「心に注がれる神の愛」 ローマの信徒への手紙5章1~11節
パウロは、「わたしたちは信仰によって、またイエス・キリストによって、神との間に平和を得ている。」 「わたしたちは、イエス・キリストのお蔭で、信仰によって今の恵みに導き入れられている。」と言います。 「平和」と訳されているこの言葉(シャローム)は、戦争をしていないとか、争いをしていないとか、安心や安全という個人的な心の状態を示したものではありません。 神の恵みと祝福に満たされている状態、「キリストを通して神と和解させていただいた今」の状態を、パウロは喜びをもって語っている言葉です。 私たちが今味わっているこの不思議さと驚きと喜びを、理路整然と語ることができません。 そのもどかしさを憶えます。 しかし、パウロは、「信仰によって、イエス・キリストによって満たされている」と言います。 これは、私たちの中にあるものではありません。 神から与えられるものです。 「わたしたちに与えられる聖霊によって満たされている」とパウロは言います。 神のもとからくる霊だけが、このことを示すことができる。 その理由は、「この神との間の平和、今の恵みは、わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」とパウロは告白しているのです。
パウロは、私たちが「神の愛」を知っているから、「神の愛」を理解しているから、「神との間の平和、今の恵み」に至っている、満たされているとは言っていないのです。 「神の愛」が、私たちの心に注がれているからだと言うのです。 私たちが、その「神の愛」に気づいているかどうかです。 パウロはいったいどこから、そのような確信を得たのでしょうか。 自分自身の体験です。 定められた戒めを徹底的に守ることによって、神の前に自らの正しさを示そうとしたかつてのパウロでした。 戒めを守ることのできない人々を激しく排斥したパウロでした。 まさに、神に敵対する者、神から遠く離れていた者でした。 そのパウロが出会ったものは、イエス・キリストの「十字架の赦し」でした。 自らが神となろうとして神に背いた者は、神の赦しがなければ神のもとに帰ることができないでしょう。 そのための「和解」を、神が一方的に準備をしてくださっていたことにパウロは気づいたのです。 赦される資格のない者のために準備された和解の恵みが、イエス・キリストの十字架でした。 パウロは、この敵対する自分のような者にまでもイエス・キリストは死んでくださったことを知ったのです。 それが、私たちに示された無条件の「神の愛」であることを、聖霊によって知ったのです。 そこから、パウロは新しく造り変えられました。 このことを、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」(コリント二5:17)と表現しています。 このことを知ったのは、偶然でもなければ自分の努力でもない。「信仰によって」、「イエス・キリストによって」、「わたしたちに与えられている聖霊によって」、「神の愛がわたしたちの心の中に注がれていることを知らされたからです。」と告白しています。 ひとりの人物を根底から、突然、決定的に変えてしまうほどの「神の愛」です。 不信心な者のためにも死んでくださった、神のもとを離れてしまった敵でさえあった者のためにも死んでくださった「十字架に示された具体的な神の愛」です。 その「神の愛」が、信じている者のそれぞれの生涯を支えてくださっている。 それが、「神との間に得ている平和である。 今の恵みである。」と語っているのです。 この神の恵みには、苦難もまた含まれるとパウロは言います。 「苦難は不平を生み、不平は恨みを生み、恨みは絶望を生み、絶望はいやされることがない。」 これが世の常でしょう。 しかし、パウロは、「苦難を喜びとします。 苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。」と言います。 それは、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているから」と言います。 その源である神ご自身を、パウロは「誇りとします。 喜びとします。」と賛美しているのです。
「み心が行われますように」 マタイによる福音書26章36~46節
イエス・キリストの「祈りの姿」が記されています。 弟子たちとともに最後の晩餐を終えた後の時です。 この福音書の表現では、「悲しみもだえはじめられた。 わたしは死ぬばかりに悲しい。」とあります。 「うつ伏せになられた」とも書かれています。 うつ伏せになったまま祈る姿とは、絶望でしょう。 なすす術がなく、呆然とうずくまっている姿でしょう。 弟子たちに恥ずかしげもなくその姿を見せて、その言葉を洩らしておられます。 イエスはそれと同時に、「ここに座っていなさい。 ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」と語りかけ、共に祈ることを願っておられます。 どこの世界に、指導者として仰ぐ人物が「わたしは死ぬばかりに悲しい」ともだえ苦しむ、死を直前にした姿をその弟子たちの前で見せるでしょうか。 死を恐れることなく、毅然として自らの死を迎える姿こそ、指導者の姿ではないでしょうか。
