秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「神に愛されるということ」 創世記50章15~21節

2020-11-15

 ヨセフは波乱万丈の生涯を送った、「神の祝福」を引き継いだ人物です。 その父ヤコブに偏愛されていたヨセフを妬む兄たちが、ヨセフを殺し穴に埋めて野獣に食われたということにすれば分かりはしないと悪だくみを計画した。 それがきっかけとなって、ヨセフは異国の商人に拾われ、故郷カナンの地からも家族からも離れエジプトに売られてしまうのです。 父ヤコブは兄たちの報告を受けて悲嘆に暮れます。 ところが、そのエジプトで奇跡が起こります。 奴隷の身でありながらその才覚が認められ、エジプトの宮廷の責任者までに上り詰めたと言うのです。 「主が共におられ、恵みを施し、主が導かれた」としか言いようのない出来事でした。 自身の境遇を嘆きもせず、愚痴も言わず、背負わされたものとしてその与えられた場所で忠実に生きたヨセフの姿に、人ならぬ凄みを感じます。 またその間に流されたヨセフの6回の涙に魅かれます。 ヨセフが度々流した涙は、今まで失ったとばかり思っていた家族との再会が赦され感極まって流した涙でした。 
 最初の涙は、食糧を求めてカナンの地からエジプトまでやってきた兄たちが、ヨセフの前に現れた時です。 兄たちが「われわれは弟ヨセフを罠にかけてしまったことで罰を受けているのだ。 それで苦しみを味わっているのだ。」と懐かしいカナンの言葉で語っているのを聞いた時です。 二回目は、兄たちに遅れてヨセフの前に姿を現した、同じ母から生まれた唯一の弟に再会した時です。 「奥の部屋に退いて人知れず泣いた」とあります。 そしてついに、「わたしがヨセフです。 お父さんは生きておられますか。」と尋ね、自分の身を兄たちに明かした時に感極まって流した涙が三回目の涙です。 そして、兄たちと弟と抱き合って四回目の涙を流したのです。 「わたしをエジプトへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。 多くの民の命を救うために、飢饉を用いて、神がわたしをあなたたちより先にエジプトにお遣わしになったのです。」と語ることのできた感謝と喜びの涙でした。 五回目の涙は、父との再会の時でした。 ところが最後の六回目の涙は、五回目までの涙とは趣が違うのです。 「父ヤコブが亡くなった今、昔ヨセフに犯した過ちを恨み、ヨセフは自分たちに仕返しをするのではないか。」と、未だに兄たちが心配していることが分かった時に流した涙です。 家族の交わりが復活された喜びの涙ではありません。 「多くの民の命を救うために、飢饉を用いて、神がわたしをあなたたちより先にエジプトにお遣わしになったのです。」とあれほど語ったはずであるのに、心の奥底に未だに恐れをもっている兄たちに対する失望でしょうか。 なおも不信を持たれている自分の振る舞いに対するヨセフの悲しみでしょうか。 ヨセフは涙を流した後、気を取り直して、「恐れることはありません。 わたしが神に代わることができましょうか。 あなたがたがこのわたしに悪を企みましたが、神はそれを善に変えるために、そして、飢饉という災いとも思えるものを用いてでも、備えられたエジプトの食糧によってあなたたちを救い出そうとされておられるように、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」と語ったのです。 ヨセフはこの時、自分自身だけでなくこのように分断された小さな家族にも神が目を留め、ずっと愛し続けてくださっていたことに気づかされたのではないでしょうか。 小さな自分の家族が、神のご愛のうちにあるという実感、神の恵みに圧倒された涙であったのでしょう。 ヨセフが兄たちに語った「このわたしがあなたたちと子供を養いましょう」という言葉が、兄たちを慰めたと言います。 イエスが「わたしが愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われたように、神によって愛された者が新しくつくり変えられた人間の姿がここで語られているのではないでしょうか。

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「神に愛されて互いに愛し合う」 コリントの信徒への手紙一9章19~23節

