「わたしに従いなさい」 ルカによる福音書9章18~27節
「ほかの町にも、神の国の福音を告げ知らせなければならない。 わたしはそのために遣わされたのだ。」とイエスは言われ、町や村を巡り歩き、人々の生活の隅々にまで出向いて行かれました。 そこで人々と同じように喜びや悲しみを共にされて、み言葉を語り、奇跡の業を示しながらずっと考えておられました。 「そばに来ていた12人の弟子たち」に、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と質問されたのです。 群衆は過去に目にした歴史の中で知っている偉大な人物であると言っていると答えた弟子たちに、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とイエスは更に尋ねたのです。 この答えを、今、自分の言葉として私たちは持っているでしょうか。 12人の弟子を代表してペトロが、「イエス、あなたは神から遣わされた、神に等しい救い主、メシアです」と答えたと言います。 最初のキリスト者の信仰告白であったかもしれません。 旧約聖書が、「一つの出来事が起こされる。 それは、人が詳しく説明しても到底信じることができない出来事である」と預言しているように、神は過去の延長線上にない、全く新しい出来事を起こされる。 神のもとを離れてしまった私たちを赦して、救い出して、ご愛のゆえに取り戻すという救いの出来事を起こされる。 イエスをその救い主として遣わして、「十字架の死」という贖いの業を通して、赦して、その結果、「復活」という信じることができない出来事によって「救い」の業を起こされると言うのです。 イエスこそ、この神のみ心に従って、人間という私たちと同じ肉体の制約を背負わされて地上の生涯を送られていたのです。 父なる神はどうしても、十字架に向けてエルサレムに行けと言われる。 イエスは、「父よ、み心ならこの杯をわたしから取りのけてください」と迷いながらも、「しかし、わたしの願いではなく、み心のままに行ってください」と祈っておられたのです。 今、エルサレムに赴けば何が起こるのか、イエスには容易に予測がついた。 しかし、このペトロの答えがどれほどイエスを勇気づけたことかと思わされます。 「十字架」これ以外に、神のもとを離れてしまった人間を神のもとへ取り戻す「救い」は他にない。 ご自身がこれから辿って行く道を通ってしか、神の「赦し」への道はない。 神のもとへたどり着く道は他にないと、イエスはこの時確信したのではないでしょうか。 聖書の言うメシア、救い主とは、「僕の形をとって、人間となってこの世にくる。 人の罪を背負って、その罪の身代わりに死ぬ。」と言うのです。 ですからイエスは、「必ず、苦しみを受け、殺され、復活することになっている」と言うのです。 救い主であるなら、必ずそうなる。 それが神のみ心であると言われているのです。 イエスはメシアの受難と復活を語り終え、「わたしについて来たいと思う者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言います。 父なる神のもとへ戻るためには、神の赦しを得るためには、「必ず、わたしがエルサレムに行って、侮辱されて、痛みを受けて、傷跡を残して、すべてのもの、命まで奪われることになっている。 神の赦しにより、恵みにより、新しく生まれ変わることになっている。 これが『救い』に至る唯一の道である。 あなたがた弟子は、このわたしの後について来なさい。 わたしがすでに十字架を背負って歩いたその道を、あなたがたは辿って従って来なさい。」と言われているのです。 イエスがすでに味わってくださった道です。 ひとりではないのです。 私たちは自分勝手、自分中心です。 イエスはその「自分」を捨てて、「わたし」に従いなさいと言われているのです。 「自分」から「イエス」へと生き方の根底を変えるように、「わたしの後を追ってついて来なさい。 わたしに信頼して従いなさい」と言われているのです。
[fblikesend]「侮辱されたイエスの神への信頼」 マルコによる福音書15章16~20節
イエスは夜中に捕らえられ、裁判を受け、ローマ総督ピラトのもとに残酷な十字架刑に処せられるために引き渡されています。 その時、ユダヤの祭司長、長老、律法学者たちは、「イエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、言い当ててみろ」とイエスを侮辱したと言います。 その下役たちからも、「イエスは平手打ちを打たれた。 その間、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった」とあります。 イエスを祭司長たちが引き渡したのはねたみのためだと分かっていたピラトですが、群衆を満足させようと事実を捻じ曲げて、イエスを鞭打ってから十字架につけるためにローマ兵士たちに引き渡したのが今朝の聖書箇所です。 兵士たちは、自分たちが着用していた服をもって王様の服に見立て、茨を編んで王様の冠に見立てイエスを茶化すのです。 