ところが、一緒に祈るはずの弟子たちは、睡魔に襲われて眠っていた。 その有様を見たイエスは、「あなたがたはこのように、わずかな一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」と言われたのです。 祈ることを知らなかった弟たちに、神を「父よ」と呼びかけて祈ることを、イエスが「父よ」と呼びかけて祈るその神にイエスの名によって祈ること、そして「求めなさい。 探しなさい。 門をたたきなさい。」と熱心に祈ることをイエスは教えられました。 そうすれば、「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者は開かれる。 あなたがたの父は求める者に聖霊を与えてくださる。」と言われたのです。 聖霊とは何ですか。 神を知る力です。 神が赦して、受け入れて、愛してくださっていると体をもって味わうことのできる力です。 イエスに注がれた神の愛です。 祈り求める者に必ず注ぎ、生まれ変わらせることができる神の愛です。 その体験を。「わたしとともに目を覚まして祈りながら、味わいなさい。」と語りかけてくださっているのではないでしょうか。
共に祈るはずの弟子たちは眠り込んでいます。 ひとり孤独に祈るイエスです。 この時、イエスが三度にもわたって祈る間、神は無言です。 神の沈黙です。 その時の最初の祈りに、「主よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 しかし、わたしの願いどおりではなく、み心のままに」とあります。 二度目の祈りに、「父よ、わたしが飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたのみ心が行われますように」という祈りでした。 三度目の祈りもまた、同じ言葉であったと書かれています。 イエスの言う「杯」とは、十字架でした。 ヘブライ人の手紙に、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながらご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられた。」「キリストは、神の子であるにもかかわわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれた。 そのことによって、すべての人々の永遠の救いの源となった。」と書かれています。 父なる神は黙っておられたけれども、イエスの祈りは聞き入れられていたのです。 神の沈黙は、確かな神の応答です。 この神の沈黙によって、イエスは神への従順を学ばれたのです。 神のみ心は、この従順のうえに果たされるのです。 そのための神の沈黙です。 「わたしの思いではなく、み心のままに」と祈るまでに、私たちが導かれるためです。 私たちが立ち上がるという思い上がった信仰から、私を通して神ご自身が立ち上がってくださるようにと祈る信仰へと、私たちが新しく生まれ変わるための神の沈黙です。 私たちによってではなく、私たちにおいて、私たちを通して、神の業が表れ出るという確信に至るための神の沈黙です。 イエスは、「わたしが天から降ってきたのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方のみ心を行うためである」と語っておられます。
「与えられる礼服」 マタイによる福音書22章1~14節
イエスは、「神の国」は「ある王がその王子のために催す婚宴」に似ていると言います。 食事の用意がすっかり整った食卓である。 「牛や肥えた家畜が屠られて料理され、ただ招かれた客を待っているだけの食卓」であると言います。 「神の国」には、招いておられる「王」がおられる。 すべての準備をして、家来を遣わして招いておられるのは「王」自身である。 招かれている者の手を一切借りていない王の準備の業である。 その「王」が、自分の息子が嫁を迎えることを心より喜んでおられる。 招かれている者はそれに応えて、ただ準備された食卓につくために出かけて行くことだけなのだと、イエスはこの譬えをもって「神の国」を語っておられるのです。
ところが、招かれた人たちはその招きを無視した。 畑に出かけて行ってしまった。 商売に出かけて行ってしまった。もっとひどいことに、招くために遣わされた王の家来を捕まえて乱暴し、殺してしまったというのです。 王は、「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々はふさわしくなかった。」と語っています。 この「王」とは父なる神です。 「王子」とは、神の子イエス・キリストです。 「招いておいた人々」とは選ばれた民イスラエルです。 「送り出された家来たち」とは神のもとから遣わされて行った預言者たちです。 旧約聖書に語られた神の救いの歴史が語られています。 しかし、この譬えには新約聖書のキリストの福音も語られています。 婚宴の用意はできているが、招いておいた人々はふさわしくなかった。」と厳しい言葉を発するが、それでも招くことを止めない父なる神のみ心が語られています。 招きに応じるようにと強い願いが語られています。 