「神を忘れる」 創世記3章1節~7節
主イエスは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。 だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と断言されました。 もし、イエスの言われるように、私たちがしがみついているこの世界とはまるで違う、神の国という世界があるとするなら、そのような世界に入りたいと心から願うのであるなら、「新たに生まれる」ということの意味について目を向けなければそのような世界に入ることはできないでしょう。 「新たに生まれる」ということにたどり着くまでには、どうしても遡っておかなければならないことがあります。 神が最初の人間「アダムとエバ」に呼びかけられた出来事です。
エデンの園というところに置かれた人間に、神は「園のすべての木から取って食べなさい」と祝福されました。 人間は、「そこを耕し、守るようにされた」とあるように、神によって備えられた世界に感謝して管理する喜びを与えられたはずでした。 ところが、その神の祝福を告げるこの言葉とともに語られたもうひとつの言葉があります。 「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」という戒めでした。 そのエデンの園の中央に生えいでさせられた「善悪の知識の木」は「命の木」と隣り合わせです。 神に似る者となるために必要な「命の木」が与えられて、神に似た賢さと力を得ることができる。 しかし、神に似ることはできても、人間は神になることはできない。 「命の木」と「善悪の知識の木」こそ、このことを示すものでしょう。 人間は神に似る者となることが赦されていると同時に、神のもとを離れて生きていくことができないことを示しているのでしょう。 そこに、人間を誘惑する者として「蛇」が登場します。 神の戒めから引き離そうとする力が「蛇」です。 神は「すべての木から取って食べなさい。 ただし、善悪の知識の木からは食べてはならない。」と語られたのに、「蛇」は「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と、神の言葉への疑いをもたせようとエバにささやきます。 ついには、神の言葉を否定するまでにささやきます。 このささやきにエバは、アダムの助け手であることを忘れて、単独で神の戒めを破ります。 アダムまで巻き込んで、戒めを破って手にしたその実を渡してしまうのです。 人間は、神によって授けられている賢さと力におぼれて、神を忘れてしまうのです。 神はご自身に似せて形づくり、応え合える関係を築こうと呼びかけているのに、アダムとエバは神の前から隠れてしまうのです。 これは、伝説の昔話でしょうか。 私たちの今の現実の生活のなかにある姿でしょう。 神の前から離れて行って、自分たちがつくり上げるもので生きていこうとする私たちの現実の姿でしょう。 自らの賢さと力を追い求めて旅立ったふたりの目が開かれて見たものが、恐れと不安と恥ずかしさです。 神から離れた人間のあらわな姿です。 「いちじくの葉」は、それを取り繕うものでしょう。 神はこの世を「すべてよし」として祝福されたのです。 しかし、私たちは、神のもとから相談もしないで自分勝手に出て行った者です。 その私たちに、「どこにいるのか」と神は尋ねておられる。 場所を尋ねているのではない、ご自身との関係を心配しておられるのです。 すべてをご存じのうえで、「命じておいたものを守ることができなかったのか」と呼びかけて、戻ってくるようにと語かけておられるのです。 「蛇」のささやきも、蛇によってもたらされているかのようにみえる「悲しみも苦しみ」も、理不尽な出来事も、また私たちの思いをはるかに超えた喜びも驚きもすべて、神がその存在を赦し、私たちをご自身のもとに取り戻すために用いられておられることであると信じます。 「人は、新たに生まれ、神のもとに帰らなければならないのです。」
「水がぶどう酒に変わるとき」 ヨハネによる福音書2章1節~11節
イエスが行われた業は、多くの場合、病気の人々やからだの不自由な人々を招き、癒して再び送り出すこと、汚れた霊にとりつかれた人々を解放すること、嵐を静めることなどでした。 ところがこの福音書は、イエスのなされた最初の業が「婚礼」という場で、「水がぶどう酒に変わること」であったと言うのです。 この「婚礼」の場にイエスの母がいた。 その母が、「婚礼」に大事なもの、ぶどう酒が今や尽きてしまうことにいち早く気づいた。 気づいた母が、息子イエスに訴えたがそっけない。 訴え出た母を「婦人よ」と呼びかけ、「わたしの時が来ていない」と答えたと言うのです。 明らかに、この対話は母と息子の会話とは思えない。 ヨハネによる福音書は、この「イエスの母」を私たちの代表として語りかけておられるのではないでしょうか。 これから「わたしの時」がやってくる。 その時まで待ちなさいと呼びかけておられる。 母は、息子イエスの語る「わたしの時」の意味も、何をしようとしているのか、いつやって来るのかわからなかったでしょう。 しかし、母は息子イエスが語り出す時まで、動き出す時まで祈り、待つのです。 もし語り出すなら、動き出すなら「そのとおりにしてください」と召使たちに命じて備えているのです。 自分の願いがどのような形にしろ、必ず果たされるという息子イエスに対する母の期待と確信に満ちているではありませんか。
