秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「聖書全体にわたり」 ルカによる福音書24章13~27節

2020-05-24

 「ちょうどこの日」とは、週の初めの日、イエスが十字架に架けられた金曜日から三日目の日です。 イエスの遺体が納められた墓に婦人たちが赴いて、その墓の中にその遺体がなかった、「復活なさった」と神の使いから知らされた「ちょうどその日」です。 エルサレムから少し離れたエマオという村に向かう「二人の弟子」の姿が記されています。 「神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 イスラエルを解放してくださると望みをかけていた人物でした。」と告白しているように、二人は全幅の信頼を寄せてイエスに従ってきたのでしょう。 そのような立派なお方が、祭司長たちや議員たちによって十字架に処刑されてしまった。 すべてが終った。 夢も希望もなくなった。 それどころか、イエスに従ってきた自分たちの身にまで危険が迫ってきている。 その危険なエルサレム、そこに居ることさえ辛いエルサレムから、自分たちの村に急いで戻っているその途上にあるのです。 
 エルサレムで起きた「一切の出来事」について、「二人は歩きながら話し合い、論じ合っていた。」と言います。 どうしてそのようなお方が十字架で殺されなければならなかったのか、その意味が分からず絶望と不安の中にいる時です。 「そのイエスは生き返っておられる」という「たわごと」のような婦人たちの報告を聞かされ、戸惑い混乱している時です。 その「十字架に架けられ処刑されたはずのイエス」が、二人と同じ方向を向いた「ひとりの旅人」として、二人に追いついて現れた。 しかし、「二人の弟子の目は遮られていて、それがイエスだとは分からなかった。」とあります。 「復活されたイエス」は、この世のものを超えたものですから、「分からなくて当然、捉えることができない」と聖書は言うのです。 しかし、もうひとつの意味で、二人の弟子はイエスの姿を見ることができなかったのでしょう。 私たちは自分を救ってくれる、自分の願いを叶えてくれるイエスなら、その姿はよく見えるでしょう。 しかし、自分に悲しみや苦しみを与えるようなイエスなら、自分の願いを叶えることのできないイエスなら、その姿を見出すことは難しいのでしょう。 「行いにも言葉にも力のある預言者、イスラエルを解放してくださると期待をもたらす輝かしい人物」としてイエスを見ていた二人の弟子は、「十字架に架けられて殺されたイエス」を見ることも、受け入れることもできなかったのです。 その二人にイエスは、「近づいて来て、一緒に歩いて行かれた」と言うのです。 それだけでなく、「歩きながらやり取りしているその話は何のことですか」と語りかけられるのです。 イエスはすべてをご存じで、「近づき、語りかけ、ともに歩き」、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、イエスについて書かれていること」を説き明かしてくださるのです。 わずか三日間の出来事だけを見て、今まで抱いていたお方とは違うイエスに失望し、絶望し、悩み、逃げ出した二人の弟子に、イエスは彼らの量りとは全くスケールの違う大きな神の量りを語りかけるのです。 私たちの狭い、小さな自分の思いに縛られている量りから解放されて、神さまの恐るべき大きな、救いのご計画の量りに触れることができるのです。 これこそ、イエスの姿が見えなくなった時の神による聖霊の働きです。 ですからイエスは天に上られる直前に、「エルサレムから離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる。」と言われたのです。 二人の弟子は、「イエスを無理に引き止め、自分の家にイエスを招き入れ、そこでその家の主人の座をイエスに引き渡した」その時に、二人の目が開かれたと言います。 聖書全体にわたり説き明かされイエスを主人として受け入れた時に、目が開かれたのです。

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「御子のうちにとどまりなさい」 ヨハネの手紙一2章18~27節

