしを約束されていたのです。 しかし、神は、「あなたは生まれ故郷を離れ、わたしが示す地に生きなさい。 わたしはあなたを祝福する。」と約束されたのです。 二人ともこの地上においては寄留者であり、旅人でした。 神の言葉を聞くだけで、従うことから逃げることも、避けることもできたでしょう。 しかし、ノアもアブラハムも、この神の言葉を直接自分に語られた言葉として聴いた。 この神の約束に信頼を置いた。 信じて失敗を恐れず従ったのです。 常識ではありえないことを、神の約束の確かさだけに頼り、歩み出したのです。 
 主イエスは、私たちに「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。 わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い。」(マタイ11:28)と言われました。 「軛(くびき)」とは、牛が田畑を耕すために首にはめられる道具です。 ふたつの穴が空いていて、二頭の牛の首にはめるのです。 イエスがその片方の軛(くびき)を担ってくださるので私の軛(くびき)は軽い。 ですから、私と共に重荷を背負いながら休みなさいと言われているのではないでしょうか。 この「重荷」とはいったい何でしょうか。 負わなくてもよい、逃げることができる、信仰のゆえに負う重荷や悲しみ。 ノアもアブラハムも、逃げて、諦めて、神の前から避けることもできた重荷や悲しみであったでしょう。 しかし、それが神の恵み、祝福の約束だと言っている。 この地上で、まだ目にしてはいないけれども、神は成し遂げてくださると信じることができるという信仰を語っているのではないでしょうか。 重荷や悲しみの状況が恐ろしいのではありません。 本当の恐ろしさは、この重荷や悲しみからくる思い煩い、不安、諦めが、神に対する期待や望みを失わせる。 神に頼らなくする。 希望を失わせることです。 私たちは勝手に諦め、変わることのない神の約束、希望を自ら失うのです。 絶望の死に至るところからよみがえられたイエスの歩んだ跡を、私たちは踏み従っているのです。 その先頭に立って歩いておられるのは十字架に架けられたイエス・キリストです。 教会は、天に国籍を置いて、この地上をこのお方の跡に従っている群れなのです。 

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「教会の旗印」 ガラテヤの信徒への手紙 3章1~2節、13~14節

2017-06-25

 私たちの教会の群れの原形は、奴隷の身にあったイスラエルの人々がエジプトから脱出した、旧約聖書に書かれている荒野を旅する姿であると言われています。 壮年男子だけで60万人、そのほか種々雑多な人々が加わったと言いますから、おびただしい数の群れであったのでしょう。 これほど大勢の人々を導いたのは、それぞれ「家系の印を描いた旗」であった。 彼らはその旗を宿営に掲げ、その旗を先頭にして群れごとに行進したと言います。 今日の私たちの群れは、何を旗印に掲げているのでしょうか。 イエスは、シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた、その信仰告白のうえに教会を建てると言われました。 イエスがこの地上に遣わされたのは、私たちを神のもとに取り戻すためでした。 一人一人の罪が赦され、一人残らず神との交わりを取り戻すためでした。 そのための十字架でした。 この「十字架につけられたイエス・キリスト」という旗のもとに集められたのが教会の群れでした。 この教会の旗印である「十字架」とはいったい何でしょうか。 ローマにとっては、死刑の道具でした。 ユダヤにとっては、「木にかけられた者は、神に呪われたもの」と旧約聖書に書いてあるように、神の呪いでした。 イエスご自身にとっても、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶまでに、絶望の死を意味するものでした。 この時には、何も分からなかった弟子たちが、聖霊の働きによって後に知らされたのです。 この絶望の死は、自分たちが味わうはずのものだった。 神との断絶の前に、主イエスは立ち続けてくださって、それを受けるべきであった自分たちに代わって味わってくださった。神の呪いとしか見えていなかった十字架の姿が希望に変えられたのでした。
 ガラテヤの教会の人々は、パウロが宣教したころには、この主イエス・キリストの十字架によって救われた喜びと賛美に満ち溢れていました。 ところが、エルサレムから派遣された教師たちによって、「律法を守らなければ本当の救いはない」と教えられて混乱が生じていたのです。 律法は本来、神のみ心を示したものでした。 しかし、分かっていても守ることができない、守る力のない私たちにとっては、到底守ることのできない戒めでした。 その私たちに、イエス・キリストの十字架によって贖われ、救い出されなければならない存在であることに気づかせるものでした。 パウロは訴えています。 「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」 十字架のうえでイエスが「わたしたちのために死んでくださった」と言うところを、パウロは「わたしたちのために呪いとなってくださった」と言います。 神との交わりから引き離そうとする者との戦いから、主イエスが逃げることなく立ち続けてくださったその理由を、パウロは二つ述べています。 ひとつは、「アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶため」であったと言います。 「キリストにおいて」とは、ユダヤ人も異邦人も区別なく、だれひとり例外なくキリストに結ばれることによってということです。 一人残らず、神が約束されたことであるからとだけ信じて従ったアブラハムの信仰に与えられた神の約束、祝福に、与かることができると言っているのです。 もうひとつは、「わたしたちが、約束された霊を信仰によって受けるため」であったと言います。 主イエスは十字架の上で、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られました。 私たちの諦めと絶望のところにある「木に架けられた呪いの場所」で、その呪いが祝福に変えられた、成し遂げられたと宣言されてイエスは息を引き取られたのです。 成し遂げられたのであるからこそ、神の福音です。 神の約束です。 その証しに今もなお、聖霊を私たちに遣わし、力を与え、慰めを与え、励ましを与えてくださっているのです。 私たちはその霊を祈りによって受け取るだけなのです。 

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