「手を伸ばし捕まえてくださる主」 マタイによる福音書14章22~33節
女性と子どもたちを別にして、五千人の男たちに必要な食べ物を与え満足させたイエスを、群衆が放っておくわけがありません。 ヨハネによる福音書では、「人々はイエスのなさったしるしを見て、まさにこの人こそ、世に来られる預言者であると言い、イエスを王にするために連れて行こうとした」と書かれています。 イエスはそのことを察知して、「弟子たちを強いて舟に乗り込ませた。 その舟を向こう岸に先に向かわせた。 その間に群衆を解散させた。 そして、ご自身は祈るために山へ登られた。 そこに夕方になっても、ただひとり祈っておられた。」とあります。 イエスはご自分を英雄にし、王として担ぎ上げようとした群衆と、愛する弟子たちとを分けられたのです。 先に弟子たちだけを「向こう岸」に行かせて、ガリラヤ湖に舟を漕ぎ出させたのです。 舟は、荒れ狂う湖に翻弄されます。 夜じゅう、弟子たちは舟を進めようと奔走したのでしょう。 疲れ果て、途方に暮れて、ついに夜が明けてしまった。 その時です。 対岸からご覧になっていたイエスが近づいて来られた。 湖を歩くという、考えられない方法で近づいて来られたのです。 弟子たちは幽霊だと思って、恐怖のあまり叫び声を上げたと言います。 その弟子たちにイエスは語りかけるのです。 「安心しなさい。 わたしだ。 恐れることはない。」 このイエスの声に、嵐は一向に収まらないけれども、弟子たちは平安を取り戻すのです。
このマタイによる福音書が書かれたころは、教会は迫害と殉教の嵐の中にありました。 ユダヤ戦争でエルサレムを追われ、行き場を失っていました。 マタイは他の福音書にない「ペトロの姿」をここに書き加えています。 ペトロは、イエスの声を聞いて、イエスを見つけ出して喜んだのです。 何の支障もなかった時には、イエスの存在には無関心であった。 しかし、経験をしたことのないような嵐に出くわし、不安と恐れに取り囲まれて初めてイエスがいないことに気づいた。 その時にイエスの声を聞くことができた。 湖の上を歩いて近づいて来られるイエスに出会った。 ペトロは心から喜び、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と口走った。 イエスは「来なさい」と言われた。 その通り、ただイエスだけを見つめて湖の上をペトロは歩き出した。 しかし、しばしの間忘れていたすさまじい嵐の湖を見渡して、再び元の姿に戻ってしまった。 「主よ、助けてください」と叫んで、イエスに対する信頼を取り戻したそのペトロに、イエスはすぐに手を伸ばした。 すぐに捕まえた。 すぐに救い出して、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と語りかけられたのです。 これはペトロに対する叱責でしょうか。 そうとは思いません。 イエスはペトロの失敗を喜んでおられる。 でなければ、すぐに手を差し伸べ、捕まえられないだろう。 「なぜ疑ったのか」と憐れんで、抱きかかえて救い出されたのでしょう。 嵐や逆風を避けることが、私たちの選ぶ道でしょうか。 その困難な道にこそ、手を指し伸べ、捕まえ、執り成してくださるイエスが待っておられるのです。 ペトロの救いは、「恐れることはない」というイエスの呼びかけによって始まりました。 一向に収まらない嵐に目を奪われてイエスへの信頼を見失ったペトロを、イエスは目を決して離さなかった。 ずっと祈ってご覧になっていて、とりなしてくださったのです。 イエスとともに引き上げられて舟に乗り込んだ時に、嵐は静まったと書かれています。 乗るべき「舟」も用意されていた。 目指すべき「向こう岸」も定められていた。 渡るべきガリラヤ湖で「起こること」もすでに分かっていた。 嵐を起こすお方が、嵐を静められるのです。 順風であるのか、逆風であるのか、いったいだれが決めるのでしょうか。 今まで自分を支えてきたものがまったく通用しない「向こう岸」に向けてイエスに支えられて漕ぎ出した舟の中にいる弟子たちこそ、私たちの姿です。
「イエス・キリストの黙示」 ヨハネの黙示録1章1~3節
「ローマ皇帝を神とせよ。」と、皇帝礼拝を全国民に強要していた時代です。 紀元90年の中ごろから終わりにかけての時代です。 ローマ皇帝による激しいキリスト教徒への迫害があった時代です。 その時代に、ヨハネと名乗る人物が、パトモス島と呼ばれる島に流されていた。 「共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。 わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。」と自己紹介しています。 いわゆる島流しの刑でしょう。 ローマ皇帝は主であると告白するようにと強要されていた時に、「イエスが主である」と証言し、ローマ皇帝に従わなかった人物でしょう。 この時代背景、このヨハネが置かれている境遇を考えてみれば、この黙示録が極めて分かりづらく書かれていることは当たり前でしょう。 そのヨハネが、「この預言の言葉は、すぐにも起こるはずのことを、キリストを通して伝えられたものである。」と言っています。 そのことを、「イエス・キリストの黙示」と表現しています。 この「黙示」とは、分からないことが分かるようになる。 覆いが取り除かれるという意味です。 この預言の書は、神が覆いを取り除いて、私たちに隠されていたものを垣間見ることを許されたものである。 「隠されている真実が、イエス・キリストによって明らかにされたものである。」と語っているのです。