「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。」 見かけた者は誰でも、善人も悪人も皆です。 招きから漏れている、招きにふさわしくないと思われた人たち皆です。 このマタイの譬えには、ルカには記されていない言葉があります。 招かれた客の中に、「婚礼の礼服を着ていない者が一人いた」という言葉です。 その客に、父なる神は「友よ」と語りかけています。 「どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか」と神が尋ねているが、その問いに「黙っていた」というのです。 この礼服とは、「王が用意した礼服」です。 神しか用意することのできない服を着なさいと言っているのです。 私たちは自分が選んで、自分がふさわしいと気に入った自分勝手な姿で、自分が理想とする姿を取って、神の前に出ようとするでしょう。 それらは「自前の服」です。 たとえ、用意された服が気に入らなくても、自分に合っていないと思われても、神はご自身が用意した服を着て出てきてほしいのです。 なぜなら、その「神が用意された服」こそが、神の前に出る唯一の服であるからです。 「今や、救いは近づいている。 夜は更け、日は近づいた。 主イエス・キリストを身にまといなさい。」(ローマ13:11) 「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているのです。」(ガラテヤ3:27) 「周囲は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。」(イザヤ61:10)と聖書は言います。 みすぼらしいものであるかもしれない。 着ることが苦痛であるかもしれない。 しかし、この服こそ、私たちが自分で用意することのできない、神の前に出るにふさわしい晴れ着です。 この譬えは、神の招きに対する私たちの備えを語っています。 「さあ、おいでください」と招きかける神の使いに対する私たちの備えです。 断るのでしょうか。 無視するのでしょうか。 招きそのものを壊してしまうのでしょうか。 黙ってしまうのでしょうか。 招かれているのは今です。 そのような時に、いつでもできることを先にして、招きにためらい、後回しにするのでしょうか。 この世のものに心を奪われても、自前の生き方に縛られてもならない。 私たちは神ご自身が用意された服をまとって、招かれた席につくことだけです。
「思い悩むな」 マタイによる福音書6章25~34節
イエスは弟子たちに、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、思い悩むな。 明日のことまで思い悩むな。」と言います。 別の聖書の訳では、「思いわずらうな。 心配するのをやめなさい。」となっています。 イエスは、思い悩む弟子たちそして私たちに、なぜ「思い悩むな」と言われるのでしょうか。 むしろ、先行きを案じていろいろと思い悩み、でき得るかぎりのことを果たしていくことは当然ではないでしょうか。 そのような時に、思い悩むなと言われれば言われるほど、私たちは素直にこの言葉を受け取ることができないのではないでしょうか。 しかし問題は、この思いが悲観的になり、心配になり、「思い悩み、思い煩い」となって、身を擦り減らすまでになって、希望や喜びが取り去られていくような状態になった時です。 この積み重ねられてきた「思い悩み、思い煩い」の正体は、いったい何であるのかということです。
イエスは、「自分の命のことで、自分の体のことで、自分の明日のことで思い悩むな」と言われます。 あなたの命も、体も、明日という時も、神から与えられたものではないか。 あなたにふさわしく与えられた「命」であり、「体」であり、「時」であるはずです。 神が強い意思をもって、目的をもって、あなたに与えられている賜物として授けられているものです。 それほどまでに大切なものとして与えられている、この「命、体、時」にとって必要なものを神がご用意しないはずがない。 このまま放っておけば、この「思い悩み、思い煩い」がその「存在」そのものを滅ぼしてしまうまでになる。 だから、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、思い悩むな。 明日のことまで思い悩むな。」と言われているのです。 イエスは思い悩む私たちの願い、祈りを拒んでおられるのではありません。 母マリアもまた、人の常識ではまったく理解できないイエスのふるまいに、思い悩んだのです。 しかし、聖書は「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らした。」と書かれています。 マリアは分かるまで、心の奥底に納めていたというのです。 マリアは思い巡らしてはいたが、思い悩んではいないのです。 この違いはいったい何でしょうか。 私たちはこうなるのではないかという思い込み、何かを自分が定めたところから始めます。 そこから大きくかい離している現実の姿に耐えかねて落ち込んでしまう。 そこには、隠れた人の傲慢があるかもしれません。 神に任せるべきことを自分の苦労と背負ってしまう。 自分がなりたいと思ってもなれないし、したいと思ってもできない。 これが「思い悩み、思い煩い」の姿でしょう。 全地全能の神に対する不信でしょう 自分の考え、想定、理解に執着して、神のみ心、神のご配慮に信頼しきれていない私たちの姿でしょう。 この自分自身への過信が無惨に崩れ去った時です。 これが、私たちの目が開かれる時です。
