「将来の救いの輪郭」 イザヤ書51章1~11節
三度「わたしに聞け」と主なる神は呼びかけています。 呼びかけられているのは、「正しさを求める人、主を尋ね求める人」です。 当時としては、ほんのわずかな人ということでしょう。 イスラエルのルーツであるアブラハムを思い起こし、目を注げと言います。 たったひとりであったアブラハムを選び、祝福して子孫を増やし、神の民が造り上げられてきたではないか。 アブラハムが特別な人であったからでもなく失敗も繰り返したが、注がれた信仰に支えられて辛うじて主なる神のもとへ戻っていった。 それと同じように、神の裁きによって打ちのめされたすべての廃墟はこれから慰められる。 破壊された荒れ野はエデンの園のようになり、「喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」場へと再創造されていく。 「教えはわたしのもとから出る。 わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。 わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ わたしの腕は諸国の民を裁く。」と預言されるのです。 ここで主なる神が言われる「裁き」、「正義」とは「救い」とまったく同じ意味合いで語られています。 父なる神のみ子がこの世に遣わされるとは、神の裁きのためです。 ご自身のもとに間違いだらけの私たちを引き戻すためです。 新しい神の国の民を起こすためです。 主イエスの肉体の死を、「みずからを償いの献げ物とした」(53:10)と表現するのです。 主イエスの償いの死を通してしか、神のもとに立ち帰るという新たな神の約束に与ることができないと、「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛み、彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのため、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼が受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(54:4-5)、そのための主イエスの誕生であったと言うのです。 私たちは喜びにあふれたクリスマスの背後にある、壮絶な旧約聖書時代の歴史的な戦いを決して忘れてはならないのです。 「わたしの救いはとこしえに続き わたしの恵みの業は絶えることはない。」と預言しています。 イザヤは「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(40:8)と言い、主イエスご自身も「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ24:34)と語るのです。 従って、今の世に生きていったい何を恐れる必要があるのかとみ言葉が響いてきます。 この神の約束に対する信仰者の群れの祈りが9節から11節に歌われています。 「奮い立て、力をまとえ、主の御腕よ。」と、強く救いを求める歌です。 この世にはびこる「滅びの力」と主ご自身が戦われることを求める祈りです。 天地創造の際にはエデンの園が設けられこと、アブラハムからイスラエルの12部族が築き上げられたこと、出エジプトの際には不思議にも助けられたことなどの古の出来事を思い起こさせ、今真っ只中にあるバビロンからの脱出についても、この救いが成し遂げられるまで、祈り続けなければならないと叫ぶのです。 ついに、救われる言われのない私たちひとりひとりが、ひとりのみどりごの命という「大きな贖いの献げ物」によって再び買い戻され、神のもとへ立ち戻ることが赦されるという「救いの約束の原型」がここに示されているのです。 この「救いの約束」はどこまで行っても私たちにとって未知なるものです。 主なる神の前に、この世の「滅びの力」を浴びながら忍耐をもって立ち続け、その約束である将来の「救い」を待ち望んで、「贖われた人々を、深い海の底に道を開いて通らせたのは あなたではなかったか」とまで確信をもって祈り求めるなら、イエス・キリストによる人間の誕生を通して始められた壮大な神の救いの偉大さを豊かに味わい知ることができるようになるのです。 主イエスの誕生が示してくださった父なる神のご愛、救いの恵みは絶えることはないと、このアドベントの時期に思わされるのです。
[fblikesend]「第三の苦難の僕の歌」 イザヤ書50章4~9節
