「マリアとヨセフに示されたこと」 ルカによる福音書2章22~34節
聖書のなかに、「残された者」(レムナント)という言葉があります。 すべてのものが失われるような事態になったとしても、そこには必ずわずかなものが残る。 すべての者が滅ぼされるような時にも、わずかな例外が残される。 それが新しい時代の基となる。 洪水物語の中に出てくるノアとその家族などは、この「残された者」の象徴のように思わされます。 イエスがこの世に来られた誕生物語にも、誰の目にも留まらないような残された、小さな存在が用いられています。数少ない者にだけ告げられた「世界で最初のクリスマス」の恵みを、その直後に味わったシメオンという人物の姿に目を向けたいと思います。
聖書には、シメオンは「正しい人であった。 信仰があつい人であった。 イスラエルが救われるのを待ち望んでいた人であった。 聖霊が留まっていた人であった。」とだけ書かれています。 マリアとヨセフが律法の定めに従って、その子イエスをささげ、そのいけにえをささげようと神殿にやってきた時です。 霊に導かれて、ひたすら救い主を待ち望んでいたシメオンが神殿の境内に入ってきた時です。 ささげものに「山鳩ひとつがい、家鳩の雛二羽」しか用意することのできなかった貧しいふたりが神殿に連れて来た、生まれて間もない赤ちゃんにシメオンの目が留まります。 シメオンは躊躇なく、その赤ちゃんを自分の腕に抱きかかえます。 そして、神をたたえて言うのです。 「主よ、あなたはお言葉どおり、この身を安らかに去らせてくださいます。」 いったい、この言葉はどういう意味でしょうか。 シメオンはただ律法の戒めをかたく守るだけの人ではありません。 来たるべき救い主に必ず出会う。 そのことが約束されていると、ずっと待ち望んでいた希望の人です。 その約束は、聖霊によってすでに自分に与えられていると確信していた人です。 ですから、今、その赤ちゃんをシメオンが目にした時、その約束が成し遂げられたと、「わたしはこの目であなたの救いを見た。」と言います。 ただ、両親に抱えられている赤ちゃん、自分が抱きかかえた赤ちゃんを見ているだけです。 しかし、シメオンは見えていたのです。 聖霊がうちに宿っていたので、この小さな存在の中に、神の恵み、救いの恵みが満ちていることが分かったのです。 シメオンは、「わたしはこの目で救いを見た。」と言っているのです。 霊の目で、神の約束の救いを、今、見た。 シメオンが見たと言っている救い主は赤ちゃんです。 その救い主の業もこれからです。 しかし、シメオンはその救いのみ業がもうすでに見えた。 それも、今までとはまるっきり違う、万民のための新しい救いを備えてくださったと神に賛美しているのです。 これ以上のものはないと、これから後、このお方と共にあるというずっと続く恵みがシメオンには見えたのです。
このシメオンの言葉に驚いているマリアとヨセフに、シメオンは続けて言います。 「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせたりする。 そのために定められたしるしです。 反対を受けるしるしとして定められている。」と、両親が見えていないものを語るのです。 この子はイスラエルの人々に歓迎されるのではなく、逆につまずくものになる。 人を倒すものにもなる。 立ち上がらせることにもなる。 二つに分けるつまずきのしるしとなると、シメオンは言うのです。 多くの人がこの救い主に出会って、その人生が変えられていく。 信じることのできない者にとっては、つまずきの石となる。 しかし、信じて受け入れる者にとっては尊い隅の親石となると、喜びとして、祝福として両親に語っているのです。 シメオンは、ただ死を待っているだけの人ではありませんでした。 神の約束を信じて、期待して、準備をして、待ち望んでいた希望の人でした。 聖霊をうちに宿して、導かれて、救い主に触れて、抱きかかえて、体験して出会うことのできた人でした。 この出会うことのできた救い主を誕生させ、十字架につけ、復活させる神の愛が万民を覆い包むという新しい恵みを、まだ霊の目をもってみることのできない両親に告げた最初の証し人です。 私たちもまた、新しい霊の目をいただいて見えているものを伝え、この救い主のもとに「来て、見なさい」と伝えるものとさせていただきたい。
「まことの闇の中で輝くまことの光」 ヨハネによる福音書1章1~13節
「初めに言があった。 言は神と共にあった。 言は神であった。 万物は言によって成った。 成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」とヨハネによる福音書は言います。 創られたこの世界より前に、言葉はあった。 それは神の言葉であった。 神が発する言葉は、神そのものであった。 その言葉が、この世界を創り出したと言います。 神は「語りかける言葉」をもつお方である。 この世界は偶然にでき上がったものではない。 神の意思によって、神の言葉によって成ったものである。 私たちはこの厳粛な事実を忘れてはならないし、この神の言葉に応えて生きるようにと私たちは創られたことを思い起こすべきです。
