「神の教会」 使徒言行録20章25~38節
パウロがわざわざエフェソから教会の人々を呼び集めてもっとも伝えたかったことは、22節の「今、わたしは霊に促されてエルサレムに行きます。」ということでした。 そして、25節の「今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。」という別れの言葉でした。 一連のことを語り終えたパウロに、エフェソから駆けつけた人たちは皆、「激しく泣いた。 パウロの首を抱いて接吻した。 悲しんだ。 けれども、パウロを船まで見送りに行った。」と書かれています。 エフェソの人々とパウロの50~60キロの距離を越えた感動的な再会と別れがここに記されています。
パウロの姿に、イエス・キリストの姿を見ることができます。 イエスも「霊に促されて、導かれて、悪の霊から誘惑を受けるために荒れ野に行かれました。」 人間が通る様々な誘いを受けたイエスは、ことごとく神のみ言葉によって拒み、乗り越えて神の前だけに生きることを選び通されました。 そして、十字架において息を引き取るその寸前まで、まとわりついた悪の霊の誘いを振り切るかのように、イエスは最後の晩餐で弟子たちに別れを告げて、十字架の死に向かわれたのです。 パウロにとってエルサレムとは、どういうところでしょうか。 ユダヤ教の中心地です。 かつてパウロが熱心に律法を学んだ場所です。 そのパウロがイエス・キリストの呼びかけによって、自分が迫害していたキリスト者に自分自身が変えられたのです。 エルサレムのユダヤ教徒から見れば、パウロは裏切者です。 エルサレムを中心とするキリスト教会の人々からも同じです。 パウロが異教の地で教えている、律法に囚われない教えを快く思っていない人々がパウロの命を狙っていてもおかしくはないところです。 そのような激しい敵意に取り囲まれているエルサレムに、パウロは「霊に促されて行きます。 投獄と苦難とがわたしを待ち受けていることだけは、霊によって告げ知らされている。 だから、わたしの顔を見ることがなくなる。」と語っているのです。
パウロは、「わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こしてください。 公衆の面前でも、方々の家でも、ユダヤ人にもギリシャ人にも、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えました。 神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰を証ししてきました。 神のご計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えました。 このイエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという務めを果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」とまで言うのです。 パウロは命がけで、このアジア州で三年間主に仕えてきたのです。 そのようにして建て上げられたエフェソの教会の姿を、「神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会」と言い、「エフェソの群れはだれのものでもない、神に属する、神の所有にある教会である。 群れのひとりひとりもまた、聖なる者とされている。」と言います。 何ら欠点のない、完全無比の教会と言っているのではありません。 神がご計画に沿って、導いてくださった教会である。 神ご自身が、その御子イエス・キリストの十字架の死によって赦して、ご自分のものとしてくださった取り分けられた神の民であると言っているのです。 神によって選び出されて、ご自身の民として集めてくださっているから、「聖なる者」になる。 その御子イエス・キリストの十字架によって贖われているから、集まるそこが「聖なる場所」となる。 そのために、神の教会の群れを、「注意して見張る、霊によって立てられた者」となると、パウロはエフェソの人々に告げたのです。 私たちにとって、エルサレム、エフェソとはどこのことでしょうか。
「敵意という隔ての壁」 エフェソの信徒への手紙2章14~22節
