アブラハムとともに歩んだサラの生涯
「サラの生涯は百二十七年であった。 これがサラの生きた年数である。」と書かれています。 何とも言えない言葉の響きを感じます。 サラというひとりの女性の生涯が127年であった。 これが彼女の生きた年数であったと念押ししている。 127年という年月が、サラの歩んだ地上の生涯であった。 これが、サラというひとりの女性に神が与えられた命であった。 サラにしか与えられていない年月であった。 その年月が、神にひとつずつ数えられていた。 神に生きることが赦された年月であったと言っているように聞えてきました。 その終わりが訪れた。 サラは死んだと聖書は告げています。 しかし、サラはどのような人生を送ったのかは書かれていないのです。 すべて、アブラハムの生涯とともにあったということです。 アブラハムが、行き先を知らないで故郷を棄てて旅立った時、「妻サラと共に、神が示す地に向かって出発した」とだけ書かれているのです。 夫アブラハムは、人間的にみれば破天荒な生き方です。 神のみ言葉だけを頼りにする旅人です。 生活の安定などありません。 自らの危険を顧みず、闘ってしまう夫です。 年老いてやっと与えられた一人息子でさえ、神の求めに応じて手にかけてささげてしまおうとする夫です。 この世のことには無頓着です。 しかし、理由は分からないが、その時々、所々で、夫は神によって守られている。 必要なものはその都度与えられていると、その傍らで妻サラが味わっていたことも事実でしょう。 サラの祝福は、夫アブラハムに注ぎ込まれていた神の祝福とともにあった。 それは、サラが偉大であったから、サラの人格が素晴らしかったからではない。 サラも神の約束を信じることができなくて、自分の召使いを利用して自分の知恵をもって子どもをもうけてしまう。 その召使いと生まれた子どもが気に入らなくなれば、親子ともども追い出してしまう。 そうであっても、サラは、神の祝福のもとに留まり続けたということでしょう。 その妻サラを失ったアブラハムが、「サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。」とあります。 そして、「サラの遺体の傍らから立ち上がり」とあります。 この地上に富を得ることには無頓着であったアブラハムが、サラを失って初めて、葬るためのわずかな土地を所有しようと思った。 サラを失った悲しみからでも、サラの供養のためでもない。 妻サラが生きた127年の間に起こされた神の祝福の「証し」を、この地上の人たちの見ている前で、立ち会いのもとで、自らの痛みをともなって「証し」したいと本心から願ったのでしょう。 生涯の最後に残された働きがそこにはあると、亡くなった妻の遺体の傍らにある悲しみから立ち上がったのでしょう。 アブラハムは、墓をつくることが目的ではありません。 生涯の地上に生きた「証し」、そこが絶望の死、悲しみから神の国に至る希望の「証し」となる。 新しい命に生きる出発点となる。 アブラハムはサラを失って初めて、この地上の「証し」を立てるために「立ち上がった」のではないでしょうか。 アブラハムはサラの死後初めて、今まで漠然としていた「祝福の源」としての働きに気づいたのではないか。 アブラハムに注がれ続けた「神の祝福」のもとを離れることなく留まり続けたサラの生涯の祝福が、アブラハムによって生き返らされたのです。
私たちもまた、その働きはわずかなものであるかもしれない。 小さな存在であるかもしれない。 しかし、それでも神は用いてくださる。 アブラハムとサラが様々な出来事の中に、後悔しながらも、ためらいながらも、信じ切ることができないなかにも、神の祝福のもとに留まり続けることのできたその「証し」を立てるために、悲しみや嘆きの中から立ち上がった。 この世の人たちが見ている前で、その了解のもとで「証し」を立てることができた。 その祝福がイサクやその妻リベカ、そしてヤコブへと引き継がれていく。 その「祝福の源」となっていく。 生きるとは、神に用いられた「祝福の証し」をたてることではないでしょうか。
「肯定される神を喜ぶ」 コリントの信徒への手紙二1章18~22節
創世記に記されている「バベルの塔」は、人間が思い上がった過ちのしるしでしょう。 神に取って替わろうとした、人間が造り出す拠り所の試みでしょう。 しかし、神は言葉の混乱によってそれを砕き、一致団結した人間を散らされました。 神が破壊した「バベルの塔」とは何であったのでしょうか。 建物のことを語っているのではないでしょう。 神が望んでおられたのは、いったいどういうことであったのでしょうか。 私たちの世界は本来、神がよいものとして造られたものであったはずです。 私たち人間もまた、神の創造の業を讃えるためにつくられたはずです。 神が「きわめて良かった」と肯定されたものを否定するこの世の力を、神は砕かれた。 神に取って替わるものを造り上げて神のもとから離れさせようとする力を、神はきっぱりと砕かれたのではないかと思わされます。 神が造られたこの世界を、神を否定する霊が、この世の力が覆ってしまっています。