かつて神は、多くの預言者を通してみ言葉を語ってくださいました。 それでも神の言葉を聞こうとしないこの世に、神は神の子である「この言」によって忍耐強く語り続けておられるのです。 「この言」とは、イエス・キリストです。 この遣わされたイエス・キリストの言葉によって起こされる出来事こそ、この世にある私たちにとって「命である。 光である。」そうであるのに、この世は認めなかった。 受け入れなかった。 しかし、それでもなお、この「光は暗闇の中で輝いている。暗闇はその光を理解しなかった。」とヨハネによる福音書は語っているのです。
私たちはその「暗闇」を見ようとしません。 見続けることができません。 一時しのぎのかりそめの光を自ら造ろうと努力します。 おぼろげな光に目を奪われて、「まことの暗闇」であることに気づきません。 「まことの暗闇」とは、神のみ言葉が存在しないところです。 神のみ言葉を失ったところです。 神のみ言葉に聞こうとしない、神の言葉を必要としないところです。 私たちはそのようなところに生きていくことはできません。 しかし、そのようなところに、「まことの光となって輝いている。 今もなお、輝き続けている。」と言うのです。 この世の暗闇は、私たちの想像をはるかに越えて深いものです。 私たちの力では限界があります。 そのようなところに、私たちが見て、聴いて、触れて、出会うことができるお方として神が現れてくださっている。 条件付きの命に定められている私たちが、この神の言葉に耳を傾け、受け入れるなら、「まことの光」を見出す。 まったく「新しい命」を見出す。 この暗闇に包まれた世界に、イエス・キリストは「光」として、「命」として誕生されたとヨハネによる福音書は告げているのです。 12節に、「この言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」と証言しています。 イエスが与えた神の子となる資格とは、「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」(14:16)と言われた新しい命です。 まったく別次元の命です。 終わりの時に、神が創造される新しい命をもつ、神の子となる命です。 これは、神によって授けられる恵みの賜物です。 「血によってではなく、肉の欲によってでもなく、人の欲によってでもなく、神によって与えられる」と言います。 血筋でもなく、人間の計らいによるものでもなく、人間の営みによるものでもない。 神の子でない者が、神の子になる資格のない者が、神の子となる。 神から生まれ出た者になる。 このような出来事が、神によってなされると言っていることなのです。 私たちの住む世界は、神の言葉なき「まことの暗闇」です。 しかし、そこにこそ、「まことの光」が輝いている。 この誕生されたイエスこそ、「人間を生かす命の言葉」です。 「暗闇に住む人間を照らし出す光」です。 暗闇の中に死に定められている私たちを救わずにおれない神の愛が、言葉として鳴り響いています。 光として輝いています。 命として生きています。 その出来事について、私たちはクリスマスを喜び祝っているのです。 この出来事を起こしてくださったのは、変わらずに初めからあった「神の愛」です。
「御子によって語られる神」 ヨハネによる福音書1章14~18節
ヨハネによる福音書は、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。 この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。」と言います。 「父のふところにいる独り子である神、イエス・キリストがこの世に来て父なる神を表してくださったのだ」と、クリスマスを短い言葉で端的に語っています。 イエスは、神の言葉となって、私たちの世に来られました。 初めから神と共におられた、神の子であったそのキリストが、ナザレの大工であったイエスとしてこの世に来られました。 父なる神の側から言えば、人としてのイエスの中に神が宿り、イエスの中から私たちに語りかけ、ご自身をイエスを通して表してくださったのだとヨハネは語っています。 聖書に、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖たちに語られたが、この終わりの時代には、御子、イエス・キリストによってわたしたちに語られました。」(ヘブライ1:1-2)と言う通りです。その通りに、イエスは神の言葉を権威をもって語られたのです。 預言者が語る「主は言われる」というような間接的な表現ではなく、「わたしは言う」と父なる神の言葉を直接語ったのです。
