「聖霊を受ける準備」 使徒言行録1章12~26節
この聖書箇所は、「あなたがたは、エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 あなたがたはまもなく聖霊によるバプテスマを授けられる。」と語って、弟子たちのもとから離れて天に上られた聖書箇所と、「弟子たち一同が一つとなって集まっていると、突然、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」という聖書箇所のはざまに挟み込まれています。 主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられて、人を生きる者としてくださいました。 もし、吹き入れられた霊が取り去られるなら、人は土の塵に帰ると創世記に記されています。 逆に、肉に生きていただけであった人が、もし、神の霊に気づいて神の方に向きを変えて戻って来るなら、神が霊を吹き込み、生き返らせるとエゼキエル書に記されています。
イエスの十字架と復活直後のイエスの弟子たちは、十字架に架けられたイエスをそれぞれに裏切ってしまった悔いと苦しみと寂しさを憶えながら、また、自らの身に危険が迫る行く末に不安を憶えながら、肩寄せ合って祈り合っていたのです。 「百二十人ほどの人々がひとつになっていた」と言います。 イエスの「聖霊が授けられるのを待ちなさい」というご命令に従っていたのです。 肉においては確かに生きていたのでしょうが、神との交わりを失いかけ、望みが失なわれつつあった状態であったのです。 しかし、彼らはそれぞれに、イエスの歩まれたお姿、語られた一言一言を思い起こしていたのではないでしょうか。 イエスがなぜ十字架に架けられたのかも分からなかった。 その処刑されたイエスが復活されたことを知らされても信じることができなかった。 それでも「聖霊を待ち望みなさい」と言われて父なる神のもとへと帰って行かれたイエスを目の当たりにして、この十字架の死と復活、そして天に上られて行った出来事の目撃者となって事実に向き合って、互いにその意味を語り合っていたのでしょう。 違いはあるもののイエスを裏切ってしまった、それぞれの過ちが示されていたのでしょう。 それぞれの過ちを言い表して、互いのために祈り合っていたのでしょう。 聖書のみ言葉が語られ、吟味され、自分たちの務めについて語り合った五十日間であったのです。
そこで弟子たちは、どうしても避けることのできない事実があったのです。 12人の使徒であったユダの裏切りです。 あってはならないこの事実を、どう受け止めていいのかということでした。 しかし、神が準備された救いの業が、ユダひとりの動向によって左右されるとは考えられません。 ユダの裏切りも、他の弟子たちの裏切りも、またイスラエルの人たち、ローマ総督の犯した過ちも、神の前には大差などないでしょう。 神の前に胸を張って申し開きをできる人などひとりもいないでしょう。 ユダは破滅に至り、自分たちは同じ過ちを犯したにもかかわらず赦され、残されている。 そこに「神の厳しさと慈しみ」を受け止めたのでしょう。 神はすべての人の弱さや不従順や過ちに対して、憐れんでくださっています。 弟子たちは、その神の憐れみの大きさに気づいて、イエスの歩まれた生涯のお姿と、語られたお言葉を思い起こしたのでしょう。 ユダが犯した過ちは、そこに集まるひとりひとりにも陥る過ちではなかったのか。 新しい神の民を起こすためにイエスが選んだ十二使徒のひとりの欠けは群れ全体の欠けであると痛みを憶えたのでしょう。 イエスが約束してくださった聖霊を群れ全体が授かるようにと、互いに祈り合わなければならないと、一同がひとつの塊となって祈らざるを得なかったのでしょう。 イエスの業と福音を引き継いでいく者は、イエスとともに生きる、イエスの命じられたところにひとつの塊となって祈り合う群れが担うと言っています。
「主のために、神の僕として」 ペトロの手紙一2章11~17節
この手紙の宛先は「信仰の友」です。 信仰の戦いの同労者です。 それをペトロは、「愛する人たち」、「各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」、「神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、霊によって聖なる者とされた人」、「イエス・キリストの血を注ぎかけていただくために選ばれた人」、「神のものとなった民」と表現しています。 やがてくる「終わりの日」にそのようになると言っているのではありません。 周囲が何も変わっていないにも関わらず、この世に変わらず生きて生活をしているにも関わらず、すでに神の国に国籍をもつ者としてくださっているとペトロは言うのです。 「旅人であり、仮住まいの身なのですから、神のもとから離れるようにと魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」と勧めるのです。
