「目を上げて見なさい」 ヨハネによる福音書4章31~38節
サマリアの女とイエスとの出会いは突然でした。 当時の社会では考えられないことでした。 ラビと呼ばれる教師であったイエスが、ひとりの女と一対一で話をしている。 女はサマリア人で、イエスはユダヤ人でした。 ユダヤ人からすると、サマリアは異教徒の血が混じった異教の地である。 ユダヤ人は一緒に交わることも、サマリアの地に足を踏み入れることも決してしなかったのです。 常識では考えられないことが、突然起こっている。 大勢の中の一人としてではなく、イエスの方から目がけて、呼びかけておられるのです。 しかし、女はイエスとの出会いに気づかなかった。 イエスが呼びかけるその言葉の意味も分からなかった。 導かれるまま対話を続けていくうちに、いつしか自分の心の中にあるものが、イエスの前に差し出されるまでになる。 心の中に湧いて出てくるものが引き出されるようになる。 イエスとの出会いはそのような不思議なものであるとヨハネによる福音書は語るのです。
弟子たちは、サマリアの地を通るだけで、宣教の地とは考えてもいなかったでしょう。 その弟子たちをイエスは引き連れて、このサマリアの女を準備して、井戸端で待っておられたのです。 聖書には、「サマリアを通らねばならなかった」と書かれています。 この時、このサマリアの女に変化が生じ、「手にしていた水がめをそこに置いたまま、サマリアの町に出て行った。」と言います。 今まで人目を忍んで身を隠していたこの女が町へ出て行って、大勢の人々に向かって、「さあ、見に来てください。 わたしが言ったことをすべて言い当てた人がいます。 もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」と言い出したと言うのです。 この女の証言によって多くのサマリア人が、イエスのもとにやってくるようになった。 彼らが、イエスの言葉を直接聞いて信じたと言うのです。
ここまでは、イエスとたったひとりのサマリアの女との対話だけでした。 ここに「食べ物」を買うために町に出て行っていた弟子たちが戻って来たのです。 ユダヤ人がサマリアを通るだけでも考えられない時に、イエスは弟子たちを引き連れてわざわざサマリアを通って行こうとされたのです。 どう考えてみても、イエスはサマリアの女に出会うために、前もって準備をして、わざわざ井戸端で待っていたとしか思えない。 イエスはサマリアの女の変化した姿を弟子たちに見せて、女が毎日汲んでいた井戸の水ではない、弟子たちが町に行って買ってきた食べ物でもない、「決して渇くことのない水」、「弟子たちの知らない食べ物」をサマリアの女の姿を用いて弟子たちに語られたのではないでしょうか。 戸惑う弟子たちに、イエスは当時のことわざを通して語ります。 「あなたがたは、『刈り入れまで四か月もある』と言っている。 種を蒔いて、それを刈り入れるのはもっと先のことである。 『ひとりが種を蒔き、別の人が刈り入れる』と、実際に刈り入れるのは別の人となると嘆いている。 そうではない。 「目を上げて畑を見るがよい。 私の畑は色づいて、もうすでに刈り入れを待っている。 すでに刈り入れが始まっている。 蒔いた人も刈り入れる人と一緒に喜んでいる。 愛する弟子たちよ、この女と同じように、あなたがたも町に出て行って語り出す者となる。 『渇くことのない水』、『命を生かす真の食べ物』について証言する者となる。」とイエスは語っておられるのではないでしょうか。 「目を上げて」とは、天を仰いでということです。 霊の目をもって見なさいということです。 「わたしの言う食べ物とは、わたしをお遣わしになった方のみ心を行い、その業を成し遂げることである。 今は、刈り入れの時、恵みの時、救いの時、喜びの時である。」と言われたのです。 神のみ心を果たすために務めを与えられて、遣わされるという生き方が弟子たち、私たちに用意されているのです。
「内なる人」 エフェソの信徒への手紙3章14節~19節
パウロは、この世の力に取り囲まれているエフェソにいる少数のキリスト者に、「聖なる者たち」、「キリスト・イエスを信じる人たち」と呼びかけます。 「あなたがたは、前もって神に選ばれてこの世と区別されて、エフェソに置かれて用いられている存在である。 これは、神のみ心による。 時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが頭であるキリストのもとにひとつにまとめられる。 あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、キリストによりしっかりと組み合わされる神の家族となる。 キリストに対する信仰と知識において一つのものとなる。」と、そのための「とりなしの祈り」をパウロがささげているのです。 他の手紙でパウロは、「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(コリント二4:16)と語っています。 