「キリストを体験する恵み」 ローマの信徒への手紙11章4~7節
世界で最初のクリスマスは、神のみ言葉を突然聞いた者に引き起こされた出来事でした。 イエス・キリストという、父なる神によって遣わされた「神の恵み」そのものであるお方と初めて出会った出来事でした。 以来、今もなお生きて働いて、主は私たちと出会ってくださっています。 しかし、それが「弱い者、苦しんでいる者、悲しんでいる者」の姿をとって出会ってくださっているので私たちは気づかないのです。自分の期待や夢や希望だけで見ようとするなら、見えてこない姿です。 自分の経験や常識だけで生きるなら、触れることのできない姿です。私たちの側の努力だけに頼るなら、味わうことのできない出来事です。 神の恵みと神の憐れみだけに立つなら、くっきりと見えてくる出来事です。 クリスマスの出来事は、イエス・キリストの復活の新しい命に触れて、味わう「恵みの体験」です。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と尋ねる占星術の学者たちにもたらされた知らせに、「喜ばなかった人」がいます。 その代表は、その時代のユダヤの領主であったヘロデ王です。 その知らせに動揺し、その人物を抹殺しようと考えても不思議ではないでしょう。 このユダヤの社会を牛耳っていた、ヘロデ王を取り巻く人々もまた同じでしょう。 しかし聖書は、「エルサレムの人たちも皆、不安を覚えた」と言います。 なぜでしょうか。 ヘロデ王は、自分の側近や兄弟たちであったとしても、自分の地位を脅かす者を排除したと言います。 この新しいユダヤの王が生まれるという知らせが、何かを引き起こすのではないか。 当時のユダヤを支配している者にも、また支配されている者にも波風が立つ、大きな変化がもたらされるのではないか。 これが最初のクリスマスの知らせに「喜ばなかった人たち」の不安です。 これから起こるであろう、何かが変わるという知らせに戸惑いを感じ、何かが変わろうとする不安を多くの人々が抱いていたのでしょう。 マリアは、「どうして、そんなことがありえましょうか。」と、神に訴えました。 ヨセフもまた、「世間体を気にして、この結婚をないものとしようとまで悩んだ」と言います。 しかし、何がこれから起きるのか判然としない中にあっても、ヨセフとマリアは自分の身に引き受けていった。 この知らせを聞いた羊飼いも、学者たちも、本当に確かなものであるのかどうか、今の生活をそこに残したまま出かけて行ったと言います。 最初のクリスマスを見定めたのは、このごく限られた、ありふれた小さな存在の人たちであったのです。 私たちはなぜ、ヨセフとマリア、羊飼いや学者たちが選ばれたのか分かりません。 分かっていることは、多くの人たちが喜んでいなかった中で、このごく限られた人たちだけが神に選ばれて、気づかされて、分からないままにこの出来事を受け入れて希望が与えられ、喜んだという事実です。 限られた人たちの側のことにまったく関係なく選ばれて、引き起こされた事実です。 「神の恵み」としか言いようのないものです。 このローマの信徒への手紙を書いたパウロもまた、この神の恵みとしか言いようのない神の選びを一身に受けた人物です。 同胞のユダヤ人たちがなぜ、自分と同じ恵みに浴していないのか。 神は選ばれた民を捨てられたのではないか。 これがパウロの痛みであり、生涯の疑問でした。 同じ境遇にあった預言者エリヤの姿に重ねてパウロは言います。 「主よ、もう十分です。 わたしの命を取ってください。」と嘆くエリヤに応えた主の言葉です。 「お前は一人ではない、戦っているのはこの私である。 自分のために七千人を残しておいた。」と言われたのです。 同じように今もなお、神の恵みによって選ばれた者が残され、神の恵みを受けている。 それが、すべての人たちに神の恵みが及ぶようになるためであるとパウロは言うのです。 「喜ばなかった人」のために、クリスマスを「喜ぶ人」として私たちは選ばれたのです。
「イエス・キリストという恵み」 ルカによる福音書16章19~31節
イエスの語られたたとえに、「ある金持ち」とその「金持ちの門前にいたラザロ」が登場します。 「ある金持ち」は、「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」と言います。 一方、その「金持ちの門前にいたラザロ」は、できものだらけの貧しい人、金持ちの門前に横たわり、金持ちの食卓からこぼれ落ちるもので腹を満たしたいと思っていた。 しかし、それすら叶わない、犬が来て、ラザロのできものをなめるほどの有様であったと言います。 イエスはこの二人の登場人物と、当時のユダヤの人々が描いていたこの世と死んだ後にいく別の世界を用いて語るのです。 彼らは、正しい人は「アブラハムのすぐそばで宴席につくことができる。」 しかし、そうでない人は、「苦しみもだえなければならない『陰府』というところに行くことになる。」と思っていた。 このふたつの世界の間には、「大きな淵」があるとイエスは言うのです。 ユダヤの人々は、信仰の父であるアブラハム、このお方のいるところに帰ることが自分たちの永遠の住まいであると思っていた。 アブラハムの子孫ではない、異教の国の人々、神の戒めを守ることのできない罪人は、アブラハムのいるところには行くことができない。 『陰府』というところで苦しむことになると思っていたのです。