当時のユダヤの人びとは、信仰をもっているがゆえにローマにより迫害されていたのです。 その激しさは、その時々のローマ皇帝によって違いはあったでしょう。 自らを神のうえにおいて崇拝するようにと命令を下したりもしたローマ皇帝もいたのです。 もし、小さな存在である私たちでさえもじかに辱めを受けたなら、私たちの名誉が著しく傷つけられたなら、反論も抵抗もするでしょう。 それが人間でしょう。 しかし、ペトロは言うのです。 「彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、いずれ神をあがめるようになります。 その異教徒の間で立派に生活しなさい。」と促すのです。 ペトロはイエスの姿を通してこのように語っています。 「このお方は、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。 そのお受けになった傷によって、この私たちの傷が赦されたのです。」 ペトロは、やがてあなた方の名誉が回復される、傷が癒される、理不尽なことが解消されると言っているのではありません。 あなたがたをののしり、苦しめ、脅し、悪人呼ばわりしているその「彼らが、やがて私たちが信じる神をほめたたえるようになる。」と言っているのです。 私たちがこの地上で受ける名誉や評価など大したことではないでしょう。 あるいは非難や中傷でも、これからこの身に授けられる恵みに比べれば比較にならないでしょう。 むしろ、私たちが賛美する、礼拝する神を、今や神を必要としない彼らがいずれほめたたえようになる。 そのために、この私たちの存在が用いられる。 私たちの生きた「証し」が用いられると言うのです。 その私たちの姿は、この世においては負けているようにしか見えないかもしれない。 むなしい戦いをしているように見えるかもしれない。 しかし、ほんのわずかなこの世での私たちの姿が、永遠に続く世界においては逆転する。 しかるべき時には、すべての者が神をほめたたえるようになる。 この約束によりすがって生きることです。 この世のささいなことに振り回されることなく、永遠に失われないものに、私たちの目と耳が開かれることです。 この異教徒の間の生活で最たるものである「統治者としての皇帝」、「その皇帝が派遣する総督」、「すべての人間の立てた制度」への対応について、ペトロは「従いなさい」とまで語ります。 その従う理由は「主のために」です。 イエス・キリストの十字架に示された神の愛のためにです。 もしそうでないとしたなら、「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じなさい。 それが神の御心である。」と語っているのです。 ペトロはその姿を、「自由な人として生活をしなさい。」 「神の僕として行動しなさい。」と語っています。 神への服従を貫き通されたのはイエス・キリストおひとりです。 このお方に結ばれて生きる、ともに生きてゆくなら「神の僕、神のもとにある自由な存在」に変えられると言うのです。
「捜し回ってくださるお方」 ルカによる福音書15章1~7節
「百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」 イエスは羊と羊飼いの関係を用いて、何を譬えておられるのでしょうか。 この「見失った一匹の羊」とは、羊の側から見れば迷い出た羊でしょう。 神の側から見れば、見失われた羊でしょう。 イエスは、一匹の見失った羊と、その羊を見つけ出すまで諦めないで捜し回っている羊飼いの姿を用いて、何を語っておられるのでしょうか。 一匹の羊ですら見失われたことが、羊飼いの悲しみである。 しかし、見つけ出されて、失われた一匹の羊が戻って来るなら、羊飼いにとって大きな喜びである。 この見失われたものが戻ってくる。 神のもとを離れてしまっていることさえ気づいていないもの、神を必要としないで神の方を向いていなかったものが、戻ってくる。 これが神の無上の喜びである。 そのために、諦めることなく見つけ出すまで捜し回る羊飼いの姿こそが、神の姿である。 そこに神の恵みが注がれる。 神のご愛が満たされる。 神のもとを離れてしまっては生きていくことができないことを知らされて、神のもとに戻ってくるものに変えられる。 そのためにわたしはこの世に遣わされたのだと、イエスはこの「譬え」によって語っておられるのではないでしょうか。