パウロの言う「内なる人」とは、「外なる人」から向きを変えて、根底から新しくされた人、「神によって選ばれて、区別されて、聖なるものとされた人」、「キリスト・イエスを信じるようになった人」、「神に属する者として導かれた人」のことです。 パウロは、「外なる人」が悪くて、「内なる人」がよいと言っているのではありません。 どちらも、私たち人間そのものでしょう。 「内なる人」とは、神の霊に導かれて、信仰を与えられて、その「外なる人」をささげて主に従う人のことでしょう。 パウロは、「神の豊かさによって、その霊と力によって、その内なる人を強めてください。」と祈ります。 「神の満ち溢れる豊かさに与るように、満たされるように、神の霊と力によって強められるように」と祈っているのです。 私たちの「信仰」も「祈り」も、すべて神から授けられたものです。 ここまでたどり着くことのできたこの道もまた、神が備えてくださった道です。 ですから回り道でも、通らなくてもよかった道ではありません。 この道を通らなければ与えられることのなかった「信仰」、「祈り」を得るためです。 人それぞれ「信仰」も「祈り」も違うでしょう。 しかし、その源はすべて一緒です。 神の恵みの豊かさです。 そこからこぼれ落ちる「霊」の働き、「霊」の力によって「強められなさい」とパウロは祈っているのです。
更に、「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせるように、キリストを宿すように、愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者となるように強めてください。」と祈るのです。 エフェソの人々の信仰の隙間に上手に入り込んでいるこの世の力と働きを、パウロは見ているのです。 彼らが気づいていない隙間を埋め尽くすまでに、彼らの内にキリストが宿るまでにキリストの愛に支配されて、キリストが留まるように」と、渾身の祈りをもって獄中からパウロは祈るのです。 最後にパウロは、「そのキリストの愛をあなたがたが知るように、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解するように。」と祈ります。 「キリストの愛」がどこまで広がっているのか、その極みを知る者はいないほどの「広さ」です。 「人の知識をはるかに超えたもの」とパウロは言います。 私たちはせっかちに、結果や報いを求めますが、「キリストの愛」は種を蒔いて、刈り入れるまでじっと待つ「長さ」をもっています。 キリストの十字架は、この地上の世界に生きる者のどん底の状態でしょう。 人々から侮られ、嘲られ、勝手に作られた罪にらく印を押され、捨てられた状態です。 この低さにまで、私たちの代わりに落ちてくださって、神の愛という燦然と輝く高さにまで引き上げられた「低さと高さ」をもっています。 「深さ」もまた同じです。 自分の弱さや過ちに気づけば気づくほど、「キリストの愛」を知ります。 「キリストの愛」は、罪深さの「深さ」に応えて働くのです。 この「キリストの愛」をともに味わいつつ、キリストを仰ぎつつ歩んで参りましょう。
「光を輝かしなさい」 マタイによる福音書5章13節~16節
「あなたがたは、地の塩である。」とイエスは言います。 「あなたがた」とは、イエスの後に従って山の上にまで従ってきた弟子たち、イエスのみ言葉を聞くためにそば近く寄って来た弟子たちです。 その弟子たちに、「心の貧しい人々は幸いである。 天の国はその人たちのものである。 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、大いに喜びなさい。 天には報いがある。」と語り、「あなたがたはこの地上で、すでに味付けられた塩である。」と語られたのです。 当時でも、塩はとても貴重な存在でした。 食べ物の腐敗を防ぐもの、料理には欠かせないものでした。 イエスは、これから「地の塩になる」と言っているのではありません。 頑張って「地の塩になりなさい」と言っているのでもありません。 あなたがたが望もうと望まなくとも、それにかかわらず「地の塩である」と言われるのです。 たとえ力もなく、取るに足りない、小さな存在であったとしても、イエスご自身に選ばれて、招かれて、従ってきた者として、「あなたがたはすでに地の塩になっている。 この地において、味付けられた塩であることを赦されている存在である。」と宣言されているのです。