2020-05-17

 今日の聖書箇所のヨハネの教会に、問題が発生したようです。 当時はまだ、キリスト教の信仰が広く確立していない状態でしたので、様々な混乱があったことは事実でしょう。 教会は歴史的にも、信仰の違いから分裂と対立が繰り返されてきたことも事実です。 様々な違いが入り乱れて、始めの頃の教会が築き上げられたのでしょう。 しかし、ヨハネは、もし分裂や対立があったとしても、この一点をもとに立ち帰りなさい。 「イエスがメシアであることを否定する者」があるなら、これは「偽り者、反キリスト」であると言うのです。 聖書はこの「反キリスト」は、「終わりの日」にはたくさん現れると言います。 聖書で言う「終わりの日」とは、イエス・キリストが再び顕れ、神の国が完成する時のことです。 イエスご自身と面と面を突き合わせて出会うことができる時、喜びの時には、「神の業を妨げようとする力」がたくさん現れると言うのです。 ヨハネは、教会が分裂することを憂えているのではありません。 「イエスがメシアではない。 救い主ではない。」という、イエスと父なる神が結びついていない信仰がたくさん現れ出ることを憂えているのです。 
 このヨハネの手紙が書き起こされた時代から遡ること700年前、ユダヤの国が周囲の強大な国に滅ぼされた時、ハバククという預言者がユダヤの人びとにこのように語っています。 「主は私に答えて言われた。 『幻を書き記せ。 走りながらでも読めるように 板の上にはっきりと記せ。 定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。 それは終わりの時に向かって急ぐ。 人を欺くことはない。 たとえ、遅くなっても、待っておれ。 それは必ず来る、遅れることはない。 見よ、高慢な者を。 彼の心は正しくありえない。 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。』」(ハバクク2:2-4) 「なぜ、このような仕打ちを私たちは受けなければならないのか」というユダヤの人びとの叫びに対する主の言葉です。 「定められた時がくる。 終わりの日が、たとえ遅くなっても待ちなさい。 それは必ず来る、遅れることはない。 この神の約束に聴き従う人は信仰に生きる。」という約束の呼びかけでした。 ヨハネは、「イエスがメシアであることを受け入れる者であるか。 これを否定する者であるか。 この一点をもって信仰を見極めなさい。 御子を認めない者は、だれも御父に結ばれない。 初めから聞いていたことが、いつもあなたがたの内にあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいる。 教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」と、ヨハネの教会の人々を励ますのです。 先行きを見通すことのできない時こそ、どうしたらよいのか分からない時こそ、危機的な状況が深刻であるからこそ、信仰の根本的な問題であるからこそ、ヨハネはイエス・キリストのもとに立ち帰り、そこにしっかりと立つことを勧めるのです。 人間の知恵や工夫や努力に頼ることなく、自分たちの判断やコントロールによって推し量るのではなく、神が今、ここでなさろうとしておられることを尋ね求めなさい。 そのために神の前に立ちなさい。 イエス・キリストのとりなしの祈りにすがりなさい。 そのもとにとどまりなさい。 そのために、主の名によって集まり、聖霊の導きを求めなさい。 神のみ心だけを喜ぶ群れでありなさいと響いてくるのです。 「人は信仰によって生きる」のです。 「とどまる」とは、神のみ言葉がその人の内に宿って、肉体となるということです。 そのみ言葉の内に生きるようになる。 御子と共につながっているということです。 そして、日に日に新しくつくり変えられる。 「『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていく」(コリント二4:16)ということです。 内に宿る霊が私たちに悟り、教え、導いてくださるのです。

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「待ってくださる神」 ルカによる福音書15章11~24節

2020-05-10

 「徴税人や罪人」という社会からレッテルを貼られて、疎まれている人々を招いてともに食事をしているイエスを許すことのできないユダヤ社会の指導者たちにイエスは三つの譬えを語っています。 「百匹の羊をもっている人が、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹の羊を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて探さないだろうか。 もし見つけたら、友達や近所の人々を呼び集めて見失った羊、無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでくださいと言うであろう。」と語り、その三番目にこの「放蕩息子」の譬えが語られたのでした。 「見失った一匹の羊」、「無くした一枚の銀貨」と、ひとりで自分の思う通りの人生を送ろうとした弟息子は、見出される、見つけ出される存在としては全く同じです。 しかし、ひとつだけ、この譬えには違いがあります。 弟息子は見つけ出される前に、「我に返った」とあります。 自由気ままに、父にも兄にも囚われない気ままな生活が魅力的であったのかもしれない。 分け与えられた財産をすべて直ちにお金に換えて、そのお金を使い果たしながら気ままな生活を送っていたのです。 ついには、そのお金を使い果たし、食べることにも窮する豚の世話をする者にまで落ちぶれてしまった。 ユダヤ人は豚を汚れたものとしています。 ユダヤでは考えられないところにまで、弟息子は身を落としたということでしょう。 その時です。 弟息子は「我に返った」、自分を見失ったところから自分の姿を見つめるまでに立ち帰った、目が覚めたと言います。 自分はもともと、父の息子であったことを思い返すことができるようになった。 父のところに戻って、自らの言葉で「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。 雇人の一人にしてください。」と言おうと、覚悟して父のもとに帰って行ったと言います。 弟息子は、父の息子であったという、当たり前と思っていた恵みを忘れてしまっていたことを知らされたのです。 もともと神によって、父によって当然のように与えられていた恵みを自分勝手な思いによって捨ててしまったと告白し、「わたしはどのような扱いをされてもいい。 再び父との関係を取り戻したい。」 この一心で戻って行った弟息子の姿は、悔い改めの姿に映るのです。 この弟息子の姿を見つけ、弟息子が何も言わない前に抱きしめている父の姿が語られています。 父は必ず戻ってくると待っていたからこそ、遠く離れていたのに見つけることができたのでしょう。 自分を見失っていた弟息子を悲しんでいたからこそ、その姿を憐れに思ったのでしょう。 弟息子が語ろうと思った三つの言葉を遮るかのように、父は「一番良い服を着せた。 手に指輪をはめた。 足に履物を履かせた。」と言います。 雇人や奴隷としてではなく、父の家の継承者として、死んでいたのに生き返った自分の息子として、再び父が喜んで自分の家に迎え入れたのです。 父は弟息子が悔い改めたから迎えたのではありません。 過去の過ちに関係なく、無条件で迎え入れ祝宴を挙げているではありませんか。 父の家を受け継ぐことのできる者は、言いつけを守ったからでも、正しい行いを守ったからでもありません。 無条件に赦されている恵みに気づいて、その恵みを感謝して受け取ることのできた者です。 弟を失った父の悲しみも、弟を迎える父の喜びをも分からない兄にも父は言うのです。 「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。 いなくなったのに見つかったのだ。 だから祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と、父は兄もまた弟と同じように「失われた存在」から取り戻そうとされるのです。

