「人間をとる漁師」 ルカによる福音書5章1~11節
聖書では、「舟」は教会の群れを象徴的に表します。 ルカによる福音書は間違いなく、マルコやマタイの福音書とは異なり、イエスが招き呼びかける前に、ガリラヤ湖に一晩中漂った漁師たちの姿を語りたかったのでしょう。 夜通し、自分たちの経験と知恵によって漁を試みたが、何も得るものがなかった。 その疲れ果てた、それでも次の漁のために舟から上がって網を仕方なく洗っている漁師たちの現実の姿をどうしても描きたかったのでしょう。 そのような漁師たちの状態の時にこそ、イエスのみ言葉の挑戦があるのです。 「もう一度、ガリラヤ湖の沖に漕ぎ出して、網を降ろし漁を試みなさい。」 このイエスの挑戦に漁師たちの腹の中は、「何を言っているのですか。 そんなことしても無駄でしょう。」のささやきで満たされます。 何がそうさせたのかはっきりとはしないが、シモン・ペトロはイエスに、「あなたのお言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」と答えただけでなく、イエスの言われたとおりに沖に漕ぎ出して、網を降ろしてみた。 すると、網が破れそうになるほど、また二そうの舟が沈みかけるほどに、大量の魚が取れた。 自分たちの暮らしの経験や知恵の虚しさを知らされた。 人間の業ではない、思いもつかない驚くべき神の業を目の当たりにされた漁師たちは、イエスの前にひれ伏した。 ここで引き起こされた大事なことは、一匹の魚も取れなかったガリラヤ湖で大量の魚が取れたことでしょうか。 その神の業に、漁師たちの身に大きな変化が引き起こされたことでしょう。 シモン・ペトロは漁師たちを代表して、「主よ、わたしから離れてください。 わたしは罪深い者なのです。」と告白し、自分の腹の中にあったものをイエスの前にさらけ出します。 神の業の前に、人間の業の虚しさやひそやかな驕りや誇りが砕かれます。 自分の本当の姿があぶり出されます。 そして、「先生」と呼びかけていたシモン・ペトロが「主よ」と呼びかけるまでになるのです。 ルカによる福音書は、「網を降ろし、漁をしなさい」というイエスの命令は、用意された恵みを与えようとしたイエスの約束の言葉であったと、シモン・ペトロの告白を通して語ったのではないでしょうか。 マルコやマタイで語られた「人間をとる漁師しよう」ではなく、「人間をとる漁師になる」と、神の祝福の約束であったと語っているのです。 この漁師たちの姿が、イエスの招きに強い決断をもって、信念をもって従った姿に果たして映るでしょうか。 どう考えても、強い決断をもって何もかも捨てて、故郷も、家族も、仕事も、舟も捨てて喜び勇んでイエスに従った姿に、ルカは描いていないのです。 心から信じていなかったかもしれないが、またやっても結果は同じであろうと思っていたかもしれないが、それでも従った漁師たちの姿を彼らの信仰と受け取って、神の業を引き起こしてくださったのです。 これは、この漁師たちがもっとも知り尽くしていると自負している湖の漁の場で、彼ら自身が自分たちの経験や知恵の及ばない神の業を味わい知るためであったのでしょう。 ヨハネによる福音書は、この箇所を復活してよみがえられた後に弟子たちのところに現れた出来事として語っているのです。 そこでも、一匹の魚も取れなかった弟子たちをご覧になって岸に立って待っておられたイエスは、「舟の右側に網を打ちなさい。 そうすれば魚は取れるはずだ。」と弟子たちに呼びかけるのです。 大漁の業を起こしただけでなく、大量の魚の網を引いて陸に戻った弟子たちのために炭火を起こし、そのうえに魚をのせ、パンまで用意し、「今、手にすることのできた魚をもってきなさい。 さあ、来て、朝の食事をしなさい。」と招くのです。 「人間をとる漁師になる」とは、暗闇の中にあったところから解放されて、イエスとともに新しい朝の食事に与るという、祝福の約束なのではないでしょうか。
[fblikesend]「自分を吟味する」 コリントの信徒への手紙二13章5~10節
パウロは自分自身のことを、赤裸々に告白しています。 「面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出るとわたしは思われている。 手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらないと言われている。 加えて、わたしには一つのとげが与えられている。 わたしを痛みつけるこのとげを離れ去らせてくださいと三度主に願い出たけれども叶わなかった。」 コリントの教会の人たちもまた、パウロについてこう言うのです。 「この教会を立ち上げたのは確かにパウロであるけれども、後から入ってきた指導者たちと比べてみても霊的な力が劣っているのではないか。 風采もあがらない。 『使徒』としての資格も与えられていない。 エルサレムの教会のために熱心に献金を募っているが、私腹を肥やすためなのではないか。」 そこまで言われても、パウロはコリントの教会のために祈り続けるのです。 