秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「解放してくださるお方」 マルコによる福音書5章35~43節

2018-08-26

 会堂長のヤイロという人物がイエスにひれ伏しています。 「会堂長」とは、ユダヤ教の信仰の指導者のことです。 「会堂」とは、当時のユダヤ社会では今で言う「教会、裁判所、学校、役所」であったのです。 その場所の責任者が「会堂長」です。 人格者であり、信仰の厚い人であったでしょう。 その会堂長ヤイロがイエスに、「わたしの幼い娘が死にそうです。 どうか、おいでになって手を置いてやってください。 そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」と、恥も外聞も捨てて、捨て身の願いをイエスにぶつけたのです。 新しい教えを宣べ伝え、多くの病いを癒していたイエスに触れることができるなら、自分の娘は癒されると信じ込むに至っていたのです。 その願いに応えたイエスの姿が、幼い娘が待っている家に向かいヤイロと一緒に歩き出した姿でした。 大勢の人々が求めているそのイエスが、自分の娘のためだけに足を踏み出し、自分の家に向かって共に歩いてくださっている。 ヤイロは「これでわたしの娘は助かる」と確信したのではないでしょうか。 
 その時です。 ひとりの女性が群衆に紛れ込んで、イエスの服に触れたのです。 どんなにお金をかけても、どんな医者に診てもらっても治らない難病を長年抱えていた女性でした。 ヤイロと同じように、「このお方の服に少しでも触れるなら、癒していただけるのではないか」と思った。 イエスはその時、自分のからだから力が出ていくのが分かった。 イエスは服ではない、「わたしに触れた」と言います。 女性は難病から逃れられたい、その一心でイエスに近寄りその服に触れたのです。 そのとたんに、その病いが癒されたことに気づいて、恐ろしくなって震えていた。 その女性を、イエスは探し出して語りかけようとなさるのです。 なぜなら、苦しみや悲しみがなくなるようにとひたすら願っていたその女性に、「あなたの祈りがあなたを救った。 安心して行きなさい。 元気に暮らしなさい。」と語るためです。 今まで縛られていた苦しみや悲しみに支配されないよう、平安のうちに暮らしなさいと呼びかけるためです。 私たちは、遠くに立ってイエスを眺めているだけでは、この言葉を直に聞くことはできません。 イエスの呼びかけに応えて、震えながらもありのままの自分をさらけ出していくなら、「あなたの信仰があなたを救った。 安心して行きなさい。」というイエスの語りかけを直に聞くことができるのです。 
 イエスのそば近くで、この出来事の一部始終を目の当たりに見ていた会堂長ヤイロのもとに知らせが届きました。 「お嬢さんは亡くなりました。 もう先生の手を煩わすには及ばないでしょう。」という知らせでした。 ヤイロは失望した。 この難病の女性に手間取らなければ、自分の娘は助かったかもしれないと思ったでしょう。 病気は癒せても、死んだ者をよみがえらせることはできないだろう、すべては終わったと思ってしまった。 イエスはあらゆる病いや煩いを癒されたガリラヤでの働きの締めくくりに、「ヤイロの娘の死」に立ち向かわれたのです。 「恐れることはない。 ただ信じなさい。」とイエスに言われても、ヤイロはその場を去って行くこともできたでしょう。 しかし、ヤイロは絶望しながらもイエスとともに歩き始めているのです。 病気が癒されるだけでなく、縛られていたものから解放されるというイエスの救いの働きの一部始終を見ていたヤイロは、吸い込まれるようにイエスとともに歩き出したのではないでしょうか。 その時聞いたイエスの言葉が、「タリタ、クム 少女よ、起きなさい。 死んだのではない。 眠っているのだ。」という言葉です。 いずれ朽ちてしまうこのからだが再び生き返ることではなく、これは終わりの日に体験する出来事でしょう。 その信仰が、今、この時、この世に与えられたとイエスは宣言しているのではないでしょうか。 信仰は、私たちのうちに働く神の働きです。 私たちはただ、与えられる神の恵みをこの信仰によって感謝して受け取り、み心に委ねるだけです。

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「この世にあるキリスト者」 ヨハネによる福音書17章11~19節