イエスは、「目に見えない天の父が、空の鳥、野の花を養っておられるのをよく見なさい」と言われます。 日々新たに、蓄えておくことのできない今日の恵みを感謝して受け取っているではないか。 人が造り上げるものでは装うことのできない姿に配慮してくださっているではないか。 あなたがたは更に、明日の安心のためになぜ貪欲に求めるのか。 あなたがたの目はどうして神のみ業に曇っているのか。 「思い悩んだからといって、寿命をわずかでものばすことができようか。」 愚かな計算を棄てて、思いをはるかに越えた神の知恵に委ねなさい。 すべてを知っておられる神のみ心に気づかせていただきなさい。 空の鳥、野の花こそ、神の造られたものとしての「神の証し」の姿ではないかと言っておられるのです。 私たちの「命、体、時」は、私たちの所有物ではありません。 神に仕えるために託されたものです。 自分のために蓄えておくことのできないものです。 その神の力と知恵とみ心に委ねる信仰に立つなら、「思い悩み」を克服することができるのではないでしょうか。
「キリストを知る キリストを得る」 フィリピの信徒への手紙3章7~11節
フィリピの信徒への手紙は「喜びの手紙」と言われています。 パウロは、フィリピの教会の人々に「あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」と語りかけています。 この手紙を書き送っているパウロの実情は、とても喜びに満ち溢れるような状況にはなかったように思います。 パウロは、この手紙をローマの牢獄の中から書いたと言われています。 それだけではない。 パウロには多くの反対者がいた。 パウロと同胞のユダヤ人キリスト者たちです。 本来、一緒に宣教の働きをともにするはずの人たちです。 長く慣れ親しんだユダヤ教の伝統、慣習のなかで、自分たちが無理なく溶け込んでいくことができるように、「キリストの福音」を都合よく変えて取り込んでいこうとする人たちです。 この時のパウロの心境を、「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。 だが一方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。 どちらを選ぶべきか、わたしにはわかりません。 この二つのことの間で、板ばさみの状態です。」と告白しています。
主イエスと出会うまでのパウロの履歴は、当時の社会においては輝かしいものでした。 自分は生粋のユダヤ人である。律法に関しては、非の打ちどころのないほど正しい者である。 その信仰の熱心さにおいては、異端とされたキリスト教徒を迫害するほどの指導者であると自ら語っているのです。 パウロはそれを「肉の誇り」と言い、人間の知恵や努力によってそれを積み上げて誇るものを、「キリストのゆえに損失とみなすようになった」と言います。 今ではどうでもよくなったので、それらのものを棄てたとは言っていないのです。 明らかに、キリストのゆえにマイナス、損失であると思ったから棄てたと言っているのです。 これらのものこそ、キリストを見えなくするもの、キリストのもとから離れさせるものである。 だからパウロはそれらのものを棄てた時に、新しい自分を見い出すようになった。 キリストによって造り変えられた新しい自分を見つけ出したのです。 ですから、「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いました。 しかし、それらは自分にとって、塵あくたとみなしています。」と喜んで、感謝しているのです。 パウロはそのことを、「キリストを知る。 キリストを得る。」と言います。
うまく自分に合わせて取り込んでいこうとする私たちに、主イエスは「揺らぎ」を起こします。 主イエスは、真の救いのために、私たちをご自身のところに招くために根底から揺り動かします。 その時です。 私たちは必死に自分が壊れないように、自分を守ろうとします。 私たちは自分が辿ってきた道のりを忘れることができません。 やっとの思いで、今の自分を辛うじて保ち、守ってきたからです。 しかし主イエスは、「後ろのものを忘れて、前のものに全身を向けなさい」と言われる。 私たちだけの力では過去のことを忘れることなどできません。 しかし、主イエスはありのままの私たちを受け入れてくださって、赦してくださると言う。 「恐れるな。 なぜなら、このわたしの十字架と復活によって、新しく造り変える。」と言われるのです。 主イエスは、この時、この場所で、この仕方でなければならない「恵み」を用意してくださって、私たちを揺り動かしてくださっているのです。 この転換点が「悔い改め」です。 縛られていた自分を失わせていただいて、贖われ、新しくしていただいた自分を取り戻す。 これが「キリストの福音」が果たす「揺らぎ」、「キリストを知る、キリストを得る」ということではないでしょうか。 パウロは、自分自身の過去の過ちを忘れることはできませんでした。 死と絶望と過ちに埋もれたところにあっても、キリストを見出すことによって、新しい命と希望と救いを見出すことができるようになったのです。 パウロの言う「死者の中からの復活」です。 劇的な回心すら棄てて、絶えずパウロは新しくされていったのです。