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「福音の力」 ローマの信徒への手紙1章16~17節

2020-05-03

 パウロはその人生で大失敗もし、そして大転換もしています。 紆余曲折を経て、パウロはその生涯をイエス・キリストというお方とともに生きる、この十字架のイエス・キリストとともに歩む生涯へと身を委ねていきます。 このイエス・キリストに示された福音を語り告げる希望を、このロ-マの信徒への手紙に書き留めています。 単なる手紙ではなく、パウロが体験したその福音を広く告げ知らせるために書き記された、パウロによる福音書ではないかと思わされるのです。 先ず、パウロは、「わたしは、自分に与えられているこの福音を恥としない。」と言います。 パウロにしては「福音を恥としない」ではなく、なぜ「福音を誇りとします。」と叫ばず、このような消極的な信仰告白となったのだろうかと思わされます。
 イエスが弟子たちに、十字架に架けられ殺されるという予告を語られた時がありました。 「わたしは長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて、十字架に架けられ殺される。 そしてその三日後に復活することになっている。」とイエスが予告された時のことです。 ペトロは、このイエスのあまりの情けない予告に、「イエスをわきへお連れし、そんなことは言わないでほしいといさめた。」と言います。 これから自分たちの国の再興に向けて、その先頭に立っていかれるお方が、そのような惨めな情けない予告をしないでほしい。 毅然として、この世の権威である長老、祭司長、律法学者たちに、イエスこそ立ち向かって行ってほしい。 これが弟子たちを代表してのペトロの強い思いでした。 それにイエスはきっぱりと言われたのです。 「サタン、引き下がれ。 あなたは思い違いをしている。 神のことを思わず、人間のことを思っている。 わたしの後に従いたい者は、自分を捨てて、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、わたしもまたそのものを恥じる。」(マルコ8:31~38)と、ペトロを叱って言われたのでした。 パウロは、イエスのこの十字架による死と復活は、神を信じる者にとっては躓きの出来事であったとよく分かっていた。 この世的には、神に最後まで従い続ける者の姿としての十字架に架けられて殺された姿は、無力で弱い者の象徴的な姿です。 愚かな敗北の姿にしか見えなかったのです。 パウロはそのことをよく分かったうえで、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリント一1:18)と言うのです。 ナザレの人イエス・キリストという人物に示された神の福音の出来事は、知識や教養では理解することのできないものである。 実体験した人でなければ、味わい知ることのできないものであるとパウロは承知していたのです。 ですから、パウロは、「福音を、人々が言うように恥とはしない。」 一度や二度の体験ではなく、日々新たに新しくつくり変えられていく恵みの体験である。 「福音は、ユダヤ人を始め、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力であるからである。」と断言するのです。 なぜ、このような私に救いがもたらされたのか自分にも分からない。 神のものとされる理由のない、資格のないこの私が、神のものにされたのか自分には分からない。 しかし、すべて神が説明してくださる。 これが神から与えられた福音である。 神ご自身が霊の力によって自ら働いてくださる神の力であるからだと胸を張って誇っているのです。 その神の力は、「初めから終わりまで信仰を通して実現される。」と語ります。 この神の力は信じる者の内に向かって働きかけ、その人を新しい姿へと造り変えるのです。 その力の向きは信じる者の願いではなく、神のみ心に向かって働きかけていくのです。 神に属する命とその輝きに与る者とされる。 それが今、現実の力や姿となると言うのです。