2018-08-19

 イエスがこの世から父なる神のもとへ、今、帰ろうとしているその時に、父なる神に祈っている「大祭司の祈り、とりなしの祈り」と呼ばれている聖書箇所です。 この最後の祈りの中で、この世に残さざるを得ない愛する弟子たち、ご自身のみ言葉に聞いて従ってきた愛する弟子たちのことを、「彼らを、悪い者から守ってください。 彼らを聖なる者としてください。」と、十字架を直前にして父なる神にとりなして祈る「イエスの祈り」です。 11節にイエスは、「聖なる父よ、わたしに与えてくださったみ名によって、彼らを守ってください」と祈ります。 「聖なる父よ」とイエスが呼びかけることは珍しいことです。 「彼らを守ってください。」という理由は、「私たちのように、彼らも一つとなるためです。 わたしの喜びが、彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」と言うのです。 弟子たちの外なる状況がいかなるものになったとしても、子なるイエスと父なる神がひとつとなっているように、弟子たちもまた父なる神と一つとなるように。 父との交わりの中でイエスご自身がもっておられる喜びが弟子たちの内からあふれ出るようにととりなして祈っておられるのです。 
 イエスがこの世に遣わされたのは、この神との交わり、内なる喜びを失ってしまっている私たちに回復を与えるためでした。 イエスは「彼らを守ってください」と言いながら、「彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってください」と祈るのです。 イエスが私たちに教えられた「主の祈り」を思い起こしてみてください。 「悪より救い出したまえ」とあります。 直訳しますと、「救い出したまえ、我らを、悪い者より」となります。 イエスの言う「悪い者」とは何でしょうか。 外から私たちに迫ってくる苦難や試練というようなものよりも、むしろ、私たちの内に働きかけるものであるように思います。 イエスは、父なる神のもとへ、私たちを取り戻すためにこの世に来られたのです。 「悪い者」とは、父なる神から私たちを引き離そうとするもの、父なる神を隠して見えなくしてしまうもの、父なる神の言葉を聞こえなくする、あるいは疑わせるものでしょう。 それらの力に支配されてしまって、埋もれてしまっている私たちを取り出して、「悪より救い出したまえ」と、十字架にかかるその直前にイエスは、父なる神に愛する弟子たちをとりなして祈ってくださっているのです。 「わたしがこの世に属していないように、彼らもこの世に属していないから、聖なる父よ、わたしに与えてくださった彼らを悪い者から守ってください。 この世に再び取り戻されないように、彼らをこの世に属しない聖なる者としてください」と祈ってくださっているのです。 「聖なる者」とは、神に属する者ということです。 ヨハネによる福音書は「真理によって、聖なる者になる」と言います。 「真理」とは、神のみ言葉です。 この世は、神のみ言葉を拒みました。 イエスを受け入れませんでした。 自分の力により頼んで、神は必要ないと主張しました。 そのような中で、弟子たちはこの神のみ言葉を受け入れた。 神をより頼んだ。 ですから、彼らは聖なる者とされた。 それゆえに、イエスと同じようにこの世からこれから憎まれるだろう。 だから、「聖なる父よ、彼らを悪い者から守ってください。 この神のみ言葉、真理によって、ささげられた者となるように守ってください」と祈っておられるのです。 「真理によってささげられた者となる」ということは、神のみ言葉を受け入れてこの世から取り出されて、救い出されて、この世に属さない者となった者が、再びこの世に遣わされる者となるということです。 神が用意されたこの世の救いの証人となる。 神のみ言葉は確かなものであったと語る「み言葉の証人」となることです。 この世にあって、この世に属さず、この世に生きることが赦されている者となるということです。