ヨハネは、「わたしたちは、父の独り子としての栄光を見た」と言います。 イエスを十字架につけたユダヤの祭司や律法学者たちは、「自分たちの栄光」を求め、守るために、「イエスの栄光」を見ることができませんでした。 イエスの不思議な力を見て驚いたユダヤの民衆もまた、「自分たちが求めていた栄光や恵み」と「イエスの栄光」は異なるものであると知ると、イエスを捨てました。 弟子たちもまた、「自分たちが描いていた栄光」が崩れ去ったことは民衆と同じです。 しかし、この弟子たちがよみがえられたイエスと出会って変えられたのです。 新しく造り変えられたのです。 神のみ言葉が語りかけられ、聖霊が降った時、彼らの中に新しい命が誕生したのです。 イエスの誕生こそ、私たち人間が生まれ変わって生きるようにと、新しい神の子として生きる道を初穂として切り開いてくださった神の出来事であるとヨハネは語っています。 「主が豊かであったのに、わたしたちのために貧しくなられた。 それは主の貧しさによって、わたしたちが豊かになるためだった」(コリント一8:9)のです。 「そのお方は、恵みと真理に満ちていた。 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」と言います。 かつての恵みの上に、かつてないまったく新しい恵みを更に受けたと言います。 石打ちの刑で打ち殺されようとしていた女性に、「わたしはあなたを罪人としない。 これからは、もう罪を犯してはならない。」と、罪の赦しを与えられたのは、まったく新しい恵み、救いの恵みではないでしょうか。 そのお方が神の子であったという新しい恵みです。 このイエスをこの身に宿すことによって与えられる新しい「恵みと真理」を豊かに浴びることができるようになる。 この「恵みと真理」は、イエス・キリストを通して現れたまったく新しい恵みであると、ヨハネは語っているのです。 パウロは、「神がイエスを死人の中から復活させたと信じるなら、あなたは救われる。」(ローマ10:9)と言います。 神のみ言葉であるイエス・キリストの言葉を信じるなら、あるいは語りかけてくださる「イエス・キリストの恵みと真理」の確かさにゆだねるなら、その語られたみ言葉は、信仰によって、聖霊の働きによって、救いの出来事になっていく。 み言葉が語られ、信仰によってそのみ言葉が聞かれるなら、新しい命の誕生というイエス・キリストの救いの出来事が必ず起きると言うのです。 ですから、私たちは人間の知恵を捨てて、み言葉に聴くことです。 そのみ言葉を受け入れることです。 その「恵みと真理」に委ねることです。 マリアや弟子たちが体験したと同じように、私たちの身にも起きるのです。
「お言葉どおり、この身に」 ルカによる福音書1章26~38節
ナザレというガリラヤの町のひとりのおとめのもとに、天の使いが神から遣わされた。 そのおとめの名は、マリアという名前であった。 その人は、ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであったと言います。 記されているのはそれだけです。 マリアに語られたみ言葉は、「おめでとう、恵まれた方。 主があなたと共におられる。」というものでした。 突然告げられたみ言葉に対するマリアの反応です。 「この告げられた神のみ言葉に戸惑った。 いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」とあります。 戸惑っている、考え込んでいるマリアにおかまいなく、神は一方的に告げます。 「マリア、恐れることはない。 あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人となり、いと高き方、神の子と言われる。」 マリアにしてみれば、「それが自分といったいどんな関わりがあるのですか。 これから夫なるヨセフとともに、慎ましやかな家庭を出発させようとしているこの私に、このことが恵みになるのでしょうか。」と思ったに違いない。 ですから、マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。 わたしは男の人を知りませんのに。」と答えたのです。 マリアの生涯は、授けられたこの神の子、イエスの存在に思い巡らし、考え込む生涯でした。 人間の常識や理性の中に、突如として神のみ言葉が入り込んできて告げられる。 その言葉に葛藤し、不安や動揺が起こされる。 社会や人々を恐れる。 しかし、神は、「恐れるな。 あなたはもうすでに恵みを用意されていただいている。」と言われるのです。 マリアこそ、神とこの世のはざまに立って葛藤する私たちを代表している姿なのではないでしょうか。
天の使いは、思い巡らす、戸惑うマリアに続けて言います。 「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。 だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 神にできないことは何もない。」 マリアは、この神のみ言葉を受け入れて言うのです。 「わたしははしためです。 お言葉どおり、この身になりますように。」 私は取るに足りない存在です。 しかし、神の力が私を覆い包むなら、それに委ねますと言うのです。 これから起ころうとしている出来事に、葛藤や不安や動揺の中においても、マリアはただ神の働きだけによって自分の胎内に神の子が宿ることを委ねているのです。 この体験は、マリアだけのものでしょうか。 神の力によって、私たちのなかに変化が起こされる。 聖霊だけによって、私たちのなかに神の子が宿るようになる。 これこそ、よみがえられて今も働いておられる復活の主イエス・キリストを私たちが迎え入れるということでしょう。 この体験こそ、マリアの体験なのではないでしょうか。 