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「ダビデの賛歌」 詩編23編1~6節

2020-04-26

 人一倍激しくその生涯を濃厚に生きたダビデは、多くの詩を書いて自分の生涯を振り返って主を賛美しています。 この詩篇23編でもその前半部分で、「主はわたしの本当の羊飼いであった。」と振り返ります。 「不安と戸惑いの中にあったこのわたしを、主は青草の原に休ませてくれた。」 「憩いの水のほとりにまで導いてくださって、わたしの魂を生き返らせてくださった。 だから、これから死を迎えようとしているこのわたしには、何も欠けることがなかった。 何も困ることはなかった。」と賛美します。 ひとりの羊飼いに過ぎなかったダビデは、イスラエルの王にまで駆け上がった人物です。 その地位にまで上り詰めるにあたっては、自分の才能、体力、経験、知恵をフルに用いてきたことでしょう。 あるいは、人からの名声や賞賛や地位もまた活用したことでしょう。 長い間そのようなものを振り回し、あるいは振り回されてきた。 しかし、その生涯を終えるにあたってはそうではなかった。 最後にダビデは「主がわたしの羊飼いであった。 最後までわたしを見届け、導いてくださった。 たとえ、死の陰の谷を通されるような災いのときにも、わたしは不思議と恐れることはなかった。 それは、主がこのわたしと共にいてくださったからだ。 主の羊飼いとしての鞭と杖がわたしを力づけてくださった。」と、その生涯を振り返って賛美しているのです。 ダビデにとって、主の鞭や主の杖とは果たして何であったのでしょうか。 羊飼いとして自分の生涯をコントロールしていこうとしたダビデこそが、様々な災いとも思われる出来事を通されて思い悩み、うろたえるこの自分こそが迷える羊であった。 歩むべき道を取り間違えた時も、このわたしを取り戻してくださった。 自ら踏み込んでしまって「死の陰の谷」を歩んだときでさえ、災いを恐れとは感じさせず、あなたの鞭と杖によってむしろその道を潜り抜けるまでわたしは力づけられた。 「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださった。 わたしに油を注いでくださった。 わたしの杯に、恵みを溢れさせてくださった。」と、感謝のうちにその生涯を振り返っているのです。 そして、「その導きに身を委ね、歩み通したその後には、わたしは主の家にたどり着く。 そこにとこしえに留まることが赦されている。」と、最後まで主に望みをおいて希望をもって賛美しているのです。 
 自分がどのようにその生涯を歩んだのかではなく、主がわたしの生涯にどのようになされ、わたしとともに歩んでくださったのか、また歩もうとしてくださったのかに目を注いでいるのです。 そして、その主の働きにこそ、心から期待し、希望を抱いていると思わされるのです。 「死の陰の谷を通ったときも あなたはわたしと共にいてくださり、わたしを力づけてくださった。」と叫んでいます。 他の詩篇の箇所にも、「あなたは多くの災いと苦しみを、わたしに思い知らせましたが、再び命を得させてくれるでしょう。 地の深い淵から 再び引き上げてくださるでしょう。」(詩編71:20)という叫びもあります。 また、「深い淵の底から 主よ、あなたを呼びます。 わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、みことばを待ち望みます。 わたしの魂は主を待ち望みます。」(詩編130:1,5,6)と叫びます。 自分を支えるものが何もない、一切頼るべきものがない。 主の前に立ちようがない、立つ資格もない。 主のみ言葉に耳を傾けることも、悟ることも、それにふさわしい行いすらもできない。 立ち向かう信仰すらもっていない。 そのようなところからでも、「わたしは、あなたを呼び求めます。 再び命を得させて、再び引き上げてくださるでしょう。 わたしは主に望みをおきます。 わたしを追いかけてくださる恵みと慈しみにすがります。」と叫んでいるのです。