2020-11-08

 パウロは、「すべての人に対してすべてのものになりました。」というその例示に、「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。 律法に支配されている人に対しては、律法に支配されている人のようになりました。 律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。」と言います。 その理由は、「それらの人たちを得るためです」と言うのです。 この段落の前の16節に「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。 そうせずにはいられないことだからです。」と告白し、それらの人たちに「福音を告げ知らせるためです。 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。」と書き綴っています。 このパウロの熱心さはどこからくるのでしょうか。 パウロを突き動かせているものはいったい何でしょうか。 パウロのどんでん返しのような人生を振り返れば、キリスト者を迫害する者からキリストの福音を告げ知らせる者へと大転換させられたということだけでも奇跡です。 ユダヤ人からもユダヤ教徒からも「裏切者」と命を狙われ、信用されず拒まれ、それでもパウロが「ユダヤ人のようになる、律法に支配されている人のようになる、律法を受け入れないでいる人のようになる、弱い人のようになる」のは、果たしてどうしてでしょうか。 相手に対する妥協でも、目的のためなら何でもするという打算でもないでしょう。 パウロは、「どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。」(ローマ8:38-39)と言うのです。 劇的なイエスとの出会い、このイエスによって示された神のご愛に触れたなら、誰一人としてこの「喜び、福音」を知らないままでいてほしくない。 この「喜び、福音」を味わった者として、居てもたってもいられない、その隣人を放っておくことができない。 これがパウロの、「すべての人に対して、すべての人のようになりました。 何とかして何人かでも救うためです。」という心の内なのではないでしょうか。 神のご愛、福音を伝えるために、伝えようとするその相手、隣人と同じ位置に立つということでしょう。 同じ場所に立ち止まって、そこで共に神のご愛、恵みに触れて喜び合う。 感謝し合う。 そうなれば、そこには伝える側の誇りだとか、信念といったような持ちものは消えてなくなるでしょう。 自分に拠って立つものを捨てて、それでも隣人、相手に寄り添っていくことになるのでしょう。 
 しかし、この「すべての人に対して、すべての人のようになりました。」という言葉には、人と人との「寄り添い」という狭い範囲を超えたもっと深みのある響きを感じます。 イエスは、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。 わたしの愛にとどまりなさい。 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。 これがわたしの掟である。」(ヨハネ15:9-12)と言われたのです。 「わたしが愛して、その愛の中にあなたがたがとどまっているなら、隣人に向かってその目は向かうはずである。 わたしによって示された神のご愛に気づいた人、神に愛されている、赦されていると気づいた人こそ、同じように神に愛される存在である隣人に目が向くことになるはずである。 神のご愛に触れることができたのなら、同じように互いにそのご愛を喜ぶようになる。」と、神の国の世界の厳粛な事実を語っておられるのです。 パウロもまた、「すべての人に対して、すべてのものとなりました。 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。 それは、わたしが福音に与る者となるためです。」と、自分自身の見に起きた厳粛な事実を語るのです。

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「神の恵みによって生きる」 マルコによる福音書10章17~27節

2020-11-01

 これからエルサレムで起こされる十字架への苦難の道を歩まれようと、イエスが先を急いでいたその時、「ある人がイエスのもとに走り寄ってきた。 そして、ひざまずいて尋ねた。」と言います。 思いつめた様子で、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」とイエスに端的に求めたのです。 イスラエルの人びとは、自分たちこそ神に選ばれた民である。 神が求めておられる律法の戒めを固く守るなら、神の国に入ることができる。 そこに生きる新しい命を受け継ぐことになると教えられていたし、そう信じていたのです。 しかし、その人はそのことにどうしても確信をもつことができなかった。 この正直な疑いを心の中にもちながら、イエスに引き寄せられ、今日、このお方にお会いし、お尋ねしなければならないと心に決めていたのでしょう。 そういう意味では、真剣なひとりの求道者とイエスとの出会いです。 イエスはこの正直で真面目な人に、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。 神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」と答えられたのです。 「善いこと、正しいこと」というものさしに縛られている彼の姿をイエスは見抜いておられたのでしょう。 神以外に「善いこと、正しいこと」などない。 神無くして、神を知らずして、「善いこと、正しいこと」など存在しないと聞こえてきます。 
そして、「他に何をすればよいでしょうか」という彼の問いに、イエスは「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という、律法の後半部分を敢えて語られたのです。 このイエスの答えに彼は落胆し、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と胸を張る彼の姿を、イエスは「じっと見つめ、慈しんだ」と言います。 教えられたとおり戒めを守り生きることが、彼の「正しい、善い」というものさしでした。 こうした生き方の先に、神の国がある。 神の国の新しい命があると彼は思っていた。 今までにない何かをすることによって、確信を得ようと必死にイエスにすがったのでした。 そのイエスの答えが、「あなたに欠けるものがひとつある」というものでした。 神の求めておられることを果たしていると胸を張る、その姿に目を留めて慈しんで憐れまれたのです。 神が求めるひとつひとつの戒めを守るために、彼は果たして「痛み」や「悲しみ」を本当に味わってきたのだろうか。 その思いが、「あなたに欠けているものがひとつある。 今、持っている物を手離して、それから、わたしに従いなさい。」という言葉です。 イエスのこの渾身の言葉を聞いた彼は「この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。」と言います。 彼はこれまで申し分なく自分を高めてきた人物です。 自分を高める更なるものをイエスに求めたのです。 イエスは、彼は自分の手もとから奪い取られる、あるいは失われるという悲しい経験をしたことがないのではないか。 あるいは断念せざるを得ない、捨てなければならない苦渋の決断をしたことがないのではないか。 いやその決断を避けてきたのではないか。 イエスは彼が悲しみながら立ち去った理由を、「たくさんの財産を持っていたからである」と言います。 イエスは、財産の多寡をもって語っているのではありません。 この世の神ならぬものに依存する者はその神ならぬものに縛られて、神ならぬものを失うことや奪われることを極端に恐れ、神の国に入ることを難しくする。 「神と冨に兼ね仕えることはできない」とイエスは言われました。 自分の本当の姿を見つめさせられて涙することこそ、神のご愛に出会う時です。 神のご愛によって起こされる悲しみ、苦しみがあるのです。 共に悲しみ、苦しんでくださる主イエスが、慈しんで備えてくださった恵みに私たちは気づきましょう。 その恵みに大いに期待し、信じ、委ねて生きていきましょう。

