「わたしたちは日のあるうちに」 ヨハネによる福音書9章4節
「生まれつき目の見えない人」のいやしの「しるし」は、単に「目が見えるようになった」ということに止まりません。 弟子たちはこの盲人の姿を見て、何の躊躇もなく「だれが罪を犯したからですか」とイエスに尋ねています。 その姿を、「罪」というものに対する「神の裁き」と受け止めています。 ユダヤの指導者たちも、律法の定めに反した安息日の行いであったことから、「定めを守らない罪人」としてイエスを捕らえようとします。 もし、このイエスがメシアであると公言する者がおれば会堂から追放すると定めたがゆえに、この盲人の両親は恐れて真実を語りません。 しかし、最初は「目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」としか言えなかった盲人が、次第に変えられていきます。 問い詰めるユダヤ人たちに、「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで聞いたことがありません。 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と述べるまでに変えられた。 案の定、会堂から追放された孤独なこの盲人に、主イエスは再び出会い「救い主を信じるか」と呼びかけるのです。 この盲人の口から、「その方はどんな人ですか。 その方を信じたいのですが。」という言葉を引き出され、「あなたは、もうその人を見ている。 あなたと話しているのが、その人だ。」と言われ、盲人は「主よ、信じます。」と答えてひざまずいたと言う。 「信じます」という告白に変えられたその人に、イエスは「わたしがこの世に来たのは、見えない者が見えるようになり、見える者が見えないようになる。」と言われたのです。 「見える」という言葉が「信じる」という言葉に密接に繋がっています。 この盲人の周りに動めく人々の捉える「罪」、「神の裁き」、「行い」と、主イエスを通して働く「神の業」が捉えるものとの違いがよく分かります。 主イエスは、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。 わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」(14:11-12) これから起こる十字架によるこの世の「死」によって姿は見えなくなるが、あなたがたのもとに聖霊が送られ、霊によって生きるイエスが私たちの内に宿り共に働くようになる。 目が癒されるとは、イエスと共に神の働きが起こされるということ。 イエスの言われる「信じなさい」とは、イエスと父なる神との交わりの中に、死に至らない生きる命の中に入って来なさいという招きの出来事であったのです。 イエスは、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(6:29)とはっきりと語っています。 「信じることによって生かされる」、「与えられる新しい命、み言葉に生かされる」ことが、「神の業」だと言うのです。 「罪」とは、見るべきものが見えていない、聞くべき言葉を聞くことができない状態、神のもとを離れていることに気づかず、どこに向かって生きているのか分からない状態を言うのでしょう。 そこから神が救うがために取り分けられることを、聖書は「裁く」と表現しているのではないでしょうか。 イエスはたった一人の盲人のもとに遣わされた者として、その目が開かれるために、ご自身を信じることを求められました。 世の光であるイエスを信じる時、初めて見えてくることがある。 イエスを用いて闇の中から救い出す神として出会ってくださったのです。 イエスと出会い、イエスの光に照らされ、自分の本当の姿を見つめることです。 イエスの光の前に立ち続け、共に歩んでくださるイエスを見失わないことです。 罪の赦しを与える神の救いの業があることを、未だ見ることも、聞くこともできない人々に伝え、証しすることです。 それらのことは自分の力ではなく、聖霊によって支えられると言うのです。 「日のあるうちに」私たちを用いて、今もって漂う人々を招いておられるのです。
[fblikesend]「神共にいますというしるし」 イザヤ書7章3~14節
イザヤが遺した「インマヌエル預言」が、新約聖書の時代にマタイによる福音書の中心的なメッセージとしてよみがえっていることに目を留めたい。 イザヤ書は当時の南ユダ王国の人々の姿を、「ぶどう畑」に譬えて、「わたしの愛する者は、肥沃な丘に ぶどう畑を持っていた。 よく耕して石を取り除き、良いぶどうを植えた。 その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り 良いぶどうが実るのを待った。 しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。 わたしがぶどう畑のためになすべきことで 何か、しなかったことがまだあるというのか。」と歌います。 ヨハネによる福音書(12:40)では、「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。 こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。」