私たちは自分の目で見えるものだけでものを見ます。 自分の納得できることだけを受け入れます。 しかし、イエスは、そのような見える世界、因果応報の当たり前の世界とはまったく異なる世界、神の恵みと憐れみだけが支配する世界があると言うのです。 金持ちが苦しみに苛まれて叫びます。 「今、そのすぐそばにいるラザロを、こちらの世界によこしてください。 苦しんでいるわたしを憐れんでください。 わたしの舌を冷やさせてください。」と訴えるが、だれもその「大きな淵」を乗り越えて渡ることができないと返事が返ってくる。 更に、「わたしの父親の家にいる兄弟たちが、こんな苦しいところに来ることがないように、よく言い聞かせてください」と叫ぶが、「聖書の言葉がもうすでに語られている。 もし死後の世界から生き返ってその苦しみを語ったとしてもその人の言うことを聞き入れはしない」という返事が返ってくる。 当時のユダヤの金持ちは、パンを薄く切ってナプキンがわりにして、それで手を拭いて食卓の下に捨てたと言います。 ラザロはその「パンくず」ですら与えられなかった。 このラザロの姿に、見捨てられたイエスの姿が重なってこないでしょうか。 イザヤはイエスをこう預言しています。 「彼は見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの病いを知っている。 彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。 苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。」と預言しています。 ラザロの姿にイエスの姿を見ることができるなら、この金持ちの姿こそ私たちの姿でしょう。 すぐそばに、隣人の姿をとったイエスがおられるのです。 その隣人に目を留めることも、受け止めることもしない姿を、神は悲しんでおられるのでしょう。 イエスの生涯は、いつも貧しい人、弱い人、罪人の友でした。 イエスは、「この最も小さい者のひとりにしたことは、わたしにしてくれたことなのである」と言われました。 私たちが勝手につくる線引き、これが成功だ、幸いだ。 これが失敗だ、災いだ。 私たちは身勝手で、数知れない裏切りと不信仰を繰り返しています。 そんな私たちをどこまでも気にかけて、忍耐して、諦めないで私のところに帰ってくるようにと、最後に支払われた高価な恵みであるイエス・キリストとの出会いを、神はこの金持ちの姿である私たちに与えてくださったのです。
「イエス・キリストの願い」 ヨハネによる福音書17章20~26節
ヨハネによる福音書17章は、十字架に架けられる直前のイエスの祈りです。 その後半部分から、「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」と祈っています。 「彼ら」とは、最後の食事を共にした弟子たちです。 これからイエスによって遣わされて行く者たちです。 その「彼らの言葉によってわたしを信じる人々」、これから「イエスを信じるようになる将来の人々」のためにも、イエスは祈り始めておられるのです。 最初に、「すべての人を一つにしてください。」と祈ります。 イエスが父なる神の内にいるように、父なる神がイエスの内におられるように、「一つにしてください。」と祈っているのです。 イエスがこの「とりなしの祈り」をささげているのは、今まで出会った人たちも、これから出会う人たちも、すべての人が一つになるため、完全に一つになるためであると言うのです。 パウロが、「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかりと組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられていくのです。」と言っている通りです。 パウロの言う「自ら愛によって」という「愛」とは何でしょうか。 私たちすべてを覆う大きな「神の愛」です。 私たちはこの「神の愛」に結ばれている。 この姿をこの世が見て、神に愛されていると知るようになるためである。 神がイエスにお与えになった自らを指し示す「輝き」が現れ出ていることを、この世が見るためである。 神と一つとなっていることを、この世が知るためである。 この神自らが指し示す姿こそ、最高の証しであるとヨハネによる福音書は言うのです。