「教会の生きた交わり」 使徒言行録4章13~24節
ペトロとヨハネは、運ばれてきた生まれつき足の不自由な男にこう言いました。 「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。 ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言って、右手をとって彼を立ち上がらせました。 するとたちまち、その男は足やくるぶしがしっかりしてきた。 歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、ペトロとヨハネと一緒に神殿の境内に入って行ったと言います。 民衆は、ただ神殿のそばに座って施しを受けるだけの男の身に起こったこの出来事に、我を忘れるほど驚いたと言います。 それだけではありませんでした。 自分の身を恐れて逃げて、家に閉じこもっていたペトロとヨハネが、民衆の前で堂々と語り、その勧めに一日に三千人もの人が悔い改め、群れが産み出されていったというのです。 まるで、イエスが至るところでされた救いの業を、このペトロとヨハネが弟子たちの代表として果たしたのです。
二人の力の根源は、「イエス・キリストの名を呼ぶ」ことでした。 「イエス・キリストの名を呼ぶ」ということは、イエス・キリストの力を呼び出すことです。 イエス・キリストがペトロやヨハネと共にいて、働いてくださったということです。 足の不自由な男に、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言った。 民衆には、「イエス・キリストの名によって、バプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。」と言った。 自分たちがもっている「イエス・キリストそのものをあげよう。」とまで言った。 イエス・キリストと共にある。 その名を呼んで力を求めるなら、与えられるという信仰の確信が彼ら二人にはあったのです。
この二人の姿に手を焼いていた権力者たちはいらだちをもって、「イエスがよみがえった」とたわ言を言って、民衆を惑わしている。 イエスを十字架に架けてすべてが終わったと思っていたのに、そのイエスの姿をそのまま引き継いで大胆に語り、癒しの業を始めた二人を赦すことができなかったのです。 「イエス・キリストの名によって、だれにも話すな。 教えるな。」と脅しと命令を与えるために、身柄を拘束したのです。 その権力者たちに応えた二人の言葉が、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか考えてください。 わたしたちは、見たこと、聞いたことを話さないではいられないのです。」という言葉でした。 権力者たちは、民衆が神を賛美していたので、二人を脅して釈放するしかできませんでした。 その戻ってきた二人を迎えた弟子たちの群れの姿は、「これを聞いた人たちは心をひとつにして、神に向かって声をあげて賛美し、祈った。」というものでした。 群れの人々は、二人が戻ってきたことを感謝するのではなく、権力者の前で大胆に弁明し、証しすることのできたことを感謝している。 これから権力者たちの迫害は更に激しいものとなる。 だから、「今こそ、彼らの脅しに目を向け、私たちが思い切って大胆にみ言葉を語ることができるようにしてください。」と祈っている。 「どうかみ手を伸ばし、イエス・キリストの名によって病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」とまで祈っているのです。 そうした祈りの場に、二度目のペンテコステとも言える出来事が起こったのです。 「彼らの祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した。」と書かれている。 聖霊が降ったのは、一度限りのことではない。 イエス・キリストとともにあるという信仰の確信に満たされているところに、大胆な「証し」がなされているところに、そして、「私たちは金や銀は持ち合わせていないが、私たちがもっているもの、イエス・キリスト、そのお方から注ぎ出される力を与えることができるように」と祈っているところにこそ、聖霊が繰り返し、繰り返し注がれて、教会の群れが築き上げられていったと「使徒言行録」は語っているのです。
「神の訪れてくださる時」 ルカによる福音書19章41~44節