この黙示録を受け取ったのは、「アジア州にある七つの教会」です。 ローマ帝国による激しいキリスト教徒への迫害により、エルサレムから散らされて行った、苦しんでいるすべての教会の群れが受け取ったのです。 「本当に神はおられるのだろうか。 いったい、神はこのような状況の中で何をされているのだろうか。 何を考えておられるのだろうか。」と問いたくなるのが、それらの教会の群れの心境でしょう。 その苦しみの真っ只中にある群れに発信しているのは、「今、おられ、かつておられ、やがて来られるお方」です。 「玉座の前におられる七つの霊」です。 「死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリスト」ですと語られているのです。 「わたしはアルファであり、オメガである」と言われる永遠なる、全能者なる、創造者なる父なる神が語っている。 「有りて有る者」であると自ら語るそのお方が、イエス・キリストをお遣わしになって、自らの約束の賜物であるすべての「聖霊」をそのもとから注ぎ出して、永遠に私たちと共にいてくださると語っている。 この黙示録は、父なる神、霊なる神、神の子なるイエス・キリスト、一つなる神によって与えられたものであると語っているのです。
エジプト、ペルシャ、ローマ、バビロンすべての帝国は栄えては消えていってしまいました。 この世のどのような力が迫ってきたとしても、父なる神、霊なる神、子なる神はひとつとなって神のみこころを成し遂げてくださいます。 「恐れることはない。 この預言の書の言葉を語り、聞き、守る人たちは幸いである。 私の真の恵みと平和を受け取りなさい。」と語りかけてくださっているのです。 神さまを信じたのに、どうしてこのような目に遭わなければならないのか。 納得のいかない苦しみをどうして味なければならないのかと思うことがあるでしょう。 ローマとの戦いに敗れたユダヤの人々が、その都エルサレムを失い、難民となってアジア州に逃れて行ったのです。 そこでもローマ皇帝を崇めないで、屈しないで信仰を守ったのです。 そのひとりひとりに、神は、ローマ皇帝がこの世を支配しているのではない。 神ご自身が霊を注いで、イエス・キリストを遣わして、隠れて支配しておられる。 その完成のためにイエス・キリストとして、「やがて来られる」のです。 見せかけの反映に目を奪われてはならない。 迫害の嵐が吹きすさんでいたとしても、今は目にすることも耳にすることもできない涙も死もない神の国が備えられているのです。
「手を伸ばしなさい」 マタイによる福音書12章9~21節
ユダヤ教のなかでは、「安息日を守る」ことは律法の中でももっとも大切な戒めのひとつであったようです。 創世記には、「天地万物は完成された。 第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」と記されています。 主がご自分の仕事を離れ、創造の業の手を休め安息され、取り分けられ、祝福された特別の日であるから、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。 他の日と区別し、特別な日としなさい。 いかなる仕事もしてはならない。」と、人々は戒められていたのです。 ところが、イエスという名のナザレ人を先頭にして、律法に囚われないで「安息日」を過ごしている群れが突然現れ出てきたのです。 人々は、イエスを訴えようとします。 殺そうと相談します。 イエスが会堂に入られた時も、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか。」と、人々がイエスを訴える口実を得るために迫ってきたのです。 イエスは、細かい律法解釈の論争などをはるかに越えて大胆に行動します。 「安息日に穴に落ちた一匹の羊を手で引き上げて助けてやらない者がいるだろうか。 それが人間であるなら、なおさらであろう。」とイエスは語って、会堂で目に留まった「片手の萎えた人」に向けて言うのです。 「手を伸ばしなさい」 イエスは語るだけでなく、「安息日」に病気を癒すことは律法違反であると抗議する人の目の前で、敢えて癒されたのです。 人々にとっては、「片手の萎えた人」とは、「穴に落ちた羊」より、社会的に価値のない存在であったかもしれない。 しかし、イエスにとっては決してそうではない。 迷い出た一匹の羊のように、憐れみをもって捜し出し、救い出すべき存在です。