しかし、私たちだけの力でそのような姿を映し出すことなど不可能です。 神自ら働いてくださらなければ、現れ出ないものです。 ですから、イエスは今の弟子たち、これから弟子となる私たちのうえに27節で祈っておられるのです。 「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。」 これは、私たちの「祈り」ではありません。 イエスが十字架を直前に、私たちのために祈ってくださっている「祈り」です。 私たちは何があろうと、何に出会おうとも、イエスとともにいることができる。 イエスと共に生きることができる。 「死んだ方、否、むしろ、復活された方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」とパウロは言っている通りです。 私たちはこのお方から祈られているのです。 イエスとともにいる。 イエスに結ばれている。 イエスと共に生きることが、私たちが一つになるということです。 ナザレのイエスは、ごく限られた人々に見守られて人間として誕生されました。 霊が鳩のようにイエスのうえに降ってきた。 これがわたしの愛する子、わたしの心に適う者という神の声が聞こえた。 成長してバプテスマを受けられて、その満たされた霊に導かれて、この世の試みに遭われた。 神との交わりを「祈り」によって保ち、み言葉に立ってその試みを潜り抜けた。 この世にあって、この世のものではないことを知らされ、神のもとへ帰っていくことが神のみ心であると知らされた。 そして、自ら十字架の死を引き受けて、すべての人間の死を引き受けて自らも死者の中に加えられた。 しかし、その死者の中から、神がイエスを引き上げて、復活させご自身の懐へ戻し入れられた。
この神のみ心を果たしたナザレのイエスがこの時、キリストなるイエスに変えられた。 これが人間ナザレのイエスの地上での歩みではなかったでしょうか。 ナザレのイエスがすべての人間の歩む道として歩まれた道と語られた言葉こそ、私たちが歩むべき道、道しるべです。
「霊に導かれて」 マタイによる福音書4章1~11節
冒頭に、「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて、荒れ野に行かれた。」とあります。 段落の最後には、「そこで、悪魔は離れ去った。 すると、天使たちが来て、イエスに仕えた。」とあります。 なぜ、神の子であるイエスが、その正反対に位置する悪魔のような存在に出会わなければならないのか。 神の子であるものが、「悪魔、サタン、悪の霊」と呼ばれるようなものに打ち勝つのは当たり前でしょう。 バプテスマを受けた直後のイエスには、「霊が天から降って来て、わたしの愛する子、わたしの心に適う者という神の声が聞こえた」と言われる。 それほどまでの存在であるイエスが、「荒れ野」というところに四十日間も連れていかれた。 たったひとりで「悪の霊から誘惑をうけるため」だけに連れて行かれたのはなぜか。 疑問に満たされます。
聖書の言う「荒れ野」とは、追放されるところ、不毛なところとして用いられると同時に、私たちの変化が起こる場所としても用いられています。 その「荒れ野」で、イエスはこの悪の霊から、三つの試みを受けています。 ひとつは、「神の子なら、石をパンになるように命じたらどうだ」というものでした。 悪の霊は、「神の子なら」と言います。 石をパンに変える力を持つ神の子であるなら、命じてみることができるではないかという誘いです。 神の力を、自分を救うために用いるようにという「ささやき」です。 その通りにすれば、人々からは賞賛の声が上がるでしょう。 輝かしい「しるし」となるでしょう。 しかし、イエスは「人はパンだけで生きる者ではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」という、神への信頼に生きる道を選ばれたのです。 二つ目の試みも、聖なる都の神殿の屋根の端に立たせて、同じように「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」というものでした。 詩編91編にそう書いてあるではないか。 だから、人々に向かって、その権威を示すにふさわしい場所、神殿の屋根に立ち、そこから飛び降りて、神に守られている栄光の姿を「しるし」として示したらどうだというものでした。 悪の霊は聖書の言葉をもって誘うほどに巧妙です。 ここでもイエスは、「主を試してはならない」という聖書の言葉で応じます。 最後の試みは、ついに悪の霊そのものを拝めというものでした。 思うままに支配しているこの世の繁栄を見せて、「もし、ひれ伏して、わたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」というものでした。 ユダヤ民族は、存亡の危機にあって今すぐにでもメシアに力を期待し、待ち望んでいたのです。 イエスは、このユダヤ人たちが期待しているものの中に、この世の悪の霊の誘惑の恐ろしさを見ているのです。ここでもイエスは、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と聖書の言葉で応じます。