というイザヤが語るべき言葉は、神の厳しい御言葉であったと言うのです。 イザヤにとってみれば、「主よ、いつまで語るのでしょうか。」と尋ねるのが精いっぱいであったのでしょう。 それに対する神の答えは、すべてが奪い去られて、もはや自らの力では立ち直れないところにユダの人々は立たされる。 そこから初めて、イザヤを通して語られた神のみ言葉が、ユダの人々に聞き直される時がくる。 そこに立たされて初めて、新しい命が育まれていく。 「それでも、切株が残る。 その切り株とは聖なる種子である。」、神のみ心が刻まれた大切な命が残されている。 これがイザヤ書の中心メッセージです。 イザヤは、「落ち着いて、静かにしていなさい。 恐れることはない。」と、神に頼ろうとせず、自分の策と知恵、アッシリア帝国という目に見える力に頼ろうとするアハズ王に勧告するのです。 同時に、「あなたの神にしるしを求めよ。」と、真の助けが最もふさわしい時に授けられることに目を向けさせようと命令を降すのです。 しかし、アハズ王はこの先どうなるのか見通せない神の勧告よりも、目に見える一時的な安定と安らぎを求めてしまうのです。 そこでイザヤによって、「わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。」と言い、そのしるしこそ、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」と、「インマヌエル」(神共にいます)というメシア預言が出てくるのです。 神のみ言葉に聴こうとしない、目の前の敵を撃退するがために、もっと危険な敵に頼ってしまうという愚かさを示すことになったアハズ王に替わる新しい王の誕生をイザヤは望んだのかもしれない。 続いて即位する王もまた同じ過ちを犯し、希望を失いかけたイザヤは、主なる神による救いを求めてついに、11章1-2節において、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。 知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。」という、主の霊の注がれる真の救い主、メシア預言を「インマヌエル預言」として確信をもって語り始めたのです。 この預言がイザヤの生前にはユダの人々には響かず、失意のうちに40年間にわたる預言活動を終えたイザヤの死後、700年経った後、新約聖書の時代のマタイによってイエス・キリストの誕生の意味を、この「インマヌエル預言」に新しいイスラエルの誕生という希望の光を見出した。 イエス・キリストこそメシア、救い主、神の子の誕生の知らせだと聞き始めたのです。 この間の神の忍耐と、残された聖なる種子の働きによって、人々は神の預言の言葉を噛みしめ、味わったのです。 私たちは一時的な安らぎ、見えている安価な助けを求めるのではなく、「神共にいます」という呼びかけに、共に歩んでくださる神を、私たちのうちに受け入れて宿すことです。 主イエスは「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われたとマタイは福音書を締めくくっているのです。 主イエスの御言葉に生かされているという確信と安らぎのうちに、神の前に立ち続け、自分の姿を教えていただくことです。
[fblikesend]「クリスマスが訪れた後」 マタイによる福音書2章13~15節
遥か遠い東方の国の占星術の学者たちは、「ユダヤに新しい王が生まれた」と見て取って、確かめるためにユダヤを訪れたのです。 その知らせを素早く知ったユダヤの領主ヘロデは、「祭司長や律法学者たちを皆集めて問いただした。 その学者たちをひそかに呼び寄せ、見つけるように頼んだ。」と言います。 「星が先だって進み、幼子のいる場所の上に止まった。」と言いますから、学者たちがなぜエルサレムに寄り道をし、「ユダヤ人の王はどこにおられますか」と尋ねたのか疑問が残ります。 ヘロデ王は自分のためなら、自らの妻も親族も子供たちまでも処刑するという残酷さをもっています。 「ヘロデのところに帰るな」と神に告げられ、別の道を通って自分たちの国に帰った学者たちに騙されたとヘロデは知って、ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を一人残らず殺させたと言います。 そうしたことを背景に、「ヘロデが、この子を殺そうとしている。 起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。」と夢で神に命じられるのです。 ヨセフは、婚約中のマリアが聖霊によって身ごもっていることが明らかになった際、「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうとした」のです。 自分の正しさに心が奪われ自分の身を守ろうとする一方、マリアをかばおうともするのです。 そのヨセフに神は、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。 マリアは男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。 これは、預言者を通して言われていたことが実現するためである。」と夢で告げられるのです。 この時を境にヨセフは一転して、迷いながらもマリアを守り抜く決断をするのです。 