更にイエスは、「あなたがたは、世の光である。」とも言います。 「光」としてすでに輝いていると言われるのです。 イエスご自身は、「わたしは世の光である。 わたしに従う者は暗闇を歩かず、命の光を持つ。」と言われました。 「光」であるイエスご自身と結ばれている限り、このイエスのもとにとどまる限り、あなたがたの中に、イエスの光が宿るようになる。 イエスの輝く光を受けて、あなたがたもまた「この世の光」となることが赦されると言われるのです。 「光」はすべてのものを照らし出す、隠れていることのできないものです。 「だから、そのように、あなたがたがその内に宿している光を人々の前に輝かしなさい。」と言われたのです。 それは、あなたがたが素晴らしい姿となって輝くためのものではない。 「あなたがたが、そして映し出されたあなたがたの姿を見た人々が、あなたがたの天の父を崇めるようになるためである。」と言われたのです。 その素晴らしい輝きを自分のものにしようとしてはなりません。 この輝きこそ、イエス・キリストの輝きが映し出されているものにすぎません。 人間を美化してはなりません。 私たちの「光」ではないのです。 イエスの言う「光を輝かす」とは、イエス・キリストの光を照らすということです。 イエスの弟子であり続けるということ、イエス・キリストの光を指し示すということです。 イエスの言う「あなたがたの立派な行い」とは、とてもそのような器に無いような私たちを通して、何の力もない、魅力もない、ありきたりの小さな生きる姿にこそ、神が十二分に働かれると祈り、願い求めることです。 神が必ず働いてくださると確信をもって信じて、祈ることです。 「地の塩である、世の光である」ことが赦されているこの祝福を、感謝して受け取ることです。 その喜びに応えて、神を礼拝し、神の祝福を証しし、告げ知らせることです。 塩が塩のままでとどまっていては、塩は効き目を表すことはできないでしょう。 授けらされた「塩味」は、塩自体の存在が隠れて、溶け込んでいくときに効き目を発揮するでしょう。 一方、「光」は誰からみても明らかな存在です。 隠すことなどできないものです。 イエスは「あなたがたは、地の塩であると同時に、世の光である。」と言われたのです。 この世に、味がわからなくなって埋没してはならない。 地の塩であることをやめてはならない。 だからと言って、自分を誇示して、イエスの輝きであることを忘れてはならない。 イエスは、「地の塩として、世の光として、わたしの光を臆せず人々の前で輝かしなさい。」と言われたのです。
「赦されるとは」 ヨハネによる福音書8章1節~11節
ひとりの女性が律法学者たちやファリサイ派の人々に連れて来られて、人々の真ん中に立たされています。 「この女性は現行犯逮捕されました。 その現場を見届けた証人もいます。 さあ、イエスよ、あなたは神の国を宣教する教師であるなら、律法の定めにある裁きをこの者にはっきりと告げるべきではないですか。」とイエスに、律法学者たちは迫ったのです。 「イエスを試して、訴える口実を得る」ためでした。 もし、イエスが「赦しなさい」と言うなら、律法の戒めを破る者となるでしょう。 もし、イエスが「この女性を石で打ち殺しなさい」と言うなら、「罪人を赦すためにこの世に来た」というイエスの教えに矛盾することになるでしょう。 どちらに転んでも、イエスを追い詰めることになるのです。 その時のイエスの反応は、「かがみ込み、指で何かを書き始められた」とだけ書かれています。 何も答えないイエスに、律法学者たちは畳みかけて執拗に問い続けるのです。 しかし、イエスは、この罪に定められた女性とともにそこにとどまり続けるのです。 そして、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」とだけ人々に語られたのでした。 イエスは、「罪に定められている者に石を投げなさい。 律法に石で打ち殺せと書いてあるとおりに、石を投げつけて裁きなさい。」と言われたのです。 そして、罪に定められている者とともに、身をかがめてそこにとどまっておられたのです。 取り囲む人々が石を投げつけるなら、イエスもまたその投げつけられた石に当たるでしょう。 イエスも打ち殺されることになるでしょう。 それでもイエスは、「自分に罪を犯したことのない者が石を投げてこの女性を裁きなさい。」と言われたのです。 このイエスの言葉を聞いた人々が、「年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまった。 最後には、罪に定められ人々の真ん中に立たされた一人の女性とイエスだけが残った。」と言うのです。
ここには、目に見える過ちを犯した人の姿があります。 その目に見える過ちを犯した人を利用して、イエスを罠に陥れようとした人の姿があります。 何もしないでただ眺めているだけの人の姿もあります。 イエスはこれらすべての人の姿を含めて、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、石を投げて裁きなさい」と言われたのです。 石を握りしめて人を裁こうとするすべての人々が、その石を握りしめている自分の姿を見つめるようにと、イエスは地面にかがみ込んでじっと待っておられたのではないでしょうか。 見える形で過ちを犯していないかもしれない人たちの心の中にある過ちについても、イエスは問うておられるのです。 人の前ではない、神の前に過ちのない者であると、あなたがたは言えるのかとその資格を問うておられるのです。 