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「神に出会うことから」 創世記32章23節~33節

2018-08-12

 ヤコブはイサクとリベカの間に生まれた双子の兄弟の弟です。 ふたりは母リベカの胎内にいるときから押し合い、争っています。 弟ヤコブは、「押しのける」という意味のヤコブの名がつけられています。 ヤコブは幼い時から抜け目のない、知恵の回る子どもでした。 兄エサウの空腹につけ込んで、一皿の煮物と引き換えにエサウが受け継ぐはずの「長子の権利」と「神の祝福」を騙して手に入れたのです。 奪い取られたことを後で知ったエサウは怒ります。 ヤコブを殺してやると口走るようになる。 ヤコブはそれから逃れるために、20年間の逃亡生活に入ったのです。 ヤコブは、「わたしは兄が恐ろしいのです。 どうか、兄エサウの手から救ってください。」と神に告白しています。 20年前のエサウに対する恐れに、ヤコブは今もなお縛られています。 20年間、その恐れから逃げていただけです。 エサウと争って、知恵を絞ってやっと神の祝福を手に入れたけれども、ヤコブには少しも平安はなかったのです。 ですから、この「ヤボクの川の渡し」を越えて、いよいよ兄エサウと遭うようになり、エサウは400人のお伴をつれて迎えに来ると聞いて更に恐れを膨らませたヤコブでした。 そこに、神の方からヤコブに働きかけて、ヤコブに一晩中戦いを挑んだ。 それにヤコブが応じてすべてをさらけ出した時に初めて、その相手が神であることをヤコブは知ったのです。 顔と顔を合わせるかのように神を見ることができたと言います。 ヤコブは、自分自身の心の奥底にあるものをつくづく知らされて、砕かれて生まれ変わった。 その時、神が新しい名前をつけてくださった。 名前を明かすということは、相手に自分の素性を知らせるということです。 当時は、自分の命をささげるというほどのことです。 ヤコブは、神から「お前の名前は何というのか」と尋ねられて、「ヤコブです」と神に明かしたのです。 「20年前、兄エサウを騙して、父イサクから兄エサウが受け継ぐべき神の祝福をかすめとったヤコブです」と神に告白できたのです。 エサウと押し合うように争って、知恵をもってかすめとるような祝福を、神の祝福とヤコブは思っていたのでしょう。 ですから、ヤコブには20年間、片時も忘れることのできなかった恐れがあったのです。 長い逃亡生活の間にあった死に対する恐れ、今までやっと手に入れたものを一瞬のうちに失ってしまうかもしれないという恐れ。 これが自分の戦いの相手であると思っていた。 しかし、ヤコブは戦っているうちに知ったのです。 戦っている相手は、恐れや不安に縛られているこの自分を解放してくださろうとしているお方である。 自分が犯してしまった過ちにより、恐れと不安に縛られていたその自分が打ち砕かれ、裁かれ、自分が今まで手に入れたものとは全く異なる新しい祝福を与えようとしてくださっているお方である。 そのことに気づいて、「祝福してくださるまでは離しません」とヤコブは語ったのでしょう。 自分の腿の関節が砕かれる傷跡まで残しながらも、神ご自身から授けてくださる本当の祝福を得ようとしたのです。 
 それでは、「お前は神と人と戦って勝ったからだ」という神の言葉はどういうことでしょう。 聖書にいう神が負けるとは、神が負けてくださったということでしょう。 本来、神の前で犯してしまった過ちによって裁かれなければならないこの私たちが、神に赦されたということでしょう。 ヤコブが神に受け入れられて、赦されて、砕かれて、新しい「イスラエル」という名前を与えられた。 今までとは全く異なる新しい神の祝福に生きるようになった。 これが、ヤボクの渡しでのヤコブの体験です。 この体験が、ヤコブの人間的な心配を拭い去ったのです。 このヤコブに、新しいよみがえりの朝の太陽が昇ったのです。

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「み言葉を聞いて行う者」 マタイによる福音書7章21節~29節

2018-08-05

 マタイによる福音書の5章から7章にかけて、「山上の説教」が語られています。 そば近く寄って来た弟子たちに、イエスは「心の貧しい人は幸いである。」と語り始め、「わたしの天の父の御心を行う者だけが天の国に入る。」と、譬えをもってしめくくっておられます。 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」と言うのです。 見えないところに、しっかりとした土台を据えるなら、その家は大丈夫である。 しかし、すぐ流されてしまうような砂の上に家を建てるなら、ひとたび雨や川や風が襲いかかるとひとたまりもない。 だから、土台をしっかりと築きましょうという人生訓を語っているのではありません。 また、み言葉を聞いて従う人と、み言葉を聞くだけで従わない人とに分けてしまって、み言葉を聞いて従う者になりましょうと、この「山上の説教」の締めくくりに愛する弟子たちに語られたのではないように思います。 パウロは、イエス・キリストこそ、私たちに「離れずついてきた霊的な岩である」(コリント一10:4)と言っています。 「この岩なるイエス・キリストが伴ってくださったからこそ、わたしたちを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。 試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも、この霊的な岩であるイエスが備えていてくださいます。」と語るのです。 もうすでに霊的な岩は存在しているのです。 この岩なるイエスの語るみ言葉に聞いて従うところに、私たちの土台が造られる。 その土台は、私たちの力だけで築けるものではない。 イエスのみ言葉に聞いて従って初めて、伴なるイエスご自身が働いてくださっていることに気づかされる。 「自分の家をその霊なる岩の上に建てる」ということは、この霊なるキリストとともに生きるということでしょう。 自分の生涯を、この霊なる岩の上に置くということでしょう。 イエスのみ言葉が指し示す道を歩んでみる。 そのみ言葉によって、自分の歩み、思い、生き方を造り上げられていただく。 イエスが語る神のみ心に委ねてみる。 イエスが私だけにみ言葉で示す、私だけにしか用意していない、私にしか歩むことのできない道を、イエスとご一緒に歩いてみるということでしょう。 自分の家を建てるということは、その土台の上に立って生きて確めるということでしょう。 雨が降り、川があふれ、風が吹くとは人生の危機です。 どのような危機にあっても、そこに岩なるイエス・キリストがともにいてくださる。 変わらない神のご愛、ご真実が貫かれ、支えてくださっていることを確かめることができる。 それが、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」ということではないでしょうか。 すべての人が、どのような時にでも、この岩の上に立って生きて確かめることができる。 信じようとしても、自分の力では信じることができないこのイエスのみ言葉を、その上に立って生きて味わうことによって信じることができるようになる。 本当に真実であったと体験し、告白することができるようになるのです。 この体験を、イエスは「築かれた家の土台」と言っているのではないでしょうか。 「岩の上に自分の家を建てた賢い人」も「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」も両方とも、イエスに従ってきて自分の家を建てたのです。 どちらも、土台をもって、イエスに従ってきた弟子たちでしょう。 自分のために懸命に信じようとしてきた「砂の上に自分の家を建てる信仰」から、その砂に杭を打って、そのような弱い土台の上にこそ、神の憐れみとご愛にすがって、「岩の上に自分の家を建てる信仰」へと、そば近く寄り添ってきた多くの愛する弟子たちに、イエスはそのご愛をもって語りかけ、招いておられるのではないでしょうか。 