注意したいことは、この「譬え」を愛する弟子たちに語っているのではないということです。 この「譬え」を語っている相手は、ファリサイ派の人々や律法学者たちです。 この場にいるのはイエスのもとに近寄って来た徴税人や罪人たちと、このファリサイ派の人々や律法学者たちと、愛する弟子たちであったでしょう。 「徴税人」とは、ユダヤの人びとが忌々しく思っている、ローマの支配につけ込んで税金を取り立てて私腹を肥やしている人々です。 ユダヤの人びとからは裏切者であると、神の戒めを守ることのできない者であると蔑まれていた人々です。 自ら懸命に戒めを守り、自分たちこそ正しく生きている者である、「神の国」には当然自分たちが最初に迎え入れられる資格のある者である。 そう自覚しているファリサイ派の人々や律法学者たちから見れば、決して交わり合う理由のない人々、それが「徴税人や罪人たち」です。 そのような者たちがイエスのもとに近寄って来ている。 そうした人々を裁いてその罪を示すどころか、迎え入れて一緒に食事までしている。 彼らとまるで同じ仲間であると公然と示しているようなものだと、イエスに不平を言うまでになってしまっているファリサイ派の人々や律法学者たちに、イエスは「迷い出た一匹の羊と、失われた一匹の羊を捜し続ける羊飼いの譬え」を語っているのです。 迷い出た羊が捜し求めるより先に、羊飼いが先に捜し求めている。 人間が神を求めるより先に、神が私たちを捜し回ってくださっていると言うのです。 神は、私たちが祈り求めたから、私たちが神にしきりに頼んだから、私たちを捜し回っておられるのではありません。 神のもとを離れて、自分勝手に自分の好きな道を歩んでいることが「神の悲しみ」です。 捜し回って、戸口に立ってたたいているのに開けようとしない、注ごうとする神の恵み、神のご愛を受け取ろうとしないことが「神の悲しみ」です。 神はそのために、イエス・キリストをこの世に遣わされたのです。 私たちは神に見出されている者です。 神に愛されている者です。 恵みに満たされている者です。 自分しか見えていなかったその私たちが、今度は向きを変えて神の方へと舵を切って、「神の喜び」を知るようになった。 神の御心を知ることができるようになった。 そのようになって戻ってきたことを神が一番喜んでくださると、イエスは私たちに伝えておられるのではないでしょうか。
「人間をとる漁師」 ルカによる福音書5章1~11節
聖書では、「舟」は教会の群れを象徴的に表します。 ルカによる福音書は間違いなく、マルコやマタイの福音書とは異なり、イエスが招き呼びかける前に、ガリラヤ湖に一晩中漂った漁師たちの姿を語りたかったのでしょう。 夜通し、自分たちの経験と知恵によって漁を試みたが、何も得るものがなかった。 その疲れ果てた、それでも次の漁のために舟から上がって網を仕方なく洗っている漁師たちの現実の姿をどうしても描きたかったのでしょう。 そのような漁師たちの状態の時にこそ、イエスのみ言葉の挑戦があるのです。 「もう一度、ガリラヤ湖の沖に漕ぎ出して、網を降ろし漁を試みなさい。」 このイエスの挑戦に漁師たちの腹の中は、「何を言っているのですか。 そんなことしても無駄でしょう。」のささやきで満たされます。 何がそうさせたのかはっきりとはしないが、シモン・ペトロはイエスに、「あなたのお言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」と答えただけでなく、イエスの言われたとおりに沖に漕ぎ出して、網を降ろしてみた。 すると、網が破れそうになるほど、また二そうの舟が沈みかけるほどに、大量の魚が取れた。 自分たちの暮らしの経験や知恵の虚しさを知らされた。 人間の業ではない、思いもつかない驚くべき神の業を目の当たりにされた漁師たちは、イエスの前にひれ伏した。 ここで引き起こされた大事なことは、一匹の魚も取れなかったガリラヤ湖で大量の魚が取れたことでしょうか。 その神の業に、漁師たちの身に大きな変化が引き起こされたことでしょう。 シモン・ペトロは漁師たちを代表して、「主よ、わたしから離れてください。 わたしは罪深い者なのです。」と告白し、自分の腹の中にあったものをイエスの前にさらけ出します。 神の業の前に、人間の業の虚しさやひそやかな驕りや誇りが砕かれます。 自分の本当の姿があぶり出されます。 そして、「先生」と呼びかけていたシモン・ペトロが「主よ」と呼びかけるまでになるのです。 ルカによる福音書は、「網を降ろし、漁をしなさい」というイエスの命令は、用意された恵みを与えようとしたイエスの約束の言葉であったと、シモン・ペトロの告白を通して語ったのではないでしょうか。 マルコやマタイで語られた「人間をとる漁師しよう」ではなく、「人間をとる漁師になる」と、神の祝福の約束であったと語っているのです。 この漁師たちの姿が、イエスの招きに強い決断をもって、信念をもって従った姿に果たして映るでしょうか。 どう考えても、強い決断をもって何もかも捨てて、故郷も、家族も、仕事も、舟も捨てて喜び勇んでイエスに従った姿に、ルカは描いていないのです。 心から信じていなかったかもしれないが、またやっても結果は同じであろうと思っていたかもしれないが、それでも従った漁師たちの姿を彼らの信仰と受け取って、神の業を引き起こしてくださったのです。 これは、この漁師たちがもっとも知り尽くしていると自負している湖の漁の場で、彼ら自身が自分たちの経験や知恵の及ばない神の業を味わい知るためであったのでしょう。 ヨハネによる福音書は、この箇所を復活してよみがえられた後に弟子たちのところに現れた出来事として語っているのです。 そこでも、一匹の魚も取れなかった弟子たちをご覧になって岸に立って待っておられたイエスは、「舟の右側に網を打ちなさい。 そうすれば魚は取れるはずだ。」と弟子たちに呼びかけるのです。 大漁の業を起こしただけでなく、大量の魚の網を引いて陸に戻った弟子たちのために炭火を起こし、そのうえに魚をのせ、パンまで用意し、「今、手にすることのできた魚をもってきなさい。 さあ、来て、朝の食事をしなさい。」と招くのです。 「人間をとる漁師になる」とは、暗闇の中にあったところから解放されて、イエスとともに新しい朝の食事に与るという、祝福の約束なのではないでしょうか。