夢から覚めたヨセフは、「起きて、夜のうちに幼子とその母マリアを連れてエジプトの地へ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。」と言います。 どれほどの期間がかかるのか先行きが見通せないままに、神のみ言葉に生きていこうとするのです。 マタイによるイエスの誕生の出来事は、このヘロデとヨセフの真の姿を鮮やかに浮かび上がらせています。 占星術の学者たちは、ヘロデという殺す側とヨセフという殺される側の間に立った人たちです。 学者たちは、星の輝き、神の導きだけに頼らず、エルサレムの人々に頼ろうとした。 私たちは迷いや思い煩いから、頼ってはならないものに一時的な安らぎを求めてしまう。 また、ヨセフにとってみれば、イエスを救い主として受け入れるということは、人生の根底が覆されるということでした。 マタイは、これがひとりの乳飲み子との出会いであった。 主なる神のご計画のためにヨセフが用いられて、生まれたばかりのイエスの命はヘロデから守られたと言うのです。 ヨセフを通して、占星術の学者たちを通して、またヘロデを通して、私たちが持ち合わせている本当の姿を様々に浮き彫りにしているのです。 それらの姿が強くなったり、弱くなったり、現れては消え、消えては浮かび上がってくるのです。 ヘロデが特別の悪人でしょうか。 自分の身のため、自分の欲のため、程度の差こそあれ、同じようなことがこの世の歴史の中で繰り返されています。 何もすることのできない乳飲み子が、それぞれの人物の真の姿を映し出すのです。 このお方が、「神共にいます」というインマヌエルの神として宿ってくださるとマタイは語るのです。 マタイの語るクリスマスは、このインマヌエルの神との出会いであったと言います。 イエスにおいて起こされることは、神ご自身が予め決意し、準備して起こされたことであるはずです。 私たちがこのイエスと共にある限り、神がご計画し、約束されたことだけが起こるはずです。 神が決意し、準備された恵みを受け取ろうとしない私たちの頑なな反発と、それに対する神の忍耐があるのです。 神は私たちの側の状況に関係なく、神ご自身の約束に対する「真実」を貫いておられるのです。
[fblikesend]「この目で見た救いによる慰め」 ルカによる福音書2章22~35節
次々と、神のみ言葉通りに事が進んでいく「世界で最初のクリスマス」の出来事に、ルカによる福音書は賛美に溢れています。 主の天使たちの「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」という賛美が起こされ、ザカリアにも賛歌が生まれ、マリアにも賛歌が生まれ、「お言葉どおり、この身に成りますように」と身を委ねる覚悟をするのです。 羊飼いたちにも、「見聞きしたことがすべて天使が話したとおりであったので賛美が生まれたのです。 主イエスが生まれて40日が経過した時のことです。 イエスの両親はモーセの律法の定めに従って、神殿に向かったと言いますから、がんじがらめの律法の定めの中、そして、そのささげものが「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽」と言いますから、イエスは貧しさの中に生まれてくださったということです。 そこにシメオンという人物が登場します。 「正しい人、信仰があつい人、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた人、聖霊がとどまっていた人」そして、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた人。」と紹介されています。 直訳すると、「主からのメシアを見る前には死を見ることはないと聖霊から約束されていた人」となります。 生きている間に「メシア・救い主」に出会うと聖霊によって約束されていたということです。 大勢の人で混み合う神殿に、イエスの両親は律法に従って幼子イエスを伴って境内に入って来た。 一方、シメオンもまた、聖霊に導かれて神殿の境内に入って来た。 シメオンはなぜか、人混みの中にいるイエスの両親に抱かれた幼子が、シメオンの目に留まった。 その両親に近寄って来て、その幼子をシメオンは抱いたと言います。 聖霊の導き、神のみ言葉による働きのとおりに進んでいく神のご計画でなければありえないことでしょう。 偶然の出会いとは思えません。 その時、シメオンは「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。」と言ったという。 シメオンに与えられていた務めは、主が遣わすメシア、主なる神の救いの働きを見て神を賛美することでした。 シメオンは、「わたしはこの目であなたの救いを見た」と言い、「万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」とまで言うのです。 シメオンには聖霊が宿り、すべてが見えていたのでしょう。 イエスの両親に、「主のみ言葉どおりに進んでいることを目の当たりにすることができる者は幸いである。」と祝福すると同時に、「信じることのできない者にとっては躓きの石となり、信じて受け入れる者には隅の親石となる。」と預言するのです。 