イエスとふたりだけになった女性に、イエスは「騒ぎ立ててあなたをさらし者にしたあの人たちはどこにいるのか。 だれもあなたを罪に定めなかったのか」と言われました。 しかし、それだけではこの女性にとって事は解決しないのです。 もし、自分の罪が赦されることがないならば、生涯、自分の中にある犯してしまった過ちとともに歩んで行かなければならないのです。 そのような状態にあるこの女性に、イエスの言葉が語りかけられたのです。 「わたしはあなたを罪に定めない。 行きなさい。 これからは、もう罪を犯してはならない。」と送り出されたのです。 彼女は、本当に私を裁くお方がいた。 そして、そのお方が私を赦すことのできるお方であった。 そのことを見つけ出したのです。 この「イエスと、過ちを犯して人々のさらし者になったひとりの女性だけが取り残されたところ」こそ、神の恵みの世界です。 人が人を罪に定めることのできないところです。 過去の過ちが拭われて、イエスとともに存在することが赦されて、送り出されるところです。
「神を忘れる」 創世記3章1節~7節
主イエスは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。 だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と断言されました。 もし、イエスの言われるように、私たちがしがみついているこの世界とはまるで違う、神の国という世界があるとするなら、そのような世界に入りたいと心から願うのであるなら、「新たに生まれる」ということの意味について目を向けなければそのような世界に入ることはできないでしょう。 「新たに生まれる」ということにたどり着くまでには、どうしても遡っておかなければならないことがあります。 神が最初の人間「アダムとエバ」に呼びかけられた出来事です。
エデンの園というところに置かれた人間に、神は「園のすべての木から取って食べなさい」と祝福されました。 人間は、「そこを耕し、守るようにされた」とあるように、神によって備えられた世界に感謝して管理する喜びを与えられたはずでした。 ところが、その神の祝福を告げるこの言葉とともに語られたもうひとつの言葉があります。 「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」という戒めでした。 そのエデンの園の中央に生えいでさせられた「善悪の知識の木」は「命の木」と隣り合わせです。 神に似る者となるために必要な「命の木」が与えられて、神に似た賢さと力を得ることができる。 しかし、神に似ることはできても、人間は神になることはできない。 「命の木」と「善悪の知識の木」こそ、このことを示すものでしょう。 人間は神に似る者となることが赦されていると同時に、神のもとを離れて生きていくことができないことを示しているのでしょう。 そこに、人間を誘惑する者として「蛇」が登場します。 神の戒めから引き離そうとする力が「蛇」です。 神は「すべての木から取って食べなさい。 ただし、善悪の知識の木からは食べてはならない。」と語られたのに、「蛇」は「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と、神の言葉への疑いをもたせようとエバにささやきます。 ついには、神の言葉を否定するまでにささやきます。 このささやきにエバは、アダムの助け手であることを忘れて、単独で神の戒めを破ります。 アダムまで巻き込んで、戒めを破って手にしたその実を渡してしまうのです。 人間は、神によって授けられている賢さと力におぼれて、神を忘れてしまうのです。 神はご自身に似せて形づくり、応え合える関係を築こうと呼びかけているのに、アダムとエバは神の前から隠れてしまうのです。 これは、伝説の昔話でしょうか。 私たちの今の現実の生活のなかにある姿でしょう。 神の前から離れて行って、自分たちがつくり上げるもので生きていこうとする私たちの現実の姿でしょう。 自らの賢さと力を追い求めて旅立ったふたりの目が開かれて見たものが、恐れと不安と恥ずかしさです。 神から離れた人間のあらわな姿です。 「いちじくの葉」は、それを取り繕うものでしょう。 神はこの世を「すべてよし」として祝福されたのです。 しかし、私たちは、神のもとから相談もしないで自分勝手に出て行った者です。 その私たちに、「どこにいるのか」と神は尋ねておられる。 場所を尋ねているのではない、ご自身との関係を心配しておられるのです。 すべてをご存じのうえで、「命じておいたものを守ることができなかったのか」と呼びかけて、戻ってくるようにと語かけておられるのです。 「蛇」のささやきも、蛇によってもたらされているかのようにみえる「悲しみも苦しみ」も、理不尽な出来事も、また私たちの思いをはるかに超えた喜びも驚きもすべて、神がその存在を赦し、私たちをご自身のもとに取り戻すために用いられておられることであると信じます。 「人は、新たに生まれ、神のもとに帰らなければならないのです。」