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「共に喜ぶ」 フィリピの信徒への手紙2章12~18節

2020-04-19

 パウロは自分自身が獄中に囚われているにも関わらず、フィリピの教会の人々にこう書き送っています。 「わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」と言います。 ここで使われている「従順」という言葉は、「聴く」という意味合いの言葉の語幹から出てきている言葉です。 「聴き従う」という言葉に近いかもしれません。 権威に従うというような意味ではなく、「信じる」がゆえに従っていくという意味でしょう。 まさに、父なる神に対するイエス・キリストの姿がこの「従順」の象徴です。 キリストが十字架で示してくださった「従順」がもたらすところに、神のみ言葉に聴き従う本当の「喜び」がある。 世界がどのように移り変わったとしても、また身の回りがどのようになったとしても、この与えられた「喜び」を味わうところには、本当の「平安」、「希望」がある。 その信仰の姿である「従順」でもって、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」とパウロは言うのです。 「自分の救い」の実感は、古い自分の生き方に向きを変えて、今までとは違うところに目を注ぎ始めることができた時に感じたことでしょう。 信じて、一歩、足を踏み出す決意をした時に感じたことでしょう。 
 しかし、「私たちの救い」はそこで終わらないのです。 そこから出発する、救われてから後の信仰生活があるのです。 「私たちの救い」を達成するためのプロセスに入る、目標に向けて歩んでいくという道のりがあるのです。 そして、パウロが「キリストの日」と称している、神の国に入って「私たちの救い」が完成される日を目指して歩んでいくのだとパウロは勧めるのです。 この「私たちの救い」の入り口に立たされた時、すでに神の一方的な恵みによる導きであったように、「私たちの救い」の完成に至るまでの間もまた、「あなたがたのうちに働いて、み心のままに望ませ、行わせているのは神である。 だから、あなたがたは恐れおののきつつ、自分の救いを達成するようにこのお方と共に努めなさい。」と言うのです。 神さまは、みことばを与えることによって、私たちに「希望」を与え、「祈り」を与えてくださいます。 私たちの「希望」や「祈り」に応えて、ご自身のみ心を果たすために、「聖霊」を遣わし事を成し遂げてくださるのです。 この「聖霊」を私たちのうちに宿すのでなければ、「私たちの救い」は達成することが叶わないのです。 神さまは今もなお、「私たちの救い」を達成するために、「聖霊」の姿をとって共に働いてくださっているのです。 「だから、何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 そうすれば、とがめられることのない清い者となる。 よこしまな曲がった時代の中で、非の打ちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」とパウロは言うのです。 信頼をもって、神のみ言葉に委ねていこうとする「従順な信仰者」に対する神の働きの結果が、その姿に必ず現れ出る。 神に属する者として、神ご自身がその輝きによってこの世にあって照らし出してくださると言うのです。 「救い」は、信じる個々の人間のうちに働いて、古いしがらみから解放され、姿までもが変容するという個人的な面があります。 パウロはそれに加えて、信じる者たちの間に働かれる「聖霊」の働きをその「交わり」の中に見出しているのです。 自分も、フィリピの人々も共に、神によってこの世から呼び出された者である。 「終わりの日、イエス・キリストに出会うその日」に、それぞれの「救い」が完成するまで、神がこの世で働くために「聖霊」を宿すことが赦された者どうしであると、「わたしは喜びます。 あなたがたも同様に喜びなさい。」と、獄中から呼びかけているのです。

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「復活の希望」 コリントの信徒への手紙一15章42~49節