ローマで皇帝の裁判を待つために牢獄の中に収監されているパウロが、エフェソにいる信徒へ手紙を書き送っています。 この境遇を踏まえて、主イエス・キリストの福音のための「囚人」であると称しているパウロは、「だから、心に留めなさい。 忘れてはならないことを、いつも憶えていなさい。」と言います。 「あなたがたは、以前には異邦人であった。 律法も、割礼も、神も知らない民であった。 神の選ばれたイスラエルの民に属さず、神が約束してくださっていることも、神が招いて捜し求めてくださっていることも知らずに、この世で漂流していた寄留の民であった。 そうであるにもかかわらず、今や、イエス・キリストの十字架の死によってあなたがたの過去は赦された。 もうすでに神に近い者となった。 だから、心に留めておきなさい。」と言うのです。 留めおいておくその内容が14節です。 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」とパウロは言います。 政治や社会で言う「争いをしないとか、戦争をしないとか」というような「平和」のことではありません。 神との関係のことです。 神とつながっているのかどうかです。 神との関係が途絶えているのは、私たち人間の側に原因があるのでしょう。 神によって創られた私たち人間が勝手に神のもとを離れ、隠れて過ごすようになった。 神の側からの赦しがなければ、修復不可能な状態です。 そうであるにもかかわらず、神はご自身の方から一方的な赦しの提案、約束をしてくださったのです。 もし神との関係が断絶しているなら、神との関係を修復してもらいなさい。 この一方的な「和解」の神の申し出を、イエス・キリストの十字架において信じて受け取りなさいと言うのです。 ですから、イエス・キリストこそ、神との関係を修復させる神の「平和」そのものであると、エフェソの人々にパウロは語っているのです。
ここで注意しておきたいことは、キリストは「わたしの平和」ではなく、「わたしたちの平和」ですとパウロが言っていることです。 パウロの言う「平和」は、17節で「キリストはもうすでにおいでになった。 神と遠く離れている人たちにも、また近くいると思っている人たちにも、キリストはこの世においでになって、「わたしたちの平和」という福音をすでに告げ知らせてくださった。 キリストは、あなたがたと神との間の平和だけでなく、あなたがたの間にある「敵意という隔ての壁」を取り壊して、二つのものを一つにされただけでなく、ひとりの新しい人に造り上げてくださった。 ひとつの体として綴り合わすように、神と和解をさせて、ひとりひとりの間にある『敵意という隔ての壁』を十字架によって滅ぼされた。」と言うのです。 「敵意」とは、敵をつくるという心でしょう。 本来、ひとつであるはずのものがふたつに分断されているのは、この「敵意」からくるものでしょう。 これは「敵」の中にあるものではなく、こちら側の私たち自身の中に隠れているものです。 自分しか認めようとしない、敵の中にあるものだけを見て、裁こうとする頑なな心です。 自分の中にある「妨げ」を見ようとしないで、「敵」の中にあるものだけを見ようとする心です。 これこそ、キリストの十字架による赦しがなければ、取り払うことのできないものです。 しかし、その「敵意」はもうすでにキリストの十字架によって取り壊されている。 なぜなら、もうすでに私たちはこのキリストによって一つの霊に結ばれている。 神を父と呼んで神のもとに近づくことが互いに赦されている。 もはや、外国人でも寄留者でもなく、神の民に属する者、神の家族である。 この神の和解と赦しを得た「わたしたちの平和」のうちにある者である。 組み合わされたひとりひとりのあなたがたこそ、霊の働きによって神が宿る「神の住まい」となっているとパウロは言うのです。
「ペトロの確信」 使徒言行録4章1~14節
ペトロは、「サドカイ派の人々、祭司の人たち」が秩序を堅く守っているその神殿の境内で、断りもなく、「あなたがたが見て知っている、この男の生まれながら不自由な足が癒されたことも、また、あなたがたが十字架に架けて殺したナザレの人イエスを死者の中から復活させたことも、あなたがたの神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神のなされたことである。 これらみな、悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためである。」と語ったというのです。 人間の理性によってしか測ることのできない彼らにとって「死者の復活」、ましてやナザレの人イエスの復活」までも、神殿の境内で堂々と語っている姿は、耐えられないものでした。 それだけでなく、「そのイエスを十字架に架けて殺したのはあなたがたの責任である。 その責任を神が逆転させ、自らその責めを引き取って、あなたがたが殺したイエスを神が復活させた。」と言い切ったのでした。 そう語るペトロたちに、五千人もの人が従っている。 彼らが最も恐れている神殿の秩序の破壊、この恐れに押し出されてサドカイ派の人々がペトロとヨハネを捕らえて牢に入れたのです。