危機的な状態にあったコリントの教会を立て直そうとするのです。 パウロは嘆いています。 「わたしは心配しています。 そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待しているような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではないというようなことにならないだろうか。 争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。 以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。 「涙の手紙」と言われているこの手紙の最後の章で、パウロはその締めくくりとして訴えるのです。 「厳しい態度をとらなくても済むように、自分を反省し、自分を吟味しなさい。」と言うのです。
パウロは、自分のとった行動を胸に当てて、静かに顧みることを求めているのでしょうか。 そうではなく、「信仰に生きているのかどうか、信仰のうちにあるのかどうか、自分を吟味しなさい。」とパウロは言っているのです。 「信仰に生きているのかどうか」と問われれば、私たちはすぐに自分自身の中に信仰を持っているのかどうか。 持っているとしたなら、それが深いものであるのかあるいは浅いものであるのかと問いたくなります。 「信仰」とは、私たちが所有したり、捨てたりできるものなのでしょうか。 自分の理解や納得や経験によって、持ったり、捨てたりするものではないように思います。 聖書は、「信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 聖霊によって与えられるものです。」とはっきり語ります。 私たちが修行して、励んで、その結果勝ち取るものではありません。 神に呼びかけられ、その言葉に聴いて、それに応えて従って行こうとするところに、神によって悟らされるものであるように思います。 パウロはそれを、「イエス・キリストがあなたがたの内におられる、その状態を言う。 自分自身のうちにイエス・キリストが宿っていることが、あなたがたは分からないのですか。」と言うのです。 私たちがつかむ「信仰」ではなく、私たちの内がイエス・キリストに占領されて、捕らえられている、私たちに与えられる「信仰」ということでしょう。 ですから、自分自身の内を「吟味しなさい」と言うのです。 パウロはこのイエス・キリストというお方に従って行くなら、崩れ落ちてしまっているコリントの教会の群れもまた、造りかえられると本気で、諦めずに信じているのです。 これが十字架のイエスに従ったパウロの生き方です。 神が私たちの内にいますことを悟らせるのは、神の業です。しかし、悟らせてくださいと本気で、諦めないで祈るのは、私たちの仕事です。 この神の力を信じて従うなら、波風も立つでしょう。 痛みも苦しみも伴うでしょう。 しかし、そこに神の憐れみ、ご愛が注がれ、恵みに与るのです。
「ネヘミヤの祈り」 ネヘミヤ記1章1~11節
ネヘミヤは、ユダの国がバビロニア帝国に屈したため異教の地に追いやられたその民の子孫でした。 故郷のこと、その都エルサレムのこと、取り残されたユダの人々のことは片時も、その頭から離れなかったのでしょう。 ペルシャの宮殿の中にあって、「献酌官」であったと言います。 「献酌」とは、酌をささげる務めをもつ者ということです。 平たく言えば、王の毒見役です。 王が毒殺されるということが頻繁に起こっている時代には、王の信頼の厚い人物であったということでしょう。 そのような時に、ネヘミヤのもとにユダから幾人かの客人が訪れました。 故郷のことについて片時も忘れることのなかったネヘミヤは、その客人に「捕囚を免れてユダに残っている人々の状況について、また、エルサレムの状況について」尋ねるのです。 彼らの返事は、「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。 エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」というものでした。 これを聞いてネヘミヤは、「座り込んで泣き、幾日も嘆いた」とあります。 そこから、ネヘミヤは立ち上がってすさまじい祈りを始めるのです。 食を断ち、神に向けて祈るのです。 この故郷の乱れ、エルサレムの荒れ放題の状態こそ、イスラエルの人びとの中にある問題である。 イスラエルの神との交わりがおろそかになっている。 そこから引き起こされていることである。 この乱れが故郷の人びとの群れの中から、また群れの外からも忍び込んで、今や壊滅的な状態にまで落ち込んでいる。 ネヘミヤは場所こそ遠く離れているが、このイスラエルの人々とともにその悲しみや苦しみを共にするために祈るのです。 嘆いたままでなく、「祈り」によって人々の神との交わりの回復を堂々と神に願い求めたのです。