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「必要な弱く見える部分」 コリントの信徒への手紙一12章12~26節

2018-07-29

 18節に、「そこで神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」とあります。 様々な部分に違いがあるのは、神の望みである。 神のみ心のままにされたことである。 その違いを乗り越えて、神はひとつに結びつけてくださっていると言うのです。 「だから、多くの部分があっても、ひとつの体なのです。」とパウロは宣言しています。 ところが、この神によって造られたそれぞれの部分が、なぜか一つの体であることを忘れ、神のみ心を横に置いて、自分たちの主張や思いを果たすために、自らを神の座につかせ、ひとつの部分にすぎない存在が全体である「体」を支配しようとする。 パウロはこのことを警告して、「目が手に向かって、お前は要らないと言えないでしょう。」と言うのです。 私たちは体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を見えないように覆ってしまいます。 その見栄えを少しでもよく見えるように、もっと恰好よくしようと懸命に力を注ぎます。 しかし、神はそうではない、「ほかよりも弱く見える部分が却って必要である。」 むしろ、神は、「見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てた。」と言われるのです。
 この手紙を書き送っているパウロは、「わたしの肉体には一つのとげが与えられた。」と告白しています。 聖書は、このパウロが言う「とげ」とはいったい何であったのかは何も語りません。 持病であったのか、度重なる投獄による傷の痛みであったのか、激しく対立している人々の妨害であったのかは分かりません。 「このとげから離れ去らせてくださいと三度も祈った」と言います。 その繰り返し祈った「祈り」のなかでパウロに与えられたイエスのみ言葉が、「わたしの恵みはあなたに十分である。 力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(コリンント二12:9)というみ言葉でした。 パウロの言う「とげ」とは、自分自身の弱さでしょう。 貧しさでしょう。 乏しさでしょう。 パウロが自分のために、健康や平安や豊かさを何度も繰り返し主に願い求めたとは到底思えません。 この手紙のあて先であるコリントの教会を取り戻すため、この「肉体」の「とげ」、「弱さ」を克服するために、パウロは「とげ」が取り除かれることを心から主に願い求めたのです。 その懸命の祈りに対する主イエスの答えが、「わたしの恵みはあなたに十分である。 力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」というみ言葉であったのです。 パウロの祈りは聞かれたのです。 イエス・キリストの十字架の力は、「弱さ」を認めてそれを神に委ねるところに宿ります。 本当の強さ、豊かさは、弱さ、貧しさのところにこそ働きます。 パウロの「とげ」、その「弱さ」は決して取り除かれなかったけれども、そこにこそ神の恵みが十分に注がれ、発揮されたことを、パウロは体験を通して思い知ったのです。
 自分が弱い者であるということ、このことに気づく時初めて、私たちは神の憐れみ、神の恵みが注がれることを知るようになります。 自身の弱さ、足りなさを知る者が、神の憐れみを知るようになります。 神の恵みがその弱さにこそ、その乏しさにこそ十分に注がれることを知るのです。 「神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられることによって、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合うようになる。 ひとつの部分が苦しめばすべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶようになる。」のです。 私たちが気づいていない「痛み」や「喜び」を、私たちの教会、幼稚園に新しく招かれた人たちによって知らされ、教えられるのです。 神は、一つの部分の痛み、喜びが、すべての部分に拡がっていくように、神はその部分をむしろ引き立たせて、イエス・キリストにつながる体をしっかりと結び合わせるのです。 私たちは、この神が起こされる出来事の証人となるのです。