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「起こされる反転の奇跡」 ホセア書2章16~19節

2020-10-25

 ホセア書は、姦淫の罪を犯した妻ゴメルとその夫である預言者ホセアとの夫婦関係を用いて、主なる神とその神が選び出したご自身の民との関係を示して預言者ホセアに主なる神が語りかけています。 ホセアの妻がどのような過ちを犯したのか詳しく語っていません。 分かっていることは、「愛人たちについて行こう。 パンと水、羊毛と麻、オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ。」と言った。 その妻のふるまいに神が、「それゆえ、わたしは彼女の行く道をふさぐ。 石垣で遮ってその道を見出せないようにする。 彼女は愛人の後を追っても追いつけない。 尋ね求めても見出せない。 そのとき、彼女は『初めの夫のもとに帰ろう。 あの時は、今より幸せだった』と言うだろう。」 「彼女は、穀物、新しい酒、オリーブ油を与え、バアルという神の像を造った金銀を、豊かに得させたのはわたしだということを知らないのだ。 彼女はバアルという神に香をたき、鼻輪や首飾りで身を飾り、愛人の後について行き、わたしを離れ去った。」と言ったと記していることです。 聖書は、神がイスラエルの民を選んで婚姻関係を結ばれた。 神がイスラエルの民を愛しておられたにも拘わらず、イスラエルの民はその他の神々に心を奪われて、その神々のもとへついて行って、神を忘れ去ったと語っているのです。 妻ゴメルの過ちこそ、神ご自身が選ばれたイスラエルの民の過ちです。 私たちの姿です。 妻ゴメルのようなイスラエルの民に神が厳しく叱責する一方で、この裏切りに満ちたイスラエルの民に向けて神が語り出したのが、今朝の聖書箇所です。 
神はこの過ちを犯した妻ゴメルに、「それゆえ、わたしは彼女をいざなって 荒れ野に導き、その心に語りかけよう。」と言います。 「彼女」とは、愛人を追いかけて行こうとした妻ゴメルであると同時に、神に愛されてエジプトから救い出されて神の民とされたにも拘わらず、その神を忘れ去ったイスラエルの民です。 神ならぬものにうつすを抜かして、がんじがらめに縛られてしまった妻ゴメルとイスラエルの民を、それでも神は忘れることはなかった。 「わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。」(11:8)と言います。 この憐れみが、「呼び出して、いざなって、その心に語りかける」と言わせているのです。 語りかけるために神は、「荒れ野に導く」と言います。 「荒れ野」とは、エジプトから導き出されたイスラエルの民が放浪したところです。 神がイスラエルの民に直接食べ物を与え、養い、顧みられた場所です。 神ならぬものに寄り添って生きていかなければならないようなところから離れてみる。 神ならぬものなどまったくないところ、人間が造り出す誘惑が存在しないところ、「荒れ野」に神はいざなって導くと言うのです。 もしかしたら、妻ゴメルにとって、イスラエルにとって、そして私たちにとって、とてもつらい体験となるかもしれない。 それでも神は神以外に頼るべきものが存在しない「荒れ野」に導き出し、放り込まれるのです。 これは、神の憐れみによるものです。 今のまま周りにある神ならぬものを頼りにして生きる限り、神と出会うことはできない。 私たちは何か頼るものが他にあるなら、神に頼ろうとしないのです。 神に出会うことができないのです。 しかし、何もかも失われ絶望するなら、他に頼るものがなくなれば、私たちは不思議と素直に神に頼ることができるようになるのです。 自分に宛てられた場所としてこの「荒れ野」を受け容れるなら、失われた神との正しい結びつきを回復する場所となるのです。 この「反転」こそ、神の奇跡です。 キリスト者の「証し」です。 そのきっかけが神の「荒れ野」への導きです。 これを侮ってはならないのです。 小賢しい知恵によって潜り抜けようとしてはならないのです。 その時こそ、神の変わらない憐れみの愛を知ることになるのです。