[fblikesend]「自分を吟味する」 コリントの信徒への手紙二13章5~10節
パウロは自分自身のことを、赤裸々に告白しています。 「面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出るとわたしは思われている。 手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらないと言われている。 加えて、わたしには一つのとげが与えられている。 わたしを痛みつけるこのとげを離れ去らせてくださいと三度主に願い出たけれども叶わなかった。」 コリントの教会の人たちもまた、パウロについてこう言うのです。 「この教会を立ち上げたのは確かにパウロであるけれども、後から入ってきた指導者たちと比べてみても霊的な力が劣っているのではないか。 風采もあがらない。 『使徒』としての資格も与えられていない。 エルサレムの教会のために熱心に献金を募っているが、私腹を肥やすためなのではないか。」 そこまで言われても、パウロはコリントの教会のために祈り続けるのです。 危機的な状態にあったコリントの教会を立て直そうとするのです。 パウロは嘆いています。 「わたしは心配しています。 そちらに行ってみると、あなたがたがわたしの期待しているような人たちではなく、わたしの方もあなたがたの期待どおりの者ではないというようなことにならないだろうか。 争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか。 以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めずにいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。 「涙の手紙」と言われているこの手紙の最後の章で、パウロはその締めくくりとして訴えるのです。 「厳しい態度をとらなくても済むように、自分を反省し、自分を吟味しなさい。」と言うのです。
パウロは、自分のとった行動を胸に当てて、静かに顧みることを求めているのでしょうか。 そうではなく、「信仰に生きているのかどうか、信仰のうちにあるのかどうか、自分を吟味しなさい。」とパウロは言っているのです。 「信仰に生きているのかどうか」と問われれば、私たちはすぐに自分自身の中に信仰を持っているのかどうか。 持っているとしたなら、それが深いものであるのかあるいは浅いものであるのかと問いたくなります。 「信仰」とは、私たちが所有したり、捨てたりできるものなのでしょうか。 自分の理解や納得や経験によって、持ったり、捨てたりするものではないように思います。 聖書は、「信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 聖霊によって与えられるものです。」とはっきり語ります。 私たちが修行して、励んで、その結果勝ち取るものではありません。 神に呼びかけられ、その言葉に聴いて、それに応えて従って行こうとするところに、神によって悟らされるものであるように思います。 パウロはそれを、「イエス・キリストがあなたがたの内におられる、その状態を言う。 自分自身のうちにイエス・キリストが宿っていることが、あなたがたは分からないのですか。」と言うのです。 私たちがつかむ「信仰」ではなく、私たちの内がイエス・キリストに占領されて、捕らえられている、私たちに与えられる「信仰」ということでしょう。 ですから、自分自身の内を「吟味しなさい」と言うのです。 パウロはこのイエス・キリストというお方に従って行くなら、崩れ落ちてしまっているコリントの教会の群れもまた、造りかえられると本気で、諦めずに信じているのです。 これが十字架のイエスに従ったパウロの生き方です。 神が私たちの内にいますことを悟らせるのは、神の業です。しかし、悟らせてくださいと本気で、諦めないで祈るのは、私たちの仕事です。 この神の力を信じて従うなら、波風も立つでしょう。 痛みも苦しみも伴うでしょう。 しかし、そこに神の憐れみ、ご愛が注がれ、恵みに与るのです。
「ネヘミヤの祈り」 ネヘミヤ記1章1~11節