イエスの言う「わたしの時」とは、いったい何でしょうか。 ヨハネによる福音書は、「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民の恥を地上からぬぐい取ってくださる。 わたしたちは待ち望んでいた。 この方がわたしたちを救ってくれる。 この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。 その救いを喜び踊ろう。」(イザヤ25:8-9)とイザヤが預言していたお方こそイエスであると言っているのです。 「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」と冒頭で宣言しているとおりです。 その前兆としての最初の「しるし」が、「水がぶどう酒に変わること」であった。 まったく新しい味のぶどう酒によって満たされることであったと言うのです。 そのために、戒めを守る清めに用いる「石の水がめの水」をイエスは用いられたのです。 用意されていた古い酒でも、戒めによる洗い流すための水でもなく、イエスが汲んで運ぶようにと命じられた「新しく味付けされたぶどう酒」をもって、「婚礼」を喜びに満たされたのです。 この「新しく味付けされたぶどう酒」こそ神の賜物です。 それを分け与えるために遣わされたお方がイエスであった。 新しい時がやってきた。 その「しるし」が、今、ここに現されたと言うのです。 「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。 それで、弟子たちはイエスを信じた。」とあります。 5人の最初の弟子たちは連れて来られて、「婚礼」に招かれただけの人たち、見ていただけの人たちです。 イエスはご自身がどのようなお方であるかを示すために、私たちを招いて「しるし」を表しておられるのです。 私たちを祝福するために、招いて、ふさわしいところに連れ出して、ご自身の姿を表して、見せて、ご自身を信じる信仰を引き起こしておられるのです。 私たちの手前勝手な祈りや信仰を、神から命じられることができるように、また神の時、神の業が現れ出るまで待つことができるような信仰にする、そのための「しるし」を与えてくださっているのです。 私たちはその奇跡の結果に目を奪われることなく、奇跡を起こしてくださっているお方の思いを憶えることです。 そのために、私たちを「婚礼」の席に招いてくださっている。 近づいてきてくださって、呼びかけて、連れ出してくださっているのです。 私たちはただ招かれているにすぎません。 最初の弟子たちと同じように、イエスのみ言葉に聞いて、従って、その招きを受け取るだけです。
「神に憶えられる」 エレミヤ書29章10節~14節
「バビロンに70年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。 わたしの恵みの約束を果たす。 あなたたちをもとの地に連れ戻す。 あなたたちのために立てたわたしの計画を果たす。」と、預言者エレミヤに主はみ言葉を託しています。 「バビロン」とは、いったいどのようなところでしょうか。 歴史の中の地名を単に語っているのではないでしょう。 小さな国であったユダの国が、「バビロニア帝国」によって滅ぼされた。 神によって守られているから滅びるはずがないと思っていたユダの国の都エルサレムが崩れ去った。 バビロニア帝国の都バビロンに連れ去られた人々が絶望のうちに時を過ごしていたところでしょう。 「あなたがたの目には、戦に負けたユダの国の人々が、戦に勝ったバビロニアの国の人々によって捕らえられ、バビロンの地にまで連れ去られたように見えているかもしれない。 そうではない。 わたしが、あなたがたをエルサレムからバビロンに送ったのだ。 こんなところにまで連れて来られて、あなたがたは嘆いているかもしれない。 そうではない。 わたしは敵の手に渡してでも、わたしの民を救う。 わたしが立てた計画は、平和の計画である。 災いの計画ではない。 将来と希望を与えるものである。」と主は言われているのです。 「70年の時」とは、いったい何でしょうか。 その時間の長さを強調しているのではないでしょう。 今、目の前にしている災いと思えるような状況に目を奪われて落胆し、絶望しているユダの国の人々の目が新たに開かれるのに必要な時間のことでしょう。 「神の時が満ちたなら」と言っておられるのです。 