パウロは、「然り」と「否」という表現でこのことを語っています。 「肯定」と「否定」と読み替えてもいいかもしれません。 パウロは、コリントの教会の人たちとの間に大きな問題を抱えています。 コリントの教会の創始者でもある自分自身が、使徒として認められていないという深刻な問題を包み隠さず語っています。 事態の収拾のためにコリントの教会を訪問するも思った通りに叶わず、パウロは失意のうちに戻って来ています。 しかし、パウロは確信をもって、「わたしたちは世の中で、とりわけあなたがたに対して、人間の知恵によってではなく、神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。 このことは、良心も証しするところで、わたしたちの誇りです。」とまで言うのです。 教会という群れは、「この世」の中にあると言います。 この世と離れて存在するものではない。 「この世」の中にありながら、それでもイエス・キリストの群れとして、神によって選び分かたれた存在である。 この神の選びと導きを忘れて、人の知恵や力に依りすがってはならない。 「神の純真と誠実」によって起こされたものである。 「神のご真実と恵み」によって支配されているものである。 「神は真実なお方です。 神の恵みの下にあります。 これがわたしたちの誇りです。」と確信してパウロは言うのです。 この「誇り」という言葉は、「喜び」と読み替えてもふさわしい言葉です。 神は真実なお方である。 私たちはその神の恵みの支配の中にある。 それが私たちの喜びであると、差し迫った深刻な問題の相手方であるコリントの教会の人たちに向けてパウロは確信をもって伝えているのです。 パウロはこの深刻な溝を「否」とは、受け取めていない。 パウロには、神のもとから離れさせようとする「否定する霊」がまったく働いていないのです。 むしろ、困惑するなかにこそ、神のご真実は変わらず貫かれる。 この神の変わらない恵みを再び分かち合うために、反目するコリントの教会の人たちに思いを書き送っているのです。
パウロの言う「然り」とは、この神の真実に対する応答、「アーメン」です。 この「然り」だけが実現されたお方、神の約束がことごとく「然り」となったお方が、神の子イエス・キリストです。 このお方に固く結び付け、油を注いでくださるのは神です。 証印を押して、保証として私たちの心に霊を与えてくださるのは神です。 ですから、私たちはこのお方を通して、神をたたえるためにアーメンと唱えるとパウロは語っているのです。 この神の「然り」にアーメンと唱える者を、受け入れる者を、神はご自分に属する者として証印を押してくださる。 その保証として、「霊」を与えてくださると言います。 神に対する「否定」を繰り返してきた、今もなお繰り返し過ちを犯しながら歩む私たち、それでも神は変わらず、「肯定」をもってそのような姿を受け入れてくださって、赦し続けてくださるのです。 私たちはこの神を喜ぶことができるのです。 「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(ネヘミヤ8章10節)と言われています。
「み言葉のために働いた人々」 ルカによる福音書18章9~14節
イエスは、二人の人物の姿を譬えをもって話されたと書かれています。 ひとりは「ファリサイ派の人」です。 「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人」と表現されています。 「自分が正しい」という確信は、一朝一夕にできあがったものではないでしょう。 長い間に築き上げられ、積み重ねられた自信でしょう。 人の指摘によってすぐ手放すような類のものではないでしょう。 自分の立場、存在そのものを守り通してきた大事な拠り所です。 余程のことがないかぎり、自ら放棄することは考えられないしろものです。 神に頼る必要を感じることもなく、頼ろうともしない、自分だけを頼りに歩んでいる人です。 人と比べて満足し、うぬぼれもし、あるいは卑下もし、妬みもするのです。 敬虔なユダヤ教徒は、祈るために週2回の断食を欠かしません。 農作物の全収穫の十分の一を必ずささげます。 律法の戒めに書かれている以上の行いをします。 それらすべてを兼ね備えているのは私であると自認をしていた人です。 一方、「徴税人」は、律法の戒めを知らないし、守ろうともしないし、穢れた仕事についている人、罪人であると当時の社会では言われても仕方のない人です。 自らどうすることもできない、神の憐れみにすがる以外に回復することのできない人です。 イエスはこの二人の違いを、神殿に上って「祈る姿」、「祈る言葉」によってくっきりと示します。 「ファリサイ派の人」は、神殿にいる人々の前に立って堂々と祈ります。 しかし、イエスは、人々が耳で聞くような「祈り」を聞いておられない。 人前で祈る「ファリサ派の人」の心の中で祈る「祈り」を聞いておられるのです。 「神さま、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、徴税人のような者でないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と、その心の中で祈っている祈りです。 