秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「神の前に生きる者」 ローマの信徒への手紙3章21~26節 

2021-08-15

 パウロは、「ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にある。 正しい者はいない。 一人もいない。 全世界が神の裁きのもとにある。」 私たち人間が神のもとを離れ、神なき世界に漂ってしまう存在となってしまった。 神のもとから離れさせようとするこの世の力に、支配されるまでになったと述べています。 「ところが今や」新しい時代に入り、「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」 聖書に預言されてきたことが今や成し遂げられたと、パウロは語っているのです。 この「律法とは関係なく」という言葉は衝撃的な発言です。 ユダヤ人たちは、懸命に律法を守ることによって、神から与えられる「神の義」に至ることができると信じていた。 それにもかかわらず、パウロは「神の義は、ユダヤ人もギリシャ人の区別もなく、律法とは関係なく、神の恵みとして注がれるものである。」と宣言したのです。 命がけの宣言です。 「ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力である福音が示された。 その福音には、初めから終わりまで信仰を通して実現される、隠されていた神の義が示された。」(1:16-17)と大胆に定義し、宣言したのです。 ユダヤ人たちは、「自分たちこそ神に選ばれた神の民である。 祝福を約束してくださっている神に礼拝をささげ、犠牲の供え物も定められたように欠かさずささげている。 信仰のしるしとして割礼の儀式を済ませている。」 この律法さえ守っていればという「心地よい勘違い」があったのです。 神のもとを離れてしまっているという私たちの罪深さを巧妙に覆い隠すものが、私たちを納得させるかのようにこの世に溢れています。 パウロの言う「神の義」とは、破れた神と人との状態を神ご自身の方から回復させようとする神の救いの働きです。 その隠された「神の義」の働きが起こされた。 私たちの罪深さのゆえに、人間の側から修復しようとしても不可能です。 裁くのは神です。 裁かれる私たちの方から主張する資格などないのです。 ですから聖書は、「神が人を義となさる。 人が義とされる。」と表現します。 「神の義」とは、私たちがただ受け身として受け取る神の働きなのです。 そして、この「神の義」は、「イエス・キリストの贖いの業を通して与えられる」と言います。 
 聖書は、この「贖い」をふたつの意味で語ります。 ひとつは、捕虜や奴隷になった者を身代金を支払って買い戻すという「解放」の意味です。 もうひとつは、罪の汚れを動物の血によって拭い清め、神との交わりを取り戻すという「贖罪」の意味です。 パウロは、「イエス・キリストが私たちのために罪を贖う供え物となってくださった。」 イエス・キリストがその命をささげてくださった十字架のうえに、神が交わりの回復、和解の場を求めておられる。 イエス・キリストの信仰の服従と、神自らの裁きの痛みをともなったご愛によって、罪深さから解放される。 罪が免れる。 この「解放」と「贖罪」が、神のもとから流れ出てくる「救いの恵み」です。 罪にまみれた世界から私たちを救い出す「神の力」、救いに至らせる「神のご愛」です。 「神の義」が示され、福音が訪れ、新しい時代が始まったとパウロは宣言するのです。 この「救い」の出来事こそ、「ご自身の義を示すためだった。 同時に、イエス・キリストを信じるすべての人を義となさるためだった。」と締めくくっています。 「神の義」を示されたのは罪と妥協しない神の正しい裁きを示すため、何としても私たちを救い出そうとされるご愛のため、神との交わりを回復するためでした。 解決しないまま、先を見通せないまま、それでも神のみ前に生きて行こうとする私たちの懸命な姿を神は喜んでくださるのです。 そこには、神のもとからしか流れ出ない「神の力、ご愛、忍耐」が注がれるのです。

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「私たちの再興のため」 ローマの信徒への手紙11章25~32節 