聖霊が降って新しい命が誕生する体験は、マリアだけの体験ではありません。 このマリアを覆い包む神の力が、人をまったく造り変えるのです。 イエスの誕生物語こそ、私たちのうちによみがえられたイエス・キリストが宿ってくださったという信仰者の喜び、働いてくださった神への賛美です。 マリアは辛うじて、神のみ言葉に立ち上がることができました。 辛うじて、神のみ言葉に自分を委ねることができました。 常識や理性の世界と信仰の世界との葛藤のなかに、「お言葉どおり、この身になりますように。」と告白しているのです。 これはマリアの決断でも、決意でもありません。 神の力、聖霊がマリアに語らせた言葉です。 イエスの誕生物語は、この神の霊を受け取って、この身に宿ってくださったイエス・キリストの誕生を賛美しているのです。 イエスが神の子として、この地上に誕生して、死んで、復活してくださった賛美をしているのです。 私たち自身の身に起こった神の子としての誕生を喜ぶ日でもあります。 「神にできないことは何一つない。」という信仰告白と、「お言葉どおり、この身になりますように。」という賛美を語っているのです。
「眠りについた人たちの初穂」 コリントの信徒への手紙一15章20~28節
パウロは、「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」と言います。 「神の子であるイエス・キリストには復活が起きてもおかしくはないだろう。 しかし、私たちの身に死からよみがえるということが起きるとは考えられない。」と言って憚らないコリントの教会の人たちに向けて、パウロは訴えるのです。 「死者の中から復活したキリストは、眠りについた人たちが目をさます先がけとなってくださった。」 「死んで葬られた者たちの復活の初穂となって、父なる神に刈り取られたのだ。」と言っているのです。 パウロが語る「復活」とは、ただ死んだ人が生き返ることではありません。 死んだ人が死ぬ前の体、命を取り戻して、再び、元の人間として立ち上がるというものでもありません。 再生ではなく新しく生まれることだと言います。 かつての命、元の体の回復ではないのです。 全く別の新しい命、新しい体を与えられて、新しく創造されることだと言います。 土の塵に帰るべきこの体を脱ぎ捨てて、神の息に吹き入れられた霊による体を取り戻す。 もはや死ぬことのない、朽ちない新しい霊の体によみがえさせられることであるとパウロは言っているのです。 まさにイエスが、この新しい体、新しい命を、地上の人々が自分の力で自分の手に入れようとすればするほど失うものである。 ご自身の十字架と復活によって神から与えられる賜物であると受け取るものである。 この与えられた命を大切に生きる者が手にすることができるものであると語られたものです。
パウロは、復活には順序があると言います。 「最初にキリスト、次いでキリストが来られるときにキリストに属している人たち」 そして、「世の終わりが来る」と言っています。 最初にキリストの復活が起こされる。 それから、その復活されたキリストが再び来られる。 そして、私たちキリストに属する者の復活が起こされる。 そして、この世の最後を迎えると大胆に語っています。 その最後こそ、神のもとから引き離そうとするすべての地上の支配が滅びる。 一生懸命に人が造り上げてきた権威や権力もすべて失われる。 すべてのものが復活されたキリストの足もとに降った時、「最後の敵として、死が滅ぼされる。」 最も恐ろしい敵である「死」を私たちが克服する。 その時こそ、神の完全な支配が完成される。 「アダム」のもとに入り込んできた「死」から解放される時である。 「世の終わりである。」 それが復活の業の目的であり、復活の業の力である。 「神がすべてにおいてすべてとなられるため」であるとパウロは言うのです。 そのために、よみがえられたキリストは再び、私たちのところに来なければならないのです。 キリストを信じて、従っている私たちがよみがえるためです。 天からの新しい霊の命に私たちが生きるように、救いが完成されるためです。 罪に定められ、死に定められた私たちが、死からも、罪からも救い出されて解放されるためです。 それは、「神がすべてにおいてすべてとなられるため」です。 私たちが、復活があるとかないとか問うべきではありません。 よみがえられたキリストによって、「神がすべてにおいてすべてとなられるため」に復活の業は起こされるのです。 世の終わりに、私たちは復活するのです。 それが、神が独り子イエス・キリストを死に渡し、よみがえらされた目的です。 「初穂」とは作物を先取りし、代表するものでしょう。 すべての収穫のなかで、最初で最高のものでしょう。 キリストの復活は、私たちの復活のために先んじてなされたものです。 死に定められた私たちをよみがえらせるためです。 死んだ人にも、生きている人にも主となられるためです。 それが、一人でも滅びることがないようにと、すべての人が立ち戻ることを望んでおられる主なる神のみ心です。 この地上に生きているキリスト者には、終わりの日に朽ちない体を与えられて、救いが完成されるという約束と大きな希望があるのです。
「神を信じるとは」 ヨハネによる福音書4章46~54節
