「イエスの声を聞く体験」 ヨハネによる福音書16章25~33節
イエスがこの世を去るにあたり、愛する弟子たちに語られています。 イエスご自身が十字架に架けられる前日、最後の晩餐の席上でのことです。 この直後には、ユダに導かれてイエスを捕らえるために兵士たちがやってくる差し迫った場面です。 イエスは、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。 あなたがたは悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。 あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。 その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。 あなたがたは喜びに満たされる。」と言われていた。 弟子たちは「これはいったい何のことだろう」と分からないでいた。 イエスと弟子たちとの思いの大きな隔たりには、50日間の産みの苦しみが必要でした。 この直後に訪れるイエスの処刑の出来事、自分たちを守り支えてくださるはずのイエスがこの世の支配に降り、余りに無力な敗北の姿を弟子たちは目の当たりにせざるを得なかったのです。 絶望のうちに家の戸に鍵をかけ閉じこもっていた弟子たちの前に、イエスは復活した事実を幾度となく表し、今までと変わりなく約束通り呼びかけてくださった。 そして、50日後に聖霊が弟子たちそれぞれに注がれて、恐れていたこの世の支配者たちに堂々と語る力を得て、「あなたがたが十字架につけて殺したナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。 わたしたちは見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」と語り始めたと言うのです。 イエスは最後の晩餐の席上で「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」と言われた。 父なる神を知るようになるその時、あなたがたはわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じることができるようになる。 父なる神の温かいご愛に触れることになると、イエスは弟子たちに約束されたのでした。 この約束に弟子たちは、「これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」と答えたと言う。 この弟子たちの精いっぱいの信仰告白にイエスは、「今ようやく、信じるようになったのか。」 あなたがたの神の理解には限界があると言う。 私たちの「分かった」と言う理解が、私たちの信仰を生み出していくのではない。 まだ起きていない出来事を前にして、「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時がくる。 いや既に来ている。」と言われる。 愛する弟子たちさえも、イエスを見捨ててイエスのもとを離れてしまう。 これが、私たちの現実、歴史的事実です。 イエス御自身も、私たちと同じ肉体を背負ってくださって、この限界と弱さを担ってくださったのです。 「しかし、わたしはひとりではない。 父が、共にいてくださるからだ。」 この父なる神との交わりなくして、この世の歩みを果たすことができないと言われるのです。 イエスは愛する弟子たちに対し、その信仰の不徹底を叱責されてはおられない。 むしろ、「あなたがたには世で苦難がある」と心配しておられる。 今、私が父なる神と共にあるという確かさによってしか、その限界と弱さを克服することができないように、あなたがたもまたこの私を通して父なる神との交わりに招かれている。 「勇気を出しなさい。 わたしは既に世に勝っている。」と愛する弟子たちに呼びかけておられるのです。 イエスがこの世を去るにあたって、この世の有限や弱さと、神の国の無限や真の強さの間にある、決して混じり合うことのない峻厳なる事実が、私たちに恐れと絶望を引き起こすのかもしれない。 「しかし、勇気を出しなさい。 神ご自身が自ら、神の世界のものとこの世のものが混じり合うことのないことをはっきりと知らせる時が来た。 恐れることはない。 一緒に神ならぬものから解放されて、父なる神のもとに戻って行こうと招いてくださる呼びかけを聴く体験が与えられているのです。
[fblikesend]「赦されている私たち」 ヨハネの手紙一2章1~11節