「おお、天にいます神、主よ、偉大にして畏るべき神よ」と呼びかけます。 神は、「ご自身を愛し、ご自身の戒めを守る者に対しては、契約を守り、慈しみを注いでくださる。」お方である。 しかし、「もしもご自身に背を向け、ご自身の戒めを守らないなら、諸国の民の中に散らすことのできるお方である。 ところが、ご自身にもう一度立ち帰り、ご自身の戒めを守り、行うならば、天の果てまで追いやられている者があろうとも、ご自身は彼らを集めて、ご自身が選んだ場所に再び連れ戻す」ことのできるお方であると祈るのです。 過ちを犯す者を散らすお方は、悔い改めて戻ってくる者を必ず赦し集めてくださるお方である。 これは神の契約である。 神の約束の言葉である。 だから、ユダの人々から伺った悲しい知らせもまた、自分たちがこの契約の約束の言葉を信じ、この御言葉の約束に立ってもう一度向きを変えて、神のもとに立ち帰るなら、その悲しみは喜びに変えられる。 神のみ言葉の約束の確かさは揺らぐことがないと、ネヘミヤの「祈り」は続いたのです。
「あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈りに、どうか耳を傾けてください。 どうぞ、今日、わたしの願いをかなえ、この人の憐れみを受けることができるように」と祈りをしめくくっています。 「この人」とは、ペルシャの今の王のことです。この王に許可をもらってイスラエルに戻って、イスラエルの再建、エルサレムの修復、イスラエルの民の礼拝の再建を図ろうとしたのです。 ネヘミヤの祈りには、異教の国の王でさえも神は用いて、動かして、ご自身の約束されたみ言葉を成し遂げるお方であるという確信があるのです。 この再建は、ひとりの食を断っての「祈り」から始まりました。 王の許可を得たネヘミヤと人々が味わった喜びは、修復された城壁でもエルサレムの再建された新しい姿でもありません。 赦して、連れ戻して、再建させて「ひとりの人のように」集めてくださった神を人々は、賛美して喜んでいるのです。
「開かれた目」 ルカによる福音書24章13~35節
二人の弟子が、エルサレムからエマオという村に向かって歩きながら、その不思議な、驚くべき一切の出来事について論じ合っていました。 自分たちの王として必ず私たちをこのような苦しい状態から救い出し、解放してくださると信じ込んでいたそのイエスが、人々に嘲られ、見捨てられ、ローマによって十字架の刑に処刑されて殺されてしまった。 ところが、イエスの遺体が納められているはずの墓に、遺体を包んでいた亜麻布と覆いしか残されていなかったという婦人たちの知らせが、その絶望の中にいた弟子たちに届いた。 弟子たちは、「たわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」と言うのです。 そのような失意と不安と恐れに包まれた時のエルサレムからエマオに戻る二人の弟子の旅の途中のことでした。 ひとりの見知らぬ旅人が近づいてきて、一緒に歩き始めた。 そして、「歩きながらやり取りしているその出来事は、何のことですか」と尋ねた。 そして、その出来事こそ、「聖書全体にわたり書かれていることだ」と、聖書の説き明かしを二人の弟子にしたと言うのです。 しかし、二人の弟子はその人物がだれなのか分からない。 「二人の目は遮られていた」と、聖書は言います。 霊の目をもたない人間が霊の世界に触れると、こうなるのでしょう。 霊の世界のものから働きかけられなければ、見えている姿がいったいだれなのか、見えている出来事がいったいどういうことなのか今までの経験や理解だけでは分からないのです。 尋ねられた二人の弟子はその見知らぬ人物に、「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」と応えています。 ここでついにこの見知らぬ旅人は、二人の弟子に厳しく言うのです。 「物分かりが悪く、心が鈍く聖書が語っている、預言者たちの言ったことをすべて信じられない者たちたちよ。 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。 聖書にはそう書いてある。」と言うのです。 「物分かりが悪く、心が鈍く」とは、私たちの心の頑なさを語っているのでしょう。 聖書全体は、このわたしについて証しするものであるとイエスは言われました。 終わりの日に見えてくるものが、今、開かれた。 隠されていたものが、今、現れ出た、説明されたと見知らぬ旅人は言っているのです。 そう言われた二人の弟子に、ここで「祈り」が与えられます。 「一緒にお泊りください」という願いです。 先を急ごうとした見知らぬ旅人を、「無理に引き止めた」とあります。 襟首をつかんで迫るぐらいの激しい祈りです。 その願いを受け止めて一緒に家に入って食事についたときです。 この世の世界にはない霊の世界が広がったと言うのです。 食事の席でパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡すのは、その家の主人のふるまいです。 