守ってくれるはずの神のみ言葉を受け入れようとせず、自分たちの思いを第一としたユダの人々が、本当の自分の姿を見ることができる目を、また意に反する神のみ言葉を聞き留めることのできる耳を回復するための時間です。 「あなたたちは、わたしを呼ぶようになる。 祈り求めるようになる。 わたしを尋ね求めるようになる。 その時、わたしは聞く。 あなたたちは、わたしを見出す。 わたしに出会う。 わたしは、あなたたちを顧みる。 あなたたちを連れ戻し、約束を果たす。 あらゆる国々の間にあなたがたを追いやったが、そこから再び呼び集め、捕らわれの身であったそのところから、もとの場所に連れ戻す。 これが、わたしの約束した平和の計画である。」と主は言っておられるのです。 私たちが神を心に留めなくなるときがあっても、神の方が私たちを目に留めてくださっている。 神のご計画が複雑で、不可解で、理解は愚か、気づくことさえできないような時があったとしても、神が私たちをご覧になって、導いてくださっている。 私たちひとりひとりに、神がみ心を痛め、計画し、それぞれの人生に意志をもって働いてくださっている。 この確かさのうえに、私たちの人生を置くときに、これ以上の確かなものはこの世にないのではないでしょうか。
神は、追いやる神であると同時に、呼び集める神であると言います。 一時は、神に敵対する者の手に私たちを追いやるかのように見えるときでも、神はご自身の計画を果たすと言います。 神の願いは、私たちが今描いている願いとは異なるかもしれません。 私たちが思い描く平安と希望は、神のみ心とは異なるかもしれません。 もしそうであるなら、今、私たちがしがみついている「自分が描く願い、希望、将来」が砕かれなければ、神のご計画は成し遂げられないではありませんか。 「神の時が満ちるその時に備えなさい。」 それが「70年の時が満ちたなら」ということでしょう。 神は、そのご計画を果たすためなら、どのようなものでも用いられます。 私たちにとって無駄なことは何ひとつありません。 すべて神の意志が働いて、神の願いでもある、私たちひとりひとりの「将来と希望」に導いてくださっているのです。
「神の真実に生かされる」 申命記31章30節~32章4節
モーセは主に、「あなたは間もなく先祖と共に眠る。 今まであなたに従ってきたイスラエルの民は直ちに、わたしを捨てて、わたしと結んできた契約を破る。 わたしの怒りは燃え、わたしは顔を隠す。 彼らが他の神々に向かうことにより行ったすべての悪のゆえである。 だから、これから語る言葉を書き留め、イスラエルの人々に教え、わたしの証言としなさい。」と言われました。 モーセの遺言とも言える主から託されたみ言葉の冒頭の部分が今朝の聖書箇所です。 「主は岩、その御業は完全で その道はことごとく正しい。 真実の神で偽りなく 正しくてまっすぐな方。」とあります。 「天よ、地よ、わたしが語る言葉を聞きなさい。 天も地も、わたしがつくった世界ではないか。 あなたがたも、わたしが選び出しここまで守り導き出したわたしの民ではないか。 これから遭遇することになる災いも苦難も、あなたがたの不信仰、不真実のゆえである。 しかし、わたしの約束を果たすために救いを告げる。 だから、このことを書き留めて、あなたがたが災いと苦難に襲われるとき、このみ言葉をあなたがたの子孫が忘れずに唱え続けることにより、わたしの変わらない約束の証言となる。」と、主がモーセに託したのです。 神は岩のように変わらないお方である。 神のなされる業は完全である。 神の示される道は正しい。 神は偽りがない真実なお方である。 正しいお方であると言うのです。 私たちはそのようなものを確かに求めています。 しかし、この世においてはことごとく裏切られています。 この世にそのようなものがないことを知っています。 ですから、私たちは信じ切ることができません。 裏切られないように自分の身を守り身構えるのです。 そんな私たちがいざ「信仰の世界」に入ると、そのような存在である神を信じなければならない。 神が語るみ言葉を信じて従わなければならないと頑張るのです。 そのように従っていく姿こそ、信仰者の姿だと思い込んでいる。 ですから、心配で仕方がない。 心は揺れ動く。 そして、ついには、神のみ言葉の前にうなだれて、従い切ることのできない自分の弱さに絶望するのです。 神のみ言葉のあまりの大きさ、高さについて行けず、理解することのできない自分の愚かさに絶望するのです。 しかし、モーセは、「神が真実である。 神が変わることのできない岩なるお方である。 神が正しい。 神がなさる業が正しい。」と賛美しているのです。 旧約聖書の神の民はその長い歴史の中で、どれほどの災いと苦難を潜り抜けて、この神のご真実にたどり着いたことでしょう。 神の民は自分たちの弱さや愚かさに絶望して初めて、この神の確かさ、正しさにたどり着いたのです。 自分たちの側の不信仰や不誠実、疑いや動揺にもかかわらず、自分たちをしっかりと捉えてくださっている神の確かさを賛美しているのです。 この確かなお方とのつながり、在り方が、自分たちの信仰の土台であると宣言しているのです。