更にその翌日には、「議員、長老、律法学者たち」が集まって、このふたりに尋問したと言います。 当時の社会では、最高の権威をもつ議会のメンバーの尋問です。 「お前たちは何の権威によって、まただれの名によって、生まれながら足の不自由な男を癒したのか。」という尋問です。 自分たちが築き、維持してきた権威と秩序を守るために、危険と思われる存在をつぶしにかかる。 この世の働きに対するペトロの返答です。 「この生まれつき足の不自由な男がこんなに良くなって、皆さんの前に喜んで立っているのは、あなたがたが十字架に架けて殺したナザレの人イエス・キリストの名によるものです。 神が死者の中から復活させられたあのイエス・キリストによるものである。」と、一向に動じないで答えたのです。 ついには、「ほかの誰によっても、救いは得られません。 わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほかに、人間には与えられていないのです。」と語ったと言います。 ペトロはただ、自分が体験してきた「救いの事実」だけを語っているのです。 足の不自由な男もそうです。 イエスの名によって立ち上がることができるようになった体験の証しを語っているだけです。 ペトロもこの男も、自分の身に起こった救いの体験の信仰告白なのです。 そのことを堂々とした大胆な話しぶりで語ることができるようになっていたのです。 この男があるいはペトロが何かを学んで、理解をして、何か力をもったから語っているのではないでしょう。 自分の弱さを見つめ直されてやっと、自分が辿らなければならない十字架への死、永遠の死を代わりに引き受けてくださって、復活の道、救いの道を備えてくださったイエスに出会うことができたからです。 この十字架に自ら架け上がってくださったイエスに結ばれたからです。 このイエスに身を委ねるしか道が残されていなかったからです。 これこそ、聖霊の働きです。 この神からの賜物を全身に注がれて初めてできることです。 ペトロたちは、もうすでに「このお方以外に救いはない。 神の前だけに生きている。」という確信に生きていたのでしょう。 なぜなら、聖霊に満たされているからです。 復活されたイエス・キリストとともにあるからです。どんなにこの世の権威をもっている人の前でも臆することはなかったのです。 イエス・キリストが天に上げられるその直前に「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。 地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と言われた通りの姿に、ペトロたちは変えられていたのです。
「岩の土台」 マタイによる福音書7章24~29節
このイエスの譬えは、マタイによる福音書の5章から7章にかけて延々とイエスが語られた有名な「山上の教え」の最後の締めくくりとして語られている譬えです。 「岩の上に自分の家を建てた人」と「砂の上に自分の家を建てた人」が、「賢い人」と「愚かな人」と表現されています。 「砂の上に建てた家は、雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」と言います。 人生の危機に遭遇するなら、しっかりとした土台の上に自分の家を築いていなければ倒れてしまう。 だから、それに備えてしっかりとした土台を築きなさい。 これがイエスの語られたことであるかのように、私たちはとらえてしまうのです。 イエスがこの「山上の教え」を語っている相手は弟子たちです。 その締めくくりに語られた譬えです。 私たちが考えるような人生の危機に備えるためではなく、イエスがこの世で戦っておられる信仰の戦いに備えるようにと語っておられるのです。 向きを変えて、生涯をささげて、イエスが語る神を信じて従っていこうとしている弟子たちです。 今までのどうしようもない歩みが赦されて、その過ちが赦されるという約束を信じて、この神の約束の保証にかけて神の前に生きて行こうとしている弟子たちに語られたものです。
イエスは、律法の戒めを熱心に教えている「律法学者たちやファリサイ派の人々」のことをこう言っています。 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。 しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。 言うだけで、実行しないからである。 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」 「律法学者たちやファリサイ派の人々」が語る律法は神からいただいたものである。 聞いて、行ってみて、それでも守ることのできない自分の姿を見つめなさい。 神のもとを離れてしまっている本当の姿を知らされなさい。 そのあなたがたの過ちを赦すために、父なる神が語られたみ心である律法をあなたがたが成し遂げることができるようになるために、この私は遣わされてきたのである。 この神の赦しがない限り、あなたがたは神のみ心を果ことができない。 人はその罪が赦されて初めて、神のみ心を知り、気づくようになる。 神が求め、願っているような姿にあなたがたは変えられる。 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」となる、「岩の上に自分の家を建てた者」となると、弟子たちに言われているのです。 