イザヤ書には、『主の僕の歌』と小見出しがついている歌が四つあります。 最初は、「主の僕の召命」(42:1-4)です。 「彼の上にわたしの霊は置かれ 彼は国々の裁きを導き出す。」とあります。 イスラエルの民に対する厳しい務めをもって主の僕は招かれますが、「傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出して、確かなものとする。」とあり、厳しい裁きの後には細心の備えがなされていくと言うのです。 そして、二つ目は「主の僕の使命」(49:1-6)です。 口を鋭い剣とし、尖らせた矢として、主の僕は遣わされていくとあり、この主の僕によって「主ご自身の輝きは現れる。 イスラエルの民を立ち上がらせ イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。」と言い、裁きの後に「わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」と明確に宣言するのです。 そして、三つ目が「主の僕の忍耐」(50:4-9)です。 主の僕は、何も見えていないイスラエルの民を忍耐強く導くことになると言うのです。 そして、最後が「主の僕の苦難と死」(52:13-53:12)です。 主イエスご自身のお姿を表わすかのような「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。 彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 彼は自らを償いの献げ物とした。 罪人のひとりに数えられたからだ。」と結ぶのです。 今朝の第三の「主の僕の歌」は、最終的な十字架の死と復活に至る前に、主イエスの苦難の僕としての「忍耐」が歌われているのです。 イスラエルの民のこれまでの不信仰、不従順、背きを単刀直入に伝え自らの罪の自覚を促すことを、苦難の僕の大事な務めとして課せられていたのです。 そのうえで、主なる神は「疲れた人を励ますように 弟子としての舌を与え、言葉を呼び覚ましてくださる。」 それゆえ、「自分を打とうとする者には背中をまかせ ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。 わたしはそれを嘲りとは思わない。 わたしの正しさを認める方は近くにいます。 だから、わたしが辱められることはないと知っている。」と語るのです。 人間として、私たちと同じように父なる神に対する従順を、この主の僕の苦難に対する「忍耐」の歌から、主イエスご自身が味わい知って十字架のもとに進んで行かれたのでした。 捕囚の民として拘束されていたバビロンから脱出するまでも、またバビロンを旅立って故郷に帰る出発を果たしてからも、その指導者である「主の僕」に対する同胞の民の迫害、中傷、屈辱は絶えることがなかったのでしょう。 しかし、主の僕は、「傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく」包み込もうとするのです。 その理由は、「主なる神が助けてくださるから」、「決して辱められないことを知っている」からだと語るのです。 その迫害、中傷、辱めの中においても、「嘲りとは思わない。 辱められることはない。」 「誰がわたしを訴えるのか。 誰がわたしを罪に定めえよう。」と、真正面から苦難と迫害を受け止めるのです。 私たちの咎のために一緒に傷つけられ、私たちの不義のために一緒に砕かれるほどの「近さ」をもって、「インマヌエル」共にいてくださるからだと言うのです。 自ら懲らしめを受け、打たれ、砕かれることによって、私たちを雪よりも白い正しさに引き上げてくださるという「近さ」にある。 それが裁きの場に、裁かれる場に自ら裁かれようと主の僕が語っている言葉が、「われわれは共に立とう」という言葉に凝縮されているのではないでしょうか。 「共に神の裁きの場に立とう」という、自らが裁かれることを厭わない人間としての信仰を主なる神は「苦難の僕」、主イエスに求めておられるのです。
[fblikesend]「最も重要な掟」 マタイによる福音書22章34~40節
「律法」の中には、人の口を通して語られている戒めも含め、専門家としての律法学者が必要となるほど多くの戒めがありました。 あまりにも細かい規則に混乱もあったようです。 律法の本質を見失い、枝葉末節に陥ってしまい、律法の専門家でさえも「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」という質問をイエスにしてくるまでになっていたのです。 その律法の専門家に対する主イエスの答えは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。 これが最も重要な第一の掟である。」というものでした。 この掟は、ユダヤ人にとっては朝夕2回の信仰告白をする義務を負っていたように、だれしも耳にしている掟であったのです。 しかし、主イエスはこの戒めだけに留まらず、「第二も、これと同じように重要である。 隣人を自分のように愛しなさい。」と付け加えるのです。 この第二の掟は一般的には馴染んでおらず、レビ記(19:18)に記されている一節を主イエスは取り上げて、第二の掟として第一の掟と結び付けて、旧約聖書全体が「この二つの掟に基づいている。」とまで高められたのです。 「神を愛する」という言葉と、「隣人を愛する」という言葉の表現を用いて、この二つの掟はその一方の掟が欠けてはならず、これらが共に一つとなって聖書全体を支えるとまで主イエスは言い切ったのでした。 当時としては、これはまったく新しい教えです。 主イエスは、第一の掟と第二の掟に順番をつけられました。 律法の「十戒」も、イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」もこの順番です。 