2021-08-08

 パウロが、ローマにいる生まれたばかりの信徒の群れに呼びかけています。 「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。」と異邦人信徒たちにたしなめるかのように言います。 「イスラエルの民はその不信仰、不従順のゆえに枝として折り取られました。 その代わりに、あなたがた異邦人が接ぎ木されました。 イスラエルの民に約束された祝福の源、その根から送り込まれてくる豊かな養分、恵みをあなたがたは受けるようになったのです。 だからと言って、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。 むしろ恐れなさい。 神の慈しみと厳しさを考えなさい。」とパウロは語るのです。 「神の選びについて言えば」、イスラエルの民は神に選ばれた、神のみ言葉を託された神の民です。 アブラハム、イサク、ヤコブの神がずっと愛している神の民であることに変わりありません。 「神の賜物と招きは取り消されることのない神の約束である。」と言うのです。 ところが、そのイスラエルの民が託されたみ言葉を守り行うことによって、自分の正しさを追い求めるようになった。 これが神の民になるための条件であると理解し、神から遣わされたイエスの語る福音の恵みを拒み、イエスを十字架に架けて殺し神の敵対者となってしまった。 まさに、放蕩息子の弟の行いをあげつらい、間違っていると自分の正しさに縛られて、父親の憐れみを理解することのできなかった兄の姿でしょう。 一方、異邦人は、かつては神を知らず、神を求めようとせず、神とは無縁のまま、神なき世界を漂い放置されていたのです。 罪も分からず、神の憐れみも知らない存在でした。 しかし今は、イスラエルの民の躓き、不従順によって、十字架の恵みが異邦人にもたらされて神の憐れみを受ける者となったのです。 まさに、したい放題のことをして、破綻してどうすることもできなくなって、自らの醜い姿を見つめさせられて、悔いて、父のもとにひざまずいて無条件の赦しと恵みによって戻ってきた放蕩息子の姿です。 パウロはその神の「秘められた計画」を、「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」と結論付けています。 神は恵みの水路をせき止められる時がある。 一旦約束された恵みをせき止めてでも、救い出そうとされる時がある。 それはすべての人が、神の憐れみと厳しさを知るためである。 神のご愛、恵みに触れるためである。 しばしの間に神の憐れみと厳しさを知らされて、再び神の民として取り戻されるためであるとパウロは言うのです。 
 イスラエルの不従順は、自分たちの不従順から再び立ち戻る自らの再興のためです。 神は救いのご計画に従って、ご自身の民を打ち砕き裁くことによって、あるいは頑なな不従順に導かれることによって救おうとされておられるのです。 注がれる神の恵み、憐れみに私たちが気づくためです。 それに触れて味わうためです。 私たちの復興、再興のためです。 私たちを愛するがゆえに、神は私たちが考えもしない出来事を通して働いてくださるのです。 私たちの行いや有様やその報いによって、救いや赦しや祝福を私たちが受けるものではありません。 神はただご自身の豊かさから、そのご愛や恵みを私たちに分け与えようと憐れんで注ぎ続けてくださっているのです。 選ばれた民はたとえ途中で、不従順に陥ったとしても諦めてはならない。 神の選びは不変です。 約束は消え去ることはありません。 一時的な恵みのせき止めを通してでも、神は救いの恵みを与えてくださろうとしているのです。 一向に神の方に向きを変えない民もまた、神はその外から恵みとご愛をどっと流し込んでくださる時があるので、諦めてはならないのです。 私たちの不従順もまた神のみ手の中にあることです。