2020-04-12

 パウロはこの手紙で、「死者の復活」を種まきと収穫という身近な生活体験から語ります。 「麦の種が蒔かれて、土の中で朽ちて死ななければ、その種の中に隠されている命は本来の姿を現すことができないではありませんか。 あなたたちが蒔いているものは、ただの『種粒』です。 その『種粒』が土の中で死んで、その中に込められている命にふさわしい体が与えられると、麦の本体である命が現れ出て実をつけるようになる。 ただの『種粒』に神さまがみ心のままに、そのひとつひとつの『種粒』にふさわしい体をお与えになる。」と言うのです。 この『種粒』の体が死んで、また別の体を神が創造される。 創造主である神が再び強い意志をもって、天地創造の初めの創造とは異なる別の体をお与えになる。 「死者の復活」を、神が終わりの日に再び新しい体を与える創造の業であるとパウロは言うのです。 地上を走る、空を飛ぶ、水の中を泳ぐ様々な動物にも、それぞれふさわしい体が与えられている。 地上の輝きにも、太陽の輝きがある、月の輝きがある、星の輝きがある。 しかし、それらの「地上に属する体」と「天に属する体」とは異なる。 「地上の体の輝き」と「天に属する体の輝き」とは異なる。 「死者の復活」もこれと同じであるとパウロは言います。 
 「自然の命の体が蒔かれて死んで、霊の命の体が復活する。」 「蒔かれた種粒が地中に落ちて朽ち果てた後に、全く別の体をもって再び起こされる。 『自然の命の体』も『霊の命の体』も、神が創造された人間の姿であることには変わりありません。 しかしそこには、『朽ちるもの』と『朽ちないもの』との違いがある。 『卑しいもの』と『輝かしいもの』との違いもある。 『弱いもの』と『力強いもの』との違いもある。 『自然の命の体』が蒔かれて、『霊の命の体』が復活するのです。」とパウロは断言しています。 残念ながら、この『霊』は生まれながらの私たちの体には備わっていないものです。 神から与えられる特別な賜物、神に属するものです。 私たちの理解や創造をはるかに超えるものです。 パウロは「最初の人アダム」と「最後のアダム」という言葉を用いて、この「霊」が初めて「最後のアダム」を通して人間に与えられたと言うのです。 「最初の人アダム」とは、罪と死に縛られて神のもとを離れてしまった「死」に向かって生きる人間です。 「最後のアダム」とは、神のもとから遣わされて土の塵からできた体を負わされ、その体を脱ぎ捨てて死んだ後、新しい霊なる体を着せられて、天に上げられたイエス・キリストのことです。 人間で最初に、「自然の命の体」に死んで、「霊の命の体」によみがえらされて、人間の初穂として神に収穫されるという体験をしてくださったイエスが、救い主メシアとされたのだとパウロは信仰告白するのです。 この最初に収穫された初穂としてのイエス・キリストの霊なる体に結ばれるなら、私たちもまた「イエスが復活されたように」復活するのです。 死に定められているこの私たちが、霊なる体に復活されたイエスと同じように、「霊の命の体」が与えられるという希望が約束されたのです。 しかし、そこには順番がある。 「最初に霊の命の体があったのではない。 自然の命の体があり、次いで霊の命の体があるのです。」とパウロは言います。 悩み多い、苦しみや悲しみの多い「自然の命の体」から、この主イエス・キリストの復活の希望に支えられて、「自然の命の体」に死んで、新しい「霊の命の体」につくり変えられるのです。 イエスが、「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者は、死んでも生きる。 このことを信じるか。」と呼びかけてくださっています。 この復活の主との結びつきは誰をもっても、何をもっても断ち切られることはないのです。

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「天に引き上げられた十字架のイエス」 使徒言行録1章6~11節

2020-04-05

 聖書にはこう記されています。 イエスは十字架に架けられるという父なる神から見捨てられるという「絶望と恐ろしさ」を味われた。 しかし、そのイエスがよみがえられて、40日にもわたって使徒たちの前に顕れて、ご自分が今なお生きておられることを示された。 姿を現しただけでなく、神の国について話された。 使徒たちと食事をともにした。 「エルサレムを離れるな。 前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」と命じられたと言うのです。 「エルサレム」とは、使徒たちがつまずき、イエスを見捨てた大失敗をした苦い経験をした所です。 人々からも取り残された、自分たちにとって辛い所です。 イエスはそのような所を、「父なる神の約束である賜物が授けられるまで離れず、祈り求めなさい。」と言われたのです。 そして、「あなたがたは、間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる。」と約束されたのです。 使徒たちはこのイエスの言葉を聞いて励まされ、自分たちの夢が叶えられると思い、イエスの言われる「神の国」とは自分たちのイスラエルの国が再び新しく興されることであると喜んだのでしょう。 「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、今ですか。」と思わず、イエスに問い返したのです。 この弟子たちの問いに対するイエスの答えが、「その時期については、父なる神がご自身の権威をもってお定めになることである。 あなたがたが知るところではない。」と語り、神のみ心を見当違いに捉える使徒たちに、イエスは諭すのです。 
 すべての民がこの世から救い出され、神のもとへ立ち帰るという父なる神の救いの業を、イエスはこの使徒たちに託すのです。 イエスがこの使徒たちを用いて、この救いの業を推進していく。 イエスの身に起こった事実を目撃し、一人一人のからだに刻まれた事実を語る「イエスの証人」を用いて救いの業を行うという決意でした。 歴史的事実の証人としてだけでなく、自分の生涯に起こされた事実を自分の言葉で語る人を用いて救いの業を進めると、イエスは使徒たちに向けて一方的に語られたのです。 使徒たちがそれにふさわしい人であると認めたから、イエスは用いると言われたのではありません。 そのために、「あなたがたのうえに聖霊が降る。 あなたがたは力を与えられる。 あなたがたは、わたしの証人となる。」、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、そして地の果てにまで、わたしの証人となる。」と約束し、イエスはその準備をし、その務めを託されたのです。 自分たちの犯した過ちを噛みしめるところから出発しなさい。 自分の周りから神の救いの業を始めなさい。 それが全世界にまで及ぶようになる。 そのための原動力である聖霊という賜物が与えられる。 イエスを信じて従うすべての人に、「イエスが主である」と証言する力が与えられると約束し励まされたのです。 しかし、聖書はそれだけではないと言います。 イエスの宣教の業が託された使徒たちが見ているうちに、イエスは天に上げられた。 「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、今、天に上げられたその姿と同じ姿をもって、またおいでになる。」と知らされた。 「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさった。」(使徒2:36)と言っているのです。 使徒たちのイエスが復活したという信仰は、イエスが十字架のうえで裁かれて、殺されて死んだ。 そのイエスが神によって天に引き上げられ、よみがえらされ、すべての権威を授けられたメシアとされた。 このままでは死んで、神との交わりが断絶してしまうという使徒たちを取り戻すために、再びここに集められた。 再び新しく造り上げられたのです。 神は集めるために散らされるお方です。 再びつくり上げるために壊される神です。 使徒たちの変貌のためには、イエスの十字架の死、復活、昇天という出来事が必要であったと聖書は語り、そこに教会が興されたと言っているのです。