イエスの言う「安息日に穴に落ちた羊」とは、この会堂に足を運んでいる「片手の萎えた人」のことでしょう。 人々から疎まれ、排除されていた人であったに違いない。 マルコによる福音書ではもっと激しく、イエスは大胆に行動されたと書かれている。 手の萎えた人に「人々の真ん中に立ちなさい。」と言われて、「安息日に律法で許されているのは、命を救うことか。 殺すことか。」と、抗議している人々に迫ったと言います。 だれも答えず沈黙している人々を怒って見回して、人のかたくなな心を悲しんで、その「片手の萎えた人」に「手を伸ばしなさい」と言われたのです。 イエスは、神のみ心から引き離そうとするこの世の力に激しく怒り、それによって虐げられている人を憐れんで、悲しんで手を差し伸べられたのです。 公然と、神の罰を受けた者とみなされていた「片手の萎えた人」の手を治されたのです。 人々にとっては、してはならないことです。 イエスのとっては、正面切った挑戦です。 神から与えられる真の「平安、祝福」に、日の区別などはない、直ちに与えられるものです。 強力な抗議のある真っ只中であったとしても与えられると、「安息日は人のために定められた。 人が安息日のためにあるのではない。」とイエスは主張しておられるのです。 創造の業を為し遂げてくださった神を仰いで、そのみ言葉を聞いて、本当の「平安、祝福」を私たちが得るためです。 父なる神の真の「平安、祝福」を受け取りなさい。 「手を伸ばしなさい」と「安息日の主」としてイエスは言われたのです。 「萎えて衰えてしまっている手、諦めてしまっているその手」を差し出すのです。 「隠して引っ込めている手、何もしないで死んでしまっているその手」を、もう一方の手と同じように変えていただくために、憐れんで、悲しんで、怒って呼びかけてくださった主に差し出すのです。 「安息日」は、真の「平安、祝福」を取り戻す大事な時です。 今まで価値がないと思われていたその手が生き返って、「礼拝し、賛美し、祈る」手に変えられるのです。 私たちは「安息日」に何をしないで、何をすべきであるのかを祈って、神の「平安、祝福」を受け取り損ねてはならないように思います。
「聖霊によるバプテスマ」 マルコによる福音書1章4~11節
マルコによる福音書はイエスの誕生からではなく、イエスがヨルダン川で水にご自身の体を浸めてバプテスマを受けたところから書き始めます。 また、もともとのマルコによる福音書は、その終わりについても、十字架にかかられて死んだ後のイエスについては記されていないのです。 その理由は、十二弟子たちとともにした歴史上のイエスではなく、父なる神によって「死」からよみがえらされて「神の子」とされたイエスが語る福音を伝えているのでしょう。 そうすると、このヨルダン川でイエスが受けられたバプテスマの意味合いが少し違って響いてきます。 「イエスはガリラヤのナザレから、ヨルダン川に来た」と言います。 イエスは故郷ナザレを出て、家族と離れて、ヨルダン川の水の中に体を浸めるために出て来られたのです。 「イエスがこのバプテスマを受けたその時、イエスに聖霊が降った」と、四つの福音書すべてが語っています。 このヨルダン川でイエスがバプテスマを受けた後すぐに、父なる神から『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と宣言されたと言うのです。 水の中に浸められたイエスが、再び水の中から引き上げられ、イエスのからだが「死」から「命」へと引き上げられた。 「死」の中から引き起こされ、立ち上がったイエスが神の子である。 死んでよみがえられたイエスが神の子であると、父なる神の霊によって宣言されているのです。 ですから、マルコは、イエスの生い立ちや家族や家庭のことにほとんど関心をもっていないのです。 復活された後のイエスこそこの福音書に語られているイエスであると、冒頭に宣言しているのです。
バプテスマのヨハネが語る「水によるバプテスマ」は、「悔い改めにふさわしい実を結べ。」という、「罪の赦しを得させるための悔い改めのバプテスマ」でした。 罪の悔い改めをする必要のないイエスがなぜ、このバプテスマを受けたのかということです。 もちろん、イエスが罪人とともにその中に入って、一緒にその罪を担おうとしてくださった。 その罪による絶望や悲しみや苦しみを一緒に味わってくださったのです。 しかし、そのこととともに、イエスはこの「水によるバプテスマ」を受けることによって、神の子であることの自覚を求められ、特別な使命を受けられたのです。 そのために、父なる神から直接、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と聖霊を受けられたのです。 イエスご自身は十字架にかけられることを、「わたしの飲む杯」、「わたしが受けるバプテスマ」(マルコ10:38)と表現しています。 この特別な使命を与えられたその時すぐに、「天が裂けて霊が降ってきた」のです。 「天が裂ける」とは、神の世界と私たちの世界を妨げていた「私たちの罪」が消えてなくなったということです。 イエスが故郷を捨てて、真の故郷、真の家族を求めて、新しい務めに立ち上がり、ヨルダン川に出て来られた。 罪人の群れに自らを置かれて、バプテスマのヨハネの授けるバプテスマを受けてご自身の命をささげられたのです。 そのイエスを、今度は、父なる神が「聖霊によってバプテスマ」を授けるお方にされたのです。 