何気ないこの聖書の記述に、神の深い業を憶えます。 イエスが悪の霊に出会ったのは、バプテスマを受けてからです。 悪の霊の試みを、神の霊に満たされたイエスが受けておられるのです。 「神の霊に導かれて」、この試みに遭っておられる。 むしろ、神の霊を授からなければ出会うことのなかったことではないでしょうか。 私たちもまた、この世の悪の霊に出会うことを嘆くことも、自ら卑下することもありません。 私たちはバプテスマを受けて、神の霊をいただいて初めて、悪の霊の存在に気づかされるのです。 悪の霊の試みこそ、神の子に造りかえられる体験です。 先立って体験してくださったこのイエスとともに私たちは歩んでいるのです。 「荒れ野」こそ、神の霊と悪の霊の交わるところです。 主イエスは、神の霊を宿しなさい。 信仰がなくならないよう祈っていると言います。 神が主イエスを通して、この世の霊と戦ってくださっているのです。 神が霊によって導いて、悪の霊の存在を用いて神ご自身を私たちに指し示してくださっているのです。
「神の恵みの刈り入れ」 マルコによる福音書4章26~29節
イエスは、「神の国は次のようなものである」と、農民の身近な暮らしの風景を通して語ります。 聖書の言う「神の国」とは、領土、領空、領海をもつ国の支配のことではないでしょう。 イエスによって初めてこの世にもたらされた、目に見えない神の支配のことを言うのでしょう。 それも、「力によって」ではなく、私たちには本当に分かりにくい「恵みによって」支配する、「憐れみによって」支配するという方法で、現れ出るものであると聖書は言うのです。 「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する。 ところが、どうしてそうなるのか、その種を蒔く人は知らない。 土はひとりでに実を結ばせる。 種を蒔くと芽が出てくる。 次に茎、穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 その実が熟すと、収穫の時が来て、早速、刈り入れる人が鎌を入れる。」 そのような世界が、「神の恵みが支配する世界」であると、イエスは譬えられたのです。 この地にはすでに「神の恵み」の種は蒔かれている。 最初は小さな存在で、目につかないかもしれない。 しかし、蒔いた人は、必ず芽が出て、育って、実がなると信じて待っている。 蒔かれた地から、神の恵み自ら育ち、現れ出てくる。 ひとりでに実を結ぶ。 イエスは言われました。 「目を上げて畑を見るがよい。 色づいて刈り入れを待っている。」そのような世界がやってきたのだとイエスは言うのです。
神のみ言葉が蒔かれたところには、「神の恵みが支配する世界」は現れ出ます。 神の恵みが自ら成長し、実りがもたらされると信じて待っているところに、必ず「神の恵みが支配する世界」は現れ出ます。 そこでは、すでに「神の国」は始まっています。 そこに、信じる人たちが起こされる。 この業こそ、神の働きです。 私たちの働きではありません。 私たちは、神の働きに用いられているだけです。 しかし、私たちは種を蒔くことができます。 豊かな実りを霊の目をもって見ることができます。 神が用意してくださった実りを待つことができます。 その実りを刈り入れることもできます。 これが、私たちの感謝です。 喜びです。 私たちが、その恵みが見えていないからといって、理解できないからといって、そこに神の働きがないと言えるでしょうか。 神の働きは種蒔きから始まって、私たちには分からない神のプロセスを通して、世界の隅々で進められています。 私たちのものさしで測れないものを測ろうとしないで、神に委ねて、たとえ小さなことであったとしてもその恵みの成長を味わって、感謝して、その恵みが成し遂げられることを信じて待つことです。 神の恵みは、私たちの常識では分かりません。 私たちの思いをはるかに超えています。 そこまで、神の恵みの支配する世界はやってきている。 もし、確めることができたなら、種を蒔いた人と共に、刈り入れをする人と共に喜んで、感謝して、この恵みを味わうように、その恵みを告げ知らせるようにと、イエスはこの「成長する種のたとえ」をもって「刈り入れの時」を語っておられるのではないでしょうか。 すでに、「神の恵みの世界」の種は蒔かれています。 私たちの働きに関係なく、私たちの成功や失敗に関係なく、蒔かれた種は自ずと実を結ぶのです。 やがて成し遂げられる恵みを祈って、私たちは待つことです。 今はたとえどのように小さなことで隠されていても、こんなに悪い地に蒔かれたものだと思われても、神の恵みはそれをすべてひっくり返す力があります。 その力は測り知れないものです。 この神の恵みの成長を実感しているかどうか、気づいているかどうか、そして、感謝しているかどうか、そこに希望をもって生きているかどうか。 そのことが私たちに問われているように思います。