二人の弟子のどちらか一方が取るべきふるまいであったでしょう。 客人であるはずの見知らぬ旅人が、この家の主人となってパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡したのです。 そのとき、二人の弟子の目が開け、見知らぬ旅人がイエスであると分かったと言うのです。 目が遮られていた二人の弟子が、霊の世界に触れた瞬間です。 霊の世界のものが近寄ってきて、一緒に歩いて、語りかけたのです。 イエスはご自身の十字架の命をささげて、聖書のみ言葉に命を与えて、二人の弟子の魂にイエスのみ言葉を打ち込んだのです。 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われたイエスの生きたみ言葉を、二人の弟子の心に刻まれたのです。 二人の弟子は、「道で話しておられるとき、また聖書の説明をしてくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」と振り返っています。 イエスを自分たちの主人として迎え入れ、礼拝をささげたとき、「二人の目は開かれた」のです。
[fblikesend]「一緒に喜ぶ」 フィリピの信徒への手紙2章12~18節
離れ離れになっているフィリピの人々へ、「今はなおさら従順でいて、恐れおののき自分の救いを達成するように努めなさい。」とパウロは勧めています。 聖書の言う「従順」には、「応える、響く」という意味合いが込められています。 戸口の扉をノックする呼びかけに応えて、その扉を開ける意味合いです。 私たちは、この語りかけ、呼びかけを祈りの中で、聖書のみ言葉から、様々な出来事を通して聴くでしょう。 神はそれぞれにふさわしく語りかけてくださっているのです。 パウロはこの神の呼びかけに応えて、「恐れおののき」と言います。 私たちはいつでも、どこでも自由に、自ら聖書を読むことができるようになって、そのみ言葉だけを取り出してしまう。 そのみ言葉だけを取り出して、一般化し、抽象化し、すべてのことに当てはめることのできる万能な言葉に仕立ててしまう。 神が語りかけてくださっている言葉を、狭い範囲の中に閉じ込めてしまう。 そのみ言葉を語られたお方の存在を忘れてしまうということがあるのではないでしょうか。 そのみ言葉を語りかけてくださっているお方に対する「恐れ、おののき」を忘れてしまう。 そのみ言葉に聴き、自らを神の前にささげることを忘れてしまう。 「神を畏れる」ということを忘れてしまってはいないでしょうか。 パウロは、「あなたがたの内に働いて、み心のままに望ませ、行わせておられるのは神である。」と言うのです。 神のノックに応えて、扉を開けて、受け入れて、神に向き合うひとりびとりの中に、神は働いてくださると言うのです。
そうすれば、「とがめられることのない清い者となる。 よこしまな曲がった時代の中で、非の打ちどころのない神の子となる。 この世にあって、星のように輝く。 命の言葉をしっかり保つことになる。」とパウロは言うのです。 「とがめられるところのない」とは、完全無欠の者になるということではないでしょう。 正しくなくとも、神の呼びかけに応えて、向きを変えて、神の赦しを受け入れているということでしょう。 「よこしまな曲がった時代」とは、どういうことでしょうか。 正しいことが示されなければ、正しくないことはいつまでたっても分からないでしょう。 まっすぐなものがなければ、曲がっていることにいつまでも気づかないでしょう。 イエスは、そのような中にあって「あなたがたは地の塩である。 世の光である。」と言われたのです。 また、「非の打ちどころのない」とは、神の前にささげられるにふさわしいもの、神の子となるということでしょう。 「道であり、真理であり、命である」この私に従って歩むなら、神に赦されて、その恵みによって「非の打ちどころのない神の子となる。」 それぞれにふさわしい「輝き」を、困難なこの世にあっても備えてくださる。 イエス・キリストこそ、ご自身を捧げ尽くした人間の象徴です。 人間がささげる真の礼拝の姿です。 「わたしの通った道に従いなさい。 ともに歩みなさい。」と言われて、同じように「神を畏れて」自分自身をささげようとすることこそ、私たちのささげる礼拝です。 イエス・キリストの「命の言葉をしっかりと保つこと」です。 「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。 これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」とパウロは言うのです。 そうすれば、最後の時には、「自分が走ったことが、無駄ではなかった。 自分が苦労したことも無駄ではなかった。 あなたがたの内に働いて、み心のままに望ませ、行わせておられるのは神であった。」と分かる時が必ずくる。 その歩んだ足跡がたとえどのようなものであったとしても、神の前にささげられた私たちの拙い歩みを神は誇りとしてくださる。 輝きとしてくださる。 だから、「わたしは喜びます。 あなたがた一同と共に喜びますと言うのです。 同様に、あなたがたも喜びなさい。 わたしと一緒に喜びなさい。」とパウロは言うのです。