「徴税人の頭であり金持ちであった」ザアカイはなぜイエスに呼びかけられたのでしょうか。 「徴税人」とは、人々からお金を搾取し私腹を肥やしていた人物で、その元締めですから「罪人の代名詞」でした。 「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とイエスが言われたように、神から最も遠い存在であったのです。 ザアカイにとってみれば、単なる好奇心からであったかもしれない。 「イエスを見るために走って先回りをして、木に登って待っていた。」 そこにイエスが差しかかると、「木の上を見上げて、ザアカイ、急いで降りて来なさい。 今日はぜひあなたの家に泊まりたい。」と呼びかけられた。 この「泊まりたい」とは、「泊まらなければならない、泊まることになっている」という意味合いです。 知られる筈のない自分の名前を聞いて呼びかけられたことを知り、「急いで木から降りて来て、喜んでイエスを迎えた」と言う。 イエスを通して、父なる神との交わりの回復が「今、ここで」始まった。 このイエスの呼びかけに動き出したザアカイの振る舞いは、単なる好奇心を越えた心の奥底に潜む「求め、願い」であった。 ザアカイの一連の動きはイエスご自身によって起こされ、ザアカイ自身に止まらずザアカイの家にまで及ぶ「福音の到来」です。 ザアカイはこの招きにふさわしい何かを成し遂げたわけでも、招きにふさわしい姿になったからでもない。 ただイエスに言われたとおり、近づいて行ってそのみ言葉を受け入れたのです。 自分の家に招き入れたザアカイは、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。」と唐突に話し始めます。 軽いお詫び程度で、なぜ徴税人の職を辞するとまで言えないのだろうかと思わされますが、明らかにザアカイの心に変化がもたらされ、精いっぱいのイエスに対する告白が起こされたのです。 イエスはこの姿を見て、「今日、救いがこの家に訪れた。 わたしは失われたものを探して救うために来たのである。」と言われた。 イエスはザアカイをすでに、「徴税人の頭であること」も、「私腹を肥やしていたこと」も受け入れておられる。 自分の姿を見つめようとしないザアカイを呼び寄せて、ご自身との交わりに招いておられる。 聖書の言う「罪」とは、神の呼びかけに背を向けみ前に進み出ようとしない状態を言うのでしょう。 ヨハネの手紙は、「あなたがたが罪を犯さないようになるため」にこの手紙を書いていると言います。 せっかくイエスを通して結ばれた神との交わりから離れないようにと勧め、「たとえ罪を犯しても、神のもとを離れてしまっても、御父のもとに弁護者、イエス・キリストがおられます。 この方こそ、全世界の罪を贖ういけにえです。」と言うのです。 天の裁きの場で私たち人間の罪の姿が浮き彫りになっても、「いけにえ」として差し出された御子イエスが弁護者として、今もってとりなしの祈りをささげ続けてくださっていると言うのです。 私たちの信仰の出発点は、先ず、自分自身の本当の姿を見つめること、神のもとから離れてしまっていることに気づくことです。 そのために、イエスは呼びかけ出会ってくださるのです。 ザアカイがそうであったように、そのことに気づいたのなら、御子イエスの十字架によってすでに「赦されている、贖われている」ことに気づくことになるのです。 私たちはそれに応えて踏み出し、導かれるままに身を委ねていく。 すると刻々と新しい変化が起こされ、いつしか神のもとにたどり着くまで、恵みの上に更に恵みを受け取っていく。 「神の掟を守るなら、神を知っていることが分かります。 神のみ言葉を守るなら、その人の内に神の愛が実現しています。」と言います。 「神を知る、神の愛が実現する」とは、神との人格的な信頼関係、血の通った温かい交わりで結ばれているということです。 その時こそ、「闇が去って、既にまことの光が輝いている」ことを賛美することになるのです。
[fblikesend]「互いに愛し合う神の子たち」 ヨハネの手紙一3章11~18節
「御子の内にいつもとどまりなさい。 だれにも惑わされないようにしなさい。」と勧告し、依然として「この世」で「罪のうちを歩む者」と、そうしたものに取り囲まれながらも御子なるイエスと共に生きていこうとする「神から生まれた者」を対比し、私たちを縛りづける「この世の罪と死」という力から解放されるようにと、この手紙が強力に勧める言葉が「互いに愛し合うこと」だと言うのです。 「カインのようになってはいけません。」とありますが、これは最初の人間アダムとエバの間に生まれた兄カインと弟アベルの間に起こされた殺人事件です。 土を耕す者となった兄カインは、「土の実りを献げ物として持って来た。」 羊を飼う者となった弟アベルは、「羊の群れの中から肥えた初子をもって来た。」と言います。 二人は神の祝福に対し、祭壇を築き礼拝しようとしたのですが、神は二人のささげる「信仰」を見ておられたのです。 神は弟アベルとその献げ物に目を留められたが、兄カインとその献げ物に目を留められなかったと言う。 少なくとも、神の恵みに対する感謝と賛美の思いは二人にはあったでしょう。 しかし、自分の献げ物が神に目を留められなかった兄カインは、「激しく怒って顔を伏せた」と言います。 神は、「どうして怒るのか。 どうして顔を伏せるのか。 お前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。 お前が怒りを抑えることができないのなら、戸口で待っているこの世の力である罪に支配されるようになる。」と言われたのです。 神は献げ物ではなく、カインの心の中に隠されていた「怒りの根源」を見抜いておられたのです。 兄カインは怒りと嫉妬にかられて、弟アベルに向け襲ってしまったのです。 この世に生きる限り、互いにぶつかり合うこともしばしばあるでしょう。 