「家族こぞっての信仰」 ヨハネによる福音書4章46~54節
再びイエスがガリラヤのカナに来られたのは、ひとりの「王の役人」に出会うためでした。 カファルナウムにいるかなり身分の高い役人でした。 カファルナウムは、ガリラヤ湖畔にある低地にある町です。 一方、カナは、中央の山間部にある町です。 その標高差は600メートル、距離にして片道30キロも離れていた位置にあります。 このカナに、イエスがユダヤから来られたと聞いたこの役人は、その距離を越えて、その標高差を越えて急いでイエスのもとにカファルナウムに駆け上がって来たのでした。 その理由は、自分の息子が病気で死にかかっていたからです。 「息子を癒してほしい」と懇願します。 彼は王宮に仕える身分の高い役人です。 その役人が、ユダヤ教からは異端であると睨まれている、30歳そこそこのガリラヤの大工の息子にひれ伏して哀願しているのです。 この必死の願いにイエスは、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」とつれなく言います。 イエスは、ご自身の思いとあなたがたの思いとは違う。 神の思いと人の思いは違うとはっきりと言われているのです。 その通りでしょう。 私たちは、神の助けを求めます。 自分たちが望んでいる助けだけに目を向けて、神が望んでいるそれ以上の大きな恵みに目を向けようとしないのです。 私たちが願うものだけに、神の助けを求めているのです。
しかし、この役人は、このイエスのつれない言葉に怯みません。 「主よ、子どもが死なないうちに、おいでください。」と食い下がります。 彼は、死んだらおしまいと思っています。 イエスがともにカファルナウムまで下って来てくださらなければ、自分の息子は助からないと思っています。 この食い下がる役人に、イエスは「帰りなさい。 あなたの息子は生きる。」とだけ言われたのです。 イエスは、「ここから30キロ離れた息子が待っているところに、向きを変えて行きなさい。」と言われて、これから息子に新しいことが待ち受けているそのところに彼を遣わしたのではないでしょうか。 死んでしまっては何にもならないと思っている役人に、「あなたの息子は生きる。 その息子を思うあなたもまた向きを変えて生きるようになる。」と言われたのではないでしょうか。 驚いたことに、彼は、言われたイエスの言葉を信じて帰って行ったと言うのです。 他に何もすがるものがなく仕方なく、帰らざるを得なかったのかもしれません。 しかし、「帰りなさい。 あなたの息子は生きる。」と言われたイエスのみ言葉を受け取って、そのみ言葉に立ち上がって、確めようのないカファルナウムに向きを変えて歩み始めたその時に、息子の熱が下がり、その病いが癒されたというのです。 聖書は、それを彼の信仰だと言います。 イエスは、「見ないで信じる者は幸いである」と断言されています。 イエスは、「息子が助かる」でも、「息子が治る」でもなく、わたしの言葉によって「息子は生きる。 息子を取り戻す。」と言われたのです。 助けを求めて一緒にきてくださいとカナまでやってきた役人の道が、「見ないで信じざるをえない信仰」にまで導かれて、イエスの言葉だけに寄りすがってカファルナウムに遣わされていく道へと変えられたのです。 人の必死に求める願いと、それに対するイエスの憐れみによって、神の恵みは働きます。 そこに、奇跡は起こります。 しかし、イエスは、起こされた奇跡を見てイエスを受け入れるのではなく、見ないで信じる信仰へと役人を導かれたのです。 イエスは、あなたの息子を取り戻す。 あなたも、あなたの家族もまた取り戻す。 それは、わたしのみ言葉に立って、立ち上がり、歩み出すあなたの「見ないで信じる信仰」のうえに成し遂げられるとイエスは言われたのではないでしょうか。
「目を上げて見なさい」 ヨハネによる福音書4章31~38節
サマリアの女とイエスとの出会いは突然でした。 当時の社会では考えられないことでした。 ラビと呼ばれる教師であったイエスが、ひとりの女と一対一で話をしている。 女はサマリア人で、イエスはユダヤ人でした。 ユダヤ人からすると、サマリアは異教徒の血が混じった異教の地である。 ユダヤ人は一緒に交わることも、サマリアの地に足を踏み入れることも決してしなかったのです。 常識では考えられないことが、突然起こっている。 大勢の中の一人としてではなく、イエスの方から目がけて、呼びかけておられるのです。 しかし、女はイエスとの出会いに気づかなかった。 イエスが呼びかけるその言葉の意味も分からなかった。 導かれるまま対話を続けていくうちに、いつしか自分の心の中にあるものが、イエスの前に差し出されるまでになる。 心の中に湧いて出てくるものが引き出されるようになる。 イエスとの出会いはそのような不思議なものであるとヨハネによる福音書は語るのです。