「神への愛」は「隣人への愛」の源となる。 「隣人への愛」はその人の「神への愛」を示し拡がっていくものであるし、決して切り離すことのできないと主イエスは語るのです。 さて、それでは「愛する」ということはどういうことでしょうか。 一般的には、「愛する」ということを強制することはできないし、外から強制されて発せられるものではなく、内から溢れ出てくるものでしょう。 また自然発生的に生じてくるものでもなく、愛された経験、味わった体験から呼び起こされ、その注がれた愛に対する応答として生まれ出てくるものでしょう。 しかし、「神を愛する」ということを、イエスはこの地上の生涯でのご自身の姿を通して示されました。 そのイエスのお姿は行きつくところ、人によって裁かれ、嘲けられ、蔑ろにされた十字架にまで歩み続け、父なる神に従いつくした姿、神への献身のお姿でした。 そして、「あなたがたに新しい掟を与える。 互いに愛し合いなさい。 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34-35)と主イエスは、ご自身が父なる神に愛し従ったように、あなたがたも神を愛し従いなさいと勧め、新しい掟を授けられたのです。 律法のすべての戒めを、神のご愛によって愛するというこの一点において捉えるようにと、「律法の専門家」に求められたのです。 ところが、「隣人を愛しなさい」に、「自分のように」と言います。 自己と隣人を分けるような「自己愛」でもない。 隣人への愛は神への愛によって基礎づけられ、神への愛は隣人への愛において具体的に示される。 このふたつの愛の相互関係を失う時に、それぞれの愛は空虚なものとなる。 「神を愛する、隣人を愛する」ということの中に、自分の心を満足させているにすぎない自己陶酔は、もう一人の相対峙する隣人には通用しないのです。 「隣人」を私たちは選ぶことができず、「隣人」もまた「自分自身」と同じように神のもとにあり、価無いにもかかわらず一方的に神に愛される存在として接することが求められるのです。 神さまが愛してくださっている「ありのままの自分」を愛するように、「隣人を愛しなさい」と言われているのかもしれません。
[fblikesend]「荒れ野と神の国」 マルコによる福音書1章16~20節
マルコはガリラヤのナザレ人イエスこそ私たちの救い主であると語り、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と福音書を書き出します。 その冒頭にイザヤ書(40:3)を引用し、「荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」と預言していたとおりに、「バプテスマのヨハネが荒れ野に現われた。」 ユダヤ各地から人々を呼び集め、新しい神の業が始まったと語るのでした。 そこに、ガリラヤのナザレから来たイエスが現れ、バプテスマのヨハネからヨルダン川で水によるバプテスマを受けられた。 すると、「天が裂けて霊が鳩のように御自分に降って来るのを、イエスはご覧になった。」 同時に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者という声が天から聞こえた。」 その霊がイエスを「荒れ野」に送り出した。 イエスは40日間その「荒れ野」に留まり、誘惑を受けられた。 バプテスマのヨハネがユダヤ領主ヘロデに捕えられた後は、イエスがガリラヤへ退き「イエスの宣教活動」が始まった。 そのイエスの宣教を「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい。」と集約し、これが「神の子イエス・キリストの福音の初め」であると端的に一気に記すのです。 ガリラヤは様々な民族の支配が重ねられたところで、生粋のユダヤ人からは「ナザレから良いものが出るだろうか」と言われるほど、辺境の地、屈辱にまみれた地として蔑まれていたのでした。 イエスはそのような地を、ご自身の福音宣教の出発地点とされたのです。 ガリラヤ湖のほとりで、「シモン・ペトロとアンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。」とあります。 漁師たちにとってはイエスとの突然の出会いですが、人生が決定的に変えられる神の時です。 イエスは新たな関係を造り出そうと、「わたしについて来なさい。」と彼らを招いています。 イエスの後からついて来なさいということです。 彼らは「網を捨てて、従った」と言います。 「網」とは、生活のすべてという意味でしょう。 イエスは彼らの今の生活を捨てて、「人間をとる」漁師にしようと招くのです。 魚に対する鋭敏な感覚を、同じように人間の魂に目を向けるようにということでしょう。 ゼベダイの子ヤコブとヨセフの場合も同様でした。 「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。」と言います。 イエスのガリラヤでの宣教の最初の準備が、弟子たちを招き入れることから始められたとマルコは語るのです。 「荒れ野」とは私たちの現実の世界でしょう。 