繰り返し葦の棒でイエスの頭を叩き、唾を吐きかけたと言います。 イエスはさんざん侮辱された後、処刑場まで人々に晒されて歩かされます。 通りがかった人々からも、「十字架から降りて自分を救ってみろ」と言われ、一緒に十字架につけられた者からも、「今すぐ十字架から降りるがよい。 それを見たら、信じてやろう。」と罵られたと言います。 背中には鞭で打たれた傷跡が刻まれ、手首、足首には釘の跡が残され、愛する弟子たちからも見放され孤独となったのです。 しかし、ただひとりイエスの処刑を見届ける務めを与えられていたローマの百人隊長だけが、イエスが息を引き取るまでの一部始終を見届け、「本当に、この人は神の子であった」と告白したと言います。
イエスはあらゆる人から愚弄され、人が拠り所とするものすべてが奪われたのです。 孤独となり社会的な存在としての命も、ついには裸にされ人としての命まで奪われてしまったのです。 それでもなすがままにご自身の身を任せられたのはなぜでしょうか。 確かにイエスは父なる神のみ心とは言え、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と洩らし、恐れ悶えておられました。 一方で、「時が来た。 罪人たちの手に引き渡される。 立て、行こう。」と覚悟もしておられました。 神のみ心が先ずあって、それにイエスが従ったとしか言いようがありません。 そうでなければ、十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言わないでしょう。 すべてが分かったわけではなかったかもしれないが、生身の人間として父なる神のみ心に祈りのうちに従ったのです。 ただ沈黙のうちに人のなすがままにさせ、すべてを失ったが、唯一、父なる神への信頼だけは奪われず、自ら進んでご自身の身を投げ出して父なる神のみ心に委ねたのです。 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。 人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-7) 絶え間ない「祈り」によって、み声に聴き続けていたことによって、イエスが父なる神との生きたつながりを保っていたからでしょう。 沈黙のまま、唯一「神への信頼」だけを拠り所として生きる人間の姿が、人間のどん底とも言える所で示されているのです。 イエスには、ご自身の正当性を主張する人間としての誇りや自尊心といったようなものを守ろうとする動きが一切ないのです。 神への信頼をもつことができるなら、これほどの平安、喜びはありません。 人間の間でも本当に人を信じ信頼することができるのなら、これほどの幸い、喜びはありません。 信じることは「力」です。 「喜び」です。 信じることができないから、私たちは悩み、思い煩うのです。 最もふさわしいことをしてくださると神を信頼することができるなら、何も怖れるものがなくなるのです。
「燃えて輝くともし火」 ヨハネによる福音書5章31~44節
イエスは、「父なる神はご自身の子を愛して、ご自分がなさることをすべて子に示される。 だから、わたしは父なる神からのご愛を知っている。 父なる神のなさる働きをすべて知っている。」とご自身が神の子であることを語り続けます。 神を自分の父と呼び、自分を神と等しい者とする神を暴騰する者であるとイエスを非難するユダヤ人たちに対して、「父なる神がもっておられる命を、このわたしの内にもその命をもつようにしてくださった。 人間がこのことを証しすることはできない。 そのことを証しするものが三つある。」と言われるのです 「ひとつは父なる神自身である。 そして、父なる神がわたしに成し遂げるようにとお与えになった業が、わたしを証しする。 そして、聖書の中に記されている父なる神のみ言葉がわたしを証しする。 この三つが、このわたしが人間でありながら神がもっておられる命をもつことができるようになったこと、神からのご愛や神のみ心を知ることができるようになったこと、父なる神の国で成し遂げられる業がこの世においても成し遂げられるようにされたことを証しするのである。 わたしは父なる神のお声を聞いている。 父から注がれるご愛を受けている。 だから、この父なる神のみ心をこの世において実現するために従うのみである。 父なる神は今もなお働いておられる。 だから、わたしも安息日においてでも働くのだ。」と言われるのです。 「わたし自身は肉体の制限をもつ人間であるから、自分自身のことを証しすることはできない。 もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。 そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、悟るだろう。」(10:37-38)とまで言われるのです。 これからイエスご自身が成し遂げられようとされている十字架の業、神のご愛とご真実の結晶の働きを信じなさい。 そうすれば、神とともにあるこのわたしを知ることになるだろう。 この世の命から新しく生まれ変わって神がもっておられる命を内に宿して、神の国に生きる者となる。 聖書の中にある永遠の命に至る道は、このわたしによって示されている。 そのために、この世で非難があろうと、迫害があろうと、処刑があろうと、「人からの誉れは受けない。 唯一の神からの誉れを求める。」と言われたのです。