聖書に記されている神の民は気づいたのです。 この地上の時の流れを打ち破るものがある。 時に流されないで決して変わらず、この限界ある地上の命を乗り越えるものがあることに気づいたのです。 詩編90編に、「あなたは人を塵に返し人の子よ、帰れと仰せになります。 千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。 ・・・人生の年月は七十年程のものです。 健やかな人が八十年を数えても 得るところは労苦と災いにすぎません。 瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。 ・・・生涯の日を正しく数えるように教えてください。 知恵ある心を得ることができますように。」と歌われています。 自分たちの存在ははかないものである。 いつまでも同じように続く存在でないことをよく知っている。 神が「塵に帰れ」と言われる存在に過ぎないこともよく分かっている。 神を知るということ、この地上の時に縛られない永遠の世界があることを知るということが知恵の始まりであると、旧約聖書の時代の人々は知ったのです。 日本人もまた、「無常観」を敏感に感じ取っています。 イスラエルの人たちもまた、「肉なる者は皆、草に等しい。 永らえてもすべては野の花のようなもの。 草は枯れ、花はしぼむ。」と語っている。 しかし、彼らはそこに変わることのない神の言葉を見つけ出したのです。 「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」ことを見出したのです。 神が事を起こされる時には、先だって神の言葉が必ず与えられる。 ですから、その通りに神の言葉は成し遂げられる。 私たちがその言葉を拒んでも、聞き取らなくても、受け取らなくても為し遂げられていく。受け取る側の状況にはまったく関係なく、その言葉通りに果たされていく。 神の言葉は変わらない「神の約束」であることに人々は気づいたのです。
主イエスは、最後の十字架の務めを果たす直前に、父なる神への祈りの中でこう祈っています。 「父よ、時が来ました。 あなたはあなたの子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。 そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったこの私を知ることです。」と祈っている。 そう祈られて、「時が満ちた」と言い、エルサレムに入って行かれようとしたのが今日の聖書箇所です。 エルサレムとは、神の救いの業がなされるところ、語られたみ言葉通りに救いの業が果たされるところ、そのために神がイエスの姿をとって訪れてくださったところであるのに、「神が訪れてくださる時をわきまえていたなら・・・」とイエスは嘆いておられる。 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。 だが、お前たちは応じようとしなかった。」と嘆いておられるのです。 神の言葉に聞き、神に出会うことを、私たちの短い生涯に赦された理由は、私たちが滅びてしまわないで生きるためです。 神が訪れてくださっているのは、私たちが神の霊によって与えられた知恵と力によって新しく生きる者となる。 神の似姿に造り変えられて、神が求めておられるようなものになるためです。 私たちこそ、その神の霊が内に宿ってくださる「神の神殿」であると言われている。 パウロは、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」とまで言っている。 私たちは自分を神としてしまって、自分を自分のものだと思っている。 そうではないのです。 私たちが与えられている命とからだは、神が宿るべき神殿です。 神のものです。 神が私たちのところに降って来てくださって、訪れてくださるところです。 イエスのお姿こそ、神がこの世界に訪れてくださった決定的なしるしです。
「神の民の歩みの原点」 使徒言行録1章3~11節
聖書は、ペンテコステという不思議な出来事には聖霊という働きがあった。 その聖霊に導かれて、弟子たちに大きな変化が与えられた。 イエスの名のもとに再び集められた群れが「神の民」として、最初の群れとして造り上げられたと証言しています。 この地上を旅人として歩んでくださったイエスの生涯なしには、この出来事を語り尽くすことができないでしょう。 そのイエスの中に働いた新しい力が、イエスを復活させた新しい力が、今度はその福音を告げられた弟子たちのうちに働き始めた。 イエスの地上の旅の終わりが、弟子たちの旅の始まりとなった。 それが、今、私たちに引き継がれている出来事であると語っています。 悪戦苦闘の弟子たち、その壮絶な神の民の姿がここに語られています。 ですから、イエスは十字架の苦難を受けた後に、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって弟子たちに示し、40日にわたって現れたのです。 神の国、新しい世界、新しい力、新しい道筋を語られたのです。 そして、この「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられる。」と言われたのです。 そのイエスの言葉を聞いて、弟子たちは、いよいよ神が私たちの国を立て直してくださると思った。 神の約束されたものが与えられる時、聖霊によるバプテスマが自分たちに授けられる時には、自分たちの国が建て直される時であると思ってしまった。 しかし、イエスはそのようにはお答えになりませんでした。 その時は、父がご自分の権威をもってお定めになった時である。 あなたがたは知るところではない。 その神が定められた時まで、神の約束を待ちなさい。 神が必ず、あなたがたにふさわしい救いの業を成し遂げてくださる。 あなたがたこそ、力を受けて、イエスの証人となって、この新しい世界を造り上げる。 神の国はあなたがたに力が与えられることによって、あなたがたがわたしの証人となることによって、神の救いの業は成し遂げられるとイエスは言われたのです。