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「希望と苦難」 ローマの信徒への手紙5章1~11節 

2021-08-01

 パウロは、「わたしたちは信仰によって義とされた。 わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得た。 今の恵みに信仰によって導き入れられた。」と言います。 「神の義」という難しい言葉は、「神のもとから私たちのところに流れてくる恵みの水路」と例えられると紹介いたしました。 そのような恵みの水路はすでに用意されている。 それを感謝して喜んで受け取るだけである。 これが「神のものとなる希望、神の栄光にあずかる希望を誇りにします」という言葉となってパウロの口からほとばしり出ているのです。 苦難や試練という出来事もまた、希望を生むとパウロは言います。 なぜなら、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからだ。 神のもとから注がれてくる恵みの水路を通ってくるものは、神の愛だ。 それを神ご自身が与えてくださる聖霊によって注いでくださっているからだ。」と言うのです。 「信仰によって、イエス・キリストによって、聖霊によって」、これらすべて神のもとから出てくるものによって、神のご愛が注がれている。 そのご愛を、苦難の中で、試練の中で、不思議な出来事の中で、わたしたちは味わうことになっている。」から、この希望はわたしたちを欺くことはない。 神のみ心に適う希望は失望に終わることがない、必ず実現される。 だから、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 そればかりでなく、苦難をも誇りにします。」と言うのです。 「誇る」という言葉は「喜ぶ」という言葉ですから、神さまが私たちにご自身の霊やご愛を分け与えてくださっているので、「希望を喜びます。 苦難をも喜びます。」と言うのです。 神が分け与えてくださる神のご愛によって、神がわたしたちの内に留まってくださるのです。 それが、神の内にわたしたちが留まることになるのです。 同じように、神が遣わしてくださったイエス・キリストを、神の子であると公に言い表し受け入れる人はだれでも、イエスを通して神を内に宿すことになる。 それが神のもとにその人が留まることになるのです。 神の力の源は神のご愛です。 
 続けてパウロはふたつのことを語ります。 ひとつは、「キリストによって神の怒りから救われた」という言葉です。 イエス・キリストの十字架の死によって、神の裁きから救い出される。 神の憐れみにより、神が用意してくださった十字架の出来事により、私たちが犯してきた過ちが赦されるということです。 もうひとつは、「キリストの死によって、神と和解させていただいた。」という言葉です。 イエス・キリストの十字架の死によって、今までとは異なる新しい命に生きるようになる。 新しく創造され、新しい生き方をこの世において始めることができるようになるということです。 キリストの十字架の死により新しくされたということは、死んで復活したキリストを内に宿してその命に生きるということ、キリストが私たちの内に宿り、生きて働いてくださるということです。 そして、「和解させていただいた今は、御子の命によって救われる。 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって神を誇りとします。」と言うのです。 神の栄光にあずかるという決して裏切らない希望を喜ぶ。 苦難や試練を喜ぶ。 そして神ご自身を喜ぶと言うのです。 なぜなら、神のご愛が私たちの心に注がれていることを味わうことになるからである。 何も分からなかった私たちに聖霊が注がれ、イエス・キリストに出会い、神のご愛が私たちの内に宿り、生きて働いてくださり、まったく新しくされるからだとパウロは言うのです。 神の力、神のご愛は、私たちの弱さの中にこそ働いてくださるのです。 このコロナ禍でも、私たちは神を喜び、賛美するのです。 神のご愛を味わうのです。 その喜びが生きる力となるのです。

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「福音の力と神の義」 ローマの信徒への手紙1章16~17節 

2021-07-25

 パウロは、「わたしは、ギリシャ人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。 それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」と、生まれて間もない小さなローマの教会の群れに向けてこの手紙を書き送っています。 「わたしは福音を恥としない」と記されています。 よい知らせと言われるこの「福音」は、喜びを伝える言葉、湧き上がる力を与える神の言葉とでも言うのでしょうか。 パウロはこれを「恥としない」と言うのです。 パウロは律法をユダヤ教の中心で学び、それを守る指導的立場にあった人です。 その定めを疎かにするイエスの教えに我慢のならなかったパウロは、信念をもってイエスの弟子たちを懸命に迫害をしたのです。 そのパウロが、よりによってその律法によって裁かれ、見せしめのために群衆に晒された十字架のイエスを、「自分たちの救い主である」と宣べ伝える者となった。 神を冒涜する者、律法によって裁かれなければならない恥ずべき者、無力で弱い者、愚かな敗北者の象徴のようなイエスが語る福音を、宣べ伝える者となったのです。 人々からは裏切者として矢面に立って、一身に非難や中傷や陰謀、鞭打ちや投獄を引き受けてきたパウロでした。 人々にとって躓きの出来事でしかなかったイエスの十字架の出来事を、「福音だ。 よい知らせだ」と語るパウロはありとあらゆる試練を受けてきたのでした。 そのパウロが「この福音を受け入れる。 拒まない。」と、「恥としない」という消極的な言葉をもって固く決意表明しているのです。 イエスもまた、「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、わたしがくる終わりの日には、わたしがその者を恥じる。」(マルコ8:38)ことになると語り、だから今、「福音」に語られている恵みを受け取るようにと促しておられたのです。 
 その理由をパウロは、「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」と端的に語ります。 「福音」は神が語りかけられるイエス・キリストを告げ知らせる、神の約束の言葉です。 その「福音」の言葉が「神の力」で、「信じる者すべて」に働いて「救い」をもたらす。 「福音」の言葉が語られて、それを受け入れるところに「神の力」が働くと言うのです。 私たちの「信仰」が、この「神の力」を引き出しているのではありません。 神がすべての人に無条件に「恵み」として、神ご自身が起こしてくださっているのです。 その神の呼びかけに聞くことから、また従ってみるところから私たちの「信仰」が始まるのです。 十字架の出来事は、今日のこの「私」に向けて、神ご自身がみ心を果たすために繰り返し語りかけてくださっている「神の力」です。 そう確信する根拠をパウロは、「福音には神の義が啓示されている。」からだ。 「初めから終わりまで信仰を通して実現される。」からだと言います。 この難しい「神の義」という言葉は、「神のもとから私たちのもとに流れてくる恵みの水路」に譬えられます。 流れのほとりに植えられた木のように、神の恵みの水によって潤い、養い、実がなる「恵みの水路」が切り開かれた事実が目に見えるようになった。 その恵みを受け取るだけ、それに応えるだけで、最初から最後まで「神の力」が実現されていく。 「信仰」は、私たちの中に働かれる「神の力」の働きです。 神から注がれる賜物です。 からし種一粒のような小さな信仰であったとしても、神のものとして自ら出来事を起こし、新しく働き始めるのです。 ペトロもパウロも自分が犯した過ちを決して恥てはいない。 むしろ、その弱さや貧しさに「神の力」が働いてくださることを体験しているからです。 「神のもとから流れてくる恵みの水路」が切り開かれている、この事実の確かさだけに信頼して歩むところに「神の力」が働き、「救い」の出来事が起こされると確信しているのです。