イエスは、「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」(マタイ5:23-24)と言われて、目に見える兄弟との交わりが壊れてしまっている状態で、目に見えない神との交わりを果たして持てるのだろうかと迫ります。 神はご自身の愛を、御子であるイエス・キリストを通して注いでくださって、私たちの状態如何に関わらず先ず神の子として受け入れてくださったのです。 その救いの恵み、注がれたご愛に満たされて、その神からの賜物をもって与えられた「隣り人、兄弟姉妹」に注ぎなさいと招いておられるのです。 この手紙は、今や、「わたしたちは、自分が死から命へ移ったことを知っています。」 この新しい命は、イエスが語られたこと、果たされたことを、この私のためであると信じ、教えられた福音を受け入れた瞬間から始まり、芽生えている。 「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。 そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」と告白するのです。 私たちは、御子なるイエス・キリストを通して、神との出会いと交わりを体験しなければ、神のご愛を深く味わうことができないのです。 神のもとからしか注がれない驚くべきご愛に、その出会いと交わりにより気づかされるのです。 注がれた恵みとご愛は、私たちが受け取るだけでなく身近な「隣り人、兄弟姉妹」に分かち合うためのものです。 「この世」は様々なものを駆使して、私たちを自分のことしか考えられないように縛ります。 神はそのような私たちを裁くためではなく、救い出すために神のご愛の前に立たせてくださるのです。 神のご愛に満たされた神の子たちは、その「隣り人」をも愛する生き方が備えられ、やがて整えられ、神の子どもにふさわしく成長させてくださるのです。 「この世」とは、かつて私たちが住んでいたところ、今や、つくり変えられて「死から命へと移ったことを知った者」として遣わされているところなのです。
[fblikesend]『囲いの内と外』 ヨハネによる福音書10章7~18節
イエスは、「わたしは羊の門である。」と言い、この前段落では「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 門から入る者が羊飼いである。」と言います。 エゼキエル書34章には、「牧者たちは、群れを養わず、自分自身を養っている。 見よ、わたしは自ら自分の群れを捜し出し、彼らの世話をする。 すべての場所から救い出す。 連れ出し、集めて、導く。 養い、憩わせる。 追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。 わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。」と言われ、ダビデのような羊飼い、メシアが現れると預言されていたのです。 イエスがここで「羊の囲い」、「羊飼い」、「羊の門」のたとえを用いて、ユダヤ教の支配者たちに向けて、「神の民を養い、育む務めを主なる神から託されているのに、自分たちを養うことだけに専念し、むしろ神の民を支配し苦しめている。」と語られているのに、彼らは自分たちのことが語られているとは気づかなかったのです。 イエスは、ユダヤ人たちが語る「良い羊飼い」と「悪い羊飼い」という次元を超えて、これから起こされる十字架の出来事をたとえを用いて権威をもって語り進めます。 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 わたしは良い羊飼いである。 良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」とまで言われたのでした。 「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」と言う意味は、「人格的な結びつきがある、交わりがある」ということです。 父なる神と御子なるイエスとの関係、ご自身と神の民との関係を、羊飼いと羊の関係にたとえておられるのです。 ご自身を「見失った一匹の羊を探し回る真の羊飼い」だと言うのです。 そして、羊飼いのいないイスラエルの民をご覧になって、「飼い主のいない羊のような有様」であると深く憐れまれたのです。 イエスはご自身の大切な務め、父なる神によって託された務め、十字架の苦難と死、そこから解放されて新しい命へとつくり変えられる道、「復活の道」を切り開くことになる、果たすことになる。 「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。 それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。 わたしは自分でそれを捨てる。 わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。 これは、わたしが父から受けた掟である。」と「羊の囲い、羊飼い、羊の門」のたとえを用いて語られたのでした。 