弟子たちがそうであったように、私たちの信仰の始まりは、イエスというお方との思いがけない突然の出会いであったでしょう。 意味が分からないイエスの呼びかけのみ言葉に出会ったのでしょう。 人は、神の側からの呼びかけに応える存在です。 そのように造られているのです。 イニシアティブは神の側にあるのです。 人はただそれに応える存在にすぎません。 パウロは、「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできない。 イエス・キリストこそ、霊的な岩である。」と言います。 岩の上であろうが、砂の上であろうが、何かしらの自分の家を私たちは建てているのです。 問題はその土台です。 神のみ心を果たすためには、神のもとから遣わされてきたこの「わたし」以外の土台のうえには、「わたしの言葉を聞いて行う者」の自分の家は建たない。 この「わたし」のこれから果たされる十字架の赦しを受け取りなさいとイエスは言われる。 この体験の味わいをイエスは、「岩の上に自分の家を建てる」と表現しているのでしょう。
「右手を取って立ち上がらせる」 使徒言行録3章1~10節
「生まれたばかりの教会の群れ」の姿を、使徒言行録はこう語っています。 使徒たちを通して語られたイエスの教えに熱心であった。 イエスの語られたみ言葉を生きた言葉として、その上に土台を置いて生きていたと言います。 そして、相互の交わりに熱心であった。 ひとりが背負う十字架がもうひとりの痛みや破れを覆い包み、互いに神のご愛や恵みを喜んで分かち合っていたのでしょう。 パンを裂くことにも熱心であったと言います。 イエスが自分たちのために十字架のうえで裂いてくださったからだを覚え、繰り返し賛美し、礼拝することを忘れなかったのでしょう。 そして、祈ることに熱心であったと言います。 ひとつの塊となって祈る姿です。 隣人の口から出る言葉によって励まされ、慰められる体験でしょう。 腹の底から「アーメン、その通りです」と唱和することのできる幸いでしょう。 そのような「生まれたばかりの教会の群れ」の姿に、イエスの起こされた様々なみ業が起こった。 彼らの姿を見つめた人々に、彼らとともに神がおられるという畏怖心が起こされたと言うのです。 「多くの不思議な業としるしが行われた。 人々が、彼らの姿に好意を寄せ始めた。 同じように救われる人々が日々加えられていった。 ひとつにされていった。」と言います。
この群れの代表とでも言うべきペトロとヨハネが、祈るために神殿に向かう途上のことでした。 ペトロとヨハネがひとりの男の姿に目を留めました。 「生まれながら足の不自由な男」でした。 神殿の境内に入る門に、人々の施しを求めるために連れて来られ、そこに放置された男です。 その惨めな男の姿に、ペトロとヨハネが目を留め、足を止め、じっと見つめ「わたしたちを見なさい」と語りかけたと言うのです。 そしてペトロは、「わたしは金や銀はもっていない。 あなたが願い求めるものは何ひとつ持ってはいない。 しかし、わたしが持っているものをあげよう。」と語りかけたのです。 ペトロとヨハネたちが神からいただいたものは、ただひとつです。 イエスが天に上げられる前に語った、父なる神が約束してくださった聖霊だけです。 十字架にかけられて死んだそのイエスを、神が自らのもとへ引き寄せ、新しい霊の命に生まれ変わらせ、再び、私たちのところに霊の姿をとって遣わしてくださった復活の主イエス以外に、彼らは何も持っていないのです。 ナザレの人イエス・キリストの名によって語る言葉以外に、自分たちは何ももっていない。 しかし、このみ言葉に立つならば、死んでいるものでさえも、神の世界に生きる霊の命に生き返らされる。 この力と重みを体験していたからこそ、足の不自由なひとりの男に「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と語りかけたのではないでしょうか。 その次です。 ペトロは語りかけただけでなく、その惨めな男の右手を取って、立ち上がらせたと言うのです。
これは、ひとりの男のからだの癒しを語っただけの出来事でしょうか。 ペトロたちは聖霊に満たされて、新しいものに造り変えられています。 そのうちには、ナザレの人イエス・キリストを宿しています。 お互いがイエスのみ言葉を思い起こして、交わりによって、礼拝によって、祈りによってひとつの塊とされています。 その彼らが目を留め、足を運び、語りかけ、自分たちのなかにあるイエス・キリストを証ししているのです。 この連帯の中に、ペトロたちはその惨めなひとりの男と共に生きているのです。 ですから、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と呼びかけ、その名を挙げて祈ったのです。 これが「生まれたばかりの教会の群れ」の働きであると、からだの癒しにとどまらない劇的な変化をもたらす象徴的な出来事として、凝縮して書き記したのではないでしょうか。