「水がぶどう酒に変わるとき」 ヨハネによる福音書2章1節~11節
イエスが行われた業は、多くの場合、病気の人々やからだの不自由な人々を招き、癒して再び送り出すこと、汚れた霊にとりつかれた人々を解放すること、嵐を静めることなどでした。 ところがこの福音書は、イエスのなされた最初の業が「婚礼」という場で、「水がぶどう酒に変わること」であったと言うのです。 この「婚礼」の場にイエスの母がいた。 その母が、「婚礼」に大事なもの、ぶどう酒が今や尽きてしまうことにいち早く気づいた。 気づいた母が、息子イエスに訴えたがそっけない。 訴え出た母を「婦人よ」と呼びかけ、「わたしの時が来ていない」と答えたと言うのです。 明らかに、この対話は母と息子の会話とは思えない。 ヨハネによる福音書は、この「イエスの母」を私たちの代表として語りかけておられるのではないでしょうか。 これから「わたしの時」がやってくる。 その時まで待ちなさいと呼びかけておられる。 母は、息子イエスの語る「わたしの時」の意味も、何をしようとしているのか、いつやって来るのかわからなかったでしょう。 しかし、母は息子イエスが語り出す時まで、動き出す時まで祈り、待つのです。 もし語り出すなら、動き出すなら「そのとおりにしてください」と召使たちに命じて備えているのです。 自分の願いがどのような形にしろ、必ず果たされるという息子イエスに対する母の期待と確信に満ちているではありませんか。
イエスの言う「わたしの時」とは、いったい何でしょうか。 ヨハネによる福音書は、「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民の恥を地上からぬぐい取ってくださる。 わたしたちは待ち望んでいた。 この方がわたしたちを救ってくれる。 この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。 その救いを喜び踊ろう。」(イザヤ25:8-9)とイザヤが預言していたお方こそイエスであると言っているのです。 「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」と冒頭で宣言しているとおりです。 その前兆としての最初の「しるし」が、「水がぶどう酒に変わること」であった。 まったく新しい味のぶどう酒によって満たされることであったと言うのです。 そのために、戒めを守る清めに用いる「石の水がめの水」をイエスは用いられたのです。 用意されていた古い酒でも、戒めによる洗い流すための水でもなく、イエスが汲んで運ぶようにと命じられた「新しく味付けされたぶどう酒」をもって、「婚礼」を喜びに満たされたのです。 この「新しく味付けされたぶどう酒」こそ神の賜物です。 それを分け与えるために遣わされたお方がイエスであった。 新しい時がやってきた。 その「しるし」が、今、ここに現されたと言うのです。 「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。 それで、弟子たちはイエスを信じた。」とあります。 5人の最初の弟子たちは連れて来られて、「婚礼」に招かれただけの人たち、見ていただけの人たちです。 イエスはご自身がどのようなお方であるかを示すために、私たちを招いて「しるし」を表しておられるのです。 私たちを祝福するために、招いて、ふさわしいところに連れ出して、ご自身の姿を表して、見せて、ご自身を信じる信仰を引き起こしておられるのです。 私たちの手前勝手な祈りや信仰を、神から命じられることができるように、また神の時、神の業が現れ出るまで待つことができるような信仰にする、そのための「しるし」を与えてくださっているのです。 私たちはその奇跡の結果に目を奪われることなく、奇跡を起こしてくださっているお方の思いを憶えることです。 そのために、私たちを「婚礼」の席に招いてくださっている。 近づいてきてくださって、呼びかけて、連れ出してくださっているのです。 私たちはただ招かれているにすぎません。 最初の弟子たちと同じように、イエスのみ言葉に聞いて、従って、その招きを受け取るだけです。
「神に憶えられる」 エレミヤ書29章10節~14節
「バビロンに70年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。 わたしの恵みの約束を果たす。 あなたたちをもとの地に連れ戻す。 あなたたちのために立てたわたしの計画を果たす。」と、預言者エレミヤに主はみ言葉を託しています。 「バビロン」とは、いったいどのようなところでしょうか。 歴史の中の地名を単に語っているのではないでしょう。 小さな国であったユダの国が、「バビロニア帝国」によって滅ぼされた。 神によって守られているから滅びるはずがないと思っていたユダの国の都エルサレムが崩れ去った。 バビロニア帝国の都バビロンに連れ去られた人々が絶望のうちに時を過ごしていたところでしょう。 