ペンテコステの出来事は、イエスの旅が弟子たちの旅へとバトンタッチしていく出発点でした。 聖霊という神の一方的な恵み、賜物によって、神との交わりが回復された。 苦しみもがきながらも、弟子たちが新しい姿に変えられていった。 イエスの名によって一つにされ、人と人の交わりが回復されていった。 今まで家の中に閉じこもっていた弱々しい弟子たちの群れが、新しい現実に出会いながら、驚き、悩み、もがき、苦しみ、悲しみながら、いかなる抵抗や試みをも乗り越えてイエス・キリストの名によって「福音」を語り続けた。 そのための力が与えられた。 ふさわしい言葉が与えられた。 神が定められた時を待つことができた。 その働きを導いたのは聖霊であったと、ペンテコステの出来事は語っています。 なぜ、このような困難に遭わなければならないのか。 なぜ、神はこのような苦しみを与えられるのかと思う時があります。 そのような時にこそ、神の前に出て、直接、そのみ心を真剣に尋ねることです。 私たちが期待する時ではないかもしれない。 しかし、信仰によって生きる人には、必ず「神がご自分の権威によって定められた時」に、応えてくださるのです。 信じていなければ、祈っていなければ、待っていなければ、この神の約束が果たされるかどうか見ることができないではありませんか。 常識や道徳や人の知恵に目が曇らされて、どうでもよいことに目を奪われてしまっていては、神が約束通り果たしてくださったという「無上の喜び」を味わい、伝えることができないではありませんか。 私たちの中に働いておられるのは神です。 私たちが神の言葉を聞いて、この私を動かしているのではありません。 そんな力は、私たちは持ち合わせてもいないし、長続きもしません。 信じる者の中に働く神が、聖霊と呼ばれているのです。 私たちはただ、この聖霊という神を宿すだけです。
アブラハムとともに歩んだサラの生涯
「サラの生涯は百二十七年であった。 これがサラの生きた年数である。」と書かれています。 何とも言えない言葉の響きを感じます。 サラというひとりの女性の生涯が127年であった。 これが彼女の生きた年数であったと念押ししている。 127年という年月が、サラの歩んだ地上の生涯であった。 これが、サラというひとりの女性に神が与えられた命であった。 サラにしか与えられていない年月であった。 その年月が、神にひとつずつ数えられていた。 神に生きることが赦された年月であったと言っているように聞えてきました。 その終わりが訪れた。 サラは死んだと聖書は告げています。 しかし、サラはどのような人生を送ったのかは書かれていないのです。 すべて、アブラハムの生涯とともにあったということです。 アブラハムが、行き先を知らないで故郷を棄てて旅立った時、「妻サラと共に、神が示す地に向かって出発した」とだけ書かれているのです。 夫アブラハムは、人間的にみれば破天荒な生き方です。 神のみ言葉だけを頼りにする旅人です。 生活の安定などありません。 自らの危険を顧みず、闘ってしまう夫です。 年老いてやっと与えられた一人息子でさえ、神の求めに応じて手にかけてささげてしまおうとする夫です。 この世のことには無頓着です。 しかし、理由は分からないが、その時々、所々で、夫は神によって守られている。 必要なものはその都度与えられていると、その傍らで妻サラが味わっていたことも事実でしょう。 サラの祝福は、夫アブラハムに注ぎ込まれていた神の祝福とともにあった。 それは、サラが偉大であったから、サラの人格が素晴らしかったからではない。 サラも神の約束を信じることができなくて、自分の召使いを利用して自分の知恵をもって子どもをもうけてしまう。 その召使いと生まれた子どもが気に入らなくなれば、親子ともども追い出してしまう。 そうであっても、サラは、神の祝福のもとに留まり続けたということでしょう。 その妻サラを失ったアブラハムが、「サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。」とあります。 そして、「サラの遺体の傍らから立ち上がり」とあります。 この地上に富を得ることには無頓着であったアブラハムが、サラを失って初めて、葬るためのわずかな土地を所有しようと思った。 サラを失った悲しみからでも、サラの供養のためでもない。 妻サラが生きた127年の間に起こされた神の祝福の「証し」を、この地上の人たちの見ている前で、立ち会いのもとで、自らの痛みをともなって「証し」したいと本心から願ったのでしょう。 生涯の最後に残された働きがそこにはあると、亡くなった妻の遺体の傍らにある悲しみから立ち上がったのでしょう。 アブラハムは、墓をつくることが目的ではありません。 生涯の地上に生きた「証し」、そこが絶望の死、悲しみから神の国に至る希望の「証し」となる。 新しい命に生きる出発点となる。 アブラハムはサラを失って初めて、この地上の「証し」を立てるために「立ち上がった」のではないでしょうか。 アブラハムはサラの死後初めて、今まで漠然としていた「祝福の源」としての働きに気づいたのではないか。 アブラハムに注がれ続けた「神の祝福」のもとを離れることなく留まり続けたサラの生涯の祝福が、アブラハムによって生き返らされたのです。