「パウロの祈り」 フィリピの信徒への手紙1章3~11節
パウロのフィリピでの滞在は、ほんの数日間であったと言います。 その地の「祈りの場」で語られたパウロの言葉によって、ひとりの女性がバプテスマに導かれた。 ところが、ある出来事によってパウロたちは捕らえられ、牢に投獄された。 その牢獄の中にあっても、賛美の歌をうたって神に祈るパウロたちの姿によって、人々は大きな影響を受けたと言います。 「主イエスを信じなさい。 そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と、パウロはこのフィリピの地で語ったと言います。 フィリピの人々とのほんのわずかな交わりであったはずです。 それが脈々と今もなお続いて存在している有様がよく分かります。 今朝の聖書箇所は、そのフィリピの教会の人々へ牢獄の中から書き送られたパウロの手紙なのです。 そのような厳しい状況にあるパウロが、フィリピの教会の人々の存在によって支えられている。 「監禁されているときも、福音を弁明し、立証するときも」、その存在を神に感謝している。 その人々のために喜んで祈っていると言うのです。 逮捕され、投獄されているパウロが、フィリピの教会の人々の生きている姿によって支えられている。 わずか数人で始められたフィリピの群れが今もなお生きて、パウロによって語られた福音とともに、フィリピの地で生き続けていることに、パウロは神に感謝し、いつも喜んでいると言うのです。 このパウロとフィリピの教会の人々をつなげるものは一体何でしょうか。
パウロはその理由を、「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずっているからです。」と言います。 そして、「最初の日から今日まで、あなたがたの中で善い業を始められた方が、その業を最後の日までに成し遂げてくださると確信しているからです。 あなたがた一同を、共にその方の恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。」と言うのです。 恵みに触れさせて、ここまで導いてくださったお方が最後まで事を成し遂げてくださる。 この自分自身の恵みのみならず、フィリピの教会の人々が今、「共に恵みにあずかる者」として存在していることが、わたしの喜び、わたしの神に対する感謝であるとパウロは訴えているのです。
とても恵まれた者とは言えないような、今は逮捕され、投獄されているパウロにも、また最初の時のわずかな群れであったフィリピの教会のあの人、この人にも、「最初の日から今日まで変わることなく、神は呼びかけ、招いてくださっている。 生きて働いておられる。 あの人も、この人も見捨ててはおられない。 神は最後の時まで、そのみ心を果たすまで働いてくださる。 そのことは、あなたがたの姿を見ていれば分かる。」とパウロは言うのです。 この確信を自らの体験だけでなく、この小さな群れであるフィリピの教会のひとりびとりの姿に、「共に恵みにあずかる者」の姿に、パウロは慰められ、励まされているのです。 ですから、私たちのこの小さな姿もまた、大きな務めがあるのです。 「共に恵みにあずかる者」を物語る存在なのです。
パウロがフィリピの教会の人々に見たように、「共に恵みにあずかる者」の存在が私たちにも必要なのです。 ですから、パウロはフィリピの教会の人々のために祈っています。 「知る力と見抜く力とを身に着けて、イエス・キリストの愛がますます豊かになって、本当に重要なことを見分けられるようになって、神に属する者となって、信仰の実をあふれるほどに受けて」、「神の栄光と誉をたたえることができるように」と祈っているのです。 私たちもまた、この祈りに支えられて、主イエス・キリストのとりなしの祈りに支えられて、精いっぱい教会の内でも、教会の外でも、ご家庭でも、主の恵みを共に喜び、賛美して参りたいと心から願います。
「主と同じ姿に造りかえられる」 コリントの信徒への手紙二3章18節
「キリスト教保育」という小冊子に、「ことばは人そのもの、まさに命なのです。 穏やかな性格だから穏やかなことばづかいをするのではありません。 穏やかなことばが穏やかな性格をつくっているのです。」と書かれていました。 なぜ言葉が変われば、性格が変わると言っているのでしょうか。 言葉は、聞く者があって初めて語られるものです。 相手の人格に対する呼びかけ、働きかけです。 相手に言葉が語られる時、その働きかけによって生まれる相手の応答があるはずです。 その応答に今度は、言葉を語った者が働きかけられるのです。 その響き合いの中で互いに人格が影響され、造り上げられていく。 言葉はそうした力をもつ、「人そのもの、まさに命なのです。」 聖書は、神の言葉こそ、人間の人格に対する神の働きかけです。 神のご真実、ご愛の言葉の語りかけです。 神の言葉による霊の働きかけです。 人間の本性と在り方そのものを変えていく力であると言っているのです。 「造りかえられるのは、神の働き、霊の働きです。 これは主の霊の働きによることです。」とパウロははっきりとこの手紙で語っているのです。