バプテスマのヨハネがそのことを、「わたしよりも優れた方が、後から来られる。 わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 わたしは水であなたたちにバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる。」と証言しているのです。 聖霊はみ言葉を信じる者の中に働いて、み心を実現させる力です。 復活したイエス・キリストと一つに結び合わせる力です。 これが私たちの内に働いて、復活したイエス・キリストの姿を現わすようになる。 考えてもみない力を発揮させるのです。 弟子たちに聖霊が降った時こそ、「聖霊によるバプテスマ」を授けられた時です。 それまで家の中に閉じこもっていた弟子たちが、「十字架につけられたキリスト」を大胆に証しし始めたのです。 私たちにもまた、「天の父は求める者には聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)と約束されているのです。
「新しい恵みの契約」 イザヤ書43章1~7節
バビロンという異国の民によって捕らえられ、もうどうしようもないと現実の状態に諦めて、無気力のうちに漂い失望落胆している同胞のイスラエルの人々に、預言者イザヤが希望を訴えています。 「奪おうとしたバビロンにイスラエルを渡し、委ねたのはだれか。 それは主ではないか。 私たちの神がそうされたのではないか。 私たちは、主の道を歩もうとせず、その教えに聞き従おうとしなかった。 主の激しい怒りの炎に囲まれても、私たちの中には悟る者はなく、気づく者はいなかった。 しかし、今やついに、神が私たちのこの絶望のところにまで降りてきてくださって介入される。 忍耐に忍耐を重ねてついに今、人知を越えた方法で、望みが失われたこの状況を癒される時が来た。」とイザヤは、霊的にも、信仰的にもどん底の状態にあったイスラエルの人々に、そのことに気づいていない、気づこうともしないイスラエルの人々に、新しい契約の始まりを訴えるのです。 「ヤコブよ、あなたを創造された主は」と呼びかけます。 「イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。」と呼びかけます。 「ヤコブよ、イスラエルよ」と、直接ひとりひとりに、そしてその群れに呼びかけます。 イザヤは、「あなたを創造された主である。 あなたの群れを造り上げた主である。 あなたの命の所有者として、その命に対する責任を負っておられるお方である。 そのお方が、あなたをそしてあなたがたの群れを造り放しにするわけがない。 そのお方が、あなたたちの過ちのためにこのような状態に置かれている。 かつてのエジプトからの脱出の際のことを思い出すがよい。 水の中を通る時も、大河の中を通っても押し流されなかったではないか。 火の中を歩くような時でも燃えつかなかったではないか。 どれほど、破れに破れていたとしても、どんなところに落ち込んでいたとしても、そうさせておられるのは、あなたの神、あなたがたの神である。 その神が、あなたたちを放っておくはずがない。 神ご自身が『あなたの救い主』とまで言ってくださっている。 『わたしの目にあなたは価高く、貴い』とまで言ってくださっている。 だから、神は相当な代価を払ってでも、『わたしはあなたを贖う。 あなたはわたしのもの』とまで言ってくださっている。 贖い主として、ついにこの絶望的な状態の中に打って入ってくださる時が来たのである。」と訴えているのです。
聖書の言う「贖う」とは、代価を払って買い取るということです。 自分たちの先祖が、あるいは自分たちが神のもとを離れて、神なしに生きていこうとしたその過ちを、神ご自身が貴い代価を払ってきれいにしてくださる。 「罪が赦される」、「罪から解放される」ということでしょう。 しかし、もうひとつの意味があります。 神なしに生きていくようにと誘い、縛り、私たちを牛耳ってしまうこの世の力から、神ご自身がかけがえのない代価を払って解放してくださる。 人間ではどうすることもできない罪と死の支配から解放されて自由になる。 「人が買い取られて、解放される」ということでしょう。 聖書は、「人が贖われる」のは「罪が贖われる」ことによって起こされると言っているのです。 人が本当に解放されるのは、罪が赦されることによって、神に愛されていることを心底知った時である。 私たちは代価が払われて、身代金が払われて買い取られたのである。 だから、「わたしの目にあなたは価高く、貴い。」 「わたしはあなたを贖う。 あなたはわたしのもの」 「わたしはあなたと共にいる」と言ってくださっているのです。 パウロは言っています。 私たちは罪が赦されて、どうにもならないがんじがらめに縛られているこのからだから解放されて、自由を与えられたのである。 これがイエス・キリストの十字架で流してくださった血、尊い代価によって贖われた、神が一方的に結んでくださった「新しい恵みの契約」であると、パウロは命がけで主張したのです。
「神の約束に生きる者」 ローマの信徒への手紙4章13~25節