イエスは、「わたしには、この囲いに入っていない他の羊もいる。 その羊をも導かなければならない。 その羊もわたしの声を聞き分ける。」と付け加えるのです。 イエスはこの世においては様々な囲いがあることを承知のうえで、「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」と断言されるのです。 イエスを通して注がれる神のご愛は、私たちが勝手に定める「囲い」などによって限定することなどできないでしょう。 当時ですら、すでにローマ兵士の中にも、ファリサイ派の人々の中にも、「囲い」を越えてイエスのみ言葉を聞き分ける者がいたのです。 私たちはこの世において、異質なものに囲まれながら、それでも「神の民」として生きていくのです。 教会の群れは、神によって呼びかけられ集められた者の群れです。 私たちはその「囲い」の外に身を置いて、生活と人生を共に味わいながら、それでも神の国に籍をもつ者として証ししていく務めが恵みとして与えられているのです。 「終わりの日」には、イエスに似たものとなると約束されています。 小さな存在ですが、そこが神の民の群れの源となる、何もなかったところに湧く祝福の源になるのです。
[fblikesend]「み言葉に従った旅立ち」 創世記12章1~4節
神さまは、『あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。』と言い、アブラハムは「この主の言葉に従って旅立った。」と言います。 神さまの命令は、アブラハムの思いのままではなく、神が遣わされるところに行けということでした。 この世のものに執着せず故郷を捨て、ただ神に従って歩むということでした。 神さまの約束だけを頼りに神と共に旅立ち、新しい一歩を踏み出したのでした。 アブラハムは、神のみ心が告げられる喜びを知った。 それに応えていこうとする信仰が起こされる恵みを受け取った。 そのために捨てる苦しみや失われる悲しみも、新しく変えられる喜びとして受け取ったのです。 この旅立ちによって、アブラハムはやっとの思いで手にすることのできた約束の息子イサクを神さまにささげるまでに信仰が与えられた。 自身の心の確かさに依り頼む信仰から、神さまの約束の確かさに依り頼む信仰に変えられていったのでした。 自分の力や考えで進めていくのではなく、父なる神に聴き、祈り、神に与えられたものを受け止めていく新しい道に踏み出したのです。 しかし、途中で信仰に挫折もし、食糧を目指してエジプトにまで足を延ばしてしまい、人を恐れ、人間の知恵をもって動き失敗もしています。 そうであるにもかかわらず、神さまの約束は果たされていくのです。 アブラハムは妻のサライと甥のロト、蓄えた財産すべて携えて、途中で加わった人々と共に約束の地に入りました。 このアブラハムと共に出発した民によって、信仰の民がつくり出され、祝福の源となっていったのです。 それは、神さまの選びという働きから始まり、備えられていったものでした。 互いに分かち合い、神さまの民としてひとつとされ、恵みにあずかった者が祝福の源となり、新しい神の民がつくり上げられたのです。 イエスもまた、神さまに祈り思いを受け止め、愛する弟子たちを選び、送り出し、信仰の民をつくり出されたのでした。 イエスは使徒を選ぶために、山に行き、徹夜の祈りをされています。 神さまの子どもであるにもかかわらず、私たちと同じように祈らなければ父なる神のみ心を知ることができない存在となってくださったのです。 このイエスの祈りによって選ばれた使徒たちもまた、神さまの呼びかけによって選ばれ、新たな信仰の旅が始まったのです。 選ばれた使徒たちがイエスのみ言葉によって遣わされていくところに、神さまの民が起こされていく。 祝福の源がつくり上げられる。 その土台は、神のみ言葉とみ心そのものであるイエス・キリストです。 それに応える礼拝が起こされるところに、信仰の民がつくり上げられていったのです。 私たちはいろいろな出来事に出会い、右往左往しながらおのれの弱さや傲慢さや喜びや悲しみを通して神さまに生かされていることを知るのです。 旧約聖書の冒頭に、「初めに天地を創造された。」 そして、第七の日に神さまは創造の働きを終えて「極めてよかった」と、その完成を喜ばれ安息なさいました。 その安息の中に私たちが憩うことが赦され約束されているのです。 私たちはこの神さまの安息日に身を委ねるようにと招かれているのです。 私たちの生活は、この神さまの安息の礼拝から始ります。 神さまの選びによって、神さまの祝福に招いてくださっているのです。 礼拝への出席は、この世に縛られることなく神さまのみ前に進み出ることです。 そこから遣わされて生活の中で神さまに用いられていく、そのための旅なのではないでしょうか。 神さまが遣わされたところに行きたい。 アブラハムが旅に出発したのも、人となったイエスの祈りによって呼びかけられた使徒たちが遣わされたのも、神さまの呼びかけに応えることから始まっています。 神さまによって与えられる信仰の旅を、今ここから始めたいと願っています。
[fblikesend]「神に取り分けられる者」 ヨハネの手紙一1章1~10節