私たちがどのような姿に造りかえられるのかをパウロは、「顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられる。」と表現しています。 「覆いを除かれた鏡」とは、鏡に「覆い」がかけられているなら、神の働きによって照らされた光を、「覆い」が邪魔をして遮ってしまう。 鏡は、もともと神を現す「栄光」の輝きをもっているわけではない。 この「覆い」こそ、私たちの固定観念や自分のものさしや常識でしょう。 狭い自分の経験でしょう。 そのような「覆い」が取り払われて、解放されて、神が注ぎかけてくださっている光を映し出すことができる鏡へと造りかえられていく。 そして、「主と同じ姿」になっていくとパウロは言うのです。 パウロが語るその意味は、十字架に架かるその直前に、父なる神にささげておられる主イエスの祈りに示されています。 主はこの地上に遺していくことになる弟子たちに向けてこう祈っています。 「真理によって、彼らを聖なるものとしてください。 あなたのみ言葉は真理です。 父なる神がわたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。 彼らも、真理によってささげられたものとなるためです。」ととりなして祈ってその直後に、十字架のうえにご自身をささげられたのです。 主イエスの生涯は、神のご用のためだけに歩まれた生涯でした。 聖なるものとなるということは、イエスと同じように父なる神のご用のために「用いられる、ささげられる」ということでしょう。 人間イエスの姿こそ、その象徴です。 私たちの過去の姿がどうであったとか、今の姿がどのようなものであるのかに関わりなく、神は私たちを用いてくださるのです。 神の霊の働きによって、このようなはかない存在であっても神は選び出して、用いて、ご用のためにささげてくださるのです。 そのことを信じ、望みをもつ者には、主と同じように「霊に仕える務め」が与えられるというのです。 これをパウロは、「主と同じ姿に造りかえられる」と言っているのではないでしょうか。 「造りかえられる」のは、一回限りのことではありません。 日々新たです。 ひとりひとりに与えられたその生涯を閉じるまでの神の働きかけの体験の連続です。 パウロは、造りかえられることに身を委ね続けなさい。 その希望をもって身を委ねていく途上の旅人として、「過ぎ去りゆくものに目を奪われないで、見えないものに目を注ぎなさい。 神は必ず用いてくださるという希望をもって、この神のご真実とご愛に身を委ねなさい。」とパウロは語っているのです。
「赦されることの少ない者」 ルカによる福音書7章36~50節
シモンと呼ばれる「ファリサイ派の人」と、町の人々に「罪深い女」と呼ばれているひとりの女性が登場しています。 「ファリサイ派の人」とルカによる福音書が語る人とは、自分たちこそ律法を遵守し、神の前に正しい者であると誇り、律法を守ることのできない者を罪人と称して軽蔑していた人のことです。 イエスが、このシモンの家に食事に招かれた時のことです。 この女性が突然入ってきた。 客人であるイエスの足元に近寄って、涙を流したと言います。 その涙にぬれた足を、自らほどいた自分の髪の毛で拭い始め、拭われた足に何度も接吻し、そこに自ら持ち込んだ石膏の壺から香油を惜しげもなく注いだと言うのです。 シモンの側からすると、罪人と一緒にいることも、食事をすることも、そのからだに触れることも禁じられていたユダヤ社会でした。 女性がひとり男性の中に入ってくることなど論外でした。 周囲の人々からどのように見られようが全くおかまいなく取った女性の行動なのです。
彼女はこの出来事の直前に、イエスがこの町の会堂で語られた教えを耳にしていたのかもしれない。 その教えに感激し、何もかも忘れて、その感謝と喜びに涙があふれ出たのかもしれない。 そのままの勢いでこのふるまいに及んだのかもしれない。 ただ分かっていることは、この女性をだれも相手にしていなかったということです。 シモンが心の中で、「罪深い女なのに」とつぶやいていたほどに、社会から切り捨てられていた存在であったということです。 その彼女が、このお方は町の人々とは違っていた。 こんな私にも語りかけてくださった。 「罪深い女」と言われても仕方のないこの私を受け入れてくれた。 その罪を責めることもなかった。 彼女は今まで泣きたくても、泣くことができなかったのでしょう。 泣いて訴える人が、この町にはいなかったのでしょう。 今なら素直に泣くことができる。 安心して泣くことができる。 その喜びに、彼女はあふれたのでしょう。 このお方ならこのわたしを受け入れて、赦してくださるのではないかと直感した。 