パウロはイエス・キリストに出会って、古い信仰から新しい信仰へ大転換した人物です。 努力して学び取った律法という神の戒めを堅く守り、生涯をかけて行い通すことによって神の救いにあずかろう。 神の国に入る資格を得よう。 永遠の命に与かるよう自分自身を造り上げていこうとする古い信仰から、「恵みにより、信仰によって救われた」(エフェソ2:20)と告白する新しい信仰にパウロは導かれたのでした。 当時のユダヤ教の社会では革命的な信仰でした。 このパウロが命がけで告げた新しい信仰を、今日の聖書箇所で旧約聖書にあるアブラハムの信仰によって説明しています。 「アブラハムは希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、神を信じた。 死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させるお方として、神を信じた。 アブラハムは不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。」とまでパウロはアブラハムの信仰を表現しています。
パウロが語るような堅い信仰を、アブラハムは持ち続けていたのでしょうか。 アブラハムは、神に約束の地と言われたカナン地方には、カナン人が住み着いていたことを知り、更なる地を求めて通り過ぎて行きました。 何年経っても子供が与えられず、「百歳の男に子供が生まれるだろうか。 九十歳の妻に子供が産めるだろうか」と、神の約束を疑いました。 知恵を用いて策を弄して、神の祝福と自分の前に横たわる厳しい現実に耐えかねて、折り合いをつけ繕おうとしました。 しかし、パウロは、アブラハムの信仰が堅いものであったから、神のみ言葉がアブラハムのうえに成し遂げられたとは言っていないのです。 アブラハムへの「あなたを祝福し、すべての民の祝福の源とする。」という神の約束の言葉は、アブラハムの信仰の状態によって左右されるようなものではない。 神のみ言葉は、人間の側の不信仰によって遮られたり、消えてなくなるような不確かなものではない。 神ご自身は、自らの言葉だけによってみ心を成し遂げる。 神が自らの言葉を実現させるために、人を選び出し用いられる。 神の約束を果たすために、何もなかったところに私たちの信仰を産み出し、導き起こすのであると言うのです。 私たちの信仰が、神の約束を実現するのではありません。 神の約束のみ言葉は一方的な恵みから、憐れみから、ご愛から出ているものです。 アブラハムは途中がどうであれ、その神のみ言葉を聞いて、言われた通りに従って行こうとしたのです。 神は自らの約束を果たすために、アブラハムを用いて、アブラハムの信仰が無くならないように、憐れみとご愛によって守り導いてくださったとパウロは言っているのです。
アブラハムの信仰は、神のみ言葉、神の約束に従った信仰です。 仮住まいのような旅の連続、不信仰に揺れる生涯であったとしても、「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた」アブラハムの信仰であったとパウロは言うのです。 将来に希望をもつことができない、期待することができない状況の中で、神の約束、希望に立ったと言っているのです。 私たちが抱く希望は、望むことができるような時に望む希望でしょう。 何とかなりそうな時にもつ希望でしょう。 しかし、望みが絶たれてしまっていると思われる時に抱く望みこそ、神の約束の恵みにすがる「信仰による希望」でしょう。 アブラハムはまったく希望が見えていないときに、神の約束の言葉だけを根拠に、「自分の希望に逆らって、神の約束の希望に立った。」 アブラハムの姿がどのようなものであれ、神の約束は果たされる。 神の約束は、「神の一方的な恵み」だとパウロは言うのです。 私たちの信仰ですら、神の恵みによって与えられているものです。 自分で勝ち取っているものではありません。 「恵みによって与えられる信仰」です。 これが、神が約束を果たす時に、み言葉を成し遂げるために起こされると聖書は語っています。
「キリストに属する者」 ローマの信徒への手紙8章1~9節
ローマの信徒への手紙の第8章は、キリスト者に与えられる「神の恵み」が凝縮して記されていると言われています。 パウロは、神によって与えられた律法の戒めを堅く守ることによって神の恵みに与かることに熱心な人物で、生涯をかけていました。 そのパウロが嘆いているのです。 「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょう。」とまで、悲痛な叫びを口にしています。 自分が思うようなことをせず、自分がしてはならないと思っていることばかりをする。 どうにもならない、死に定められた体をもつ者である。 滅びゆく「罪と死とによって支配されている」人間であると告白しているのです。 そうした絶望のどん底から、この悲痛な叫びとともにパウロは語るのです。 そうであるけれども、キリスト者となったこの私は、「主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」 絶望するまでに至ったこの私であるけれども、このキリスト者となったこの私には、感謝が与えられている。 その感謝の理由が、この第8章で語られている「神の恵み」なのです。