「新しい霊の目が開かれる」 使徒言行録2章29~36節
ペトロは至る所でそそっかしい振る舞いをして、イエスによくたしなめられていました。 人間の思いの強いペトロは、「サタンよ、引き下がれ」とまでイエスに言われ、注意をされたこともありました。 「たとえ命が失われても、どこまでもイエスについていきます」と信念をもって従っていたペトロが、不意を突かれて「イエスを知らない」と三度まで言い切ってしまった。 そんなペトロの弱さを十分わかったうえで、イエスは「三度、わたしを知らないと言うことになる」と預言し、その通りに過ちを犯してしまったぺトロに呼びかけるのです。 三度の過ちを覆い尽くすかのように、「わたしを愛するか」と三度の赦しを与えるのです。 そして、「わたしの羊を飼いなさい。 養いなさい。」と、務めを与えて、過ちを犯した自分に嫌気がさして、落ち込んで望みを失ってしまっていたペトロを復活させたのです。
そのペトロの姿が、「十一人の使徒とともに立って、声を張り上げて話し始めた」姿です。 「ユダヤの人々よ、エルサレムに住むすべての人たちよ」と呼びかけている姿です。 あれほど、イエスを十字架に架けたエルサレムの人たちを恐れて、家の戸に鍵までかけて閉じ籠っていたペトロです。 婦人たちから、墓の前でイエスは復活したのだと告げられたことを聞いても、たわ言のように思い、信じることができなかったペトロです。 墓の中をのぞいて確認をしたのに、その事実を受け止めることができなかったペトロです。 そのようなペトロが、エルサレムの人たちに向けて大声を張り上げて語りかけているのです。 「ナザレの人イエス」が、今まで考えてもみなかったお方であることを、「知っていただきたい。 わたしの言葉に耳を傾けてください。」と語り始めたのです。
ペトロは明らかに、旧約聖書のみ言葉に新しい霊の目が開かれたのです。 イエスが語られた言葉に、新しい霊の目が開かれたのです。 イエスというお方は、神のもとから直接遣わされて、私たちを救う働きを成し遂げるために、十字架の死を体験してくださった。 それはペトロ自身のためであり、自分たちのためでもあり、自分たちを拒み続けている人たちのためでもあることを、神のもとから注がれる聖霊によって知らされたのです。 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われたナザレの人イエスによって、今、ここに、時は満ち、神の国は現実のものとなったと確信したのです。 自分に授けられた聖霊が、同じように人々の中にも注がれることによって、十字架の死を経て復活されたイエスが心の中に宿り、神の国が現実のものとなる。 だから、あなたがたは古い自分を脱いで新しい自分が生まれることを願いなさい。 新しい霊の世界に生きる備えをするために、福音を信じなさい。 「いのちから死」へと、終わりに向かっている古い自分を捨てて、「死からいのち」へと、神のもとに引き寄せられる新しい望みに生きなさいとペトロは訴えているのです。
このペトロの説教を聞いた聴衆は、自分たちの犯した罪に気づかされました。 その過ちを認めたのです。 そして、自分たちはこれから「どうしたらよいのですか」と、歩んで行く道を求めたのです。 自分たちが殺したそのお方を、神がその十字架の死から解放し、赦して、再び人の命を越えた復活の新しい霊なる命に生きる存在とした。 その神のもとへ立ち戻る唯一の道を、わたしたち人間に与えてくださったことを知った会衆は、ぺトロの「悔い改めなさい。 めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。 そうすれば、わたしが授けられたように賜物として聖霊を受けます。」という言葉に応えて、その日のうちに三千人ほどが仲間に加わったというのです。
「究め難い神の富と知恵と知識」 ローマの信徒への手紙11章33~36節
パウロは、自分自身の同胞であるイスラエルの民が、なぜ、イエスを拒み、頑なになって不信仰に陥ってしまっているのか理由が分からなかった。 しかし、パウロは霊の働きによって知らされたのです。 今は、神の前に頑なになって、神を見ることも、神を知ることもできなくなってしまっているイスラエルの姿は、実は、異邦人の救いのためであった。 今、パウロが専念しているこの異邦人への宣教の時が満ちるまでに至ったならば、再びイスラエルの民は神の前に回復させられると知らされた。 自分自身がその目で見届けることができないかもしれないが、神の定めたご計画は必ず成し遂げられる。 そのことは、人間が測り知ることのできない、なんと深いことかとこの手紙で締めくくっている言葉が、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。 栄光が神に永遠にありますように。 アーメン」という賛美です。 「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。 だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」という叫びなのです。 これが、同胞の民イスラエルの躓きという深刻な現実を背負って苦闘したパウロの生涯の結びの賛美です。 矛盾と失望と困難に取り囲まれても、決して神への信頼を失わなかったパウロの最後の叫びです。