もうひとつには、シメオンは神のみ言葉を信じて、この世においても「救い」がもたらされると期待し、準備をし、その救いを待ち望んでいた人です。 シメオンは「死」を待っているのでも、「死」に向かって生きているのでもありません。 聖霊を内に宿して、それに導かれて、「救い主」に出会い、抱きかかえた人物です。 この幼子を「救い主」として誕生させ、十字架に架けて復活させる、神のご愛がすべての民を覆いつくすという「救い」による「慰め」を、まだ霊の目によって見ることのできないマリアとヨセフに告げた最初の証人なのです。 復活の際のエマオに向かって傷心の旅を続けていたふたりの弟子たちと同じです。 霊の目が開かれた二人は、時を移さず、エルサレムに急ぎ立ち戻って、故郷で復活されたイエスを見聞きしたことを告げ知らせようと賛美しながら元の場所に、新しい務めを帯びて戻って行ったのでした。 「主を賛美するために民は創られた。」(詩編102:19)と言われているとおりです。 私たちもまた、霊の目が開かれるなら、「主イエスを見た。 味わった。 御言葉どおりであった。」と賛美する「主イエスの救いの証し」の姿に変えられるのです。
[fblikesend]「誰にも知られなかった神の働き」 ルカによる福音書2章8~20節
幼稚園の園児たちが演じた「クリスマスページェント」が、保護者と教職員の方々の感激を誘っています。 サンタやツリーやケーキやプレゼントではない「世界で最初のクリスマス」の思いもよらなかった驚きと喜びに満たされているように感じます。 果たして多くのキリスト者が同じように、年中行事ではないクリスマスに新しい驚きと感激と喜びを感じ取っておられるだろうか、人間として生まれてくださった主イエスと新しく出会っておられるだろうかと思わされます。 ルカは主イエスの誕生の出来事が、ローマ帝国最初の皇帝アウグストゥスの時代、その皇帝からの住民登録の勅令が発せられた時、ヨセフとマリアという二人の住民登録のための移動の途中、ベツレヘムというダビデの町の家畜小屋において起こされたと詳しく記します。 この出来事を最初に知らされたのは、先祖代々受け継がれてきた「メシア」の誕生を待ち焦がれていたイスラエルの多くの人々ではなく、「野宿しながら夜通し羊の番をしていた羊飼いたちであった」と言うのです。 イザヤは神に信頼しようとしないアハズ王に絶望し、「王によってもたらされる平和」ではなく、「神によってもたらされる平和」を祈り求めるのです。 それが11章の預言です。 「彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。 目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。 弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。 その日がくれば、エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。 そのとどまるところは栄光に輝く。」とメシア預言をするのです。 ルカはこの700年前のイザヤのメシア預言の中に、イエス・キリストの誕生を見るのです。 イエスはこのイザヤの巻物を開かれ、「主の霊がわたしの上におられる。 貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。 主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。 この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」(4:18-21)と語られたのでした。 主イエスの誕生は、深い暗闇の中に、諦めが漂うだれも声をかけられない沈黙の中に、夜通し羊の番をしていた羊飼いたちに最初に告げられたのです。 ありふれた羊飼いたちの日常生活の中で、今まで何も見えていなかった夜の暗闇を主の栄光の輝きが照らし出した。 誰からも呼びかけられなかった沈黙を破って神の呼びかけが真っ先に響いた。 恐れた羊飼いたちに、「恐れるな。 わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたの救い主がお生まれになった。 この方こそメシである。」と、700年前にイザヤによって語られた神の約束が今や果たされたと告げ、これが「最初のクリスマス」の夜の光景であったとルカは語るのです。 「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるだろう。 これがあなたがたへのしるしである。」と言われ、羊飼いたちは神への賛美を聞いて動き出した。 「さあ、ベツレヘムへ行こう。 そのしるしを見ようではないか。」 羊飼いたちは、「すべて天の使いの話したとおりだった。」ことを見聞きし、今度はそれを人々に知らせるまでになった。 ごく限られた人たちに託された神の隠された働きであったとルカは語るのです。 人の前ではなく、神の前に生きるように変えられる。 神はひとりひとりの名を呼んで、主イエスに出合わせ、それぞれに託された務めを終えて、私のもとへ帰ってくるようにと招いておられるのです。 クリスマスとは、「飼い葉桶」に寝かされた主イエスを自分自身が迎え入れる日、自分自身の救いを事実として受け取り、味わって、その確信を「さあ出かけよう、さあ戻ろう」と証し始める喜びの日であるのかもしれません。