「あなたがたの目には、戦に負けたユダの国の人々が、戦に勝ったバビロニアの国の人々によって捕らえられ、バビロンの地にまで連れ去られたように見えているかもしれない。 そうではない。 わたしが、あなたがたをエルサレムからバビロンに送ったのだ。 こんなところにまで連れて来られて、あなたがたは嘆いているかもしれない。 そうではない。 わたしは敵の手に渡してでも、わたしの民を救う。 わたしが立てた計画は、平和の計画である。 災いの計画ではない。 将来と希望を与えるものである。」と主は言われているのです。 「70年の時」とは、いったい何でしょうか。 その時間の長さを強調しているのではないでしょう。 今、目の前にしている災いと思えるような状況に目を奪われて落胆し、絶望しているユダの国の人々の目が新たに開かれるのに必要な時間のことでしょう。 「神の時が満ちたなら」と言っておられるのです。 守ってくれるはずの神のみ言葉を受け入れようとせず、自分たちの思いを第一としたユダの人々が、本当の自分の姿を見ることができる目を、また意に反する神のみ言葉を聞き留めることのできる耳を回復するための時間です。 「あなたたちは、わたしを呼ぶようになる。 祈り求めるようになる。 わたしを尋ね求めるようになる。 その時、わたしは聞く。 あなたたちは、わたしを見出す。 わたしに出会う。 わたしは、あなたたちを顧みる。 あなたたちを連れ戻し、約束を果たす。 あらゆる国々の間にあなたがたを追いやったが、そこから再び呼び集め、捕らわれの身であったそのところから、もとの場所に連れ戻す。 これが、わたしの約束した平和の計画である。」と主は言っておられるのです。 私たちが神を心に留めなくなるときがあっても、神の方が私たちを目に留めてくださっている。 神のご計画が複雑で、不可解で、理解は愚か、気づくことさえできないような時があったとしても、神が私たちをご覧になって、導いてくださっている。 私たちひとりひとりに、神がみ心を痛め、計画し、それぞれの人生に意志をもって働いてくださっている。 この確かさのうえに、私たちの人生を置くときに、これ以上の確かなものはこの世にないのではないでしょうか。
神は、追いやる神であると同時に、呼び集める神であると言います。 一時は、神に敵対する者の手に私たちを追いやるかのように見えるときでも、神はご自身の計画を果たすと言います。 神の願いは、私たちが今描いている願いとは異なるかもしれません。 私たちが思い描く平安と希望は、神のみ心とは異なるかもしれません。 もしそうであるなら、今、私たちがしがみついている「自分が描く願い、希望、将来」が砕かれなければ、神のご計画は成し遂げられないではありませんか。 「神の時が満ちるその時に備えなさい。」 それが「70年の時が満ちたなら」ということでしょう。 神は、そのご計画を果たすためなら、どのようなものでも用いられます。 私たちにとって無駄なことは何ひとつありません。 すべて神の意志が働いて、神の願いでもある、私たちひとりひとりの「将来と希望」に導いてくださっているのです。
「神の真実に生かされる」 申命記31章30節~32章4節
モーセは主に、「あなたは間もなく先祖と共に眠る。 今まであなたに従ってきたイスラエルの民は直ちに、わたしを捨てて、わたしと結んできた契約を破る。 わたしの怒りは燃え、わたしは顔を隠す。 彼らが他の神々に向かうことにより行ったすべての悪のゆえである。 だから、これから語る言葉を書き留め、イスラエルの人々に教え、わたしの証言としなさい。」と言われました。 モーセの遺言とも言える主から託されたみ言葉の冒頭の部分が今朝の聖書箇所です。 「主は岩、その御業は完全で その道はことごとく正しい。 真実の神で偽りなく 正しくてまっすぐな方。」とあります。 「天よ、地よ、わたしが語る言葉を聞きなさい。 天も地も、わたしがつくった世界ではないか。 あなたがたも、わたしが選び出しここまで守り導き出したわたしの民ではないか。 これから遭遇することになる災いも苦難も、あなたがたの不信仰、不真実のゆえである。 しかし、わたしの約束を果たすために救いを告げる。 だから、このことを書き留めて、あなたがたが災いと苦難に襲われるとき、このみ言葉をあなたがたの子孫が忘れずに唱え続けることにより、わたしの変わらない約束の証言となる。」と、主がモーセに託したのです。 神は岩のように変わらないお方である。 神のなされる業は完全である。 神の示される道は正しい。 神は偽りがない真実なお方である。 正しいお方であると言うのです。 私たちはそのようなものを確かに求めています。 しかし、この世においてはことごとく裏切られています。 この世にそのようなものがないことを知っています。 ですから、私たちは信じ切ることができません。 裏切られないように自分の身を守り身構えるのです。 そんな私たちがいざ「信仰の世界」に入ると、そのような存在である神を信じなければならない。 神が語るみ言葉を信じて従わなければならないと頑張るのです。 そのように従っていく姿こそ、信仰者の姿だと思い込んでいる。 