「すべてのものは、神から出ている」とはどういうことでしょうか。 この世は行き当たりばったりの世界ではない。 偶然の連続でもない。 得体のしれないものが支配する、運命としか言いようのないものでもない。 この世界は、神の強い意志によって造られたと、聖書は明確に語ります。 「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。 見よ、それはすべて極めて良かった。」 人間に至っては、「土の塵で形づくり、その鼻に息を吹き入れられた。 人はこうして生きる者となった。」と創世記に書いてある。 神は人の命をつくり、息を吹きかけて生きる者とすることも、その命を取り上げられることもおできになるお方である。 むしろ、造られたものが、存在することによって造られた神を証ししていると語るのです。 「すべてのものは、神によって保たれる」とはどういうことでしょうか。 すべてのものは、神のみ手の中にあるということでしょう。 言い換えれば、それらすべてのものがこの世に存在することを、神が赦しておられるということでしょう。 神が意図をもって造り出したその世界に、私たちを存在させることを神が赦しているのだと言うのです。 必ずしも神の望むはずのないことが、この世界にはまかり通っています。 本来造り出してはならないものを、私たち人間が造り出してしまったのかもしれないのです。 ですからこそ、神はイエス・キリストを遣わし、「終わりの日」を定めて、悪の霊のもとで苦しみの中にある者、悲しみの中にある者、虐げられている者のそばにおられて、神に背き、神のもとを離れてしまったこの私たちを探し出し、見い出して、連れ戻そうとしてくださっているのです。 その神の戦いの中で、この世界は辛うじて保たれているのでしょう。 「すべてのものが、神に向かっている」とはどういうことでしょうか。 神の定められたご計画のもとに、目的に向かっている。 神の目指すべき「終わり」に向かって進んでいるのです。 人間の限界となっている「死」を越えて、神の目指すところに私たちは立ち戻って行かなければならないのです。 人間の過ちに対する神の裁き、その「死」をどうしても乗り越えなければ、この過ちの赦しがなければ、神のもとへたどり着くことはできないのです。 そのためのイエス・キリストの十字架の死と、そこからの復活の道です。 聖書の言う「終わり」に、私たちは裁きを受ける者として、それと同時に救われる者として神の前に希望をもって立つのです。
「聖霊を受ける準備」 使徒言行録1章12~26節
この聖書箇所は、「あなたがたは、エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 あなたがたはまもなく聖霊によるバプテスマを授けられる。」と語って、弟子たちのもとから離れて天に上られた聖書箇所と、「弟子たち一同が一つとなって集まっていると、突然、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」という聖書箇所のはざまに挟み込まれています。 主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられて、人を生きる者としてくださいました。 もし、吹き入れられた霊が取り去られるなら、人は土の塵に帰ると創世記に記されています。 逆に、肉に生きていただけであった人が、もし、神の霊に気づいて神の方に向きを変えて戻って来るなら、神が霊を吹き込み、生き返らせるとエゼキエル書に記されています。
イエスの十字架と復活直後のイエスの弟子たちは、十字架に架けられたイエスをそれぞれに裏切ってしまった悔いと苦しみと寂しさを憶えながら、また、自らの身に危険が迫る行く末に不安を憶えながら、肩寄せ合って祈り合っていたのです。 「百二十人ほどの人々がひとつになっていた」と言います。 イエスの「聖霊が授けられるのを待ちなさい」というご命令に従っていたのです。 肉においては確かに生きていたのでしょうが、神との交わりを失いかけ、望みが失なわれつつあった状態であったのです。 しかし、彼らはそれぞれに、イエスの歩まれたお姿、語られた一言一言を思い起こしていたのではないでしょうか。 イエスがなぜ十字架に架けられたのかも分からなかった。 その処刑されたイエスが復活されたことを知らされても信じることができなかった。 それでも「聖霊を待ち望みなさい」と言われて父なる神のもとへと帰って行かれたイエスを目の当たりにして、この十字架の死と復活、そして天に上られて行った出来事の目撃者となって事実に向き合って、互いにその意味を語り合っていたのでしょう。 違いはあるもののイエスを裏切ってしまった、それぞれの過ちが示されていたのでしょう。 それぞれの過ちを言い表して、互いのために祈り合っていたのでしょう。 聖書のみ言葉が語られ、吟味され、自分たちの務めについて語り合った五十日間であったのです。