パウロが語っている「神の最高の恵み」は、大きくまとめて三つあると言います。 一つは、「今や、キリスト・イエスによって罪と死から解放された」ことである。 次に、「神の霊が、言葉に表せないうめきをもって私たちを執り成してくださっている」ことである。 最後に、「キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちをどんなものも、どんなところでも引き離すことができない」ことであると語っているのです。 キリストの福音を聞いて受け取った私たちに与えられている「神の恵み」とは、キリストによって罪と死から解放されているということ、神の霊によって生かされているということ、神の愛によって覆われているということである。 この「神の恵み」に、私たちは生かされているとパウロは言っているのです。 パウロは、「わたしがしていることが分かりません。 自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする。 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」と自分に絶望しています。 自分たち人間には、神に背かせる力が働いている。 生まれながらの人間のままでは、自分の力だけでは神が求めておられることを行うことがどうしてもできないし、神のもとに立ち帰ることができない。 果たそうとすればするほど、自分に絶望してしまう。 罪と死の支配によって、私たちは閉じ込められている。 その絶望のうえに立って、「神の恵み」を実体験したパウロは言うのです。 「主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」 なぜなら、「今や、キリスト・イエスに結ばれているのは、この罪と死の支配からキリスト・イエスによって解放されている」からだ。 「キリスト・イエスによって命をもたらす霊によって解放されている」からだと言うのです。 イエスご自身の生涯を思い起こしてみてください。 パウロが絶望している「からだ」、罪を犯そうとすればいつでも犯すことができる「からだ」をもって、十字架の死によって地上の生涯を終えるその時まで、悪の霊との戦いの連続でした。 私たちと同じ揺れ動く「からだ」をもちながら、悪の霊に身を委ねず、神の求めておられることだけを成し遂げてくださったイエス・キリストという、神の霊が働く特別な場所を神は「初穂」として用意してくださったのです。 神の霊は、私たちが獲得したり、所有したり、保管しておくことのできないものです。 私たちは、ただ神の霊の働きを受け取るだけです。 私たちキリスト者は、キリスト・イエスによって解放の実体験を現実のものとして受け取ることができるようになったのです。 パウロは、このことを「キリストの霊を持つ者」、「キリストに結ばれている者」と言います。 「キリストの霊があなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、キリスト・イエスによって命をもたらす霊によって生きる。」と言うのです。
「今日、実現した解放」 ルカによる福音書4章16~21節
人々が安息日に集まり、聖書を読み、宣教の話を聞き、祈った場所が「会堂」でした。 ガリラヤのナザレという村にも、この小さな「会堂」があったのでしょう。 人々は、イエスが語られたみ言葉によって励まされました。 イエスがなされた癒しの業に驚かされ、人々のからだが癒されました。 「イエスの評判が周りの地方一帯に広まった。 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」と書かれています。 人々はこのような人物を本当に待ち望んでいたのです。 神は必ず救い主を遣わして、自分たちのこの苦しい生活を助けてくださると言い伝えられていたのです。 評判になっていたそのイエスが、「いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。」 その時のイエスの姿は、「霊の力に満ちていた」と言います。 「教会」は人が集まって、聖書が読まれ、賛美がされて、祈りが為されていたとしても、それだけでは教会とはなりません。 そこにキリストが立っておられて、キリストの霊によって導かれてみ言葉が語られ、そのみ言葉が信仰によって受け取られ、そこから力を与えられなければ「教会」にはならないのです。 イエスは「霊の力に満ちて」、そうした人々の期待の前に立たれたのです。 イエスはイザヤ書61章の1節と2節だけを読まれました。 「主の霊がわたしの上におられる。 その理由は、貧しい人に福音を告げるためである。 捕らわれている人を解放するためである。 目の見えない人に視力の回復を告げるためである。 圧迫されている人を自由にするためである。 主の恵みの年を告げるためである。」 そう読み終わられてイエスは、会堂にいるすべての人の目が注がれるその場で語られたのです。 そのみ言葉が、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」というものでした。 これはいったい、どういうことでしょうか。