様々な呻きと、欲望や権力がうごめく闇のようなところでしょう。 そこに「福音の初め」という叫び声が起こされた。 暗闇にまみれたそのところに、切り刻むかのように「天が裂けて」聖霊が注がれた。 「わたしの心に適う者」という神のみ声が響いた。 これが旧約聖書に約束されていた新しい時代の夜明けであるとマルコは語るのです。 何も見えていない、何も聞こえていない私たちと共に、この「荒れ野」のようなところを神のもとから遣わされたイエスが共に生きてくださった。 神のご真実とご愛によって新しい道が備えられた。 私たちだけではどうすることもできない「荒れ野」に、「神の国」の恵みが映し出されるまでになった。 本来結びつくはずの無かった「荒れ野」と「神の国」が一本の道によって結び付けられ、重なり合うことが「今、ここに」明らかにされたとマルコは宣言しているのです。 神の民の群れが、「人間をとる漁師になるため、呼ばれて集められた存在」であるとするなら、呼ばれた時、今の自分を打ち砕く自己吟味の機会として、「網」を捨てることに迫られるかもしれません。 マルコはこのイエスとの出会いの感動を、自分一人のものとしないで分かち合う力が与えられると言います。 自分が理想とする自分を捨てて、神が御子を遣わしてまで愛してくださったありのままの自分を大切に、主イエスの後について参りたい。
[fblikesend]「いつもの場所の祈り」 ルカによる福音書22章39~46節
ルカは、「ゲッセマネ」という地名をつけず「オリーブ山」がイエスの「いつものように」、「いつもの場所」の祈りの場であったと言います。 イエスご自身の苦しまれる様子よりも、これから起こされる十字架の出来事に愛する弟子たちすべてを招き入れています。 「主イエスが祈り終って立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。」と言います。 愛する弟子たちとイエスご自身との間の大きな断絶を感じながら、それでもこれから向かわれる十字架の出来事を覚え、「なぜ眠っているのか。 誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」と繰り返し語られるのです。 主イエスは最後の晩餐の後、これから迎える最後の苦難に対し、「いつものように」、「いつもの場所」で最後の祈りをささげられたということです。 「祈り」は、神さまと私たちとの人格的な交わりを主イエスの名によって赦され与えられるもの、私たちの神への信頼と応答によって恵みによりもたらされるものです。 「祈り」を受け取ってくださる神さまとの「今、ここで」果たされる生きた交わりが恵みにより築かれるものです。 最後に主イエスが愛する弟子たちに教えられたことが「祈ること」でした。 誘惑の恐ろしさは、それに私たちが気づいていないことです。 イエスはそれに気づいて、「目を開いて、心を砕いて祈りなさい」と言われている。 苦しみや悲しみの果てに祈りを失い、眠り込んでしまっている弟子たちと主イエスとの間の大きな断絶を感じざるを得ないのです。 主イエスは、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」と祈るのです。 イエスはご自身の地上の生涯において、神と異なる意志をもつ人間としての身を背負いながら、祈りによって父なる神との交わりを通してみ心との一致を求めているのです。 「この杯」とは、罪に対する神の裁きにこの身を委ねなければならない魂の苦しみです。 すでに父なる神が決定し、目の前に差し出されている「受けるべき杯」です。 人間としての罪に覚えの無いイエスが、神との交わりの永遠の断絶に立ち向かわなければならない苦しみです。 「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。 汗が血の滴るように地面に落ちた」と言います。 神の子でさえ、ご自身の意志を求めることができず、父なる神のみ心と一致されることを求めるのです。 「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈り、自ら負わなければならない「受けるべき杯」を、眠り込んだままの愛する弟子たちの贖罪として悟られたのです。 私たち人間は、自らの過ちを自分で始末できないし、父なる神によって裁かれなければならないのです。 一方、父なる神にとっては、罪に覚えの無い我が子を自ら裁かなければならない痛みです。 この祈りの姿を愛する弟子たちに示すために、「石を投げて届くほどの距離」をもって祈られたのです。 イエスは、「祈り終って立ち上がり、弟子たちのところに戻ってきた」と言います。 「立ち上がる」とは、「起き上がる、新たにされる、よみがえる」ということでしょう。 これから果たされる十字架の主イエスの贖いの死によって、あなたがたは立ち上がることになる。 それだけではない、「信仰がなくならないように祈った」と言われるのです。 私たち、弟子たちを眠りから立ち直らせるのは、このイエスの「祈り」です。 贖罪と復活による、イエスの「いつもの場所、いつものように」祈られた「祈り」です。 イエスもまた私たち人間と同じように苦しんでおられたことを、聖書は隠さないのです。 この試練、誘惑こそ、人間としてこの地上に生かされたことの「証し」であるのかも知れません。 私たちもまた、祈り終えて「立ち上がる者」とさせていただきたいと願います。 「祈り」ができないのではなく、「祈り」がすでに与えられていることに気づいていないのです。 「祈り」が与えられていることが恵みなのです。