イエスはご自身の働きを語るのに、バプテスマのヨハネの働きを引き合いに出しています。 ヨハネの描くメシア像とイエスの姿にはギャップがありました。 神の国の認識にもイエスとの違いもありました。 十字架に象徴される「神の赦しの恵み」がヨハネには未だ見えおらず、「来るべきお方はあなたでしょうか」と尋ねたと言います。 しかし、イエスはこのバプテスマのヨハネを、「ヨハネより偉大な者はいない。 イエスご自身の歩むべき道を備えた預言者以上の者である。 神の国の訪れ直前に最後の準備をした預言者である。」と評価し、「燃えて輝くともし火」と言います。 周りの人々はその「ともし火」のもとでしばらくの間、喜び楽しむことができたと言うのです。 ヨハネの「ともし火」は限界のある、消えてなくなるようなたかが知れている「ともし火」であったかもしれない。 しかし、イエスは「このわたしに繋がる道備えをするために、精いっぱい命を燃やして、しばしの間輝いた、燃えて輝くともし火である。」とイエスは評価されたのです。 イエスの十字架によって与えられた罪の赦しを感謝して受け取って、「神の国」に新しい命に生きる者として歩むべき道の備えをしたヨハネを、イエスは「燃えて輝くともし火」と賞賛されたのです。 私たちもまた、「精いっぱい与えられたところで燃えて輝くともし火」として、主イエスに喜んで迎えられることを期待しましょう。
「神を信じなさい 祈り求めなさい」 マルコによる福音書11章12~25節
主イエスはエルサレムの都に近づいた時、「もしこの日に、このエルサレムが神の平和への道をわきまえていたなら・・・今は、エルサレムにそれが見えていない。 神の訪れてくださる時をわきまえなかったから、やがて崩されてしまうだろう。」と嘆き、泣いたと言います。 この嘆きと憐れみをもって、イエスは思い違いをしているエルサレムの群衆の歓呼のなか都に入って行かれたのです。 空腹を覚えられたイエスが、遠くから葉の茂ったいちじくの木をご覧になり、その木に実がなってはいないかと近寄って行かれたと言います。 しかし、時期はいちじくの木に実がなる時期ではなかったので、そのいちじくの木に葉のほかは何もなかったのです。 そのことを確かめたイエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と、呪いのような言葉を語られたと言います。 それから、イエスはエルサレム神殿に入り、そこで売り買いをしていた人々を追い出した。 貨幣の両替を商売としている人々の台をひっくり返した。 犠牲の動物を売るために商売をしている人々の腰掛をひっくり返したと言うのです。 イエスのこの不可解な言葉と振る舞いに、私たちはなぜだろうと疑問をもったものです。 今までこう教えられてきました。 「いちじくの木」はイスラエルの象徴である。 季節ではないからと理由をつけて、この世に従って信仰の実を結ばないイスラエルの姿にイエスは落胆している。 イエスご自身がエルサレムに訪れているのに、この世の常識に埋没してしまって一向に実を結ばない。 神に仕える場所が神なき場所に陥ってしまっている。 今、父なる神から授けられようとしている恵みを受け取ろうとしない。 そう嘆くイエスの怒りのような象徴的な言葉と行動が、「いちじくの木への言葉」であり、「神殿での振る舞い」であった。 これはイエスの呪いでも罰でもない、悔い改めを求めたイエスのご愛であると教えられてきました。 しかし、そのすぐ後にもうひとつの段落が結びつけられています。 昨日イエスが預言されたとおりに、いちじくの木が根元から枯れてしまっているのを一行は確認します。 「先生、ご覧ください。 あなたが呪われたいちじくの木が枯れています」と語ったペトロの言葉に象徴されるように、私たちはイエスが語られた言葉を「呪いの言葉」と受け取っています。 枯れたことが確かめられたその直後に、なぜイエスは「神を信じなさい。 祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。 そうすれば、そのとおりになる。」と、「祈り」について言われたのでしょうか。 神殿での振る舞いの際にも、なぜ「神の家は祈りの家と呼ばれるべきであると書いているではないか」と聖書を引用されたのでしょうか。 実がならないのは季節のせいだとする「いちじくの木」に向かって、「このままでは枯れてしまうものとなる。 いつまでも実がならないものとなる。 その時がきている。」 ペトロが「言われたとおりになってしまっている」と叫んだその時です。 イエスは、「だから神を信じなさい。 