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「信じること」 ローマの信徒への手紙10章14~21節 

2021-07-18

 パウロは、「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。 聞いたことのない方をどうして信じられよう。 また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」と言います。 パウロが語る「呼び求める」、「信じる」、「聞く」、「宣べ伝える」、「遣わされる」という言葉の順番は、救われる側からみればまったく逆のように感じます。 私たちが救われるためには、私たちのもとに誰かが神に遣わされてきたはずです。 その人によって、私たちに伝えられることがあったはずです。 その伝えられた内容を聞いて、理由は分からないが私たちの耳と心に刻まれたはずです。 私たちが「信じる」ためには、「信じるお方を呼び求める」ためには、「宣べ伝えるために人が遣わされなければならない。 宣べ伝えられなければならない。 宣べ伝えられる内容がなければならない。 聞かなければならない。 実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」とパウロは語るのです。 イエスご自身もこれから宣教を開始する際に、ナザレの会堂でイザヤ書から引用し、「主がわたしを遣わされたのは、囚われている人に解放を、目に見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みを告げるため」と聖書朗読されたのでした。 神の救いの恵みを宣べ伝るために、ご自身がもうすでにこの世に遣わされている。 ご自身の口から語られる言葉、この地上に生きる姿によって伝えられる神の救いの福音を、あなたがたは聞くことになっている。 ここまでもうすでに父なる神に用意され、その約束が果たされている。 これから後は、その福音を聞いた者が信じて、呼び求めさえすれば、神の救いのご計画はその人の上に実現するとイエスは言われているのです。 問題は、この「聞く」という私たちの行いです。 神に選ばれたイスラエルの人々は、イエスの語られた福音を確かに聞いたのです。 その福音を聞くには聞いたがそれが分からず、神に選ばれたはずではない人々のところに福音が届けられ、イスラエルの人々にねたみと怒りを起こさせ、その福音を受け取らず拒むことになると預言されている。 しかし、神はこの「不従順で反抗するわたしの民に一日中、手を差し伸べている」と語っておられるのです。 
 「信仰」は、神が用意されて、遣わされた者を通して届けられる「福音」という神からの呼びかけに聞くことから始まります。 ただ聞くだけでは、「信仰」は生まれないのです。 その福音を聞いて従ってみることによって「信仰」は生まれ育まれるのです。 アブラハムも、モーセも、イザヤも何の確証も保証もなかったでしょう。 あるのは、神の約束の言葉だけです。 不安と疑いも起こり、確信もなかったでしょう。 しかし、その福音を聞いて従ってみて、神のみ心、ご愛、ご真実がすべての源であることに気づかされたのです。 私たちに願いを起こさせ、祈りを起こさせ、宣べ伝える者を遣わすのは神です。 私たちの不安と疑いを十二分にご存じな神が、私たちに繰り返し呼びかけ、私たちを練り清め、祈りを与え、信仰を与え、育み、導いてくださらないことがあるでしょうか。 パウロははっきりと、「口でイエスを主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる。」、神を呼び求める者は、与えられた信仰によってだれでも救われると言うのです。 イスラエルの人々は福音を聞かなかったのではありません。 受け取らなかったのです。 「神は一日中、すべての者のために手を差し伸べてくださっている」のです。 イエス・キリストの口から語られる福音の言葉、その働きに支えられて生きていくなら、「からし種一粒の信仰」でさえも、神のもとから出てくるものであるから不可能なことはないのです。

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「人に神を求めさせるため」 使徒言行録17章22~31節 