[fblikesend]「安心して行きなさい」 マルコによる福音書5章25~34節
「会堂長ヤイロの娘」と「イエスの服に触れる女」という小見出しがついています。 「会堂長」とは、イエスに対して批判的なユダヤ教指導者層の象徴的な存在です。 そうした会堂長ヤイロが、「イエスの足もとにひれ伏して、わたしの幼い娘が死にそうです。 どうか、おいでになって娘に手を置いてやってください。 そうすれば娘は助かり、生きるでしょう。」とイエスに懇願するのです。 その事情を知ったイエスは、ヤイロと一緒に出かけて行ったと言います。 そのような切迫した状況の中で起こされた「イエスの服に触れる女性」との出会いであったのです。 彼女は、「12年間も病いに悩まされ続けてきた女性」でした。 当時の社会では、「出血」は汚れとみなされ、そのような人に触れた人も、この人が触れたものもすべて汚れたものと見做されていたので、人々はこのような人に近づくことも、本人もまた他の人に近づくこともなかったのです。 「人との交わり」が断たれていた存在でした。 多くの医者にかかっても治らなかった、財産を使い果たしても何の役にも立たなかったと言います。 12年間の病いの苦しみ以上の痛みを伴ったものであったでしょう。 そうした彼女が、様々なところで病いを癒し続けていたイエスに一縷の望みを持ちながら、こっそりとしか人前に出ることができない自分を見つめながら、「何とかこのわたしを癒してほしい」とイエスの服に必死に触れようとしたのです。 すると、彼女は「出血が全く止まって病気が癒されたことを体に感じた」と言うのです。 一方、イエスはご自分の服に触られただけなのに、「自分の内から力が出て行ったことに気づいた」と言います。 それに止まらず、「わたしの服に触れたのはだれか」と群衆の中で見回しておられたのです。 触れた本人を責めるためではなく、神の働きが「今、ここに」起こされたことにイエスが気づいたからです。 彼女は「病いの回復」を願っただけなのに、イエスは彼女の望みを越えた神の恵みの働きを果たそうとされるのです。 弟子たちは、だれが触ったのか見つかるはずがないと言うが、彼女はそうではなかった。 自分の身に起こった大きな変化を感じ取って、「恐ろしくなった。 震えた。」と言います。 その場を逃げることなく、震えながらイエスのもとに進み出て、ひれ伏してすべてをありのままに話したのです。 会堂長のヤイロも、藁をもすがる思いで恥を顧みず、イエスの前にひれ伏して「わたしの幼い娘が死にそうです」と訴えたのです。 イエスは病気の治療を越えて、人格的な癒しの業、父なる神の救いの業を果たそうとされるのです。 大群衆に囲まれた中で、一対一で、彼女の小さな願いをそのままにされないのです。 「だれか」というイエスの問いに、自らの言葉をもって応えさせる。 心の中にあるものをすべて吐き出させ、ありのままを語らせ、神の力を働かせ大きな変化をもたらすのです。 彼女の小さな生まれたての信仰が、イエスのみ前に面と向かって立つまでの信仰に引き上げられていくのです。 イエスは、その信仰を「あなたの信仰」と呼んで、「あなたの信仰があなたを救った。」と言ってくださるのです。 「信仰」は、私たちの持ちものではありません。 恵みにより注がれてくるものです。 そのために備えられる「賜物」も、神より託されるものです。 私たちが鍛え上げたり、増し加えたりできるものではありません。 神のみ前に恐る恐る立つことです。 ありのままをさらけ出して、神の見ておられることを知ることです。 呼びかけられたみ言葉に聴いて理解することではなく、それに応えて従ってみて味わうことです。 神さまは、吹けば飛ぶような私たちの「願いや祈り」を探し出し、見つけ出し、取り出して大きく変えてくださるのです。 そして、「もう病気にかからず、元気に暮らしなさい。 安心して行きなさい。」と言われ、父なる神と御子なるイエスとの交わりに留まり生かされるようにと送り出してくださるのです。
[fblikesend]「自分の量る秤を越えて」 マルコによる福音書4章21~25節
「ともし火」と「秤」のたとえと、小見出しが付けられています。 「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。 燭台の上に置くためではないか。」とイエスは問います。 「升」とは、ともし火を消すために使われていたものであったようです。 この「ともし火を持って来る」という文章を直訳すると、「ともし火がやって来る」となります。 主語が「ともし火」なのです。 「ともし火」こそ、主イエスご自身のことです。 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:9)と語られているとおりです。 その光は「升の下」や「寝台の下」に置くためではなく、あたりを照らすためである。 