信仰は神のみ言葉を聞くことから始まる。 このみ言葉があなたがたの内に宿る。 私が父から受けている「霊」が、あなたがたに分け与えられる。 あなたがたは神の国に迎えられて、もうすでに神の恵みによって生きる者となる。 あなたは今日、すでに神の国にいる喜びを味わう者になるとイエスは言うのです。 この父なる神の「霊」を分け与えることができるお方は、よみがえられたイエス・キリストだけです。 誰も与えることができないし、誰もこの「霊」を受け取る資格などありません。 しかし、ただこのみ言葉を受け取って、信じて、心砕かれて、ひれ伏す者にだけには、だれにでも例外なく、恵みとして与えられる。 だからあなたがたは今日、耳にしたみ言葉を信じて受け取るなら、この恵みだけが支配する世界が今日始まる。 あなたの救いは今日、ここに実現した。 恵みがすでに与えられたとイエスはこの小さな「会堂」で言われたのです。
このナザレの小さな「会堂」で宣言されたイエスのみ言葉を、私たちは本当に解放の時が来たという約束の言葉として受け止めているでしょうか。 神のみ言葉は力です。 神の口から出るみ言葉は必ず成し遂げられるのです。 私たちに恵みとして与えられる「解放、救い」とは、人を神から引き離そうとする力、「悪の霊からの解放」でしょう。 ただ「恵み」として与えようとする神の「解放、救い」を素直に受け取ろうとしない「自分自身からの解放」でしょう。 自分を砕くどころか、築き上げた自分にしがみつき誇る「自分自身からの解放」でしょう。 一喜一憂する「からだ」に囚われない、「霊なるからだ」に変えられるという「不安からの解放」でしょう。 私たち自分自身の力ではどうすることもできないこと、イエス・キリストを通して与えられる「神の霊」によらなければできないことばかりです。 私たちはこのイエス・キリストによって解放された民です。 イエス・キリストは神でありながら人となり、人でありながら奴隷となって、私たちの「解放、救い」のために犠牲となり、仕えてくださったのです。 このお方とともに、私たちは歩むのです。
「いっさいを創り出す神」 イザヤ書45章2~8節
神が預言者イザヤを通して、キュロスという人物に語りかけています。 ペルシャ帝国の初代の王です。 神ご自身を知らない、異教の神を礼拝するキュロスを神はなぜ「油注がれた者」として成功を治めさせ、惜しみなく助けたのでしょうか。 その理由が、「キュロス王自身が、神を知るようになるため」、「イスラエルの民が、イスラエルの神であることを知るため」、「日の昇るところから日の沈むところまで、すべての人々が、わたしが主、ほかにいない。 わたしをおいて神はいないことを知るため」であったと書かれているのです。 次々と諸国を征服していったペルシャの英雄的存在となったキュロスは、征服した民族の伝統を尊重し、宗教の自由を認めたのです。 バビロニアに征服されて、捕らえられていたイスラエルの民も例外ではありませんでした。 キュロスによって、イスラエルの民がバビロニアから解放され、エルサレムに帰り、神殿を再興することが許されたのです。 神はご自身を全く知らない異邦人の王でさえも救いのみ業のために用いて、本人にも、イスラエルの民にも、すべての人々にも「わたしが主、わたしのほかにいない。」と言われる真の神を示されたのです。
7節に「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。 わたしが、これらのことをするものである。」と神は言います。 まったく正反対のものである「光」と「闇」、「平和」と「災い」それらいっさいのものを創り上げる神である。 その神は、「これらのことをするものである。 ことを起こすものである。 ことを為すものである。 創るものである。 働きそのものである。」と神は言っているのです。 イザヤは気づいたのです。 バビロニアに捕らえられ、閉じ込められていた自分たちが、異国の王によって解放された。 自分たちだけでなく、異邦人にも、すべての人々にも「わたしが主である。 いっさいのものをなすものである。」ということを神ご自身が示された。 神は万物を存在させる、創り上げる働きそのものであるということに気づかされたのです。 「闇」や「災い」だけを見ていたのでは、いっさいのものを創り上げる神を見ることはできません。 イザヤは自分たちが無数に体験する神の働きの一つずつを結び合わせて、その全体を見出し、「わたしが主である。 いっさいのものをなすものである。」と言われる真の神を見出したのです。 8節に「地が開いて、救いが実を結ぶように。 恵みの業が共に芽生えるように。 わたしは主、それを創造する。」と神は約束されました。 「わたしは初めであり、終わりである。 わたしをおいて神はいない。」(イザヤ44:6)と宣言された神が、初めに天地を創造し、終わりに救いの歴史を完成させると約束されているのです。 最初の人間アダムから始まった、神のもとを離れてしまった人間の罪の歴史があります。 