2021-07-11

 パウロは、アテネの町でマケドニア州の教会の混乱を心配して、シラスとテモテを待っていたのです。 ところが、そのアテネの町を巡ってみると、町の至るところに偶像があることに気づいて「憤慨した」と言います。 パウロは語らなければならない衝動にかられ、会堂ではユダヤ人や神を崇める人々と、またアゴラと呼ばれる広場では居合わせた人々と論じ合っていたと言います。 議論好き、新しもの好きのアテネの町の人々に興味をもたれていたのでしょう。 パウロは、「アレオパゴス」というアテネの町の裁判や評議が行われる公の権威ある場所で、文化的にも、人種的にも、信仰的にも全く異なる人々を前にして、その公の場の真ん中に立って「アレオパゴスの福音メッセージ」を語り始めたのです。 
最初にパウロは数々の神の像を念頭に、「知られざる神に」という自分たちにも分かっていない神の存在に対しても像を造り、崇めているアテネの人々の思いを念頭に、「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしがお知らせしましょう。」と語り始めたのです。 パウロは本当の神を、「世界とその中の万物をお造りになられた神」と言います。 私たちの理性の狭い中に押し込めることのできない、すべて知り尽くすことができないお方である。 人間の手につくられた神殿などにはお住みにならないお方である。 ご自身のみ心のみによって自由に大胆に働かれる、「私たちによって仕えてもらわなければならないお方ではありません。」と言うのです。 そして第二に、「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださる神」と述べて、ご自身のみ心を果たすためには生きる命も、神のご計画に応える力も、神の存在を感じ取る霊的な力も必要なものすべてを与えてくださる。 その神を、「人に求めさせるために、人がその神を探し求め、見つけ出すことができるように」と、「神は一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせた。 そのところで、季節を決め、人々の居住地の境界をお決めになった。」 それぞれのところで遠く離れず、ふさわしい恵みを用意し、神の息吹を注ぎ信仰を与えられるお方である。 神なき世界のものとは馴染まないものであるから、私たち人間が造った金や銀や石の像と同じようなものと捉えてはならない。 
 パウロはこう語り終えて、「神はこの時代を大目に見てくださいましたが、今、皆、悔い改めるようにと命じておられます。 それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。」と言います。 どういうことでしょうか。 今は「神の寛容」の中にある時代であるが、終わりの時がくる。 神の前に一人一人立たされる決算の時がくる。 だから、向きを変えて神のもとに帰りなさい。 そのことを知らせるために、「すべての人に確証をお与えになった」と言うのです。 この「確証」とは、イスエを十字架に架けて裁き、神のもとから追放したという「神の真の裁き」が示されたことです。 そのイエスが背負われたすべての過ちを赦し、神なき世界に生きる者から神のもとで生きる者へと生まれ変わらせたという「神の真の赦し、救い」が示されたことです。 その「確証」のため、永遠の裁きによって追放されたイエスを、神なき世界の死者の中から復活させ、ご自身のもとに取り戻す唯一の道が用意された。 この「確証」を感謝して受け取るのか、疑って受け取ろうとしないのか、受け取ることに躊躇するのか。 金や銀や石の像を形づくり懸命に神を崇めていこうとする自分自身から解放されて、神にすでに知られている自分自身に気づいていく。 用意された「確証」を味わいながら、準備されたよみがえりの唯一の道をそのイエスとともに委ねて歩むようになると、パウロはアテネの人々に、そして私たちに訴えているのです。

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「違いを受け入れるということ」 マタイによる福音書15章21~28節 