たとえ一時的にも、その光が隠されるようなことがあったとしても、必ず自らの「光」によって輝き出す。 そうであるのに、押し寄せて来る大群衆は、「見るには見るが認めない、聞くには聞くが理解できない」という現実に直面していたのです。 だから主イエスは、「聞く耳のある者は聞きなさい」と招き、「ともし火」は高く掲げられ自ずと光輝く、これこそ「わたしの務め」である。 その出来事は、私たちが気づいていないだけ、見ようともしていないだけで、そこかしこに神のみ業は働いていると主イエスは「たとえ」を用いて語るのです。 「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」と言われているとおりです。 神の恵みの働きは至る所に隠されており、いずれ燭台の上に置かれてその輝きによって闇を照らすことになる。 その灯りが誰の目にも無視できなくなる「終わりの日」に向けて、世界は神のみ心どおりに動いている。 絶望してはならない、必ず明らかにされる。 「聞く耳をもつように、見る目をもつように」と招いておられるのです。 「福音」は、私たちの真実の姿を顕わにします。 罪の姿とともに、そこまで愛してくださって「価高く、貴い」と言われ、神ご自身の独り子の命を代償にしてまでも、救い出したいと望まれるほどの存在価値がある。 そのために賜物がそれぞれふさわしく与えられていると言うのです。 自分の目で見ている自分が本当の自分ではなく、神が見てくださる自分こそが、本当の自分であることを知るようになるのです。 神の国の秘密を打ち明けられ、授けられた信仰を持ち、その「秤」に従って自分を見ることができるようになる者は、更に、豊かに神の恵みが増し加えられる。 神のみ心を聞き取ってほしい。 私たちは「自分が量る秤」でしか、量ることができないのです。 しかし、もし神の「秤」、神の見る視点が私たちに加えられるなら、自分の小さな「秤」は日々変えられ、豊かに回復されていく。 岩盤のような頑なな自分の「秤」が砕かれて、開かれて、神の恵みの世界に支えられて生かされるようになれば、新しい世界を見聞きできるようになるのです。 イエスは「耳が聞こえず、舌の回らない人」だけを、群衆から連れ出し、一対一の癒しの業を始めるのです。 指を両耳に差し入れ、唾をかけてその舌に触れて、深く息をして、その人に向け「開け」と言われるのです。 自分で自分を解放できないところから、主イエスの呻きとともにご自身を重ねて解放してくださるのです。 私たちはみ言葉を聴くことによって、自分の真の姿、イエスのご真実、神のご愛の一端を知らされます。 何が聞こえているのか。 何を聞いているのかと問われるのです。 「秤」とは、私たちそれぞれに日々の変化のうちに変わり続けている「信仰」であるのかも知れません。 信仰をもって耳を傾ける者に、神さまは豊かにご自身を示してくださいます。 自分に与えられているものに気づいているのかどうか。 そして、それをどのようなものとして受け取っているのか。 自分の「秤」を越えて、神によって授けられる日々新たにされる「秤」によって生かされて参りたいと願います。
[fblikesend]「絶望を切り拓く希望」 ヨシュア記2章1~14節
今朝の聖書箇所を表面的に見ますと、追跡され逮捕される危機に瀕した二人の斥侯の危機脱出に、二人の斥侯を忍ばせた国がこれから攻め入ろうとしている町のひとりの遊女がかかわったという出来事に見えるでしょう。 当時としては、頻繁に訪れる領土にまつわる争いの只中で起こりうる危機脱出のエピソードです。 しかし、この斥候の派遣については、主なる神の備えが伝わってきます。 主なる神は、「わたしの僕モーセは死んだ。 今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。 わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。 あなたを見放すことも、見捨てることもない。 強く、雄々しくあれ。」とヨシュアを励まし踏み出させているのです。 ヨシュアは周到な準備をして参りますが、その中のひとつが、堅固に要塞化されていたエリコの町に二人の斥候を密かに送り出し、町の状況を調べさせることであったのです。 その偵察隊であった二人の斥侯はなぜか、「エリコの地で、ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった」と言うのです。 エリコの王に感づかれ追い詰められて辿り着いたところが遊女ラハブの家であったのかもしれません。 ラハブは彼らをかくまうのです。 敵対する異国の二人をかくまうということは、この地を支配するエリコの王に対する反逆です。 ラハブの命をかけた危険な行為です。 危機に瀕した二人の斥候をかくまうその代償に、後日、イスラエルの民がエリコに侵攻する際には、ラハブとその一族の身の安全を得ようとする打算の姿であるかのように見えます。 しかし、ラハブが二人の斥候に、「イスラエルの神が、この土地をあなたがたに与えられたこと、あなたがたの背後におられる神をわたしたちが非常に恐れていること、あなたがたがエジプトから解放されたとき、あなたがたを救うために不思議にも紅海の水を分けられたこと」などすべて、「わたしは知っています。