ノアを起こし、アブラハムを立て、モーセを用いて、何度も繰り返して神のもとに立ち戻るようにと呼び戻してくださった神の救い、解放の働きの歴史があります。 しかし、終わりには、この神が力によってではなく、み言葉によって働かれる神である。 片隅に生きている小さな民をわざわざ用いて働かれる神である。 「弱い者、苦しむ者、悲しむ者、貧しい者」にまでご自身を落とし込んで、「苦難の僕」を遣わして、この救いの歴史の総仕上げをしようとされていることにイザヤは気づいたのです。 その「苦難の僕」こそ、ナザレの人イエスです。 十字架に架けられて死刑とされたイエスです。 その死んで葬られたイエスをよみがえらせ、私たち人間の「初穂」として神の子として引き上げられたのです。 このよみがえられて、今も働いておられる神の子、イエス・キリストを用いて救いの歴史を完成されようとしておられる。 このイエス・キリストが再び来られる時、その時が救いの完成の時である。 これが、終わりの日に完成される救いの創造の業であるとイザヤは気づいて語ったのです。
「箱舟から出て行くノアとその家族」 創世記8章15~22節
ノアは、神のみ言葉に耳を傾けることのできた人でした。 都合のいいつまみぐいのみ言葉だけでなく、神のすべての命令に従った人でした。 最初の神の命令は、「箱舟をつくる」ことでした。 なぜ今、このようなものを造らなければならないのか理解できない命令です。 「箱舟」は、神が緻密に設計し、造ることをノアに託したものです。 洪水が果てるまで、神がみ心を留めた群れを自ら扉を閉めて閉じ込めておくためのものです。 大洪水という滅びの宣言の只中にあって、それから避難し漂うための「救いの箱舟」でしょう。 その次に神は二番目の命令で、「箱舟に入りなさい」と命じられたのです。 このみ言葉に応えた人は、ノアとその家族8人だけであったと言います。 「箱舟」の外にいた人たちとは、神が命じられたようにノアが箱舟を造っている傍らで、神のみ言葉を聞くこともなく、むしろノアを哀れな者と蔑んで相手にしなかった人たちです。 「食べたり、飲んだり、めとったり、嫁いだり」、この世のことにしか目が留まらない人たちです。 神は三番目に、「この箱舟に留まるように」と、沈黙をもって語られたのです。 神の命令に従うためには、「箱舟」に乗り込まなくてはならなかった。 神が起こされる出来事から避難して漂うためには、「箱舟」に留まっていなければならなかった。 神が為し遂げてくださる出来事の後に備えられた新しい世界を見るためには、神の時を待たなければならなかったのです。 み言葉を聞いているだけでは、神のみ心を知ることはできません。 用意された新しい恵みを味わうこともできません。 人の言葉が、神のみ言葉の邪魔をするのです。 人の思いが、神の思いを見えなくするのです。 神のみ言葉を聞いて、立ち上がって、従って、神が用意されたものに入り込んで、そこに留まって、委ねなければ、神の用意された「救い、恵み」に辿りつかないのです。
「さあ、皆一緒に箱舟から出なさい。」という最後の命令が、洪水の前と同じ神の祝福とともに語られました。 神の祝福は、人の勝手なふるまい、身勝手な期待を洪水によってことごとく打ち砕いた後も変わりなく続く。 「さあ、家族とともに、託された生き物とともに一緒に新しい世界を築きなさい」と、ノアが築いた祭壇とささげられた献げものをご覧になって語られたのです。 ノアがささげたものは、人が犯してきた過ちの贖いでしょう。 残された者の救いに対する感謝と賛美でしょう。 神が用意された洪水後の新しい世界での歩みへの献身の祈りでしょう。 神はそこで「人が心に宿す思いは変わらないだろう。 しかし、わたしはこの度したように生き物をことごとく打つことは二度とすまい。」とご自身に誓われたのです。 神は私たちのこの世界を変えるのではなく、新しい救いの恵みを与えるとご自身を変えてくださったのです。 「裁き」から「赦し」へ、「滅亡」から「救い」への大転換です。 このノアとの契約、アブラハムとの契約、モーセとの契約、ダビデの契約を通して、イエス・キリストの十字架の贖いによって成し遂げられた「赦し」の新しい契約です。 目に見える「洪水」に目を惑わされてはなりません。 不信仰な私たちの傲慢、身勝手な期待を打ち砕く「祝福の中断」です。 神が命じられるまでそこに留まるとようにという「待つ試練」です。 待ち切れず、ノアは烏を飛ばし、鳩を飛ばして、水が渇いていることを確かめようとしました。 しかし、ノアは、自らの思いでは動きませんでした。 ノアたちが約一年もの間、そこに留まり耐えることができたのはノアの信仰ではありません。 神が心に留めてくださったからです。 「洪水」は滅びではありません。 再び造り上げるための試練です。 人間がこの「洪水」によって変えられたのではありません。 神が「赦し」へ、「救い」へと、新しい恵みを与えてくださったからです。 神のみ言葉を待つことです。 み言葉に聞くことができたなら、立ち上がって動くことです。 留まり続けた所が備えられた新しい恵みの世界です。
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