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「狼の群れと小羊」 ルカによる福音書10章1~12節

2020-10-18

 ルカによる福音書では、イエスがこれから送り出す72人の弟子たちはいったいどのような者たちであるのかをご自身の言葉でこのように語っておられます。 「あなたがたこそ、収穫のための働き手である」と言います。 聖書で「収穫の時」と言えば、この世の終わり、神の国が完成される時という比喩です。 神の恵みがこの世をすべて支配する時がやってくる。 そのための「働き人」だと言われるのです。 「収穫」の比喩を用いて、神がご支配される時がすぐそこまで来ている。 その「時」に備えるための派遣である。 神の大いなる恵みの業に備えるために、多くの働き手がともに遣わされて行くように祈り願いつつ行きなさいと、緊迫感を漂わせてイエスは弟子たちを送り出されたのです。 もうひとつこのようにもイエスは72人の弟子たちを表現しています。 「あなたがたは小羊である。 これからあなたがたを遣わすのは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」と言います。 力の強い者、迫害する者、抵抗する者の危険の只中に丸腰で、弱い者、無防備な者として送り込まれるような労苦の多いものだとイエスが言っているように聞こえます。 「財布も袋も持っていくな。 何も持つな。」と言われているのでなおさらです。 果たして私たちはこのみ言葉を、弟子たちの覚悟を一層求めたものと受け止めるのでしょうか。 
 ルカだけが十二人の弟子たちの後に、72人の弟子たちを遣わした際のイエスが語られたみ言葉を書き残しているのです。 72という数字は、全世界の民に向けての数字であるかもしれません。 神の国はすでに来ている。 「シャローム、神の平和」が成し遂げられている。 さあ、わき目もふらず全世界に向けてまっすぐに家や町に伝えなさい。 その喜びの知らせに家や町が応えることを神は求めておられる。 受け入れる家や町と、拒む家や町に真っ二つに分けられる時がすでにやってきている。 そのためのあなたがたの働きである。 その働きが「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と言われているのです。 イエスは旧約聖書に熟知し、メシアの誕生の預言をご自身の誕生として読み取っておられます。 メシアは、「主を畏れ敬う霊に満たされる。 弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。」(イザヤ11章) そして、次のような神の国が訪れると預言されているのです。 「狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。 子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。 牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。 乳飲み子は毒蛇とともに、また幼子は蝮とともに戯れる。」 そのような驚くべき信じることができないような「神の平和」の世界が、メシアの誕生ととともにこの悲惨な現実の世界の只中に訪れることになると、イザヤは幻を見ることができたのです。 イエスもまた、このイザヤの預言をご自分のこととして受け取られて、このような神の恵みの支配の世界を確信したのでしょう。 ですから、「あなたがたを送り出すのは、そのような狼の群れとともにある世界を築くためである。 狼の群れに気をつけなさいではなく、恐れないで神の平和を築き上げるもう一方の当事者である狼の群れのところに行きなさい。」と送り出されたのではないでしょうか。 最も危険な場所、耐えがたい場所と思われるようなところが、最も驚くべき出来事、神の平和の現実を味わう場所に成り変わる。 この神との平和は、小羊と小羊の間だけではない。 神の平和など起こり得ないと思われるような所、狼の群れと小羊の間に起こされるのです。 これが神の恵みの支配される神の国です。 それが受け入れられるところに行って、「時は満ち、神の国はあなたがたに近づいた。 悔い改めて信じなさい。」と語るようにとイエスは弟子たち、私たちを送り出しているのです。

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「伝える側と伝えられる側」 マタイによる福音書7章1~6節