弟子たちは、サマリアの地を通るだけで、宣教の地とは考えてもいなかったでしょう。 その弟子たちをイエスは引き連れて、このサマリアの女を準備して、井戸端で待っておられたのです。 聖書には、「サマリアを通らねばならなかった」と書かれています。 この時、このサマリアの女に変化が生じ、「手にしていた水がめをそこに置いたまま、サマリアの町に出て行った。」と言います。 今まで人目を忍んで身を隠していたこの女が町へ出て行って、大勢の人々に向かって、「さあ、見に来てください。 わたしが言ったことをすべて言い当てた人がいます。 もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」と言い出したと言うのです。 この女の証言によって多くのサマリア人が、イエスのもとにやってくるようになった。 彼らが、イエスの言葉を直接聞いて信じたと言うのです。
ここまでは、イエスとたったひとりのサマリアの女との対話だけでした。 ここに「食べ物」を買うために町に出て行っていた弟子たちが戻って来たのです。 ユダヤ人がサマリアを通るだけでも考えられない時に、イエスは弟子たちを引き連れてわざわざサマリアを通って行こうとされたのです。 どう考えてみても、イエスはサマリアの女に出会うために、前もって準備をして、わざわざ井戸端で待っていたとしか思えない。 イエスはサマリアの女の変化した姿を弟子たちに見せて、女が毎日汲んでいた井戸の水ではない、弟子たちが町に行って買ってきた食べ物でもない、「決して渇くことのない水」、「弟子たちの知らない食べ物」をサマリアの女の姿を用いて弟子たちに語られたのではないでしょうか。 戸惑う弟子たちに、イエスは当時のことわざを通して語ります。 「あなたがたは、『刈り入れまで四か月もある』と言っている。 種を蒔いて、それを刈り入れるのはもっと先のことである。 『ひとりが種を蒔き、別の人が刈り入れる』と、実際に刈り入れるのは別の人となると嘆いている。 そうではない。 「目を上げて畑を見るがよい。 私の畑は色づいて、もうすでに刈り入れを待っている。 すでに刈り入れが始まっている。 蒔いた人も刈り入れる人と一緒に喜んでいる。 愛する弟子たちよ、この女と同じように、あなたがたも町に出て行って語り出す者となる。 『渇くことのない水』、『命を生かす真の食べ物』について証言する者となる。」とイエスは語っておられるのではないでしょうか。 「目を上げて」とは、天を仰いでということです。 霊の目をもって見なさいということです。 「わたしの言う食べ物とは、わたしをお遣わしになった方のみ心を行い、その業を成し遂げることである。 今は、刈り入れの時、恵みの時、救いの時、喜びの時である。」と言われたのです。 神のみ心を果たすために務めを与えられて、遣わされるという生き方が弟子たち、私たちに用意されているのです。
「内なる人」 エフェソの信徒への手紙3章14節~19節
パウロは、この世の力に取り囲まれているエフェソにいる少数のキリスト者に、「聖なる者たち」、「キリスト・イエスを信じる人たち」と呼びかけます。 「あなたがたは、前もって神に選ばれてこの世と区別されて、エフェソに置かれて用いられている存在である。 これは、神のみ心による。 時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが頭であるキリストのもとにひとつにまとめられる。 あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、キリストによりしっかりと組み合わされる神の家族となる。 キリストに対する信仰と知識において一つのものとなる。」と、そのための「とりなしの祈り」をパウロがささげているのです。 他の手紙でパウロは、「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(コリント二4:16)と語っています。 パウロの言う「内なる人」とは、「外なる人」から向きを変えて、根底から新しくされた人、「神によって選ばれて、区別されて、聖なるものとされた人」、「キリスト・イエスを信じるようになった人」、「神に属する者として導かれた人」のことです。 パウロは、「外なる人」が悪くて、「内なる人」がよいと言っているのではありません。 どちらも、私たち人間そのものでしょう。 「内なる人」とは、神の霊に導かれて、信仰を与えられて、その「外なる人」をささげて主に従う人のことでしょう。 パウロは、「神の豊かさによって、その霊と力によって、その内なる人を強めてください。」と祈ります。 「神の満ち溢れる豊かさに与るように、満たされるように、神の霊と力によって強められるように」と祈っているのです。 私たちの「信仰」も「祈り」も、すべて神から授けられたものです。 ここまでたどり着くことのできたこの道もまた、神が備えてくださった道です。 ですから回り道でも、通らなくてもよかった道ではありません。 この道を通らなければ与えられることのなかった「信仰」、「祈り」を得るためです。 人それぞれ「信仰」も「祈り」も違うでしょう。 しかし、その源はすべて一緒です。 神の恵みの豊かさです。 そこからこぼれ落ちる「霊」の働き、「霊」の力によって「強められなさい」とパウロは祈っているのです。