人に聞かせることのできない自分を誇る「本心の祈り」でしょう。 ところが、「徴税人」の祈りは違います。 神殿の人前ではなく、「遠く離れた」ところで隠れて祈る「祈り」でした。 目を天に上げることもできない、目を落として、伏して祈る「祈り」でした。 深い悲しみや後悔や絶望の表れでしょう。 とても人に見せることのできない「姿」でしょう。 人に聞かせることのできない恥ずかしい「祈り」でしょう。 最後に振り絞って出てきた祈りの言葉が、「神さま、罪人のわたしを憐れんでください。」でした。 「どうか、このわたしを赦してください。 神さまの赦しがなければ存在することのできなくなってしまっている。」という告白の「祈り」です。 イエスはこの二人の祈りを語り終えて、最後に「はっきり言っておくが、義とされて家に帰ったのは、徴税人である。」と言われたのです。
「神に義とされて」とは、「徴税人」の必死の祈りが、彼を「義とした、正しい者にした」ということではありません。 彼がどのような状況にあったとしても、「神が正しい者として憐れみによって認めてくださった、取り扱ってくださった」ということです。 神の義は神の憐れみによって与えられるものです。 何回祈ったとか、断食をしたとかということではない。 「弱さ、貧しさ、破れ」をどうすることもできないこの私を繕ってください、「憐れんでください」と厚かましく祈り求める人。 神に委ねるしか、神の憐れみにすがるしかない人、隠れて遠く離れたところで、目を伏して、胸をたたきながら悔い改めて祈るしかない人こそが、神の国に真っ先に招かれるという神の憐れみをイエスは語ったのです。 ルカによる福音書は、聖書は読む人や解釈する人を求めているのではない。 このみ言葉に生きた人、み言葉にかけて立ち戻った人、み言葉に仕えた人、み言葉のために働いた人、「み言葉の証人」を求めています。 私たちの「誇り」は断食や祈りや献金ではありません。 すべてのことを果たす神が私たちと共にいてくださることです。
「祝福を受け継ぐために召された」 ペトロの手紙一3章8~9節
ペトロは、ローマ帝国の支配下にあった小アジアの各地に散らされて住んでいるキリスト者へ、この手紙を書き送っています。 ローマ帝国のキリスト教徒への迫害がますます激しくなり、それに怯え、困り果て、動揺が生じていた「散らされていたキリスト者たち」へ、励ましの手紙を出しているのです。 その冒頭には、「父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、霊によって聖なるものとされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。 恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」と励ましています。 そのペトロが、信仰の友に対する励ましの「終わりに」、「祝福を祈りなさい」と言っています。 自分の為にということではありません。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。 かえって、祝福を、その相手に向かって祈りなさい」と語っています。 ペトロは、悪をもって私たちに向かってくるその相手に、侮辱をもって私たちに迫ってくるその相手に、その人のために祝福を祈りなさいと言っているのです。 小アジアに散らされていたキリスト者たちは、ローマ帝国の人々の悪辣な行いに遭ったのでしょう。 辛辣な侮辱も体験していたのでしょう。 しかし、ペトロはその人たちのために「祝福を祈りなさい」と言う。 その理由が、「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召された」からであると言うのです。 キリスト者は、祝福を受け継ぐために祝福を受けた者です。 祝福を受け継いで、分かち合うために選ばれて遣わされた者です。 祝福とは、私たちが本来持ち合わせていないものです。 神によってしか与えられないものです。 ですから、私たちがこの「祝福」を願い求め、いっぱい受け取るべきものです。 自分自身のためではありません。 分かち合って、味わい合うものです。 私たちが分かち合って、ともにひとつに結びつけられるためのものです。 神の前には、悪人も善人も大差はないのです。 同じように、神の前に赦されて、愛されている者どうしです。 神によって、与えられる祝福は「力」です。 「喜び」です。 「希望」です。 それによって、祝福は祝福を呼び起こし、自ら拡がっていくのです。 私たちは、この神の約束、「祝福」を信じて待つことに欠けていないでしょうか。 神の祝福を期待して、祈り求めることに不足していないでしょうか。 神の祝福が果たされたことを喜ぶことに弱さはないでしょうか。 大いに期待して、神の祝福を祈り求めましょう。 それは私たちのためだけではありません。 私たちの隣人のためです。