エルサレムが崩壊した後、小アジア地方に逃れた使徒ヨハネたちの群れはエフェソを中心にいくつかの教会を生み出したのです。 その共同体の信仰の告白がヨハネによる福音書で、他の三つの福音書とは異なる独特の信仰告白です。 そして、ギリシャ人たちの間に拡がる「イエスは人間であり神ではない。 イエスの復活などあり得ない。」という信仰的動揺に書き送られたのが、今朝の聖書箇所のヨハネの手紙でした。 ヨハネによる福音書も、ヨハネの手紙も、エフェソの教会の中心人物であった長老ヨハネによる執筆であったと言われています。 イエスの死による罪の贖いとよみがえりを真っ向から否定する者たちとの信仰の戦い、ヨハネの共同体の分裂の危機を、この短い手紙の行間から垣間見ることができます。 ヨハネによる福音書冒頭の「初めに言があった。 言は神と共にあった。 言は神であった。 万物は言によって成った。 言の内に命があった。 命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。 暗闇は光を理解しなかった。 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。 わたしたちはその栄光を見た。 それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」 この簡潔な信仰の告白が、ヨハネの共同体の分裂を阻止したのです。 使徒ヨハネ自身もまたガリラヤの漁師からイエスと出会い、招かれ、導き出され、イエスを通して愛なる神、光なる神に出会い、その光に照らされて神のご愛、恵みの深さと豊かさに気づかされたからこその信仰告白ではなかったかと思わされるのです。 この手紙が証しし伝えたいものは、「初めからあったもの」、「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触れたもの」、「命の言」だと言うのです。 旧約聖書の時代には、「見たかったが見ることができず、聞きたかったが聞くことができなかった」命の言を、今や、私たちの見える形で、聞くことができる形で「現れた」と言う。 最初からあったもの、私たち人間が見失ったものが、イエス・キリストの贖いの言葉、注がれた血、裂かれた体によって、再び見える、聞こえる、触れることができるようになった。 それは、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」をもつため、イエス・キリストの新しい命を分ち合ってもつためだと言うのです。 そして、「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるため」だと言います。 イエスの喜びが私たちの内に満たされ、私たちの喜びがイエスの喜びとなる。 失われた迷える子羊、悔い改める罪人が見出されること、滅びゆく魂が神のもとに帰っていくこと。 これが天の喜び、父なる神の喜び、イエスの喜びだと言うのです。 その糸口が私たちの人と人との交わりで、この交わりを通して神とイエスとの交わりにつながれていく。 神の民がそこに築き上げられるのです。 また、「神は光であり、神には闇が全くない。」 「命は人間を照らす光であった。 光は暗闇で輝いている。 暗闇は光を理解しなかった。」と言います。 「罪」とは、神のもとから離れてしまっている状態を言います。 光は、この「罪」を照らし私たちを招いているのでしょう。 そのような状態であるのに気づきもせず、「暗闇はその光を理解しなかった」のです。 私たちに求められているのは、自分の姿を見つめること、それを公に言い表すことだけなのです。 「清められる」とは、この世にない神のものとして取り分けられることです。 罪に気づいて、罪に悔いるところには、その赦しがあるのです。 「罪が増すところには、恵みはなおいっそう満ちあふれる」のです。 その汚れを拭い去ってくださるイエス・キリストの十字架の恵みの深さ、豊かさを知り、恵みに恵みを増し加えられ、神のもとにたどり着くまで私たちは成熟させられるのです。
[fblikesend]「神のもとへ帰る者」 ヨハネによる福音書7章25~36節
「仮庵祭」に、イエスは人目を避けるようにしてエルサレムに上って行かれました。 ユダヤの人々はイエスに大変関心があり、「良い人だ」と言う者もいれば、「群衆を惑わしている」と言う者がいた。 彼らは、メシアであることを証明する「しるし」をイエスに求めていたのです。 その出身地についても大いに関心をもっていました。 自分自身の知識、判断、理解によって、「果たしてイエスはメシアであろうか」と見極めようとするのです。 神殿の境内で、「わたしの教えは、自分の教えではない。 わたしをお遣わしになった方の教えである。 わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。」と教えていたイエスは、諸々の人々の声を聞いて大声で叫ばれたのです。 「あなたたちはわたしのことを知っている。 また、どこの出身かも知っている。」と十分承知のうえで、「わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとから来た者である。」