新約聖書の時代に入りますと、神の言葉そのものであるイエス・キリストは、「神を信じなさい」という言葉でこのことを伝えています。 イエスの言われた「神を信じなさい」とは、「神のご真実をもちなさい」ともとれる言葉です。 私たちは自分に絶望するかもしれない。 しかし、この神の確かさ、正しさ、完全さに身を委ねなさい。 神の確かさを持ちなさい。 神のご真実だけに寄りすがりなさい。 「神を信じなさい」とイエスは言われたのです。 私たちを動かしているのは、私たちの信仰ではありません。 私たちの信仰とも言えないものを、信仰として拾い上げてくださっている神のご真実と慈しみです。 岩なる確かなお方に、私たちが動かされていることに気づくことです。 神のみ言葉の背後には、それを成し遂げようとする神のご真実があるのです。 信じて応えていく者には、それが生きたみ言葉となるのです。
「賛美する者に変えられた群衆」 マルコによる福音書2章1節~12節
イエスがおられるところには、大勢の群衆が押しかけて来ていました。 「家の戸の辺りまですきまもないほどであった」と言います。 この熱気あふれるところに、「四人の男が中風の人を運んで来た。 その家の屋根をはがし、そこに穴をあけて、その病人の寝ている床をそのまま、イエスがおられるところを目掛けてつり降ろした。」と言うのです。 「中風の人」とは、「麻痺している人」という意味合いです。 当時のユダヤ社会では、残念ながら病気はその人の罪の結果だと思われていました。 病人は、罪人として社会から締め出されていたのです。 この病人は、「起き上がることもできない、社会から取り残された人」ということになるでしょう。 雨季や乾季があって屋根のふき替えができるように簡易な屋根であったとはいえ、四人の男たちのとった行動は乱暴でしょう。 目的のためなら手段を選ばない非難されるべき行動でしょう。 しかし、イエスは彼らの思いや行動がどうであったのかを説明することなく、「その人たちの信仰を見た。 そして、その病人に『あなたの罪は赦される』と言われた。」のです。 これはいったい、どういうことでしょうか。
病人は自分の病いを癒されたい。 四人の男たちはこの病人をどうしても癒してほしいと思った。 その切迫した思いが周囲の迷惑を考えもせず、その場の秩序も無視をして、家の屋根を壊してまでイエスのみもとにこの病人を届けたのです。 これが信仰であると言えるのでしょうか。 しかし、イエスは、この信仰ともとれないものを「信仰」として拾い上げました。 そして、その病人に「あなたの罪は赦される。 起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と言われました。 すると、すぐに床を担いで、その場にいた群衆が見ている前で出て行ったのです。 とんでもない方法で目の前に現れた人たちの信仰とも思えない祈りをくみ上げて、病いというこの世に縛られているものからの解放と、この世の社会への復帰を同時に、この病人に宣言されたのではないでしょうか。 私たちは自分のからだのことには一生懸命です。 どちらの医者がよいとか、この薬がきくとかとても熱心です。 しかし、神との関係が今どうなっているのか、神の前に生きているのか死んでいるのかには、私たちは無頓着です。 イエスは逆であると言います。 病いは癒されても、いずれまたかかってしまう。 神のかたちに造られたにもかかわらず、神を知ろうとせず、神に頼らないで自分勝手に生きていこうとした人が回復されなければならない。 神のもとを離れて、生きる意味を失っている人が完全に癒されるためには、神に赦していただかなければならない。 この「神のもとに戻る」ことを「罪が赦される」と称して、「病いを癒す」ことの前にイエスは先ず宣言されたのです。
私たちに信仰があるとかないとか、また私たちの信仰が薄いとか厚いとか、私たちが決めることではありません。 イエスが認めてくださるものです。 イエスは、信仰と言えないようなものでも拾い上げてくださるのです。 彼らは、「罪が赦される」とはどういうことなのか、それが病いの癒しにどうつながるのかさえ分かっていないでしょう。 しかし、彼らは、イエスなら癒してくださると思い、み言葉を求め触れようとしました。 そのみ言葉に聞いて、その通りに従いました。 意味が分からなくても、彼らはイエスのみ言葉を受け入れているではありませんか。 彼らの姿を通して、群衆が今まで考えてもみなかった「神のもとへ帰る」という「罪が赦される」という神の癒しをイエスは語られたのです。 この出来事を目の当たりにした群衆は、「皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない。』と言って、神を賛美した」と書かれています。 助けられた病人が用いられて、また、助けられた病人を運んできた四人の人たちが用いられて、この群衆を「神を賛美する者」へと、イエスご自身が働かれて変えられたのです。
「語りかける神」 詩編19編2節~15節