2021-07-04

 「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。」と言います。 盛んに福音を宣べ伝え巡っていたガリラヤ地方からイエスは退いて、異邦人の町に行かれたのです。 イエスがイスラエルの地から異邦人の町に出向いて行かれたのは、この時だけと言われています。 12人の弟子たちを派遣する時にイエスは、「あなたがたは異邦人の道に行ってはならない。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と言われたぐらい、ご自身の宣教の働きはイスラエルに向かってのものでした。 そうであるのに、イエスが異邦人の町に退かれたのには理由があるでしょう。 ファリサイ派の人々の自分たちの信仰こそ絶対のものであるとする思い上がり、錯覚している姿に失望したからでしょうか。 エルサレムから派遣されてきたユダヤ教の指導者たちの監視の目が厳しくなったからでしょうか。 イエスが単に疲れ休息を求めたから、あるいは自分の身を守るために退いたとは思えない。 むしろ、神の民であるイスラエルの人々が、アブラハムの子孫であること、定められた律法・儀式を守っていることを誇る神のみ心なき姿に、イエスご自身が信仰の試練に立たされていたのではないか。 心静かに祈りの時をもち、神との交わりに集中しようとされたのではないかと思わされるのです。 その時訪れた異邦の町で、イエスは父なる神の用意された「意図しないひとりのカナン人の女性との出会い」を迎えるのです。 
カナン人は先住民で、後から入り込んできたイスラエル人とは対立関係にあります。 この女性は、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。 娘が悪霊にひどく苦しめられています。」と叫びます。 これが彼女の「最初の祈り」です。 自分が心から愛している者を思っての激しい祈りです。 弟子たちはイエスに、「早く癒して差し上げて、この女を追い払ってください。」と進言します。 からだが癒されることだけを求める人々の姿を、弟子たちは数多く目に焼き付けていたのでしょう。 苦しんでいる娘を助けてくださいという、自分のために神の力を貸してくださいという切実な「祈り」です。 しかし、この女性は「父よ、ダビデの子よ」とイエスに呼びかけているのです。 「あなたこそ、イスラエルの民の救いのために神のもとから遣わされてきたお方です。」という、異邦人の口から出てくる言葉ではない呼びかけです。 イスラエルの民に約束された祝福に、この一人の異邦人が気づき、同じように受け取ろうとしていることにイエスは驚いたに違いない。 イスラエルだけに宣教の目が向いていたイエスはこの瞬間から、父なる神のみ心を激しく尋ね求め始めたに違いない。 「イエスは何もお答えにならなかった」とあります。 この沈黙は拒絶でしょうか。 ここで諦めたとしてもこの状態を受け入れるしかない女性に、「主よ、どうかお助けください。」という短い「第二の祈り」が生まれるのです。 聞き入れられない「虚しさ」、小犬と差別されたかのような「屈辱」、一人で訴えなければならない「孤独」もあったでしょう。 絶望して初めて見えてくるものがあるのです。 イスラエルの子どもにも、その家で飼われている飼い犬にも、今、約束の祝福が授けられようとしていることに気づいた女性の「祈り」は、「第三の祈り」に変えられていくのです。 「主よ、ごもっともです。 授けられるものはイスラエルのものでも、異邦人のものでもない。 神ご自身のため、神ご自身のご計画のために授けられるものである。 そこからこぼれ落ちるパン屑を私たちはいただくのです。」という女性の「第三の祈り」にイエスは、「あなたの信仰は立派だ。」と送り出されたのです。 一方イエスは、人種を超えてすべての人々を救いに招くために呼びかけられる神のみ心だけが果たされていくことに気づかされ、再びこの異邦の地からイスラエルの地に戻り、十字架の上にまで歩み始められたのです。

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「御計画に従って召された者たち」 ローマの信徒への手紙8章26~30節