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「十字架の死を仰いで」 ヨハネによる福音書19章31~42節

2020-03-29

 聖書は「イエスの十字架の死」をこのように記しています。 イエスは十字架の上に死んで遺体となっていた。 その遺体は、その日のうちに十字架から取り降ろされた。 その際には、念には念を入れてローマ兵による槍の一刺しによって、イエスの死が十分確認された。 十字架から取り降ろされたイエスの遺体は、だれもまだ葬られたことのない新しい墓に納められたと詳しく記されています。 確実にイエスは殺されて死んでいた。 それは聖書に預言されていたことが成し遂げられたことであったと語っているのです。 後ほど「復活の朝」を迎えたイエスが弟子たちの前に顕れて彼らを迎えたことによって、この「イエスの十字架の死」を復活の希望に満たされた喜びと感謝の「証し」として聖書は語っているのです。 
 「十字架」は、私たち教会のシンボルです。 「十字架」は、ローマ帝国という強力な国家権力によって、その支配する社会の秩序を乱す政治犯を処刑するための道具にすぎません。 それをなぜ「象徴」として掲げているのでしょうか。 最初のころの教会の人たちもまた、イエスの十字架処刑の直後においては、その本当の意味を知ることはありませんでした。 しかし、その十字架によって処刑されたはずのイエスが自分たちの目の前に現れて驚きうろたえた末に、聖霊に導かれてそれぞれの信仰によって悟った心の中に刻まれた「証し」、それがそれぞれの「十字架」なのです。 イエスが十字架のうえで語られたとする「七つの言葉」をとってみても、実に様々です。 「イエスの十字架の死」に対する、ひとりひとりの信仰による応答の言葉でもあるのです。 ローマ帝国の権力の象徴でもあったローマ総督は、イエスをどうしても武力をもって人々を扇動する力をもっているとは認めることができませんでした。 イエスとユダヤ教の人々との間の宗教上の争いにしか見えなかった。 むしろ、群衆を惹き付けているイエスを妬んで、起こされた争いごとにしか見えなかったのです。 ユダヤ教の人々もまた、自分たちが拠って立つ神殿、神殿儀式を否定したイエスを赦すことができなかったのです。 これらの敵対者だけが、イエスを排斥したのではありませんでした。 愛する弟子たちもまた、イエスを見捨てそのもとを離れたのです。 群衆もまた、あれほどイエスを歓迎していたのに、簡単に扇動され、惑わされ手のひらを反すようにイエスを見捨てたのです。 イエスはローマ兵からも、祭司長たちからも、十字架の脇にいた犯罪人からもののしられ、侮辱を受けたのです。 イエスはあらゆるののしりと侮辱を受けて、それでも痛みと苦しみを味わい、神から捨てられるという「神との断絶」という神の子であるがゆえに知る「恐ろしさ」を十字架のうえで味われたのです。 イエスは死んだのです。 私たち人間がこのままでは味わなければならない永遠の「神との断絶」を、罪に定めることのできないイエスが私たちの罪によって裁かれたのです。 この裁きこそ、み子を裁いて神がその救いの業を示すためです。 私たちに仕え、私たちと同じ苦しみ、悲しみ、喜びを神が「神の子」の姿をとって共に味わい共に生きていることを示すためです。 このイエスが味われた「断絶の苦しみ、恐ろしさ」こそが、私たちの過ちを思い起こさせ、方向転換させるのです。 その過ちを赦して、私たち人間を取り戻そうとされた神のご愛を示すことができる。 父なる神こそ、わが子を裁かなければならなかったその痛みを、ともに味わってくださったのです。 神は十字架のうえに私たちと一緒に死んで、私たちを取り戻して一緒に生きてくださっているのです。 「十字架の死」は、み子を捨てられた「父なる神の痛み」と、その父なるへの従順と私たち人間と同じように生きて見捨てられた「み子の痛み」の協働の業です。 イエスは、神と人との溝を埋めるために、人間のどん底にまで下りてきてくださったのです。