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「神からいただく賃金」 マタイによる福音書20章1~16節

2018-07-22

 私たちは神ご自身を知り尽くすことも、「神の国」を理解することもできない存在であると聖書は言います。 イエスご自身でさえも、「神の国」はこういうものであると人間の言葉で語り尽くすことができない。 「次のようにたとえられる」としか、言いようのないものであると言います。 「神の国」とは、「ぶどう園の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために出かけて行くようなものである。 一日につき、1デナリオンを払うという約束で、労働者に声をかけてぶどう園に送るようなものである。 働き終えて夕方になって、ぶどう園の主人が約束通り賃金を払うようなものである。」と、イエスは譬えます。 私たちは、働く者の側の姿に目を留めるでしょう。 なぜ、一日中働いた人とわずか一時間しか働かなかった人と、同じ賃金であるのかと思ってしまう。 「1デナリオン」とは、その当時の一日あたりに払われる常識的な一人の賃金です。 ぶどう園の主人の呼びかけは、夜明けから始まって、5回にも亘って繰り返し行われます。 日没まで、あとわずかな夕方5時ごろに至っても、主人は「まだ、だれも雇ってくれないのです」と答える人たちを見つけて、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか。 あなたたちもわたしのぶどう園に行きなさい。」と呼びかけるのです。 そして、一日の仕事が終わって賃金を払う段になって、ぶどう園の主人は、なんと最後に働きに加わった人たちから先に、賃金を払うと言うのです。 なぜ、この譬えの風景が「神の国」だとイエスは言われるのでしょうか。 
 ぶどう園の主人は「神」です。 夜明けから立って働きの場を求め、呼びかけに応えて一日中働いた人は、「私たち」です。 日没間近になってもまだ働きの場がなく途方に暮れている人たちも「私たち」です。 「神の国」は、「神」がまず出かけて行って働く世界です。 その神の働きかけに応えて出かけて行く。 私たちの人生のふさわしいところで、ふさわしい時に、神は招いてくださる。 その都度、その人にふさわしい約束された賃金「1デナリオン」という恵みが与えられる。 「神の国」で支払われる神の報酬は、働く時間も、順番も大きな問題ではないようです。 イエスの念頭には、夜明けから働いているユダヤ人たちの姿があります。 一日中働いた人は、当然の報酬として1デナリオンを受け取るでしょう。 しかし、日没間近になって招かれた異邦人たちは、身に余る報酬として同じ1デナリオンを感謝して受け取るでしょう。 後から来た人たちと自分たちの賃金が同じであると知ったユダヤ人たちは、「この連中となぜ同じ扱いになるのか」とつぶやき始めます。 私たちはこの世で、自分がどのように扱われているのかに異常な関心を持ちます。 この世に報いを求め、人と比べます。 この世の報いに縛られています。 イエスは、この世と「神の国」とはまったく違うと言います。 「神の国」は、神自ら働いて呼びかけてくださる世界です。 その招きに従って出かけて行く。 その場所で働くことができること、それが私たちに与えられた賜物、恵みでしょう。 人にとっては、夜明け間近の時であったかもしれない。 真昼間の暑い最中の時であったかもしれない。 日没間近の時であったかもしれない。 神の招きには、時も順番も大きな問題ではないのでしょう。 与えられる恵みの中味に目を向けると、賜ってくださったお方を見失う。 人と比べる。 しかし、呼びかけてくださったお方に目を向けるなら、すべての人は同じ1デナリオンを感謝して頂くのではないでしょうか。 神が呼びかけて招いてくださる、その時です。 私たちは約束の1デナリオンという自分にふさわしい恵みを、当然のこととして受け取るのでなく感謝して受け取ることです。 「神の国」の門は、すべての人に 開かれているのです。 「1デナリオン」とは、神からの報いです。 私たちはいったい誰からの報酬を求めるのでしょうか。 神からの報酬は、「主の名のために捨てた者は皆、百倍もの報いを受ける」と言われた、決して消えることのない天に積む神の報いです。 

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「心に注がれる神の愛」 ローマの信徒への手紙5章1~11節