ネヘミヤは、ユダの国がバビロニア帝国に屈したため異教の地に追いやられたその民の子孫でした。 故郷のこと、その都エルサレムのこと、取り残されたユダの人々のことは片時も、その頭から離れなかったのでしょう。 ペルシャの宮殿の中にあって、「献酌官」であったと言います。 「献酌」とは、酌をささげる務めをもつ者ということです。 平たく言えば、王の毒見役です。 王が毒殺されるということが頻繁に起こっている時代には、王の信頼の厚い人物であったということでしょう。 そのような時に、ネヘミヤのもとにユダから幾人かの客人が訪れました。 故郷のことについて片時も忘れることのなかったネヘミヤは、その客人に「捕囚を免れてユダに残っている人々の状況について、また、エルサレムの状況について」尋ねるのです。 彼らの返事は、「捕囚の生き残りで、この州に残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。 エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」というものでした。 これを聞いてネヘミヤは、「座り込んで泣き、幾日も嘆いた」とあります。 そこから、ネヘミヤは立ち上がってすさまじい祈りを始めるのです。 食を断ち、神に向けて祈るのです。 この故郷の乱れ、エルサレムの荒れ放題の状態こそ、イスラエルの人びとの中にある問題である。 イスラエルの神との交わりがおろそかになっている。 そこから引き起こされていることである。 この乱れが故郷の人びとの群れの中から、また群れの外からも忍び込んで、今や壊滅的な状態にまで落ち込んでいる。 ネヘミヤは場所こそ遠く離れているが、このイスラエルの人々とともにその悲しみや苦しみを共にするために祈るのです。 嘆いたままでなく、「祈り」によって人々の神との交わりの回復を堂々と神に願い求めたのです。
「おお、天にいます神、主よ、偉大にして畏るべき神よ」と呼びかけます。 神は、「ご自身を愛し、ご自身の戒めを守る者に対しては、契約を守り、慈しみを注いでくださる。」お方である。 しかし、「もしもご自身に背を向け、ご自身の戒めを守らないなら、諸国の民の中に散らすことのできるお方である。 ところが、ご自身にもう一度立ち帰り、ご自身の戒めを守り、行うならば、天の果てまで追いやられている者があろうとも、ご自身は彼らを集めて、ご自身が選んだ場所に再び連れ戻す」ことのできるお方であると祈るのです。 過ちを犯す者を散らすお方は、悔い改めて戻ってくる者を必ず赦し集めてくださるお方である。 これは神の契約である。 神の約束の言葉である。 だから、ユダの人々から伺った悲しい知らせもまた、自分たちがこの契約の約束の言葉を信じ、この御言葉の約束に立ってもう一度向きを変えて、神のもとに立ち帰るなら、その悲しみは喜びに変えられる。 神のみ言葉の約束の確かさは揺らぐことがないと、ネヘミヤの「祈り」は続いたのです。
「あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈りに、どうか耳を傾けてください。 どうぞ、今日、わたしの願いをかなえ、この人の憐れみを受けることができるように」と祈りをしめくくっています。 「この人」とは、ペルシャの今の王のことです。この王に許可をもらってイスラエルに戻って、イスラエルの再建、エルサレムの修復、イスラエルの民の礼拝の再建を図ろうとしたのです。 ネヘミヤの祈りには、異教の国の王でさえも神は用いて、動かして、ご自身の約束されたみ言葉を成し遂げるお方であるという確信があるのです。 この再建は、ひとりの食を断っての「祈り」から始まりました。 王の許可を得たネヘミヤと人々が味わった喜びは、修復された城壁でもエルサレムの再建された新しい姿でもありません。 赦して、連れ戻して、再建させて「ひとりの人のように」集めてくださった神を人々は、賛美して喜んでいるのです。
「開かれた目」 ルカによる福音書24章13~35節
二人の弟子が、エルサレムからエマオという村に向かって歩きながら、その不思議な、驚くべき一切の出来事について論じ合っていました。 自分たちの王として必ず私たちをこのような苦しい状態から救い出し、解放してくださると信じ込んでいたそのイエスが、人々に嘲られ、見捨てられ、ローマによって十字架の刑に処刑されて殺されてしまった。 ところが、イエスの遺体が納められているはずの墓に、遺体を包んでいた亜麻布と覆いしか残されていなかったという婦人たちの知らせが、その絶望の中にいた弟子たちに届いた。 弟子たちは、「たわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」と言うのです。 そのような失意と不安と恐れに包まれた時のエルサレムからエマオに戻る二人の弟子の旅の途中のことでした。 ひとりの見知らぬ旅人が近づいてきて、一緒に歩き始めた。 そして、「歩きながらやり取りしているその出来事は、何のことですか」と尋ねた。 そして、その出来事こそ、「聖書全体にわたり書かれていることだ」と、聖書の説き明かしを二人の弟子にしたと言うのです。 