ペトロは、「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」 そして、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。 かえって祝福を祈りなさい。」と言うのです。 ペトロは、広く一般的な道徳や教えを語っているのではありません。 今、現実に迫害に遭っているキリスト者たち、信仰の友に語っているのです。 「心をひとつにする」とは、「おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい」と赦されている私たちに向けられている言葉です。 異なる立場にあったとしても等しく神に結びつけられた、神の子であるということでしょう。 「同情し合う」とは、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ことができるようになるということでしょう。 「兄弟を愛する」とは、神の愛に等しく満たされて、互いに愛し合うということでしょう。 「憐れみ深い」とは、はらわたという言葉から出ていることから、腹の底から愛するということでしょう。 「謙虚になる」とは、自分の弱さを知るということでしょう。 そのうえで、「悪」をもって、「侮辱」をもって迫る者に「神の祝福」を祈りなさい。 なぜなら、私たちこそが、すでに赦されている、愛されている、受け入れられている。 その祝福を受け取るために召されたのだとペトロは言うのです。
「後で考え直して」 マタイによる福音書21章28~32節
イエスとユダヤの指導者たちとの間に、激しい火花が散っていた緊迫した場面です。 神殿の境内で売り買いをしている人々、神殿にささげる鳩を用立てて売っている人々、その人たちの台や腰かけをイエスが倒してしまう。 エルサレムに突然やってきて体制批判をし、一向にその激しさを緩めないイエスの言動に、ユダヤの指導者たちは業を煮やし、「なぜそのような行動を取るのか。 いったい何の権威に基づいているのか。」とイエスに迫ったのです。 この聖書箇所は、そのような緊迫した最中に語られた三つの譬えのうちのひとつ「ふたりの息子の譬え」です。
イエスは、ふたりの息子のどちらが父の思いに忠実であったのかと譬えを用いて、父なる神のみ心にかなう忠実な者はどちらであるかと、ユダヤの指導者たちに問うたのです。 「子よ、ぶどう園へ行って働きなさい」という父の望みに応えたのは、「いやです」と答えて従わなかったが「後で考え直して」ぶどう園に出かけた「兄」であったのか。 「お父さん、承知しました」と丁寧に答えたがぶどう園に決して出かけることのなかった「弟」であったのかと、ユダヤの指導者たちに尋ねたのです。 その問いに、ユダヤの指導者たちは、「兄の方です」と答えている。 父の望みに応えているのは、ぶどう園に出かけることのなかった「弟」ではなく、「後で考え直して」ぶどう園に出かけた「兄」の方であるとよく分かっている。 イエスは、これらの指導者たちを責めて、戒めておられるのでしょうか。 父なる神に先に選ばれて、招かれたのは彼ら自身です。 なぜ、そのことが分からないのかとイエスは悲しんでおられます。 「いやです」と最初に従わなかった人々とは、失礼な態度と言葉で、真っ向から神の思いとはかけ離れた生活を繰り返してきた人たちです。 神に背いている、汚れていると言われても仕方のない人たちです。 しかし、神はそうした人たちを、今や招いておられる。 彼らこそ、神の招きに「後で考え直して」ぶどう園に出かけた人たちです。 イエスは出かけて行った人たちがかつて吐いた言葉、かつて抱いた汚れた思い、かつて犯してしまった振る舞いを問題としているのではありません。 「後で考え直して」従ったかどうかです。 「はっきり言っておく。 徴税人や娼婦たちが、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」と宣言されたのです。 自分たちこそ、神の国に最初に入る資格をもった者であると自負していた彼らにとって、最大の侮辱でしょう。 このたわいのない譬えが、彼らの造り上げた誇りを砕いたのです。
私たちの振る舞いを、有言不実行、有言実行、不言実行、不言不実行などと私たちは並べ立ててみます。 イエスはあれとこれを比較して、こちらの方がましだというようなことを語っておられるのでしょうか。 きっぱりと従いますと宣言して従うことのできなかった弟子を憐れんでおられます。 その弱さのゆえに犯してしまう過ちを赦して、再び招いておられます。 今もなお、自分の姿が見えず、分からず、正しい自分にしがみついている祭司長たち長老たちにこそ、イエスは「後で考え直した」徴税人や娼婦たちの恵みの姿を語っておられるのです。 イエスはただ一点、「後で考え直すこと、悔い改めて出かけて行くこと」、このことだけを問題とされたのです。 「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい。」という福音を受け入れたかどうか。 この福音に従って、仕えていくように立ち上がったかどうか。 これが唯一の分岐点である。 これが神の望みであると、これからどうするのかが大事であると、祭司長や長老たちに語っておられるのではないでしょうか。 「兄」も「弟」も、父の思い通りに従ったわけではありません。 にも拘わらず、イエスは「後で考え直して信じるなら、神の国に入る」と言われているのです。 「主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる」(詩編34:19)のです。 私たちは、この恵みの中に生かされているのです。