聖書箇所の場所は、「ガリラヤのカナ」でした。 わざわざ「前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所であった」と書き加えられています。 カナで行われていた婚礼の祝宴の席で起きたぶどう酒の出来事でした。 イエスの言葉通りに満たされた水がめいっぱいの水が、すべてぶどう酒に変わった。 それも、今までにない新しい味となった。 これが「一回目のしるし、奇跡」である。 これから述べる出来事が「二回目のしるし、奇跡」であると聖書は語っています。
エルサレムの過越の祭りでなされたイエスの癒しの「しるし」を見ていた大勢の人たちがイエスを待っていました。 そのようなところに、約30キロ離れたところから、ひとりの「王の役人」がやってきたというのです。 召使たちが迎えに来るほどの役人です。 王に仕える高官あるいは軍人であったかもしれません。 そのような人が、なりふり構わずイエスに頼むのです。 「主よ、子供が死なないうちに、おいでください。」と、約30キロも離れたところにご足労くださいと必死に頼むのです。 ガリラヤ地方の相当な身分の役人が大工の息子に頭を下げて、地位や名誉もかなぐり捨てて必死に願う父親の姿がここにあります。 その父親に対する最初のイエスの言葉が、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」という言葉でした。 イエスは、「しるし、奇跡を行う人」として歓迎している大勢の人々をよしとしていないのです。 病気が癒されることが問題であるとは言っておられません。 そのように願い求めることを否定されているのでもありません。 息子の癒しを求めている。 神の助けを求めている。 しかし、それは神を求めているのではないとイエスは言っておられるのではないでしょうか。 そのイエスの言葉に役人は怯みません。 「主よ、子どもが死なないうちに、おいでください。」と、最後の頼みを熱心に繰り返し訴えたのです。 役人は「死なないうちに」と言っている。 死んだら終わりだ。 だから、死ぬ前に一緒に来てくださいとイエスに願ったのでしょう。 そう語る役人に、イエスは「帰りなさい」、そして、「あなたの息子は生きる」と言われたのです。 イエスは、その役人の息子が助かるとか、病気が治るなどと言っているのではありません。 「あなたの息子は生きる」と言って、今やって来た道のりをもう一度、「帰りなさい」と言われたのです。
どういうことでしょうか。 神は天地をみ言葉だけで創造されたお方です。 何でも言葉によって新しく創り出すことができるお方です。 私たちは神のみ言葉がすでに与えられているのに、なおも、今、目に見える形で見せてくださいと願うのでしょうか。 イエスは、「あなたの息子は生きる」という短いみ言葉を、その役人に与えました。 私が与える力を、あなたの息子は持つだろう。 そこにあなたは今、何ももたないで、私のみ言葉だけを携えて「行きなさい」と言われたのではないでしょうか。 もとのところへ帰って行くのではありません。 イエスがもたらしてくださる新しい力によって創り出される、新しいところに「行きなさい」とイエスは送り出しておられるのではないでしょうか。 その役人は、「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」と言います。 イエスが自分の家に来てくださることだけを願っていた父親が、イエスの言葉だけを信じてひとり歩み始めたと言っているのです。 イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたその時刻に、その息子の熱が下がったことを、後に召使たちによって知らされるのです。 そして、その役人も、その家族もこぞってイエスを信じたと言うのです。 これは死に直面した息子の病気が癒された「しるし」ではありません。 父親が、イエスのみ言葉だけによってまったく新しく変えられた「しるし」です。 イエスのみ言葉に立ち上がって、そのみ言葉に従って、もしかしたらもとのままであるかもしれないところへ帰って行ったのです。 その途上でイエスのみ言葉が成し遂げられた。 父親と家族が変えられたという「二回目のしるし」だと聖書は言っているのです。
「どこまでも捜し求めるお方」 ルカによる福音書15章1~7節
イエスを囲んで、喜びにあふれて一緒に食事をしている人たちがいます。 「イエスの話を聞こうとして近寄って来た人たち」でした。 「徴税人や罪人」と表現されています。 一方で、イエスのいるところから遠く離れて立っている人たちがいます。 楽しそうに食事をしている人たちの姿を見て、「不平を言いだした人たち」でした。 「ファリサイ派の人々や律法学者たち」と表現されています。 当時の「徴税人や罪人」とは、「ファリサイ派や律法学者たち」によって「正しくない人」として社会の外に押しやられていた人たちです。 「正しい人」と思っている人たちが、「どうしてこのような人たちを迎えて、一緒に食事をしているのか」と、イエスご自身に詰め寄ったのです。 その時のイエスの語られたたとえが、今日の聖書箇所です。