[fblikesend]「新しくされるもの」 ルカによる福音書1章5~20節
ルカによる福音書だけが主イエスの誕生の直前に、バプテスマのヨハネの誕生の次第を記しています。 バプテスマのヨハネは、「最期の預言者」とも言われています。 それと同時に、「最初の主イエスの証人」とも言われています。 ヨハネ自身は「悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。 その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。」 「自分はメシアではない。 自分はあの方の前に遣わされた者だ。 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」と告白するのです。 ヨハネの父親はザカリアと言い、多くの祭司のうちの一人です。 母親はエリサベトと言い、子供が与えられず、すでに子をもてる年齢を越していた。 二人は熱心に「子を与えてくださるように」と神に祈っていたと言います。 ある日、ザカリアが祭司の務めを行っている際に、「主の天使が現れ、それを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」と言います。 神と出会うことを願っていなかったのでしょうか。 神の使いは恐れるザカリアに、「恐れることはない。 あなたの願いは聞き入れられた。 あなたの妻エリサベトは男の子を産む。」と告げられたのです。 今になって自分の子どもが与えられると告げられてもにわかに信じることのできなかったザカリアは、「何によって、それを知ることができるでしょうか。 わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」と神に迫ります。 長い間祈って待っていたのに、子供を与えてくださらなかった神に、その「しるし」を見せてくださいと迫るのです。 神が約束されたことは、私たちの信念や努力によって果たされるものではないでしょう。 神の恵み、深いみ心から生まれ出てくるものでしょう。 神が何も働いていないように思わされる時が、人生の節々では必ずあります。 苦しみや悲しみの只中で、神が共におられることを忘れてしまう時があります。 右往左往し漂う私たちとて、後で神が変わらず働いてくださったことに気づかされる時があります。 共にいてくださったことを思い起こす時がくるのです。 そのような神に事実として出会い、受け入れ、信じる時が必ずくるのです。 私たちは神を信じることができたから、救われたのでしょうか。 信じることのできなかったザカリアに、神はザカリアの口を閉ざすという「しるし」を与えられたのです。 ザカリアが神の約束を信じなかった罰として、この「しるし」が与えられたとは思えない。 むしろ、神の約束を信じる者へと導くための「しるし」でしょう。 神の使いは、「この事の起こるまで話すことができなくなる。 時がくれば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」と告げ、その時が来ればあなたは新しくつくり変えられると言われたのではないでしょうか。 神が告げたとおり、妻エリサベトは月が満ちて男の子を産み、人々は喜び合い、口のきけないザカリアは字を書く板に、「この子の名はヨハネ」と神の使いに言われたとおり書いたと言う。 約束のみ言葉が事実としてザカリアの心に刻まれた瞬間ではなかったでしょうか。 新しくつくり変えられたザカリアの口は開かれ、神への賛美とわが子の務めを預言するまでになったのです。 この直後にマリアにも主イエスの誕生が告げられ、新しく整えられたエリサベトが、挨拶に来たマリアを自らの体験から力強く励ますのです。 私たちの神は一人一人の名を呼んで出会って、それぞれにふさわしく祝福に招いてくださるお方です。 私たちにとって不都合な受け入れ難い出来事と思わされても、神の周到な準備と隠されたみ心と働きが込められているのです。 しっかりと神の約束を受け取って、支えられて、神のみ子イエスを仰いでご一緒に歩んで参りましょう。 神がみ心を込めて贈り届けてくださっているものを、私たちが受け取り損ねている神の側の忍耐があることを忘れてはならないのです。
[fblikesend]「クリスマスの喜びとは」 ガラテヤの信徒への手紙4章1~7節
旧約聖書では、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」と言われる。 偉大な指導者モーセが神から召命を受けた際には、「モーセよ、ここに近づいてはならない。 あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」とまで言われ、モーセは恐れて顔を覆ったと言う。 ほど遠い存在であるかのように思わされる神が、今やイエス・キリストによって語りかけてくださっている神、だれ一人例外なく出会い味わうことのできる「近しい神」であるように思わされます。 創世記の最後には、イスラエルの人々がエジプトに移り住んだ経緯が記されています。 アブラハムに神が約束したとおり、イスラエルの人々は力を持ち始めエジプト中に溢れるまでになったのでした。 その脅威を感じたエジプト王は、イスラエルの民に強制労働を課し、奴隷として苦しめたのです。 