天地を造り出した創造主なる神へのダビデの賛美です。 「天は神の栄光を物語り、大空はみ手の業を示す。」と歌われています。 この世に、何の意志も働かない、何の力も働くことなくただ漂っているだけのものがあるでしょうか。 私たちが称している「大自然」というものは、偶然の賜物でしょうか。 「大空はみ手の業を示す。 昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。」と言います。 天と大空とは、空間軸を言うのでしょう。 昼と夜とは、時間軸を言うのでしょう。 すべて造られたものは、造った者のみ手の業である。 造った者の栄光を示している。 それだけではない。 昼と夜によって途絶えることなく続いていると賛美しているのです。 この神の語りかけや呼びかけは、耳で聞く言葉になっていないかもしれない。 声になっていないかもしれない。 沈黙のままであるかもしれない。 私たちが聞き取ることができなしものであるかもしれない。 しかし、この造られたこの世の全地に、この神の響きや神の言葉は響きわたっている。 この世の果てにまで届いていると賛美しています。 ダビデは、神が造られたものを通して神の呼びかけを聞いています。 また、人の口を通して語られた一つ一つのみ言葉にも聞いています。 「主の律法、主の定め、主の命令、主の戒め、主への畏れ、主の裁き」と6つに表現されているみ言葉です。 神が預言者たちを通して語られた、私たちが聞いて受け取ることのできる言葉に聞いています。 神が語られたこのみ言葉は、私たちの魂を生き返らせる。 無知な人に知恵を与えられる。 心に喜びを与える。 目に光を与える。 そして、いつまでも変わることなく語られ、消えることなく続く。 語られたみ言葉はことごとく正しいと賛美しています。 しかし、そうであると分かっていたとしても、神の助けがなければこのみ言葉に私たちが生きることができるでしょうか。 だれが自分の過ちを知ることができるでしょうか。 ダビデは、「知らずに犯した過ち、隠れた罪から、どうかわたしを清めてください。」 「どうか、わたしが抱いている驕りから引き離し、支配されないようにしてください。」と神に祈るのです。 ダビデは、神の民を導く自分の務めがあることを十分に承知しています。 ですから、毎朝、陽の上がる前から、神の前に出て、すべてを支配しておられる神を賛美して、その声にならない神の語りかけ、神の響きを聞くのです。 そして、人の口を通して語られた神のみ言葉、聖書に聞いて祈るのです。 「どうか、わたしの口の言葉がみ旨にかない、心の思いがみ前に置かれますように。」と、毎朝、祈るのです。 ダビデは「神の求めるいけにえは、打ち砕かれた霊。 打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(詩編51章19節)と祈っているのです。
神は様々なものを通して私たちに語られます。 私たちの目に見えているものを通して語る時もあるでしょう。 人の口を通して語られる時もあるでしょう。 神に敵意をもつ者の口を通してでも語るお方です。 言葉はなくても、語る人の姿や働きを通しても語るお方です。 語らない沈黙を通してでも語る時があります。 出来事を通しても語ります。 ダビデは、この世に向かって目をしっかりと開き、この神の呼びかけを注意深く聞いています。 人を通して語られた神のみ言葉にも、また、人を通して成し遂げられた神のみ業にも、注意深く聞いています。 幸いに私たちは、神の言葉であるイエス・キリストが語られたみ言葉を聞いています。 「福音」です。 イエスの身に起きた出来事を伝える言葉です。 イエスにおいて、神が成し遂げてくださった救いの働きを告げ知らせる言葉です。 十字架の死と復活の言葉です。 「福音は、信じるものすべてに救いをもたらす神の力」(ローマ16章17節)です。 この詩編19編の賛美とみ言葉と祈りによって、新しい一日を始めてみませんか。
「解放してくださるお方」 マルコによる福音書5章35~43節
会堂長のヤイロという人物がイエスにひれ伏しています。 「会堂長」とは、ユダヤ教の信仰の指導者のことです。 「会堂」とは、当時のユダヤ社会では今で言う「教会、裁判所、学校、役所」であったのです。 その場所の責任者が「会堂長」です。 人格者であり、信仰の厚い人であったでしょう。 その会堂長ヤイロがイエスに、「わたしの幼い娘が死にそうです。 どうか、おいでになって手を置いてやってください。 そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」と、恥も外聞も捨てて、捨て身の願いをイエスにぶつけたのです。 新しい教えを宣べ伝え、多くの病いを癒していたイエスに触れることができるなら、自分の娘は癒されると信じ込むに至っていたのです。 その願いに応えたイエスの姿が、幼い娘が待っている家に向かいヤイロと一緒に歩き出した姿でした。 大勢の人々が求めているそのイエスが、自分の娘のためだけに足を踏み出し、自分の家に向かって共に歩いてくださっている。 ヤイロは「これでわたしの娘は助かる」と確信したのではないでしょうか。