「羊飼い」と「羊」のたとえでした。 野原に「残された九十九匹の羊」と「見失われた一匹の羊」のたとえでした。 羊飼いが毎夕、その羊の群れを囲いの中へと追い込む際には必ずその羊を数えるという習慣をたとえたのでしょう。 村全体の宝であった「羊」が一匹でも見失われた際には、見つけ出された「羊」を肩にのせて村に帰ってくる「羊飼い」を見て、村全体が喜びの歓声を挙げる風景が日常であったのでしょう。 イエスは、「一匹の羊が見失われたなら、九十九匹の羊を野原に残して、見失った一匹の羊を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 見つけたら、喜んでその羊を担いで家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて『一緒に喜んでください』と言うであろう。」と言われたのです。 イエスにとっては、「一匹」ということだけでも大切なのです。 その「一匹」が見つけ出されたということ、見失われて戻ってきたということが何ものにも替えがたい「喜び」なのです。 『一緒に喜んでください』と分かち合うことができるほどの「喜び」なのです。 この聖書箇所では、神に見出されて戻ってくることができることを「悔い改め」と表現しています。 「悔い改め」とは、後悔したり、反省することではありません。 向きを変えて、神に見出されて戻ってくることです。 それが神のこの上ない「喜び」である。 皆とともに喜び合う「喜び」であると語っているのです。
「羊飼い」は、「一匹の羊」が見失われたなら、見つけ出すまでどこまでも捜し求めます。 その「一匹の羊」は、決して群れから離れてしまってはならない愛されている存在なのです。 私たちは迷い出て、自分がどこにいるのか分からなくなっている存在であることを知ることです。 見つけ出すまでどこまでも捜し求めてくださっているお方のもとに、立ち戻ることが赦されている存在です。 捜し求めておられるお方に愛され、決して失われてはならない存在であることを知ることです。 そこには、そのお方とともに喜び合う世界が拡がっています。 今、ここにその世界が訪れていると、イエスは「羊飼い」の「見つけ出す喜び」を語っています。 「羊飼い」によって「見出される喜び」が、「羊」にはあると語っています。 そして、その「見失われた一匹の羊」を見つけ出したなら、喜んでその「羊」をかついで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて喜び合う「分かち合う喜び」を語っています。 なぜ、あなたたちは、その喜びを分かり合うことができないのかと、イエスは「不平を言いだした人たち」に語られたのです。 私たちは、このイエスの「見出される喜び」に生きることが赦されています。 このイエスの「見つけ出す喜び」に用いられて、「イエスの喜び」に生きていくことができるのです。
「危機に働かれる神」 エレミヤ書29章10~14節
「あなたたちのために立てた計画は平和の計画であって、災いの計画ではない。 将来と希望を与えるものである。」というこのみ言葉に耳を傾ければ傾けるほど、この神のご計画のすさまじさに驚かされます。 何年経とうが、どれほどの時間をかけようが、また私たちが思いつきもしない、考えもしないものを用いてでも、神はたったひとりの口に授けられたみ言葉だけによって、成し遂げられるお方であることがよく分かります。
小さな国であったユダの国は大国バビロンによって占領され、崩壊寸前でした。 ユダの国の有力者、職人や戦士たち一万人近い人たちが、エルサレムからバビロンに連れ去られたと言います。 その荒廃したエルサレムに、「わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべてを語れ。 わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す。」と、しり込みをするエレミヤを神は立てられたのです。 偽預言者や占い師たちは盛んに、「エルサレムは神に守られている。 バビロンがエルサレムから奪い取って行った神殿の祭具はすべて戻ってくる。 バビロンへ連行された人たちもまた、二年のうちには戻ってくる。」と語っていたのです。 この耳に心地よい彼らの言葉を、エルサレムの人々は信じていたのです。 今朝の聖書箇所は、そのバビロンの地にいる人々にエルサレムから書き送ったエレミヤの手紙の一部です。
その手紙の冒頭に、「イスラエルの神、万軍の主は言われる。 わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。」とあります。 神は、あなたがたは敵の国であるバビロンが自分たちを捕らえて、こんなところにまで連れて来たと嘆いているかもしれない。 そうではない。 私があなたがたを、エルサレムからバビロンに送ったのだと言っているのです。 「そこで、家を建てて住みなさい。 木を植えてその実を食べなさい。 人口を増やしなさい。 その町のために祈りなさい。」と言われているのです。 手紙を書き送られた人々は、敵の地で苦しみを味わい、すぐにでも故郷に戻りたいと熱望している人々です。 エレミヤの手紙は、慰めにも、励ましにもなりません。 しかし、神はエレミヤを通して、あなたがたの思い描く将来と希望は、神のみ心とは異なるものであるとはっきり告げるのです。 