その彼女の精いっぱいの感謝が、このふるまいとなってイエスの前であふれ出たのでしょう。 彼女の現状は何も変わってはいなかったでしょう。状況には何の変化もなく、何の解決もなかったでしょう。 周囲の目は依然として、「罪深い女なのに」と彼女を取り囲んでいたのでしょう。 しかし、彼女自身が変えられたのです。 本当に裁くことができ、本当に赦すことのできるお方に出会ったことに気づいて、彼女は涙が喜びで止まらなくなったのです。 無我夢中で喜んで感謝している姿に、彼女は造りかえられたのです。 イエスはこの女性の姿をご覧になって、シモンに譬えを用いて言われたのです。 「あなたは足を洗う水もくれなかった。 接吻の挨拶もなかった。 頭にオリーブの油を塗ってくれなかった。 しかし、この女性は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛で拭ってくれた。 わたしの足に接吻をしてやまなかった。 足に香油を塗ってくれた。 この女性が多くの罪を赦されたことは、わたしにしたこの愛の大きさで分かる。 赦されることの少ない者は愛することも少ない。」と言われたのです。 たくさん感謝したから、この女性は赦されたのではありません。 「彼女が多く赦された結果、このわたしに仕えて多くの感謝を表したではないか。 神の憐れみがなければ生きていくことのできない人、赦しを必要とする人と、律法を守っているから赦されると自ら誇る人、神の赦しを必要としない人がいる。」と、「罪深い女」の姿を通して「シモン」にイエスは語られたのです。 シモンにも、この「罪深い女」と同じように、「赦されることの少ない者」から、「赦される喜びに生きる者」へと造りかえられるようにと、イエスは招いてくださっているのではないでしょうか。
「主イエスの十字架で叫ぶ姿」 マタイによる福音書27章45~56節
イエスが十字架の上で最後に見せた人間の姿の受け止め方は、福音書によって異なっています。 このマタイによる福音書では、「イエスは、大声で叫ばれた。 わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですかと叫ばれた。 そして、再び大声で叫び、息を引き取られた。 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった。』と言った。」とあります。 マルコも概ね同じように記されています。 ところが、ルカによる福音書によると、「イエスは大声で叫ばれた。 『父よ、わたしの霊を御手に委ねます。』 こう言って息を引き取られた。 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。」とあります。 ヨハネによる福音書によると、「イエスはすべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。 『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」とあります。 私たちが望む人間の最後の姿は、「静かに動揺することなく心穏やかに死を迎える姿」なのではないでしょうか。 また、死者を天に送る遺された者にとっても、「死」に至って平静に動じることなく、感謝して「死」を迎える姿であってほしいと心から願うでしょう。 ましてや、私たちが信じて従ってきたイエスの最後の姿は、ルカが語るように、父なる神にすべて委ねる姿であってほしい。 ヨハネが語るように、地上の生涯を終えて、晴れ晴れと父なる神のもとへ戻って行かれた姿であってほしい。 マタイやマルコが語るような、神を恨む言葉にとられかねない言葉を聞きたくない。 どのような状態に置かれたとしても動じない、強くて立派な正しい人であってほしい。 これが私たちの思いではないでしょうか。
イエスにとって、肉体の痛みや苦しみなど問題ではないでしょう。 人々から、弟子たちからでさえも見捨てられるということなど、大した問題ではなかったでしょう。 イエスが痛み、苦しんでおられるのは、父なる神から捨てられるという孤独な立ち位置に立たされている現実です。 神のもとから引き離そうとする罪の力は、神によって裁かれなければならない。 神が曖昧にしておくことのできない、毅然として立ち向かわなければならないものです。 イエスが、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と言われたように、この世の虜となって、罪に縛られているこの私たちを救うために、何度も招き続けてくださっているのです。 その招きを受け取ろうとしない私たちの罪を見逃すことのできない、裁かなければならない神としての痛みがあるのです。 この神と人との交わりを破壊するものを一身に引き受けて、私たちを赦してくださったこの「裁きと赦し」が、神の憐れみであった、恵みであった、愛であったと私たちは知らされたのでした。 