ですから、心配で仕方がない。 心は揺れ動く。 そして、ついには、神のみ言葉の前にうなだれて、従い切ることのできない自分の弱さに絶望するのです。 神のみ言葉のあまりの大きさ、高さについて行けず、理解することのできない自分の愚かさに絶望するのです。 しかし、モーセは、「神が真実である。 神が変わることのできない岩なるお方である。 神が正しい。 神がなさる業が正しい。」と賛美しているのです。 旧約聖書の神の民はその長い歴史の中で、どれほどの災いと苦難を潜り抜けて、この神のご真実にたどり着いたことでしょう。 神の民は自分たちの弱さや愚かさに絶望して初めて、この神の確かさ、正しさにたどり着いたのです。 自分たちの側の不信仰や不誠実、疑いや動揺にもかかわらず、自分たちをしっかりと捉えてくださっている神の確かさを賛美しているのです。 この確かなお方とのつながり、在り方が、自分たちの信仰の土台であると宣言しているのです。
新約聖書の時代に入りますと、神の言葉そのものであるイエス・キリストは、「神を信じなさい」という言葉でこのことを伝えています。 イエスの言われた「神を信じなさい」とは、「神のご真実をもちなさい」ともとれる言葉です。 私たちは自分に絶望するかもしれない。 しかし、この神の確かさ、正しさ、完全さに身を委ねなさい。 神の確かさを持ちなさい。 神のご真実だけに寄りすがりなさい。 「神を信じなさい」とイエスは言われたのです。 私たちを動かしているのは、私たちの信仰ではありません。 私たちの信仰とも言えないものを、信仰として拾い上げてくださっている神のご真実と慈しみです。 岩なる確かなお方に、私たちが動かされていることに気づくことです。 神のみ言葉の背後には、それを成し遂げようとする神のご真実があるのです。 信じて応えていく者には、それが生きたみ言葉となるのです。
「賛美する者に変えられた群衆」 マルコによる福音書2章1節~12節
イエスがおられるところには、大勢の群衆が押しかけて来ていました。 「家の戸の辺りまですきまもないほどであった」と言います。 この熱気あふれるところに、「四人の男が中風の人を運んで来た。 その家の屋根をはがし、そこに穴をあけて、その病人の寝ている床をそのまま、イエスがおられるところを目掛けてつり降ろした。」と言うのです。 「中風の人」とは、「麻痺している人」という意味合いです。 当時のユダヤ社会では、残念ながら病気はその人の罪の結果だと思われていました。 病人は、罪人として社会から締め出されていたのです。 この病人は、「起き上がることもできない、社会から取り残された人」ということになるでしょう。 雨季や乾季があって屋根のふき替えができるように簡易な屋根であったとはいえ、四人の男たちのとった行動は乱暴でしょう。 目的のためなら手段を選ばない非難されるべき行動でしょう。 しかし、イエスは彼らの思いや行動がどうであったのかを説明することなく、「その人たちの信仰を見た。 そして、その病人に『あなたの罪は赦される』と言われた。」のです。 これはいったい、どういうことでしょうか。
病人は自分の病いを癒されたい。 四人の男たちはこの病人をどうしても癒してほしいと思った。 その切迫した思いが周囲の迷惑を考えもせず、その場の秩序も無視をして、家の屋根を壊してまでイエスのみもとにこの病人を届けたのです。 これが信仰であると言えるのでしょうか。 しかし、イエスは、この信仰ともとれないものを「信仰」として拾い上げました。 そして、その病人に「あなたの罪は赦される。 起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と言われました。 すると、すぐに床を担いで、その場にいた群衆が見ている前で出て行ったのです。 とんでもない方法で目の前に現れた人たちの信仰とも思えない祈りをくみ上げて、病いというこの世に縛られているものからの解放と、この世の社会への復帰を同時に、この病人に宣言されたのではないでしょうか。 私たちは自分のからだのことには一生懸命です。 どちらの医者がよいとか、この薬がきくとかとても熱心です。 しかし、神との関係が今どうなっているのか、神の前に生きているのか死んでいるのかには、私たちは無頓着です。 イエスは逆であると言います。 病いは癒されても、いずれまたかかってしまう。 神のかたちに造られたにもかかわらず、神を知ろうとせず、神に頼らないで自分勝手に生きていこうとした人が回復されなければならない。 神のもとを離れて、生きる意味を失っている人が完全に癒されるためには、神に赦していただかなければならない。 この「神のもとに戻る」ことを「罪が赦される」と称して、「病いを癒す」ことの前にイエスは先ず宣言されたのです。