あなたがたがしがみついているものは、エルサレムの神殿や祭儀である。 自分自身の思い描く目に見える希望である。 神はそれらをことごとく砕いて、「バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。 わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。 これは平和の計画であって、災いの計画ではない。 将来と希望を与えるものである。」と方向転換を迫ったのです。 この七十年という時はいったい何でしょうか。 人々の目が開かれるに必要な時間でしょう。 神のみ言葉に聴き従わず、自分たちの思いを実現しようとした人々の目が開かれるために、またエルサレム神殿にすがり、かつてのダビデの権力にしがみついて耳が聞こえなくなってしまっている人々が砕かれるために必要な時間です。 その時が満ちるまで、備えなさい。 故郷に帰るまで、その町の繁栄を祈りなさいと言われたみ言葉は、バビロンを呪い、その滅びることだけを願っていた人々の思いを根底から覆すみ言葉でした。 神はみ言葉通り、別の大国ペルシャを用いてバビロンを滅ぼし、「捕囚の民を帰らせる。 呼び集める。 連れ戻す。」と言われたみ言葉を成し遂げられたのです。 エルサレムの破滅と苦難の道を越えて、エルサレムの人々の絶望を越えて、神はご自身の将来と希望へとみ言葉だけによって大転換させたのです。 壊し、砕く神は、耕し、植えて、建て上げる神です。 私たちの絶望が、神の希望へと生まれ変わるのです。 み言葉を遮るものが取り除かれ、自分の思いとはまるで違う生き方が与えられるのです。 これは、今あるもの、手にしているものからではなく、まったく新しい神のもとからくる恵みなのです。
「十字架のそばにいるイエスの母と弟子」 ヨハネによる福音書19章25~30節
イエスの人間としての地上での最後の時は、十字架にかけられている時でした。 最後の場所は処刑の場でした。 そこには、イエスを欺いて策を弄して告発した人々がいる。 処刑されているイエスを、ただ眺めているだけの人々がいる。 イエスの服を分け合う自分勝手な兵士たちがいる。 愚かに見える、みすぼらしく見えるイエスの姿を嘲り笑う人々がいる。 聖書は、そのような悲惨で、孤独で、残酷な十字架のすぐそばに、「イエスの母と母の姉妹、クロバの妻マリアとマグダラのマリアとが立っている。」と言います。 そして、「イエスの母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、イエスは呼びかけられた。」と言います。 怒号や叫び声が渦巻く騒がしい処刑のさ中に、イエスの小さな短いみ言葉が十字架の最後に語られたと聖書は語っています。 今まさに息を引き取ろうとしている十字架のうえのイエスが、母マリアに「婦人よ、御覧なさい。 あなたの子です。」 更に、幼い年齢であったので捕らえられる恐れがなかったのかもしれない「愛する弟子」に、「見なさい。 あなたの母です。」と言われたのです。 聴き取られたイエスのふたつの言葉はどういうことなのでしょうか。 これを聴き取ったイエスの愛弟子は、「そのときから、イエスの母を自分の家に引き取った。」と言うのです。 ご自分の死に及んで、自分の母を遺すことになる。 身近に頼れる人に、お母さんをよろしく頼むと言っているように聞こえる。 確かに、この愛弟子に母マリアを託したのでしょう。 だから、この弟子は、イエスの母を自分の家に引き取ったのでしょう。 しかし、考えてみてください。 この短いふたつの言葉を語り終えた後すぐに、イエスは「渇く。 成し遂げられた。」と言われて、頭を垂れて息を引き取られたのです。 その最後の瞬間に語られた言葉が、「婦人よ、御覧なさい。 あなたの子です。 見なさい。 あなたの母です。」という言葉なのです。 これがなければ、神のみ心は成し遂げられなかった。 このみ言葉が語られなければ、イエスは息を引き取ることができなかったと言わんばかりのイエスの言葉です。 十字架上の七つの言葉のうちの一つです。 なぜ、イエスは身内に向けた言葉と思われるような言葉を語られたのでしょうか。
人間的にみれば、人生の終わりの言葉でしょう。 しかしイエスにとっては同時に、父なる神のみ業の完成の時の言葉です。 我が子でありながら神の子であるという理解に苦しみながらも、神に委ねて養い、育ててきた母マリアに、この地上の最後の時に語る言葉です。 果たすべき私の責任は、この十字架に架けられてすべての者のために命を捨てることである。 あなたの子は、この十字架に架けられて神のみ業を果たす者である。 この「人」の死の終わりから、新しい「神の業」が始まる。 新しい神の家や神の家族が与えられる。 母マリアは改めて、イエスから「婦人よ、ごらんなさい。 あなたの子です。」と、「あなたは間違いなくわたしの母です」と呼ばれています。 まもなく私はよみがえらされて、すべての人のために新しい命を分け与えることになる。 新しい神の家族が産まれることになる。 これから、あなたを母と呼んでくれる新しい子が与えられると、「愛する弟子」の方へ眼を向けさせたのです。 その愛弟子に、「見なさい。 これがあなたの母です。」と言われて、新しい神の家族をつくり出されたのです。 終わりの時が始まりの時でした。 イエスが自分の死を父なる神に委ねたその時から、新しい神の民の歩みが始まったのです。 マリアは、我が子を失うことによって十字架による新しい神の家族の恵みを知りました。 この身内への最後の言葉こそ、まさに神のみ業の完成を意味するものであったのです。 イエスの十字架の最後は、身内へのとりなしの祈りでした。 新しく築き直してくださる神の家族への祈りでした。 イエスはご自身の家族を自らつくり出すと宣言されて息を引き取られたのです。 私たちもまた、神の恵みが成し遂げられたと語る者に変えられるのです。