と繰り返し、「あなたたちは、わたしをお遣わしになった方を知らない。 しかし、わたしはその方を知っている。」と、自分の築き上げたものに縛られている無知と頑なさを指摘されるのです。 「そんなことは知っている」と言う者に、「あなたがたは知らない」とイエスは言われるのです。 大切なことは、イエスご自身がメシアであるかどうかという見極めよりも、イエスご自身を遣わされたお方を知ることです。 そのお方が、この地上に人としてイエスご自身を遣わされたことを知ることです。 私たち人間は神のもとにある。 その象徴であるイエスご自身を、神が人として遣わされたことを知ることであるとイエスは一言で言い表されたのではないでしょうか。 一方、祭司長たちやファリサイ派の人々は、イエスを捕らえようとします。 自分たちが今まで苦労して築き上げてきたものを破壊しようとする存在として、イエスを断じて受け入れることも納得することもできない。 放置しておいては、自分たちの身が危うくなると恐れを感じ取ったに違いありません。 「イエスを捕らえるために下役たちを遣わした」とあります。 神殿警備の兵士たちのことです。 彼らは上司から命令を受けているのですが、ここではイエスを捕らえるまでに至っていない。 聖書は、「イエスの時はまだ来ていなかったのである」と一言で説明しています。 しかし、この後45節以下には、「祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻ってきたとき、どうして、あの男を連れてこなかったのか」と当然のように問い詰めます。 これに対し下役たちは一切言い訳を言わず、「今まで、あの人のように話した人はいません。」と、その威厳とも言うべき何かを感じたと答えるのです。 イエスの語る言葉の中に、ただならぬものを感じた下役たちの言葉と、「お前たちまでも惑わされたのか」と懸命に自分たちを守る「祭司長たちやファリサイ派の人々」の語る言葉の違いを見つめさせられるのです。 動機はどうであれ、経緯はどうであれ、イエスとの出会いは至るところで起こされているのです。 刷り込まれたもの、自分を縛るものに邪魔されて、その出会いを無駄にしてしまっている。 イエスは、「今、しばらく、わたしはあなたがたと共にいる。 それから、自分をお遣わしになったお方のもとへ帰る。 わたしのいるところに、あなたがたは来ることができない。」と、私たちに与えられている時間は、「今、しばらく」だけだと言われる。 今、目の前に出会ってくださっているイエスが、それに気づいて受け取り味わうようにと招いておられるのです。 「どこから来たのか」から「どこへ行くのか」、人として神のもとへ帰っていく生き方を、ご自身の生き方を通して語っておられるのです。 その都度、新しい命のみ言葉となって、私たちの心に響き、そのみ言葉が原動力となって、私たちを突き動かすのです。 そこに、喜びと希望が起こされ、確信と感謝が与えられるのです
[fblikesend]「確信する信仰」 ヘブライ人への手紙10章19~25節
主イエスは、「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます」(1:3)とあります。 私たちはこの主イエスなしに父なる神を知ることはできません。 自分の力だけでは、神のもとに近づくことができないのです。 主イエスの恵みの働きによって開かれた、神のみ前に近づくことが赦された「礼拝」をささげ続けることです。 み言葉に聴き、祈り、交わりによって、生活の中で、人生の歩みの中で味わうことです。 そのみ言葉に立って生きることです。 神の働きに用いられるなら、主イエスを味わい、父なる神を知ることができるのです。 この手紙は、ひるみ始めた教会、信仰を守ることに疲れた教会に対して送られた「慰めの言葉、励ましの言葉、勧めの言葉」なのです。 先ず、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」と言います。 その理由を、「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。 イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださった」からだと言うのです。 ここで言う「聖所」とは、エルサレム神殿の奥の大祭司しか入れないところ、入り口には「聖なるもの」と「俗なるもの」を分け隔てる「垂れ幕」がある。 そこに主イエスの血が注がれ、体が裂かれ、今や招きの「垂れ幕」となり、そこを通って入るよう備えられている。 この言葉に、手紙を書き送られた教会の人々はどんなに励まされたことでしょうか。 「神の家を支配しておられる偉大な大祭司がおられるのですから」、このお方の憐れみとご愛に満たされて、神のもとに立ち帰って生きる道が備えられていることを「確信しています」と言うのです。 私たちは自分自身の中に確信の根拠を求めてはならない。 すべては、主イエスの働きによって確信させられるのです。 もうひとつの勧めの言葉は、「公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。 互いに愛と善行に励むように心がけ、励まし合いましょう。」