ついには、イスラエルの民の出産に対し、男の子を殺すという命令を降すまでになったのです。 そのような時に生まれたのがモーセでした。 モーセの両親はその誕生を三か月間隠していたと言います。 隠しきれなくなった母親は、パピルスの籠に防水の処置をしてその中に赤ちゃんを入れ、ナイル川の葦の茂みの間に置いた。 自分の力ではどうすることもできないこの赤ちゃんの行く末を主に委ね、自分の娘に遠くから様子を見させていた。 その赤ちゃんを拾い上げたのが、そこで水遊びをしていたエジプトの王女であったと言います。 その赤ちゃんがイスラエルの赤ちゃんだと分かった王女は不憫に思い、王女の子どもとして育てるようになった。 その様子を一部始終見ていた姉が「イスラエル人の乳母を呼んで参りましょう」と言い、実の母親を連れてくるのです。 モーセはその幼少期、エジプトの王女から委託を受けて、実のイスラエル人の母親の手によって育てられるという数奇な道を歩むことになるのです。 エジプト王は、ナイル川を赤ちゃんを投げ込む殺戮の場としたが、神はその川から赤ちゃんを救い上げ、命を救い、エジプト王の宮廷の中で教育を受けさせ、指導者としてふさわしい器として育てるのです。 切羽詰まった母親の選択の中にも神は共におられ、見えていないところでご自身の救いの約束のために働いておられるのです。 この「ほど遠い神」がたった一人の人物を選び出し、イスラエルの民の奴隷状態から解放の恵みを与えようとして用いられるのです。 パウロは新約聖書の時代に生きるキリスト者として、神のみ子でありながら人として遣わされた主イエスを通して、「ほど遠い神」から「近しい神」への大転換の喜び、クリスマスの喜びを語るのです。 私たち人間が神の恵みにふさわしくなったからではなく、神ご自身の恵みと憐みによる真の救いの出発点が、主イエスの出現、クリスマスの突然の出来事であったとパウロは語るのです。 福音の恵みとして、神の国の世界から神がみ子を遣わした。 同時に、人の世の世界の「女性から」、またこの世の人々が縛られていた「律法の下に」、そして神の国の世界とは相容れないこの世の諸霊の支配の真っ只中に、この世の人間と同じ子として神のみ子が生まれ出たと言うのです。 「律法の支配下にある者を贖い出すため、わたしたちを神の子となさるため」に現れ出てくださった。 これが神の救いの出来事の始まりであったと言うのです。 この喜びは主イエスがなされていたように「父よ」と呼びかけることができる喜びだとパウロは言います。 律法の下にあった厳しい神であるからこそ、「ほど遠い神」から味わい触れることのできる「近しい神」へと大転換された喜び、恵みとしか言いようがない喜びにパウロは満たされているのです。 「あなたはもはや奴隷ではなく、神の子です。 神の子であるなら、この世の諸霊に支配されている只中において、神によって立てられた相続人である。」と言うのです。 神の子となった喜びは、この世の諸霊に覆われている所にこそ指し示すことができるのではないでしょうか。
[fblikesend]「ダビデのひこばえ、輝く明けの明星」 エレミヤ書23章1~6節
新約聖書では、旅の途中で宿るところもなく、神の子イエスが家畜小屋で生まれた。 その時、神の使いが近寄って来て主の栄光をもって周りを照らし、「恐れるな。 わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。 この方こそ主メシアである。 あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。 これがあなたがたへのしるしである。」と告げられたのでした。 メシアが父なる神から届けられた。 それが大きな喜びに変えられる。 それも民全体に対して、分け隔てなく一人ももれなくです。 神に真っ向から敵対し神ならぬものによりすがっていた民に向けて、それでも神が民を救うために神の裁きのもとに降るメシアが与えられるという預言が、目に見える形となって届けられたと告げるのです。 BC七百年代に預言者として神より召命を受けたイザヤは、神の厳しい裁きが下されると示すと同時に、神に信頼する「残された者」がいると希望をも語るのです。 その確信が、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。 彼は主を畏れる霊に満たされる。 その日がくれば、エッサイの根は、すべての民の旗印として立てられる。」と言うのです。 約七百年の時を経て、イエス・キリストの誕生という「しるし」に、神のご愛と神の裁きが結実したのです。 一方、エレミヤはイザヤから送れること約百年後の時代に生きた神に選ばれた預言者です。 あまりにも現実をありのまま見つめようとするエレミヤは、希望を語ろうとしない悲観論者に見えてしまう。 しかし、エレミヤは物事の両面を見ていて、神の厳しい裁きと共にその背後にある大きな神のみ心に目を向けるのです。 もし、イスラエルの民が神に固くつながっているのであれば、たとえ国が滅んでも、イスラエルの民は滅ぶことはない。 イスラエルの民が敵国バビロンに捕囚として移動させられたとしても、彼らを通して神が蒔かれた種は、その自らの命でもってその芽を出し実を結ぶ。 異教の地であってもその実を刈り取って新たな群れを起こしていくはずである。 