しかし、二人の弟子はその人物がだれなのか分からない。 「二人の目は遮られていた」と、聖書は言います。 霊の目をもたない人間が霊の世界に触れると、こうなるのでしょう。 霊の世界のものから働きかけられなければ、見えている姿がいったいだれなのか、見えている出来事がいったいどういうことなのか今までの経験や理解だけでは分からないのです。 尋ねられた二人の弟子はその見知らぬ人物に、「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」と応えています。 ここでついにこの見知らぬ旅人は、二人の弟子に厳しく言うのです。 「物分かりが悪く、心が鈍く聖書が語っている、預言者たちの言ったことをすべて信じられない者たちたちよ。 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。 聖書にはそう書いてある。」と言うのです。 「物分かりが悪く、心が鈍く」とは、私たちの心の頑なさを語っているのでしょう。 聖書全体は、このわたしについて証しするものであるとイエスは言われました。 終わりの日に見えてくるものが、今、開かれた。 隠されていたものが、今、現れ出た、説明されたと見知らぬ旅人は言っているのです。 そう言われた二人の弟子に、ここで「祈り」が与えられます。 「一緒にお泊りください」という願いです。 先を急ごうとした見知らぬ旅人を、「無理に引き止めた」とあります。 襟首をつかんで迫るぐらいの激しい祈りです。 その願いを受け止めて一緒に家に入って食事についたときです。 この世の世界にはない霊の世界が広がったと言うのです。 食事の席でパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡すのは、その家の主人のふるまいです。 二人の弟子のどちらか一方が取るべきふるまいであったでしょう。 客人であるはずの見知らぬ旅人が、この家の主人となってパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡したのです。 そのとき、二人の弟子の目が開け、見知らぬ旅人がイエスであると分かったと言うのです。 目が遮られていた二人の弟子が、霊の世界に触れた瞬間です。 霊の世界のものが近寄ってきて、一緒に歩いて、語りかけたのです。 イエスはご自身の十字架の命をささげて、聖書のみ言葉に命を与えて、二人の弟子の魂にイエスのみ言葉を打ち込んだのです。 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われたイエスの生きたみ言葉を、二人の弟子の心に刻まれたのです。 二人の弟子は、「道で話しておられるとき、また聖書の説明をしてくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」と振り返っています。 イエスを自分たちの主人として迎え入れ、礼拝をささげたとき、「二人の目は開かれた」のです。
[fblikesend]「一緒に喜ぶ」 フィリピの信徒への手紙2章12~18節
離れ離れになっているフィリピの人々へ、「今はなおさら従順でいて、恐れおののき自分の救いを達成するように努めなさい。」とパウロは勧めています。 聖書の言う「従順」には、「応える、響く」という意味合いが込められています。 戸口の扉をノックする呼びかけに応えて、その扉を開ける意味合いです。 私たちは、この語りかけ、呼びかけを祈りの中で、聖書のみ言葉から、様々な出来事を通して聴くでしょう。 神はそれぞれにふさわしく語りかけてくださっているのです。 パウロはこの神の呼びかけに応えて、「恐れおののき」と言います。 私たちはいつでも、どこでも自由に、自ら聖書を読むことができるようになって、そのみ言葉だけを取り出してしまう。 そのみ言葉だけを取り出して、一般化し、抽象化し、すべてのことに当てはめることのできる万能な言葉に仕立ててしまう。 神が語りかけてくださっている言葉を、狭い範囲の中に閉じ込めてしまう。 そのみ言葉を語られたお方の存在を忘れてしまうということがあるのではないでしょうか。 そのみ言葉を語りかけてくださっているお方に対する「恐れ、おののき」を忘れてしまう。 そのみ言葉に聴き、自らを神の前にささげることを忘れてしまう。 「神を畏れる」ということを忘れてしまってはいないでしょうか。 パウロは、「あなたがたの内に働いて、み心のままに望ませ、行わせておられるのは神である。」と言うのです。 神のノックに応えて、扉を開けて、受け入れて、神に向き合うひとりびとりの中に、神は働いてくださると言うのです。