だれでも。 少しも疑わず信じるなら、そのとおりになる。」と言われたのです。 イエスは季節でもないのに実がなっているか、神のみ心ならこの世がどうであれ実がなっているかご覧になろうとしたのです。 諦めて枯れてしまったいちじくの木に、「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」と言われたのです。 神への信頼が祈りを産みます。 私たちの祈りはつくり変えられます。 神への変わらない信頼が、自分にふさわしい祈りをつくり上げていきます。 「祈り」が変えられると、人はつくり変えられるのです。 イエスの呪いの言葉と思われるような言葉が、希望と赦しの言葉に響いてこないでしょうか。 イエスの乱暴な振る舞いが、この世を操る霊に向かって激しい祈りによって戦いを挑んでくださる姿に映ってこないでしょうか。
[fblikesend]「見つけ出されるという出会い」 創世記16章1~12節
アブラムは、「あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。」と神自ら約束された人物です。 そのアブラムとサライの老夫婦が10年待ち続けても子どもが与えられなかった頃のことです。 妻サライは自ら行動を起こし、ハガルというエジプト人の使用人を利用しようとします。 サライは夫アブラムに、使用人に子どもを産ませそれを自分の子どもにするという当時の慣行を進言し、アブラムはそのまま受けてしまうのです。 アブラムは未だに神の約束が果たされないでいる現状に耐えきれなかったのでしょう。 確かにサライの思惑通りに使用人ハガルは身ごもりました。 すると、ハガルの立場が変わり女主人であったサライを軽んじ始めたと言うのです。 見下されたサライはその矛先を夫アブラムに向けます。 「わたしが不当な目に遭っているのは、あなたのせいです。」と、道具のように利用したハガルへの仕打ちを忘れて、今度はアブラムの責任を盾に強く迫ったのです。 ここに至ってもアブラムは、「あなたの好きなようにするがよい。」と逃げ、別の問題が新たに起こった現実に目を向けようとせず放置するのです。 ハガルの側にも問題があるとはいえ、サライは元の自分付きの使用人として今までの腹いせとばかりにハガルに辛く当たったのでしょう。 ハガルはそれに耐えきれず、サライのもとから逃げ出したと言います。 小さな家庭に起きた、三者三様の人間の弱さを表しています。
亀裂が入ってしまった小さな家庭に、神はそれぞれにふさわしく分け入ってくださるのです。 アブラムとサライには、約束通り自分たちの子どもとしてイサクが与えられます。 人に利用されてその人生を奪われて、自分の立場を勘違いし奢って、それが原因で最後には一方的に逃げ出してしまったハガルにも、神さまは出会ってくださるのです。 宛てもなく漠然と故郷エジプトへ戻ろうとした一人ぼっちの逃避行のなか、「荒れ野の街道沿いの泉のほとりで、神は出会った。 そして語りかけた。」と言います。 この「出会った」という言葉は、「見つけ出された」という意味合いです。 ひとり呆然と荒れ野で佇んでいるハガルを、神は追いかけてきて、見つけ出して呼びかけるのです。 「ハガルよ。 あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」 神は、ただその場を避けたいだけのハガルに行き宛てのないことに気づかせ、自分の姿を見つめさせ、「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」と命令を下すのです。 辛さや悲しみだけから逃げ出してさまようハガルに、なぜ、神は元のところに帰りなさいと言われたのでしょうか。 なぜ、あれほど嫌がっていたサライのもとへハガルは自ら戻って行ったのでしょうか。 いったい何がハガルの心境に変化を与えたのでしょうか。
神はこの命令とともに、「あなたにもイシュマエルという男の子が与えられる。」という約束を与えています。 自分が身ごもっていたことも忘れていたハガルに、すでに子どもが与えられていると気づかせます。 ハガルはそこで、「あなたこそ、わたしを顧みられる神です。 行く宛てもなくさまよった私を追いかけてきて、捜し出して見つけ出してくださったからです。 主が悩みを聞いてくださったと気づかされたからです。」と告白するのです。 たとえその約束が今は祝福とは思えなくても、神の約束が与えられたのです。 祝福の外にあると思っていた存在にも神は顧みてくださるのです。 たとえ悲惨と思われるところであっても、神とともに戻れと言われるのです。 私たちが見つけ出す喜びよりもはるかに大きな喜び、神に見つけ出される喜びです。 見つけ出されるに値しない者が見つけ出される神の恵み、これが新しく人を造り変える喜びです。 目先の苦しみを避ける生き方から、争いと敵対の中にも神とともに戻っていく生き方へと変えられるのです。
「わたしを食べる者」 ヨハネによる福音書6章52~58節