そこで弟子たちは、どうしても避けることのできない事実があったのです。 12人の使徒であったユダの裏切りです。 あってはならないこの事実を、どう受け止めていいのかということでした。 しかし、神が準備された救いの業が、ユダひとりの動向によって左右されるとは考えられません。 ユダの裏切りも、他の弟子たちの裏切りも、またイスラエルの人たち、ローマ総督の犯した過ちも、神の前には大差などないでしょう。 神の前に胸を張って申し開きをできる人などひとりもいないでしょう。 ユダは破滅に至り、自分たちは同じ過ちを犯したにもかかわらず赦され、残されている。 そこに「神の厳しさと慈しみ」を受け止めたのでしょう。 神はすべての人の弱さや不従順や過ちに対して、憐れんでくださっています。 弟子たちは、その神の憐れみの大きさに気づいて、イエスの歩まれた生涯のお姿と、語られたお言葉を思い起こしたのでしょう。 ユダが犯した過ちは、そこに集まるひとりひとりにも陥る過ちではなかったのか。 新しい神の民を起こすためにイエスが選んだ十二使徒のひとりの欠けは群れ全体の欠けであると痛みを憶えたのでしょう。 イエスが約束してくださった聖霊を群れ全体が授かるようにと、互いに祈り合わなければならないと、一同がひとつの塊となって祈らざるを得なかったのでしょう。 イエスの業と福音を引き継いでいく者は、イエスとともに生きる、イエスの命じられたところにひとつの塊となって祈り合う群れが担うと言っています。
「主のために、神の僕として」 ペトロの手紙一2章11~17節
この手紙の宛先は「信仰の友」です。 信仰の戦いの同労者です。 それをペトロは、「愛する人たち」、「各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」、「神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、霊によって聖なる者とされた人」、「イエス・キリストの血を注ぎかけていただくために選ばれた人」、「神のものとなった民」と表現しています。 やがてくる「終わりの日」にそのようになると言っているのではありません。 周囲が何も変わっていないにも関わらず、この世に変わらず生きて生活をしているにも関わらず、すでに神の国に国籍をもつ者としてくださっているとペトロは言うのです。 「旅人であり、仮住まいの身なのですから、神のもとから離れるようにと魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」と勧めるのです。
当時のユダヤの人びとは、信仰をもっているがゆえにローマにより迫害されていたのです。 その激しさは、その時々のローマ皇帝によって違いはあったでしょう。 自らを神のうえにおいて崇拝するようにと命令を下したりもしたローマ皇帝もいたのです。 もし、小さな存在である私たちでさえもじかに辱めを受けたなら、私たちの名誉が著しく傷つけられたなら、反論も抵抗もするでしょう。 それが人間でしょう。 しかし、ペトロは言うのです。 「彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、いずれ神をあがめるようになります。 その異教徒の間で立派に生活しなさい。」と促すのです。 ペトロはイエスの姿を通してこのように語っています。 「このお方は、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。 そのお受けになった傷によって、この私たちの傷が赦されたのです。」 ペトロは、やがてあなた方の名誉が回復される、傷が癒される、理不尽なことが解消されると言っているのではありません。 あなたがたをののしり、苦しめ、脅し、悪人呼ばわりしているその「彼らが、やがて私たちが信じる神をほめたたえるようになる。」と言っているのです。 私たちがこの地上で受ける名誉や評価など大したことではないでしょう。 あるいは非難や中傷でも、これからこの身に授けられる恵みに比べれば比較にならないでしょう。 むしろ、私たちが賛美する、礼拝する神を、今や神を必要としない彼らがいずれほめたたえようになる。 そのために、この私たちの存在が用いられる。 私たちの生きた「証し」が用いられると言うのです。 その私たちの姿は、この世においては負けているようにしか見えないかもしれない。 むなしい戦いをしているように見えるかもしれない。 しかし、ほんのわずかなこの世での私たちの姿が、永遠に続く世界においては逆転する。 