2020-10-11

 1節から4節までは、「人を裁いてはならない」ということがテーマとなっています。 それは「自分もまた裁かれないようになるためである」と言います。 人はとかく自分のものさしで人を量り、人を区別します。 道徳的にもよく分かる話です。 しかし聖書はそうではありません。 人を裁くということは神がなさることだと聖書は言います。 「人の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中にある丸太に気づかないのか」と言われるのは、神の前にということです。 人の中にある些細な「おが屑」を見つけ出して、自分の中にある「丸太」の大きさに目を閉じてしまう。 この自分の本当の姿、神の前の傲慢さを、イエスはこのように表現しておられるのです。 私たちが人の中に見る過ちに比べれば、神の目に知られている私たちの過ちははるかに大きい。 どんなに取り返そうとしても取り返しのつかない過ちである。 主イエス・キリストの十字架の翼によって覆われなければ償うことのできないほどの大きさである。 「そうした状態に先ずあなたがたは気づきなさい。 神の前にある自分の本当の姿を知り、赦していただきなさい。 それは神によって裁かれないためである。 そうすれば、人の本当の姿を知るようになる。 だから、互いに赦し合いなさい。 そうすれば、あなたがたも主イエス・キリストの十字架によって神に赦される。」とイエスは言われるのです。 そのことを5節で、「まず自分の目から丸太を取り除け。 そうすれば、あなたがたは自分の姿がはっきり見えるようになって、人の目からおが屑を取り除くことができるようになる。」とイエスは促しておられるのです。 
ここまでは、このみ言葉を受け入れることはさほど難しいものではないでしょう。 問題はこの1節から5節に続くイエスのみ言葉です。 「神聖なものを犬に与えてはならない。 真珠を豚に投げてはならない。 それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」という、どう受け止めてよいのか難しいみ言葉が続きます。 一般的に言われる「豚に真珠」ということわざに似たことをイエスは告げているのでしょうか。 「まず自分の姿がはっきり見えるようになって、それから人の姿を見るように」と言われたのです。 自分の姿、人の姿が見えるようになって、人の目の中にあるおが屑を取り除くことができるようになったのなら、「神聖なもの、真珠を犬や豚に投げ与えるようなことをしてはならない」と、弟子たち、私たちの信仰の在り方を問われたのではないかと思わされるのです。 いったい誰が「犬」であり、「豚」であるのか判断するのでしょうか。 神の前にはほぼ同じです。 人を「犬」や「豚」のように見なしているその在り方、そして「真珠」をもっていないと決めつけて人に与えようとする姿に、イエスは警鐘を鳴らしておられるのではないか。 神聖なもの、「真珠」は代えがたい神から与えられるものです。 私たちが所有できるようなものではない。 神から与えられ、恵みとして受け取るものです。 神から働きかけられて、驚いて味わう体験です。 その都度、イエスが霊となって私たちの内に入り宿られて初めて、私たちの中に湧いて出てくる神の命、力です。 私たちの中に「真珠」を持つのではなく、私たちの中で神の働きによって「真珠」になるのです。 そこに救いの喜びの出来事が起こされるのです。 神のみ言葉が生きた言葉となって、私たちの中に宿る。 何をもってしても打ち消されることのない出来事となって刻み込まれて、「真珠」になるのです。 「伝えられる側」の相手が「豚」であるのか「犬」であるのかという問題ではなく、「伝える側」の問題として、本当に神のみ言葉が生きて働いて「真珠」となっているのかどうかです。 「真珠」となって刻み込まれる出来事が起こされることを私たちが祈り願っているかどうかです。

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「出来事を起こされる主イエス」 マタイによる福音書9章9~13節