2018-07-08

 パウロは、「わたしたちは信仰によって、またイエス・キリストによって、神との間に平和を得ている。」 「わたしたちは、イエス・キリストのお蔭で、信仰によって今の恵みに導き入れられている。」と言います。 「平和」と訳されているこの言葉(シャローム)は、戦争をしていないとか、争いをしていないとか、安心や安全という個人的な心の状態を示したものではありません。 神の恵みと祝福に満たされている状態、「キリストを通して神と和解させていただいた今」の状態を、パウロは喜びをもって語っている言葉です。 私たちが今味わっているこの不思議さと驚きと喜びを、理路整然と語ることができません。 そのもどかしさを憶えます。 しかし、パウロは、「信仰によって、イエス・キリストによって満たされている」と言います。 これは、私たちの中にあるものではありません。 神から与えられるものです。 「わたしたちに与えられる聖霊によって満たされている」とパウロは言います。 神のもとからくる霊だけが、このことを示すことができる。 その理由は、「この神との間の平和、今の恵みは、わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」とパウロは告白しているのです。
 パウロは、私たちが「神の愛」を知っているから、「神の愛」を理解しているから、「神との間の平和、今の恵み」に至っている、満たされているとは言っていないのです。 「神の愛」が、私たちの心に注がれているからだと言うのです。 私たちが、その「神の愛」に気づいているかどうかです。 パウロはいったいどこから、そのような確信を得たのでしょうか。 自分自身の体験です。 定められた戒めを徹底的に守ることによって、神の前に自らの正しさを示そうとしたかつてのパウロでした。 戒めを守ることのできない人々を激しく排斥したパウロでした。 まさに、神に敵対する者、神から遠く離れていた者でした。 そのパウロが出会ったものは、イエス・キリストの「十字架の赦し」でした。 自らが神となろうとして神に背いた者は、神の赦しがなければ神のもとに帰ることができないでしょう。 そのための「和解」を、神が一方的に準備をしてくださっていたことにパウロは気づいたのです。 赦される資格のない者のために準備された和解の恵みが、イエス・キリストの十字架でした。 パウロは、この敵対する自分のような者にまでもイエス・キリストは死んでくださったことを知ったのです。 それが、私たちに示された無条件の「神の愛」であることを、聖霊によって知ったのです。 そこから、パウロは新しく造り変えられました。 このことを、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」(コリント二5:17)と表現しています。 このことを知ったのは、偶然でもなければ自分の努力でもない。「信仰によって」、「イエス・キリストによって」、「わたしたちに与えられている聖霊によって」、「神の愛がわたしたちの心の中に注がれていることを知らされたからです。」と告白しています。 ひとりの人物を根底から、突然、決定的に変えてしまうほどの「神の愛」です。 不信心な者のためにも死んでくださった、神のもとを離れてしまった敵でさえあった者のためにも死んでくださった「十字架に示された具体的な神の愛」です。 その「神の愛」が、信じている者のそれぞれの生涯を支えてくださっている。 それが、「神との間に得ている平和である。 今の恵みである。」と語っているのです。 この神の恵みには、苦難もまた含まれるとパウロは言います。 「苦難は不平を生み、不平は恨みを生み、恨みは絶望を生み、絶望はいやされることがない。」 これが世の常でしょう。 しかし、パウロは、「苦難を喜びとします。 苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。」と言います。 それは、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているから」と言います。 その源である神ご自身を、パウロは「誇りとします。 喜びとします。」と賛美しているのです。

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「み心が行われますように」  マタイによる福音書26章36~46節