五千人の群衆を少年がもっていたわずか五つのパンと二匹の魚で養ったという奇跡を目の当たりにしたユダヤ人たちは、イエスを探し求めて押し寄せて来たのです。 この時に交わされたイエスとユダヤ人たちとの対話が、4回の「はっきり言っておく」というイエスの言葉をもって交わされています。 パンを食べてお腹が満たされたユダヤ人に対する最初の「はっきり言っておく」です。 「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならない食べ物のために働きなさい。」と言います。 物としてではなく、永遠の命に至る食べ物を求めなさいと言われたのです。 ユダヤ人たちにとって、「永遠の命を得る」ということは生きる目的でした。 イエスのその言葉にすかさず、「そのためには何をしたらよいでしょうか」と尋ね、イエスは「神がお遣わしになった者を信じることである。 それが神の業をすることになる。」と答えるのです。 「それでは、あなたを信じることができるように、あなたはどんなしるしをわたしたちに示してくださるのですか。」と、モーセが起こした昔の出来事と同じ奇跡を、今の自分たちにも示してほしいと迫るのです。 イエスは二回目の「はっきり言っておく」と言われて、「モーセが天からのパンを与えたのではない。 わたしの父である神が天からのまことのパンをお与えになる。 わたしが天から降ってきた命のパンである。 永遠の命に至る食べ物とはわたし自身である。」と答えたのです。 これを聞いたユダヤ人たちは、「イエスはヨセフの息子ではないか。 どうして天から降って来たなどと言うのか。」と呟き始めます。 三度目の「はっきり言っておく」です。 「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。 わたしが与えるパンとは、わたしの肉のことである。」 この不思議なイエスの言葉に激しく詰め寄ったユダヤ人たちに対して四回目の「はっきり言っておく」という言葉とともに、締めくくりとして語られた言葉が、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物である。」という言葉であったのです。
イエスの生涯全体を通して語ることのできる私たちであるなら、字句通りに捉えるのではなく、十字架で裂かれたご自身の肉と流された血を、赦しの恵みとして感謝して受け取ることであると言えるでしょう。 しかし、自分の腹を満たすパンを求め、自分が信じることができるよう「しるし」を求め、何をしたら手っ取り早く永遠の命が手に入るのかと迫るユダヤ人たちには、イエスのこの言葉を受け取ることは難しいでしょう。 イエスは嘆きをもって、憐れみをもって、「そのままでは、あなたがたの内に命はない。 その命の源である神との関係は、生きた関係とはならない。」と執り成して祈っているかのように響いてきます。 このように否定的に語られたうえでイエスは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたその人のうちにいる。」と言葉を変えて言われる。 「わたしが父なる神によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」ようになると言われる。 「食べてなくなるようなものではなく、天から降ってきたパンを食べるなら永遠に生きる。」と言われているのです。 イエスは、越えることのできない神と人との間にある溝について厳粛にこの否定的な言葉で宣言されたのです。 そのうえで、起こり得ないはずのことが起こされた。 神と人との溝を打ち壊す救いの出来事が起こされた。 イエスのうちに留まること、イエスがその人のうちに宿ることが赦されるようになる。 イエスが神に生かされているように、その人もまたイエスによって生きるようになる。 そのことが、イエスと同じ命に生きるものに変えられる約束の言葉として語られたのです。
「心が燃えたイエスとの出会い」 ルカによる福音書24章28~35節
「一行は目指す村に近づいた。」とあります。 「一行」とは二人の弟子とイエスです。 「目指す村」とはエルサレムから歩いて3時間ぐらいの距離のところにあるエマオという村です。 二人の弟子は「イエスは行いにも言葉にも力のあるお方でした。 この方に望みを抱いていました。」と回想しているように、自分たちを解放してくださるお方であると希望をもち、エルサレムのイエスのもとにエマオから出かけて行ったのでしょう。 そこで、予想だにしなかったイエスの十字架の死に出くわしたのです。 「二人は暗い顔をして、エルサレムで起きたイエスの十字架の出来事を話し合い論じ合っていた。」と言います。 そこにイエスが旅人の姿をとって近づいて来て、一緒に歩き始められた。 歩きながら、やり取りしているその話は何のことですかと語りかけられたと言います。 二人は失望し、戸惑い、混乱している様子をありのままにこの旅人に答えるのです。 「自分たちを解放してくださるお方と期待していたナザレの人イエスが、祭司長たちによって十字架で殺されてしまった。 そのことがあってもう今日で三日が経った。 しかし、『そのイエスの遺体が墓の中にない。 イエスは生きておられると神の使いによって告げられた』と、仲間である婦人たちが知らせてくれたのです。 仲間の者が急いで墓へ駆けつけて見たけれど、婦人たちの言った通りであったと言うのです。 いったい、これはどういうことなのかと考えあぐねている。」と答えたのです。 二人の弟子は、起こされた出来事の過去に縛られて、今も「生きておられる」という常識では信じることのできない神のみ言葉に向きを変えようとしませんでした。 心が閉ざされて、共に歩きながら語り合っている旅人が墓の中からよみがえられた復活のイエスであることを見抜くことができなかったのです。