「主なる神が養う群れ」 列王記上17章8~16節
預言者エリヤに神のみ言葉が臨みました。 「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。 わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」 エリヤにそう告げさせた神は同時に、エリヤに「身を隠せ。 移り住め。」と次々に指示を出します。 「ヨルダン川の東にある川のほとりに身を隠せ。 その川を飲むがよい。 わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」 そして、その川の水もまた涸れてしまったなら、今度は「その場を立ち去って、シドンに行き、そこに住め。 わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」と言うのです。 エリヤは、神が言われた通りに従いました。 エリヤもまた、この干ばつや飢饉と決して例外ではありませんでした。 移り住んで来た町で、ひとりのやもめの「二本の薪を拾っていた姿」にエリヤは神の導きに気づくのです。 わずかな水、わずかな薪、一切れのパンでも貴重であったほどに、困窮を極めた干ばつや飢饉の状況でした。 やもめと言えば、当時の男社会の中では貧しい存在の象徴のようなものでした。 とても私を支え養う力はない。 そうであるのに、神はこのひとりの女性に私を巡り合わせ、養わせようとする。 このやもめもまた、神によって養われる存在であるとエリヤは直感したのです。 ですから、エリヤは丁寧にこの女性に話しかけています。 「器に少々水をもって来て、わたしに飲ませてください。 パンも一切れ、手に持って来てください。」 しかし、現実はエリヤの思った以上に厳しいものでした。 やもめは「わたしには焼いたパンなどありません。 ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。 わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。 わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」と告白したのでした。
エリヤは確信しています。 このやもめとその息子と分かち合うべきものが尽きる瞬間に、私が遣わされた。 生活の糧の極限状況であったそこに、神のみ言葉だけを携えるこの私が遣わされた。 人の力ではどうすることもできないところに陥っているこの私たちが、神の働きに今用いられようとしている。 エリヤはそう確信して続けて言います。 「恐れてはならない。 神は『地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく 瓶の油はなくならない』と言っている。 神はみ言葉通りに必ずなさる。」と、エリヤは注意深く神によって選び出された一人の女性に語ったのです。 エリヤは、神のみ言葉だけしか持っていなかったのです。 やもめは、最後の小麦粉と油しかもっていなかったのです。 神はそうしたところに働かれるのです。 そこでしか味わうことのできない神の恵みを二人は味わったのです。 「壺の粉は尽きることなく 瓶の油は無くならない」と神が言われた通りになった後に、このやもめはエリヤに「あなたの口にある神の言葉は真実です。」と告白しています。 考えてみてください。 エリヤに神が「移り住みなさい」と言われた場所はシドンでした。 偶像礼拝の町でした。 エリヤがなぜですかと問うてもおかしくない場所です。 しかし、その偶像の町、神なきところに住んで呻いているひと組の親子がいる。 異教の地の渇いた魂のために移り住んで、最後の一握りの食べ物を分かち合いなさいと神は言われたのです。 神の恵みは、私たちの想像をはるかに越えたものです。 エリヤが霊の糧によって養われるためでした。 同時に、このやもめの親子がエリヤによって神の恵みを受け取るためでした。 その奇跡とも思える恵みが、「地の面に雨を降らせる日まで」続いたというのです。 必要なものが、必要な時に与えられ続けたのです。 神は驚くべき場所を準備して、驚くべき人の組み合わせを用いて、ご自身の群れをつくり上げていかれるのです。 エリヤは、恵みによって自分が養われるだけでなく、神によって合わせられる人とともに、神の恵みを分かち合う人に変えられていったのです。
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