聞いています。 ゆえに、あなたたちの神こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。」と告白したと言うのです。 天地を司る神が、二人の斥候およびイスラエルの人たちと共におられることを見聞きしたからだとラハブは告白するのです。 彼らの背後にある神の約束のみ言葉の確かさ、それが異国の地エリコの町にまで響き、遊女ラハブの心に確信となって育まれていたのではないでしょうか。 ラハブは自分自身にとどまることなく、「父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください。 今、主の前でわたしたちに誓ってください。」と祈り、迫るのです。 「主が語られたことを聞いていた。 この地にある人々が、その神がなさることに震えおののいていたし、かつてあなたがたになされたこと、あなたがたを用いて神がなされたことを知っています、聞いています。」と語るのです。 神の前で、「わたしに誓ってください」と迫る「隠された信仰者」の切実な願いに、二人の斥侯はこう答えるのです。 「主がこの土地を我々に与えられるとき、家の窓に真っ赤な赤いひもを結びつけておきなさい。 また、あなたの父母、兄弟、一族を一人残らず家に集めておきなさい。」 これにラハブは、「お言葉どおりにいたしましょう。」と答え、「真っ赤な赤いひも」を掲げるのです。 エリコの町の目出たない、しかもその町の状況がよく分かるラハブの家が用意され、「隠された信仰者ラハブ」を立て、その地を支配する権力の只中にイスラエルの神ご自身を約束の象徴として、「ラハブの祈りの結晶」として、「真っ赤な赤いひも」を掲げたのです。 絶望を切り拓くものは、神のもとから語られる言葉に耳を傾け、聞き留め、それに精一杯応えることによって、考えつきもしない「歴史や人生を一変させる希望」が授けられるのではないでしょうか。
[fblikesend]「主の家に帰る生涯」 詩篇23編1~6節
詩編150編の中でも、最も愛唱されてきた「賛歌、ダビデの詩」です。 幸いにも主なる神に出会うことのできた実体験を味わった人間の驚きと喜びの告白です。 人間として大きな失敗もし、悩みもがき波乱万丈のダビデの生涯の集約とも言える詩編23編です。 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」と言います。 羊飼い無くして生きていけない羊と同じように、一人では生きていくことのできない迷いやすい存在であることを歌います。 この詩を、牧歌的な穏やかさをもって、表面的に受け取ってはならないように思います。 ダビデの激しい格闘と葛藤のゆえに、心の叫びとして導き出された歌であるように感じるのです。 羊飼いとしての主なる神は、「青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。」と歌います。 神のもとから発せられる一つ一つのみ言葉によって、自ら得ることのできない「糧」を与えられる。 涸れた谷に鹿が水を求めるように渇いているわたしの魂の渇きを癒してくださる。 もはや飢えることも渇くこともなく、彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる。 み名のために正しい道に導き、魂を生き返らせてくださる。 羊飼いが失われた羊を連れ戻し、傷ついた羊を癒し、病める羊を力づけるように、主なる神が私たちを養い、憩わせる「恵みと慈しみの世界」がこの世に開かれていると言うのです。 主なる神を羊飼いとして、ご自身を一人では生きていくことのできない「一匹の羊」として、私たちと同じ人間の生涯を歩んでくださった主イエス。 父なる神のみ心を果たす私たち人間の「羊飼い」として、悪しき者、病める者、希望を失っている者たちを救うためにこの世に遣わされてきた主イエスのお姿を憶えます。 それは順風万端の時だけではない。 「死の陰の谷」、神のみ業が到底及ばないと思われるところにおいても、主なる神のもとから最も離れていると思わされるところにおいてでも、ダビデは「恐れない。 なぜなら、主なる神が共にいてくださるからだ」と言うのです。 養い、魂を生き返らせてくださると同時に、「わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。」と言います。 人となられたみ子イエスは、究極の敵である「死」を前にして、弟子たちを愛し抜かれて、最後の晩餐の「命のパンと新しい契約の杯」の食卓を整えられたのです。 ダビデはそれを、「わたしの頭に注がれる香油」、あなたが「溢れさせてくださるわたしの杯」と表現します。 新約聖書の時代を歩む私たちは、主イエスの十字架の贖いを通して、「あなたとわたし」というこの一対一の交わりの実体験、「かえがえのない交わり」が、全く無条件の恵みの世界があることを、私たちに告げ知らせるのです。 過去の私も、現在の私も、将来の私も、無条件にそのままの姿をもって赦され、招かれているのです。 それは、「わたし」そのものが無条件で根底から贖い取られているからです。 人間として歩んでくださって、父なる神によってよみがえらされた復活の主によって、父なる神の賜物である聖霊が注がれて、私たちのうちに宿るようになる。 