エレミヤこそ、国の滅亡をむやみに悲観することなく、事実を事実として希望的に見て、現実を遥かに超えたところにある神の力と知恵を確信していたのではないかと思わされるのです。 「群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。 彼らを牧する牧者を立てる。 群れはもはや恐れることも、脅えることもなく、また迷い出ることもない。 ダビデのために正しい若枝を起こす。 その名は『主は我らの救い』と呼ばれる若枝を起こす。」と言うのです。 このエレミヤの信仰こそ、現実の苦しみや悲しみに真正面から向かい、事実を事実として味わうことから滲み出てくる希望なのではないでしょうか。 イザヤもエレミヤもクリスマスの出来事を予告した預言者でした。 主イエスが訪れてくださった新約聖書の時代を恵みにより与えられた私たちは、苦悩の中に主イエスの誕生を見つめ続けてきた旧約聖書の時代の預言者たちの苦しみと悲しみ、あまりにも厳しい神の裁きのうえに立った、恵みとしか言いようがない救いの業であることを忘れてはならないのです。 すでによみがえられてすべての人に対して招き続けておられるイエスの「わたしはダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」というみ言葉が響きます。 神の裁きのもとに自ら進んで降って死んでくださったイエスです。 新しく霊なる命に生きる存在となられて、今もなお私たちに働きかけてくださるイエスです。 暗い夜を過ぎ去らせ、新しい朝を備えてくださるイエスです。 「恐れることも、脅えることもなく、また迷い出ることもない。」と言われる主イエスに、今年のクリスマスもまた出会い、触れて味わうことができますよう心より願います。
[fblikesend]「まだ見ぬ恵みの種」 マルコによる福音書4章26~32節
ユダヤのなじみ深い何気ない日常生活に関わる二つの「種のたとえ」です。 イエスは、「人々の聞く力に応じて、多くのたとえで御言葉を語られた。」とあります。 人々のあらゆる病いを癒すという奇跡をもって、あるいは当時の人々にとっては衝撃的な教えをもって神の福音の恵みを宣べ伝えておられたイエスは、その締めくくりの言葉として「たとえ」を語られていたのかもしれません。 しかしイエスは、「たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。」とも言います。 見えにくい神の恵みの支配を示すために、見えていない神の国を見えるようにするために「たとえ」をもってなぞらえるのでした。 捉える力も、見抜く力も乏しく貧しい者であっても、イエスを通して語られるみ言葉を受け入れるなら、イエスを信頼する心が与えられるのなら、見えないものが見えるようになる。 聞こえていなかったものが聞こえるようになる。 イエスの弟子となって、イエスを主と迎え入れるなら、はっきりと見えていない神の国、この奥義の秘密が明かされると言うのです。 「成長する種」のたとえには、「神の国は次のようなものである」と言い、「からし種」のたとえでは、「神の国を何にたとえようか」と言い、目に見えない神の恵みと憐みが支配している世界を譬えようとしています。 この直前にイエスが語られた「種を蒔く人」のたとえでは、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている。 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。 この御言葉を聞いて受け入れる人たちは多くの実を結ぶ。」と言います。 もうすでに「種」である神のみ言葉はあらゆるところに蒔かれている。 蒔かれた場所には、「種」の成長を阻む力、「種」を奪う力が働いている。 せっかく蒔かれた「種」を手離し、見失うという弱さも働く。 それでも「種」を蒔く人は、収穫される実がなると信じて蒔いている。 手入れをし、成長することを祈り、待ち続けている。 最初は小さな存在が、大きく養われて、形を変えて想像もつかないほどの実となっていく。 なぜなら、神が「種」に命を注ぎ、育て、実を結ぶことを約束されているからだと言うのです。 イエスこそ、私たちの中に蒔かれた福音の「種」です。 「わたしにつまずかない人は幸いである。」と言われている。 イエスの語られるみ言葉を自分に語られる言葉として受け入れるなら、神の恵みが支配されている世界をはっきりと見ることができるようになる。 目の当たりに味わうことができ、「天地は滅びるが、わたしの言葉は滅びない。」というみ言葉に立つことができるようになると言うのです。 「成長する種」のたとえでも、人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する。 しかし、種を蒔く人は、それがどうしてそうなるのか知らない。 「まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」というプロセスを経ている。 「成長させてくださったのは神」なのです。 「種」という神の言葉には命が隠されていて、神のみ心に従って事は進み実がなっていくのです。 最初は「からし種」のように小さな存在も、成長すると大きな存在に変えられる。 イエスは、「人々の聞く力に応じて」、「種」の成長の謎と、成長の大きさを説き明かし、最もふさわしい「時、ところ」で神が約束を果たしてくださると語るのです。 すでに種は蒔かれている。 その種がなぜ成長するのかその理由は分からない。 しかし、やがて豊かな実がなるという神の約束が種には込められている。 私の弟子であるなら、その「種」を持ち運ぶことも蒔くこともできる。 神の働きに委ねて、いずれ育った実を収穫し、感謝して受け取ることもできる。 命をも左右することのできる神の働きの一端を味わい知ることができるようになる。 「隠されたもので、顕れ出ないものはない。 目に留まらないような小さな現実の中にこそ蒔かれた種がある。」と言われるのです。