私たちもまた、その働きはわずかなものであるかもしれない。 小さな存在であるかもしれない。 しかし、それでも神は用いてくださる。 アブラハムとサラが様々な出来事の中に、後悔しながらも、ためらいながらも、信じ切ることができないなかにも、神の祝福のもとに留まり続けることのできたその「証し」を立てるために、悲しみや嘆きの中から立ち上がった。 この世の人たちが見ている前で、その了解のもとで「証し」を立てることができた。 その祝福がイサクやその妻リベカ、そしてヤコブへと引き継がれていく。 その「祝福の源」となっていく。 生きるとは、神に用いられた「祝福の証し」をたてることではないでしょうか。
「肯定される神を喜ぶ」 コリントの信徒への手紙二1章18~22節
創世記に記されている「バベルの塔」は、人間が思い上がった過ちのしるしでしょう。 神に取って替わろうとした、人間が造り出す拠り所の試みでしょう。 しかし、神は言葉の混乱によってそれを砕き、一致団結した人間を散らされました。 神が破壊した「バベルの塔」とは何であったのでしょうか。 建物のことを語っているのではないでしょう。 神が望んでおられたのは、いったいどういうことであったのでしょうか。 私たちの世界は本来、神がよいものとして造られたものであったはずです。 私たち人間もまた、神の創造の業を讃えるためにつくられたはずです。 神が「きわめて良かった」と肯定されたものを否定するこの世の力を、神は砕かれた。 神に取って替わるものを造り上げて神のもとから離れさせようとする力を、神はきっぱりと砕かれたのではないかと思わされます。 神が造られたこの世界を、神を否定する霊が、この世の力が覆ってしまっています。
パウロは、「然り」と「否」という表現でこのことを語っています。 「肯定」と「否定」と読み替えてもいいかもしれません。 パウロは、コリントの教会の人たちとの間に大きな問題を抱えています。 コリントの教会の創始者でもある自分自身が、使徒として認められていないという深刻な問題を包み隠さず語っています。 事態の収拾のためにコリントの教会を訪問するも思った通りに叶わず、パウロは失意のうちに戻って来ています。 しかし、パウロは確信をもって、「わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。 このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。」とまで言うのです。 教会という群れは、「この世」の中にあると言います。 この世と離れて存在するものではない。 「この世」の中にありながら、それでもイエス・キリストの群れとして、神によって選び分かたれた存在である。 この神の選びと導きを忘れて、人の知恵や力に依りすがってはならない。 「神の純真と誠実」によって起こされたものである。 「神のご真実と恵み」によって支配されているものである。 「神は真実なお方です。 神の恵みの下にあります。 これがわたしたちの誇りです。」と確信してパウロは言うのです。 この「誇り」という言葉は、「喜び」と読み替えてもふさわしい言葉です。 神は真実なお方である。 私たちはその神の恵みの支配の中にある。 それが私たちの喜びであると、差し迫った深刻な問題の相手方であるコリントの教会の人たちに向けてパウロは確信をもって伝えているのです。 パウロはこの深刻な溝を「否」とは、受け取めていない。 パウロには、神のもとから離れさせようとする「否定する霊」がまったく働いていないのです。 むしろ、困惑するなかにこそ、神のご真実は変わらず貫かれる。 この神の変わらない恵みを再び分かち合うために、反目するコリントの教会の人たちに思いを書き送っているのです。
パウロの言う「然り」とは、この神の真実に対する応答、「アーメン」です。 この「然り」だけが実現されたお方、神の約束がことごとく「然り」となったお方が、神の子イエス・キリストです。 このお方に固く結び付け、油を注いでくださるのは神です。 証印を押して、保証として私たちの心に霊を与えてくださるのは神です。 ですから、私たちはこのお方を通して、神をたたえるためにアーメンと唱えるとパウロは語っているのです。 この神の「然り」にアーメンと唱える者を、受け入れる者を、神はご自分に属する者として証印を押してくださる。 その保証として、「霊」を与えてくださると言います。 神に対する「否定」を繰り返してきた、今もなお繰り返し過ちを犯しながら歩む私たち、それでも神は変わらず、「肯定」をもってそのような姿を受け入れてくださって、赦し続けてくださるのです。 私たちはこの神を喜ぶことができるのです。 「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(ネヘミヤ8章10節)と言われています。
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