その時です。 ひとりの女性が群衆に紛れ込んで、イエスの服に触れたのです。 どんなにお金をかけても、どんな医者に診てもらっても治らない難病を長年抱えていた女性でした。 ヤイロと同じように、「このお方の服に少しでも触れるなら、癒していただけるのではないか」と思った。 イエスはその時、自分のからだから力が出ていくのが分かった。 イエスは服ではない、「わたしに触れた」と言います。 女性は難病から逃れられたい、その一心でイエスに近寄りその服に触れたのです。 そのとたんに、その病いが癒されたことに気づいて、恐ろしくなって震えていた。 その女性を、イエスは探し出して語りかけようとなさるのです。 なぜなら、苦しみや悲しみがなくなるようにとひたすら願っていたその女性に、「あなたの祈りがあなたを救った。 安心して行きなさい。 元気に暮らしなさい。」と語るためです。 今まで縛られていた苦しみや悲しみに支配されないよう、平安のうちに暮らしなさいと呼びかけるためです。 私たちは、遠くに立ってイエスを眺めているだけでは、この言葉を直に聞くことはできません。 イエスの呼びかけに応えて、震えながらもありのままの自分をさらけ出していくなら、「あなたの信仰があなたを救った。 安心して行きなさい。」というイエスの語りかけを直に聞くことができるのです。
イエスのそば近くで、この出来事の一部始終を目の当たりに見ていた会堂長ヤイロのもとに知らせが届きました。 「お嬢さんは亡くなりました。 もう先生の手を煩わすには及ばないでしょう。」という知らせでした。 ヤイロは失望した。 この難病の女性に手間取らなければ、自分の娘は助かったかもしれないと思ったでしょう。 病気は癒せても、死んだ者をよみがえらせることはできないだろう、すべては終わったと思ってしまった。 イエスはあらゆる病いや煩いを癒されたガリラヤでの働きの締めくくりに、「ヤイロの娘の死」に立ち向かわれたのです。 「恐れることはない。 ただ信じなさい。」とイエスに言われても、ヤイロはその場を去って行くこともできたでしょう。 しかし、ヤイロは絶望しながらもイエスとともに歩き始めているのです。 病気が癒されるだけでなく、縛られていたものから解放されるというイエスの救いの働きの一部始終を見ていたヤイロは、吸い込まれるようにイエスとともに歩き出したのではないでしょうか。 その時聞いたイエスの言葉が、「タリタ、クム 少女よ、起きなさい。 死んだのではない。 眠っているのだ。」という言葉です。 いずれ朽ちてしまうこのからだが再び生き返ることではなく、これは終わりの日に体験する出来事でしょう。 その信仰が、今、この時、この世に与えられたとイエスは宣言しているのではないでしょうか。 信仰は、私たちのうちに働く神の働きです。 私たちはただ、与えられる神の恵みをこの信仰によって感謝して受け取り、み心に委ねるだけです。
「この世にあるキリスト者」 ヨハネによる福音書17章11~19節
イエスがこの世から父なる神のもとへ、今、帰ろうとしているその時に、父なる神に祈っている「大祭司の祈り、とりなしの祈り」と呼ばれている聖書箇所です。 この最後の祈りの中で、この世に残さざるを得ない愛する弟子たち、ご自身のみ言葉に聞いて従ってきた愛する弟子たちのことを、「彼らを、悪い者から守ってください。 彼らを聖なる者としてください。」と、十字架を直前にして父なる神にとりなして祈る「イエスの祈り」です。 11節にイエスは、「聖なる父よ、わたしに与えてくださったみ名によって、彼らを守ってください」と祈ります。 「聖なる父よ」とイエスが呼びかけることは珍しいことです。 「彼らを守ってください。」という理由は、「私たちのように、彼らも一つとなるためです。 わたしの喜びが、彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」と言うのです。 弟子たちの外なる状況がいかなるものになったとしても、子なるイエスと父なる神がひとつとなっているように、弟子たちもまた父なる神と一つとなるように。 父との交わりの中でイエスご自身がもっておられる喜びが弟子たちの内からあふれ出るようにととりなして祈っておられるのです。