2020-10-04

「イエスはそこをたち、通りがかった」とあります。 そことは、イエスのご自分の町、カファルナウムという町です。 ガリラヤ湖畔随一の繁栄を誇っていた商業の中心地です。 ロ-マ帝国が税金を取り立てる収税所を設置し、軍隊を駐屯させたほどに重要視していたところです。 新たな宣教の地に向かう、その通りがかりにイエスが目を留められたのが「収税所に座っているマタイ」の姿でした。 マタイは収税所に勤務する徴税人です。 徴税人とは、ローマの権威を盾に正当な税額以上の取り立てをし、私腹を肥やしていた人たちのことです。 ユダヤの人びとからは忌々しい人々と疎まれていた人たちです。 そのころ、「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、福音を宣べ伝え、民衆のあらゆる病気や患いをいやされた。 そこでイエスの評判が広まって、人々はあらゆる病人を連れてきた。」と言われています。 イエスは食事をとることも、休息をとることも、眠ることさえもままならなかったのでしょう。 イエスが祈るために静かな場所に退かれても、人々は先回りしてイエスを待ち受けたと言います。 そうした中、イエスに目もくれず、ただ収税所にじっと座っていたマタイの姿の方が、イエスにとって目を留めなければならなかった姿に映ったのでしょう。 そのマタイにイエスは、「わたしに従いなさい。」と呼びかけられました。 すると、座っていたマタイは立ち上がって、イエスについて行ったと言うのです。 マタイにいったい何が起こったのでしょうか。 マタイが何かを望んで叫んだとか、マタイの姿がどのように映ったから呼びかけられたとか一切の理由も説明もなしに、イエスは呼びかけられたのです。 そこに、この出来事のいぶかしさと驚きを憶えます。 
 徴税人とはどのような人たちであったのか、イエスはよくご存じであったでしょう。 人々からは後ろ暗い人たち、胡散臭い人たちと見られていた。 律法を守ることのできない人たちだと眉をひそめられていたのでしょう。 もし、一緒に食事をするあるいは一緒に歩くなら、その仲間であると思われても仕方がなかったことでしょう。 イエスは、周囲の群衆のイエスを求める姿とは正反対に、ただひとりご自身を一向に見つめようとしない、求めようとしないマタイの姿に深く憐れまれたのではないでしょうか。 そこで想定外の出来事が、マタイのうえに起こされた。 イエスが新しい宣教の地に出発するその時に、このひとり孤独に座っていたマタイを連れて行こうとされたのです。 このマタイがイエスの十二弟子のひとりに加えられたという出来事が起こされました。 当時としては考えられない「徴税人のマタイ」と注釈が付けられる人物がイエスの十二弟子に加えられたという驚くべき出来事が起こされたと聖書は言うのです。 徴税人たちは穢れた人たちであると、自分がその職業を選んだ自業自得であると人々は思ったに違いない。 事実、ファリサイ派の人たちは、徴税人や罪人と一緒に食事をしているイエスを見て、「なぜ、あなたたちの先生は、徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」、間違っているとイエスを正します。 しかし、イエスは穢れた人であろうがなかろうが、その人の悲惨な姿に出会うことによって、深い憐れみから想定外の出来事を起こされるのです。 ホセア書を引用して、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。」と、丈夫な人ではなく病人を、正しい人ではなく罪人を招くためであるとイエスは言われるのです。 イエスの目には、自分にしがみついて神のもとから離れて死んでしまっている神の前に失われている者と、自分を捨てて神のもとに帰ろうとしている取り戻される者の区別しかないのです。 イエスは手当が必要なすべての人を招くために、自ら罪人に数えられる中に厭わず入って行かれて、憐れみから発せられる驚くべき出来事を、必要とされるひとりのために起こされるのです。 

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「嘆きの中で神を賛美する」 ヨブ記1章21節 19章25~26節 42章1~6節

2020-09-27

 ヨブは、「七人の息子と三人の娘、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産を与えられていた。 東の国一番の富豪であった。」と言います。 そのようなヨブの家庭に次々と苦難が訪れるには原因があったと聖書は言うのです。 神の前に、神の使いたちとサタンが集まってきた。 サタンとは、「この地上を巡回して、方々を歩き回って」、神のもとから人を離れさせる存在です。 そのような存在を赦しておられるのは、神がご自身の救いの業の為に用いられるとしか言いようがありません。 神は先ずサタンに言います。 「お前は私の僕ヨブに気づいたか。 地上に彼ほどの者はいまい。 無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」 神はヨブをご自身の僕であると認めているのです。 ここからサタンの神への最初の挑戦が始まります。 「ヨブが、利益もないのに神に従うでしょうか。 彼の手の中にあるすべての財産に象徴される祝福が失われるなら、ヨブは面と向かって神を呪うに違いない。」と挑むのです。 人々の姿を多く見てきたサタンは、人間はただで神を畏れるものではない。 自分の幸せを図るために神を利用しているに過ぎないという確信です。 そのサタンに神は、「ヨブのもの一切、お前のいいようにしてみるがよい。 ただしヨブには、手を出すな。」と応じられたのです。 その後、牛もろばも略奪される、羊も焼け死んでしまう、らくだも奪われ、家族も失われるという災いが次々と襲ったのでした。 その時、思い切り悲しんで地にひれ伏して叫んだヨブの言葉が、「わたしは裸で母の胎を出た。 裸でそこに帰ろう。 主は与え、主は奪う。 主のみ名はほめたたえられよ。」でした。 「取り去られるものはすべて取り去られたけれども、神の名を呼び賛美することは赦されている。」とヨブは言っているのです。 自分が神の僕であるなら、神の許可なくこの私に触れることができる者などいないという確信であったのです。 サタンは更に神に挑んできます。 「人は自分自身の命のためなら、全財産を差し出すものです。 もしヨブの骨と肉が損なわれるなら、彼は面と向かって神を呪うに違いない。」と言うのです。 そのサタンに、神は「ヨブを、お前のいいようにするがよい。 ただし、ヨブの命だけは奪うな。」と応じられたのです。 ヨブはその後、全身がひどい皮膚病にかかり、体中をかきむしるまでになったと言います。 それでもヨブは、「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と語るのです。 ヨブは神とサタンとの対話は知らされていません。 災いとも思える出来事の理由が、神が答えてくれないので分からない。 その神の沈黙に耐えきれなくなって絶望したのです。 その時にヨブに届いた神の言葉が、「お前は何ものか。 わたしが大地を据えたとき お前はどこにいたのか。 知っていたと言うなら言ってみよ。」でした。 神はヨブを御自身の僕として選び分かち、サタンの試みにも承知してずっとご覧になっておられるのです。 この苦しみの解決ではなく、神の沈黙こそ神の答えでした。 サタンの試みにヨブと一体となって支えてくださっていた神にヨブが出会うためでした。 ここまで深くご自身を知らせてくださる神と出会うためでした。 この神に答えたヨブの言葉が、「今、このようなところで、この目であなたを仰ぎます。 それゆえ、わたしは自分を退け、悔い改めます。」でした。 ヨブは自分を守るために悔い改めたのではありません。 ヨブは神を深く知るために悔い改めて、神の僕にふさわしく整えられていったのです。 神がすべてを承知しておられ、そのみ手の中で一緒にサタンの試みにともなってくださることをヨブが味わい知るためでした。 神は永遠なるものを与えようとして、過ぎ去るものを失わせご自身の沈黙をもって人の目を開かせようとされたのです。