とあります。 「公に言い表した希望」とは、神さまによって与えていただいた、言い表された信仰ということでしょう。 「互いに愛と善行に励むよう」とは、心を揺り動かされてそうせざるをえないようにされてということでしょう。 一人に対する主イエスの働きが、「神の家」全体の働きへと伝播していく。 当時の「集まる」という意味合いがとても重要だったのです。 「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」とあるように、主イエスがこの地上に来てくださったことを思い起こす大事な場所が「集まるところ」であったのです。 私たちが集まり、礼拝するところこそ、大祭司イエス・キリストの招きのあるところ、生きて働いておられる主イエスとの交わりのあるところなのです。 この聖書箇所の後の35節から38節にかけて、「だから、自分の確信を捨ててはいけません。 この確信には大きな報いがあります。 神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。 わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」とその理由が力強く語られています。 そのうえで、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(11:1)と言います。 この言葉も、信仰を持ち続けることに疲れている教会に対して語られた「慰めの言葉、励ましの言葉、勧めの言葉」であることを決して忘れてはならないのです。 この「確信する」という言葉は自分の信念のような主観的なものではありません。 信仰によって、見えていない事実について確かな証拠を与えて頂く。 神によって約束され、備えられている「望まれた事柄」が、私たちに希望の力を生み出してくれるのです。 私たちが尋ね求めているものではなく、神が「望まれている事柄」によって私たちが確信させられるのです。
[fblikesend]「選ばれ任命された者」 ヨハネによる福音書15章11~17節
「あなたがたがわたしを選んだのではない。 わたしがあなたがたを選んだ。」とあります。 私たちが神を尋ね求め見つけ出すのではない。 神の方が選ぶ目的と理由があると言うのです。 「選ばれた者が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、わたしが任命したのである。」と言うのです。 だれが見ても恵まれた人生を送っている人にも、また、不運としか言いようのない経験の連続の人生を歩んでおられる人にも、衝撃的なみ言葉ではないでしょうか。 私たちが耳にし、目にする人生の苦悩のほとんどが、理由のない理不尽なものです。 その理由が分からないので納得がいかないのです。 しかし、よく考えてみれば、もうひとつの不条理があることに気づかされます。 神の前に何ら誇ることのできない、過ちだらけの私たちが、理由もなく無条件に赦される道がある。 ありのまま、泥だらけの身のままで神のもとへ迎え入れられる道があると言うのです。 このもう一方の不条理に真っ向から立ち向かい、自分たちの築き上げた基準に合っていないとイエスに襲いかかったのが律法学者たちでした。 旧約聖書の時代には、ある日突然、神の前に選び出され、任命された預言者たちが多々ありました。 彼らは例外なくしり込みをします。 しかし、神の呼びかけに応えることを繰り返すことによって、神とその人との交わりがつくり上げられ、次第に神によって生かされていることを知るようになり、神のご計画があることを知らされます。 その計画を果たすために、自分が用いられようとしている、つくり変えられようとしていること、自分一人のためではなく神の民を築き上げるための務めであることに気づかされるのです。 それ以降は神との特別な関係に入れられ、その都度、神の助けを必要とする者になるのです。 事の大小は異なりますが、私たちと神との出会いもまた、同じであるように思わされます。 続いて、神の選び、任命という働きは、「神さまの愛によって」行うと宣言がなされます。 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。 これがわたしの掟である、命令である。」と言います。 イエスはご自身に注がれたご愛を無条件のまま、自らに襲いかかる者に対しても注がれたのです。 イエスは、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」 そうすれば、イエスの喜びが、私たちの内にとどまり、私たちの喜びが満ち溢れるようになるためである。 イエスに連なる歩みに生きる者に与えられる喜びがあると言います。 イエスの言われる「喜び」とは、外側から訪れる喜びではなく、内からわき出てくる喜びです。 イエスはもうひとつ、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」と重大なことを伝えています。 イエスは、これから果たされていくご自身の十字架の死を語るのです。 このために私たちを選び、実がなるように任命される。 