更に、「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせるように、キリストを宿すように、愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者となるように強めてください。」と祈るのです。 エフェソの人々の信仰の隙間に上手に入り込んでいるこの世の力と働きを、パウロは見ているのです。 彼らが気づいていない隙間を埋め尽くすまでに、彼らの内にキリストが宿るまでにキリストの愛に支配されて、キリストが留まるように」と、渾身の祈りをもって獄中からパウロは祈るのです。 最後にパウロは、「そのキリストの愛をあなたがたが知るように、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解するように。」と祈ります。 「キリストの愛」がどこまで広がっているのか、その極みを知る者はいないほどの「広さ」です。 「人の知識をはるかに超えたもの」とパウロは言います。 私たちはせっかちに、結果や報いを求めますが、「キリストの愛」は種を蒔いて、刈り入れるまでじっと待つ「長さ」をもっています。 キリストの十字架は、この地上の世界に生きる者のどん底の状態でしょう。 人々から侮られ、嘲られ、勝手に作られた罪にらく印を押され、捨てられた状態です。 この低さにまで、私たちの代わりに落ちてくださって、神の愛という燦然と輝く高さにまで引き上げられた「低さと高さ」をもっています。 「深さ」もまた同じです。 自分の弱さや過ちに気づけば気づくほど、「キリストの愛」を知ります。 「キリストの愛」は、罪深さの「深さ」に応えて働くのです。 この「キリストの愛」をともに味わいつつ、キリストを仰ぎつつ歩んで参りましょう。
「光を輝かしなさい」 マタイによる福音書5章13節~16節
「あなたがたは、地の塩である。」とイエスは言います。 「あなたがた」とは、イエスの後に従って山の上にまで従ってきた弟子たち、イエスのみ言葉を聞くためにそば近く寄って来た弟子たちです。 その弟子たちに、「心の貧しい人々は幸いである。 天の国はその人たちのものである。 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、大いに喜びなさい。 天には報いがある。」と語り、「あなたがたはこの地上で、すでに味付けられた塩である。」と語られたのです。 当時でも、塩はとても貴重な存在でした。 食べ物の腐敗を防ぐもの、料理には欠かせないものでした。 イエスは、これから「地の塩になる」と言っているのではありません。 頑張って「地の塩になりなさい」と言っているのでもありません。 あなたがたが望もうと望まなくとも、それにかかわらず「地の塩である」と言われるのです。 たとえ力もなく、取るに足りない、小さな存在であったとしても、イエスご自身に選ばれて、招かれて、従ってきた者として、「あなたがたはすでに地の塩になっている。 この地において、味付けられた塩であることを赦されている存在である。」と宣言されているのです。
更にイエスは、「あなたがたは、世の光である。」とも言います。 「光」としてすでに輝いていると言われるのです。 イエスご自身は、「わたしは世の光である。 わたしに従う者は暗闇を歩かず、命の光を持つ。」と言われました。 「光」であるイエスご自身と結ばれている限り、このイエスのもとにとどまる限り、あなたがたの中に、イエスの光が宿るようになる。 イエスの輝く光を受けて、あなたがたもまた「この世の光」となることが赦されると言われるのです。 「光」はすべてのものを照らし出す、隠れていることのできないものです。 「だから、そのように、あなたがたがその内に宿している光を人々の前に輝かしなさい。」と言われたのです。 それは、あなたがたが素晴らしい姿となって輝くためのものではない。 「あなたがたが、そして映し出されたあなたがたの姿を見た人々が、あなたがたの天の父を崇めるようになるためである。」と言われたのです。 その素晴らしい輝きを自分のものにしようとしてはなりません。 この輝きこそ、イエス・キリストの輝きが映し出されているものにすぎません。 人間を美化してはなりません。 私たちの「光」ではないのです。 イエスの言う「光を輝かす」とは、イエス・キリストの光を照らすということです。 イエスの弟子であり続けるということ、イエス・キリストの光を指し示すということです。 イエスの言う「あなたがたの立派な行い」とは、とてもそのような器に無いような私たちを通して、何の力もない、魅力もない、ありきたりの小さな生きる姿にこそ、神が十二分に働かれると祈り、願い求めることです。 神が必ず働いてくださると確信をもって信じて、祈ることです。 「地の塩である、世の光である」ことが赦されているこの祝福を、感謝して受け取ることです。 