「からし種一粒の信仰」 ルカによる福音書17章5~10節
この箇所では、弟子たちが「使徒たち」と呼ばれています。 教会の指導者たちのことを意味するのでしょう。 その彼らが、イエスが行われたように、イエスが語られたように、なぜ行い、語ることができないのだろうかと、その力不足を感じることが多々あったのでしょう。 「わたしどもの信仰を増してください。」 これが、彼らのイエスに対する切なる願いでありました。 これは「使徒たち」だけの願いではないでしょう。 私たちもまた、同じように、「私たちの信仰を増し加えてください。」と願い、祈り求めます。 もっと信仰があれば、こんなにふらふらすることもないのに。 もっと強い信仰を与えてください。 これが、私たちの願いでしょう。 同じように願った「使徒たち」に対するイエスの返事が、次のような譬えであったというのです。 「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くだろう。」と言われたのです。 この譬えをどのように受け取ればよいのでしょうか。 マタイでは、「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。 あなたがたにできないことは何もない。」と言われました。 マルコでは、「神を信じなさい。 だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」と言われたのです。 「からし種」とは、本当に小さな存在です。 手のひらに乗せてふっと吹いたら、軽くてどこかに飛んで行ってしまうような「ほこり」のようなものです。 イエスは、信仰は小さいとか、大きいとかということではない。 長いとか、短いとかという量の問題ではない。 からし種であろうが、桑の木であろうが、山であろうが同じである。 「信じる」、「祈り求める」なら、そのとおりになるとイエスは言われるのです。 イエスの言う「信じる」とは、信じることができないような時に、私たちの常識や理解では信じることができない状況の中で「信じる」ということです。 そういう意味で「信じる」なら、起こり得ないことが起きるとイエスは「使徒たち」に断言されたのです。
アブラハムは、何もわからないまま神を信じて故郷を棄てて、神の命令に従ってさまよい出たのです。 私たちは、神のみ言葉にかけて、信じてアブラハムは出発したと思っています。 しかし、アブラハムはその間、信仰の父とはとても呼べない悩める姿を顕わしています。 何度も悔い改めて、その都度祭壇を築いて主の名を呼んでいます。 その時、「アブラハムは主を信じた。 主はこれを彼の義と認められた。」と書かれています。 信仰は一度、信じたからといってそれでよいというものではないように思います。 事あるごとく、自分の祭壇を築いて、自分の祈りにふさわしい主の名を呼んで、神との交わりを何度でも回復させていただく。 「使徒たち」も同じでした。 故郷ガリラヤから何もかも棄ててイエスに従ってきたのです。 その「使徒たち」に、まるで信仰がないかのごとく、イエスは「神を信じなさい。 からし種一粒の信仰があるなら」と語りかけるのです。 「わたしどもの信仰」とこだわる「使徒たち」に、イエスは、信仰は自分の中にある能力であるとか、何かを勝ち取った資格のようなものではなく、与えられるものである。 自分の持ち物ではない。 すべてを成し遂げてくださる神により頼むことである。 だから、「からし種一粒の信仰」があるなら、あなたがたにできないことは何ひとつないとイエスは言われたのです。 神のみ心が成し遂げられることを、私たちはただ願い、受け取るだけなのです。 そのことのために、イエスは「主人と僕」の譬えを語り、「信じる」とは主人に僕として仕えるということであると言われたのでしょう。 信仰は、私たちの理解や常識を超えていても、僕としての立場に立ち続け、主人とともに生きることでしょう。
「先にガリラヤに行かれる主」 マタイによる福音書28章1~10節
イエスが十字架にかけられて処刑されていたとき、主な弟子たちは、「ユダヤ人を恐れて、自分たちの家の戸に鍵をかけて、閉じこもっていたのです。」 イエスの遺体が納められていた「墓」の様子を見に行こうとしたのは、ふたりの女性であったと言います。 墓の前には、大きな石が覆っているのを承知のうえで、居ても立ってもおれなかったのでしょう。 マタイは、「その時、大きな地震が起こった。 神の使いが降ってきた。」と表現し、神が起こした出来事が始まると告げています。 番兵による厳しい見張りがあったにもかかわらず、イエスの弟子たちによる芝居であるという風評が流されたにもかかわらず、イエスの「復活の出来事」は次第に広められていったのです。 人間がつくり上げることのできない神の業が起こったとマタイによる福音書は語っています。