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「神と人との交わり」 ルカによる福音書19章1~10節

2020-09-20

 エリコという町は都エルサレムの入口であり、物の流通や人の行き交いが盛んな町でした。 ローマ帝国にとってみれば、様々な税金を取り立てやすい重要な拠点であったようです。 主イエスがもう戻ることのない十字架に向かう旅の最後の町と言えます。 猛然とエルサレムに向かって、イエスが足を速めている時です。 そのエリコの道端に座って物乞いをしている盲人がイエスがお通りになることを聞いて、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と叫んだと言います。 叫び続ける盲人に立ち止まり、そばに連れてくるようにと命じ、「何をしてほしいのか」とお尋ねになってその願いを聞き届けられたのです。
 このエリコの町でもうひとり、イエスがエルサレムを急ぐなか足を止めてわざわざ出会ってくださった人物がザアカイでした。 ザアカイは、「徴税人の頭であった。 金持ちであった。」と言います。 徴税人たちは、ローマの威光を背景に必要以上の税金を取り立て、私腹を肥やしていたのです。 当然ながら、ローマの支配下にあったユダヤの人々からは、忌々しい人々と嫌がられ、疎まれ、つまはじきにされていた人たちです。 ザアカイはその頭であったと言いますから、人々からは容赦なく徴税する凄腕の徴税人であったのでしょう。 そのようなザアカイがなぜか、このエリコの町を通りすがるイエスを見ようとします。 道端に座って物乞いをしている盲人のように、叫び声を挙げてイエスに出会うことを熱望していたわけではないが、背の低かったザアカイはいちじく桑の木に登ってまでイエスを見たいと願っているのです。 財産をもち、生活は安定し何不自由のないザアカイが、なにかしら満たされない心の渇きがあったのでしょう。 人々との交わりは断たれ、孤独にされ、いちじく桑の木の上にまで締め出された居場所のない孤独な人の姿に映ってきます。 そのようなザアカイをイエスは十字架に架けられるという大きな務めを果たす為に先を急ぐその最中でも足を止められ、側近くでご覧になって「ザアカイ」と名前を呼んで呼びかけるのです。 そして、「急いで降りて来なさい。 今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と言われる。 「ぜひ泊まりたい」というこの言葉は、「泊まることにしている。 泊まらなければならない。」という意味合いの言葉です。 道端で物乞いをしていた盲人も、いちじく桑の木の上にまで締め出されていたザアカイも、イエスが手を差し伸べるべく定められた存在であったのです。 このふたりがどのような人物であったのか、どのような行いをしていたのかに関係なく、イエスが望んで選び、立ち止まり、捜し当て、呼びかけられた存在であったのです。 これは父なる神のみ心を果たす為であった、これから向かわれる十字架のもとで贖われるすべての人々のうちのふたりであったと、イエスはその直前にこのエリコという町で示されたのではないでしょうか。 このイエスの呼びかけに、突然のことであったザアカイは、「急いでいちじく桑の木から降りて来て、喜んでイエスを迎えた。」と言います。 エリコの町の人々は、「イエスは神の子であると思っていた。 しかし、ザアカイの家に泊まるという罪人の仲間であった。」とつぶやいたのです。 このつぶやきにお構いなく、イエスの御業が果たされていきます。 ザアカイは訳が分からなかったが喜びに満たされ、イエスに委ねて行こうと小さな決断をしたのです。 当時の律法の定めをはるかに超えた償いをすると宣言するまでに、生き方そのものが変えられたのです。 そのザアカイの応答に、イエスはザアカイの家に泊まられたのです。 そして、ザアカイひとりだけでなく、その家族にも救いが訪れたのです。 アブラハムと同じ祝福を引き継ぐ者であるからとザアカイに出会ってくださるイエスは、私たちにも出会ってくださるのです。 