私たち自身が「神の神殿」とならせていただくようになる。 この一対一の交わりが与える「聖霊」が繋ぎ合わされて、神の民が築き上げられる。 そこに神の業が起こされ、それぞれの違いを越えて、聖霊という一つのものに突き動かされて、それぞれにダビデのごとく「わたしの賛美」が起こされるのです。 私たちは整えられた食卓に招かれ、豊かな恵みと慈しみが与えられているのです。 「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」と言います。 私たちはこの恵みと慈しみに突き動かされていくのです。 私たちの生涯は、「主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまる。」までの途上の歩みを、恵みと慈しみに支えられて生かされているのです。 この「神の恵みと慈しみ」をしっかりと受け止めて参りたいものです。
[fblikesend]「今や芽生えている新しいこと」 イザヤ書43章16~25節
イザヤ書は、人間の織りなす謀り事は挫折する、その目的は所期のとおり実現することはない、空しく消えてなくなると言います。 イザヤは、「わたしは主を待ち望む。 主は御顔を隠しておられるが、なおわたしは、彼に望みをかける。」(8:17) なぜなら、「神が我らと共におられるのだから。」(8:10)と、インマヌエルの信仰を公に言い表したのです。 イザヤが主なる神に招かれ、彼に託されたみ言葉が何百年後に、人間としてすべてを背負ってくださったナザレ人イエスの心に刺さり、神の救いのみ業がその言葉とおりナザレ人イエスを通して果たされていったのです。 イザヤが伝えようとした神の救いのみ業は、自分たちの国、故郷が破壊され、遠く離れた異国の地バビロンに捕縛され、連れ去られ50年以上もの年月が過ぎていたイスラエルの民、過去を引きずって希望を失っていたイスラエルの民に向かって発せられたものです。 イザヤは「目があっても見えぬ民、耳があっても聞えぬ民」と呼びかけています。 何も分からない、見ようともしない、聞こうともしない人たちということです。 「あなたたちを贖う方、イスラエルの聖なる神、イスラエルの創造者、あなたたちの王」がこう言われると、神とイスラエルの民との関係を示してその呼びかけに目と耳を傾けるようにと促すのです。 そこでイザヤは、今まで栄華を極めたバビロニア帝国から、急激に勢力を増してきたペルシア帝国を用いて、イスラエルの民を捕囚の地バビロンから解放すると預言するのです。 「見よ、新しいことをわたしは行う。 今や、それは芽生えている。 あなたたちはそれを悟らないのか。」と迫ります。 嘆きをもって過去にしがみつくことを止め、今まさに起ころうとしている新しい業に、自らの目と耳を開き、今まで考えもしなかった、芽生えている新しいことを悟りなさい。 そのために、「荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。 それは、わたしの選んだ民に水を飲ませるため」だと言うのです。 その理由は、「あなたたちはわたしを知り、信じ、わたしこそ主であることを、わたしの前に神は造られず、わたしの後にも存在しないことを、わたしが主であることを、わたしのほかに救い主がないことを理解するであろう。」 そのために「あらかじめ告げ、そして救いを与え、ほかに神はいないことを知らせた。 あなたたちこそがわたしの証人である。 わたしが選んだ僕だ。」と言い、イスラエルの民が神ご自身について証言し、宣べ伝えることになると言われるのです。 今まで叱責され続けてきたイスラエルの民が、すべての民の前で、主なる神ご自身の証人となるように促されていることは本当に驚きです。 「わたしはこの民をわたしのために造った。 彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。」と、そのためにあなたがたはこの世に生を受けているのだと言われるのです。 そしてついに驚くべき主なる神の告白、「このわたしは、わたし自身のために あなたの背きの罪をぬぐい あなたの罪を思い出さないことにする。」と語られるのです。 イスラエルの民の悔い改めの有無に関係なく、主なる神は、「あなたがたを贖う方、イスラエルの創始者、あなたがたの王」として、この救いの業をご自身の一方的な恵みとして語るのです。 人間としてこの世に生を背負わされたナザレ人イエスは、神の呼びかけに応え、ご自身のこの世での使命をこのイザヤの預言からはっきりと確信されたのではないか。 主イエスが「誰が罪を犯したからでも、だれが悔い改めたからでもない。 神の業がこの人の上に現われるためである。」と言われたのは、このことではなかったかと思わされるのです。 悔い改めなければ救われないのではない。 神のご愛の一方的な恵みと祝福が私たちを悔い改めさせるのです。 神のご愛に愛されるほど、神の前に立たされ、自らの罪深さを知らされるのです。 この神の一方的な恵みと霊の賜物という祝福こそ新しい始まりです。
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