墓を見に行った婦人たちに迫った神の言葉は、「恐れることはない。 十字架につけられたイエスは、ここにはおられない。 かねて言われていた通り、復活なさったのだ。」という事実でした。 「ここにはおられない。」と言われた「ここ」とはどこでしょうか。 「墓の中」です。 恐ろしい悲しい現実を突きつけられた彼女たちにとって、望みを失い、すべてを諦めてしまっている場所です。 その彼女たちに神は語りかけます。 「恐れることはない。 今、わたしが語る言葉を恐れないで、よく聞きなさい。 さあ、遺体の置いてあった場所をよく見なさい。 それから、急いで弟子たちのところに行きなさい。 そして、よく見た出来事のありのままの事実をしっかりと告げなさい。 最後に、「十字架につけられたイエスは、死者の中から復活された。 そのイエスは、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。 そこであなたがたは、そのイエスにお目にかかれる。 そのことをしっかりと告げなさい。」と言われたのです。 「そこ」とは、どこでしょうか。 ガリラヤです。 かつて、弟子たち一人一人を、自ら声をかけて召し集められたところです。 イエスが歩き回り、ユダヤの社会からはじき出された人々を憐れまれて、数多くのみ業を果たされた場所です。 神のもとからイエスを引き離そうとするあらゆる力と、霊なる戦いをずっと繰り広げたところです。 「そこ」に、イエスは人間の死を超えて、十字架刑という人間の企みを超えて、今、生きておられる。 「そこ」に先に行って、待っておられるという神の声を女性たちは聞いたのです。 神は「奇跡」が起きたことを告げなさいと言っているのではありません。 「イエスが死者の中から復活されたこと」を、「死人の中にあった者が、その死から新しく生きる命に引き起こされたこと」を告げなさい。 「人間が企んで殺して、亡き者にしたと思っているものを、神が再び引き起こして新しく立ち上がらせたことを言いなさい」と言っているのです。 死者の中から復活されるという神の約束が、イエスだけではない、弟子たちにも与えられていることを神が告げなさいと語っているのです。 「墓の中」という絶望と悲しみと諦めの中にこそ、「復活の出来事」は起こるのです。 「ここにはおられない」と言われた「ここ」から、「そこでお目に書かれる」と言われる「そこ」へと導く出来事なのです。
イエスは、「わたしは、復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、死ぬことはない。」と言われました。 「復活」は信じるものであると主イエスは言われました。 「自分たちの家の戸に鍵をかけて、恐れて閉じこもっていた」弟子たちに神は呼びかけられたのです。 「復活の出来事」は、私たち人間では説明できないものです。 私たちが信じることができるかどうか、期待して望んでいるのかどうかにかかっているのです。 私たちは、死者の中からのイエスの復活によって、ひとりでは立ち上がることのできないものを立ち上がらせる力、神の約束、復活の希望が与えられたのです。
「主の十字架の前に立って」 マタイによる福音書27章45~56節
聖書は、「十字架に釘付けられた姿」こそ、主イエス・キリストの地上の生涯の最後の姿であると語っています。 「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。」とあります。 旧約聖書の預言者たちが、神がこの世を裁かれる「終わりの日には、真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。」と預言してある。 三時という時間は、神殿において小羊がささげられる時間と符合している。 イエスは神に裁かれるために小羊としてささげられ、十字架に架けられたのです。 その時、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」というイエスの大きな叫びが響いたというのです。 立派な殉教者としてイエスを描きたいのであれば、もっと気の利いたセリフがあったでしょう。 この叫びは、神を責める、神を怨む叫びでしょうか。 挫折や心の乱れが破れ出た叫びでしょうか。 そうではないでしょう。 神は、ご自身のもとから離れさせようとするこの世の力をないがしろにするお方ではありません。 曖昧に放置することもできません。 裁かれないではおれない真実なお方です。 主イエスが十字架のうえでご経験なさっておられる姿は、本来、内面にもっているものの故に私たちが味わうはずの姿です。 私たちの中にある傲慢、弱さ、身勝手などが噴き出して、この十字架刑を引き起こしているものです。 私たちは残念ながら、その本当の恐ろしさが分かっていないのです。 永遠の裁きの中に落ち込んでいることの自覚も、危機感もないのです。 主イエスがここで叫んでいる絶望は、私たちが抱くべき絶望であり、叫びであるはずなのです。 終わりの日に私たちが味わなければならない神に棄てられるという恐ろしさを、イエスご自身だけがご存じで、私たちに替わって味わってくださったのです。 イエスの十字架の姿は、私たちが何も分からないままであるなら、当然、受けるべき最後の悲劇の姿です。 神の厳しい裁きを受ける姿です。 同時に、その裁きをみ子イエスに負わせて、手を差し伸べている神のご愛を示す神の業でもあるのです。 