そうすれば、「とがめられることのない清い者となる。 よこしまな曲がった時代の中で、非の打ちどころのない神の子となる。 この世にあって、星のように輝く。 命の言葉をしっかり保つことになる。」とパウロは言うのです。 「とがめられるところのない」とは、完全無欠の者になるということではないでしょう。 正しくなくとも、神の呼びかけに応えて、向きを変えて、神の赦しを受け入れているということでしょう。 「よこしまな曲がった時代」とは、どういうことでしょうか。 正しいことが示されなければ、正しくないことはいつまでたっても分からないでしょう。 まっすぐなものがなければ、曲がっていることにいつまでも気づかないでしょう。 イエスは、そのような中にあって「あなたがたは地の塩である。 世の光である。」と言われたのです。 また、「非の打ちどころのない」とは、神の前にささげられるにふさわしいもの、神の子となるということでしょう。 「道であり、真理であり、命である」この私に従って歩むなら、神に赦されて、その恵みによって「非の打ちどころのない神の子となる。」 それぞれにふさわしい「輝き」を、困難なこの世にあっても備えてくださる。 イエス・キリストこそ、ご自身を捧げ尽くした人間の象徴です。 人間がささげる真の礼拝の姿です。 「わたしの通った道に従いなさい。 ともに歩みなさい。」と言われて、同じように「神を畏れて」自分自身をささげようとすることこそ、私たちのささげる礼拝です。 イエス・キリストの「命の言葉をしっかりと保つこと」です。 「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。 これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」とパウロは言うのです。 そうすれば、最後の時には、「自分が走ったことが、無駄ではなかった。 自分が苦労したことも無駄ではなかった。 あなたがたの内に働いて、み心のままに望ませ、行わせておられるのは神であった。」と分かる時が必ずくる。 その歩んだ足跡がたとえどのようなものであったとしても、神の前にささげられた私たちの拙い歩みを神は誇りとしてくださる。 輝きとしてくださる。 だから、「わたしは喜びます。 あなたがた一同と共に喜びますと言うのです。 同様に、あなたがたも喜びなさい。 わたしと一緒に喜びなさい。」とパウロは言うのです。
「パウロの祈り」 フィリピの信徒への手紙1章3~11節
パウロのフィリピでの滞在は、ほんの数日間であったと言います。 その地の「祈りの場」で語られたパウロの言葉によって、ひとりの女性がバプテスマに導かれた。 ところが、ある出来事によってパウロたちは捕らえられ、牢に投獄された。 その牢獄の中にあっても、賛美の歌をうたって神に祈るパウロたちの姿によって、人々は大きな影響を受けたと言います。 「主イエスを信じなさい。 そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と、パウロはこのフィリピの地で語ったと言います。 フィリピの人々とのほんのわずかな交わりであったはずです。 それが脈々と今もなお続いて存在している有様がよく分かります。 今朝の聖書箇所は、そのフィリピの教会の人々へ牢獄の中から書き送られたパウロの手紙なのです。 そのような厳しい状況にあるパウロが、フィリピの教会の人々の存在によって支えられている。 「監禁されているときも、福音を弁明し、立証するときも」、その存在を神に感謝している。 その人々のために喜んで祈っていると言うのです。 逮捕され、投獄されているパウロが、フィリピの教会の人々の生きている姿によって支えられている。 わずか数人で始められたフィリピの群れが今もなお生きて、パウロによって語られた福音とともに、フィリピの地で生き続けていることに、パウロは神に感謝し、いつも喜んでいると言うのです。 このパウロとフィリピの教会の人々をつなげるものは一体何でしょうか。
パウロはその理由を、「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずっているからです。」と言います。 そして、「最初の日から今日まで、あなたがたの中で善い業を始められた方が、その業を最後の日までに成し遂げてくださると確信しているからです。 あなたがた一同を、共にその方の恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。」と言うのです。 恵みに触れさせて、ここまで導いてくださったお方が最後まで事を成し遂げてくださる。 この自分自身の恵みのみならず、フィリピの教会の人々が今、「共に恵みにあずかる者」として存在していることが、わたしの喜び、わたしの神に対する感謝であるとパウロは訴えているのです。
とても恵まれた者とは言えないような、今は逮捕され、投獄されているパウロにも、また最初の時のわずかな群れであったフィリピの教会のあの人、この人にも、「最初の日から今日まで変わることなく、神は呼びかけ、招いてくださっている。 生きて働いておられる。 あの人も、この人も見捨ててはおられない。 神は最後の時まで、そのみ心を果たすまで働いてくださる。 そのことは、あなたがたの姿を見ていれば分かる。」とパウロは言うのです。 この確信を自らの体験だけでなく、この小さな群れであるフィリピの教会のひとりびとりの姿に、「共に恵みにあずかる者」の姿に、パウロは慰められ、励まされているのです。 ですから、私たちのこの小さな姿もまた、大きな務めがあるのです。 「共に恵みにあずかる者」を物語る存在なのです。