2021-06-27

 エレミヤ書29章には、壮大な神の救いのご計画が記されています。 ユダの国がバビロンの国に占領され、ユダの王も、主だった家臣、兵士、職人たちも大勢バビロンに連れ去られたことを嘆いている時です。 驚くべきことに、預言者エレミヤによりバビロンに連れ去られた人々へ、「神が、エルサレムからバビロンへ捕囚としてユダの人々を送ったのだ。」と伝えられたのです。 神はたとえそれが敵と思われるところであったとしても、ご自身の民を敵に渡してまで救い出されるのです。 「わたしが、あなたたちを捕囚として送ったその町の平安を求めなさい。 その町のために祈りなさい。」とまで言われるのです。 もう済んでしまったから諦めなさいと言わんばかりの言葉です。 「二年のうちに、バビロンは滅ぼされ、バビロンに連れ去られた人々は必ず戻ってくる。」という偽預言者や占い師たちにだまされても、惑わされてもならない。 神のみ心である御計画とは異なる。 今、災いと思われているかもしれないバビロンの地にあること、バビロンの支配にあることは、神のみ心であり神の御計画である。 あなたたちのために立てたわたしの計画は、災いの計画ではない。 将来と希望を与えるものである。 バビロンに70年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。 わたしの恵みの約束を果たす。 あなたたちをこの地に連れ戻す。 そのとき、あなたがたがわたしを呼び、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うだろう。 わたしはあなたたちを追いやったが、そこから呼び集め、追い出した元の場所に連れ戻す、帰らせると言われるのです。 
この70年の時の経過は何であったのでしょうか。 「2年のうちには」という私たちの心地よいはかない希望から目を覚ますためでしょう。 目に見えるものにすがろうとする私たちの本当の姿を見つめるためでしょう。 私たちを憐れんでずっと見守って、我慢して待ち続けてくださる神の忍耐の時でしょう。 神の救いの御計画が果たされる時まで、ことごとく神のみ心でないものが次々と砕かれていく。 私たちの描く希望が絶望に替わり、神の恵みによって全く新しいものに造り変えられていく。 不可能を可能とする、無から有を造り出す神の御計画が果たされるのを知らされるのです。 言われたとおり、エルサレムは崩れ去りました。 しかし、バビロンはペルシャ帝国に占領され、ユダの国の人々は解放されエルサレムに戻されたのです。 今日の聖書箇所に、「同様に、霊も言葉に表せないうめきをもって執り成している」と言います。 このうめきは、被造物やイエスを信じていこうとするキリスト者がうめいている呻きとは異なり、「私たちの弱さに寄り添って助けてくださる」ものです。 霊は、言葉に言い表せないうめきをもって、私たちの弱さのゆえに執り成しの祈りをしてくださっているのです。 この「霊」こそ、十字架の上に架け上がってくださって、私たちが味わっている弱さや苦しみや悲しみを一人で背負って,一身に神の裁きを受けておられるイエス・キリストの姿でしょう。 姿を変えて、今もなお私たちの内に宿ってくださっている復活者イエス・キリストでしょう。 父なる神は、霊なるイエス・キリストが執り成し続けていることをすべてご存じであると言うのです。 私たちの味わう試練や苦しみや悲しみは神の御計画のうちにあるものです。 意味あるものです。 そのために召し集められた私たちです。 「万事が益となるように共に働く」とは、最後にはすべて神の救いの御計画通りに果たされていくという神の宣言です。 その「御計画に従って召し集められた者たち」が、「義とされる」、「栄光を与えられる」のです。 神の恵みによって、無償で神の前に正しい者とされる。 神がその人に現れ、共に歩み、働かれ、御子に似た者とされるのです。 それが神の約束です。 

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「私たちの外側と内側」 ルカによる福音書11章37~44節 

2021-06-20

 イエスを食事に招いたファリサイ派の人が、「イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った」と言います。 「身を清める」とは、手を洗うとかきれいにするとかという衛生上の問題ではありません。 神の前に正しい者と認められるために、行われなければならなかった儀式、作法です。 ファリサイ派の人々にとっては、当たり前のことです。 だれもが行う食事前の常識的な振る舞いです。 その為の特別大きな水瓶が、それぞれの家に備えられていたのです。 どのように行われるのかという順序まで、律法に細かく定められていたのです。 私たちの世界にも、人の権威によって形づけられたものを、その権威にしがみついている人々が壊されないようにと固く守っています。 イエスはそのことを十分分かったうえでわざと手を洗うという儀式をしなかったのか、無頓着であったのか分かりませんが、このイエスの振る舞いが物議を醸し出したのです。 不審に思ったファリサイ派の人々を前にしてイエスは、「あなたがたは外側はきれいにするが、内側はそれとは逆のもので満ち溢れている。 神は人間の外側も内側をお造りになったではないか。」と言われたのです。 常識に縛られた者にとっては、このイエスの言葉は理解不能です。 問題外です。 イエスはそれにお構いなく、「人間は外側と内側を併せ持つひとつの存在ではないか。 あなたがたは外側だけを問題として、外側だけをきれいにすることに熱心である。 しかし、その内側は、外側にふさわしいものに満たされていない。 その内側を、外側をもってきれいに洗い流そうとしている。 片一方だけで生きている。」とまで言われるのです。 
 イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。 それは偽善である。」ときっぱりと語っています。 「偽善」とは、外側と内側とでその中味が違う。 内側が、外側によって覆われて隠されているということでしょう。 そのことに気がつかないうちに、イースト菌のごとく広まって膨張しているといったところでしょうか。 イエスの言われる問題の核心は、「それが正しいことだ。 最もよいことだ」と、「それ以外は間違いだ、悪いことだ」と決めつけ、断定し、裁いてしまうということです。 イエスは、私たちが力のない者、貧しい者、小さな者であることを十分承知の上で、私たちを「飼い主のいない羊のような有様だ」と憐れんでくださっているのです。 ですから、「父なる神は、あなたがたの外側も内側もお造りになったお方ではないか。 私たちの奥底まで見通されているお方ではないか。 だから繕う必要もないし、装う必要もない。 すべて、神はご存じである。」と言われているのです。 
 定められた通り十分の一を献げることに注力し、人に見える形で献げる。 自分を大きく見せるために施しをする。 立派な祈りを人に聴かせるために装う。 「会堂では上席に着くことを望み、広場では人々から丁寧に挨拶されることを好む。」 人々の賞賛、尊敬を求めてしまう。 人の前だけに立ち、人を恐れて繕い装う姿を捨てて、神の前に立ち、神を畏れて身を委ねていくようにと、神以外のものを絶対視する危険性を、この食事の席できっぱりとイエスは否定されたのです。 イエスはすべてご存じのうえで「不幸だ、災いだ」と言われ、幸いな生涯へと招いておられるのです。 些末なことを捨てて、変わることのない神のご真実、神の絶対的な正しさだけを求めなさい。 私たちの人間の側の資格や行いや思いによらない、絶対無条件の神の恵み、ご愛だけを願い求めなさい。 自分の内側に溢れている絶対的なものとは程遠いものを捨てて、神ならぬものに内側を奪われることなく、神の前に立って絶対的な神のもとからしか授けられないものだけをしっかりと受け取るようにと言われたのです。 