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「赦されること 愛されること」 創世記4章1~12節

2020-09-13

「兄弟は他人の始まり」とはいい意味で使われている言葉なのかもしれません。 兄弟間での葛藤こそ、人を大きく成長させるものでもあるからです。 人類最初の人を殺してしまうという悲しい出来事が兄弟の間で起こったと言います。 兄カインは「土を耕す者」となった。 弟アベルは「羊を飼う者」となった。 それぞれ人間に神から託された務めを果たす者となったということです。 ところが、二人の神への感謝の献げ物から事が始まります。 兄カインは「土の実りを献げ物として持って来た。」 弟アベルは、「羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。」と言います。 なぜか神は、「アベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」と言います。 カインは弟アベルに向かって「激しく怒り」、神に向かっては「顔を伏せた」とあります。 私たちは神が目を留められる違いはどこにあるのか、あれこれと詮索してしまいます。 献げ物そのものの違い、献げ方の違い、献げる者の心の違い、献げる者の働きの違いなのかと思ってしまいます。 新約聖書では、献げ物は「信仰によって」献げるもの、神を愛するという思いから出てくるものであると言います。 神に対して今、献げなければならない最良のものを献げるという思いに神は目を留められたのでしょう。
 「激しく怒って顔を伏せたカイン」に、神は「どうして怒るのか」と呼びかけます。 神に顧みられなかった理由を、なぜ弟に求めるのか。 自分自身の中にある理由に目を背けるカインに、神は「どうして顔を伏せるのか。もし、お前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。 顔を上げよ、神の前に自分自身の姿を差し出せ。 そうしなければ、お前を支配している誤った思いに翻弄されてしまう。」と、カインを見捨てることなく悔い改めを迫ります。 人は自分を正当化するために、正しいことを言われれば言われるほど怒り出します。 すべてを知っているがゆえに、それを隠すために人は必死になります。 心の中に、神に隠さなければならないような思いが湧いてくるなら、そのままにしておいてはならない。 たとえ破れても、恥ずかしくても、もう一度向きを変えて、神の前から隠れていこうとするのではなく、神の前に向きを変えてありのままの姿を差し出して戻って来なさい。 「隠れた罪」は恐ろしく、お前自身を支配するものとなると言われたのです。 
 その甲斐なく、カインは弟アベルを言葉巧みに誘い出し、手にかけてしまうのです。 「お前の弟アベルはどこにいるのか」と神は呼びかけます。 神は「お前の弟」と言っています。 私たちの命は人とのつながりの中に生かされていると神は言います。 その呼びかけにカインは、「知りません。 わたしには関係ありません。」と答えたのです。 神から託された人との関係を自ら断ち、自らの務めを放棄したのです。 それだけではなく、神の前を立ち去り、「ノド」という地に住んだと言います。 「ノド」という地名は、動揺、あせり、不安といった意味合いでしょうか。 神に背を向けて、自分の身を守ろうとした地「ノド」。 神を二の次にして漂う、自分だけを頼りにうつろいごまかすこの世の姿を映します。 旧約聖書は、このカインの兄弟間の葛藤を物語ると同時に、もうひとつヨセフの兄弟間の葛藤の物語も記しています。 兄たちに荒れ野の穴に突き落とされ、遠いエジプトに奴隷として売り飛ばされたヨセフが、そのエジプトで頭角を現し、エジプトを支配するまでになったのです。 豊かに食糧のあるエジプトに助けを求めてやって来た兄たちをヨセフが赦す感動的な場面が創世記45章に記されています。 兄弟姉妹は社会性を鍛え合うばかりでなく、互いに赦し合うというかけがえのない経験をも与える関係であることが、そこには示されています。

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