[fblikesend]「力強く苦難に向かうイエス」 ヨハネによる福音書18章1~9節
「イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。 そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。」とあります。 他の福音書は、このオリーブ山のふもとにある園をゲッセマネと呼び、「苦闘の祈り」をイエスがささげられたと言います。 「わたしは死ぬばかりに悲しい。 父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 しかし、わたしの願いではなく、御心のままに。」と祈られたと記されています。 しかし、ヨハネによる福音書は、この「ゲッセマネの祈り」は語られておらず、むしろ、「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」と、苦悩の祈りの葛藤は克服されたものとして、自ら引き受ける決意の強さを感じさせるのです。 「イエスは弟子たちと共に度々、この園に集まっておられた。 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。」と言います。 この直前の最後の晩餐で、イエスは「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。 わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ。」と言われ、ユダにそのパン切れをお与えになり、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい。」と言われ、ユダはそのパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。 夜であった。」と言います。 このような顛末があるなら、危険からご自身の身を守るためには、いくらでも逃げ延びることができたでしょう。 どう考えても、イエスは逃げるためではなく、捕らえられるためにユダもよく知っている場所に出向かれたとしか言いようがありません。 逮捕され、裁判にかけられ、十字架に処刑され、命を奪われることを承知のうえで、人としての苦難を敢えて自ら選び取られたイエスのお姿。 先が見えておられ、最も危険な行動を自ら取り、捕らえられるところに自ら進んで身を置かれた無防備なイエスのお姿に映るのです。 そこに、手に松明やともし火や武器を持っていた兵士たちが、ユダに導かれてやってきます。 「暗闇」の中に出て行ったユダが、再び、「暗闇」のような大勢の存在を引き連れてイエスのもとにやってきた。 イエス自らが「暗闇」の真っ只中に身を置くことによって、私たち人間の「暗闇」が引きずり出されるのでしょう。 「イエスはご自分の身に起こることを何もかも知っておられた。」と言います。 もうすでに、父なる神のご意志とご計画の中にあること、動かし難いものとしてイエスの心に受け止められていたのでしょう。 「だれを探しているのか」と兵士たちの前に進み出て、兵士たちが「ナザレのイエスだ。」と答えると「わたしである。」と答えたと言います。 かつてモーセに「わたしはあるという者だ。」と答えられた父なる神の名を、ここで、この時に、ご自身を表すものとしてイエスが答えられたのです。 これを聞いた兵士たちは、「後ずさりして、地に倒れた。」とあります。 他の福音書では、このような状態に「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」と言いますが、このヨハネによる福音書では、イエスご自身が弟子たちを逃れさせたと言います。 「それは父なる神が与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」というイエスの御言葉が実現するためであったと言います。 イエスが立ち向かって進み出られたのは、兵士たちの前ではありません。 イエスは人間による裁きのためではなく、父なる神の御心を果たすための裁きの前に進み出られたのです。 そして、あらゆる人々を、この裁きから立ち去らせるようにと父なる神に向けて、とりなしの祈りをささげ続けてくださっているのではないでしょうか。 イエスご自身を裁きの場に立たせようとされているのは、父なる神です。 イエスはその父なる神に向けて、ご自身と同じ裁きの場に立たせないでくださいと祈ってくださっているのです。 罪のない神の子であるイエスが、その「神の怒りの杯」を飲み、本来飲むべきはずの杯を私たちが免れているのです。
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