弟子たちは、この十字架の意味が分かりませんでした。 哀れな姿、愚かな姿、敗北者の姿としか映りませんでした。 エルサレムに行けば、イエスのそばで栄光の座に着けるかもしれないと思った弟子たちは、すべて「十字架に釘づけされたイエス」を見捨てて逃げ去ったのです。 私たちもそうでした。 何も分かっていなかった。 自分の物差しでしか、神の業を測ることができなかった。 しかし、ある日突然、神の声を聞いた。 信仰が与えられた。 神の霊に導かれるまでになった。 神との交わりに生きていると確信するまでになったではありませんか。 弟子たちもまた、イエスの十字架の後、よみがえられたイエスに出会い、十字架の死の意味を知らされるようになった。 そのために、弟子たちに聖霊を降されたのです。 まさに十字架の出来事は、父なる神と子なるイエスと聖霊の為せる業であったのです。 父なる神は真実なお方であるがゆえに、わが子を遣わしてその「死」をもって棄てざるをえなかった。 裁かざるを得ない「痛み」をもって、わが子を棄てられた。 わが子の死をもって、私たちの中にあるものを十字架に架けて殺して、徹底的にもろともに裁かれたのです。 そこには、私たちと同じ弱さを担うからだをもって、たったひとりで立ち向って、黙って引き受けてくださったイエスの「痛み」もまたあるのです。 十字架こそ、神の義しさと神のご愛が交差する「痛み」です。 その凝縮した「痛み」がイエスの叫びです。 私たちの罪の赦しを、十字架のうえで執り成している叫びです。 十字架のもとに噴き出ている人間の様々な姿こそ、私たちの中にある罪の姿です。 私たちはこの神の裁きと赦しを、感謝して受け取ることです。 神と子と聖霊の、いつまでも絶えることのない交わりに加えていただくことです。 古い罪の世界から、新しい命の世界に生き抜くことです。
[fblikesend]「従って、今や」 ローマの信徒への手紙8章1~11節
「従って、今や」と聖書箇所の冒頭にあります。 パウロは、この言葉をよく使っています。 「イエス・キリストの復活」という出来事が訪れた「今や」ということです。 神によって引き起こされたイエス・キリストの復活が、古い時代と新しい時代を分ける。 新しい時代の到来を告げる出来事であったと語っているのです。 キリスト教は、ユダヤ教の中から「イエス・キリストの復活」というひとつの事実によって分かたれた小さな群れでした。 当時の人々でさえも信じることのできなかった、説明することなどできない恐れおののく出来事であった「復活」の事実を、「従って、今や」、新しい時代が訪れたと、この小さな群れが人を恐れず大胆に語り始めたのです。 パウロは言います。 「わたしは自分のしていることが分かりません。 自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする。 自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。 死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と嘆いています。 しかし、「イエス・キリストの復活」が訪れた今、キリスト・イエスによってもたらされた霊の支配する世界が、神のもとから離れさせようとする罪と死の支配する世界から私たちを解放してくださった。 「従って、今や」、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。 キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」とパウロは宣言しているのです。 最初の人アダムが神に背いて、そのからだに浸みこませてしまった罪の力、人間ではどうすることもできない死の力から解放された。 私たちの本性とも言うべきものの中に、神に背かせようと支配する強大な力がある。 それを「肉」の中にある「罪」と言っている。 それをイエス・キリストを通して神が裁かれた。 これがイエス・キリストの十字架の「死」である。 その「死」によって私たちの「罪」と「死」が裁かれたと言っているのです。
しかし、神はそこで終わらせない。 その「罪」と「死」に眠ってしまっている私たちの最初の人として、初穂として、「罪」と「死」に縛られている私たちの代表として、神はイエス・キリストを、「肉の思い」が浸みついたからだから解放し、新しい命に生きる「霊の思い」が支配する新しい世界を実現された。 古い体を抱えて、なおも「罪」と「死」の支配を頻繁に試みられるこの現実の中で、イエス・キリストの復活の出来事に与かる者として、イエス・キリストに属する者として新しい霊の命に生きることが赦されるようになった。 新しい時代が始まったとパウロ自身の今の体験を伝えているのです。 パウロは、「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり」と言います。 「キリストがあなたがたの内におられるならば」、あるいは「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら」、「あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださる」と言っています。 