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「私たちの中にある光」 ルカによる福音書11章33~36節 

2021-06-13

 二つの譬えが、十字架を覚悟したイエスによって語られています。 「ともし火」の譬えと「目」の譬えです。 「ともし火は、入って来る人に光が見えるように、分かるように燭台の上に置かれるだろう。 決して、穴蔵の中や、升の下に置く者はいないだろう。」と言われます。 「ともし火」とは、イエスご自身のことです。 イエスは、「わたしは世の光である。 わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。 なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。」(ヨハネ8:12,16)と言われました。 イエスによってもたらされた「命の光」を、人々が見えるように輝かしなさいと弟子たち、私たちに呼びかけておられるのです。 「目が澄んでいれば、あなたの全身は明るい。 しかし、目が濁っていれば、あなたの全身も暗い。」と、「命の光」は目を通して全身にその輝きが行き渡ると言われるのです。 外に向けて「命の光」が家の中や周りを照らしているのが見えているでしょうか。 内に向かって照らし出す「命の光」によって、自分自身がどこにいて、どのような状態であるのか見えているでしょうかとイエスは迫るのです。 「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。」と勧めておられるのです。 イエスにあって授けられた「命の光」こそ、私たちの力だけでは起こし得ないものです。 イエスとの出会いによって初めて起こされる輝きです。 このことを強く思わされる出来事が聖書に記されています。
 イエスによって「生まれつき目の見えない人」が見えるようになった、シロアムの池での出来事です。 弟子たちが「生まれつき目の見えない人」を見て、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」とイエスに尋ねたのです。 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。 神の業がこの人に現れるためである。」と答えた有名なイエスの言葉です。 これは教えを説くために語ったのではなく、これからこの人に起こされる神の業が、イエスの目にはもうすでに見えていたからです。 「唾で土をこねてその人の目にお塗りになり、シロアムの池に行って洗いなさい」と言われ、その通りに行ったその人の目は見えるようになり人々は驚いたのです。 問題はその後の時の経過です。 この人は自分の目が見えるようになった嬉しさの余り、だれが治してくれたのかさえ答えることができなかった。 ファリサイ派の人々の執拗な問い詰めに、この人は次第に自分を癒してくれたお方に目を向けるようになっていくのです。 「あの方が罪人であるかどうか、わたしには分かりません。 しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、神はお聞きになります。 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」とまで、堂々と証言をするまでになったのです。 その直後、イエスはその場を追い出されたこの人に再び出会って呼びかけるのです。 その時です。 この人は、「主よ、信じます。」と言って、イエスのもとにひざまずいたと言います。 この告白にイエスは応えて、「わたしがこの世に来たのは、見えない者は見えるようになる。」という神の国の到来の現実を語られたのです。 肉眼が開かれただけでなく心の目まで開かれた、イエスの目には見えていた「神の業」が起こされ、「命の光」がそこに灯されたのです。 イエスは、「入って来る人にこの命の光が見えるように、人々の前に輝かしなさい。」と言われました。 神の恵みの世界は、この世においてこの「命の光」に照らし出された人々の群れの中に訪れる。 神の目に留まり、呼びかけられ、癒され、愛され、赦され、新しい命に生かされた者に、「命の光が消えてしまわないように調べなさい」とおっしゃっておられるのです。 イエスと出会い、迎え入れられ、語られるみ言葉に聴いてそれに身を委ねて生きることです。

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