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「わたしの羊を飼いなさい」 ヨハネによる福音書21章15~19節

2020-03-22

 聖書が語る「復活」は、私たちが日本語訳として用いる「復活」という言葉以上の響きがあります。 確かに聖書には、イエスが人をよみがえらせた事例が記されています。 しかし、それらはむしろ、この世の命の「蘇生」を示しています。 イエスが神の子であることの「しるし」として、神がお示しになったものでしょう。 イエスは、この「復活」を信じようとしないサドカイ派の人々の問いに、「死者の中から復活するときには、めとることもなく嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。 律法に『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてあるではないか。 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」と答えておられます。 聖書の言う「復活」とは、この世の延長線上にはない。 単なる生き返りとは異なり、神と人との関係において大きな変貌が遂げられる驚くべき出来事である。 この世に生き「死んだらおしまい」という世界から解放されて、新しい希望のうちに生かされる。 アブラハムはアブラハムとして、イサクはイサクとして、ヤコブはヤコブとして、神の前に新しい関係となって、神のもとに立ち帰る変貌がそれぞれの人生に起こされた出来事であると聖書は語っているのではないでしょうか。 
 イエスの「復活」そのものを詳細に記している聖書箇所はありません。 しかし、大きく分けてふたつの体系の描写があるように思います。ひとつは、「空(から)のお墓」の描写です。 もうひとつは、死んだはずのイエスが「顕れた」という描写です。 今朝の聖書箇所は、目的を失いイエスを裏切って見捨てて逃げ出してしまった七人の弟子たちが、失意のうちにガリラヤに戻って漁をしていた際に、十字架に架けられて死んだ後よみがえられたイエスが顕れた、その直後に交わされたイエスとペトロの対話です。 イエスは、思い出したくもない大失敗をしたペトロに呼びかけます。 呼びかけた言葉は、「わたしを愛するか」という言葉でした。 三度繰り返されたと言います。 この言葉には、「わたしはあなたを愛している。 あなたは、このわたしを愛するか。」という響きがあります。 挫折を深く味わったペトロは、自らの情けない姿を悲しんだのでしょう。 「主よ、あなたは何もかもご存じです。 わたしが三度、あなたを裏切ったことも、これから裏切るかもしれないこともご存じです。 わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と答えるのが精いっぱいでした。 そのペトロにイエスは、「わたしの羊の世話をしなさい。 わたしの羊を飼いなさい。 わたしはあなたを赦す。 だから、わたしの羊をあなたに託す。 今までのあなたはどうであれ、これから後、あなたにわたしの羊を委ねる。 あなたは、わたしを仰いでわたしに従いなさい。」と言われたのです。 この言葉を聞いた時こそ、裏切りを悔やみ、惨めな姿を思い知らされ、悲しんで挫折を味わったペトロという人物が、その罪を赦されたと実感した瞬間であったでしょう。 再び新しく立ち上げられ、希望に満たされイエスのもとに立ち帰った瞬間であったでしょう。 私たちは、イエスが今もなおずっとご覧になっていることに気づかないのです。 呼びかけられているのに、聞こうとしないのです。 招かれているのに、理由を述べてその食卓につこうとしないのです。 私たちの住んでいる世界には、この赦しなどない。 復帰も再生もないのです。 しかし、「復活」されて今もなお生きて働いておられるイエスに気づいて、そのお声に聴いて、差し出された恵みを受け取って一緒に食卓につく時には、この赦しと解放の出来事は必ず起こるのです。 これこそ、ひとりの人物がまったくつくり変えられる「復活」の瞬間です。この「復活」には、「わたしの羊を飼いなさい。 わたしに従いなさい。」という務めが復活されたイエスから託されるのです。

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