その喜びに応えて、神を礼拝し、神の祝福を証しし、告げ知らせることです。 塩が塩のままでとどまっていては、塩は効き目を表すことはできないでしょう。 授けらされた「塩味」は、塩自体の存在が隠れて、溶け込んでいくときに効き目を発揮するでしょう。 一方、「光」は誰からみても明らかな存在です。 隠すことなどできないものです。 イエスは「あなたがたは、地の塩であると同時に、世の光である。」と言われたのです。 この世に、味がわからなくなって埋没してはならない。 地の塩であることをやめてはならない。 だからと言って、自分を誇示して、イエスの輝きであることを忘れてはならない。 イエスは、「地の塩として、世の光として、わたしの光を臆せず人々の前で輝かしなさい。」と言われたのです。
「赦されるとは」 ヨハネによる福音書8章1節~11節
ひとりの女性が律法学者たちやファリサイ派の人々に連れて来られて、人々の真ん中に立たされています。 「この女性は現行犯逮捕されました。 その現場を見届けた証人もいます。 さあ、イエスよ、あなたは神の国を宣教する教師であるなら、律法の定めにある裁きをこの者にはっきりと告げるべきではないですか。」とイエスに、律法学者たちは迫ったのです。 「イエスを試して、訴える口実を得る」ためでした。 もし、イエスが「赦しなさい」と言うなら、律法の戒めを破る者となるでしょう。 もし、イエスが「この女性を石で打ち殺しなさい」と言うなら、「罪人を赦すためにこの世に来た」というイエスの教えに矛盾することになるでしょう。 どちらに転んでも、イエスを追い詰めることになるのです。 その時のイエスの反応は、「かがみ込み、指で何かを書き始められた」とだけ書かれています。 何も答えないイエスに、律法学者たちは畳みかけて執拗に問い続けるのです。 しかし、イエスは、この罪に定められた女性とともにそこにとどまり続けるのです。 そして、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」とだけ人々に語られたのでした。 イエスは、「罪に定められている者に石を投げなさい。 律法に石で打ち殺せと書いてあるとおりに、石を投げつけて裁きなさい。」と言われたのです。 そして、罪に定められている者とともに、身をかがめてそこにとどまっておられたのです。 取り囲む人々が石を投げつけるなら、イエスもまたその投げつけられた石に当たるでしょう。 イエスも打ち殺されることになるでしょう。 それでもイエスは、「自分に罪を犯したことのない者が石を投げてこの女性を裁きなさい。」と言われたのです。 このイエスの言葉を聞いた人々が、「年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまった。 最後には、罪に定められ人々の真ん中に立たされた一人の女性とイエスだけが残った。」と言うのです。
ここには、目に見える過ちを犯した人の姿があります。 その目に見える過ちを犯した人を利用して、イエスを罠に陥れようとした人の姿があります。 何もしないでただ眺めているだけの人の姿もあります。 イエスはこれらすべての人の姿を含めて、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、石を投げて裁きなさい」と言われたのです。 石を握りしめて人を裁こうとするすべての人々が、その石を握りしめている自分の姿を見つめるようにと、イエスは地面にかがみ込んでじっと待っておられたのではないでしょうか。 見える形で過ちを犯していないかもしれない人たちの心の中にある過ちについても、イエスは問うておられるのです。 人の前ではない、神の前に過ちのない者であると、あなたがたは言えるのかとその資格を問うておられるのです。 イエスとふたりだけになった女性に、イエスは「騒ぎ立ててあなたをさらし者にしたあの人たちはどこにいるのか。 だれもあなたを罪に定めなかったのか」と言われました。 しかし、それだけではこの女性にとって事は解決しないのです。 もし、自分の罪が赦されることがないならば、生涯、自分の中にある犯してしまった過ちとともに歩んで行かなければならないのです。 そのような状態にあるこの女性に、イエスの言葉が語りかけられたのです。 「わたしはあなたを罪に定めない。 行きなさい。 これからは、もう罪を犯してはならない。」と送り出されたのです。 彼女は、本当に私を裁くお方がいた。 そして、そのお方が私を赦すことのできるお方であった。 そのことを見つけ出したのです。 この「イエスと、過ちを犯して人々のさらし者になったひとりの女性だけが取り残されたところ」こそ、神の恵みの世界です。 人が人を罪に定めることのできないところです。 過去の過ちが拭われて、イエスとともに存在することが赦されて、送り出されるところです。
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