その実は、互いに愛し合う実である。 「互いに愛し合う」という掟が守られることを、イエスご自身が十字架を通して約束してくださっているのです。 愛と喜びの完成を約束されたイエスが、その友たちによってご自身の掟が守られる道を備えてくださるのです。 「自分の命を捨てる」とは、イエス・キリストとの交わりに生きることです。 父のもとで聞いたことすべてを知らせたから、「僕」ではなく「友」だと言うのです。 神の僕として選ばれ、替えがたい務めを与えられ任命される者である。 神のご愛を注がれ、喜びに満たされる者である。 神のみ心を知っている僕、愛されている僕、イエス・キリストとの交わりに生かされ、そのとりなしに支えられている僕。 その僕が、父なる神によって注ぎ出されたご愛をイエス・キリストを通して味わい、その解放と自由に生かされてイエスの友となるのです。
[fblikesend]「出て来なさい」 ヨハネによる福音書11章38~44節
ベタニヤ村にいる「マルタとマリア、そしてラザロ」をイエスは愛しておられたと言います。 そのラザロが深刻な病気にかかり、マルタとマリアはイエスのもとに使いをやって、一刻も早く来てほしいと伝えるのです。 しかし、イエスは直ちに駆けつけようとはしない。 「この病気は死で終わるものではない。」と癒そうとはされない。 その二日後です。 イエスは前言を翻し、「わたしの友ラザロが眠っている。 彼を起こしに行こう。」と言われる。 この言葉を聞いた弟子たちは、「眠っているのであれば、助かるでしょう。」と言う。 それを聞いたイエスは、「ラザロは死んだのだ。 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。 あなたがたが信じるようになるためである。」と言います。 この噛み合わない対話のまま、ラザロが墓に葬られて四日後にイエスはベタニヤを訪れるのでした。 そこには、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と涙を流すマルタとマリアがいます。 愛する者を失い、どうすることもできない無力からくる悲しみを滲ませています。 周りにいたユダヤ人たちも涙に暮れていたと言います。 彼らは「どんなにイエスがラザロを愛しておられたことか」と言う一方で、「盲人の目を開けることのできた人でも、ラザロが死なないようにはできなかったのか。」とも言うのです。 ここに至るまでのイエスの言動を振り返れば、「心に憤りを覚えて」、人間の悲惨さに対する嘆きを滲ませ、意識的に死後四日後の「墓場」に立たれたように思わされます。 人を圧倒し封じ込めてしまう「死」の力に抗うかのように、また、人が諦め、無力感と力の限界を思い知らされる「死」に対して、そのような支配に対抗しうる唯一の存在として「墓場」の前に立たれたのです。 「死者の世界」と「生きている者の世界」を隔てる「墓石」を「取りのけなさい」と言われるのです。 この直前にイエスはマルタに、「あなたの兄弟は復活する。 わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。 このことを信じるか。」と言われていたのです。 「墓石を取りのけなさい」とは、「生」と「死」と分けているものを心の中から取りのけなさい。 「もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか。」ということです。 私たちはこの地上を「生きている者の世界」、あの世を「死んだ者の世界」と捉えているかもしれません。 神の働きが注がれるなら、死んでも生きる存在に変えられる。 そのことを信じるかとイエスは問われているのです。 「墓石」が取り除かれると、イエスは「天を仰いで」、「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。」と感謝の祈りをささげ、すでに起こされた事実として確信し、果たしてくださる父なる神に賛美をささげるのです。 イエスが事前に言われていた通りのことが、今ここで見ることになる。 これは、「周りにいる群衆のため、あなたがわたしをお遣わしになったことを彼らに信じさせるためです。」と言われるのでした。 四日間の空白は必要な時でした。 大事なことは、ラザロが生き返ったことではありません。 マルタとマリア、ラザロ、そして群衆が、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。 このことを信じるか。」と言われるお方に出会うことができたことです。 イエスは、「出て来なさい」と大声で叫びさえすればよかったのです。 「死」は地上の「生」を終えた後に、神が与えてくださる憩いの場への招き、新しい歩みの始まりです。 手と足を布で巻かれたままのラザロに、イエスは「ほどいてやって、行かせなさい。」と言われ、死の力に包み込まれている姿から解放されて、「普段の生活に戻るように」と新しく生きる姿に招いておられるのです。 この「死」に立ち向かわれたイエスの地上の最後の場所が、十字架の処刑場であったのです。
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