この「生かす」という言葉は、「命」を「つくる」という合成された言葉が使われています。 「復活させる」ということです。 私たちを神のもとから離れさせる、神を見えなくさせる、神の声を聞えなくさせるすべてのものからの解放が、私たちの「救い」です。 最初の人アダムによって失われてしまった「神との交わり」を取り戻すことです。 そして、もうひとつの「救い」の側面は、「霊」が与えられるということです。 神の霊です。 キリストの霊です。 イエスを死者の中から復活させたお方の霊です。 この霊が、私たちに神を知らせるのです。 人間の能力や資格や頑張りでは知ることのできない、神を知る力が与えられるのです。 神が求めておられること、神が喜ばれること、神のみ心を知る力が与えられるのです。 これによって私たちはイエス・キリストの復活に与かり、キリストに属する者となるのです。
「わたしの契約」 創世記17章1~8節
「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める。 祝福の源となるように。 あなたは生まれ故郷を離れて わたしが示す地に行きなさい。」とアブラハムが命じられたのが75歳のときでした。 「あなたの子孫に、約束の地を与える」という神の祝福が約束されていたのに、未だかつて一向に果たされない。 「主なる神よ、いったい、いつあなたはあの約束を果たしてくださるのでしょう。」と叫びたくなるアブラハムであったでしょう。 妻サラの申し出にのってしまって、神の祝福を信じて待つことなく、別の女性によってイシュマエルという子どもをもうけてしまった。 神の祝福を疑い、自分たちの知恵に頼ってしまい、自らが願う祝福を自分たちだけで造り出してしまうという、不信仰による過ちを神の前に犯してしまったのです。 それが、アブラハム86歳の時です。 それから13年経っても、約束された祝福が何も叶えられていないそのような時に、アブラハムが神に再び呼びかけられたのが今日の聖書箇所です。
「アブラハムが99歳になったととき、主はアブラハムに現れて言われた。」のです。 「わたしは全能の神である。 あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」 「全能の神」という言葉は、破壊する、力をもつという意味の言葉が使われています。 ないものを造り出す、あるものを破壊して自らのみ心に従って再び造り上げる。 わたしは力である。 全能であるとアブラハムに向かって言われたのです。 だから、「あなたはわたしに従って歩みなさい」と言われた。 それだけではない。 「あなたは全き者となりなさい。」と言われたのです。 失敗しない、完全無欠の人になりなさいということではないでしょう。 「ノアは神に従う無垢な人であった。 ノアは神と共に歩んだ。 ノアはその時代にあって全き人であった」と言われていることと同じ意味でしょう。 アブラハムが、神の約束された祝福を待ち切れずに、自分たちだけで祝福を造り上げようとしたことも神はすべてご存じです。 自分の力だけでは、「全き者」、神を信じ切って神の言葉に従い続ける者となることはできません。 全能の神に出会って、語りかけられて、注がれる霊によって初めて、神の言葉に生きることができるようになるのです。
更に神は、「わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立てる。」と一方的に言われました。 神は、この契約は「わたしの契約」である。 わたしが計画を立て、その計画を持ち続け、もっともふさわしい時に、わたし自らが成し遂げる「わたしの業」であると言うのです。 ですから、神の一方的な祝福なのです。 「恵み」と言われるものなのです。 アブラハムというひとりの人物に与えられた、期限のない永遠の契約です。 必ず、神ご自身が自らに誓って、成し遂げてくださる確かな契約です。 これはアブラハムだけに与えられた特別の祝福でしょうか。 この永遠の祝福に、私たちも連なっていると聖書は語っているのです。 私たちが諦めて、見ようともしないで、期待しないで、受け止めていない祝福があるのです。 神の祝福を侮っても、軽くみてもならないのです。 私たちにとって、「あなたの子孫」とは何でしょうか。 「永久の所有地」とは何でしょうか。 100歳と90歳の夫婦が、それぞれに新しい名前を与えられて、整えられ、変えられていったのです。 二人には、「祝福の源になる」という務めが与えられたのです。 「祝福の源」となるようにと、何でもおできになる神が年老いた二人に祝福を与えてくださったのです。 私たちにも同じ務めがあります。 私たちに連なる人たちが、この確かな神の祝福に与かるため、神との特別の関係となるためです。 そのために、私たちは救い出され、祝福を豊かに与えられているのです。 ですから、「わたしの契約」という神の祝福に、私たちは大いに期待するのです。
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