私たちに信仰があるとかないとか、また私たちの信仰が薄いとか厚いとか、私たちが決めることではありません。 イエスが認めてくださるものです。 イエスは、信仰と言えないようなものでも拾い上げてくださるのです。 彼らは、「罪が赦される」とはどういうことなのか、それが病いの癒しにどうつながるのかさえ分かっていないでしょう。 しかし、彼らは、イエスなら癒してくださると思い、み言葉を求め触れようとしました。 そのみ言葉に聞いて、その通りに従いました。 意味が分からなくても、彼らはイエスのみ言葉を受け入れているではありませんか。 彼らの姿を通して、群衆が今まで考えてもみなかった「神のもとへ帰る」という「罪が赦される」という神の癒しをイエスは語られたのです。 この出来事を目の当たりにした群衆は、「皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない。』と言って、神を賛美した」と書かれています。 助けられた病人が用いられて、また、助けられた病人を運んできた四人の人たちが用いられて、この群衆を「神を賛美する者」へと、イエスご自身が働かれて変えられたのです。
「語りかける神」 詩編19編2節~15節
天地を造り出した創造主なる神へのダビデの賛美です。 「天は神の栄光を物語り、大空はみ手の業を示す。」と歌われています。 この世に、何の意志も働かない、何の力も働くことなくただ漂っているだけのものがあるでしょうか。 私たちが称している「大自然」というものは、偶然の賜物でしょうか。 「大空はみ手の業を示す。 昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。」と言います。 天と大空とは、空間軸を言うのでしょう。 昼と夜とは、時間軸を言うのでしょう。 すべて造られたものは、造った者のみ手の業である。 造った者の栄光を示している。 それだけではない。 昼と夜によって途絶えることなく続いていると賛美しているのです。 この神の語りかけや呼びかけは、耳で聞く言葉になっていないかもしれない。 声になっていないかもしれない。 沈黙のままであるかもしれない。 私たちが聞き取ることができなしものであるかもしれない。 しかし、この造られたこの世の全地に、この神の響きや神の言葉は響きわたっている。 この世の果てにまで届いていると賛美しています。 ダビデは、神が造られたものを通して神の呼びかけを聞いています。 また、人の口を通して語られた一つ一つのみ言葉にも聞いています。 「主の律法、主の定め、主の命令、主の戒め、主への畏れ、主の裁き」と6つに表現されているみ言葉です。 神が預言者たちを通して語られた、私たちが聞いて受け取ることのできる言葉に聞いています。 神が語られたこのみ言葉は、私たちの魂を生き返らせる。 無知な人に知恵を与えられる。 心に喜びを与える。 目に光を与える。 そして、いつまでも変わることなく語られ、消えることなく続く。 語られたみ言葉はことごとく正しいと賛美しています。 しかし、そうであると分かっていたとしても、神の助けがなければこのみ言葉に私たちが生きることができるでしょうか。 だれが自分の過ちを知ることができるでしょうか。 ダビデは、「知らずに犯した過ち、隠れた罪から、どうかわたしを清めてください。」 「どうか、わたしが抱いている驕りから引き離し、支配されないようにしてください。」と神に祈るのです。 ダビデは、神の民を導く自分の務めがあることを十分に承知しています。 ですから、毎朝、陽の上がる前から、神の前に出て、すべてを支配しておられる神を賛美して、その声にならない神の語りかけ、神の響きを聞くのです。 そして、人の口を通して語られた神のみ言葉、聖書に聞いて祈るのです。 「どうか、わたしの口の言葉がみ旨にかない、心の思いがみ前に置かれますように。」と、毎朝、祈るのです。 ダビデは「神の求めるいけにえは、打ち砕かれた霊。 打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(詩編51章19節)と祈っているのです。
神は様々なものを通して私たちに語られます。 私たちの目に見えているものを通して語る時もあるでしょう。 人の口を通して語られる時もあるでしょう。 神に敵意をもつ者の口を通してでも語るお方です。 言葉はなくても、語る人の姿や働きを通しても語るお方です。 語らない沈黙を通してでも語る時があります。 出来事を通しても語ります。 ダビデは、この世に向かって目をしっかりと開き、この神の呼びかけを注意深く聞いています。 人を通して語られた神のみ言葉にも、また、人を通して成し遂げられた神のみ業にも、注意深く聞いています。 幸いに私たちは、神の言葉であるイエス・キリストが語られたみ言葉を聞いています。 「福音」です。 イエスの身に起きた出来事を伝える言葉です。 イエスにおいて、神が成し遂げてくださった救いの働きを告げ知らせる言葉です。 十字架の死と復活の言葉です。 「福音は、信じるものすべてに救いをもたらす神の力」(ローマ16章17節)です。 この詩編19編の賛美とみ言葉と祈りによって、新しい一日を始めてみませんか。
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