2018-07-01

 イエス・キリストの「祈りの姿」が記されています。 弟子たちとともに最後の晩餐を終えた後の時です。 この福音書の表現では、「悲しみもだえはじめられた。 わたしは死ぬばかりに悲しい。」とあります。 「うつ伏せになられた」とも書かれています。 うつ伏せになったまま祈る姿とは、絶望でしょう。 なすす術がなく、呆然とうずくまっている姿でしょう。 弟子たちに恥ずかしげもなくその姿を見せて、その言葉を洩らしておられます。 イエスはそれと同時に、「ここに座っていなさい。 ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」と語りかけ、共に祈ることを願っておられます。 どこの世界に、指導者として仰ぐ人物が「わたしは死ぬばかりに悲しい」ともだえ苦しむ、死を直前にした姿をその弟子たちの前で見せるでしょうか。 死を恐れることなく、毅然として自らの死を迎える姿こそ、指導者の姿ではないでしょうか。
 ところが、一緒に祈るはずの弟子たちは、睡魔に襲われて眠っていた。 その有様を見たイエスは、「あなたがたはこのように、わずかな一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」と言われたのです。 祈ることを知らなかった弟たちに、神を「父よ」と呼びかけて祈ることを、イエスが「父よ」と呼びかけて祈るその神にイエスの名によって祈ること、そして「求めなさい。 探しなさい。 門をたたきなさい。」と熱心に祈ることをイエスは教えられました。 そうすれば、「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者は開かれる。 あなたがたの父は求める者に聖霊を与えてくださる。」と言われたのです。 聖霊とは何ですか。 神を知る力です。 神が赦して、受け入れて、愛してくださっていると体をもって味わうことのできる力です。 イエスに注がれた神の愛です。 祈り求める者に必ず注ぎ、生まれ変わらせることができる神の愛です。 その体験を。「わたしとともに目を覚まして祈りながら、味わいなさい。」と語りかけてくださっているのではないでしょうか。
 共に祈るはずの弟子たちは眠り込んでいます。 ひとり孤独に祈るイエスです。 この時、イエスが三度にもわたって祈る間、神は無言です。 神の沈黙です。 その時の最初の祈りに、「主よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 しかし、わたしの願いどおりではなく、み心のままに」とあります。 二度目の祈りに、「父よ、わたしが飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたのみ心が行われますように」という祈りでした。 三度目の祈りもまた、同じ言葉であったと書かれています。 イエスの言う「杯」とは、十字架でした。 ヘブライ人の手紙に、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながらご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられた。」「キリストは、神の子であるにもかかわわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれた。 そのことによって、すべての人々の永遠の救いの源となった。」と書かれています。 父なる神は黙っておられたけれども、イエスの祈りは聞き入れられていたのです。 神の沈黙は、確かな神の応答です。 この神の沈黙によって、イエスは神への従順を学ばれたのです。 神のみ心は、この従順のうえに果たされるのです。 そのための神の沈黙です。 「わたしの思いではなく、み心のままに」と祈るまでに、私たちが導かれるためです。 私たちが立ち上がるという思い上がった信仰から、私を通して神ご自身が立ち上がってくださるようにと祈る信仰へと、私たちが新しく生まれ変わるための神の沈黙です。 私たちによってではなく、私たちにおいて、私たちを通して、神の業が表れ出るという確信に至るための神の沈黙です。 イエスは、「わたしが天から降ってきたのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方のみ心を行うためである」と語っておられます。 

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「与えられる礼服」 マタイによる福音書22章1~14節

2018-06-24

 イエスは、「神の国」は「ある王がその王子のために催す婚宴」に似ていると言います。 食事の用意がすっかり整った食卓である。 「牛や肥えた家畜が屠られて料理され、ただ招かれた客を待っているだけの食卓」であると言います。 「神の国」には、招いておられる「王」がおられる。 すべての準備をして、家来を遣わして招いておられるのは「王」自身である。 招かれている者の手を一切借りていない王の準備の業である。 その「王」が、自分の息子が嫁を迎えることを心より喜んでおられる。 招かれている者はそれに応えて、ただ準備された食卓につくために出かけて行くことだけなのだと、イエスはこの譬えをもって「神の国」を語っておられるのです。 
 ところが、招かれた人たちはその招きを無視した。 畑に出かけて行ってしまった。 商売に出かけて行ってしまった。もっとひどいことに、招くために遣わされた王の家来を捕まえて乱暴し、殺してしまったというのです。 王は、「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々はふさわしくなかった。」と語っています。 この「王」とは父なる神です。 「王子」とは、神の子イエス・キリストです。 「招いておいた人々」とは選ばれた民イスラエルです。 「送り出された家来たち」とは神のもとから遣わされて行った預言者たちです。 旧約聖書に語られた神の救いの歴史が語られています。 しかし、この譬えには新約聖書のキリストの福音も語られています。 婚宴の用意はできているが、招いておいた人々はふさわしくなかった。」と厳しい言葉を発するが、それでも招くことを止めない父なる神のみ心が語られています。 招きに応じるようにと強い願いが語られています。 「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。」 見かけた者は誰でも、善人も悪人も皆です。 招きから漏れている、招きにふさわしくないと思われた人たち皆です。 このマタイの譬えには、ルカには記されていない言葉があります。 招かれた客の中に、「婚礼の礼服を着ていない者が一人いた」という言葉です。 その客に、父なる神は「友よ」と語りかけています。 「どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか」と神が尋ねているが、その問いに「黙っていた」というのです。 この礼服とは、「王が用意した礼服」です。 神しか用意することのできない服を着なさいと言っているのです。 私たちは自分が選んで、自分がふさわしいと気に入った自分勝手な姿で、自分が理想とする姿を取って、神の前に出ようとするでしょう。 それらは「自前の服」です。 たとえ、用意された服が気に入らなくても、自分に合っていないと思われても、神はご自身が用意した服を着て出てきてほしいのです。 なぜなら、その「神が用意された服」こそが、神の前に出る唯一の服であるからです。 「今や、救いは近づいている。 夜は更け、日は近づいた。 主イエス・キリストを身にまといなさい。」(ローマ13:11) 「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているのです。」(ガラテヤ3:27) 「周囲は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。」(イザヤ61:10)と聖書は言います。 みすぼらしいものであるかもしれない。 着ることが苦痛であるかもしれない。 しかし、この服こそ、私たちが自分で用意することのできない、神の前に出るにふさわしい晴れ着です。 この譬えは、神の招きに対する私たちの備えを語っています。 「さあ、おいでください」と招きかける神の使いに対する私たちの備えです。 断るのでしょうか。 無視するのでしょうか。 招きそのものを壊してしまうのでしょうか。 黙ってしまうのでしょうか。 招かれているのは今です。 そのような時に、いつでもできることを先にして、招きにためらい、後回しにするのでしょうか。 この世のものに心を奪われても、自前の生き方に縛られてもならない。 私たちは神ご自身が用意された服をまとって、招かれた席につくことだけです。