イエスがこの世に遣わされたのは、この神との交わり、内なる喜びを失ってしまっている私たちに回復を与えるためでした。 イエスは「彼らを守ってください」と言いながら、「彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってください」と祈るのです。 イエスが私たちに教えられた「主の祈り」を思い起こしてみてください。 「悪より救い出したまえ」とあります。 直訳しますと、「救い出したまえ、我らを、悪い者より」となります。 イエスの言う「悪い者」とは何でしょうか。 外から私たちに迫ってくる苦難や試練というようなものよりも、むしろ、私たちの内に働きかけるものであるように思います。 イエスは、父なる神のもとへ、私たちを取り戻すためにこの世に来られたのです。 「悪い者」とは、父なる神から私たちを引き離そうとするもの、父なる神を隠して見えなくしてしまうもの、父なる神の言葉を聞こえなくする、あるいは疑わせるものでしょう。 それらの力に支配されてしまって、埋もれてしまっている私たちを取り出して、「悪より救い出したまえ」と、十字架にかかるその直前にイエスは、父なる神に愛する弟子たちをとりなして祈ってくださっているのです。 「わたしがこの世に属していないように、彼らもこの世に属していないから、聖なる父よ、わたしに与えてくださった彼らを悪い者から守ってください。 この世に再び取り戻されないように、彼らをこの世に属しない聖なる者としてください」と祈ってくださっているのです。 「聖なる者」とは、神に属する者ということです。 ヨハネによる福音書は「真理によって、聖なる者になる」と言います。 「真理」とは、神のみ言葉です。 この世は、神のみ言葉を拒みました。 イエスを受け入れませんでした。 自分の力により頼んで、神は必要ないと主張しました。 そのような中で、弟子たちはこの神のみ言葉を受け入れた。 神をより頼んだ。 ですから、彼らは聖なる者とされた。 それゆえに、イエスと同じようにこの世からこれから憎まれるだろう。 だから、「聖なる父よ、彼らを悪い者から守ってください。 この神のみ言葉、真理によって、ささげられた者となるように守ってください」と祈っておられるのです。 「真理によってささげられた者となる」ということは、神のみ言葉を受け入れてこの世から取り出されて、救い出されて、この世に属さない者となった者が、再びこの世に遣わされる者となるということです。 神が用意されたこの世の救いの証人となる。 神のみ言葉は確かなものであったと語る「み言葉の証人」となることです。 この世にあって、この世に属さず、この世に生きることが赦されている者となるということです。
「神に出会うことから」 創世記32章23節~33節
ヤコブはイサクとリベカの間に生まれた双子の兄弟の弟です。 ふたりは母リベカの胎内にいるときから押し合い、争っています。 弟ヤコブは、「押しのける」という意味のヤコブの名がつけられています。 ヤコブは幼い時から抜け目のない、知恵の回る子どもでした。 兄エサウの空腹につけ込んで、一皿の煮物と引き換えにエサウが受け継ぐはずの「長子の権利」と「神の祝福」を騙して手に入れたのです。 奪い取られたことを後で知ったエサウは怒ります。 ヤコブを殺してやると口走るようになる。 ヤコブはそれから逃れるために、20年間の逃亡生活に入ったのです。 ヤコブは、「わたしは兄が恐ろしいのです。 どうか、兄エサウの手から救ってください。」と神に告白しています。 20年前のエサウに対する恐れに、ヤコブは今もなお縛られています。 20年間、その恐れから逃げていただけです。 エサウと争って、知恵を絞ってやっと神の祝福を手に入れたけれども、ヤコブには少しも平安はなかったのです。 ですから、この「ヤボクの川の渡し」を越えて、いよいよ兄エサウと遭うようになり、エサウは400人のお伴をつれて迎えに来ると聞いて更に恐れを膨らませたヤコブでした。 そこに、神の方からヤコブに働きかけて、ヤコブに一晩中戦いを挑んだ。 それにヤコブが応じてすべてをさらけ出した時に初めて、その相手が神であることをヤコブは知ったのです。 顔と顔を合わせるかのように神を見ることができたと言います。 ヤコブは、自分自身の心の奥底にあるものをつくづく知らされて、砕かれて生まれ変わった。 その時、神が新しい名前をつけてくださった。 名前を明かすということは、相手に自分の素性を知らせるということです。 当時は、自分の命をささげるというほどのことです。 ヤコブは、神から「お前の名前は何というのか」と尋ねられて、「ヤコブです」と神に明かしたのです。 「20年前、兄エサウを騙して、父イサクから兄エサウが受け継ぐべき神の祝福をかすめとったヤコブです」と神に告白できたのです。 エサウと押し合うように争って、知恵をもってかすめとるような祝福を、神の祝福とヤコブは思っていたのでしょう。 ですから、ヤコブには20年間、片時も忘れることのできなかった恐れがあったのです。 長い逃亡生活の間にあった死に対する恐れ、今までやっと手に入れたものを一瞬のうちに失ってしまうかもしれないという恐れ。 これが自分の戦いの相手であると思っていた。 しかし、ヤコブは戦っているうちに知ったのです。 戦っている相手は、恐れや不安に縛られているこの自分を解放してくださろうとしているお方である。 自分が犯してしまった過ちにより、恐れと不安に縛られていたその自分が打ち砕かれ、裁かれ、自分が今まで手に入れたものとは全く異なる新しい祝福を与えようとしてくださっているお方である。 そのことに気づいて、「祝福してくださるまでは離しません」とヤコブは語ったのでしょう。 自分の腿の関節が砕かれる傷跡まで残しながらも、神ご自身から授けてくださる本当の祝福を得ようとしたのです。