パウロがフィリピの教会の人々に見たように、「共に恵みにあずかる者」の存在が私たちにも必要なのです。 ですから、パウロはフィリピの教会の人々のために祈っています。 「知る力と見抜く力とを身に着けて、イエス・キリストの愛がますます豊かになって、本当に重要なことを見分けられるようになって、神に属する者となって、信仰の実をあふれるほどに受けて」、「神の栄光と誉をたたえることができるように」と祈っているのです。 私たちもまた、この祈りに支えられて、主イエス・キリストのとりなしの祈りに支えられて、精いっぱい教会の内でも、教会の外でも、ご家庭でも、主の恵みを共に喜び、賛美して参りたいと心から願います。
「主と同じ姿に造りかえられる」 コリントの信徒への手紙二3章18節
「キリスト教保育」という小冊子に、「ことばは人そのもの、まさに命なのです。 穏やかな性格だから穏やかなことばづかいをするのではありません。 穏やかなことばが穏やかな性格をつくっているのです。」と書かれていました。 なぜ言葉が変われば、性格が変わると言っているのでしょうか。 言葉は、聞く者があって初めて語られるものです。 相手の人格に対する呼びかけ、働きかけです。 相手に言葉が語られる時、その働きかけによって生まれる相手の応答があるはずです。 その応答に今度は、言葉を語った者が働きかけられるのです。 その響き合いの中で互いに人格が影響され、造り上げられていく。 言葉はそうした力をもつ、「人そのもの、まさに命なのです。」 聖書は、神の言葉こそ、人間の人格に対する神の働きかけです。 神のご真実、ご愛の言葉の語りかけです。 神の言葉による霊の働きかけです。 人間の本性と在り方そのものを変えていく力であると言っているのです。 「造りかえられるのは、神の働き、霊の働きです。 これは主の霊の働きによることです。」とパウロははっきりとこの手紙で語っているのです。
私たちがどのような姿に造りかえられるのかをパウロは、「顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられる。」と表現しています。 「覆いを除かれた鏡」とは、鏡に「覆い」がかけられているなら、神の働きによって照らされた光を、「覆い」が邪魔をして遮ってしまう。 鏡は、もともと神を現す「栄光」の輝きをもっているわけではない。 この「覆い」こそ、私たちの固定観念や自分のものさしや常識でしょう。 狭い自分の経験でしょう。 そのような「覆い」が取り払われて、解放されて、神が注ぎかけてくださっている光を映し出すことができる鏡へと造りかえられていく。 そして、「主と同じ姿」になっていくとパウロは言うのです。 パウロが語るその意味は、十字架に架かるその直前に、父なる神にささげておられる主イエスの祈りに示されています。 主はこの地上に遺していくことになる弟子たちに向けてこう祈っています。 「真理によって、彼らを聖なるものとしてください。 あなたのみ言葉は真理です。 父なる神がわたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。 彼らも、真理によってささげられたものとなるためです。」ととりなして祈ってその直後に、十字架のうえにご自身をささげられたのです。 主イエスの生涯は、神のご用のためだけに歩まれた生涯でした。 聖なるものとなるということは、イエスと同じように父なる神のご用のために「用いられる、ささげられる」ということでしょう。 人間イエスの姿こそ、その象徴です。 私たちの過去の姿がどうであったとか、今の姿がどのようなものであるのかに関わりなく、神は私たちを用いてくださるのです。 神の霊の働きによって、このようなはかない存在であっても神は選び出して、用いて、ご用のためにささげてくださるのです。 そのことを信じ、望みをもつ者には、主と同じように「霊に仕える務め」が与えられるというのです。 これをパウロは、「主と同じ姿に造りかえられる」と言っているのではないでしょうか。 「造りかえられる」のは、一回限りのことではありません。 日々新たです。 ひとりひとりに与えられたその生涯を閉じるまでの神の働きかけの体験の連続です。 パウロは、造りかえられることに身を委ね続けなさい。 その希望をもって身を委ねていく途上の旅人として、「過ぎ去りゆくものに目を奪われないで、見えないものに目を注ぎなさい。 神は必ず用いてくださるという希望をもって、この神のご真実とご愛に身を委ねなさい。」とパウロは語っているのです。
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