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「思い悩むな」 マタイによる福音書6章25~34節

2018-06-17

 イエスは弟子たちに、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、思い悩むな。 明日のことまで思い悩むな。」と言います。 別の聖書の訳では、「思いわずらうな。 心配するのをやめなさい。」となっています。 イエスは、思い悩む弟子たちそして私たちに、なぜ「思い悩むな」と言われるのでしょうか。 むしろ、先行きを案じていろいろと思い悩み、でき得るかぎりのことを果たしていくことは当然ではないでしょうか。 そのような時に、思い悩むなと言われれば言われるほど、私たちは素直にこの言葉を受け取ることができないのではないでしょうか。 しかし問題は、この思いが悲観的になり、心配になり、「思い悩み、思い煩い」となって、身を擦り減らすまでになって、希望や喜びが取り去られていくような状態になった時です。 この積み重ねられてきた「思い悩み、思い煩い」の正体は、いったい何であるのかということです。 
 イエスは、「自分の命のことで、自分の体のことで、自分の明日のことで思い悩むな」と言われます。 あなたの命も、体も、明日という時も、神から与えられたものではないか。 あなたにふさわしく与えられた「命」であり、「体」であり、「時」であるはずです。 神が強い意思をもって、目的をもって、あなたに与えられている賜物として授けられているものです。 それほどまでに大切なものとして与えられている、この「命、体、時」にとって必要なものを神がご用意しないはずがない。 このまま放っておけば、この「思い悩み、思い煩い」がその「存在」そのものを滅ぼしてしまうまでになる。 だから、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、思い悩むな。 明日のことまで思い悩むな。」と言われているのです。 イエスは思い悩む私たちの願い、祈りを拒んでおられるのではありません。 母マリアもまた、人の常識ではまったく理解できないイエスのふるまいに、思い悩んだのです。 しかし、聖書は「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らした。」と書かれています。 マリアは分かるまで、心の奥底に納めていたというのです。 マリアは思い巡らしてはいたが、思い悩んではいないのです。 この違いはいったい何でしょうか。 私たちはこうなるのではないかという思い込み、何かを自分が定めたところから始めます。 そこから大きくかい離している現実の姿に耐えかねて落ち込んでしまう。 そこには、隠れた人の傲慢があるかもしれません。 神に任せるべきことを自分の苦労と背負ってしまう。 自分がなりたいと思ってもなれないし、したいと思ってもできない。 これが「思い悩み、思い煩い」の姿でしょう。 全地全能の神に対する不信でしょう 自分の考え、想定、理解に執着して、神のみ心、神のご配慮に信頼しきれていない私たちの姿でしょう。 この自分自身への過信が無惨に崩れ去った時です。 これが、私たちの目が開かれる時です。 
 イエスは、「目に見えない天の父が、空の鳥、野の花を養っておられるのをよく見なさい」と言われます。 日々新たに、蓄えておくことのできない今日の恵みを感謝して受け取っているではないか。 人が造り上げるものでは装うことのできない姿に配慮してくださっているではないか。 あなたがたは更に、明日の安心のためになぜ貪欲に求めるのか。 あなたがたの目はどうして神のみ業に曇っているのか。 「思い悩んだからといって、寿命をわずかでものばすことができようか。」 愚かな計算を棄てて、思いをはるかに越えた神の知恵に委ねなさい。 すべてを知っておられる神のみ心に気づかせていただきなさい。 空の鳥、野の花こそ、神の造られたものとしての「神の証し」の姿ではないかと言っておられるのです。 私たちの「命、体、時」は、私たちの所有物ではありません。 神に仕えるために託されたものです。 自分のために蓄えておくことのできないものです。 その神の力と知恵とみ心に委ねる信仰に立つなら、「思い悩み」を克服することができるのではないでしょうか。

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