しかるべき時には、すべての者が神をほめたたえるようになる。 この約束によりすがって生きることです。 この世のささいなことに振り回されることなく、永遠に失われないものに、私たちの目と耳が開かれることです。 この異教徒の間の生活で最たるものである「統治者としての皇帝」、「その皇帝が派遣する総督」、「すべての人間の立てた制度」への対応について、ペトロは「従いなさい」とまで語ります。 その従う理由は「主のために」です。 イエス・キリストの十字架に示された神の愛のためにです。 もしそうでないとしたなら、「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じなさい。 それが神の御心である。」と語っているのです。 ペトロはその姿を、「自由な人として生活をしなさい。」 「神の僕として行動しなさい。」と語っています。 神への服従を貫き通されたのはイエス・キリストおひとりです。 このお方に結ばれて生きる、ともに生きてゆくなら「神の僕、神のもとにある自由な存在」に変えられると言うのです。
「捜し回ってくださるお方」 ルカによる福音書15章1~7節
「百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」 イエスは羊と羊飼いの関係を用いて、何を譬えておられるのでしょうか。 この「見失った一匹の羊」とは、羊の側から見れば迷い出た羊でしょう。 神の側から見れば、見失われた羊でしょう。 イエスは、一匹の見失った羊と、その羊を見つけ出すまで諦めないで捜し回っている羊飼いの姿を用いて、何を語っておられるのでしょうか。 一匹の羊ですら見失われたことが、羊飼いの悲しみである。 しかし、見つけ出されて、失われた一匹の羊が戻って来るなら、羊飼いにとって大きな喜びである。 この見失われたものが戻ってくる。 神のもとを離れてしまっていることさえ気づいていないもの、神を必要としないで神の方を向いていなかったものが、戻ってくる。 これが神の無上の喜びである。 そのために、諦めることなく見つけ出すまで捜し回る羊飼いの姿こそが、神の姿である。 そこに神の恵みが注がれる。 神のご愛が満たされる。 神のもとを離れてしまっては生きていくことができないことを知らされて、神のもとに戻ってくるものに変えられる。 そのためにわたしはこの世に遣わされたのだと、イエスはこの「譬え」によって語っておられるのではないでしょうか。
注意したいことは、この「譬え」を愛する弟子たちに語っているのではないということです。 この「譬え」を語っている相手は、ファリサイ派の人々や律法学者たちです。 この場にいるのはイエスのもとに近寄って来た徴税人や罪人たちと、このファリサイ派の人々や律法学者たちと、愛する弟子たちであったでしょう。 「徴税人」とは、ユダヤの人びとが忌々しく思っている、ローマの支配につけ込んで税金を取り立てて私腹を肥やしている人々です。 ユダヤの人びとからは裏切者であると、神の戒めを守ることのできない者であると蔑まれていた人々です。 自ら懸命に戒めを守り、自分たちこそ正しく生きている者である、「神の国」には当然自分たちが最初に迎え入れられる資格のある者である。 そう自覚しているファリサイ派の人々や律法学者たちから見れば、決して交わり合う理由のない人々、それが「徴税人や罪人たち」です。 そのような者たちがイエスのもとに近寄って来ている。 そうした人々を裁いてその罪を示すどころか、迎え入れて一緒に食事までしている。 彼らとまるで同じ仲間であると公然と示しているようなものだと、イエスに不平を言うまでになってしまっているファリサイ派の人々や律法学者たちに、イエスは「迷い出た一匹の羊と、失われた一匹の羊を捜し続ける羊飼いの譬え」を語っているのです。 迷い出た羊が捜し求めるより先に、羊飼いが先に捜し求めている。 人間が神を求めるより先に、神が私たちを捜し回ってくださっていると言うのです。 神は、私たちが祈り求めたから、私たちが神にしきりに頼んだから、私たちを捜し回っておられるのではありません。 神のもとを離れて、自分勝手に自分の好きな道を歩んでいることが「神の悲しみ」です。 捜し回って、戸口に立ってたたいているのに開けようとしない、注ごうとする神の恵み、神のご愛を受け取ろうとしないことが「神の悲しみ」です。 神はそのために、イエス・キリストをこの世に遣わされたのです。 私たちは神に見出されている者です。 神に愛されている者です。 恵みに満たされている者です。 自分しか見えていなかったその私たちが、今度は向きを変えて神の方へと舵を切って、「神の喜び」を知るようになった。 神の御心を知ることができるようになった。 そのようになって戻ってきたことを神が一番喜んでくださると、イエスは私たちに伝えておられるのではないでしょうか。
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