マタイ、マルコは、この神ご自身の叫びを、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びに凝縮したのではないでしょうか。 十字架に架けられたイエスの姿こそ、私たちが受けなければならない人間の行き着く先の姿です。 見物人の立場で傍観しているだけなら、このイエスの十字架の姿は何も語らないでしょう。 「わが神」と叫んでいるイエスの中に、この「わたし」がいなければならないはずです。 神の前に裁きを受けているこの「わたし」がいなければならないはずです。 神のもとから遣わされた者を受け取ることなく、十字架に架けてしまった「わたし」の姿があるはずです。 最後の最後まで父なる神に信頼し、詩篇22編の冒頭の言葉を叫び、呼びかけておられるイエスの姿は、絶望してうなだれて、弱さをさらけ出して、それでもすがって再び立ち上がる人間の姿をからだをもってイエスご自身が示しておられるのです。
「世から選び出された恵み」 ヨハネによる福音書15章18~25節
「世がわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」とあります。 この「憎んでいた」という言葉は、「拒んでいた」と訳してもいいかもしれません。 弟子たちの足を一人ずつ洗って、「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」と言われるほど、わたしとあなたがたは一体である。 だから、この世がわたしを拒むように、あなたがたをもこの世は拒むのである。 わたしを迫害するように、あなたがたをも迫害するのである。 それは、「わたしがあなたがたをこの世から選び出したからである。」とイエスは言われたのです。 この私があなたがたを選び出して、この世から連れ出したからである。 あなたがたはこの世にあって、もはやこの世に属していないのであると言われたのです。 イエスが告白しているように、「もし、わたしが来てこの世に向けて言葉を語らなければ、この世の過ちは見えなかったであろう。 もし、わたしがこの世においてだれも見なかった業を行わなかったならば、この世の過ちに気づかなかったであろう。」 イエスの言葉と業という「光」がこの「暗闇」を照らしたから、この世の「暗闇」が見えてきた。 イエスの「光」とこの世の「暗闇」がはっきりと分かれた。 イエスに結びついている弟子たちとこの世がはっきりと分かれたとイエスは言うのです。
この「この世のもの」と「神に属するもの」との違いはいったい何でしょうか。 イエスは、「わたしをお遣わしになった方を知らないことだ」とはっきり言います。 私をお遣わしになった父なる神を知らないから、私を拒んでいる。 私を拒んでいる者は、私の父をも拒んでいることさえ分からない。 父なる神にこの私が遣わされなかったなら、この世は「暗闇」のままであった。 しかし、そこに私が遣わされたことによって、「光」が灯された。 その光の輝きによって、「暗闇」自らその「暗闇」を知ることになった。 この「暗闇」の中で、この私の光を見た者、それが「わたしがこの世から選び出した、この世から取り分けた」あなたがたである。 この「光」を見ようとも、知ろうともしない「暗闇」とはまったく異なるものである。 「あなたがたはこの世に属していない」のである。 そうであるけれども、この世の憎しみにさらされながら、それでもなおイエスの憐れみをもって立ち向かわなければならない「神に属する者」なのであるとイエスは言われているのです。
私たちは、イエスご自身が「この世から選び出した」存在です。 イエスがこの世から取り出して、集めてくださった存在なのです。 「この世に属していない」とイエスが宣言してくださっている存在なのです。 この世から、イエスと同じような扱いを受ける存在でもあるのです。 この世は、主人にするように僕にも同じようにすると言います。 この世は、父なる神、主人を知らないから、その主人に遣わされた者を受け取らないのです。 しかしイエスは言います。 「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことで悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 喜びなさい。 大いに喜びなさい。 天には大きな報いがある。」(マタイ5:11)と言われているのです。 この世は、父なる神を知らないから、イエスにするようにわたしたちにもするのです。 しかし、父なる神は、イエスに与えられたように私たちにも天の報いでもって報いてくださるのです。 私たちが、この世で体験する悲しみや苦しみや痛みは、このイエスの恵み、選びを知るためです。 この「暗闇」にいるからこそ気づく悲しみや苦しみや痛みです。 愛の反対は気づかないことです。 気づかないこと、知ろうとしないことです。 恵みに気づいて感謝すること、これが私たちの喜びです。
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