失望し、戸惑い、混乱してエルサレムから戻って来た二人にイエスは、「預言者たちが語っていたメシアとは、このような苦しみを受けて神の栄光に与るはずだったのではないか」と、歩きながら聖書全体にわたりご自身について書かれていることを説明されたと言います。 この旅人の話に、二人はかすかな光と希望を見い出したのでしょう。 先を急いでいる旅人に、「一緒にお泊りください」と無理に引き止めたと言います。 二人の求めに応じてイエスはその家に入られて、その家の主人に替わって「パンをとり、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」その時です。 「二人の目が開け、イエスだと分かった」と言います。 すると、イエスの姿は見えなくなったけれども、「そのイエスが共に歩いてくださった。 話しかけて尋ねてくださった。 聖書の説き明かしまでしてくださった。 その時、わたしたちの心は燃えた。」と二人は告白しているのです。 イエスとの出会いを体験していなければ分からないとしか言いようのない出来事です。 イエスが選んで共に歩いてくださって、呼びかけて説き明かしまでしてくださって、食卓をともにして祝福してくださったから分かった出来事です。 二人の弟子が、イエスを自分で探し出したのではありません。 どうして選ばれたのかも分からず、吸い込まれるようにイエスに引き込まれて、常識や理性では到底信じることができないようなこと、死んだ者が生き返って生きているという姿を目の当たりにさせられたのです。 二人はこの心の高まりを携えて、その日のうちに夜にも拘わらず、今戻って来た道をとって帰りエルサレムに戻ったと言います。 心が燃えてじっとしておれなかったのでしょう。 エルサレムに戻ってみると、そこでも「本当にイエスは復活して現れた」という証言が飛び交っていたのです。 悲しみで始まった旅立ちが、今や喜びと賛美に変わる新しい旅立ちに変えられたのです。 この今もなお生きておられるイエスは、何度も繰り返し私たちにも出会ってくださるのです。
「染みわたる神の熱い関心」 マタイによる福音書21章33~46節
この「ぶどう園と農夫」のたとえは、イエスの言葉尻を捉えて、訴える口実を見つけ出そうと狙っている祭司長たちに向けてイエスが語られたたとえです。 4人の登場人物がいます。 「ぶどう園を造ったある家の主人」、「その主人に仕える僕たち」、「主人からぶどう園を借りた農夫たち」、「主人の息子」です。 イスラエルの生活ではごく身近にあった「ぶどう園」、そのぶどう園を借りて収穫することを生業とする「農夫たち」は、イスラエルの民のごく普通の姿であったのです。 ぶどう園の主人は収穫の時が近づいた時、収穫を受け取るために僕たちを農夫たちのところに送ったのです。 ところが農夫たちは反抗を繰り返し、袋叩きに石で打ち殺したと言います。 最後に、自分の息子なら敬ってくれるだろうと主人に送られた息子もまた、ぶどう園の外にほうり出して殺したと言います。 イエスの十字架の死を知る私たちは、ぶどう園の主人は父なる神である、送られた息子はイエスご自身である、主人が遣わした僕たちは神がお遣わしになった預言者たちであると知っています。 この預言者たちの命も、神の子として遣わされたイエスの命も奪ったのは農夫たちである。 その農夫たちこそ、イスラエルの民を導くはずの祭司長たちあなたがたであると、イエスはこの「たとえ」によってその姿を浮かび上がらせていることがよく分かります。
問題は、この「たとえ」の直後に語られた、「さて、ぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか。」と祭司長たちに尋ねていることです。 予想された通り、「悪いのはこの農夫たちである。 主人はきっとひどい目に遭わせる。」と答えた祭司長たちに、「あなたがたは『家を建てる時に役に立たないと捨てられた石が、その家の中心となる礎の石となった。 これこそ、神がなさった驚くべき業である。 わたしたちの目には、不思議に見えることである。』(詩編118編22-23)と聖書に書いてあるのを読んだことがないのか。」と言われたことです。 祭司長たちが答えたように、農夫たちが責められるのは常識的な判断でしょう。 しかし、イエスは反論します。 常識を超えて働く、「わたしたちの目には不思議に見える」神の業がある。 聖書には、「捨てられた石が礎となる親石になる」と神の奇跡の業が語られている。 聖書に精通しているあなたがたこそ、この神の業に気づかなければならない。 罪に定められて当然と裁かれる因果応報の常識では測ることのできない、神の憐れみによって救い出される神の業がある。 いかなる人に対しても戻ってきなさいと、招いておられる神の業が聖書には書いてある。 過ちを犯している、自分の姿がまるで見えていない農夫たちにも、すべての人に対して熱い関心をもっておられる神の眼差しは注がれていると言われているのです。