それでは、「お前は神と人と戦って勝ったからだ」という神の言葉はどういうことでしょう。 聖書にいう神が負けるとは、神が負けてくださったということでしょう。 本来、神の前で犯してしまった過ちによって裁かれなければならないこの私たちが、神に赦されたということでしょう。 ヤコブが神に受け入れられて、赦されて、砕かれて、新しい「イスラエル」という名前を与えられた。 今までとは全く異なる新しい神の祝福に生きるようになった。 これが、ヤボクの渡しでのヤコブの体験です。 この体験が、ヤコブの人間的な心配を拭い去ったのです。 このヤコブに、新しいよみがえりの朝の太陽が昇ったのです。
「み言葉を聞いて行う者」 マタイによる福音書7章21節~29節
マタイによる福音書の5章から7章にかけて、「山上の説教」が語られています。 そば近く寄って来た弟子たちに、イエスは「心の貧しい人は幸いである。」と語り始め、「わたしの天の父の御心を行う者だけが天の国に入る。」と、譬えをもってしめくくっておられます。 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」と言うのです。 見えないところに、しっかりとした土台を据えるなら、その家は大丈夫である。 しかし、すぐ流されてしまうような砂の上に家を建てるなら、ひとたび雨や川や風が襲いかかるとひとたまりもない。 だから、土台をしっかりと築きましょうという人生訓を語っているのではありません。 また、み言葉を聞いて従う人と、み言葉を聞くだけで従わない人とに分けてしまって、み言葉を聞いて従う者になりましょうと、この「山上の説教」の締めくくりに愛する弟子たちに語られたのではないように思います。 パウロは、イエス・キリストこそ、私たちに「離れずついてきた霊的な岩である」(コリント一10:4)と言っています。 「この岩なるイエス・キリストが伴ってくださったからこそ、わたしたちを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。 試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも、この霊的な岩であるイエスが備えていてくださいます。」と語るのです。 もうすでに霊的な岩は存在しているのです。 この岩なるイエスの語るみ言葉に聞いて従うところに、私たちの土台が造られる。 その土台は、私たちの力だけで築けるものではない。 イエスのみ言葉に聞いて従って初めて、伴なるイエスご自身が働いてくださっていることに気づかされる。 「自分の家をその霊なる岩の上に建てる」ということは、この霊なるキリストとともに生きるということでしょう。 自分の生涯を、この霊なる岩の上に置くということでしょう。 イエスのみ言葉が指し示す道を歩んでみる。 そのみ言葉によって、自分の歩み、思い、生き方を造り上げられていただく。 イエスが語る神のみ心に委ねてみる。 イエスが私だけにみ言葉で示す、私だけにしか用意していない、私にしか歩むことのできない道を、イエスとご一緒に歩いてみるということでしょう。 自分の家を建てるということは、その土台の上に立って生きて確めるということでしょう。 雨が降り、川があふれ、風が吹くとは人生の危機です。 どのような危機にあっても、そこに岩なるイエス・キリストがともにいてくださる。 変わらない神のご愛、ご真実が貫かれ、支えてくださっていることを確かめることができる。 それが、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」ということではないでしょうか。 すべての人が、どのような時にでも、この岩の上に立って生きて確かめることができる。 信じようとしても、自分の力では信じることができないこのイエスのみ言葉を、その上に立って生きて味わうことによって信じることができるようになる。 本当に真実であったと体験し、告白することができるようになるのです。 この体験を、イエスは「築かれた家の土台」と言っているのではないでしょうか。 「岩の上に自分の家を建てた賢い人」も「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」も両方とも、イエスに従ってきて自分の家を建てたのです。 どちらも、土台をもって、イエスに従ってきた弟子たちでしょう。 自分のために懸命に信じようとしてきた「砂の上に自分の家を建てる信仰」から、その砂に杭を打って、そのような弱い土台の上にこそ、神の憐れみとご愛にすがって、「岩の上に自分の家を建てる信仰」へと、そば近く寄り添ってきた多くの愛する弟子たちに、イエスはそのご愛をもって語りかけ、招いておられるのではないでしょうか。
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