イエスを十字架に架けて、殺して、自分の正しさを押し通したのは祭司長たち、すべてのイスラエルの民、そして私たちすべての人間です。 イエスは、父なる神が託してくださった「ぶどう園」を横領して、自分を主人の立場につけようとした怖れを知らないすべての人間によって殺されたのです。 そのイエスを、父なる神はご愛とご真実によって、「わたしたちの目には不思議に見える」神のみ業、み心によって「捨てられた石を親石に据えて」ひっくり返されたのです。 この神が注いでおられる熱い眼差しは、私たちが判断するものさしによって、その正しさによって左右されるものではありません。 神はすべての人を裁くことも、救い出すことも、新たに命を造り出すこともおできになるお方です。 私たちは託された「農夫」に過ぎません。 主人に取って替わることのできない者です。 この熱い神の眼差しによって、悲しみの極みが喜びの極みに逆転された出来事がイエス・キリストの十字架と復活です。
「聞かれる祈り」 ヘブライ人への手紙5章5~10節
この手紙の中に、「大祭司はすべての人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。」とあります。 「祭司」とは、神の側に立つ「預言者」とは異なり人々の過ちを理解し、その過ちを神に執り成す務めを果たす人間の側に立つ者です。 自分自身の弱さを身にまとい、人々と同じように弱さのゆえに犯した過ちを贖っていただくために、神に贖いの犠牲をささげる人間の側の代表者です。 この手紙では、「この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、神から召されて受けるのです。 大祭司は、自分自身の弱さのゆえに、民だけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げなければなりません。」とあります。 イエスもまた同じように、ご自分で「大祭司」になったのではなく、神からその務めが与えられたのだと言うのです。 その理由は、「肉において生きてくださった」からである。 「激しい叫び声をあげ、涙を流しながらご自分を死から救う力のあるお方に祈りと願いをささげられた」からであると言います。 そして、「神の子でありながら多くの苦しみによって従順を学ばれた」からである。 自分のためではなく、人間の弱さと苦しみを背負って歩まれた「その態度のゆえに祈りと願いが聞き入れられた」からである。 人間から始まって人間に終わって神のもとに立ち帰る、神に属する者という「完全な者」となられたので、すべての人々に対して、永遠の救いの源となったと言うのです。
イエスは、私たちと同じ肉体という制限を神の子でありながら背負われたお方です。 肉による壁によって神のみ心を感じ取ることのできないところにまで、降りてきてくださったのです。 激しい叫び声をあげ涙を流しながら、ご自分を死から救う力のあるお方に祈りと願いをささげなければならないところに置かれてしまった。 激しい心の動揺も経験して、怒りや苦しみや悲しみに、私たちと同じ感情に覆われてしまったのです。 十字架の処刑直前のイエスの「ゲッセマネの祈り」にその姿が顕れています。 「わたしは死ぬばかりに悲しい。 地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈った。」と言います。 「父よ、あなたは何でもおできになります。 この杯をわたしから取りのけてください。 しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と、「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた」のです。 イエスのこの激しい祈りは、最終的に神に聞き入れられませんでしたが、ヘブライ人への手紙はどうして、「イエスのささげた祈りと願いは、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」と言うのでしょうか。 神の子であるイエスは神の子でありながら、父なる神を見えなくする、父なる神のみ声を聞こえなくする人間の制約を理由もなく原因もなく背負わされたのです。 人間と同じように死んでいく生涯、神に見捨てられるという霊的な死を理由なく原因など認められず味わなければならなかった。 「わたしは死ぬばかりに悲しい。 この苦しみの時が自分から過ぎ去るように、この杯をわたしから取りのけてください。」と嘆願しつつ、それでも、「わたしの願いではなく御心のままに」と、人間の悲惨な極みを経験してくださったのです。 理由なき、原因なき仕打ちを、父なる神への祈りによって私たちの過ちの理由も原因も弱さもすべて抱えてくださったのです。 このことに気づかされた時、私たちに不思議な力が湧いてきませんか。 実態は何も変わらずとも、このお方が知り尽くしてくださっていると気づかされたなら、新しい力が湧いてきませんか。 このお方との出会いによってしか得られない新しい命に満たされた時、何とも言えない喜びに包まれ、祈りが聞き入れられたと不思議な実感があるのではないでしょうか。
「モーセの静かなる断念」 民数記20章1~13節
モーセは、ユダヤ人でありながら、赤ちゃんの時に拾われてエジプトの王宮で養い育てられた人物でした。 自分がユダヤ人であることを知らされたモーセは、同胞のユダヤ人がエジプト人の支配によって重労働に服していることに我慢がならなかったのです。 ひとりのユダヤ人がエジプトの監督者に傷つけられているのを目撃したモーセは、思い余ってそのエジプト人を殺害してしまった。 正義感の強かったモーセは、自分の正しさによって過ちを正そうとした。 しかし、モーセの引き起こした事件は、エジプトの法に従うしかなかったのです。 モーセはその発覚を恐れて荒れ野に身を隠すしかなく、諦めと無力さを背負いながら羊飼いの働きをしていたのです。 そこに、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。 それゆえ、わたしは降って行き、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へ彼らを導き上る。 今、行きなさい。 わたしはあなたを遣わす。 わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」と神のお声がかかったのです。 エジプトから命からがら逃げてきたモーセは神にしり込みします。 「わたしは何者でしょう。 どうして、イスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。 果たして、人々がこのわたしに従うでしょうか。 彼らに何と答えるべきでしょうか。」 当然のように質問したモーセに神は、「わたしは必ずあなたと共にいる。 このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。 わたしはあってあるという者だ。 そのわたしがモーセあなたをつかわすのだと言うがよい。」と短く答えられたのでした。
諦めと無力感に苛まれながら歩む日々のモーセがこの時初めて、赤ちゃんの時に拾われて養い育てられたエジプトこそ、神の大きなご計画の場所であったことに気づかされたのです。 その時の神の約束が、「わたしは必ずあなたと共にいる。 それが、わたしがあなたを遣わすしるしである。」という言葉であったのです。 今朝の聖書箇所は、そのエジプトから大群衆を引き連れてもうすでに40年近く経った頃のことです。 「なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。」と、不満、愚痴を繰り返す人々を忍耐強く導いてきたモーセです。 飲ませる水もなかった荒れ野でも、岩から水を出し人々と家畜に水を飲ませて養ったモーセです。 そのモーセに神は、この会衆と一緒に約束の地に入って行くことを拒絶されたのです。 人生の最終目的とまで思わされていた約束の地に入って行くことを、その地を目前にしてモーセはその願いを拒まれたのです。 それでも、この神の拒絶をモーセは受け容れて、自分が思い描いた目的の実現を断念しているのです。 モーセの人生の最後に神は、「これがわたしが誓った土地である。 わたしは、あなたがそれを自分の目で見るようにした。 しかし、あなたはそこに渡って行くことはできない。」と言います。 モーセはその地に入ることを神から拒絶されても、その死を前にしてもなお、神との間に安らぎと交わりを保つことができたのはなぜでしょうか。 「わたしは必ずあなたと共にいる。 それが、わたしがあなたを遣わすしるしである。」と言われた神の熱い眼差しでしょう。 この熱い視線を受けて歩むことのできた、喜びの人生体験でしょう。 神の決断とみ心は不可解のままであったとしても、この約束の体験が、モーセの確信を揺るがすことなく神への信頼を失わせなかったのでしょう。 この神の拒絶がなければ、願いや祈りが叶えられる都合のよい神に信頼していたとしても分からなかったかもしれません。 私たちの最初から最後まで熱い視線をもって捉えてくださっている神の側の確かさだけに、この新しい一年もまた委ねて信頼して共に歩んで参りたいと願います。
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